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此日、余は(その二)
―遠藤藤吉小伝(藤吉の日記から)―

旭川市緑が丘五条一丁目 遠藤 博三(藤吉三男)
昭和二年一一月二八日生(七十四歳)


◎大正十三年(一九二四年)―藤吉二九歳―

上富良野市街大雄寺の建立の故か、年始めから寺の設計見積りの話が相次ぐ。中富良野真言寺・二十号数覚寺・十三号道隆寺からである。この中、実際に工事したのは北二十号の教覚寺である。工事請負は西谷さんで、藤吉は大工仕事の請負であったようである。
このように、事業の面はこの年も順調であった。

主なものを列挙すると、
・松下さんの住宅改修と倉庫新築
・東中土功組合の仕事    ・東中小学校の仕事
・二十号数覚寺の仕事    ・伊藤さんの仕事
と続いた。
渡道して七年目、この年は内憂外患の年であった。三月末から四月始めにかけて、ミセが七回旭川に行き来している。前年、憲一が二月と七月に発熱して山藤病院の治療を受けていることから、憲一の病気通院か或いはミセ自身の病気通院が考えられる。
大正九年三月九日に来道した『元井竹蔵』が事故をおこす。六月十五日の日記に「竹蔵、何れかに逃走した。不明。」と記されている。一ヵ月余り探し尋ね、藤吉が釧路に赴き山部の渡辺の処に連れ帰っている。独り身の北海道での労働、色々な背景を考えさせる事件である。また同じ頃、『元井マチ』の離婚騒動があり、その解決に心を痛めた。
同郷の人との結び付きは固く、渡道時、世話になった元井庭吉の入院、死亡(一月七日)に当たっては十日間に亙(わた)って世話を尽くしている。
こうした時、三女『美恵子』一月十三日に生まれている。
大正八年一月三日の日記に『此日午前中、研物をす』の記述がある。大工道具は大工職人の生命とも言われる。藤吉の新年の仕事始めが研物(とぎもの)ということは尤もなことと頷くとともに、藤吉の職人気質が窺える。
藤吉は大工道具を越後から取り寄せていたようで昭和二十年三月、東海震災復旧工事に大工挺身隊として参加したときに曲尺(かねじゃく)を紛失したが、帰宅後、越後に注文している。昭和二十年八月十四日の日記に『此日、与板中村さんより七月十二日の手紙が本日着す。曲尺送達の通知の手紙』と記されている。
小林周市が六月三十日に来道し藤吉の許で仕事を始める。
◎大正十四年(一九二五年)―藤吉三○歳―
前年から続いた十三号寺(道隆寺)の建立は、寺側との話し合い、業者間の話し合い、入札などと続いたが、結局まとまらなかったようである。
仕事は大小の違いはあったが安定して続いた。その中、主なものとして
・丸一高畠さんの仕事    ・末広六兵衛さんの仕事
・隔離病舎の仕事      ・末広治郎一さんの仕事
・後藤さんの仕事
などがある。この中、隔離病舎は西谷さんが請負い藤吉が大工仕事を下請けしたようである。
仕事の上で興味のある記述として、一月十二日の日記に『寺の話。設計料として一五〇円とし、二十円寄附するとす。』とある。事実、寺の入札の終わった後の二月五日に設計料百五十円を領収し、寺に二十円寄附している。寺の建築費がはっきりしないが、百五十円の設計料は高いのか安いのか。何れにしても設計料を取れるだけの設計をしたということは事実であろうし、その技倆の程が偲ばれる。
十一月十一日の日記に『金さん、朝、怪我して休む。二十円渡す』と記されている。職人が怪我したときの対応と思う。十一月十四日の日記に『金さん、内法取付す。一日四十銭とす』と記されているが一日の賃金が四十銭ということであろうか。職人の一日の賃金が一円にならなかった時代である。健康保険制度がなく医療費の高かったこの時期、医療費の支払いは大変な負担であった。
大正八年三月二十四日の日記に藤吉が感冒で山藤病院に十五日間入院したときに二十三円五十銭支払い、大正十年十一月九日に次女ヨシノが病気(死亡)をしたときに山藤病院に十円九十銭支払い、大正十二年一月二十四日に長男憲一が病気で六日間入院したときには十七円八十銭支払いをしている。
『二十円渡す』の二十円の中には賃金も含まれているようであるが職人の業務に当たっての負傷には、その程度に応じた金額を渡して対応していたようである。このような記述は、この日以外にも何度も見られる。
渡道して七年経ち、ミセが子供を連れて正月の八日に里帰り帰国した。帰宅したのは二月八日で一ヵ月の旅行であった。
十二月六日に次男『慎治』が生まれている。
◎大正十五年・昭和元年(一九二六年)―藤吉三一歳―
この年は大正最後の年である。十二月二十五日に大正天皇が崩御し年号は昭和となった。
またこの年は、上富良野に住む人にとって忘れることの出来ない出来事があった。五月二十四日の夕暮れ時の十勝岳の爆発とそれに伴う泥流の発生である。家族を避難させるとともに、藤吉達は自警団員として救護と捜索に出動している。藤吉はこの時の様子を日記に次のように記している。
五月二十四日 此日、午後五時半、硫黄山大爆発致し、三重団体全滅となり、死者百五十名位。一同、神社に避難し、午後十時頃、明憲寺に又も避難す。見る間に大洪水となる。
五月二十五日 此日、捜索に出ず。各地の応援ある。家内、志賀さんに避難す。
五月二十六日 此日、自警団に出ず。
五月二十七日 此日、自警団に出ず。
五月二十八日 此日、午前中、堀井の仕事す。雨のため午後休む。
六月  一日 此日、内地より小包来る。
六月  五日 此日、槙の山より見舞金戴く。
七月  六日 此日、十勝岳登山す。新井牧場を廻り帰る。一行八人。
災害の五日目から仕事を再開しているが、この様子から見て藤吉の周辺ではそれ程の被害は無かったということであろう。
内地からは見舞いの小包やお金が届けられている。
こうした中で、藤吉の事業は順調に進んでいった。災害復旧の工事には直接関わらなかったようであるが、前年から傾向を見せていた上富良野市街地での工事が増加して来た。特に、堀井さんの仕事と丸一さんの仕事にこの一年間の殆どを費やしているのが目立っている。そのほかの仕事として、後藤さん・田井さん・土井さん・東中郵便局の仕事などがある。
一月四日の日記に『丸一さんに一同手伝いに行く』とある。この年から昭和十三年まで、丸一商店(呉服店・雑貨店・金物店)の正月初売りの手伝いをしている。
生活の記録として、五月十一日の日記に『勝治、味噌煮す』という記述がある。この年以後、家で消費する一年分の味噌を自家で造っており、この味噌煮は昭和二十五年まで続いたようで、昭和二十五年五月四日の日記に『此日、味噌仕込みをす』と記されている。春の味噌造りと秋の漬物造りは遠藤家の生活暦であった。
◎昭和二年(一九二七年)―藤吉三二歳―
一月二十七日の日記に『請負業請ける』と記されている。土木建築請負業が認可されたということであろうか。その故か、『入札に行く』という日が九日ある。しかし、落札したという記述は見当たらない。
仕事の方は小口の仕事ではあるが続いた。
・橋に関連した仕事(一月・三月・十一月)
・水上さんの仕事      ・丸一雑化貝店の仕事
・寺の納骨堂の仕事     ・青年倶楽部の仕事
・土木事務所の仕事     ・山岸さんの仕事
・伊藤うどん屋の仕事    ・向山さんの仕事
・伊藤さん馬屋の仕事    ・坪川さんの仕事
・学校住宅の仕事
七月二十四日の日記に『無盡始まる』と記されているが、この無盡(むじん)に加入したのは大正十二年のようで、大正十二年十一月十二日の日記に『此日、無盡掛金す。花代五十銭、用紙代五銭引、割戻二円九十銭。杉野落札。』の記述がある。無盡ということを広辞林で引けば『金銭の融通を目的とする組合。一定数の人員で組合を作り、まず総資金額と各自の分担額を定め、一定の期日を定めて集まり、各自の分担額を出し合い、クジまたは入札の方法でその総金額を当クジ者または落札者に与える組織のもの』と説明されている。
この頃の無盡は、藤吉達庶民の加入者相互の金融上の扶助を目的とした貴重な集まりであったようで、参考ながら、昭和三年八月五日の日記に『無盡落札す』の記録があり、翌日、無盡金四五六円九五銭を領収している。この無盡は永く続き昭和三十三年四月十二日の日記に『此日、無盡に行く。割戻し五百円。』の記述があり三十五年間も続いたことになる。十二月三日に三男『博三』が生まれているが、何故か入籍届では十一月二十八日生として届けられている。推考すると、徴兵諸則の中に『毎年一月一日より十一月三十日迄に満二十才と為る者は其年の一月中に、十二月一日より同月三十一日迄に満二十才と為る翌年一月中に』戸主が市町村役場に届出なければならない旨が記されている。この辺の事情にその理由があるのかもしれない。
四月十四日の日記に『此日、渡辺より手紙来る。明日、手術するに付来てくれとある。』とあり、次の日の日記に『此日、旭川に行く。赤十字病院に行く。渡辺に会う。午後一時手術と聞く。午後一時手術を行う。正気に付病院に泊る。』の記述がある。弟弟子渡辺一雄さんが病気に当たり信頼する藤吉に立会いと付添を依頼したものと思う。
◎昭和三年(一九二八年)―藤吉三三歳―
前の年に入札のことに触れたが、この年五月十二日の日記に『東中小学校の入札ある。余に落札千六百三十円。配当金八十一円五十銭支払す。』と記されている。請負業者として独立して初めての落札ではないかと思う。記された文字から、誇らかな喜びに満ちた藤吉の顔が伺える。この時は、談合的なことは記されてないが、この前後、随所に談合的なことが記されている。落札に伴う配当五分とあり、八十一円五十銭支払っている。
この年の主な事業を順に挙げると
・役場の水路工事      ・垂水さんの仕事
・十人牧場の住宅工事    ・三野さんの仕事
・岩山さんの仕事      ・丸一雑貨店の仕事
・東中小学校の増築工事   ・土井さんの仕事
・東中吏員住宅工事     ・正瑞さんの仕事
と続き、公的な役場の工事が四件あるのが目に付く。
また、工事に当たって父惣次郎が内地から手助けに来ている。何時来道したのか不明だが十二月二十五日に帰国している。その際、三女『美恵子』を連れ帰り昭和十五年十二月まで手もとで育てている。
惣次郎・クニ夫婦が老後の生活の中で孫娘を必要としたのではないだろうか。惣次郎来道の理由に、孫一人を内地に連れ帰ることがあったのかもしれない。
父惣次郎が藤吉にあてた達筆な筆字の手紙が一通残されている。
『今回、弟子与一ノ渡道ニ付キマシテ、仕着セハ親方持チノ取リ極メデアリマスガ、シャツ一枚ト帽子ト襟巻ト小遣金五円ヲヤリマシタ。与一ガ着致シマシタラ治郎吉殿ノ方ヘ礼状一通御ツカワシ下サイ。道中、着テ行キマシタまんとハ厄介デモ小包ニテ御送リ下サイ。
次ニ、先方ヘ差出シタ証書ノ写シト先方デコチラヘ収メラレタ証書ヲ差上ゲマシタカラ御熟覧ノ上御保存ヲ願イマス。
持参致シマシタ与一ノ荷物ノ中ノ切麩ハ、幸平ガ御世話ニナッタト言フコトデ幸左エ門デ送ラレタノデアリマス。足袋三足ハ一足ハ姉サンヘ一足ハ惣吉君ヘ一足ハ周市君ノ処ヘ、周庵サンカラ送ラレタ物デアリマス。
先ハ御案内マデ。御一同、カラダヲ大事ニシテ勉強シテ下サイ。
昭和五年三月拾八日         惣次郎
藤吉 殿』
◎昭和四年(一九二九年)―藤吉三四歳―
この年三月二日の日記に『西中小学校、余は四千円として予算し過ぎ』の記述がある。結果的に山七伊藤さんが三千五百円で落札しているが、西谷さんや山七伊藤さんに互して、落札を得ようとする藤吉の執念が感じられる。
この年の事業は
・信岡さんの納屋仕事     ・中富良野隔罹病舎下請
・丸一呉服店の仕事      ・丸一雑貨店別荘の仕事
・丸一金物店の仕事      ・消防番屋の仕事
・三野さんの仕事       ・丸一呉服店古家の仕事
・合宿(どこの?)
の仕事などと続く。
この中、丸一さん関係の仕事の多さが目に付く。
仕事を進める上で職人達に切渡し請負制をとっていることがあり、七月十八日の日記に切渡し単価が示されており興味深い。単価が何かは分からない。
 元井 二二・五   小林二一・〇  高藤 一六・五  周市 一一・五
北海道に移住した藤吉の活躍を影で支え、最も信頼する片腕となったのは、弟惣吉であった。惣吉は明治四十一年一月二日生で兄藤吉より十三才年下の只一人の弟である。勤勉実直″という言葉のあてはまる人柄で、惣吉を知る上富良野の古老は「惣吉さんには世話になった。」と懐かしげに語ってくれた。
惣吉が兄藤吉の許に来たのは大正十一年三月十五日、渡道して四年を過ごした藤吉の強い奨めがあったものと思われる。それ以来、大正十一年から昭和十九年までの二十三年間のうち昭和七年(父惣次郎が死亡した年)を除いて二十二年間、兄藤吉の許で働いた。上富良野で迎えた元旦の朝は十二回に及ぶ。その外の年は春に来道し十二月の末に上岩井に帰っている。
藤吉の日記を見ると、藤吉は新規の仕事または特定の家の仕事を始めるに当たっては、必ず惣吉をその仕事始めに当てている。その仕上げもまた惣吉であった。仕事を大切にする藤吉がいかに弟惣吉を信頼していたかが窺える。
惣吉は昭和十年八月二十七日(戸籍届出日)西辰五郎長女『チユ』と結婚して上富良野村に居住し、長女『恵子』に恵まれている。
惣吾が仕事の関係で最後に来道したのは昭和二十六年九月上旬で、同年十二月十八日に帰国している。
惣吉が死亡したのは昭和六十三年三月二十二日であった。
九月二十一日に四女『常子』が生まれている。
◎昭和五年(一九三〇年)―藤吉三五歳―
富良野市山部町の曹光寺七十年記念誌『七十年の歩み』(九二年九月一日発刊)の中に曹光寺本堂の棟札の記録がある。記念に関する調査の折に棟札が見つかったもので、その中に『本堂設計遠藤藤吉』『請負人渡辺一雄』と記録されており、また、大工職の中に『小林周市』の名がある。
設計は渡辺一雄さんの依頼によるもののようで、三月八日の日記に『電話あり山部に行く。寺の話聞く。』、三月二十三日の日記に『寺の図面を始める。』、四月十六日の日記に『山部に図面を送る。』と記されている。
五月に入って、小林周市を伴って山部に出向き、実質的に棟梁の役割を果たしていたものと思われる。藤吉の山部滞在は八九日に及び、藤吉はこの年の大部分を曹光寺の建築に注いでいる。一緒に渡道した二人が一つの事業に力を合わせたことは意義深く感じられる。
この年の主な事業として次のことがある。
・西谷さんの仕事       ・水上さん(三共座)の仕事
・片山さんの仕事       ・里仁小学校の(出面)仕事
・高畠(薬店)さん借家の仕事 ・二十号教覚寺納骨堂の仕事
・山本木工場の仕事(焼失に伴う)
興味ある仕事として、十一月九日の日記に『惣吉、五十嵐さんに行く。スキー台造る。』と記されている。十一月二十二日の日記に『計四一台となる』十二月十三日の日記に『学校にスキー台送る』と記されていることから、学校に五十台ほどのスキーを納入したものと思われる。スキーなど未だ一般には普及されていない時代のことである。その意味で興味ある記述である。
上富良野町大雄寺で今も続く『太子講』は、この年の九月一日の日記にある『禅寺に聖徳太子の寄附の話す。』に始まったようである。
古来、職人(例えば大工)は地縁的な組または仲間を作り仕事を確保したり情報を交流し合っていたが、その寄り合いは仲間の取り決めを決定する総会であると同時に聖徳太子を祭る太子講の場でもあった。藤吉は大工であることから仲間に呼び掛けたものであろう。
寄付金三十五円六十銭を集め、その後太子堂を建て、毎年一月二十日と七月一日を例祭として聖徳太子の徳を讃えて来た。
弟子片野与一が三月二十日に来道する。
◎昭和六年(一九三一年)―藤吉三十六歳―
この年の主な仕事を列記すると
・河村さんの住宅仕事      ・佐々木さんの仕事
・丸一さんの住宅仕事      ・倶楽部の仕事
・中富太田さんの仕事      ・正瑞さんの仕事
・吹上温泉の仕事        ・丸山さんの仕事
・東中小学校の仕事       ・桜井さんの仕事
と続いた。この中、入札による工事はない。
二月二十八日の日記に『硫黄山の駅逓』ということばが出ているが、上富良野町史に『そこでこの温泉旅館を硫黄山駅逓として経営することになり、付属施設を官(道庁)で設け、旅館設備は改良を加え、昭和二年八月二日に開設した。駅逓取扱人は飛沢辰巳が命ぜられた。駅逓になった時、温泉の客室は十畳四室、娯楽室二十四畳室を増し、浴室に廊下がつけられ、吹上温泉の面目はこのときに実現した。』と記載されている。
このことから、藤吉が記した『温泉の仕事』ということは『硫黄山駅逓の仕事』と解して差し支えないものと思う。この頃、白金温泉は開発されておらず、十勝岳連峰の中で唯一の温泉地であり十勝岳登山と冬山スキーの基地であった吹上温泉の増築工事に関わったことは興味のあるところである。
六月三十日の日記に『井戸を掘る』と記されているが、水質の極めて悪い上富良野で良い水″は住民に共通する願いであった。井戸掘りはこうした流れの一つの動きであった。大正十三年六月十五日の日記に『井戸を直す』とあることから、井戸そのものは小さいながら以前からあったようである。記憶に残る井戸は深さ三メートル程で、風呂など生活用水として使う上では支障のない水が確保されていた。前に葬式用具について触れたが、十二月三日の日記に具体的な用品名が出ているので挙げてみる。
『此日、松原さんの葬式道具造る。棺 一、七本仏 一、塔婆 一、骨箱 一、位牌 二、蝋燭立 二、提灯 二』
このような葬式用具に関する記述が昭和二十年、二十四年にもある。
十月七日には四男『雅男』が生まれている。
年末になって父惣次郎病気の連絡があり、日記に記載されていないが内地に赴いたようである。
◎昭和七年(一九三二年)―藤吉三七歳―
遠藤藤吉にとってこの年は厄難の年であった。
年末に父の病気の報に接して帰国した藤吉は、一一月上旬まで父の看護と親戚近隣との付き合いに時間を過ごし、父の安泰を念じながら北海道に帰った。
そして一ヵ月半過ぎた三月十八日、『父危篤』に続いて『父死んだ』の電報を受け取った。長男としての藤吉は渡辺一雄と共に帰国し、父の葬儀万端を勤めている。藤吉は仏心厚く、出雲崎の教念寺(菩提寺・時宗)や藤沢の遊行寺に参り、父の供養の御経を上げてもらっている。
 父『惣次郎』
慶應三年六月十日    遠藤惣八・ミヨの長男として生まれる
明治九年八月九日    家督相続
明治二十七年九月十三日 河田六蔵六女タニと婚姻届出
昭和七年三月十八日   死亡享年満七十四歳
              戒名『蓮照院徳阿悟乗居士』
昭和七年三月二十八日  藤吉、家督相続
藤吉が帰宅したのは四月三日、この三ヵ月の間、父の病気、葬儀で北海道と内地(新潟県)を往復し、四十八日の日時を費やしている。
八月三日の日記に『ミセ急病に付帰る』と記されている。ミセは時たま病気に罹っているが、この時の病状は可なりの重体が六日間続いた。赤川さん、渡辺さん、子之八さんが泊まり込んでおり、内地に二回電報を打っている。
この年は、こうした二つの大きな厄難があった。
この年の工事は、次のように続いた。その主なものは、
・伊藤さんの仕事     ・藤井さんの仕事
・北村さんの仕事     ・中堀病院の仕事
・細木さんの仕事     ・銀行の仕事
・向山さんの仕事     ・伊藤さんの仕事
・丸一精米所の仕事    ・東中組合石蔵の仕事
・二十号寺の仕事     ・自家の物置小屋仕事
六月二十六日の日記に『渡辺熊雄来る。高山に坪三円八十銭にてやるに付、私に釘持ちにて四円にてと話ある。御断りをす。但し、私に五円くれるならと話す。』と記されている。坪五円ならやるが四円ではやらぬ″、このような厳しい表現の記述は藤吉の日記の全部を通してここだけである。大工の棟梁としての藤吉の面目と誇りの感じられる記述である。
◎昭和八年(一九三三年)―藤吉三八才―
この年の事業は順調に推移している。
・金子助役さん東中住宅仕事 ・若佐さんの仕事
・福屋さんの仕事      ・布施政次さんの仕事
・布施豊次郎さんの仕事   ・村上さんの仕事
・東中拝殿の仕事      ・島津農場倉庫の仕事
・ヒュッテの仕事      ・吹上温泉の仕事
八月二十三日に東中神社の拝殿を作っているが、これまでの寺の設計や工事などから考えて、宮大工的な技能の持ち主であったことが伺える。上富良野町史に『この拝殿は草分神社と共に町内の神社ではなかなか立派である。』と記されている。
一月二十八日の日記に『山より斎藤、高木、金沢さん来たる。小角三百円にて契約する。』と記されている。この頃から以降、立木の売買に関する記録が随所に出てくる。こうした中で、立木を転売したことについて二月十六日の日記に『………話の上、今回は許す事にし………』とある。厳しい姿勢を見せた記述である。
一月九日の日記に宅地の話が記され、二月三日にも宅地の事が出ている。何処の宅地か分からないが宅地を求める動きはあったようである。
一月二十日の日記に『先祖の年記、今年迄二百十四年、内室の方百九十九年。』と記されている。年記とあるのは年忌の間違いと思う。年忌と解し二百十四年前と考えればその年は千七百十九年。今(千九百九十五年)から数えれば二百七十六年前ということになる。江戸時代の亨保の頃、将軍吉宗の頃である。遠藤藤吉の家は約二百七十年程昔に遡ることが出来る古い系譜の残されている家といえる。
越後から渡道して来た同郷の仲間たちは、一定の時期が経ち生活環境も安定してきたときに結婚して北海道に定住する。藤吉は先に渡辺一雄、小林子之八の縁組をまとめているが、この年三月十七日小林周市、十月十一日に赤川太作の縁組をまとめ結婚させている。
六月十一日に四女『常子』が死亡している。三年八か月余の短い生涯であった。戒名『妙春童女』
弟子長谷川政信が四月未に来道する。
◎昭和九年(一九三四年)―藤吉三九才―
この年の主な事業をあげると次のようなことがある。
・ヒュッテの建設     ・丸山久作さん宅新築
・布施政次さん宅新築   ・鹿間商店の改造工事
・農産検査所建設     ・丸一雑貨店改造工事
・役場の書庫工事     ・河村さん(郵便局)の土台替
・上富良野神社鳥居建立  ・組合の仕事
この事業の進め方をみて、これまでと顕著に異なる感じのところがある。それは、三月二日の日記に
『村長さんに会う。変更して二千三百円にて請負いする事にす』
七月十九日の日記に
『役場に行く。二千百十五円にて請負する事にす』
と記されていることである。前者は農産物検査所で、後者は役場の工事(書庫増築)と思うが、個人の仕事は別として公的な事業についてこのような記述は始めてである。藤吉の事業実績が確実に高まったということの現れと思われる。
一月十三日の日記に『此日午前中、ヒュッテ切上げとす』と記載されている。かみふらの郷土をさぐる″第六号に、加藤 清氏がスキーの始まり″と題した一文を寄せられているが、その中で『昭和七年には北海道長官佐上信一閣下が来村、十勝岳に登り吉田村長の要請を受け道営のヒュッテが建設され、白銀荘と命名された。その後、村では勝岳荘と命名したヒュッテを建設、この姉妹ヒュッテは冬期間はスキー客のために、夏期間は登山者のため利用され、吹上温泉の名は更に有名になった。』と記されている。藤吉が建設したヒュッテは勝岳荘であったと思う。それは、まず村長をはじめ村の有力者からの依頼であったこと、そして十一月十日の日記の『………。午後、水盛す。三時に終わる。ヒュッテを見て午後四時に帰る。……。』見たヒュッテは白銀荘で、水盛をしたのは勝岳荘の建設のためと考えられる。
藤吉が建てた勝岳荘は昭和三十四年二月九日、宿泊者の失火で焼失した。
大工職人の数はこれまでになく多くなり、多い時は十一人という日が幾日も続いている。
藤吉は角力と芝居が好きだった。大正十年十月十五日の日記に『此日午後、角力見物に行く。夜、芝居見物す。』とあり、これ以後、角力、芝居見物の記述が何回となく出ている。藤吉は、後年度々東京に旅行しているが、その都度、大相撲や歌舞伎見物を楽しんでいる。
◎昭和十年(一九三五年)―藤吉四〇歳―
誠に情けなし″藤吉の痛切な思いが日記を通して伝わってくる。三男『雅男』が十二月八日に永眠した日の日記に残されていることばである。何が情けないのか、誰に情けないと言うのか、自分に鞭打つ藤吉の姿が浮かび上がってくる。
先に次女『ヨシノ』、四女『常子』を亡くした藤吉の辛い悲しい思いが痛い程わかる。このような痛切な悲しみの表現は全日記を通してここだけである。日記から悲しみの日々を列記する。
十二月 四日 此日、雅男を中堀さんへ連れて行く。午後、入院をす。脳膜炎となる。病院に泊る。赤川、周市来る。注射五本もす。
五日 此日、雅男、益々悪くなる。注射五本もす。午後八時、見込みなしとして連れて帰る。午後十二時、野村さんを頼む。注射をす。野村さんも見込みなしとす。東中小林、中富良野元井に電信を打つ。
六日 此日朝、野村さん来る。注射をす。容態、吐きは止まる。おも湯少しいく。午後、エンゲル注射をす。
七日 此日、容態益々悪く、松原さんの話にて東中倍本の川端さんを頼む。心霊法を施す。気分は宜しくなる。一同喜ぶ。
八日 此日、益々容態悪く、遂に午前十一時三分に死去す。誠に情なし。明日午後一時、葬式をする事にす。内地に電信打つ。
九日 此日、葬式をす。
十日 此日、骨上げをす。一同帰る。
十二日 此日、家内と惣吉、東中の寺に御参りに行く。
十四日 此日、十九号長尾さん来る。お経を上げる。(十七日)
二十一日 此日、二七日に付、お坊さん来る。四男雅男戒名『浄信童子』
この年も事業は順調であった。仕事は次から次へと続いた。
・土木事務所の橋の仕事   ・三野さんの仕事
・丸一精米所飯場の仕事   ・草分倶楽部の仕事
・登記所の仕事       ・若佐さんの仕事
・吉田村長宅新築の仕事   ・東中架橋の仕事
・菅原さんの仕事      ・役場の仕事
・組合(石油庫、精米場)の仕事
弟惣吉が西辰五郎・セキ長女『チユ』と昭和十年八月二十七日に結婚届出。
◎昭和十一年(一九三六年)―藤吉四一歳―
この年の主な事業は次の通りであった。
・丸一精米所住宅新築工事  ・高田寺の仕事
・当麻原田さんの仕事    ・鹿間呉服店の蔵の仕事
・高田多三郎さん宅     ・松岡さんの仕事
・丸竹伊藤さんの仕事    ・神社銅葺き屋根の仕事
当麻の仕事をするようになった経緯はわからない。ただ、事業が地域的に広がりを見るようになってきたということであろう。
この年、土地や立木の話が記載されている。二月二三・二六・二七日に土地の話が、四月八・十日に落葉松の話が記されており、現地を見たりしているが、まとまったという記述はない。
藤吉の子供達は年々成長していった。子供達の身の上にも色々な変化があった。
☆長女『トミ』 八月五日の日記に『富子、旭川角イ野崎さんに女中にやる。』の記述があり、トミを家事見習いに出している。野崎さんの奥様病気のため看護ということのようで、奥様が死去された翌年(十二年)三月に家に帰っている。
☆長男『憲一』 一月二九日に担任の関下先生が家に来て話合いが持たれている。憲一の進路についてのことと思う。二月十二日に憲一は旭川に行っているが、前日の記述から考えて、関下先生、級友の白髭君と共に旭川師範学校受験に向かったものと思われる。受験結果の記録は無いが、身体検査で不合格となったと語られている。
四月六日の日記に『憲一、丸一さんに初めて行く。』と記されている。三月に尋常高等小学校高等科を卒業した憲一は、暫くの間、藤吉のもとで作業現場で働いている。一二月二五日の日記に、一円九十銭のストックと二円五十銭のスキー金具を買った記録があるが、父の許で働きながらスキーを楽しむ長男『憲一』の姿が偲ばれる。
☆三女『美恵子』 五月二七日の日記に『内地より手紙来る。美恵子、骨膜炎との話聞く。』とあり、直に五十円送金している。美恵子は長岡市神谷病院に入院し、骨膜炎と診断され手術を受けた。藤吉は、直ちにミセに百円を持たせ内地に赴かせている。
◎昭和十二年(一九三七年)―藤吉四二歳―
この年は藤吉が渡道して十五年目に当たる。この年の藤吉の事業について言えば、質的にも量的にも最も充実した年と言える。この年の主な事業は次の通りである。
・松田さんの仕事      ・東中倶楽部の仕事
・丸山さんの仕事      ・助役さん宅の仕事
・魚菜市場の仕事      ・鹿間さんの仕事
・高畠さんの仕事      ・東中局石蔵の仕事
・学校の増築工事
この中、学校の工事は、これまでの藤吉の仕事の中で最も大きな工事と言える。学校は上富良野小学校と思う。工事の契約高は明記されてないが、役場から工事費として受領した金額は二万八百円となっており、工事に従事した人数を大工職に限って数えれば、延三百六十人となっている。
こうした事業の発展の時期に、長男『憲一』が大病を患った。その入院から退院を藤吉の動きを主にたどってみる。
二月 五日 憲一を旭川赤十字病院に入院させる。
十二日 藤吉は医師と面談する。帰りの車中で松葉酒の話を聞く。
十三日 松葉酒を分けて頂くため、惣吉を中富良野橋本さんにやる。
十四日 惣吉を栗山にやり観音様治癒祈願させる。十九日まで。
三月 十日 旭川赤十字病院を退院し、北大付属病院に転院させることにす。
十一日 日赤を退院し札幌に行くが受付時間に間に合わず旅館に泊まる。
十二日 北大付属病院皮膚泌尿科に入院させる。
十六日 この日夕方、明日、憲一が手術との連絡を受ける。
十七日 この日、藤吉、札幌に行く。憲一手術を受ける。(左腎臓摘出)午後四時に終わる。(藤吉はこの日から二十五日朝まで札幌に滞在し看病している。この間の日記の記載はないが、憲一の毎日午前五時、十一時、午後三時、九時の体温を日記に記録している。)
四月 十六日 この日、憲一は退院し帰宅する。
百日を超える闘病であった。退院の喜びを憲一は日記に次のように記している。
『午後九時十七分、上富良野に着し、多数の出迎え人と共に愉快に帰宅し、二ヶ月振りで午後十一時家の床に入る。本日は私が大手術をし、経過良好にて退院した歴史的記念日なり。』
◎昭和十三年(一九三八年)―藤吉四三歳―
この年の事業も充実したものであった。主な事業は次のとおりである。
・丸山さんの仕事      ・松田さんの仕事
・丸一山本さんの仕事    ・東中組合住宅の仕事
・射撃場の仕事       ・診療所の仕事
・東中石蔵の仕事      ・馬市場の仕事
・丸一山本倉庫の仕事    ・調整所の仕事
・役場住宅の仕事      ・阿部さんの仕事
・ホップ園の仕事
この年からホップ園の仕事をするようになり、これ以後暫く、藤吉とホップ園との関係が続いた。町史によれば、上富良野におけるホップの試作は大正十二年、日本麦酒株式会社上富良野作業所(乾燥場は市街、ホップ園は富原)の創立は大正十五年と記されている。
藤吉とホップ園との結びつきの、詳しいことはわからないが、時運のなせることではないかと思う。
かみふらの郷土をさぐる″第六号に、谷越時夫氏がホップの由来と栽培歴史″と題した一文を寄せられているが、その中で『この年の日支事変の勃発により外国からのホップの輸入が困難となったので、国産ホップの自給体制の確立が急がれ再び増反に踏み切った。』と書かれている。昭和十三年はホップの増産に向かった年で、そのことから施設設備の充実の一環として、作業施設とか職員住宅とかの整備が求められたものと考えられる。
昨年始まった日中戦争の影響が藤吉の周辺に漂ってきている。防空演習、応召軍人、村葬といったことばが日記の随所に見られるようになった。防空演習ということばは四回も出てきている。射撃場の工事もその一環かもしれない。
藤吉は二月八日から二十六日まで旅行している。
出発と帰着のみの記載で、何のために、何処に行ったか詳しいことは何もわからない。推察できることは父惣次郎の法要というにとである。父惣次郎の命日は三月十八日であるが、業務の都合などから日にちを早めて七回忌の法要を営んだものと思う。
昨年末、縁組みの整った長女『トミ』が一月二十五日『若佐司一』と結婚した。十一月十一日には『知』が生まれた。藤吉・ミセの初孫の誕生であった。
弟子小林進次が八月中頃来道する。
(次号に続く)

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔