郷土をさぐる会トップページ     第06号目次

スキーの始まり

加藤 清 大正八年一月二十六日生(六十七歳)

日本にスキー術が普及された頃
文献によると一九一一年(明治四十四年)一月オーストリア大使館武官テオドール・フォン・レルヒ中佐が新潟県高田市の第十三師団でスキーを指導したと記されている。翌明治四十五年、旭川第七師団の指導に来場、北辺の守りにとってスキーは新しい機動力と、当時の軍隊は考えたのである。
旭川では旧七師団の将兵に一本杖のオーストリア式スキー術の手ほどきをしたのが最初で、三十一日間の講習で技術も上達し、スキーのとりこになった方も多かった様である。
また、それより先明治四十一年東北帝国大学農科大学(札幌農学校が明治四十年六月東北帝大農科大学となり大正七年に北海道帝大、後に北海道大学となる)の予科に、ドイツ語講師として着任したスイス人、ハンス・コラー先生は、スキー術は上手でなかったが、持参した一台のスキーで学生と共に楽しんだとの記録もある。
このようなことから北海道では、旭川地区と札幌地区のどちらの地域が早くスキーを始めたのか論議され、札幌説と旭川説とに分れていたが、スキー術普及や発達に及ぼした影響と実績に、旭川近文台に北海道スキー発祥の地と書かれた記念碑が消息を伝るように建立された。
しかし、道路改修工事に伴い、咋六十一年に建設会社の敷地に保管されることになり、今なお移設先が決まらないと聞いている。
この稿のために旭川郷土博物館へ調査に伺った際にこの事実が判明し、後に旭川市議会でも取り上げられるきっかけになったとは皮肉なことである。
レルヒ中佐の技術指導の実績を合わせ考える時、スキーの普及は旭川地区が早かったものと思考される。
北海道スキー発祥の経過
レルヒ中佐の指導された一本杖のスキーは、オーストリアのリリエンフェルー派に属していたが、同派が交流していたアールベルグ派が後に近代スキーの本流となっていく。
現在の形の二本杖スキーは一九一六年(大正五年)ノルウェーの留学から帰った遠藤吉三郎氏により普及された。
当初普及された一本杖とその後入ってきた二本杖とどちらが有利であるかと、大正五、六年頃のスキーの創成期に、旺盛な研究と論議がなされている。
しかし、試行錯誤の段階を経て、その後一本杖は間もなく消えてゆく運命になったようである。
上富良野のスキーの始まり
私が前町長海江田武信様より生前お聞きした処によると、お兄さんである故正信氏が中富良野村尋常小学校(勤務時期は大正二年七月十八日から大正五年三月三十日まで)で本科正教員として教鞭をとっておられた頃、十勝岳にスキーで登ったら山にいた方が正信氏の見慣れない姿にビックリして、天狗さんが歩いていると騒がれたということである。
又武信氏がその頃滑ったスキーは樺太式と言い、長さ四尺程で巾も広く裏にはトドの皮が張ってあったと話され、現在木材関係者が立木の調査等に使用されているスキーの様なものと思われる。
次に町誌に依ると、スキーを求めた方は東中小学校の教員の高橋 永先生で大正十一年、続いて江花小学校の荒川捨雄先生が大正十三年とあり、何れもアルパイン式の単杖ストック時代のものであったものと記録されている。
故海江田武信氏が旭川北鎮小学校に入学した頃(明治三十九年)、五台のスキーが備品として保管されてあり、春光台.へ持って行って滑ったと言われていた。当時は、旭川七師団の松原大尉が指導されていたそうである。その後北海中学(札幌)に入学すると、二十五台のスキーが備えてあり、中学校に配属されていた中沢少尉と三瓶さんというスキーの上手な方が指導され、藻岩山に行ってよく滑ったと聞かされている。(註 三瓶勝美氏は後備歩兵少佐で、現役時代レルヒ中佐からスキーの講習を受けた北海道スキー界の先駆者。大正十二年八月四十歳の若さで待命。これもスキーに熱中しすぎたと言ううわさのあった人物。)
以上の資料から判断すると上富良野村にスキーの入ったのは明治の末期か大正の初期と考えることができる。また、各分野で町史に残っている海江田家の進取新進の家風をかんがみると、上富良野のスキーの草分は故海江田正信、武信兄弟が嚆矢と推測され明治四十五年か大正元年頃と思われる。
十勝岳の爆発
大正十五年五月二十四日十勝岳の大爆発に依り一瞬のうちに大森林地帯が根元から土砂と共に押し流されたが、泥流跡地が後にスキー場として、高度の技術を持った方の絶好のスロープとして親しまれることになる。未曽有の大災害がもたらした皮肉な一面である。
昭和年代に入ると世界各国のスキーの有名人が来村され、十勝岳で滑り、これがきっかけとなり、十勝岳はスキー場として広く世に知られるようになるのである。
来村された国内外の有名人
昭和四年ノルウェースキー連盟副会長ヘルセット中尉が旭川鉄道管理局、第七師団の軍人を連れて吹上温泉に泊り十勝岳で十日間の講習会が開かれた。
この時現在錦町に住む本間庄吉氏は、役場職員時代村長の命令により見物に出かけたと話されている。
昭和四年四月世界のスキーの巨人、ハンネス・シュナイダー氏(オーストリア・サンアントスキー学校初代校長)が十勝岳で滑った。東洋のサンモリッツであると賞讃され、雪質は日本一であると折紙がつけられ、スキーのメッカとして十勝岳が全国に紹介され一躍有名になったのである。この時にも本間庄吉氏がシュナイダー氏の副食等を持って随行されており、当時スキーをはいて山を歩ける人は少なかったようである。
昭和十三年三月頃と思うが、ドイツ・ファンク博士の一行の中のワルターリムル氏がスキー映画を十勝岳で撮影され、この機会にスキー志望者に前十勝のスロープでステムクリスチャニアを指導された。
昭和七年には北海道長官佐上信一閣下が来村、十勝岳に登り吉田村長の要請を受け道営のヒュッテを建設され白銀荘と命名された。その後村では勝岳荘と命名したヒュッテを建設、この姉妹ヒュッテは、冬期間はスキー客のため、夏期間は登山者のため利用され、吹上温泉の名は更に有名になった。
昭和七年より昭和十五年頃迄毎年十二月十日より二十八日まで北大生の山岳部が吹上温泉にて合宿訓練を実施し、地元のスキー熟も益々高まってきた。
朝鮮の李王殿下も十勝岳に登り、白銀荘に宿泊してスキーを楽しまれている。
昭和十二年二月末には西本願寺法主・大谷光照猊下がスキーで登山されている。
この折、聞信寺前住職故門上浄照氏が希望されていた山頂の霊とすべき碑の揮毫を、当時村長金子浩氏を通じ懇請したところ『光顔巍々(こうげんぎぎ)』の四大文字を揮毫下された。昭和十七年七月門上浄照氏等のご尽力によって、花崗岩の丈三尺五寸表面一尺五分両背一尺の三角柱の石にこの揮毫を刻み十勝岳の頂上標高二、O七七mに建立されたのである。
上富良野スキークラブの結成
普及が進みスキーに関する理解も高まりを見せると同時に、昭和六年同志が集まりスキークラブが結成された。初代会長には時の村長吉田貞次郎氏が就任された。当時中心になって活動された方で元役場職員本間庄吉氏、長井禧武氏、商店経営の金子全一氏、伊藤勝次氏等は今尚健在である。年々増加するスキー客の為スキークラブ員の中でガイドを勤め事敏防止のためつくされた功績は誠に大きい。当時雇われのガイドとしては、元スキークラブの会長西村又一氏、旭野の道井義房氏、島津の笠原重郎氏等が中心となって活躍されていたが、現在では笠原重郎氏が七十八歳で矍鑠(かくしゃく)として残るのみで、老人クラブの中心となり活動を続けておられる。
十勝岳スキーと高松宮殿下
此の稿を終った頃、高松宮殿下の御逝去をテレビ・新聞で報道され、国民等しく驚きの念に浸ったものと存じます。謹んで哀悼の意を表し心からご冥福をお祈りいたします。
上富良野町の十勝岳と殿下とはスキーを通じ深いご縁がございます。最初のご来町は昭和二十九年で、雪上車でお出になりました。
第二回目は三笠宮ィ子様を帯同され、昭和四十一年二月二十二日新装なったカミホロ荘にお泊り戴き翌二十三日は絶好の宮様日和と申しますか、好条件の天候に恵まれ、山岳スキー、林間スキーと冬山十勝岳の良さをご満足いただいた事と存じ、誠にご同慶に堪えないところでご座居ます。温泉スロープ、林間コース等ご随行申し上げ、飾らないお人柄に接し、尊敬と親しみの念を深めております。三段山に宮様コースと名命、殿下のご威徳を偲んでおります。昭和二十九年白銀荘でお泊りになった際、浴場の洗桶等に殿下用と表示した紙をご覧になって、「コンナーテレクサイヨ」と話され、又、昭和四十一年にカミホロ荘でマージャンに同席した折、牌を積ってきて「アラ、ドゥシマショ」等ともらされた生の声は今も鮮明に記憶しています。

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一