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里仁を開拓した古老の手記

故 荒 周四郎 明治三年九月二十六日生
昭和二十一年十月三日逝去(享年八十六歳)

はじめに(編集者)

明治から大正、昭和、そして平成へと時代は移り変り、開拓以来百年を越えると、さすがに開拓当時の歴史も薄れて行く。郷土を開拓された先人の多くは故人となり、当時の実情を後世に伝える人も年毎に其の数を減らしている。今のうちに何とかしなくてはと云いつつもなかなか思うように行かぬもの、古老の記録は資料収集の折に発見されたものである。
東北の農村に生れた筆者は、決して恵まれた生活環境にあったとは思われない。苦労に苦労を重ね、やがて三十七歳の時知人を頼り単身渡道する。里仁の地に妻子と共に入植したのが、明治四十一年である。人柄は温厚で、どちらかと云えば無口の方だが黙々とよく働いた人だったと云う。また、非常に面倒見の良い人で、身内ばかりでなく他人の事もよくお世話をし、後から入植した人の面倒もよく見たと云われている。
従って信望も厚く、何かにつけて責任ある立場に立たされ頼りにされる。併し生活は必ずしも楽ではなかったようで、村議会議員に立候補した時は奥さんが強く反対したとのこと。また、農業に注がれた情熱も強く自分だけでなく地域全体の向上を目指し、大正五年肥料購買組合、同六年亜麻耕作組合、同八年除虫菊栽培販売組合、同十年甜菜耕作改良組合、昭和三年ホップ耕作組合、等を組織して活躍された。一方、教育面では終戦近くまで長期に亘り学務委員として務められた。還暦を迎えての記録は、昭和初期の年代としては珍らしいことであり、一個人の人生記録ではあるが、これを後世に伝えんとの想いが筆者の中にあったのではないかと察せらる。
昭和三十一年十月八十七歳を以って没す。
生い立ち
本年を以て暦(干支)を一巡するに当り、自分の生立より現在に至る経歴の概略を記して見よう。本家の祖先は略す。
自分の出生地に就ての先祖は、宮城県遠田郡三高野村字上高野、岩渕家より曽祖父「周吉夫婦」は同村字同寺川戸二階汲屋敷に分家し、農業を経営、祖父の貞三郎が出生。同村字百塚、門脇良七の娘せつを娶り、長女さわが誕生(後年叔母のさわは同郡和田多沼村、山形仁右エ門と結婚した)、その以前、同村貝之堀、堀野新三郎の弟清四郎の長男権四郎を養嗣子として貰い、養育した。長ずるに及び、前記新三郎の娘せいを嫁に貰い、相続し家業に従事した。父権四郎は、明治維新の際、姓を荒、名を周乃Sと改称したと言う。自分は父二十七歳、母二十一歳の時、明治三年九月二十六日出生して周四郎と名づけらる。同七年、妹のはるが生れ。同九年、父財政の行詰りを生じ、親子四人が母の実家に借家住まいをして厄介をかけた。
同十年、元の土地や宅地を買い戻し、先祖伝来の土地に帰った。同十年、自分は八歳にして同村貝之堀寳徳寺石川和尚さんの塾に入り、初めて学問を学ぶこととなり、寺子屋式にて読書習字二科目の教授を受けた。同十一年、自分は沼邉村陽山寺に於いて学校制度の教育を受けた。
同十三年、次の妹たつきが生れた。同十三年、父は農業の傍わら副業に瓦製造業を営み。同十五年、三高野村と沼邉村が合併し、沼部村と称し戸長役場が設置され、同時に沼部公立小学校が村の中央の上高野に新築された。教育制度は婁々改革し、初めは下等八級、上等八級と定め、一年に二回本試験の上昇級した。其後、初等科高等科各四学級に編成された。自分は高等科を卒業し明治十八年助教を奉職。同二十年、家事の都合に依り職を辞した。その間、漢書を齋藤一徳先生、算術をその当時の學校長村岡恭一郎先生に学んだ。自分は家事上十八歳より家業に従事したが、此の年五月、不幸にも腸窒扶斯(ちょうちふす)病に罹り二ヶ月程医療を受け漸く九死に一生を得、全快したが母に感染し、母は自分の重病を長い間看護し身心は極度に疲労。そのために医薬の効なく、同年七月十四日、病み上りの自分と二人の妹を残し死亡した。父は家庭の都合上、志田郡三本木町、瀬戸大藏の娘りをを後妻に迎えた。我々三人は恰も実子の如く養育を受けた。同二十一年、我村を縦貫し鉄道が敷設され、南に小午田停車場が北に瀬峯停車場が設置され、交通運輸の便利至大であった。
明治二十二年、大貫村宇宿、高橋保治の娘よしと結婚、孜々として家業に励むと雖も、小作生活と云へ瓦製造も収支相償はず、一家糊口を凌ぐに足らざる状態であった。その後、母は三人の女子を生み長女はゑつき、次女はきく、三女はきのへといった。(長女ゑつきは、自分が布哇(はわい)より帰ると直に東京紡績会社に就職。三女きのへは後年、中坪村字上戸、赤坂亀に嫁した。)
自分には同二十七年長女まさの、同三十一年長男の猛が出生。「就々惟ふに人生五十功なきを恥じ」と言う諺もあるが、自分も既に年三十、何んの方針も立てず、平凡として居るべき時に非らざる事を痛感した。何を為すにも資金に悩むのみであった。
労働移民としてハワイヘ渡る
明治三十二年一月、偶然ハワイ国労働移民の募集を聞いた。地方よりも申込者があって、一番立は既に決定し、ここに於いて自分は奮然志を立て、十年計画を以て、二番立を広島移民会社に申込み、手続きをすまし、その他身体検査にも合格。一家談合の上三ヶ年の契約期間にて、一ヶ月の給料米貨十五ドル(日本金約三〇円)の定約にて、渡航費は右契約給料の内より毎月賦にて支払う事の定めで、横浜から出帆する米国船チャイナ丸に、同航者の三人が乗り込み、海上恙(つつが)なく十一昼夜でハワイ・オアフ島の検疫所(俗に千人小屋と云う)に上陸収容された。
消毒方法として、身体は毎日浴室で洗い、衣服所持品は蒸気にて消毒を施され。ここに一週間滞在、更に荷造りを為し、小さい汽船にてハワイ島ラッパホエホエ港に到着した。同港は桟橋等の設備もなく汽船は沖に碇泊した。それより艀(はしけ)に乗り移る、海上は波が荒く、容易に岸に着く事が出来なかった。艀人夫はハワイ人にて黒色大身、亜米利加(あめりか)の土人かと思われた。漸く岸に寄り付くと彼等は我々を手毯の様に艀より陸に投げ上げたのであった。
ハワイでの労働の日々
雇主側よりは契約移民受取のため数名が来て、番号を以て姓名に換え、自分は三千二百十五号(スリータンス、ツーハンドル、ヘフテン)と命名される。
一人々々検査の上我々十八名はハワイ島、ハマクア、クカイアウと言う、耕地に行く事となった。同耕地よりは商店員が出迎えに来て、荷物は全部馬車に積み、人間は徒歩で向かった。その時、生れて初めて異国の土を踏んだが、建築物・人々の風貌は勿論、気候風土草木鳥獣に至るまで、目に見るもの耳に聞くもの一つとして異ならざるものなく、時間は我地方より七時間程相違し、温度はその時華氏七〇度位であった。
耕地に着くと、そこはアメリカ人の経営に係る会社組織にて、甘蔗砂糖の製造所で、労働者は日本人、支那人、葡萄牙(ぽるとがる)人ハワイ人等四、五百人程、そのうち日本人は最も多数を占めていた。我々同航者は山口・広島・福島・宮城の四県人で、四回目の航海だと言った十八人の他、一条其の妻子四人、橋本其の妻子二人であった。以前にポルトガル人が住んでいた、アントンハウスと言う家屋で寝起きした。木造亜鉛葺の屋根・壁は板張りの二階建にて、一人当り四尺に六尺の寝台付であった。飲料水は床下にコンクリートで水溜めを造り、天水を屋根より注入して溜め置き、ポンプにて汲み揚げる装置であった。同行者の内、婦人二人は炊事役で一ヶ月八ドルの月給で、各々自炊の飯焚きを為した。第一番閉口したのは日常会話で、日本人同志の話も九州人と東北人では充分判らず、殊にハワイ語も英語も一向に知らないため、初めは通訳を以て会話した。監督はハワイ人で、毎朝六時に乗馬にて引卒にやってきて、姓名の番号を呼び、人調べをなし仕事場に行くのであった。仕事は甘蔗を栽培する荒山を開墾するもので、北海道の開墾と比較すると至って丁寧で、先ず木を切り倒し直に抜根し、五頭曳のプラオを以て起し、再墾地の様にし甘蔗苗を植付けるもので、不幸にも自分は伐木の際、左手を負傷し一ヶ月程病院で治療を受けた。その間監督の弁当持ちや労働者のため飲料水を給与していた。甘蔗は植付けてから十八ケ月日にして切り取り、二回目は新芽を成育せしめた。
事業は大規模にして製造場は大抵海岸に設置し、高台地は水を利用して流送し、水のない所は鉄索にて運搬し、その他馬車で運んだ。製造した砂糖は米本国及各国に機船にて積み出したと聞いた。同耕地は降雨多く弁当忘れても雨具は忘れるなと言う所であった。伐木の仕事は六ヶ月程働いた時、先に一番立の同村人笠松竜助氏、鳥山留五郎氏、渡辺久治氏、鈴木七郎氏、今川辰之助氏の五名が、同耕地内の或る移民住所に居る事を内地便にて聞き。早速、日曜日を機会とし面会のため、同行の友人小野寺捨治氏と共に訪問し、地獄で仏に会った気持で色々懇談し、再会を約して帰った。それから仕事が変わり、我同航者一隊は甘蔗の切り取り又は鉄索迄の運搬をやった。運搬は切り取った甘蔗を結束し、二人で棒を以て担ぐもので、此の仕事をハッパエコー(ハツパエコーはハワイ語なり)と言い、世界でも有名な酷烈なる仕事であった。食料は日本人は米食主義でハワイ米・日本米、味噌・醤油、罐詰・乾物等何も不自由がなかった。野菜は年中青物があり、牛肉は毎土曜日に雇主より労動者に売ってくれた。雪は高山に見えたが耕地には降らず、労働者は年中シャツにズボンで働いた。毎日曜は休業、三ヶ年間の契約期間は米国法律改正の結果、我々は十七ヶ月を以て解約され、束縛を解かれた。その後自由労働になったので、高給本位を考え、同村の知友久保繁治氏に照会し、通知を待っていたところ、都合良き返信なのでオアフ島、アイエア耕地に渡航した。ここにも同県人が多数いて矢張り甘蔗耕作に従事した。ここは、耕地は広大にして地勢平坦であった。労働者各国人二千人以上もいて、鉄道を敷設し運輸を至便にし、毎日の労働者を始め、肥料甘蔗一切気車にて運搬し、規模の大きい事は世間知らずの我々にとって驚きであった。
この島にホノルル府ホノルル港あり、アメリカ領以前はハワイ国王のいた土地だけあって、その当時、電車あり自動車あり自転車あり、市内の道路はコンクリートで、建築物は見上げる程高層なる西洋館ばかりで、港は如何なる大艦も桟橋に横付できるのであった。この島は年中降雨少なく、そのため甘蔗畑に潅漑溝を造り引水をなした。最も高い所に貯水池を設け、低地には掘抜井戸を数多く堀り、一定の個所に水を集めた。そこに蒸気ポンプを据付け年中貯水池に揚水する設備であった。自分は或る人の紹介で、同耕地内のワエマルと云う揚水ポンプ場に入った。火夫を勤め、後に注油夫を勤めた。ポンプの動力は十八馬力と三十五馬力の二台あり、アメリカ人の場長兼機関士とハワイ人の副機関士の二人「場長アメリカ人ジョン・オリオ、副ハワイ人ロエー」と我々日本人六人がいた。昼夜交替に十二時間宛働いた。そこに一年四ヶ月程居て、金も少々貯蓄出来る様になった。勿論内地には数度送金をなした。
明治三十五年ハワイより帰国
預金はホノルル府にある京浜銀行及日本正金銀行支店に預金した。時に内地の親元よりはそれ以前より帰国を促す書面が頻繁であった。折角十年計画を立てた希望の念を挫かれ、目的を中途にして帰国するの止むを得なかった。故に考えた一度帰国し両親や親戚に安心を与え、再渡航を為さんものと遺憾ながら明治三十五年秋、福島県人二名と共に旅装をなしアメリカ丸に乗り込みホノルル港を出帆した。
海上無事に以前の内地出発と同じく十一昼夜を経て横浜に着港した。東京に二泊して皇居を拝し、主なる所を見物し、上野駅出発小午田駅に下車、時に午後六時頃であった。直ちに人力車にて帰宅した。
その年は凶作のため農作物の収穫充分ならず、如何とも経営の途なく、再渡航の申込みをなしたがその時は諸般の規程が厳重になり、不幸にも自分は眼疾トラホームのため検査に失格、遂に申込金を無効にし取り止めた。然るにハワイに於いて凡て大規模な事業を見聞したので、内地の集約的なる農業は自然実行する意気がなかった。殊に田畑の小作にあり付く事が出来なかった。帰国と同時に両親や親戚特に債権者等は、金を海山儲けて来たものと思い、先づ借金の整理と一家の経営を任せるべく親族会が開かれた。その結果、素より相続の責任者であり、無財産は是非もなく、負債は大体に整理をなし、相続する事となった。自分の留守中、妻は二人の子供と両親や妹達「後妻の一番目の娘ゑつきは自分の帰宅するや直ぐ東京紡績会社に往った」との家庭を自分に成り変って男の仕事からあらゆる働きをなした事は感謝の念が多かった。翌三十六年、妹はるはルヅーと云う病気に罹り腰部八ケ所迄手術を施し、治療を加えたが医薬の功なく遂に死亡、葬儀を営んだ。
一七日を経ざるに又東京に居った妹ゑつきは、ペスト病にて死去し遺骨が到着した。遠方の親戚達がまだ帰らないうちに葬式を執行した。同三十七年、隣村大里村泉谷々地に移住開墾者募集あり、自分も久保源吾事務所に出向いて申込み、居小屋を建設し田畑二三町歩を開墾した。初年は多少収穫を見たが、同三十八年は水害で堤防が破壊したため、無収穫に終り、多大の損害を蒙り失望に帰した。家族の不幸に農業不結果のため、遂にハワイより約千金程持参の貯金も使い果たし、二進も三進も動きが取れなかった。その際、北海道先渡者の友人千葉胤意氏より北海道移住民手引草と言う小冊子を送られ、その内容を見ると移住民は旅費の割引及び移住後の待遇として、土地の貸付並に無償附与等の特典があるのを知り、俄然渡道の念起り、明治三十九年二月、北海道移住民の申込みをして許可を受けた。
明治三十九年北海道へ移住
差当り旅費の予算がなかったため糯米一俵買い、金五円也に売払いそれを北海道下りの旅費とした。
旧正月二十五日、然も五穀の神様「箟嶽観世音」の祭日を途し、単身二度目の十年計画を立て出発し、室蘭港に着いた。知友中澤新松氏、高橋熊治氏を訪問し、種々厄介に成った。両氏は内地にて経験ある醤油醸造場に於いて月給生活に余念なく、然も内地より以上安楽にその日を送っていて、自分はそこから旭川に居る松岡仁右エ門義兄方に行き仕事を求めて働くべく、先ずそこに草靴を解いた。その当時の旭川は各条通りも家屋はまばらで壁附の家も余り沢山無かった。先渡者長沼鉄平氏の世話に依り、六七名江丹別の角材山に登り、深雪の中馬橇の道造りをなし又は馬追いの炊事係を働き、四月末に下山して旭川鉄工場に定夫を志願し、指令の下る間、東旭川屯田兵地に行き水田の開墾に従事し、其の他田植等の出面取りをなした。その時出面賃は一日金五〇銭であった。それより旭川に引上げた。丁度、鉄工場定夫採用の指令があり、一日金四〇銭也の日給にて拝命した時思った。北海道に行けば土人アイヌを相手に一機千金の儲けをなし得るとの話を内地で聞いた夢が俄かに醒めた感じがした。土地の貸し下げを受け農業をやるのが目的であったから、土地貸付の願書を支庁に提出したが、農業を営むに就ては独身にては覚束なく、内地より妻と子まさの、やい子三人を呼び寄せた。先づ鉄工場で働いて居た明治四十年六月、土地貸付の指令が下がった。鉄工場の薄給ではいづれの時に開墾資金が出来るか、見当が付かなかったため、又考えた。かつて内地にて経験ある瓦製造の仕事に精一杯働き、より以上の収入を揚げんものと神居村台場ヶ原鈴木新三郎氏の経営に係る瓦、煉化石、土管等の製造場に入って働き、そこに一ヶ年妻と二人にて働いた。同四十一年、三女ゆきの出生した。明治四十一年祖父貞三郎死亡。
里仁に入殖
多少の資金を拵え、四月下旬、前記知友中澤新松氏に隣地二戸を買求めてもらい、同時に現住地に移住した。現地は密林とは言えぬが、大木が散生し笹は身長に達し如何にして畑地に開くかと一時は落膽した。先住者阿波団体長として岡久利吉氏外数名と荒木太次郎氏何れも近所に居た。先づ両氏に面会し開拓の方法を聴取した。人並の辛抱が出来ない事は非ずと決心し、逐次開墾に余念なく奮闘努力した。
資金の補充には瓦製造場に出稼ぎをなし、冬期は杣夫馬追等苦辛惨憺開墾に従事し、遂に規程通り開いた。
里仁地区と私
同四十三年、行政区第十七部初代の組長を勤めた。四女トミ子出生した明治四十四年二月、祖母せつ死亡。同四十四年、貸付地の附与を受けた。一戸分五町歩位で甘んじていられない、なんとかして中区画一つ即ち六戸分三十町歩位は所持したいものと誓って努力した。それより西九線北二百五番地を佐野周吉氏より買い求めこれも開墾して附与を受けた。同年、長女まさのを清次郎に嫁がせた。同年、豊里団体長守屋熊治氏外数名と発起者になり、現在校の前身第三教育所を部落民僅四十余戸を以て、校舎及教員住宅を新設寄附した。大正三年、岡久利吉氏より隣地五町歩を妻の名義にて買い求めた。五女チヨ子出生した。大正五年、自分は第十七部長及学務委員を奉職した。戸数の増加と共に生徒数も多くなり、教室の狭隘を感じたため部落協議の上、其筋の許可を得増築工事を起工、一切部落の寄附を以て落成、里仁尋常小学校と称せられ二学級を編制された。時恰も欧州の大戦争に遭遇し、我々農家は青豌豆を始め豆類澱粉は非常に暴騰し、景気は急激に向上して豆成金や澱粉成金が続出し、我々も亦聊その恩恵に浴した。大正六年、冬期間を利用し渡道十二年目を以て、内地に一時帰国し、両親を始め諸兄弟に面会し、又親戚を訪問した。それより神社・仏閣、塩釜神社、松島瑞巌寺、金華山、日光諸代に参詣し帰道した。それ以前、自分は内地の財産を妹きくに譲り、婿を貰い両親は妹きくの厄介になる様申送りしたため。両親はその積りで同村字大澤鈴木武榮の弟武道を貰い受け、よって自分は磁に安心をして永住の見込を立てた。
同年、猛の名義にて畑地七町歩を大島豊吉氏より買求め、内二反歩を寄附し部落協力を以て八幡神社を建立した。同年、内地栗原郡宮澤村字川熊佐々木良之助氏の義妹すみの入嫁す。
営農と議員活動
同七年、本村二級村村会議員の補欠選挙に当選した。同八年、澱粉製造の目的にて下村菊太郎氏より、清次郎と共同にて土地六戸分を買求めた。ところが澱粉の価格は急に下落したため澱粉製造を停止し、其内二戸分を遠藤巳之助氏に売り渡した。一時借入金は拓殖銀行に借り替えた。同年、村制改正し一級村に昇格したので村会議員の総選挙に当り候補に推薦せられ、投票の結果当選した。三ヶ年にして任期満了、その後常設委員に推された。大正九年、輸出農産物中の除虫菊栽培の宣伝があり、自分も試作的に三畝歩程を植付けた。それより段々増植し、最も多き時は三町歩余も栽培耕作した。平均に他作物より増収を見た。稍同時に甜菜耕作の奨励があり、督励委員を嘱託され、以来今日迄組合長と督励委員を勤めている。
重なる試練・火災と絲屋銀行
大正十三年八月二日、不幸にも一生涯忘れる事の出来ない火災に罹り、子々孫々に至る迄火防警戒として、記念すべき不祥事に遭遇し、牛馬二頭及び居家、厩舎、農具、家具等焼失し損害約数千円に達した。十数年間の労苦を灰燼に帰し、居るに家なく着るに衣服なく殆んど困惑した。組内並に部落の援助及び親戚知友の同情は実に言語に尽くせぬ程であった。是は永長に忘却の出来ない事である。不幸中の幸な事には暑期にて家族一同の着類も余り心配なく、居家は先年内地より渡道せし両親達家族のために建築した家に一時移伝し、農事に影響なく毫も落膽せず、家族は一層緊張し復興の外何物あるを知らず、一心不乱に努力した。火災で我牛馬二頭焼死が動機となり、西十線二〇九番地先に馬頭観世音を歓請する事となり敷地を寄附した。先づ旧住宅に納屋用として古家を買い求め建築した。
大正十三年九月、父死亡。
大正十五年、上富良野出張所絲屋銀行の破綻に付き是亦数百円の損害を蒙った。その損害の都度毎に緊張を加えた。再度の災厄にて中々復旧に困難した。当時居家の建築に予算なく、納屋用の建物を造作し、一時、間に合せ居家として移り住んだ。
地域の発展に貢献
昭和二年、再び学務委員に推された。同三年は普通選挙法に依り部落の強請のため、普選第一次の選挙に当選した。同時に学務委員を引続き勤めて居る。
昭和四年、継母りを死亡。
昭和五年、里仁尋常小学校改築に当り、建築委員として該工事に尽せし廉を以て、記念の銀杯を寄贈された。如上の状態にて成年後幾多の艱難辛苦の中に災厄と戦い、一日も枕を高くし神経を安楽にせし事がなかった。然し歳月は人を俟たず、本年を以て六十一歳を迎えたるも目的を十分に遂げ得なかった事は甚だ遺憾であるが、大体に於いて渡道当時の希望に達せし感なきにあらずと思い、自分も三十三才の時家事の全てを任された。よって、この期に於いて総決算の上家事を相続人に任せた。右の如き成績を見しは「以前よりは神仏の加護は勿論、一般皆様の御高援の賜と、内には妻の援助は與つて力あるもの又家族等の一致共働の力とに依る」ものと思い、常に感謝の念を持って居る。一に妻の援助は與って力あるものと家族等の一致共働の効しところとに依るものと思う。ハワイより帰宅負債整理の上、家計を引受けた。丁度猛も三十三才とは。相続人は一層奮発し祖先の業績を考慮し、必ず分限を慎み家業経営を研究し、益々産を収め永久に遺産を子々孫々に伝えん事を希望する次第である。
昭和六年春  六十二歳識ス

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔