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上富良野の石取り場と石屋

鈴木 努 昭和九年十月九日生(六十七歳)


はじめに

私の母方の祖父母、佐藤儀助・なかよ一家は、大正四年頃、山加農場半鐘山の北側(現かみふらの牧場付近)に入地し、昭和十年頃に西口三太郎より同南側の土地を求め、畑作農家をしていた。
この祖父母の所へ母が度々働きに行っていたので、昭和二十年前後の小学生の私は、学校を終えるとよく街から歩いてそこへ遊びに行った。
近所には石取りに携わった人も住まいしていたので、畑に石の多いことや、石を切り出す話をよく聞かされていた。
また、町百年史編纂のとき二年ほど編集員をしていたため、産業・地域史執筆者(中館寛隆)のお供で数人の古老から山加の石取り場の話を聞いたが、百年史には紙面の関係で掲載されなかった事項も多かったので、それらに加え、文末の各氏の協力を得て、「かみふらの事始め」の一つとして記録する。
需要多かった上富良野石材
上富良野旭野山加から切り出された石材は、百四十万年も前の十勝岳噴火で発生した史上最大ともいわれる火砕流(十勝火砕流・十勝溶結凝灰岩)に起源があり、比較的に地表面にあることと、搬出条件が良かった事、他の石より硬質であった事から、需要が多かった。
開拓当時の建築基礎は現代のようなコンクリートではなく、石材を使用していたため、石材の出荷先としては当時目覚ましく発展していた小樽に向けられ、その多くは建築用材に使われた。
その他、旭川の第七師団建築工事や、急ピッチで進められていた道内各地の鉄道工事などに需要が多かった。
上富良野石材類産出額
明治三三年      九七一t(北海道鉄道部年報)
  四〇年  二二四、一〇〇斤   二、二四一円
  四四年   一四、〇〇〇ケ  一〇、四〇〇円
大正 二年   四〇、〇〇〇ケ  二〇、〇〇〇円
   三年   二〇、〇〇〇ケ  二〇、〇〇〇円
   四年   三〇、〇〇〇ケ  三〇、〇〇〇円
   五年   三〇、〇〇〇ケ  二〇、〇〇〇円
   六年   四〇、〇〇〇ケ  五〇、〇〇〇円
   七年   四〇、〇〇〇ケ  五〇、〇〇〇円
   八年   五〇、〇〇〇ケ  五〇、〇〇〇円
   九年   五〇、〇〇〇ケ  五〇、〇〇〇円
  十一年   二一、六四五才   六、四九四円
  十二年   二一、六四五才   六、四九四円
  十三年   二五、二〇〇才   七、五六〇円
  (別資料 十三年 七、二〇〇才 二、一六〇円)
  十四年   一〇、三五〇才   二、六五五円
  (十一・十二年が同数・同金額の理由は不明、十勝岳大爆発の後、
   昭和五年までの産出記録は無い。)
昭和 六年      一〇〇t     八〇〇円
   七年      四五五t  一四、五五〇円
   八年      三一三t   二、五〇〇円
   九年      五五〇t   三、九五〇円
   十年      六四七t   五、〇〇〇円
  十一年      五六八t   五、六八〇円
  十二年      四九〇t   四、九〇〇円
  (主に上富良野郵便局通信事務概要表より抜粋)
(注 一斤は〇・六s、一才は〇・三立方m、一ヶ重量は後述)
元旭野小学校の門柱二本、及び大正十五年八月一日建立の上富良野神社本殿寄りにある大鳥居と、参道中程の神社標柱も山加の石である。
この大鳥居は原石で二十五尺以上あったと推定され、上川管内一の大きさである。(郷土をさぐる誌第一号の、林 財二・佐藤 民よりの聞き取り記事より抜粋)
終戦前後の数年間は大掛かりな産出は無くなり、佐藤辰之助の石屋が注文のあった物を一人でぼつぼつ切り出す程度となり、石材出荷は終戦後まもなく昭和二十一年頃途絶えた。
旭野山加の石取り場
石取り場は、山加(現旭野三)の半鐘山より東南方に四キロメートルほど入った現自衛隊演習場で、一面の原野で所々に雑木があるくらいの地形の中にあった。
地表に頭を出している石をツルハシ・スコップで周りを掘り、石の目に沿って金矢を何箇所も打ち込んで割るが、巨大な石に取り掛かるとその一個の石の処理に数ヶ月掛かった。
佐藤儀助の土地もそこに二〇haあったが石取りには無償で取らせていた。
採石は三尺×一尺角位(百s位)と三尺×二尺×一尺角(二百s位)で建築用として重宝された。
聞知(けんち)石は尻つぼみ三角型をした石垣用採石のハネ石を削ったもので一個五十〜六十sあったが、金ハンマー一丁で割ったり削ったりできるので売り値も安くあまり儲けにならなかった。
付近の農家の副業として聞知石などのハネ石を更に石割ハンマーで細かく割り、割バラスにして、一合箱(六尺×三尺×一尺二寸)に積んで運び出し金にした。
とにかく山加一帯は石が多く畑のプラオ作業では胸を打つなど打撲などの事故が多かった。馬は石のある場所は良く覚えていた。
石取り場に携わった人々
総元締めは石屋の佐藤辰之助で、山加の原石埋蔵地帯の採掘権を所有していた。
石の荒取りは、現地に仮小屋が建てられていて、山加在住の海原正一、猪又広八、鶴岡多助(根掘り専門で地表に頭を出している石をツルハシ・スコップで回りを掘り下げ石全体を出す)が、僅かの耕作をしながら行っており、村上シズ夫婦など他所から出稼ぎにきた人夫も住み付いていた。
石取り場に行く途中(硫黄山道路から南に五〜六〇〇m)に掘立ての草葺きの野鍛冶小屋があり、独り者の吉野孫三郎(旭川)が寝泊りしていた。
村上シズ婆さん(主人に早く先立たれた)が仕切っていたが、吉野は鞴(ふいご)で粉炭をおこし、それぞれ自分の金鑿(のみ)、金楔(くさび)、金矢などの道具は毎日自分で焼入れし、筵(むしろ)で作った背負子(しょいこ)を担いで荒取り場に歩いて通っていた。
金鑿長さ一尺位、金楔は二寸位で、石に打ち込むときは、石の目を見て十五〜二十センチメートル間隔に穴を開け、濡らした藁を噛ませて順次にハンマーで打ち込んで行くと、物差しで測ったように真っ直に割れた。
石の運搬は、石取り場から硫黄山道路(現道道吹上上富良野線)まで約四キロメートルを中出しし、そこから駅までは一日一回、馬車の巾いっぱいの長さの石を横に五〜六本積んで運搬して、駅からは無蓋車に積込み発送した。
夏は金輪を嵌めた馬車、冬は馬橇を利用し、積込みは金挺子(かなてこ)一本で二本の角材の上を滑らせて積み上げた。馬橇は長瀬馬橇屋(大正十四年四月開業)で特別に作らせた。
運搬に携わった者として、十人牧場の佐藤卯之助(昭和二十年三月二十日没、享年六十歳、妻ハツ享年八九歳)は山形県酒田市の出身で、名寄から大正五〜六年頃山加に来て雑貨肥料などの店や、澱粉工場をやりながら石材運搬を手がけ、石屋の佐藤辰之助と取引していたが、当時の店の支払いはほとんどが秋暮れ払いだった。
他に佐藤 勇(西町、卯之助の長男、十六〜七歳の頃石材運搬を手伝っていて右手中指第一関節を潰して失った)、佐藤 栄(享年二二歳)、佐藤三郎(中町、電器商会、二冬だけやって入隊)、山加の西口三太郎(山加農場・農場主加藤岩吉の管理人、妻トワ)、西口幸作(三太郎の次男、妻トミが病弱となり畑作業を止めて、馬により石材運搬の中出しを主な仕事にした)、木村保寿、木村 保、木村正一、木村正七、木村友一(美馬牛)、鶴岡多助、村上某、久保田某、佐藤三之助などが山加に住まいして採石運搬を行い、中村某は市街から通ってやっていた。
昭和十六年頃になると石材の運搬は夏の間だけの仕事となり、冬は冬山造材で働くようになったが、西口幸作は昭和一九年まで一人でやっていた。
上富良野の石屋
上富良野での最初の石屋は、明治三十四年に現大町一丁目付近に石屋兼湯屋として安川某と松浦市兵衛が開業した記録があるが、詳細不明である。
現中町一丁目二番にあった、石屋の佐藤辰之助(高橋とも呼ばれていた。妻は民)は、山加の石材荒取り、運搬、上富良野駅土場集積の総元締めをしていた。
上富良野神社の石の大鳥居や大雄寺「新西国三十三所観世音菩薩」、海江田翁之碑、十勝岳爆発記念碑、東中神社「狛犬」など多くの石造物に石工としてその名がある。
尚、最盛期頃には専門の石工として旭川の伊沢覺太郎が働きに来ていたし、後述の嶺 八兵衛も五、六年雇用していた。
辰之助の長男の肇は石屋の家業は継がず絵描きになり、礼子(佐藤)、澄子(千葉)、幸子(二階堂)、修(現町役場課長)らの子等はそれぞれの道で独立した。
現錦町一丁目五番にあった石屋の嶺 八兵衛(八三郎、ハツの長男、明治二十七年三月一〇日生、昭和五〇年二月二七日没、享年八二歳)は、大正十四年に生地の仙台市八幡から単身渡道し、石屋の佐藤辰之助方で石工として働いていた。
翌大正十五年四月に妻ウメヨ(昭和三十八年十二月三日没享年六八歳)と子供三人(長女きみ・長男政寿・次男政治)を仙台市から呼び寄せ杉山婆さん(現錦町)の借家に落着いた。そして一ヶ月程で十勝岳の大爆発に見まわれた。
長女のきみ(加藤)は当時六才で小学校もろくに通わず一〇歳前後の数年間は佐藤石屋のコークスの鞴(ふいご)の火起こしを手伝わされた。
八兵衛は昭和五年頃独立し、泥流に流されずに残っていた、鹿の沢入口の佐川亀蔵所有の小屋(元、久保木為栄宅・災害後当麻に転出)で単身寝泊りして富良野川から石を運び、三年程作業をしていたが、その後は市街の落着き先で(現錦町二―五)開業した。
その後旭野山加でも仮小屋に泊まり込みで石を掘り出し、市街に運び墓石などに加工していた。
八兵衛は酒色好きで金取りは荒かったが家計は大変で、妻ウメヨはある年その後生まれた乳呑子達(三男誠・次女文子「正願地」・三女トミ)を残して仙台に帰った事もあった。
しかし仕事に関しては真面目で手抜きなど一切無く、基礎工事は特に念入りに施行し、後で苦情の来るような仕事はしなかった。
町郷土館の前に聳え立つ島津農場開放の碑「彰徳碑」(台座込み高さ七メートル)、十勝岳山頂の石碑「光顔巍々(こうげんぎぎ)」、江花「開拓碑」、日新鹿の沢「天照皇大神」などは彼の作である。
郷土をさぐる誌第七号に中村有秀が記した「石碑が語る……」に八兵衛の人柄が偲ばれる作業中の写真がある。
八兵衛没後は長男の政寿が家業を継いでいたが、体調を崩し昭和五十七年で廃業し、昭和五九年にラベンダーハイツに入所した。
佐川庄七が野菜畑にしていた処には、一五〇トンほどの巨石が流されてきており、現在もそのまま残っている。
余 談
旭野山加の石取り場近くに居た野鍛冶小屋の村上シズ夫妻の主人は、喘息持ちでよく丹前姿で囲炉裏端に座って咳をしており、シズがよく介抱していた。
その家は、入口を入ると左側が土間で色々な道具が置いてあって、鞴の火に当てて叩いたりしていて、壁には蓑や作業衣がぶら下がっていた。
右側が住まいでシズ夫婦の部屋は間仕切りがあり、奥の一間には捲り上げた布団が何組か有り、二〜三人の石取り労務者が寝泊りしていた。
日の出の現後藤純男美術館周辺も石の多い処で、山崎小一郎の畑は一坪から馬車で一台もの石を運び出して、やっと機械が入るような状態で、プラウの破損が激しかった。又他の地区では重粘土畑、石英粗面岩土壌、泥炭地など劣悪で多様な耕地が多く、その事によりスガノ農機の「白いプラウ」が、丈夫で耐久力があり、使いやすいものになったともいわれている。
昭和の始め頃は、小学校六年を終わると男は人夫として布団を持って出稼ぎ飯場暮らし、女は子守り奉公に行く者が多かった。
またその頃は、朝鮮の人が農家の納屋などに自炊の泊り込みで荒地起こしをしている者も多かったが、ときどき店屋(佐藤卯之助)で焼酎を飲んで喧嘩をする事もあった。
山加農場の管理人をしていた西口三太郎も酒好きで、部落の祭りには浪曲師を呼び部落民を集めて愉しませたし、あるとき佐藤の店屋にロスケ(ロシヤ人)が反物を背負って売りに来たのを、酒の勢いでまとめて買ったのを見たこともあった。
市街の佐藤石屋では、上富良野神社のお祭りには裏の小屋を解放して、山加の石材労務関係者、家族一同を泊まらせて酒やお菓子など振舞って喜ばれていた。
町内各地に愛馬供養のための馬頭観世音石碑が約二十六体あるが、山加半鐘山に三体合祀されたのは自衛隊演習場に買上げとなった後のことで、三体のうち右側のものは猪又の奥にあったもの、左側のものは西口の方から持ってきたもので、真中のは昭和十年十月十七日木村保寿、村上學藏、西口幸作の発起により建立したが、台座の「山加實行組合一同」と彫り込んだのは海原正一である。
終わりに
尚、終戦後の昭和二十六年前後には旭野山加の奥の国有林内(町水道水源地近く)で、縦梯子で昇り降りしカーバイトランプを点けながらマンガン採掘をしているし、同時期に現白銀荘付近では褐鉄鉱を露天採掘していた。
硫黄の採掘は明治三十八年から十勝岳大爆発まで操業した。
十勝岳噴火口付近はもとより、旭野山加のこの地帯は、石礫が多く寒冷で農作業経営には大変苦労が多いが、明治開拓以来鉱物資源の生産出荷に縁の深い場所なのである。
旭野地区の鉱業等の主な推移
明治三三年 上富良野の石材出荷始まる
北畠具視が旧噴火口で硫黄採掘始める
三七年 札幌の加藤岩吉が山加農場を開設二〇〜三〇戸
三八年 新噴火口で硫黄採掘始める
三九年 岩見沢の木田軍平はじめ十人が十人牧場として入植
四四年 第二安井牧場開設
大正  六年 不息特別教授所開校
七年 平山硫黄鉱業所事業に着手
十年 多田牧場、藤井農場開設
十五年 十勝岳大爆発にて硫黄鉱業所全滅し事業中止する
昭和  五年 一〇四戸六五九名(当時第九区)
十二年 八八戸(銃後後援会寄附者のみ)
十八年 八五戸(軍用飛行機献納者のみ)
二一年 石材の出荷は終戦になってから途絶えた。
二六年 この頃褐鉄鉱・マンガンを採掘する
二九年 一部が自衛隊演習場に買上げとなる
《取材に協力頂いた方》五十音順・敬称略

岩田 賀平(緑町) 上坂 義雄(東中) 小野寺敏昭(南町)
加藤 きみ(静修) 加藤  清(宮町) 工藤 弘志(栄町)
倉本 千代(大町) 故佐川亀蔵(日新) 佐藤  修(中町)
佐藤  勇(西町) 故佐藤時雄(光町) 故佐藤三郎(中町)
豊沢  正(旭野) 永盛 俊行(富良野高校)

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔