郷土をさぐる会トップページ     第19号目次

青春回想
中支派遣軍の想い出

大道 俊造 大正十三年八月十九日生(七十七歳)


男子の本懐

大道俊造甲種合格″、昭和十九年七月二十日の待ちに待った徴兵検査の結果である。
この時代は、国民の三大義務のひとつが徴兵検査であり、男子青年は二十歳になるとお国のために、徴兵検査を受け甲種合格を祈っていたのである。中にはごく稀にではあるが、軍隊を拒み、自から手足を折って兵役を免れる者もいたが、皆から『非国民!』と言われていた。

父の回想
私の父大道久松は、大正六年に北海道開拓者として、三重県志摩郡阿児町から中富良野東五線北十四号に入地し、江東農場を三重県出身者の山川喜兵衛外数人で買収し開墾したが、不作続きで借入金が多くなり、昭和三年、拓殖銀行の負債整理のため、農場は銀行の所有になってしまった。
父久松は、不安定な農業収入よりも手に職をつけて安定した生活を営もうと考え、子ども達を他人に預けて、中標津の松村時計店へ時計修理の見習いに入った。
その後、東中に戻り時計修理の道具を背にして行商を行い、生計を立てた。行商には上富、中富ばかりでなく、東山、麓郷方面まで出かけたという。
昭和七年に現在の富士カメラ店の所へ店を出し、営業を始めたのである。
時計修理の見習で東京へ
長男の私は当然家業の時計店を継ぐために、昭和十四年四月上富良野高等小学校卒業と同時に、東京都杉並区高円寺の時計店に見習として奉公し、夜は夜学で学ぶ毎日であった。
昭和十六年に大東亜戦争が始まり、軍需工場では人手が不足して、翌年には私も強制的に徴用され、北多摩郡昭和町にある飛行機工場で働かざるを得なかった。
そんな中で昭和十九年に徴兵検査の日を迎えたのである。
甲種合格
立川市の検査場に赴くと、百人くらいの青年が検査を受けに来ており、緊張の面持ちで検査結果を待っていたが、「大道俊造甲種合格」の声に『男子の本懐これに勝るものなし』の心意気で天にも昇る気持ちであった。
その頃は戦況も日毎に激しくなり、東京の浅草・下町方面は米軍機の来襲を受け、かなりの被害が出ていた。
徴兵検査を受けてから五カ月後の十二月に、入営通知が実家の上富良野から届き、入営準備のために東京を後に帰宅した。
愈々出発の日が来て、入営者は上富良野神社に集まり、神主から武運長久のお祓いを受け、村民を代表して金子村長から激励の言葉を戴いた。一緒に行く兵隊は神主の長男生出宗明と、伊勢屋旅館の次男北川亨と私の三人であった。
駅では大勢の村民の方々から見送りを受けたが、今でも印象に残り思い出すのは、母が涙を目いっぱいに浮かべて、汽車が見えなくなるまで手を振っていた姿である。一人息子を戦地に行かせ、これが最後の別れと思ったのでしょう。
浜松に入隊
昭和十九年十二月一日、飛行兵として浜松に入隊したが、一週間後には初年兵の必要な教育を受ける間も無く、中支派遣軍として博多港から釜山向けの輸送船に乗せられた。航行途中に二度も、米軍機から手荒い爆撃の歓迎を受けながらも、どうにか釜山に着く事が出来た。その時は『もう故国には帰れない、いさぎよく国のために立派に命を捧げよう』と改めて決心した。
釜山から目的地の徐州に汽車で移動し、十二月二十四日に着いた。「麦と兵隊」で知られた様に至る所麦畑であった。
ここで二ケ月間初年兵の教育を受けることになり、北は北海道から南は九州熊本まで、全国から集まった戦友と共に飛行兵になるための訓練を受けた。
『敵機だ!』、訓練中にはしばしば米軍機の襲来に遭遇した。ある日、散開訓練の最中に機銃をあびた。『全員伏せ!』の号令と共に伏せたが、その弾みで銃を放してしまい、三〜四メートル先に飛ばしてしまった。『絶対に動くな!』の指示であったが、「もし撃たれて戦死したときに『大道は銃を身体から離していた』と言われたら軍人として恥になる」と思い夢中で銃のところへ行き、銃を身体の下にしっかりと抱きかかえ、運を天にまかせた。その時、機銃弾の薬きょうを顔に受けたが幸い軽傷ですんだ。
また、元旦の祝賀式の最中に機銃掃射を受けたこともあった。各隊員は一人用の小さな防空壕の「たこつぼ」を掘り、空襲に備えていたが、この時も真っ先に自分の「たこつぼ」に直行したところ、なんと自分の「たこつぼ」に先客が入っていたのである。
私はしかたなくその場に伏して難を逃れたが、耳元をかすめる銃弾に生きた心地がしなかった。
苦しかった南京
徐州では予定の半分、一ヶ月の初年兵教育を終えて南京に配属になった。これからという大事な時に、慣れない土地や水の為に体調を崩し、入営時に六十sあった体重が四十五sまで痩せるほどで、軍役を通し一番苦しい時でもあった。新隊員の中には体力を消耗し、ジフテリア等の病気になり、帰らぬ人となった戦友もいた。
芸は身を助ける
初年兵教育における下士官からの訓練は、凄まじいものであった。私は良い上司にも恵まれ、また「芸は身を助ける」の諺のとおり、助けられたことが多くあった。
ある日の事、初年兵教育で下士官がやって来て、『大道、お前下士官室に行って例の時計を直せ!』と云われたので下士官室に行ってみたが、部屋には修理する時計も無く不思議に思っていると、一時間程して下士官が戻ってきて『大道戻っていいぞ!』と云われたので部屋に戻ってみると、教育と称し、編上靴で同僚達がなぐられ、部屋は血の海を見るような眼を覆うばかりの光景だった。
なぜ、私だけがそんな優遇を受けられたかと言うと、以前上司の時計の具合が悪くなり、修理を頼まれた時『お前いくら払ったらいいんだ』と言われ『私は軍隊に使われているのですからお金はいりません、どうぞお使い下さい』と言ったのが嬉しかったのではないかと思う。
その後も班長は、すごく私の面倒を見てくれて、過酷な仕事の時などは上司の時計を借りてきて『お前直してやれ!』と云われ、中隊長や小隊長の時計を直して、任務をはずしてもらった事もあった。こんな時には「芸は身を助ける」との諺が、実感としてありがたく感じたが、私と同じように床屋の技術のある者も、上官の髭をそってあげて重宝がられていたようだった。
南京では、中支派遣第十五野戦航空補給廠勤務を命ぜられた。ここは南京城内のため、幾度となくアメリカ軍のP38戦闘機や爆撃機が飛来し空中戦が展開された。敵機を撃墜した時は我々地上勤務の隊員は歓声をあげて喜び、友軍機が落ちる時には只々冥福を祈り、とめどもなく涙が出るばかりであった。
大隊長の訓示
昭和二十年の二月か三月のことだったと思うが、私の耳を疑うような信じられない事があった。大隊長が朝の訓示で『今、我々は飛行部隊でありながら、飛行機の燃料は全然本国から送られてこない。飛行機も一機もやって来ない、このままだったら日本は戦争に負けるぞ!』と大隊長はとんでもない事を話した。私達は、日本は神国であり、戦争に負けるなどとは誰も思ってもいなかったので、『あの上官何を言っているのだろう』とみんなびっくりした。
その年の四月下旬、戦況が益々深刻になり、部隊長が全隊員を集め『我が国の戦況は厳しい。もはや本国からは一滴の燃料も補給されない。近いうちにソ連軍が攻撃して来る。そこで義勇軍を募る。しかし、これはドラム缶を利用し戦車に体当たりする決死の任務だ。よく考えて申し出よ!』と沈痛な面持ちで言い渡した。何人申し出たかは新兵の私達には解らなかったが、戦況の厳しさはひしひしと感じられるようになった。
運命の八月十五日
終戦の年の五月、突然北京勤務を命ぜらゎた。場所は北京のほぼ中央の西站(シータン)で北京経済専門学校が本部隊舎であった。
北京は三千年の歴史を持つ文化都市である。平成十二年十一月に中国の観光ツアーに参加して北京の天安門広場、古宮、天壇、城外の万里の長城等を見学したが、五十七年前とほとんど変わっておらず、大変懐かしく感じた。ただ、当時の平安門広場の付近にあった住宅はすっかり変わり、全部高層ビルとなっているのには驚いた。
北京では本部勤務のため戦闘は無く、現地学生と接する機会も多かった。平和になったらお互いに文通する事を話し合い、住所を書いたメモを取り交わしたが、日本に帰る途中で米軍の身体検査を受け、お金以外の持ち物は全部没収されてしまったので、今ではお互いの住所は判らなくなってしまっている。
ツアーのとき、通訳を通じて近所の人に尋ねてみたが、もう六十年近く経過しており、経済専門学校の場所についても誰一人知っている者は居なかった。
そんな北京の本部隊舎で、運命の八月十五日、「敗戦国」という最悪のレッテルと共に終戦を迎えることになった。
この日を境に我々の立場は一変した。『兵隊さん、兵隊さん』と親しみを持ってくれていた現地住民の人達でさえ、敗戦と聞くと『トーヤングイ(東洋の鬼)』と馬声を浴びせ掛けるようになり、街を歩けない状態であった。
敗戦という重く暗い現実に、我々はそれに対応する力も無く、只みじめな思いをするだけであった。
終戦後は上からの命令で、「指示があるまで待機せよ」と云われ、私は一ヶ月以上の間、本部で待機して残務整理に当たった。
運良く二十年十二月三十一日に無事我が家に帰宅する事が出来たが、同じ部隊でも重慶に送られて二年以上も残されたり、シベリヤに連れて行かれ、何年も抑留された者もいたことを考えると、私は非常に恵まれていたと運命に感謝している。
我が青春は短い軍隊生活であったが、この体験を通して強く訴えたいのは、「勝っても負けても、多くの犠牲が出る戦争はもう懲り懲りであり、絶対にあってはならない」事である。孫子に至るまで言い続けなければならないと思うばかりである。

機関誌 郷土をさぐる(第19号)
2002年3月31日印刷  2002年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔