郷土をさぐる会トップページ     第06号目次

続 戦犯容疑者囹圉記

故 岡崎 武男 大正七年七月五日生(昭和四十三年没)


囹圉記(九)

自 昭和二十一年三月三日
至 昭和二十一年三月十五日


三月三日
このバンワン刑務所に収容されている憲兵は、約千名居るが、この内、終戦前後に戦局の悪化によって、ビルマから泰に移動した憲兵が、約四百名居り、この内一部の患者を除き、約三百名に対し移動命令が出た。
最近、比較的平穏であった時だけに、ビルマへの転送命令は青天のヘキレキである。行先は不明だがビルマに送られることには間違いない。ともあれ、戦犯取調べはこれからである。刑務所の地獄生活もこれから幾日続くのか。
かって、日本軍が泰緬鉄道で敵の捕虜を送っていた状景を思い出し、吾々も又、この鉄道を通らねばならないかと思うと心は曇った。
夜、最後の演芸会があったが、残る者がビルマへ送られる者のために作った、別れの歌を合唱して慰めてくれた。胸にあついものが込み上げてくる。生きて祖国の土を踏むことも覚つかない。
北海道出身者の名簿を本部で調べたところ、泰憲兵のキャンプに上富良野出身の日戸長次郎氏の居る事が解った。
就寝前のわずかな時間を急いでたずねて、郷里への言伝を依頼した。
今日までは健全であったということのみである。

三月四日
午前十時、送る者、送られる者、ただ互いに無事を祈りつつ、苦楽を共にした友に見送られて獄門を出た。前途の苦難を思い、そして、大禍なく送る事の出来たこのバンワン刑務所を思えば、心ひかるる思いである。
トラックに乗り込み、バンコックの街をゆられながら、誰も語ろうとする者さえいない。誰しも、心に期せねばならないものがあった。
駅より、焼ける様な鉄の貨物車に分乗させられ、厳重なパンヂャピーの警戒兵二名が銃を執って同乗した。
ノンプラドックに来て乗り替えをしたが、そのまま夜を明かす事になった。警戒兵も交替したが、輸送途中のためか厳重を極めた。
夜に入ると貨物車の扉を密閉し、一歩も出る事が出来ない。夜間は脱走を防止するため、停車するらしい。貨車の中はすし詰めで、座ったままで、足を延ばす事も出来ない。
窮屈な貨車の中で、これから幾日送らねばならないのか。食事も水も一切が、ここに集結されている日本軍兵タンによってまかなわれた。
モールメンには、ビルマの残留憲兵が刑務所に収容されていると聞いたが、この貨車には十五日分の糧秣を積んだと言うから、行先はラングーンの様だ。
夜が更けていく貨車の中は、真暗黒で全く見当がつかないが、列車の後方から警戒兵の控室であろう、発電機のエンジンの音と一緒に、ラジオから軽快な音楽が流れてくる。戦争が終ったと言うのに、吾々の運命はこれから決せられるのか。

三月五日
貨車内に一夜は明けた。早朝、一貨車毎に用便のため下車させられた。
すでに吾々の輸送のために、鉄道線路のすぐ側に野天便所が掘られてあった。囲いも何もない細長い穴を何列も掘って、渡木の様に丸太が並べてあるだけである。
監視兵が十名ばかりこの便所を取り巻き、中には軽機関銃を構えて伏射ちの姿勢をとり、引き金に手を掛けてねらっている兵が、両方に二名いる。用便をもよおすはずがない。
日本軍兵タンの苦労によって簡単な朝食が分配されて、早々にしてノンプラドックを出発した。
進行中は、貨車内で立ち上がる事も許さない。小便する事も出来ず、中には下痢を患っている者がいたが、苦労は見て居れぬ様だ。
夕方、地名不詳の泰緬国境の山中に停車した。
今夜も、又箱詰めである。

三月六日
この泰緬鉄道は、かつて日本軍が進駐直後、ビルマ戦線への唯一のルートとして、我が鉄道隊が苦心して、わずか一年一ヵ月の短範間で完成したと言う有名な鉄道である。
かつて、内地より転属のときと、マラリヤ熱のため護送されたときの二度通過した事がある。粗製乱造で、断崖絶壁の中腹を縫い、ジャングルの森を抜けて敷設されたもので、完全とは言えない。そのためか、終戦後の現在も日本軍の手によって運転されていた。
この山中にいる鉄道隊員も、かつては鉄道建設のため、大量の英人捕虜を酷使した事でねらわれていると言う事である。湯茶の補給や食事も、すべて彼らのお世話になる。
乾期の焼けつく太陽は、貨車の鉄板を焼き、中は蒸しかえる様だが、用便以外は一歩も出る事が出来ない。

三月七日
山、又山の泰緬国境を通過し、ニーケに到着した。
終戦直前、病院で護送されたときは軍の兵タンがあったのみだが、今はもう泰人によって部落が出来ており平和である。
警戒兵は、ここでグルカ兵と交替した。今度の兵は良さそうである。
三日間の貨車詰めで、皆は心身共に疲れている。
用便も、朝一回させられるが思う様にならず、全く苦しい思いだ。今日は昼食を支給されなかった。脱走防止のためか。
タンビザヤ着、この附近には日本軍が相当集結させられている様だ。兵タンの友軍が親切にしてくれる。
これからどうなるのかと心配顔で聞かれるが、答える言葉がない。
夕暮れに、遠く赤い太陽を背に浴びながら、どこからかバラックの兵舎に帰る日本軍の一隊が見えた。

三月九日
モールメン着。今日はタンビザヤから三時間ほど走ったのみである。ここで一夜を明かす事になった。
爆撃のため跡形もなかったモールメン駅ホームも日本軍の手で大分復旧している。
囹圉記(十)
三月十日
大サルウィン河を渡河す。昨年四月二十九日ラングーンからの転進命令によって、自転車でここまで逃れ、敵の飛行機の銃撃の間隙を縫って、民船でこの河を渡った事が思い出されてくる。
はるかにモールメンヒルのパゴダが、朝の太陽に輝き、平和を物語っている様だ。モールメン刑務所にも憲兵がいると聞いたが、それにも会えず、ラングーンに送られる事確実である。
対岸のマルタバンに上陸した処、吾々の警戒は全部黒人から英人に替った。
前途の不安はつのり、いささか度肝を抜かれたが客車に乗ってから、彼等の鷹揚な態度にすっかり安心させられた。
汚い貨車に客車が連結されたが、吾々は客車に乗せられ、貨車には一般の現地人が乗った。
しばらく走って昼食の乾麺包が渡されたが、水が欠乏して困った。しばらくして停車した駅で、一人の印度人にこれを話すと、両手にツボを下げて幾度も水を運んでくれた。彼の真剣な態度には全く頭が下った。どの駅も印度人が多いが、ビルマ人が見あたらない。
ピリンに近い駅で日が暮れてから下車し、日本軍の炊事場を借りて飯ごう炊事をした。
今後は有難い事には野営である。降り落ちそうな星空をながめながら、しつとりと夜露の降りた草原に、毛布を頭から被り、横になったのはもう夜中であった。久方振りに、のびのびと寝る事が出来た。

三月十一日
朝は、又飯ごう炊事である。ここの日本軍は自動車部隊で、英軍からも大変信用を得て、重宝がられている。
飯ごう炊事のため、部隊の炊事場に行くと、そこに一人の現地人の服装をした苦力の様な男がいた。彼は憲兵伍長であった。
話しによれば、終戦と共に日本軍より離脱して山中に残存し、時折英軍の車輌などを襲撃している日本軍が、約一個大隊居るとか。
彼らは祖国に帰る事を断念して、自らの信念で生きようとしているようだ。憲兵も三名合流し、時折変装して、この自動車部隊に情報収集に来ているのであった。
彼は、モールメン憲兵隊所属の前線勤務中に取り残された者で、一般部隊と共に残留し、至極平然としている。
かつての同僚がかなり居るが、警戒兵の目が厳しく詳しい話しは出来ないが、彼らは、日本軍が早く復員して居なくなるのを待っている様だ。
英軍は、危害を恐れて常に日本軍を伴っているため、襲撃の機会がないからである。残存部隊は、ビルマ人が協力してくれるので助かるともらしていた。
名残を惜しみながら、朝食後トラックに分乗させられ、ゴム林の中を走る。
夕刻シッタンに着いた。シッタンの渡河点で又野営である。
朝の残留憲兵に刺激されたのか、脱走を企画する者があったが、英人の警戒兵に察知されてしまい、日没に入ってから警戒は急に厳重になった。吾々も又、脱走者のために気がかりな一夜であった。

三月十二日
早朝、夜営を引き払って、シッタン河を渡河した。
かつては、ここも日本軍最後の激戦地である。高台のパゴダも壊れ、到るところ弾痕痛ましく、ありし日を物語っている。
河向いに待期した列車に分乗し、夕刻ラングーンに到着した。いよいよ、来るところまで来てしまった。ただ、天命に従うまでである。
連合軍や現地人の混雑する駅頭に並ばされた吾々の姿は、かつて、大手を振って歩いた者とは思われない。胸の迫る思いである。
駅より、黙黙と歩いてラングーン市中を通り、刑務所に入った。
途中で、顔見知りの美松食堂の混血女給が、英人と車に乗って通るのに出会う。最早、昔のラングーンではないのだ。

三月十三日
ラングーン刑務所の生活始まる。ここは、かって戦争中に日本軍が、英人、その他の捕虜を収容していた刑務所である。
給水所を中心にして、煉瓦造二階建の大監房が、八棟も放射線型に円陣を形成して建てられている。
吾々は、その中の一棟に収容された。監房は階上階下で八監房に区切られ、一監房に約四十名内外収容された。
他の棟には印度国民軍や光機関と、それに一部ビルマの憲兵も収容されており、独房も多く、別棟に平家建てで並んでいる。かつての吾々の司令官も、独房に居られると聞いた。
炊事場や便所等の仕事で、落ち着くために色々な造作をして一日を送った。

三月十四日
連合軍の巡視があった。ここの刑務所長は印度人将校であるが、英人の曹長が大いに幅をきかせている。
ラングーンは英軍の本拠である。バンコックの様な出先とは異なり、すべてが厳しい様だ。
吾々も又、永い間の刑務所生活で、初めは猫の如く、後には脱兎の如き要領を会得した。
又、一面には、吾々は既に覚悟はしているが、みだらに英軍側の感情を損ねる事も慎重である様になった。

三月十五日
この刑務所は、一棟毎に鉄柵とコンクリート壁で厳重に隔離され、一組宛の警戒兵がついている。特に、他の監房との接触を厳重に警戒され、監房からは一歩も外に出る事が出来ない。
夕刻になると監房毎に施錠されたので、夜間の用便も室内で便器を使用した。バンワン刑務所入獄当初と全く同様である。
既に以前から他の監房に収容されている、ビルマ残留の憲兵と連絡して色々な情報を聞きたかったが、全く困難である。
かろうじて二階に収容された者同志で、窓と窓を利用して、警戒の目を恐れながら手旗信号を真似て連絡することが出来た。
以下 次号へ続く。

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一