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日本スキー界大発展の発祥地は十勝岳

長井 禧武 (明治三十七年七月十日生)(九十八歳)


はじめに

郷土をさぐる第十八号に、私の綴った大正十五年五月の「十勝岳爆発災害と復旧工事の思い出」の記事が掲載され、これを後世に伝える事が出来て大変嬉しく思っている。
更に今ひとつ、今では私より他に伝える人は現存していないと思われる大切なことを思い出した。それがこの表題に掲げた事柄である。

日本スキーの始まり
抑々(そもそも)、日本スキーの始まりは、明治四十四年、ノルウェーの軍人レルヒ少佐に因(よ)って、新潟県高田において伝えられたのが始まりである。
当時のスキー術と云うのは一本の長い竹の杖を両手に持ち、これを頼りに雪上を滑走し、また斜面を滑降したもので、回転の方法と云えば片膝を曲げ、大きく緩やかな円を描くように廻るテレマークと云われるものであった。
スキーの装着についても、その当時の金具はスキー用の特別の靴を必要とせず、大抵の靴は間に合った事を私も覚えている。
スキー技術の発達とスキー愛好者の激増
ノルウェーを中心にヨーロッパの雪国においては、冬季スポーツの主軸としてスキーが愛好され普及し、これに伴ってスキー技術の研究発達も著しく、遂に世界第一の名指導者ハンネス・シュナイダーの出現となったのである。
氏の編み出したスキーの新技術によって、世界のスキー界は長足の進歩を遂げ、大隆盛を見るに至った。
日本スキー界の隆盛発展の経緯
日本のスキーは、前述のレルヒ少佐に依り伝えられ、その後少佐の教えを基にして次第に普及されつつあったが、それでもまだまだ極一部の人達だけで、一般の普及は遅れていた。
然しヨーロッパでは、すでにスキーの普及は進みスキー技術の研究開発も盛んに行われ、前述した世界スキー界の偉人ハンネス・シュナイダー氏の出現となった。
氏の編み出したスキーの新技術の普及によって、ヨーロッパは素よりの事、世界中のスキー界の大発展を招来するに至ったのである。
日本のスキー界においても、未だ数少ない指導者達がこの事に深い関心を持ち、日本スキー界発展のためシュナイダー氏の招聘が画策され、幸いにも昭和五年春に実現の運びと成った。
その結果として、日本スキー界も今日の大隆盛を見るに至った事を忘れてはならない。
十勝岳とハンネス・シュナイダー氏
ハンネス・シュナイダー氏の招聘は決定したが、その指導を受けるスキー場については始めは信州菅平とされていたが、時期は既に春も過ぎようとする時で菅平では積雪が足りず、充分な指導が困難であったため、当時の時期でも未だ積雪充分な十勝岳が会場に選ばれ、シュナイダー氏を中心に、日本のスキー指導を志す人々が吹上温泉に集まり、此処を根城として数日間の指導を受けたのである。
指導は、初めの基本技術は噴火口を下った泥流跡で行い、この技術の応用による高所よりの滑降と森林地帯に入っての樹間を自由自在に滑降する事であった。
此処で技術の習得に励んだ日本スキー界の中心的指導者の人達によって、シュナイダー氏のスキー技術を伝える数々の指導書が出版され、また実地指導が行われた事から、一般スキーヤーの技術も広く格段の進歩を遂げ、更に技術の進歩発達の結果、今日の隆盛を見るに至ったのである。
これが、私が町に対して後世に残して頂きたいと念願する次第であると共に、表題を敢えてこのようにした所以でもある。
ハンネス・シュナイダー氏のスキー術とは
ハンネス・シュナイダー氏が編み出したスキーの新技術とは、ステムボーゲンと、これを基としたステムクリスチャニヤと云う二つの方法である。
この技術については、既に数々の指導書によって紹介されているし、また一般スキーヤーも熟知しているので私が今更記す事でもないが、一言で云って山岳スキー術とも称すべきものである。
現在はゲレンデスキーが盛んになり、スキー登山等は余り行う人は少ないと思うが、それはゲレンデでは大抵の所にリフトがあって、登る時間や労力が不要のため、スキーで登山の苦労をする人は少なくなった。
然し、一度山スキーの醍醐味を味わってみれば、その壮快さは必ずやその虜(とりこ)になるであろうと思う。
但しこの技術の熟達者である事が絶対に必要である。
一口で云えば、ステムボーゲンと云うのは、スキーの後端を逆X字型に開き、体重の移動によって回転する方法であり、ステムクリスチャニヤと云うのはスキーの片方だけを少し開き、素早く回転する方法である。
私は、シュナイダー氏來村の折は病後の静養中で、残念ながら十勝岳に同行出来なかったが、代わって役場より本間庄吉君が同行した。
同君の話によると、シュナイダー氏の勝れた技術と技倆には、只々驚嘆すべきもので、特に樹間を縫って自由自在に滑降するスピードとその名技には、参加の一同も感嘆の至りであった由である。
私は、氏の名技を直接拝見出来なかったが、氏が主演した「白銀の乱舞」と云う映画を見て、その素晴らしさに感嘆した。その映画の中でチビとノッポの二人が、勝れた技倆を駆使して道化じみた滑降の場面がある。この時のノッポの方の名前をチョット思い出せないけれど、その人が道庁の営林関係の人達数人に、ステムクリスチャニヤよりも一層進歩した技術で、スキーを揃えた侭(まま)で行う技術を伝授する為に來村し、十勝岳で指導を行った。
この時は、役場より接待を兼ねて私も同行し一緒に指導を受けたが、中々容易に出来なかった。今では、ゲレンデにおいて誰でもが楽々とやっている様だ。
ヒュッテ白銀荘の建設
十勝岳登山者は、夏冬を通じ吹上温泉が根城とされていたが、十勝岳の名声が上がるに連れて役所や名士の方々の登山が増加してきたので、上川営林署ではこれに対応するためヒュッテの建設を行う事になり、吹上温泉より泥流地帯に至る中間の森林の中にこれを建て(昭和八年二月)、白銀荘と名付けた。
それは建物の外壁は総て松の丸太を皮付きのまま半分に割って用いられ、竣工したその眺めは誠に美しく、誰しも一度は泊まって見たいと思う様な瀟洒(しょうしゃ)なものであった。
然し、平成十一年の秋に五十余年振りで見た白銀荘は、あの美しかった姿とは打って変わった誠にみすぼらしい哀れなもので、美しかった松の皮はすっかり無くなり、灰色の骸骨の様にも見えるその外壁、将に廃屋同然に見え甚だ淋しかった。つくづく年月の経過を思い知らされた。
吹上温泉についても、往年の建物は跡形も無く、只浴場だけが露天風呂として僅かに利用されているようであった。
これに引きかえ、今では翁温泉より吹上温泉、白銀荘、泥流地帯を横切って美瑛町白金温泉まで舗装された立派な自動車道路が通じていたのは驚きであった。
聞くところによると、上富良野の歴史的文化遺産とも云うべき白銀荘の建物が、近く解体されてしまうとの事であるが、十勝岳のシンボルとも云うべき貴重な建物なので、関係者で話し合って何とか保存できないものかと思うばかりである。
スキーによる冬山登山の楽しさ
十勝岳、否、他の高山でも冬山のスキー登山は楽しいものであるが、特に十勝岳は、シュナイダー氏もスイスのサンモリッツにも劣らないと絶賛した。
私も乏しい自分の知る限りでは日本一の所だと思う。
十勝岳は、夏は麓から松の自然林の間に熊笹(地元では根曲がり竹と言っている)が一面に密生し、これに小さな雑木も混じって道の無い所等は到底歩かれるものでない。
ところが雪に覆われた冬山では様子が全く違う。
スキーであれば雪のある所は何処でも行かれる。森林地帯から這松地帯は勿論、岩場でも可能だ。登りは後へのスリップを防ぐため、アザラシの皮をスキーの滑走面全体に紐で取り付けて登った。
また、夏山では絶対に見ることの出来ない変った角度からの展望も可能であり、白雪に覆われた景観の神秘的な美しさは、スキーヤーのみの知るところである。
冬山は、またその下りの滑降が一番の目的であり楽しみであるので、シュナイダー氏のスキー術はこれが目的であった。
私も充分その恩恵に浴した一人であり、思えば感激の至りであった。
さればと云ってスキー技術の未熟者には絶対に無理だ。登りはとに角下りに至っては極めて危険で、苦労だけでは済まない事になるかも知れないからだ。
然し、これは眺望の良い三段スロープと云われる所やその他の高所の事であって、未熟の人達でも近くの泥流地帯のスロープで練習する分には少しの危険も無く、結構冬山十勝岳の景観や雪質を楽しむ事が出来る。
私は役場に在職中、冬山十勝岳へスキー客誘致のため観光宣伝に乗り出し、この美しかった白銀荘の写真を表紙にした宣伝用パンフレットを作成し、観光事業の第一歩に努めたことがあった。
その時のパンフレットが、今でも役場に保存されていれば誠に嬉しく懐かしい限りであるが、果たしてどうか。
私は八十歳までスキーを楽しんでいました。昔は、日本のスキーは主として青ダモか、イタヤ材が用いられていたが、私のはアメリカ産ヒッコリ材で、当時はこれが最高品とされていて私の自慢でありました。
              「愛着のスキーもゴミに出す日かな」

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔