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松下由太郎作文集「晩秋色彩」より

四方 忠男 (明治15年6月17日生)
中富良野町本町南一丁目

はじめに……(編集者より)

『晩秋色彩』とは

『晩秋色彩』は上富良野町錦町二丁目一番十六号にあった「松下茶舗」の松下ようさんの兄、松下由太郎氏が、北海道旭川商業学校(現在の道立旭川商業高等学校)に入学した大正十四年四月から書かれた作文集であります。
松下由太郎氏は上富良野尋常小学校―旭川商業学校―群馬県桐生工業高校(現在の群馬大学工学部)―京都大学理化学研究所(喜多研究室)に進み、「石炭から繊維をつくる」としてナイロン、ビニロンの研究に没頭され、若き研究者として将来が嘱望されていました。
しかし、昭和十三年に体調不良で静養しましたが、昭和十三年七月十八日に心臓発作により二十五歳の若さで生涯を閉じられました。

(故)松下由太郎
  大正二年一月四日生
  昭和十三年七月十八日逝去
        (享年二十五歳)

この松下由太郎氏の作文集は、妹の「よう」さんの長男、松下 力氏(上富良野町役場勤務)が母の逝去後に発見、作文集の題に「晩秋」の文中に「晩秋色彩の濃い秋の……」を引用し、松下由太郎氏の甥子である松下 力氏が、祖父母、父母、伯父、伯母の思いを込めて「晩秋色彩」として小冊の作文集を妻友子さんと共に原稿整理・旧漢字を生かすために印刷原稿づくり、印刷製本と全べて手づくりで上梓されたのです。

―同級生四方忠男氏が語る 松下君―

私は大正十四年四月に旭川商業学校に入学し、中富良野から旭川まで二時間半を要した汽車通学でした。(編集者注―四方忠男氏は現在中富良野町長の四方昌夫氏の厳父)
上富良野からは、同級生に松下由太郎君、吉田啓君(編集者注―○三吉田商店吉田吉之輔の長男で、当時の吉田貞次郎村長の甥子)がいました。
松下君・吉田君とは大正十四年四月から昭和五年三月までの五年間机を並べ、勉学に学校教練、スポーツに青春を燃やしました。
私は四年生まで中富良野から通学し、五年生の最終学年のみ下宿しましたが、松下君・吉田君は五年間を三条一丁目周辺で下宿していたと記憶しています。
作文集に『一年一組一番』と記してありますが、旭川商業学校は学業成績順に出席簿番号が決まる事になっており、松下君は一年生から五年生までの五年間を一番の首席で通した秀才でありました。
学校の授業では、ノートは一切とらず先生の話しを黙って聞いていた姿を思い出されます。それでいながら、抜群の成績なので同級生は当然ながら学校内の注目を受けていました。
松下君は秀才肌にありがちな『おごり』や『冷たさ』は全然なく、同級生と親しく付き合い可愛がられていました。
作文の中に大正十五年五月二十四日の『十勝岳爆発』について書いてありますが、それは私達の二年生の時でした。
松下君・吉田君は下宿でしたが、私は汽車通学なので美瑛駅で汽車が止まり、中富良野や家の事が心配で美瑛駅から中富良野まで一心に歩いて帰りました。家に着いたら、父親にこんな大変な時になぜ帰って来たと、ひどく怒られた思い出があります。
松下君は多くの作文を書き残されているのに驚きましたが、学校では学芸部と弁論部の中心になって活躍し、また私達旭川商業学校第四期卒業生のアルバム委員となって最後まで同級生のために世話をしてくれました。
昭和五年三月の卒業から、早くも七十二年の歳月が過ぎ私も九十歳を迎えました。同級生の大半は既に他界されていますが、松下君が京都大学を出られこれからという時の二十五歳の若さで逝去された事を誠に残念であります。
この度の『晩秋色彩』を読み、七十数年前を思い出し、また松下君の妹のトクさん、ようさんの手記から兄妹の心情が痛いほど伝わって来ました。
松下由太郎君安らかに 合掌

冬の旭川

一年一組一番 松下 由太郎
旭川は大陸性氣候を帯びてゐる。それだから夏は暑く、そして冬は寒気がきびしい。
寒暖計が零下二十何度とさがるのは珍しくない。
學校へ行くにも、手袋をあたゝめて行かなければ、途中でかぢけてしまふ。
二重にも三重にも首巻きして、それでも息をする毎に鼻が冷気を覚える位だ。
それに旭川は霧がよくかゝる、夕方すこし変だなと思って、夜用事に出やうものなら、鼻をつままれても、までも行かないがとにかく目の前には物をみとめられない。
人力車の提燈も、家々の外燈も皆ぼんやりと光ってゐる。
からんてろん、しゆつしゅつ、きいっきいっ、と下駄や靴の音にひょっと頭を上げれば人影がつと横を通りすぎて行く。
ふりかえって見ればもう見えない。
顔をうずめるやうにして首巻を巻きしめる。
まつげには細かい氷の粒のやうなものがついて、ぢっと見つめてゐると、先に球のついた、たいこの棒のやうな、アレイ棒のやうなものがあらはれて、それがまばたきする毎にまぶたにふれてひやっと感ずる。
すこし明るい所へ行くと稍人影もはっきりとしてきて覆面の怪人とでもいひたいやうな服装をして、いずれもかめのやうに首をすぼめ、はあはあと白い息をはいて、黙々として寒さうに歩いてゐる。
こんな時は圓太郎君は運轉停止となる。
自轉車なども餘計通らない。
こういふ寒さの中に育った旭川の子供は元気がいゝ。
屋根からおろし積んである雪に、更に邊の雪を橇や、スコップで運んで、大きいのになると高サ二間長さ十間もあるやうな坂をつくって、五、六才から八、九才位までの子供があつまって、寒い風がきりきりと身をさす中でものともせずにスキーや橇で仲良く滑ってゐる。
スケートをはいた子供も集まって来る。
最もこたつに入って、おばあさんや猫を相手にして暮らしてゐる子もいるが、一般に元気がいゝ。
すこし暖かい日になって屋根の雪がとけ出して、だいぶ下までずって来たのが、其の夜の寒さに半分のめり出したまゝしばれ、それから大きな剣のやうな氷柱が数十本奇景をなして垂れてゐる。
そしてそれらの氷柱が太く、長くなればなる程、冬の旭川は更に冬の旭川らしくなって行くのである。
十五・二・八

十勝岳爆發

二年一組一番 松下 由太郎
「ミナブ ジ アンシンセヨ」。
十勝岳爆發の報に接して、少なからず心を痛めてゐた、二十五日の夜、こういふ電報を受け取ったものゝ、気に掛ゝるので、帰らうと思ったが、生憎試験である。こういふ時には全く試験といふものが憾めしい。
しかし、試験だけは済まさうと、決心した。
不安と失敗との中にも、試験は済んだので、二十八日(金曜日)の午後零時四十分の汽車に乗らうと、何も持たずに駆けつけた。改札口で聞けば、汽車はこの列車から開通すると言ふ。何だか気持が悪いやうに思ったが切符を買った。開通したならば、途中歩行の必要はないが、脱線しては、とおじけがついた。その中に時間が来た。
汽車はまもなく動き出した。新聞で見れば、爆發のおそれは最早ないとあるが、僕が一番心配したのは雨であった。
増水してはと思ったから、試験中でも雨が一番おそろしかった。けれどもたいした増水もなかったので幾分安心であった。
美瑛を過ぎる頃雨は幸にして晴れた。美瑛では、神社の辺がぬらぬらしてゐる事と、美瑛川がずっと濁っていること、とが僕の頭に残ってゐる。
乗客には、旭川から乗った二、三の商人風の人と、美瑛で乗った救助隊の人々であった。
救助隊の人々は、皆、腕に白布を巻いて、鳶のやうなものを持ってゐた。
あと三哩といふ頃になると、木陰をもれる水面の光が見えたが、そこらは変化ある様に思はれなかった。
しかしやがて木はなくなり、辺を眺め得る様になった時から、恐しい光景は展開された。
汽車は脱線の憂ひがあるから、じーつじーつと不気味な音をたてながら徐々に進む。おかげで四辺の光景もゆっくり見られた。
僕の目にうつった光景は、一面の泥田と、その中に浮いてゐる無数の流木と、點々として流れ残ってゐるいくらかの家と、その中に一本、二本と残ってゐる木、のみであった。
汽車の音に不安気な顔を出してゐる人々も、此の光景を見た時、一様に目を見張った。
「ヒャー」「ヒドイナァ」「アラマア」「ウァツ」の語は、この光景を見て最初に出した人々の語だ。短かい中にもありさまの如何にひどいかを表はしてゐると思った。
僕は客の少ない車中で、一緒に乗りあはした三年の渡口君と、両側の光景をかはるがはる見た。
先日来た時見た田と、いやいや昨年の秋、黄金の波をうたせてゐた時の田と、比較して、餘りにその変化の多いことを見た時、僕はがっかりした。
たゞ惨害を聞いて、始めて見に来た人の目にも、随分恐しくみえたであらう。しかし永い聞こゝを往来し、又一日を愉快に遊んだことなどのある僕にとっては、悠然としてさりげなく聳えてゐる十勝岳を望んだ時、実に腹立たしかった。そして平和だった村に、こうした悲しい災害を与えた天に對して憾めしかった。
如何にしてかくなる悪戯をしたのだらう。八百町歩の田畑を侵し、百五十名の生靈を奪ひ、二百余万円の被害を蒙らすとは。
大志を抱いて仲良く學の庭に遊んだ子等も、あけくれ鍬にいそしんだ平和な心の持主も、恐しい自然の暴虐には敵しなかった。
この残忍なる自然の暴虐に對する我等の復讐はただ「復興」あるのみと思ふ。しかしいまの状態にて個人の手にてそれを為すには、到底望まれないだらう。
汽車はただ不気味な音をたてながら種々の考を持つ幾多の人々を乗せながら、悪臭の中を徐々に進んで行く。

奮えよ人々、愛する我が村をより善く復興せしむる為に。

田舎の店先

二年一組一番 松下 由太郎
薄暗い店だ。片隅の方には二、三の人が樽に腰かけて火を囲みながら酒を呑んでゐる。
レッテルの色のあせた、サイダーやビールの類がならべられてある正面の古ぼけた棚より右寄りの所に、駄菓子の箱が四ツ五ツ。いづれもアメ玉、ネヂリ棒の類が少しづゝ入ってゐる。
店の前には鶏が「ココココ」といひながら餌をついばんでゐる。
草鞋が三、四足ぶらりぶらりと風にゆれてる。他の物は求めなくても、この草鞋は必要と見えて、先程からもう、四.五足賣れた。小さな女の子が赤だらを三銭、しつかり握りながら飴玉を買ひにやって来た。そしていくらかの飴玉を求めると、小さなかん袋に入れてもらって、田圃の畦道をうれしさうに走って行く。
通りがゝりの行商人がつと店に入ってから十分近くたつ、やがて真赤な顔をしながら草鞋を一足求めて出て来た。
傍の櫻の菓が大きくゆれて、賣残りの草鞋がぶらぶらと風にゆれた。
鶏が「ココココ」と鳴きながら裏のとやの方へと走ってゐった。
静かな田舎の、淋しさうな店先である。

冬季休暇日誌

二年一組 松下由太郎
二学期の努力を表す学期試験も、無事に済んだ二十日の終業式に、約十五分程前、生憎バックで手を痛めてしまった。苦痛を堪えて大掃除を済まし、急いで関口整骨院へ行って見て戴いたが、学校に居る頃、既に、すっかり手首の所が固くなってゐた。靭帯を痛めたのださうだ。なにしろ所が悪い。手である。
而も右手。歸省の矢先この様なことをして、父母に心配を掛けなければならない。
やうやう買物も済まし、荷物も出して汽車の人となった。
二十一日〜二十四日。唯、ストーブの圍りで、本を讀んだり、繃帯をかえたり、単調な其日其日を過した。
二十五日。土。晴。朝、待ちに待ちたる通信箋来る。その中に妹達も通信箋を貰って来た。皆、それぞれ好い成績に喜び合ふ。號外によって陛下の崩御遊ばされしを知る。
恐懼に堪えず、急いで國旗を掲揚し、哀悼の意を表した。
黒布静かに垂れて哀しうの気が漲る。
二十六日。日。晴。各新聞紙、筆を揃えて大行天皇の御聖徳の數々をしるし、御幼時よりの御寫眞など掲げ奉る。大正が昭和に、十五年が元年に変りたるを思ひて感慨深し。
諒闇第一日は静かに暮れて行く。
二十七日〜二十九日。やうやうペンを持てる様になった。
三十日。木。晴。母と共に歳暮の買物の為、旭川に行く。
歳暮とはいへ、諒闇中の旭川は実にさびしい。唯公設市場等は、割合賑やかで、下駄の音や、果物屋、魚屋の人を呼ぶ声が入交って幾分歳末気分を味はせた。
三十一日。金。夕方になりて風。此を食べて年を取ると云ふ、年越ソバを食べて、十一時頃、蒲團に入った。夜の更けるに従って風は烈しくなっていった。
一月一日。土。吹雪。昭和二年の夜は明け一体に、元旦はあまり天気がよくないやうである。新聞の初刷を一通り讀んで、あとは蜜柑を食べたり、新聞、本を謹んだりした。
二日。日。曇。朝方少し吹いたが、朝食後は静かになった。
流石初賣、橇も大分出たが、例年よりはずっと少ない。
三日。月。晴。皆でお正月三ヶ日の遊びじまいをした。
四日〜七日。
八日。土。雨後雪。寒といふのになんと云ふ暖かさだらふ。そして、雨が降るなんて近年来珍らしいことである。
九日〜十日。宿題を整理し、行李をまとめたり、種々の買い物など済まして、十日午後二時の列車で再び旭川へと戻った。
休暇中こんな平凡に暮したのは始めてである。外へ出て山へ行った、友達の所へ遊びにいった、家の手傳をした、などと云ふことはまあ殆んどなかった。
旭川へ来たのも、関口整骨院へ寄らんが為であった。此の日記を認めた日も、未だ癒せず、書き終って後軽き痛を覺えます。

我が學校

三年一組 松下 由太郎
昨年の秋、神居古澤の歸りであった。近文もすぎて稍暫時。曙町の家、立木など、二つ三つ窓外に走らした自分の眼に、二階建のペンキ塗の建物が、ぱっと入った。家に隠されて、再び現はれ時、前に居たH君が云った。
「随分映るなあ。」そして、自分もさう思ったのである。
校舎は新しい。ペンキ塗の木造であるが、随分立派に見える。数え年の四つである。
歴史は浅い。後数日すれば、第五回の開校記念日が来る。自分が、卒業も間近にせまって高等科へ行かうか、中等學校に入らうか、と思った時、自分の擧げた學校名に、「旭商」の二字は、入らなかった。知らなかったのである。
中學は先ずおいて、近い所に商業が、と人に尋ねて、旭川にも商業がたちましたぞ、と聞かされたのである。
校則を送ってもらったら、相當に内容がととのってゐたので受けた。入ってみると、創立日尚浅しではあったが、よい學校だな、と思った。生徒は六百足らずで、先生は一五人位、四年が最上級であった。
「開校當時は中央學校の一隅を借り、先生も纔かに四、五人であったが、昨秋、人員増加と共に狭隘を感じる様になったので、現在の校舎をたてたのである。」等の事を聞いて「随分発展が早かったな」と感じた。
北海道の中部をやくし、附近農村の中心をなして、益々進展の位置にある旭川市の商業を、盛ならしめ、未来のビジネスマンたる我等小國民に、洗練された、新鮮な商業道徳を授け、あはせて商業必須科目を教ふるを目的としてたてられた北部唯一の我校は、年と共に伸び来つたのである。
而して現在は、生徒数八百余名、先生は、校長を除いて二十九人、嘱託教師、書記、小使い等加ふれば、実に四十に餘る大多数である。學級も十九。他に比して見劣りしない。此の間纔かに五年である。
而して、本年は七十餘名の第一回卒業生を出し、且廰立に移管され、本校歴史の頁に深い印を刻んだのである。尚昨年よりは、上級生徒の実習と、一般生徒の便宜を計る爲、購買部を校内に設け、毎年秋期に至れば、珠算競技会を開催し、夏期休暇を應用して、上級生の実習をなし、卒業後の実際知識の涵養に勉めてゐる。
又、校友の体育養成、精神の鍛錬を本とし、校内志気の旺盛、校名の発揚を産物とする各種競技部は、年一年充溢して、昨年の札幌開催の全道中等學校競技大会の成績を得るに至ったのである。
總てに発展して来た旭商よ、しかし君にはまだまだ伸びる力がある。
内に、外に、補足すべき點、攝取すべき點は多々ある筈である。直接に、我々としては、廣い運動場と、よく遊べる設備がほしい。
しりぞいて、級友諸君達よ。我々は今、此の榮ある旭商の三年として、校の中堅をなしてゐるのである。身体の中心をなす心臓は、常に孜々として怠らない。心臓の中止は、即ち其の人の死となるからである。
「紊乱せる學生の風紀よ。」我等は世人のかくした辞に、當然奮起せねばならぬ。我等は先輩の残した、赫やかしい遺風と云ふものをもたぬ。……歴史の浅いが故に……。
故に、我々は、作らねばならぬ。もたぬものは、もつ様に心掛けねばならぬ。
諸君よ。二百の北國健兒よ。自重あれ、而して大いに向上しやう。

晩 秋

三年一組一番 松下 由太郎
小春日和は晩秋情緒の一面をよく表してゐる。
麗らかな十月十一日の陽を浴びて、黄金に熟れた蜜柑をつむ女の歌う歌が、遥かに遠い頃ほいの出来事であったにも拘らず、私の心のどこか奥の方に秘んでゐて、秋が来る度に、殊に十月末などの稀に見る好天気《所謂小春日和》の時には、紫の靄に包まれたおぼろな夢の様に、併し又どことなく力強く、私の心に甦って来るのである。
春の風の様な暖さ柔かさがあるのではないが、永い間、蒸す様な、苦しい、ほんとうに人いきれの様な夏の風日に飽きてゐた人々には、どんなに秋の風は樂しい事だらう。而し此の風に、一日一日と冷気の加ってゆくことは仕方がない。そして人々は、やがて秋風が木枯に変るであらうことを思ひ出すが故に餘計に秋風を慕ひ、目の前に、すぐ目の前に枯しの風が押寄せつゝあるが故に尚一層晩秋の風に別れを惜しむのである。
久方振りで、背に當る月に微かなぬくもりを覺ゆ様な時、ギーギーと、秋晴の空に響き渡る薪切りの音を聞けば、秋も終りに近づける事をしみじみと思ふのである。
木々の葉は殆ど皆《纔かの常盤木を除く外は》紅葉した。紅葉した木の葉は実に美しい。「霜葉紅於二月花」と杜樊川の稱えた如く、特に楓には、他のいかなる花にも見出すことの出来ぬ眞紅があり、梅より逸るとも劣らぬ様な奥幽しさと、櫻の花にも比すべき崇高とがある。
春の花には、「花より團子」と花見に浮れる人があるが、秋の紅葉には、瓢を腰にし杖を止めて飽かずに眺める人がある。前は俗人であり、後者を風流人と云ふ。微かな落葉を踏んで詩を口づさむ風流公子は踵を移す。而も、楓林を奥えと進む程、葉は陰影が濃くなり、落葉は増して来る。
やがて、足に踏みしだく落葉の、梢の葉よりも数多くなれば、梢の紅葉は最早勢と色とを失って、淋しく夕空に震ふ。なんと云ふ変った姿だらう。
そしてなんと哀れな姿だらう。厚いこんもりとした肉を被ってゐた梢は、皮肉を削がれた骨の如く、而も小骨を一本一本表はして、晩れゆく秋の風に身をさらし、灰色の黄昏の幕に鋭く突きさゝつてゐる。
畫間丈纔かに、おだやかな光を投げてゐた太陽は、静かに西の山に沈んでゆく。眞赤に色彩れた西の空。雲。しかし、美しくとも其れは決して華やかな気は起させない。
寂しく、總てのものを感傷的に最後の光で染めやうとしてゐる。併し、其れも瞬時である。日の光りは見る見る弱くなってゆく。
邊りが皆夕闇に閉される。
而も、夏にも春にも又冬にも到底見る事の出来ぬ夕闇である。筆にも絵にも表はすことの出来るとも覺えない夕闇である。
強ひて言えば、沈んだ、色は薄いが感じの濃い暗い色をムラなく塗ってバックとし、それに陰の非常に夛い暗い明るさのこもった色で寫生して、やうやく秋らしい、秋の暮らしい感じが出るかも知れぬ。
しかし、人の腕が頭の中の考を忠実にカンバスの上に表はし、絵具が自然と其の儘の色を出す迄は、この考は望まれないことだらう。
しかし又、若しこんな繪が出来たにしろ、其の絵の気分と自分の心とをぴったり合はせることの出来る人が何人あらうか。
……瞑想は、野中の一本道の如く何處迄も續く……落葉の道を静かに歩みながら、晩秋の黄昏の瞬時に接した時、人の心には、眞の自然の寂しさ……寂しさ其れ自身が自然であるかも知れないが……の裳の端に接した様な気がするであらう。そして私達は永遠に此の心を失はずにゆき度いものである。
『此の道やゆく人なしに秋の暮』これは芭蕉の詠った句である。ゆく人なしに秋の暮。
今、自分は其の道を歩んでゐる。
人に踏まれた跡もない落葉の上を、何の目的をも定めず、気の向く儘に歩んでゐる。秋と云ふものを背負って、追想にふけりながら。
秋は寂しいが、決して人の心に悲観的な考は起させない。
もっと自然を究めて、もっと自己を知って、もっと人らしく強く生きやうと、人の心に奮發心を起させ、人の心に冷静な研究心と反省とを湧出させるのが、秋の使命であり、自然の命令であるに違ひない。
疲れ切った柿右ェ門の眼を射た夕日に映る熟柿の色は、研究と、制作とに狂った彼の心の求める、唯一の寶石であり慰安であった。
又其れは、自然が秋と云ふものによって、不断の努力者たる彼に与えた、立派な贈品であった。
而し誘惑と云ふものに弱い人は、ともすれば秋に誘惑されやうとしてゐる。殊に晩秋に於て一層強く其れを見出すことが出来る。しかし其れは、自然を眞に究めた人の所爲ではなく、共の影を眺めて、眞理を逆にとった人のなすべきことではなからうか。
自然は決して人をおろそかにはしない。されば人も又自然の反逆兒であってはならぬ。
地は今、晩秋である。すべては沈黙の冬に急いでゐる。木々の葉の落ちるのは、又来ん春の若芽若葉を出す用意である。
灰色の空は一日一日と低くなってゆく。
朝、蒲團の中で身震ひすることさえ度々ある。霜におごれる菊花は晩秋の唯一の花である。
しかし、主の心儘しにより霜除けをされた菊さえ、今はだんだんと勢を失ってゆく。朝學校に行く途中、水に薄氷の張ってゐるのを見て、私はびっくりした。手の冷たいのも忘れ、橋一ぱいの霜にも構はず、ぽんと一突ついて見た。
氷は容易く碎けたが、私の心は異常に興奮してゐた。
家々に立つ煙突の數が増え、立つ煙の濃く夛くなればなる程晩秋は益々更けてゆくのだ。そして其の頃はもうすでに冬である。
『こがらしの吹きやるうしろ姿かな』今其の時が近づいて来た。
吹く晩秋の風は、すでに冷気を帯びて、降る雨は今雪に変らうとしてゐる。
晩秋益々晩れて、地は今、白銀の巷と変らうとしてゐる。
晩秋なる題の下に、心の向く儘感想を述べて見た。文中、秋なる數夛の語は、晩秋色彩の濃い秋の積りでおります。(十一・六)

元 日

一月一日。初夢は元日のものであるのが眞実ださうだ。それが、除夜は色々の関係で遅寝をするので、二日に伸ばしたと云ふことである。
あながち遅寝をしたわけでもないが、疲れと満腹所謂そば腹とで、ぐつすり寢むった。相変らず一番最後《と云っても七時前》である。
此の調子だと、今年はゆっくり寢られて嬉しいが日に三文づつ約一千文余りも損をしなければならない。つまらないな、と思ったが、もう遲かった。
昭和三年一月元旦明けましてお目出たう。とは思ったが、何処も昨日と変りはないらしい。
でも、雑煮はやっばりうまかった。そして桑花の、「君が代の大口あいて雑煮かな」を成程と感じた。お蔭げで四杯も食った。
母は妹等の四方拜の仕度に忙がしい。髪を結ってやったり、着替をさせたり年賀状も来た、父の代筆も兼ねて今日は二十枚程書く。それが済んで、羽織丈替え新聞を讀んだが、四種もあるので夕暮近くまで掛かった。
年賀の客も減った。妹等も遊び先から歸って来た。やがて夕食が済む。早速グループが出来て、カルタ、トランプ、双六と、九時近く迄お正月氣分を十分に味はった。

追憶断章 ―兄由太郎の周辺―

魚住 トク 大正十二年一月一日生
大正二年一月、兄松下由太郎は父藤次郎、母ゆくの長男として静岡で生まれ、五歳の時、三歳の妹まさ、一歳に満たない妹ようと共に父母に連れられ来道しました。
上富良野駅前に住むこと五年ほどで現在地(正確には今の南隣り)に移りました。駅前の家で志津が生まれ、トク(私)と夭死した妹ミツを含めて六人の兄妹の中で、ただ一人の男子でしたから、明治生まれの両親にとってはまさにかけがえの無い息子だったに違いありません。
小学校を卒業し旭川商業学校へと進み、その時から親元を離れての下宿生括が始まりました。学友のお話によると「松下君は、ふだん、僕たちが遊んでいる時に勉強して、テストが近づいてみんなが四苦八苦するころにはゆうゆうと遊んでいた。」そうです。
成績優秀で毎年特待生になり、授業料免除の特典をうけました。
向学心に燃えた兄は旭商から織物工業の盛んな桐生市の桐生工業高校(現群馬大学工学部)へ推薦入学をしました。
桐生工業高校を選んだ理由は知りませんが、兄なりの将来への展望があったのでしょう。そして京都へと道が続いていました。
京都大学理化学研究所の喜多研究室に入り、後に文化勲章を受章された桜田一郎(当時助教授)の下で繊維の研究にたづさわりました。
帰省した兄が父に「石炭から繊維をとる研究をしています。」と説明したら「石炭から糸ができるなんてそんなバカなー。」と半信半疑だったこと、また山本の祖父が、「由太郎、ドイツに留学したければいきなさい。」とおっしゃったと、あるとき母から聞いていましたが、なぜドイツ″だったのでしょう。
ここに桜田一郎著「繊維の科学」の序文の一部を抜粋させていただきます。
―京都大学の工業化学科を卒業し、理化学研究所の研究生として、喜多先生の研究室で研究生括に入ったのは、大正一五年のことであるから、既に五三年になる。最初に行った研究はセルロース(当時は繊維素と呼んでいた)誘導体の合成であった。間もなくドイツに留学し、ライプチヒ大学の物理化学教室のWo.Ostwald先生の研究室、ベルリン・ダーレムのカイゼル・ウイルヘルム化学研究所のK.Hess先生の下でもセルロースに関する研究に従事した。
留学中の一九二〇年代の終わりから、一九三〇年代の初めは、繊維化学を基礎にして高分子化学が生まれようとする時期であり、またこのような学問の進展につれて、天然繊維や再生人造繊維(レーヨン)から合成繊維の誕生する前夜であったということもできる―
また井本稔著「化学繊維」にも大正末期から喜多教授研究室でレーヨン工業の基礎的研究が広汎な規模でおこなわれはじめたとあります。
まさにドイツをはじめ世界各国で合成繊維の研究にしのぎを削る渦中に兄もいたのです。
なろうことならドイツヘと心をかきたてたにちがいありません。
京都と大坂の中間に位置する高槻に新しく研究所が移転することになり、兄の研究室も用意されていたという矢先に、体調を崩してしまいました。そして親友の塚原巌夫様のお兄さまの開業されている、東京小石川の塚原医院へ入院し静養していました。
しかし思いもかけず、昭和一三年七月一八日、心臓発作をおこしあえなく二五歳の生涯を閉じました。
駆けつけた父母が、白い遺骨を抱いて上富の駅に降り立った時の憔悴しきった姿は今でも目に焼きついています。
兄の亡くなった二ヶ月後に米国でナイロンが発明され、また翌一四年に桜田・李両博士によって国産第一号の合成繊維ビニロンが誕生し世界の繊維史上に輝きました。
なんとも惜しまれてなりません。
塚原様と母が京都の下宿の遺品を整理して学術関係は京都大学に寄贈し、身の廻りの物と文芸関係の書籍などが家に送られてきました。
志賀直哉の「暗夜行路」、堀辰雄の「風立ちぬ」、芥川龍之介、外国文学等々、数ある中で圧巻は寺田寅彦全集でした。自然科学と文学の二筋の道を歩んだ寺田寅彦に傾倒して、同じような生き方を望んでいたのでしょうか。
旭川、桐生、京都と仕送りを続けた母の手もとには、薄い紙の現金書留の領収書が何校も厚みを見せて保存されていて「送るばかりでなく、たまには受け取りたいものだネ。」とぼやきも自慢の一つで、息子が立派な学者となる夢を将来に託して、父の働きがいも、母のやりくり算段もはずみがあったでしょうに。
京都時代には兄も少しは定収入があったのかよくわかりませんが、翻訳をして臨時収入が多少あったことは耳にしております。
家を離れていただけに家族への思いが深かったのでしょう、帰省のたびに十歳も開きのある私にまで本のおみやげがありました。「クオレ」「幸福な王子」「心に太陽を持て」など繰り返し読みました。姉たちにはどんな品だったのかとんちゃくありませんが、おとめらしいほっそりしたお人形のあったことは覚えていますから、それぞれにこまやかな情を込めて買い求めたことでしょう。
兄は昼は薪割り、屋根の雪下ろしなど父の手伝いをし、夜は妹を集めてトランプで遊びました。新しい遊びを仕入れてきては教えてくれるのです。また小泉八雲のノツペラボーの話をしてキャーキャー言わせたり、そこには、よっちゃん、まあちゃん、およちゃん、しいちゃん、とくちゃんと元気な顔の揃っただんらんがありました。
昭和十一年に天皇陛下御来道の陸軍大演習があり、一般村民も行事に参加しました。
代表によるお迎えの行軍練習が炎天下の小学校運動場で何回かあり、その中に加わっていたまさ姉さんは日射病になり、それが引き金になったのでしょうか、以来結核で病床に就く身となり、離れの家での母の二年間の看病が続きました。
山本の叔父叔母が貴重品のバターを持って見舞って下さいました。
「干しぶどうが食べたい。」と言いましたが、店にはもう売っていませんでしたから、そろそろ物資欠乏の風が吹きはじめていました。
医者は勿論のこと病気に効くときけば、いろいろ治療を試みたようです。しかし兄の死で気落ちしたのでしょうか、三ヶ月後の十月二五日帰らぬ人となりました。
ひつぎの綱を握った白い装束の葬列が悲しく涙橋を渡りました。
兄姉の亡くなった翌年、松下の家にらいらくな笑い声の忠平兄さんの姿がありました。
昭和六二年七月二七日、母ゆく七回忌、よう夫忠平三三回忌の繰り上げ法要、兄由太郎・姉まさの五十回忌法要が、春に胆嚢の大手術をした姉ようを中心に執り行われました。みなそれぞれに心の中で姉の健康を気づかい、姉もまた、つとめて元気にふるまったのでしょう。賑やかな顔ぶれで楽しい一夜を十勝岳カミホロ荘ですごし、それが孫たちに囲まれた幸せな姉の最後の姿となりました。
永平寺へ母の納骨に娘三人で行き、京都まで足をのばして、兄姉がひと夏お世話になった蓮華寺を訪れ、住職ご一家と昔語りに兄をしのんだことは、今はよい思い出となり、それが三人旅の最初で最後となりました。
由太郎兄さんと京都で暮らし、年も近いよう姉さんが、この手記を書くべきでしたのに、今となっては往時を知る語りべは、志津姉さんと私だけになってしまいました。
没後五十年目に、多感な少年の頃の作文などが陽の目を見ることになりました。さぞかし兄は「いささかテレますねー。」といいながら喜んでいることでしょう。
私も記憶のともしびをかきたてて、散漫ですが由太郎兄さんを中心に書き記しました。
昭和六三・七・十四 トク記

はたちのころ

松下 よう 大正七年一月二十日生
昭和六十一年十一月十四日逝去(享年69歳)
十九歳から二十歳にかけて私の花盛り。
其の頃、私は京都で兄と二人で自炊をしていた。
生活費が六十円、家賃を十三円引くと残り四十七円で、本の好きな兄は毎月二十円くらい本屋へ支払うので食費と小遣いはほんの少々、それでも若かった私達は随分映画も見たしコーヒーも飲んだり、友達と食べたフルーツポンチは最高のぜいたく品であった。家が加茂川の近くにあったので散歩には事欠かなかった。下賀茂神社が近かったし、其の頃下賀茂撮影所まで足をのばし、門があって中へは入れないので外でぶらぶらしていると、きっと誰かに会う事ができた。
光川京子という女優に合った時は、世の中にこんな美人がいるのかと思って驚き、自分の顔にげんめつを感じたものである。ロケーション帰りのバスの中から時代劇の扮装をした男優がぞろぞろと降りてきた中に、高田浩吉がいたけれどやはりピカ一であった。

          糺の杜 嵐山 蓮華寺 八瀬 比叡山
【昭和五十七年(六十四歳)頃、当時老人大学に通っていた時に書いた未発表の作品です。】

あとがき

松下  力
私がこの文集を目にしたのは、母が亡くなってからおよそ半年後のことでした。
納戸を整理していたとき、妻がタンスの上置きの中に、母がたったひとつの兄さんの思い出だからと大切にしていた箱があるというのです。生前に一度見せてもらったことがあり、母はとてもなつかしそうに、蓮華寺や、下宿時代のこと、そして北海道へ帰るため、たった一人で乗った夜行列車の長く不安で心細かったことなどを話してくれたのだそうです。
開けてみますと、伯父の中学時代の作文が入っていました。一年生から三年生までの四季折々の作品があり、それらのすべてには甲の評価が赤ペンで記されておりました。また、一部を抜粋して文集にしたものもありました。
手に取って読み進むうちに、写真でしか見たことのない伯父の青春時代や、祖父や祖母、伯母たちが生き生きと生活している様が、私の子供時代の古い記憶と重なって、鮮烈によみがえってくるようでした。
十三歳から十五歳の少年が書いたとは思えないような文章力、深い考え、すでに一人の立派な大人として自立していた伯父。旭商から桐生工高、そして京都大学へと進みながら、これからというときに二十五歳の若さで逝ってしまった伯父。
この偉大ではかなかった伯父の為に、又、残されたたったひとつの兄さんの作品だから、皆に忘れ去られる前にきちんとして置きたい、と言っていた母の為に、手造りながらこの文集を送ります。(合掌)
文集を作るにあたり、ご協力下さった皆様に深く感謝をいたしますと共に厚くお礼を申し上げます。

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔