郷土をさぐる会トップページ     第06号目次

銃後の農村回想記 ―その1―

岩田 賀平 明治四十三年十二月十日生(七十六歳)

はじめに
昭和二十年八月十五日正午、無条件降伏の玉音を聞いてから早くも四十年が過ぎました。
そもそも、戦争が始まったのは、昭和六年九月十八日満州事変の勃発からで、昭和十二年の支那事変(後に日中戦争と呼称)、昭和十六年大東亜戦争(後に太平洋戦争と呼称)へと戦線が拡大されて行き、敗戦の日まで世に十五年戦争とも言われる長い歳月に亘って、戦争状態が続いたのでした。
国民は、総力戦と言う形の近代戦争遂行の国家の要請に応えて、夢中になって懸命に努力したのでしたが、戦が終って、冷静に振り返ってみますと、農村は銃後の守りとも言われながらも、前線とは違った苦しみや空しさや悪夢の連続であったように思われるのです。
今ここに、終戦四十周年の記念すべきときに当り、戦争が深刻に推移した太平洋戦争下、農業に関する諸統制事務に係わりを持つ立場にあった一人として、農村生活の周辺を回想し、これを、戦争体験のない世代の方々に伝える義務と責任のようなものを感じながら、この稿を進めたいと思います。
戦時下の農村労力事情
満州事変前後の農村は、狭い耕地に過剰人口を抱え、世界的経済恐慌による不況の大波を受けながら、しかも、昭和十年まで冷害凶作が五年も続き、農村の苦しみは深刻なものでした。
減収しながらも農産物価格は低迷し、とくに昭和八年には米一俵が六円と言う、高値時の三分の一にまで大暴落するひどいものでしたから、疲弊のドン底に喘ぐ農村に、やがて貧富の較差や地主、小作関係の樫枯から争議が起り、社会問題に発展するような時代になりました。
戦争はこのような農村を背景に始まったのでしたが、軍による召集は農業労働の主役である経営主や働き盛りの青年男子でありましたし、軍需産業への転出もあって、農村労働力も急激に手薄になって行きました。そのことは、直接作物栽培管理、特に除草作業の不行き届きや、力仕事或は耕馬の使役作業、飼養管理に支障を来たすようになり、ひいては収穫量の減少も免れないようになって行きました。
太平洋戦争に突入してからは召集もはげしく、本町でも一度に数人、時として数十人ずつ駅頭から見送ったのですから、十五年間の出征者は、二千人にも上るのではないかと思います。
このような農家の深刻な労力不足対策としては、一般農業労務者の他に、主として市街地の町内会が協力することになっていましたから、馴れない作業に駆り出される、町内の老人や主婦も苦労されましたが、任務とは言え、その折衝に当った区長、町内会長さん方の骨折りは大変なようでした。
繁忙期には毎日の出役になり、町内会毎の出動人員、集合場所、時間など前日夕刻に指示されるのが普通でしたが、皆さん不平も洩らさず割当を消化しておりました。中には、家庭の都合など言っておれないと、乳呑児を背負った主婦の姿が混っての援農作業にも、戦時を意識する緊張感が漂っていました。
また、青年団、婦人会等の団体も夫々独自に勤労奉仕や、援農作業に出動し、出征遺家族農家の援助活動も行われたのでした。
戦局が深刻さを増すと共に、学校教育方針も変り国民学校(今の小学校)の児童も授業の一環として畑のいも拾い、赤クロバー採種、イタドリ採集など各種の作業に出動することが多くなった他、春の播種や移植期、夏の除草、秋の収穫の各繁忙期には、農繁休暇が設定されて、子供達は勉強を休み、遊びを忘れて農事、家事の手伝いに励んだのでした。
援農は町外からも行われ、旭川市の女子青年団が部落農家の共同炊事事業に参加してくれましたが、単なる労力奉仕に止まらず、乏しい材料の中にも献立、調理、栄養の分野に立ち入った活発な活動をして感謝されたこともありました。
援農で特に記憶に残るのは、学業を犠牲にした学徒動員が行われたことでした。
永山農業学校、旭川商業学校、旭川師範学校等から、次々に大勢の生徒が来町し、合宿して毎日各農家に分散して援農するか、或は、二、三人ずつ請入農家に分宿して援農作業に汗を流して下さったことです。
学徒動員は道内だけでなく、長野県や遠く九州の長崎県からも、数十名ずつ来町しましたが、いずれも長期滞在の援農でしたから、今となっては、援農生だった方も、請け入れ農家にとっても、思い出深いものがたくさんあるのではないかと思います。
援農生は、制服制帽、地下足袋にゲートル姿、合宿には学校や会館が当てられましたが、整った施設など何一つない中で、寝具、炊事用具、燃料類、特に、毎日欠かすことの出来ない、食事の諸原材料の調達に当っては、役場、農会、産業組合の協力体制でありながら、物資不足と諸物資配給統制下のことで、担当者の苦労した割には、生徒達には満足してもらえなかったように思います。
そして、合宿生徒の援農の仕方は、車などのない戦時下のことで、部落の農家まで朝夕の往復は、専ら徒歩でしたから、生徒にとっては馴れない農作業も苦痛だったでしようが、その作業に近い比重の歩き疲れがあったように思いました。
分宿生徒の場合は、振り当てられた農家でその家族と起居を共にするのですから、一応作業時間は定められていても、矢張り農家の慣行時間に副うことになって、労働は過重になり勝ちでした。それと、各家庭の家族構成や、食事を中心とする待遇差が問題点の一つでもありました。
加えて、その頃の夏は異常な猛暑続きで、平年の真夏日(最高気温三十度以上の日)は九日なのに、昭和十八年は四十二日、十九年は三十一日もあって近年では比較のしようもない暑さでしたから(長崎県の生徒さえ、九州でもこんなに暑くないと言っていた)、当時の生徒にとっての援農は、単に勉学を犠牲にしただけでなく、故郷を遠く離れた馴れない土地、生活環境のもとで、農作業をさらに苦しいものにしたのは、目が眩むような耐え難い暑さなのでした。
農機具、畜力事情
戦争が激化するにつれて、人手不足に悩む農家に追い討ちをかけるように、農業機械器具、農耕馬、燃料等の供給が次第に不円滑になって行きました。
新規の購入はなるべく避け、耐用年数を過ぎた旧式の性能の悪いもの、故障したものも修理して、再利用することにしましたが、そのために必要な、鉄板、トタン板、帯鉄、丸鉄、釘、針金、金網など、すべての金属部品が容易に入手出来なくなったのは、農家にとっては大変な痛手でした。
馬具類の修理、補充も、漢字で金偏のもの(鉄・銅・釘・鋲等)の他、皮革、マニラ麻、マニラロープが無くなって、不自由を極めましたが、戦後になって大麻の栽培が行われるようになり、大変助かりました。
また、日常の農作業に欠かせない鍬の類、鎌の類、マニアホーク、スコップ、金鎖に至るまで、良質な鋼材が使えないため、単なる品不足だけでなく、形ばかりの粗悪品は、すぐ曲ったり、伸びたり、切れ味が悪く、ホトホト困ってしまいました。
ただ、畜力については、以前から馬の育成地をして名のあった町だけに、軍馬購買や徴発に応じても、ほかの生産資材不足のような致命的なものではなく、或る程度の頭数不足と馬格の低下は免れませんでしたが、比較的容易に代馬の補充が出来ました。
いずれにしても、農業生産資材の原材料となるものは、すべてを海外資源に依存しており、その途が断たれては避け難い当然の事態でありました。
石油類の状況
灯油、ガソリン、軽油、重油、モビール油、マシン油、グリス、馬車油、皮油等の燃料や潤滑油等の農業用石油類は『油の一滴は血の一滴』と言われる通り、直接戦力物資でもあるために、石油専売法の判定によって、極端な制限を受けることになりました。『油断大敵』の文字通り、石油の無くなった農家の苦しみには、想像以上のものがありました。
先ず、重油がストップしてジーゼル耕転機が使用不能となり、中速石油発動機も灯油の確保に苦しみました。足りないモビール油は滴下数を減らしたり、廃油の二度使用をしたり、マシン油の代りには、食用に配給された貴重な白絞油(菜種ダイズを原料にした精製油)を使ったりしました。
それでも、絶対量の不足は如何ともなし難く、動力をあきらめ、明治や大正時代の昔に逆戻りして、脱穀作業は足踏式や殻竿が復活したのをはじめ、裸麦の焼き落しや、燕麦、亜麻は、しばき落し台を再登場させたりして、労働の主力を失った留守家族の体力の劣る年輩者や婦女子にとっては、大変な重労働が強いられることになりました。
肥料の不足と生産低下
戦前の農家の多くは、それまでの慢性的な不況や、打ち続いた不作が原因の累積負債の重圧に苦しみながら、農村振興政策の一環として打ち出された『農家負債整理』並びに、『自作農創設』の両制度資金に支えられて、漸く立ち直る気配が見え始めたところでしたが、開戦と同時に農家の増産意欲に反して生産性はジリ貧の一途をたどって行くことになりました。
その原因は、労力不足による栽培管理の不行届きのほかに、何と言っても減収の最大要因は、肥料が思うように手に入らなくなったことでした。
化学肥料のうち、過燐酸石灰と加里肥料は国産は皆無、全量外国からの輸入に依存していたのですから、戦争が烈しくなって、供給は間もなく途絶し、代用として成分保証もない怪しげな特殊低度過燐酸なるものが、少量配給されたりしましたが、粘土を乾かした様なもので、肥効など期待出来ないまま気休めに使いました。
窒素質肥料だけは国内で生産出来たので、始めは相当量が重点配給されましたが、しかし、原料の相当の部分が爆薬と競合することから、肥料向けは次第に圧縮を余儀なくされて、終戦年の肥料は、硫安換算反当一貫(四s弱)と言う微々たるものに落ちこみ、実質的には配給皆無に等しいものになりました。
作物収量は、肥料配給減少に比例して年々先細りを続けたのは止むを得ないことで、終戦年の当町の作物単収は冷害が加わったこともあって、最悪の状態を示し、米は単収百十s(二俵弱)、さらに甜菜では千斤(六百s)で現在収量の十分の一、小麦一俵半、裸麦一俵強、馬鈴薯二十俵弱、小豆一俵弱、そば二俵、稲黍一俵半、燕麦三俵半などでは、何れも平年の半作以下の、惨めな低収になってしまいました。
農産物の生産出荷統制
日本は明治以来近代国家として発達する過程で、狭い国土に急激な人口増加を見ましたから、国としては人口と食糧問題の解決は、最重要な課題になりつつありました。そこに戦争が勃発したのですから益々増大する食糧、軍需の確保、強化を図るために、いろいろな手を打ち始めました。
支那事変が始まって二年後の昭和十四年四月『重要農産物増産に関する規則』が公布されて、それまでも、或る程度国策に副った作付等の指導奨励は行われていましたが、それが、規則によって作付面積や出荷目標が指示される、戦時色の濃い統制が行われるようになったのでした。
主食である米は勿論のこと、麦類、馬鈴薯、豆類、中でも大豆は海外依存度の高い油糧資源として、菜種と共に重視されることになったし、甜菜は国内唯一の甘味資源として、貴重なものになりました。亜麻の繊維は耐水性にすぐれ、海軍艦艇には不可欠だと強い要請がなされました。玉萄黍も軍需としてにわかに登場することになり、玉萄黍を原料として作られる『イソオクタン』なるものは、最もオクタン価が高く、最新鋭戦闘機燃料用として絶対必要な作物となったのです。
燕麦は軍馬の飼料として、従来から陸軍糧秣廠との契約栽培と言う形で納入していましたが、次第に要請が強くなって一時期は戦前の三〜四倍に当る、年間八万俵も出荷したこともありました。しかし、その燕麦は、戦争の様相の変化による需要減(戦局悪化に伴って大陸戦線への輸送至難)と、国内食糧需給事情が悪化したことから、飼料としての燕麦が雑穀類に編入され、更に、麦類に昇格して主食の枠内に組み込まれることになっていきました。
農業生産計画の樹立に当っては、一方的に戦争目的達成のための必要度のみが基本になっていて、傾斜地や、搬出の便不便、気候、肥沃度、輪作や集約度の高い作物の適不適など、生産諸条件の総合的な考慮の余地などありませんでした。
計画達成の責任は、村、農業会、農事実行組合にあって、作付割当が過大、不公平、不適作などの異論の多い中で、取りまとめの会合が重ねられましたが、最後には「戦争のためだから、実情に副わなくても止むなし」として割当を消化したのでした。
また、米の出荷数量の決定に当っては、農事実行組合員総出で収量予測を行いましたが、工業生産とは異なり、天然産物のことですから、正確、公平を期すると言うのは容易なことではありません。
その他裏面の理由に、正規の割当を受けて供出ルートに乗せると、極端に安い公定価格で支払われますが、完納した後の僅かな余剰が闇値で売れたり、必要資材と有利に物々交換が出来ると言う思惑もありました。つまり、五俵増産することにより、一俵の供出を軽くすることの方が、農家経済に魅力があったわけです。
何しろ、作況調査にからんで、作柄を褒められて腹が立ったり、割当の会合が決裂して、村八分や、組合の分裂さわぎに発展して、戦後も長く凝りを残すと言う悲劇も起こりました。
戦後占領政策下の食糧
十五年戦争は尊い人命をはじめ、あらゆる面で大きな犠牲を払いながらも遂に、無条件降伏という形で終結しました。私たちは戦中の緊張感、緊迫感、悲壮感から解放されたのも事実でしたが、同時に敗戦の挫折感、絶望感から虚脱の心理状態に陥りました。
しかし、戦争が終ったからといって直ぐに平和が訪れたわけではありません。先にも述べましたように田畑は長い無肥料栽培に疲れ果てた揚句の大冷害に見舞れたのですから、敗戦の悲哀と社会混乱の中での飢餓との戦いが、その後何年も尾を引きました。
連合軍総司令部は、日本占領政策遂行の前提として、日本人を飢餓から救うことを決定したようでしたが、何分絶対量の少ない供給事情下にあって、占領軍の生産農家に対する態度は誠に厳しいものがありました。
当時の私のメモ書きを辿ってみますと、上川支庁で開かれた供出督励会議の席上、占領軍からは無理な供出割当ではあっても、同胞を救うためには十二月末までには必ず百%出荷を完了せよという強い要請がありました。
その時、生産者代表として富良野町長古東久平氏が立って「冷害のために収穫がおくれて、大豆、小豆など未だ畑に凍結したままにお積みしております。必ず供出しますから乾燥調整の出来る融雪期まで猶予して頂きたい……」旨懇請したのに対して、進駐軍は言下に絶対罷りならぬと退けたのでした。
私は、無理なことを平気で言うのは、日本の軍人もアメリカの軍人も同じかとつくづく思ったものでした。
進駐軍による食糧増産の督励
昭和二十二年二月、進駐軍司令部次長ヘズレー中佐(終戦事務局浦辺氏通訳)の訓示
=最高司令部も米国民も日本のために好意を持ち、私は北海道に駐在して道民の福祉のために努力しております。戦争のために米国日本ともに資材を使い果し、殊に食糧は最も不足しており特に北海道の食糧が枯渇していることを知り私は悲しく思っています。ところが一部の農家は収穫物をかくしていたり、一部の特権者の利益追求があるが、これは民主主義ではない。これでは本国のアメリカに食糧を援助してくれとは言えない。私は供出しないのは価格が安いことが原因だということも知っていますが、私は敢えて農民達に三月二十日までに供出するよう伝えます。
私は米を集める事は出来るが、米を出してくれとは頼む必要はない。私がここに来たのは、民主主義的にやって貰いたいと頼むだけです。
米を出さない者があれば司令部は断固たる処置を取らなければならぬ程、市民の食糧が急迫している。
炭鉱の人達が昨年の秋、食糧がない、賃金が安いという理由で石炭が掘れないと言ったが、私は石炭を掘らなければ日本の復興はないのでストライキの中止を命じた。上川農民は五〇%しか出していないが、祖国愛、同胞愛、愛国心に於て炭鉱夫に負けない筈である。皆さんの顔を見ると必ず供出するという誠意がうかがえることをうれしく思います。
終戦後三年たった昭和二十三年十月十二日旭川で開かれた食糧供出協議会の模様でも、軍政部長代理ソルター中尉、ホイラーGHQ農業部長、サンレーGHQ供出主任が出席して、私(サンレー)が各地を視察しまた陳情を受けて感ずることは、生産資材がない、供出が不公平である、価格が安い、肥料がない、衣料がないというが、一応その理由はわかるが、今日日本のみが困っているのではなく、世界中の戦勝国も皆苦労している。私の眼に映ずる日本人は、あまりに自らの責任を他に転嫁する傾向が強い。
農民は村長へ、知事へ、政府は総司令部、ワシントンまで転嫁しようとしている。
我々が進駐して以来、憲法を始め農業関係でも、農地改革、農業協同組合、農業普及技術員、農業災害補償法等数多くの革命が行われ、農地委員、食糧調整委員により運営されている。
私がこの種の会合で感ずるのは老人が多い。日本の復興も革命も青年と婦人の力に期待したい。もう一つ申し上げると、農家が供出を少なくしたいと願う意味がわからない。戦争中にも増して食糧が足りなくて苦しんでいるのに、作付面積が減っている、供出の減額補正や還元配給の要請ばかり出されて、進んで超過供出出来るといってくれたためしがないのは何故でしょう。
この様に種々申し上げると皆さんの骨折りを見逃しているように思われるでしょうが、日本中で農家の皆さんが一番働いていることは認めます。政府の役人より鉄道の人より、炭鉱の人より農家の皆さんは、朝早くから晩おそくまで一生懸命働いていることはよくわかっています。それがなぜ供出にのみ不熱心なのか不可解です。
国民の命の糧を満たすのは農家のみであります。
不平も不満も不手際もありましょうが、皆さんの国であり、皆さんの政治であって、上から押しっけられる義務ではありません。皆さん自ら国民を養う責任をどう果せるかというのでなければなりません。
日本は米の単位面積当りの生産は世界一ですが、馬鈴薯は劣っています。もっと馬鈴薯の増産に力を入れて食糧問題の解決をはかるべきです。
また日本人から食糧輸入の要求がありますが、我我としても隣の倉庫からかつぎ出す様な簡単なものではありません。どこにも余っていない中から僅かずつかき集め、それも五十二ヶ国の世界食糧委員会の会議で定められ、しかもこの委員会には日本は代表の資格がないので、GHQが代って出て、餓死線上のインド代表、西欧の食糧不足の中からさいて割当を受けて来るのです。
その上、輸入食糧は日本には金がなく、アメリカが払っているので、アメリカの納税者の納得も要します。
なお、本年の供出割当について二点を指摘しております。一つは供出割当の不公平の声の裏で闇売りが行われているかと思えば、一方では還元配給を要求して来ます。これらは連合軍の責任ではありません。村長、食糧調整委員の責任です。皆さんの民主的な責任に於て公平化を図るべきです。
最後に、今日皆さんも苦しい立場にありますが、肥料をはじめ、生産資材も好転の兆しが見えて来ました。これは、あの廃きょの中から、ここまでの成果を挙げ得たことは、日本の復興は必ず成ることを物語っているものです。我々も大いに努力しますから、どうか農家の皆さんの御協力をお願いします。=
とは言っても、劣悪な生産条件下の収量に対して、戦前の生産水準を参考にした供出割当には始めから矛盾がありました。町村や農業団体ではその辺の事情がわかるだけに、出荷推進上苦慮しました。しかも、そのような不合理は、翌年、翌々年になっても正されないまま続きました。
農業会では、自主供出指導の責任から、農家の意志を代表して次の六項目を上げています。
一、米・麦については当然認められている自家保有量を、半分に削減しな
  ければ完納出来ないような過大なものであること。
二、馬鈴薯は翌年の種子用の八割を削減しなければ完納出来ないもので
  あること。
三、雑穀については全生産量を出荷するもなお、割当に遠く及ばないこと。
四、無理に裸供出した場合には、再生産に要する種子、食糧、飼料の還
  元配給されたいこと。
五、端境期の需給調整のため早期出荷米が強制されているが、そのよう
  なことは緊急的、臨時的な措置として認められるもので、毎年これを繰
  り返しては、早刈りによる減収の損失、収穫乾燥調整に要する貴重な
  資材の浪費、或は期限に追われて徹夜するなど過重労働問題等も考
  慮さるべきこと。
六、農産物には真に適正な価格を設定されたいこと。一般物資の公定価
  格は再三に亘って改定が行われているが、農産物価格は収穫時に一
  回しか改定されない。これでは、収穫期に一般物価に対応して決定さ
  れたとしても、翌年の収穫期までには物価水準は、二‐三倍も先行して
  上昇するのでは、農家経済が成りたたない矛盾が生じている。
以上のように、農民の自覚は勿論大切なことですが、農民は権力の前には極めて無力ですから、萎縮退嬰させずに完納出来るよう特段の配慮を願いたい趣旨の要望書を昭和二十二年十一月にも出しています。
交通要衝への空襲
戦争の最中、石炭の不足や蒸気機関車、客車や貨車の修理が出来なくなったので、ヂリ貧的に列車の削減は止むを得ないことでしたが、交通難、輸送難の致命傷になったのは、なんと言っても昭和二十年七月十四、五日の本道空襲によるものでした。
函館、室蘭、小樽、釧路、根室等の主要港湾施設が爆撃されて大損害を蒙りましたが、特に国鉄の保有している青函連絡の客貸船十四隻全部が一挙に壊滅的打撃を受けて、本土との連絡が断ち切られて孤立してしまいました。
更に、道内鉄道網の要衝である各地の機関庫が、一斉に攻撃目標になりましたので、道内の列車のほとんどが動かなくなってしまったのです。
私達は、北海道のド真中、何の軍事施設もない富良野平野にまで敵機が来るようでは、もう戦争もおしまいだと思ってはいましたが、七月十五日日曜日早朝突如として飛行機の爆音です。ここでは戦争中も、かつて一度たりとも友軍機の飛ぶ姿を見たことがなかったので、「敵機だ」と直感して外へ飛び出して音のする南東の方向、前富良野岳右端の空に目をやると、一、二、三……八機編隊で稜線から姿を現わしたではありませんか。
敵機は真っ直ぐ富良野市街に向い、その上空に達すると一斉に急降下を繰り返し、その都度黒い煙が立ち上りました。やっぱり機関車や機関庫など鉄道施設が第一目標だったなあと思ったものです。
一斉攻撃を終った編隊は西方の空に姿を消しましたが、正午過ぎになって第二回目十二機による来襲があり、こんどは、そのうちの六機が機首を北にとり、国道に沿って飛来するではありませんか。見る間に近づいて来る敵機、いよいよ上富良野も空襲の洗礼か、私達は、慌てて町内会で作ってあった防空壕に飛び込みました。
怖いもの見たさに、そっと壕の入口から覗いてみると、無防備、無抵抗と知ってか超低空を間近かに旋回する敵機、思ったより小さくズングリ形の胴体に星のマークをつけたグラマン艦載機、制空権を取った得意顔の操従士の表情まで見えるような気がしました。
上富良野では、小学校や農業会の赤レンガ倉庫など、大きな目星しい建物の様子を窺ったのでしょうが、重要施設でないことを知ったか攻撃することもなく旭川方向に飛び去りました。三十分ほど経ってから空襲警報が発令され「富良野方面に侵入した敵機は北上中、目下美瑛の上空にあり」とラジオが報じましたが、実際その時刻頃には既に旭川の攻撃も終ったあとだったと思います。何分敵機来襲に関する情報がおくれるので、旭川でも不意の空襲で友軍機と間違えるなどの戸惑いや混乱があったそうです。
富良野には、この日午後四時過ぎ三回目、四機の来襲があったのですが、矢継早の空襲に鉄道の機能は完全に喪失したのをはじめ各所から火災も発生しました。
幸い、警防団の必死の活動によって辛うじて延焼をくい止めて、大火災の惨事を免れることが出来たのでした。
翌十六日、私は当時上川在郷軍人会長であった吉田貞次郎氏のお供をして、富良野へ見舞を兼ねて被害状況視察に自転車で出かけました。被害は富良野市街全域に亘っているということでしたが、やはり、駅周辺が集中攻撃されて、機関車をはじめ貨車に至るまで機銃弾が数多く貫いていました。
弾痕を調べて見ると、敵機は超低空を這うような姿勢で掃射したらしく、無蓋貨車の横側の部厚い鉄の支柱が真横から撃ち抜かれているのです。この時もし、このような咄嗟の場合自分だったら、石炭車「セキ」三十屯の底部に潜るであろうことを想像して(防空演習の時、木工場のうず高く積まれた丸太の下に非難したことを思い出したので)、念のために石炭車の底部を調べてみると、中央最奥部にある頑丈な横の支柱までが見事に貫通しているではありませんか。これではどこへ逃げても機銃弾を免れることが出来ないと思いました。
小学校の被害状況は、機銃掃射だけでしたが、ここでも屋根、天井、机や椅子、床板を一直線に突き抜けている機銃の偉力には驚きました。
或るお寺に立寄って見ると、本堂正面階段に爆弾が投下されていましたが、幸い大きな被害ほなかったようです。駅にあまり遠くないところの病院が爆撃されて焼失した跡も見ました。また附近の防空壕が直撃されて折角避難しながら亡くなった人もあったそうです。そして近くの無頭川の川辺の空地は直径七、八メートルの被弾による穴があり、水がいっぱい溜っているのも見かけられました。
しかし、街全体は見かけは意外に平静で、街角に三三五五警防団の姿が見られる程度でした。
それもその筈です。朝、昼、晩三回の立て続けの来襲に怯えた町民は何も仕事が手につかないばかりでなく、身の危険を感じて全町民が例外なく街から脱出していたからなのでした。
家族総がかりで家財道具や、身廻り品からふとんなどをリヤカーなどに積み、それも無い家では知り合いの農家から馬車での応援をもらって、暗い夜道をガタゴト夜を徹して親類や知人宅に頼みこんで、家族ぐるみで部落に避難した後ですから、私達が見たのは既に無人化した街でした。
若し、もうあと一回でも敵機の来襲があったら、おそらく富良野の衝は焼野原になったでありましょう。因みに後になって知ったことですが、この時の敵機は米海軍機動部隊の艦載機グラマンで、機銃弾の直径十三ミリ、長さ六十ミリ、延二十四機で七千発、ロケット弾数発、焼夷弾二十数発と推定されました。
(以下次号へ続く)

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一