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食糧今昔物語

水谷 甚四郎 大正二年十一月四日生(七十三歳)


食糧の足りない時代


消費は美徳なり、減反、転作、多用途米、これらの言葉は、いまの若い人達には何の疑問も起こさせず、紙上、マスコミに上るのは日常茶飯事のことである。
抑留時 血肉となりし アカザ草
         今敵となり 畠より抜く
このあいだ、私が或る全国誌に投稿して、首位に選ばれた短歌である。
この歌から、四十数年前のいたましい戦争を、想い起してもらいたい。
翼賛党、一億総動員、欲しがりません勝つ迄は、庭を耕して食物を作れ、贅沢は大敵だ、寺院の凡鐘仏具を大砲に献納せよ。
どうです。身震いがして卒倒しませんか。
東條首相は、率先垂範とばかり、東京中のゴミ箱を、丁寧に点検して歩いたと言われる。
我々年輩者は、事実この実践者なのである。
小さな島国で資源に乏しかった日本が、世界を相手に戦争を始めて一番困ったのは食糧で、純農村であった我が町でも、政府の至上命令として、食糧の増産を主軸にして取り組んだのは勿論であった。
食糧増産組織
当時から農村のホープであった和田松ヱ門氏を先頭に、農業報国挺身隊が組織され、一億総動員を旗印とし、禾曽有の国難を打解すべく立上がった。
不肖私も、町内は勿論遠く道内各地に派遣されて薯飯や麺米を食べながら、如何にして食糧を増産出来るか、積極的に努力もし研究もした。
そんな中にも戦局は益々重大となり、食糧増産報国隊という全国的な組織が誕生し、私もその一人として、北海道四七六名が島津退役中尉を団長に、道庁前で結団式を行い、茨城県の内原という所へ出発したのは、昭和十七年十一月の末頃であった。
そこは、未墾の大地満洲を開拓して、第二の食糧基地を建設すべき雄図を抱く青少年幹部を育成する所で、常時五千人位の精鋭が訓練に励んでいるのであった。そこに我々数万に及ぶ挺身隊をも受入れて満洲を見わたす様な広大な荒地を、軍隊式で沃野となそうというのである。
内原流営農術
ゲートル、地下足袋、鍬一丁で大きな弁当を背負わされて、軍歌を歌いながら、宿舎から三粁程離れた現地に赴いた。
一列横隊で天地返しという内原一流の耕法で、一米近くも深耕しながら前進し、日没と共に又軍歌演習をしながら、石油貯蔵庫の様ないわゆる日輪兵舎に戻り着くという重労働を、毎日繰返していた。
私達北海道班は、一駅近い河和田という所に兵舎があり、付近の生茂った松の大木を倒して畑を造成することもあった。然しこれも手作業なので、仲々骨の折れる作業であった。
日曜と祭日には作業こそ無かったが、朝食前四粁程も駆足して汗をかいた後訓話があり、「アナサヤカ、アナカシコ、イヤサカー」と独特の雄叫びを繰返し、二時間程は又武道館で銃剣道をさせられることもあった。
食べ物は甘藷飯が主で、始めは珍らしいのでこれはうまいと思って食べていたが、だんだん咽喉の通りが悪くなって来た。しかし、腹があまり空かないので、どうにか我慢することができた。
正月には若干のお酒もあったので、かくし芸などでまぎらわしていたが、もう三日目から作業が始まる。農閑期とはいえ、妻子五人も残して来ているので気がかりではあったが、前線の兵士に思いを馳せて、雪の中でも同じ支度のまま、無事任務を果たすことができた。
食糧無くても虱は増える
翌月の二月末には、各県それぞれ東京に向い、宮場前で君が代と海行かばを合唱した時は、全員の瞼に光るものが見えたのは、内原在隊中の加藤所長の訓話は勿論、東條首相や、陸海両大臣、並びに石黒農林大臣、さては内閣情報局長官等の、憂国の大熱弁に酔わされていたせいもあったかも知れない。
在隊中虱に悩まされ随分苦しんだが、札幌に着いて解散後、親戚の家で一晩休ませてもらった時、翌朝見ると、裏白な敷布の上にゴマをまいた様にぞろぞろとしていたのには驚いた。ふとんを片づけるふりをして払い落し、逃げる様に我家に帰って来た。
虱でといえば、シベリヤで捕虜になった暗も、虱と同居した。おかげで発疹チフスになり、四十度近い高熱が出て、ハバロフスクの病院に収容されたが、何日ぐらい意識不明になっていたのか未だに定かではない。
内原魂上富良野に甦る
その年昭和十八年の九月、遂に私にも騎兵として戦線に加わる様下命があった。
この先の六月、今の西小学校前の水田が人手不足で荒廃寸前だったのを、内原魂の見せ所とばかり、内原退所の十七、八名が遠近にかかわらず馬と共に馳せ参じて、耕起から植付迄を見事に仕上げた。
その現地水田が応召列車の窓から眺めることができ、程よく稔った黄金色の稲穂が風にそよぐのを見た時、家族や郷土との別れより苦労の甲斐があったとの喜びが勝り、新たな務めへ向けて、営門を潜る足に思わず力が入ったものである。
昭和二十二年の暮復員の時も、ふと気づいて汽車の窓から見ると、立派な水田となっており、また屋敷も出来ていたので、内原出も満更でもないとほくそ笑んで、帰村第一の印象に残した。
減産は報国の為?
あれからもう四十年過ぎた。あんなに苦労して耕地にした水田も、今はすっかり様子が変ってしまった。一坪でも米以外は作れなかったのに、今はどんどん宅地が出来て、食糧増産は昔の物語りとなっている。前述の様に減反に奨励金迄付けて転作を強要したり、あの時の面影はどこへやら、減産報国の隊員組織でも作らなければと皮肉にも考えさせられてならない。
農政不信は混迷するばかりで、農家の嫁不足に拍車をかけるばかりである。
尚当時、年度は別ではあるが、内原組は二十四名程いた筈で、第一回目の隊員の中には、現道議の平井 進先生も同じく労を共にした一人である。

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一