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「私の戦争体験記」から抜粋
キスカ島撤収から 敗戦・復員(下)

佐藤 光玉記(美馬牛在住)(八十二歳)


北千島「幌筵島」に上陸

昭和十八年七月二十九日、蟻も通らぬほどの敵艦隊が何重にも包囲している中を、奇跡とも思えるキスカ島からの脱出の成功により、九死に一生を得て日本領土の北千島「幌筵島」に上陸した撤収部隊は、上陸後軍部の防諜上の命令があり、特別な任務以外は駐留地以外に出ることは禁じられた。
他部隊との交流・郵便・通信等もいっさい禁じられて、軟禁状態のような生活であった。

幌筵島で暫しの休息
幌筵島(ほろむしろ)では、旭川出発以来一年三ヶ月振りに新鮮な生野菜の給付にありついた。大本営からは《恩賜の煙草》が下賜され、北海道民慰問団の慰問を受けた。
その頃、村上湾と北の台飛行場間の道路作業命令が下された。
キスカ島撤収直後の爆撃
上陸後、私達の後を追うごとく爆撃機三機の爆弾投下があり、生還したばかりの工兵隊員三名が爆撃により戦死する。
あの激しいキスカ島の爆撃の中を生き延びて生還し、僅か三機の爆撃で戦死するとは、人の運命、一寸先闇である事が痛いほど思い知らされた。
北千島の部隊は七倍半の双眼鏡を持って対空監視所に勤務していた。敵機の襲来は初めてで上空に来ても指令をせず、爆弾を投下されてから驚いて対空戦闘命令である。
我々は早くから作業を中止し、雑木林に退避して身を隠し、友軍機の飛び立つのを待っていた。その時の空襲で、海軍の艦艇、北洋漁業の漁船などにかなりの被害を受けたようである。
穂積部隊の完全解体
精鋭を誇っていた穂積部隊も、結成以来僅か一年四ヶ月で完全に解体される事になった。
軍首脳部は、北千島警備部隊が召集兵主体の弱体部隊なため、実践経験豊富な現役兵の補強対策が必要と考えたのでしょう。
根本隊中隊幹部の方々は夫々転属になり新任務に付き、私は轟部隊への転属で、警備地域は北千島占守島であった。
初めて迎える初年兵
転属後、占守島の三角兵舎に入り、旭川出発以来初めて初年兵を迎え、その教育に当たった。
初年兵と共に昭和十九年の正月を迎える。私の故郷上富良野村より里仁の小林ほか三名が私の中隊に入隊して来た。
補充兵で故郷に家族何人かの子供もいる老兵だけに、その教育も大変であった。
初年兵も検閲が終わると、毎日使役や作業である。秋は道路建設、冬は道路の除雪と補修作業、加熊地域転出後は兵舎の建設に当たり、三十歳を超えた老兵には、さぞ重労働であったことと思う。
兵舎も完成し昭和二十年の正月が来た。祖国の故郷では、家族はどんな正月を迎えている事やら、東の空を見上げる事しばし、応召以来三度目の正月である。
海上機動兵団に編入される
昭和二十年春、まだ高台に残雪のある頃海上機動部隊が編成され、その部隊に編入される事になった。
私は若い頃エンジン機械の仕事をしていたので、船泊工兵隊から専門教育を受けたが、当時は英語の使用が禁止されており、私の習ったエンジン部品の名称と違い非常に苦労をした。
英語……エンジン 日本語……発動機
英語……クランクシャフト 日本語……主動軸
英語……ギヤー 日本譜……歯車
などの部品の名称が全部日本語になっていた。
海上機動部隊に沖縄参戦命令下る
昭和二十年四月、海上機動部隊に沖縄戦に参戦の転進命令である。その頃アメリカ軍が沖縄に上陸していたかは良くわからない。もしアメリカ軍が沖縄上陸した場合の作戦計画で、我が部隊は沖縄に逆上陸する為の教育訓練であった事を知る。
北千島より南へ転進中の我が海上機動部隊の旅団司令部外、部隊の主力は輸送船「大成丸」で南下中、北海道襟裳岬の厚賀沖合で、敵潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈された。旅団長以下約八百名の戦死者を出したとの事、旧根本隊員も何人か戦死したらしい。
我海上機動第三大隊無事小樽に上陸
我が第三大隊は潜水艦の魚雷攻撃を受けず、敵機空襲を受けることも無く、無事小樽港に入港上陸する。
私達は小樽双葉高等女学校体育館を宿舎として休息(この間住民の方々には大変お世話になった)する。この先、どんな命令が出るものやら不安な日々を送る。
五月も末頃、青森へ移動の命令が下ったが、その矢先に臨時休暇が出て夫々故郷に向かっていた。私は実家に一泊出来たが、遠くに帰った者は、本人がまだ実家に着かぬうちに『直ちに帰隊すべし』との部隊よりの電報が先に着き、家族の人々の驚きは只事でなかった様である。
私が帰隊したときには、近くの帰隊者は既に青森に向け先発、留守を守る将校、下士官、兵隊が若干名居た。翌日全員帰隊青森に向かう。
東北地方の召集兵と混成旅団を編成
六月、青森を出発したが北九州に着く地名は不明、どうやら博多市のようである。突然アメリカ軍飛行機に列車を襲撃され、水田に飛び込んで一命を助かった者も多い。稲は三十p程に伸びていた。
その頃既に沖縄戦は終わり、玉砕が報道されていた。大変な戦争で婦女子まで戦闘に巻込み、女子学生を前線の従軍看護婦として参戦させ、全員将校等と行動を共にし、最後は自ら自決して果てた悲惨な最後であった。
我々の海上機動部隊の任務もこれで終わりである。鹿児島まで行き、揖宿喜入(かじやどきいれ)町海岸線警備の任務に着いた。その頃から本土では敵機グラマン、ロッキード、カーチス、ノースアメリカン等の連日の空襲が続き、宣伝ビラが撒かれるようになっていた。
毎日、暑い南国の日照りに悩まされながら、生きる為に山菜取り班、漁業班に分かれて毎日食糧の調達である。
北海道で生まれ育った私は、現役での北満州、応召時のアリュウーシャン諸島、北千島などの寒い冬を越す事には抵抗も無かったが、南国の鹿児島は七月の温度が毎日三十度以上で、身体も変になりそうである。
七月末頃になると、甘藷が土を割って大きくなってきた。今日も暑いが兵舎に居る事は出来ない。野山を歩いて食糧を探し、食べれる物は何でも持ち帰り皆で分けて食べる。愈々食糧不足の場合には農家の甘藷を無断で頂くこともある。
こういうことで若しも敵が上陸しても充分戦闘することが出来るだろうか?疑問である。
そんなある日、山と海に別れて食糧の調達に出ていると、「帰隊せよ!」との連絡を受け帰隊、隊員は中隊長幕舎前に集合とのこと、みんな頭を下げ一言も話さず、涙を流している者もいる。
終戦を鹿児島で迎える
幕舎前では天皇陛下のラジオ玉音放送であった。聴いて驚くことに敗戦による終戦の放送である。大日本帝国軍隊は本日をもって終わりである。
翌日になると、地元九州及び四国等の将兵はどんどん復員して行く。
我々北海道出身者は一日二日遅れてもどうなるものでもないので、私は補助憲兵として憲兵隊に協力する。進駐軍や多数の若い将兵の復員で戦後の乱れがちな町の治安の維持が目的である。
私達は喜入小学校の家庭科教室を借り宿舎とする。食事は自炊で毎日の献立が大変であった。女教師や学校の近くの娘さん達に大もてであった。中には故郷に妻子が有りながら地元に養子になる者もおる。中隊長も婿養子入りする。
その後熊本県まで移動となる。九月に入り台風の為中学校校舎が破壊され、川が氾濫し橋が流され堤防が決壊、町の街路樹、桐の大木が根こそぎ倒れ、通行不能となる大災害であった。
毎日、山奥に入り木材を伐採、搬出して橋の補修を行うなど、災害復旧に協力する。
九州を後に北海道を目指し復員旅行
終戦から二ヶ月半が過ぎて任務も終わり、残留部隊に合流、同時に北海道への輸送が開始される。
十月末頃と思う。私達は屋根の無い無蓋車の列車に乗込んだ。九州もこれが最後である。顔馴染みの娘さん達も駅で見送りしてくれた。
列車は北に向かい進行しているが、時々機関車の入れ替えで停止するが爆撃の焼け跡で駅名も分らない。復興の早い所では青野菜の菜園が目に止まる。
赤いトタンで小屋を作り煙が出ている家もある。
青森に着くと、九州へ転進する時は美しかった町並みも、爆撃に合って見る影もない無残な廃墟と化し、その焼け跡は哀れな姿に成り果てていた。
連絡船の出港まで時間が有り、当時お世話になった慰安所の方向に行ってみたが影も形もなかった。
近くで焼けトタンを台にして青森産のリンゴを売っていた。何年ぶりかで見るリンゴである。食べてみたくて友人と二人で一箱買い、分けて持ち帰る。偽装網で袋を作り、リンゴを入れる。
夜になって、連絡船は青森港を出港し函館港に向かった。
北海道に上陸
連絡船はやがて函館港に接岸し、遂に北海道に上陸出来た。もう一安心で輸送列車は旭川まで進行すると聞く。旭川で部隊解散である。
函館の桟橋は電灯も無く暗闇である。友人と二人で隊列を離れて駅前の旅館に入る。
食べ物が悪いのでと言う女将に『これで泊めて欲しい』と持ってきた物を差し出すと、驚いたのか嬉しいのか奥に入り、やがて主人が出てきて最高の部屋に入れてくれた。
九州の新米、甘藷、水筒に入れた芋焼酎、魚の缶詰など海軍の持ち物で、海軍の俸給を何年分も持っており、魚の缶詰も大きな箱で持っていた。これは喜入町にいた頃、大島帰りの海軍軍人が『古物の船は用意出来たが、燃料が無くて帰れない』と聞き、部隊の燃料庫係りと一緒に出してやった「ドラム缶」が化けたものである。
明日の弁当に、おにぎりを二つづつ二人で四個作ってくれる様に頼み、残りは全部出して旅館の家族とみんなで食べて飲んで、宿の人も『銀飯に芋焼酎は何年も口にした事が無い』といって、嬉しくて夜遅くまでアリュウシャンの事などを話し合い、親子の様に振る舞い待遇してくれた。
翌日街の中を短時間散歩した。米軍黒人が若い女達を遊び道具に悪ふざけをしている。また、学生達は英語の勉強に英会話をしながら歩く姿も見られる。
九時頃、列車に乗り込む、旅館の主人も女将も駅で姿が見えなくなるまで、何時までも何時までも手を振り見送りしてくれた。見知らぬ人の熱い情けに只々感激する。
おにぎりとトーキビを交換
大城君と二人、旭川まで車中の人となる。軍人は一人もいない、若い娘さん達も乗車しており、懐かしく楽しい旅行気分であった。
正午の昼食時刻となり、乗客たちもそわそわと何かを取り出して食べ始めた。私達も二人でおにぎりを取り出して食べていると、「ジロ、ジロ」と見られ、どうも様子が変だ。
当時、戦後の国民は戦争の為に特に食糧事情の悪化が酷く、白米などは容易に手に入らず、ウジの湧いた澱粉粕が主食に配給されるなど、国民は人間らしい生活から見離され、畜生と同様な餓鬼道に落ち込む、その極限に達する生活を強いられていた頃で、それは想像を絶するものであった。
我々軍人は終戦後もまだ幾分軍の統率下にあり、食糧不足とは言え国民程の悲惨な生活ではなかった様である。
その時勢を知らぬとは言え、二人で白米銀飯のおにぎりを食べながら、函館の旅館の主人との会話を声高々に得意満面に話し合っていたことが、乗客達に羨望と嫉妬の念を抱かせ、「ジロ、ジロ」と見られる原因を誘発している事に、気が付かなかった。
向いに座っている母親と、五〜六歳位の女の子がトーキビを食べている。トーキビは珍しい、私が先にお母さんに話を掛け、おにぎりと交換する。大城君もブドウ糖と交換して分けて味見する。『珍しい物を食べてまた長生きするぞ!』と母子共々四人で笑いに興ずる。
昭和十四年の初年兵入隊以来の珍味である。あの感激は今も忘れる事は出来ない懐かしい愉快な楽しい思い出として、私の脳裏に深く刻まれた一生の宝である。
昭和二十年十一月無事復員、応召以来なんと満三年七ケ月、私の軍隊生活は終わりを告げた。今後は一町民として立派に生きて行く事を新たに決意する。
お陰様で復員後身体の調子も良好で、今日まで頑張って来られたのも、我々戦友共々、戦場で生死を共にあの激しい弾雨の中、みんなで力を合わせ生還出来たのも、尊い集団生活の賜物と、そのお陰を感謝すると共に、残る生命を大事に感謝の気持ちで生き抜く所存であります。
最後に共に戦い不幸にして倒れた戦友と戦死者のご慰霊に対して、心より哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げる次第であります。

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔