郷土をさぐる会トップページ     第06号目次

上富良野幼児教育の始まり

門上 美義 明治四十五年三月十五日生(七十五歳)



聞信寺先代住職門上浄照は早くより幼児保育施設の必要性を痛感し、当時の上富良野村長吉田貞次郎氏と度々談合を重ねていた。その結果、吉田村長の絶大な援助を受け昭和四年五月一日聞信寺本堂を解放して上富良野村農繁期託児所楽児園を開設したのが上富良野における幼児教育の始めである。


幼児教育とともに
農繁期間の託児といえども、父母の手を離れての幼児には、まだまだ一人立ちは無理であり、必然的にお世話役をになう保母の責務はきびしく、また愛情の細やかさが求められた。
時に昭和八年三月門上信子(浄照の娘)が旧制富良野高等女学校を卒業し、直ぐ聞信寺施設の託児所楽児園保母として保育に従事した。楽児園に十七年間、引き続き町立保育所に十四年間、現在の上富良野ふたば幼稚園に二十一年間、通算五十三年間以上にわたり幼児教育につくし、現在もなお健康で幼稚園の主役をつとめている。正に、上富良野の幼児教育とともに歩んだ人生とも言えよう。
この功績をたたえて昭和十八年十月三十日上富良野村長から、また昭和二十五年四月一日京都本願寺から、保母門上信子に対しそれぞれ感謝状、表彰状および記念品が授与されている。
聖徳太子御尊像安置
つぎに特筆す可き事は皇紀二千六百年記念に児童保育社会事業に尽した業績を認められ、畏くも皇后陛下より恩賜金一封御下賜の光栄に浴したことである。門上浄照は此の御下賜金を永久に残す記念として聖徳太子の御尊像を御安置することを発願し、京都仏師に依頼して完成させたのである。
尚、御安置の御厨子は当時の上富良野村長金子 浩氏が発起人となり、愛国婦人会と国防婦人会の浄財を合わせて寄進されたもので、御厨子正面上段に、「恩賜」の文字が刻されている。
昭和十五年七月八日、此の恩賜聖徳太子御尊像御安置の御入仏式慶讃法要が盛大に修行された。当日上富良野駅前より園児、小学生、愛国婦人会、国防婦人会、稚児天童子、導師門上浄照仏教団法中が御尊像を供奉したお練りの行列は、雅楽令人の奏楽の中に市街大通りを行進した。後方には一般多数の村民が続いて聞信寺に向い参進し、本堂に到着して直ちに内陣御本尊前に御尊像が御安置され、御入仏讃法要が修行されたのである。爾来此の聖徳太子様を幼児保育の守本尊として仰ぎ、園児は皆仏の子供として毎日礼拝しているのである。
楽児園から町(村)立保育所へ
昭和二十四年九月一日には門上浄照は幼児保育施設の発展完成を願って楽児園を上富良野村に移管したが、村立になっても施設は変らず本堂と廊下を拡大して保育を続け、昭和二十六年八月一日町制施行に依り町立保育所と名称が変更された。
昭和三十二年一月三十一日門上浄照七十七歳を一期として往生の素懐を遂げるに伴い、門上美義(筆者)が後継住職に就任した。
門上美義は昭和二十二年一月七日聞信寺に入寺し門上信子と結婚したのであるが、当時東京築地本願寺法務主任の職に就いていた為、結婚後直ぐ築地本願寺に帰任した。翌昭和二十三年三月二十一日築地本願寺を退職後聞信寺に帰寺し、住職を補佐し寺の法務や保育所の事務を執っていたのである。
聞信寺町立保育所の解散
前述の如く昭和二十四年九月一日より上富良野町(村)立保育所になっていたのだが、現在の町立中央保育所の位置に町立保育所が開所するに伴い、昭和三十九年十一月二十五日間信寺施設の上富良野町立保育所を解散することが決定された。
省みれば聞信寺保育施設は、昭和四年から昭和三十九年に至る迄実に三十五年間の永い歴史がある訳で、今ここで聞信寺保育施設が終りを告げることは悲しむ可きことであり、幼児の守本尊聖徳太子の御尊像に対しても保育施設の光を簡単に消すことはできないことであった。
門上浄照の残した伝統を守るためにも聞信寺境内地に幼稚園設置をという要望が持ち上がり、役員会(総代会)を開催して相談を繰り返したが、聞信寺門徒だけにたよっても力不足、実現不可能との結論が得られ町の有志の協力を願う方向で呼びかけを拡げることになった。
幼稚園の設置へ向けて
当時スガノ農機初代社長菅野豊治氏が上富良野町立保育所父母の会会長をして居られ、昭和三十七年から聞信寺にいつも来て下さるので懇意になっていた。氏は人望あつく園児達は「おじいちゃん」と慕い、父母達も大変に信頼を寄せており、推されて父母の会長に就いておられたのである。保育所にはお孫さんが来て居た。菅野さんこそ立派な人物であり必ず力になって下さると思い私一人で菅野さん宅に訪ねましたところ開口一番私がまだ話をしないのに菅野さんの方から
―私は町立保育所が新設されて、聞信寺施設が解散されることを決定した時から、聞信寺の永い年月にわたる幼児保育の後を残さねばならぬと思って居た。必ず門上住職が相談に来ることは確かである。いつ来るのかと私は待って居たのだ―
今更乍ら菅野さんの温情に感激して御協力の快諾を得たのであります。
―わたしは年少の頃は新井牧場に居たのだが、大正六年上富良野市街地で鍛冶業をはじめてプラオの製作に熱中した。昭和十六年遠大な志を立て一旗揚げる決心で満洲に渡り、吉林省吉林市にスガノ農機移駐工場を建設した。事業も順調に進んで居たのに大東亜戦争となり、而も昭和二十年八月敗戟で日本は無条件降伏、満洲で一旗揚げる夢は消え去り、悲惨な満洲引揚者として裸一貫になって上富良野に帰って来たのであるが、負けてたまるかと事業を成し遂げる決心をしたのである。
大変苦労はしたが私の事業もお蔭様で軌道に乗り、白いプラオのスガノ農機具会社を建設できた。聞信寺は大変因縁深く、わたしの子供から孫まで保育所、日曜学校でお世話になった。
門上信子さんは昭和八年から現在まで三十年以上も永い期間幼児保育につくして下さっている。御恩報謝という気持で園舎建設に協力します―
と誠にありがたい温情のお言葉で感謝感激に堪えませんでした。菅野豊治さんが一番最初に幼稚園々舎建設の発起人に成って頂いた訳で、それからは毎日雨の日も風の日も熱心に来寺され園舎計画を語り、市街地区の有志を各戸に訪ねて超宗派超党派で聞信寺の園舎設置に賛同協力を訴えて廻り、多数の有志の方々の御協力を得るに至ったのである。
菅野さんの絶大な御協力と御苦労のお蔭に依り、園舎設置の気運も高まり明るい見通し、希望を持つことが出来たのである。
園舎建設
折よく昭和三十九年四月初旬東中専妙寺住職長尾乗数氏が来寺し、寺を解散し室蘭の方に引揚げて行くので本堂の建物を幼稚園々舎に譲渡したい旨の話があり、早速四月二十日総代世話人会を開催した。
園舎建設に向っての経過報告と共に、全員の賛同を得て専妙寺本堂建物を実地検分した結果、五月二十四日本堂建物の譲受けが正式に決定された。
その後六月十日園舎建設準備委員会、六月二十四日敷地測量、六月二十九日総代門徒町議員・建設委員会同会議、七月五日には園舎建設世話人会に於て門上幼稚園設立委員会と言う名称に切換えることを決定し、会長に菅野豊治氏が満場一致で推挙された。
菅野さんは就任挨拶で寺のことであれば当然和田松ヱ門氏が委員長に成るべき筈であるが、幼稚園建設であるから超宗派超党派の意味から、公平を期するため聞信寺門徒でない私が委員長に就任するのが良いだろうと発言されて、委員長の大役を引受けられた。
七月二十六日園舎建設発起人会を開催し寄附金募財について協議したのだが、席上菅野さんが筆頭に寄附金を出して帳簿に署名し、翌二十七日からは先頭に立って市街各家を募財に歩いて廻られ、最終的には総計二百十五人もの寄附を仰ぐことができたのである。その後八月三日園舎工事契約、八月八日専妙寺本堂建物引継ぎ完了、八月十日敷地伐採作業、八月二十三日定礎式と順調に進み、十一月十日園舎建設工事が完了し引渡しが行われ、待望の園舎は出来上がった。
ふたば幼稚園の誕生
園舎完成により幼稚園名称を門上幼稚園では個人的であることから役員会を開き、園名の件と認可手続き申請に就いて審議したが、菅野氏日く「栴檀(せんだん)は二葉より芳し」の良い言葉があるとのことから、満場一致で名称は「上富良野ふたば幼稚園」と決定された。
認可申請書を昭和三十九年十一月十三日付で作成し関係書類を整備して、十一月二十日住職門上美義、門徒総代長和田松ヱ門、町役場からは藤原総務課長の三人で上川支庁と北海道庁に出頭して認可申請書を捏出した。
昭和三十九年十一月二十五日聞信寺施設の上富良野町立保育所は解散と成ったが、園児父母は新設の町立保育所に移ることを拒否して聞信寺施設に残留することを希望したため、急きょ十二月一日聞信寺施設に臨時保育所を開設し、残留の園児を幼稚園舎に移して保育することになった。十二月八日認可申請に関して住職門上美義が再度道庁に出頭し、翌昭和四十年一月二十八日には道庁より稲葉主事が現地調査に来町、同年二月十日幼椎園認可申請書が道庁審議会を通過し、二月十八日付で宗教法人聞信寺設置の「上富良野ふたば幼稚園」は北海道知事より認可されたのである。
二月十九日、この認可を受けて報告と兼ねて役員会を開き幼稚園の完成落成式、開園式、入園式を昭和四十年四月八日釈尊御誕生の日に挙行することを決定した。
これより先、昭和三十九年十一月十日幼稚園設置に至る経過報告書を京都本願寺に提出していたのだが、第一功労者菅野豊治氏に対し感謝状を、記念品として御本山の至宝一文字の茶わんが授与になり、昭和四十年二月十九日本願寺宗会議長である比布町長弘誓寺住職宮崎乗雄師の手で私の元へ届けられたのである。
功労者菅野豊治
菅野さんが毎日来て下さるのですっかり打解けてなついてしまい、まるで私も親父の様な気持で園児と一緒になって「おじいちゃん」と呼んでいた。
―おじいちゃん、あなたの御苦労御功績に対し私はただ感謝する心だけで何の御礼も出来ませんが、京都の御本山に幼稚園建設に当り献身的につくして下さった貴方の御功績を報告いたしましたら、御本山からあなたに対して感謝状と記念品が授与されて寺に預っています。これは四月八日落成式、開園式の席上で本願寺宗会議長であり比布町長の宮崎乗雄師から貴方に授与されますから―
と伝えました処、菅野さんはニコニコとして喜び
―勿体ないありがたいことです。四月八日にいただけるのだが、現物が今手元にあるのなら内諸でちょっと見せて貰い度い―
さっそく感謝状と記念品をお見せした処
―ありがたいなあ!私の家は禅宗だが、聞信寺に毎日幼稚園の事で来るようになってから御法座の時には御参りして、これまで何度もありがたい御法話を聞かせていただいた。この御本山本願寺様から感謝状と記念品をいただくとはありがたいことです。今見せていただいただけで感激で胸が一杯になったのに、四月八日の落成式、開園式席上で授与される時にはわたしは感泣してしまう様な気がする。―
会者定離愛別離苦
ところが、四月八日の晴れの日を楽しみにして居られた菅野豊治さんが二月二十一日突然急逝してしまったのである。人生無常とは言い乍ら何と言う悲しい出来事であろうか。悲痛きわまりなく、今更乍ら生前のおもかげを偲びつつ御念仏を申すばかりで、会者定離愛別離苦の言葉が悲しく感ぜられて胸一杯になったものである。
昭和四十年三月十五日卒園式(昭和三十九年十二月一日入園の町立保育所残留園児)、昭和四十年四月八日待ちに待った上富良野ふたば幼稚園の落成式、開園式、入園式挙行の日を迎えたが菅野豊治氏のお姿を見ることが出来ず淋しく思った。しかし仏国浄土に往生された菅野さんは仏様に成られて幼稚園を見守って下されて居られる。
いよいよ式が始まり御本山本願寺から故菅野豊治氏に対する感謝状と記念品が氏の妻菅野サツ様に授与されるのを見守る時、二月十九日に御本山からの感謝状と記念品を御見せしておいて本当によかったとしみじみ感ぜられたものである。
菅野豊治氏の御写真を二代社長菅野良孝氏に持参していただき、園児が毎日御参りし行事を開催する遊戯室に掲げてある。菅野の「おじいちゃん」は仏様になられていつも毎日園児達を見守って居られるのである。
今ここに過去を振返って偲び、昭和四年五月一日聞信寺施設上富良野村農繁期託児所楽児園を開設以来、上富良野町立保育所と続き、昭和四十年四月八日聞信寺上富良野ふたば幼稚園設置に至る迄の三十六年間に及ぶ永い歩みを思い浮べ乍ら書かしていただきましたが、重要な事も書き忘れて居ると思います。悪しからず御寛恕下きいませ。
合掌

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一