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吹上温泉の変遷(中)
《十勝岳爆発から飛沢自動車運行まで》

野尻 巳知雄 昭和十二年三月三十一日生(六十五歳)


      ※引用文を除き、文中人名敬称は一部省略しますのでご了承願います。

十勝岳大爆発

大正十五年五月二十四日、鳴動が続いていた十勝岳は正午過ぎに小爆発を起こし、午後四時十七分には大きな災害をもたらす大爆発を起こしました。この爆発により、積雪を溶かした泥流が発生して死者、行方不明者百四十四人を出す大災害となりました。
爆発当時吹上温泉の様子はどのようになっていたのか、当時の模様について「十勝岳災害志」は次のように記載しています。
「災害と同時に平山鉱業所元山事務所で辛うじて命を拾った三十数名の人々は、殆んど裸同然にて吾先にと吹上温泉に逃げて来た、更にここも危険といって連れて来た負傷者をそこに置き去りにして、何れかへ逃げ延びた。
飛沢辰己氏夫妻は、その不安の中にありながら甲斐甲斐しく負傷者に応急処置を施し、一方湯治客を安全地帯に避難させ、更に勇敢にも約一q先の事務所跡に行き、ぶきみな鳴動が続く中で人命救助、災害の状況調査を行なった。
また、辰己の義兄清治(当時四三歳)は災害のあった夜十時に消防組員六名とともに魔の十勝岳に登り、吹上温泉到着後は傷病者に応急処置を行い一睡もせずに、未明にすぐ元山事務所跡に死体の捜索、被害状況の調査を行い、更に急造担架により重傷者三人を運搬して午前十一時に下山し、傷病者の治療に献身した。」と当時の様子を伝えています。
その後、沈静の状態にあった十勝岳は突如として、同年九月八日再び噴火を始め、十日間にわたり数回の爆発を繰り返しました。
復興作業に励んでいた罹災地の住民は再度の爆発に動揺し、不安に脅かされました。多くの住民は不安を解消するために「十勝岳の観測を強化して異変の状況をいち早く知らせてほしい」と村役場に対し要望を出しました。
要望を受けた吉田村長は上川支庁と協議を重ね、その善後策として「吹上温泉を十勝岳の観測所として温泉と村役場間に専用の電話を架設し、温泉支配人の飛沢辰己氏に山態の観測を依頼して時々の変化を常に役場に通報させ、これを住民に周知することによって住民が安心して災害復興に従事する事ができるようにする」ことにしました。(架設電話工事は昭和二年五月二十四日に、工費六百十一円三十九銭を義捐金から支出して着工し、三十日に落成した)
駅逓の新設
当時の吹上温泉の利用は、夏山登山や冬のスキーはまだ一般に普及しておらず、登山やスキー客も北大の学生やごく一部の愛好者に限られていた事から、夏は七・八月の二ヶ月と、冬は湯治客などが利用する短い期間に限定され、経営は厳しい状況が続いていました。(北大山岳部が十勝岳登山を始めたのは大正九年春三月からで、主に冬山スキー及び冬山登山の技術訓練が目的であった。(北大五十年史より))
そんな折に十勝岳の大爆発が起きたこともあって、温泉を訪れる客はほとんど無くなり、利用客は一部の山岳研究者だけに限られて、一般客は絶無の状態となってきたため、温泉の経営は益々困難な状況になって来ました。
飛澤清治は長年の念願であった温泉施設をようやく手に入れ、ここを拠点に十勝岳の観光開発を進めようと考えていた広大な計画が水泡に帰するとの危機感から、何とか解決の道を探ろうと思案を練っていました。
一方、吉田村長は温泉経営の状況を聞き、このままでは村が依頼した火山の観測も中止せざるを得なくなることを憂慮し、上川支庁長に「同温泉での観測を継続するためには温泉経営の安定が必要であり、住民の生活を安心させるためにも、施設に対する財政援助をお願い致したい」と要望したところ、上川支庁長も上富良野の状況を理解し、温泉施設を官設駅逓所にするように道庁へ申請することになりました。
申請を受けた道庁もその必要性を認め、昭和三年六月二十四日付で吹上温泉を「硫黄山駅逓所」として新設することが決まりました。
駅逓所の建築費は二千八百九円で、他に馬匹三頭購入費四百五十円、手当金五十円(月十円で五か月分)合計三千三百九円の費用で、工期を一年として駅舎の建築が着工されました。
また、駅逓事務取扱人として飛沢辰己(当時三四歳)が任命され、月給十二円で八月一日から業務が開始されました。(「駅逓」とは、宿場から宿場へ荷物や郵便物を取り次ぐ場所で、官設と民営によるものがあった。)
この時期に、本来の駅逓の役割から考えて必要性の少ない十勝岳地区に官設の駅逓を設置したことは、吉田村長をはじめ、上川支庁、道庁などの関係機関が十勝岳爆発災害の復興をいかに重要視していたかを伺い知ることができます。
(「硫黄山駅逓」は昭和七年七月に「十勝岳駅逓」と改称され、同十六年十一月三十日まで続けられた)
駅舎の規模は今までの旅館施設に改良を加えたもので、客室は十畳四室、広間二十四畳一室、浴場までの廊下が新しく取り付けられるなどの改築がされ、吹上温泉旅館は収容人員も今までの二十人から大幅に増加して、百人の宿泊が出来るようになりました。
中茶屋の経営
平成十年に発刊された「女性史」の中で、工藤よしのさんは中茶屋について次のように述べています。
「昭和二年に三浦兼吉の後を受けて、飛沢清治氏に留守番に頼まれ、祖父の関口仁太が中茶屋に来た。中茶屋は上富良野市街から吹上温泉までの丁度中間に当たる。建物は二階建てで、玄関を入ると広い土間になっており、冬は大きな薪ストーブを炊いて一般客はその周りで休んだ。特別客は別の休憩室があり、お茶や湯たんぽの接待をした。夏は自転車で来て中茶屋から荷物を背負って歩いて登った。
電話はチリリン″と一つ鳴ると「役場」、二つ鳴ると「中茶屋」、三つ鳴ると「吹上温泉」と決めていた。祖父は豆腐を作り、吹上温泉に上げていた。
祖母は豆腐を背負い、山加の部落で売って歩いた。」(抜粋)
中茶屋が建てられた年代については資料が少なくよく解っておりませんが、大正六年に始めた硫黄採掘事業にあわせ、中川三郎と平山鉱業所が硫黄採掘運搬と温泉利用者の中継点として建設し、三浦兼吉が運営を行なっていたものと思われます。
清治は、駅逓の認可とともに十勝岳の観光開発に本格的に取り組む事になり、中茶屋の施設を買収して、温泉の中継点として活用を始めました。
しかし、運営を頼まれた工藤さん家族は、『最初主人が十五円、あとの家族が五円づつの合わせて月三十円の約束で働いていましたが、温泉の経営が苦しいこともあって、給金はほとんど受取る事はありませんでした』と話しています。
工藤家の主な収入源は、中茶屋で休憩する人の心づけや売店で売る駄菓子などの利益と、近くの畑で作った僅かばかりの野菜の収穫のみで、これでは生計も苦しく、豆腐を造って吹上温泉や近くの農家に売り歩いたり、もらい仕事などで生活を続けていたようです。
当時の様子を飛澤辰己の次女智子さんは『工藤さんの家族は中茶屋に来て収入も少なく、ずいぶん苦労をしたのではないでしょうか』と話しています。
清治の残した日記にも中茶屋についての記述がありますが、三月一日金曜日″「中茶屋一月売上三十六円、二月分二十二円一銭・一金三円三十九銭を味噌パン、及びオコシ代として中茶屋に送る」とあり、清治は中茶屋の経営も吹上温泉の一部として考えていたものの、温泉経営からは思うように収益が出なかったので、約束の給金も満足に支払えなかったものと思われます。
中茶屋の生活や様子について、工藤よしのさんは《女性史》の中でもそんな苦労にはほとんど触れておらず、ひたすらに飛澤家への感謝の念を書いていますが、これは工藤さん家族の優しい人柄と飛澤清治に対する敬慕の念がそうさせたものと思われます。
その後、中茶屋の運営は吹上温泉の経営が陶冶助さんになってからも続けられましたが、昭和十九年に吹上温泉の閉鎖と共に幕を閉じ、工藤さん一家も市街に下りて来ています。
自動車の運行と馬橇の運行
硫黄山駅逓の設置にともない旭川吹上線の道路が準地方費道に認定されました。
準地方道への昇格により、昭和二年から急ピッチに進められた吹上温泉までの道路工事は、同三年には自動車が通れるほどに改良され、その年の夏には赤間次男が夏季の期間限定で江幌完別〜吹上温泉間を、幌型の自家用車タイプの車を使って貸切運行を始めました。
吹上温泉までの道路に車が通れるようになったことは、温泉の経営者である飛沢辰己にとって長い間待ち焦がれていた願望であったようで、昭和三年十一月の新聞広告に「吹上温泉までの車の便あり」と早速宣伝を出しています。
しかし、道路は簡単な改良と砂利を敷いただけの速成道路のため、凍上や雨でぬかるみとなり運行を停止する事も多かったことから、昭和五年には囚人を入れて大幅な改良を行なっています。(清治も多額の私財を投じて道路に砂利を敷いたり、丸太を埋めて道路の改良と管理を行なっている)
道路の改良と共に吹上温泉の利用も少しづつ増えるようになり、昭和三年の暮には北大山岳部の登山練習が吹上温泉で実施する運びとなり、約百名の学生が参加して冬山登山の訓練が行なわれました。
冬の交通手段としては中茶屋まで馬橇を使い、そこからは元硫黄鉱石運搬索道の跡をスキーにシールを付けて歩いて登り温泉まで行きました。
北大山岳部の冬山登山訓練はその後も毎年続けて行われ、昭和十六年に「十勝岳駅逓廃止」により吹上温泉が一時休館するまで連続して十四回実施されています。
当時の馬橇でスキー客を吹上温泉まで運んだ経験を、六平健氏は「郷土をさぐる」第六号で詳しく書いておりますが、本格的に馬橇で客を運ぶようになったのは昭和三年の冬からで、佐藤芳太郎、佐々木源之助、六平健三などが携わっていました。
昭和五年四月に、世界的な名スキーヤーの「ハンネス・シュナイダー(オーストリヤのサンアントンスキー学校長)が十勝岳・三段山で滑り、雪質や景観を『東洋のサンモリッツ』と賞賛したことから全道にその名が知れわたり、北大の学生や登山家などのほか、一般の温泉利用客も多く訪れるようになってきました。
白銀荘・勝岳荘の建設
昭和七年三月に、北海道長官佐上信一が国立公園候補地の調査のため十勝岳を訪れ、シュナイダーが賞賛したすばらしい景観と、雪質に富んだ春山スキーを楽しまれました。
案内役をつとめた吉田貞次郎村長は、スキー客の宿泊施設としてヒュッテの建設を長官に要望したところ、佐上長官は快く引き受けられて、道費による『白銀荘』の建設が実現する事になりました。
さっそく建設に取り掛かったヒュッテは、建坪は二十六坪で建築費三千三百円(坪約百二十七円)をかけて翌昭和八年二月に完成しました。
落成式に出席した佐上長官は、新築された丸太小屋のヒュッテを「白銀荘」と命名されました。しかし「白銀荘」は、名士の迎賓館用として建設されたため建坪も小さく宿泊定員は僅か九名しか泊まれなかったので、スキーツアーなどの一般客の利用に使用することが出来ず、一般客用には別にヒュッテを建設しなければなりませんでした。
吉田村長は、少ない村の財源の中から費用を捻出して、翌九年一月に一般客用として新たに三十人収容の丸太小屋(六十四・五四坪)を建設し、白銀荘の姉妹ヒュッテとして名称を「勝岳荘」としました。
ヒュッテ「勝岳荘」の建設について
ヒュッテ勝岳荘の建設については、いろいろな資料を調べていく内に「道費で建設」と「村費で建設」との異なった説の資料が出てきました。
そのどちらが正しいか調べる為、建設当時役場に勤務していた加藤清氏、千葉誠氏(昭和八年から役場に勤務)長井禧武(よしたけ)氏(昭和十一年まで役場に勤務)に確認したところ、建設は道費ではなく村費によって建設されたものであり、道費による建設は間違いである事が判明しました。
しかし、勝岳荘の建築費を計算すると、単純に勝岳荘の面積に白銀荘の建設坪単価を掛けた場合、約八千二百円の建築費が必要となり、当時の行政資料(昭和九年村政要覧から抜粋・表)では、その他の臨時部の予算を見ても毎年同じような額であり、多額の費用の捻出をどのように行ったかについては疑問が残ります。いずれにしても、少ない村予算の中で観光のために多額の費用を支出したことは、驚きというべきでしょう。
歳出予算   単位:円
科目 昭和9年 昭和8年 昭和7年 昭和6年
役場費 一五、三二四 一四、九四〇 一四、七E一五 一六、二四五
土木費 四、四五○ 四、〇〇〇 二、五五八 四、四八五
教育費 三九、五五六 三五、〇九二 三六、六〇二 三八、四四二
衛生費 一、四七九 一、四〇〇 一、四〇〇 一、四四二
その他 一一、七九六 一、九〇九 一〇、四七三 九、三三六
臨時部 二三、七一五 二〇、〇五九 一五、〇四一 二六、七一五
九六、三二○ 八七、四〇〇 八〇、七九九 九六、六六五

昭和八年に雪の結晶で有名な中谷宇吉郎先生(昭和五年北大助教授、同七年教授)が、白銀荘を使って雪の観測を三年間続けられ、その研究による六角形の美しい雪の結晶は、「天からの手紙である」という言葉とともに、世界的にも有名になっています。
吹上温泉株式会社
昭和七年夏、大雪山国立公園として十勝岳も有力候補になり道路の整備、車の運行、ヒュッテの建設など、吹上温泉の環境が前途有望になって来たことから吹上温泉を株式会社にして発展させようとの機運が高まり、まちの有志で「吹上温泉株式会社」を設立することになりました。
株主は百人ほどで組織され、多く出資をしたのは飛沢清治、山本一郎、西谷元右エ門、吉田吉之輔、鹿間勘五郎、植木吉太郎(山部)で、役員には金子全一、高畠正男、吉田貞次郎が当たり社長に吉田貞次郎が選ばれております。(旧町史では十五万円を目標に株を募ったとあるが、当時、全農家の総収入が六十一万余円で、村の予算は九万七千円となっており、当時の十五万円は、現在の金額に当てはめると約三十億円に当たることから、募集金額は一万五千円の誤りと思われる)
ここで不思議に思うことは、飛沢清治は吹上温泉をなぜ株式会社にしたのか、また、会社組織にして何をしょうと考えていたかについては、その足跡や記録も無く全く解っていません。
当時の関係者でただ一人残っていた金子全一氏が生前に話していたことによると、「飛沢清治さんは、温泉道路開発と温泉経営に方々から相当の借財をしており、会社組織にして経営の建て直しを図ろうとしたのではないか」と話していました。
また、清治の次男尚武氏も生前語ったことによると、『父清治は薬代などの貸し付け帳も多かったが、借用書も多く柳行李にいっぱいに借用書が詰まっていた』と話していたことからも、温泉の経営は相当苦しかったのではないかと思われます。
いずれにしても今では当時を語る人もほとんどおらず、真相は不明のままになっています。
当時の様子について(酒井亀壽さんの証言)
吹上温泉の最盛期と思われる昭和十年頃の様子について、昭和十年から十二年秋まで吹上温泉で働いていた方で酒井(旧姓中野)亀壽さんがいますが、当時の様子や辰己さんのことについて、次のように話してくれました。
吹上温泉のこと
「私が温泉で働くようになったきっかけは、秋田で中野(酒井さんの実家)の家に奉公に来ていた男が、冬には吹上温泉に出稼ぎに行っていて夏に戻ったときに、辰己さんから『内地に戻ったら温泉で働く若い娘を探して来てくれ!』と頼まれたことにあります。
私の妹に『辰己さんの奥さん(キエ)は昔の女学校を出ており、娘さんに行儀見習や、裁縫を教えてくれるので、子守りかたがた従姉妹と二人で来てくれないか!』と話がありました。
辰己さんと家の母親が同級生だったこともあり、妹の嫁入り修行にという事で吹上温泉に働きに出ることになったものです。
そのうち妹も年頃になり、嫁に出さないとならない時期に来たのですが、内地に呼び戻すにしても『嫁に出すから……。』との理由だけでは今まで一生懸命世話をしてくれた恩もあり、簡単に呼び戻すことも出来ません。『それなら私が替わりに働いて、妹を連れて来る』といって吹上温泉に来ることになりました。
船や汽車を乗り継ぎ、上富良野に着いてから中茶屋まで馬橇で来ましたが「ここから歩く」と言われ、道も無い雪の上をどうやって歩くのか不安になりました。
中茶屋には工藤さんがおり、一服してから電話で『これから二人で登るから』と連絡してくれました。
それから冬道を四・五時聞かけて歩いたのですが、温泉に着いたときには暗くなっていました。
温泉に着くと、辰巳さんは秋田のことを色々話してくれました」
飛沢辰己さんの思い出
「辰己さんが小さい頃『私の生れた家の川渕に、大きな桃やスモモの木が三・四本あり、ガキ大将の辰巳さんは、こつそり川に入って桃やスモモを盗ったが、じい様に見つかり怒られてよく逃げて帰ったものだ!』と子どもの頃の話をしてくれました。
また、辰己さんは『学校を終わってから志願して兵隊になったが、下士官になった秋の演習で《自分の家の近くまで来たのでちょっと寄りたいが》と言っても上官から許されなかったので、自分の家にも寄れないような軍隊が嫌になって辞めてしまった。それで営林署に知った人が居ったので、その人の紹介で営林署に入った』と言っていました。
山で一年ほど妹と一緒に働いていましたが、秋田の兄から『妹を嫁に出すので帰してほしい』と手紙がきたので、辰己さんに見せてお願いしたところ、従姉妹も一緒に来ていたので、『従姉妹も一緒に帰さなきゃならんなー。』と言われ、妹達は一緒に帰してもらえることになりました」
自家発電は昭和十年から
「温泉に自家発電を入れたのは昭和十年で、その頃温泉は株式会社になっており、まちの有志の人達も出資していました。
使用人は常時三人位で、夏や冬の忙しい時期だけ近くの農家や市街から数人雇用していました。常時の使用人は調理人と釜炊き(料理に使うお湯を拂かす)の年寄り番頭さんで、あとは季節の手伝い人でした。
水は、浴場に行くとき渡る沢が真水だったので、使用人が三尺四方の大きさの天秤を使って運びました。冬は沢の水が涸れるので、白銀荘に通じる橋の下から湧き水を樽に入れ馬橇に積んで運びました。
調理場には大きな水桶があり、水桶が空になると調理人から「水無いぞー!」と声がかかり、使用人が運びに行きました。水汲みは年寄りでは無理なので、若い人が運びました。
一年のうちでお客さんが来る時期は決まっていて、真冬と正月と真夏の時期だけで、四月頃から六月まではお客がいないので、登山が始まる頃になってから近くの人に手伝いを頼みました。
従業員の家族や知人が山菜取りなどで来た時は、白銀荘のそばに小さな自炊の宿泊所があり、そこに泊まりました。
温泉までの道路は当時から車が通れるようになっており、管理も年に二・三回営林署で草刈をして整備してくれました。砂利敷きには使用人も手伝い、付近の砂利を使いました。
駅前に「飛沢自動車部」があったことは知りません。
昭和十二年九月に一緒に働いていた酒井ツルと結婚して、十日ほどで山を下りました」
と、当時の模様を詳しく話してくれました。
自動車の運行を始める
昭和八年に飛沢清治は江幌―吹上温泉間の自動車の権利を赤間次男から買取り、飛沢自動車部として営業を始めましたが、夏季の期間限定の上利用者も思うように増えず赤字が続いたため、昭和十年四月に大印自動車会社へ八千五百円で売却しております。
運転手には、本間・角屋・千葉という人を雇っていました。
(以下次号につづく)

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔