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新四国八十八ヶ所の由来

岩井 清一 明治三十六年十一月一日生(八十三歳)



私は徳島県板野郡上坂町瀬部より、明治三十九年春四歳の時両親と共に渡道、東旭川に一年程居住し翌四十年上富良野村五十嵐農場に転居、同地で農業を営み昭和十一年市街地に移転現在に至っている。
私は、ひょんな契機から新四国八十八ヶ所の集積移駐に関わることになった。今のところ、この経緯を知る人も多数とは言えないながらも健在であるが、二十一世紀を迎える頃には直接に語れる人はほんの僅かになることは必定である。今のうちにと思いつき拙いながらも筆を執った。
誘致へのきっかけ
私は子供の頃に見た、沿線新四国八十八ヶ所順拝に出発する時の父の凛々しいお遍路姿が今尚瞼の裏にあり、これを偲びつついつかは沿線巡拝をしたいものと心に決めていた。
クラス会の事で宮野孫三郎氏を深山峠の寓居に訪ねたのは、昭和四十七年三月末の事である。先客として石川清一氏と高橋博男氏が来ていた。雑談に花咲くうちに、石川さんが沿線新四国八十八ヶ所衰退の現状を憂い、この深山峠に誘致して信仰の復活を図りたいとの話が出た。居合せた者も地元の人であることから耳寄りな諸に異論はない。私も自分には及びもつかないこの意義ある着想の素晴しさに敬意を表すると共に、せめてその手足となって完成への一助たらん事を心に誓った。そして今目論んでいる巡拝の際はその可能性を探って見る事にした。
調査巡拝
好天吉日をえらんで巡拝に出かけたのは五月中旬からであった。私には飽くまで暇つぶしでありピクニック気分である。それでもお札所に貼るお札も用意し納経帳や数珠を持つと神妙さが募ってくる。それに誘致の可能性を探索する一縷の目的も持っている。
所在を求めて右往左往する日もあったが、バイクなのでそれ程苦にもならない。
開創当時の施主の多くは転出して所在不明の人が多いが、世襲で嗣がれているものも五体あった。
意外に思ったのは、お地蔵様の殆どが大なり小なりのお堂に納っておられる事で、そのお堂の壁には『新四国八十八ヶ所順拝同行二人』のお札がすき間もなく貼られ、小さなお堂には重ね貼りにまでなっている。いかに当時の巡拝が多かったか窺い知られる。
それに引きかえ戦後のものが一枚もないのが淋しい気もする。
江花、新田中、倍本、俵真布、聖台、三沢、三田、いずれも市街からは山間避遠の地、礫土を踏んでの行脚の旅である。このお札の主はみな信仰一途の巡りから、敢えて難行苦行に挑んだ人々である。今更今昔の感を深くする。
周辺の人々だけで年一回又は二回の大師講を開き、読経を上げているお札所も可成りある反面、開創以来のものと思われる荒れ果てたお堂で人待ち顔のお地蔵様もある。広いが薄暗い奥の方でお一人寂しく何十年もの間有縁の衆を待ち詫びておられるお姿もあった。
耕作に支障はあるが引き取り手がないまま現在に至っているとか、宅地の中にあるので買い手がなくて困っていると言うのも数例あった。神徒だが地先のお地蔵様が可哀そうで何十年もお守をしている、と言う奇特なお婆さんもいた。
移駐へ向けて
巡拝終って石川さんに現状を悉さに説明し検討した結果、可能とするもの七十七体、交渉の結果待ちとするもの五体、不可能と思うもの六体と判断した。
一番から八十八番まで連帯のもので順拝が本旨である。これを復活するには深山峠へ移駐するのが最も適切と、石川氏は改めて決意を固くしたのである。
石川さんは移駐に当って、開創当時からの沿線八十八ケ所の中心的存在であった中富良野の弘照寺とは常に連絡を密にし、誘致の妥当性、所有権の究明等万事遺漏なきを期し、受け入れ態勢では、一般の人々の理解はもとより、地元深山峠在住の方々の協力を最も重要視していた。公的機関の支援を仰ぐ方策も考えていた。
かくて石川さんは意中に組み立てられた綿密な計画のもとに、一歩一歩着実に歩を進めたのである。
昭和四十八年
一月十六日  深山峠観光開発振興会設立準備会開催
二月七日   深山峠観光開発振興会結成 会長 高橋博男氏
       その事業の一環として深山峠新四国八十八ケ所移駐期成会
       結成  会長 石川清一氏
       この日から期成会員の奉仕作業が随時に始まる。
二月十日   移駐趣意書完稿印刷
=石川手記(48・1・16)から=
四国八十八ヶ所は四国にあるのを言う。あとは新四国八十八ヶ所と称していて今回のは、旭川から富良野までのを集めようとするのだから新四国八十八ヶ所と言う。
移駐折衝開始
調査を兼ねての巡拝の時に、各所へ打診をしておいたが、いよいよ正式に趣意への同意を得て、移駐にとりかかる時期に来ていた。
二月二十三日  移駐折衝始まる。
折衝は会長が当り、私は前の巡拝で堂守さんや世話人さんと顔見知りなので専らそのお宅への案内と紹介役である。会長の人柄と熱意にかてて加えてその知名度が潤滑油となり、滑り出しから至って順調に推移した。
東中市街の十八体、弘照寺の三体は既に移駐に決定済み。
今日は富良野寺へ行く。趣意に賛成されて三十四体決まる。
=石川手記(48・2・23)から=
宮田富良野寺住職の話では富良野沿線八十八ヶ所は、初めは下富良野、上富良野、美瑛の三村に安置する予定であったが、旭川の金峯寺に八十八番を安置して四国にちなんだのである。中富良野はその後に分村したのであると。―
二月二十七日  東中の十八体弘照専任職に依って撥遣の儀挙行。
注 撥遣(はっけん)とは〜移送から安置までいろいろな作業がある。仏様に失礼があってはならないので開眼の日まで、お地蔵様からはなれて戴く儀式で、どんな僻地へも所轄の住職を迎えて行った。
以下、移駐折衝の経過日程を示すと
三月十二日   江花、新田中、福原
三月二十五日  東中、鳥沼、旭中
三月二十八日  三田、俵真布、聖台、就実
四月二日    旭川金山肇寺
四月三日    富良野寺三十四体、東中十八体仮安置所まで搬入。
四月十日    美瑛市街と三沢
折衝は一応これで終る。結果は移駐確定七十九体、後日の返事待ち二体、不可能とするもの七体、欠番は新しく作って補充することにした。
四月十五日   東中市街の十八体安置してあったお堂の解体作業
           (深山峠の控所に建てかえるため)
安置場所の選定
この頃から参道の踏査が再三に亘り行われたが安全のため国道は横切らず、観光にも重点を置く路程を考えることとした。
慎重検討の結果、控所を起点に交通安全碑から山に入り、数百本の桜の木の下を鉄道用地に出て、その用地沿いに堀川休憩所まで、それから旧国道に行き、その道を沼崎道路に出て国道にいたる約四粁の路線に決定した。
四月二十二日  中富良野市街周辺、新田中、鹿討、上富良野市街周辺、江花
        等が搬入。
        因みに、富良野地方美瑛方面に散在して尚残存しているもの
        は、十月十日を最終に随時搬入されていく。(八十一体)
一方、会長と趣意書の趣旨に賛同して新施主を希望される人々との間で、頻りに接触が持たれ新施主の誕生が着々進行していた。
期成会発足以来嚢中無一文、会長日く「握り金玉ではどうにもならん」と。
それで、新施主から一体一万円以上のお喜捨を願い、運営資金に充てる事にした。
七月七日    霊場表示碑台石掘出し(演習場)
        尚この日見晴台に置く休憩所を原型のまま、自衛隊トレー
        ラーの応援を受けて市街から現地へ運搬(別動班)
七月十七日   控所建築始まる(黄田建設)
        現地に集められたお地蔵さんと台石を符合し番号順に並べる
        整理作業もする。
七月十八日   控所落成
七月二十七日  ブルも出動して参道の道付け作業始まる(二十八日に終了)
八月三日    御座台に施主名刻入(松友石材店)
八月五日    安置箇所設定作業
        安置箇所の整地番号順の杭打ち。
八月十七日   期成会役員会開催
        開眼式を二十七日に、山開きを三十日に決定する。
深山峠霊場開山
=石川手記(38・7・7)から=
八月三十一日(註7月7日現在の予定)と正式に決定した訳でないが、それを目途に諸作業を進めている。果してその通りにいくであろうか。今日も風車の如く動いて万事その日の為に集中している。結果はどの様になるか、天のみ知る事であろう。―
八月二十四日  地蔵の安置作業
        農業用車三台出動して予定箇所へ順次配置する。これと並
        行して本体と台石の固定作業も行われ、安置作業終る。
八月二十七日  開眼の儀執行
        弘照寺住職の手に依って一体一体いとも鄭重に行われた。
        この日から深山峠は霊場となったのである。
=石川手記から=
手記に依ると会長は三十一日の山開きに開眼を執行して、参会者全員
でこれに参列し、参道の周知をするとともに自分のお地蔵の処在を確
認しながら参道を一周し、華々しく霊場開きをするのが本意であった
と言う。しかし時間的に無理のあることを弘照寺から指摘され、前以
って本儀が行われたようである。
八月三十一日   お山開き
弘照寺住職、上富良野仏教団代表、町会議員代表、商工会代表、地域代表、施主各位参列し華々しく行われた。
これから移駐期成会は施主をも含めて奉賛会となる。事後処理として残っている霊場表示碑(控所前)、表参道碑(交通安全碑横)、中参道碑(旧国道入口)裏参道碑(終点)の設置も滞りなく終り、八月十日の秋祭りを待つのみとなったのである。
牽引者 石川清一
作業は徹頭徹尾奉仕である。お仏体は石像であり実に重たい。
参道開削は荒山であり、実に険しい。重労働でありいつも流汗淋凛の作業が続いたが、期成会全員一丸となって終始一貫和気藹々に終った。
会長の真実一路の然らしむるところもさる事ながら、お大師様が『集めて下さい。お金は私が出す』と言われた様に、『集って下さい。仕事は私がする』と、御仏に仕え奉る喜びが浩然と湧き、この結果をもたらしたのでもあろう。
今まで書いた作業日に、石川さんの顔を出さない日は一日もない。作業外の日でも深山峠は一瞬も彼の念頭からはなれた事はあるまい。疲労困憊その極に達し、自転車で横転して大怪我をした事もある。思に耽り自我を忘れての横転ではなかったのか。
=石川手記から=
深山峠の景観は実に素晴らしいが、旭川の観音台から旭川市を見下し旭岳を望む程の雄大さがない。それで深山峠を一望出来る程高い展望台を作りたいと思う。茶室も作りたい。いずれ裸で死んで行く人間である。その前に自然の心を知ってほしい。老人ホームも子供の遊び場も、市街の中央よりも、この茫々たる高原がよい。私は何とかこれらを実現したいと考え、次の一句を掲げる。
  八十八体草茫埋 才月経深先人徳
  至情相寄再興決 辛酸結実深山鎮
  和顔巍々郷土抱 春桜花満足止詣
  紅葉倶映香煙靄 和讃銀鈴四海流
この遠大な計画も彼なら成し得たであろう。
百歳までもと希っていた寿命も昭和五十一年八月三十一日七十一歳で突如として終止符を打つ。誠に惜しい限りである。あるいは深山峠に余命を切半して捧げたのではなかろうか。
氏が生前に作った歌を掲載し、御冥福を祈る。

  信仰に 健康観光 活したる
         深山峠の 八十八霊場

安心立命の地として富良野盆地住民を御加護下さる。この御霊に応える為にも、賛歌の鈴の音も香華の煙も、深山峠から絶対に消してはならないと願っている次第である。

深山峠薪四国八十八ヶ所 霊場移駐趣意書

今般深山峠(上富良野草分から美馬牛間の丘陵地帯)に明治四十四年富良野―旭川間に開創された新四国八十八ヶ所の札所を移駐し、地域住民を初め広く全道々民の健康増進を兼ねて信仰心を高め、深山峠絶讃の景観に触れる霊場たらしめんとするものであります。憶えば遠く明治時代本道開拓の雄図を抱いて各県より入殖して来た人々を力づけたのは強い宗教的信念でありました。その昼夜わかたぬ重労働と経済的窮乏を慰す為には、心に安らぎを、身体には一定期間の休養を与えることでありました。
ここに着目されたのは、当時上富良野村弘照寺開基住職岩田実乗師、下富良野村富良野寺開基住職宮田俊人師と美瑛村光明寺開基住職小倉秀淳師等であります。これ等の方々が発願者となって十方施主を募り浄財を乞い、その過程に於て発願者による三ヶ村に旭川を加えて四国にちなんだ四ヶ村とし、上富良野市街に第一番の御本尊を安置し、東中、鳥沼、富良野一帯、鹿討を初め中富良野一帯、江花、草分、美馬牛から美瑛村一帯、更に加えた旭川に第八十八番の御本尊を安置して富良野沿線新八十八ヶ所霊場として開創されました。
爾来所在地域の人々は勿論、名寄、稚内、帯広、釧路、北見、網走方面からも巡拝者が相次ぎ絶える事がありませんでした。また各札所では安置御本尊の名を附した講をつくり、供養と修養を兼ねて信仰心を高めていました。この巡拝には徒歩で約一週間を要し祖先を偲び、所願成就を念じ乍ら、三人五人と組んで巡拝し、その功徳を得ていましたが大東亜戦争以降は次第にその数は減じ、昭和三十年頃には全く巡礼の姿を見る事が出来なくなりました。
時代の流れは農業規模の拡大となり、離農、土地所有者の変更、土地改良事業等により札所も先人の安置した所より移転若しくはかえり見られぬ所も見られ、今日に至りました。数年前から深山峠地帯に住む人々の中から信仰と健康と観光を兼ねた施設誘置の声が起き、今回前記八十八ヶ所の移駐の期成会の結成を昆ました。この期成会は深山峠観光開発振興会の事業の一部を実現せんとするものでありまして、開創された先人の功を讃え、その労を偲び、御本尊を永遠にこの地帯に残さんとするものであります。
深山峠は既に稀に見る展望地として全国的に知られ、ここの国道二三七号線を通る人々は、車を留めてゆるやかな曲線の山なみを、うっとりと見入って旅の疲れを慰しています。特に遥かに望む十勝岳連峰、そして絶え間ない噴煙と蒼空の碧との調和、特に自然の神秘を代表するものであります。春は起伏の山なみに萌える草木、多種多様な農作物の作付の変化、夏は山の残雪と紫紺の装いへの衣替え、秋は燃え立つ真紅と紅葉を織り交ぜての綾錦、冬は目にしみとおる白一色への衣を被うて、大雪、夕張連峰の身辺に迫らせる緊迫感、何か知らむ襟を正す気品ある十勝岳、ここの展望こそ四季を通じて変化に富み、人間の情緒を深め、自然の雄大さと特に涯しなき宇宙をめぐる哲理とを感じせしめて、千変万化筆舌に尽し得ぬ景観であります。この地帯に八十八の御本尊を移駐して退廃しつつある人心に活々とした正気を養わしめ、明日への希望を実現せんとする意志に確信を与え、巡拝散策によって体力を造り以って信仰心を一層高めんとするものであります。
現在放置されている大半の御本尊を活かし、開創の昔にかえり、その精神を受け継いで移駐を完了し、爾後奉讃会をつくり、その会によって祭祀せんとするものでありまして、関係者の御理解並びにこの趣旨に御賛同御協力下さる方々を一人でも多く得たいと存ずる次第であります。
昭和四十八年二月七日
          深山峠観光開発振興会
          深山峠新四国八十八ヶ所霊場移駐期成会

御本尊の内訳

薬師如来  二三体  聖観世音菩薩  四体  十一面観世音 一三体
虚空蔵菩薩  三体  十手観世音  一一体  文殊菩薩    一体
阿弥陀如来  九体  昆沙門天王   一体  大日如来    六体
弥勒菩薩   一体  釈迦如来    五体  馬頭観世音   一体
地蔵菩薩   五体  大通知勝仏   一体  不動明王    四体
                           合計八十八体
深山峠霊場本尊芳名薄
深山峠に新四国八十八ヶ所の霊場を誘置しようと話し合いを敷した昭和四十七年の秋から数えて四年目で皆様の御理解と御協力で漸く完結いたしました。
御協賛を頂いた方の名を本尊さんの台石に刻んであります。何とかして明治四十四年に開創された本尊さんをと願いましたが一部やむを得ず新造いたしました。ここ深山峠の景観は稀に見る佳いとの評であります。信仰と健康と観光の聖地として一層の功徳のあらん事を祈念して止みません。
ここに四ヶ年近くかかりました新四国八十八ヶ所の霊場として完結を記念しその御芳名を記してお礼といたします。

昭和五十年九月吉日
移駐期成会一同

深山峠薪四国八十八ケ所霊場本尊に名を刻んだ方々

1上富良野町市街   山本逸太郎 45中富良野町市街   佐藤ヨシ子
2上富良野町本町五  出口 貞代 46上富良野町本町二  多田 武雄
3上富良野町本町五  杉山 九市 47上富良野町島津   山田 金吉
4上富良野町富原   清水 一郎 48上富良野町三町内  伊藤 富三
5上富良野町富原   末永はるえ 49上富良野町新日の出 岡崎 ハツ
6上富良野町本町五  出口 貞雄 50上富良野町新日の出 岡崎建設
7上富良野町富原   小川 笑子 51上富良野町常盤区  徳島  稔
8上富良野町富原   城越  登 52中富良野町本幸   藤田 武義
9上富良野町     和田松ヱ門 53上富良野町五町内  西村ナツヱ
10上富良野町新日の出 荻野 昭一 54上富良野町日の出  石川フジヱ
11上富良野町富原   村上富士雄 55上富良野町深山峠  小田島晋一
12上富良野町二ノ二  和田 利之 56上富良野町三町内  高橋  忠
13上富良野町倍本   泉  民治 57上富良野町日の出  西崎  清
14上富良野町本町二  岩井 清一 58上富良野町旭区   白峰 亀義
15上富良野町西富区  松原 長吉 59上富良野町清富   北條ナツヱ
16上富良野町東中   青島 節二 60上富良野町清富   北傑 真一
17上富良野町深山峠  中川  清 61上富良野町七町内  大柳幸久子
18上富良野町日の出  杉山 量機 62上富良野町新日の出 加藤  清
19上富良野町八町内  西村 マス 63上富良野町六町円  河合 絹子
20上富良野町四町内  多湖 すぎ 64上富良野町日の出  和田 正治
21上富良野町東区三  木内小三郎 65上富良野町日の出  寺尾  力
22上富良野町北栄区  西村 国夫 66上富良野町草分   上村  勇
23上富良野町島津六  仲川善次郎 67上富良野町江花   新屋 政三
24上富良野町四町内  金子 トヨ 68上富良野町日の出  柴田 純哉
25上富良野町四町内  金子 全一 69上富良野町江花   新屋 政一
26上富良野町西富区  西村 三郎 70上富良野町島津   松田 春雄
27上富良野町四町内  菅野 サツ 71上富良野町深山峠  今野  鏡
28上富良野町常盤区  水谷 小菊 72上富良野町深山峠  小玉  繁
29上富良野町東中   高木 信一 73上富良野町深山峠  渡辺 総治
30上富良野町島津   谷  与吉 74上富良野町深山峠  佐藤  勇
31上富良野町四町内  荻野 栄太 75上富良野町深山峠  高橋 博雄
32上富良野町里仁  長谷川八重治 76上富良野町深山峠  宮野孫三郎
33上富良野町東中   西村 又一 77上富良野町本町   寺田 秋治
34上富良野町東中   多田 良雄 78上富良野町島津   吉野 栄作
35上富良野町里仁   菅野  学 79上川郡美瑛町   実生早崎部落
36上富良野町六町内  庵本はつえ 80上富良野町草分   高士 茂雄
37中富良野町西中   松田 忠治 81上富良野町深山峠  菅野  稔
38上富良野町江花   村上 国二 82上川郡東神楽町   宮本常次郎
39中富良野町市街   新崎 沖正 84上富良野町東中   高津 須栄
40中富良野町福原   部落 一同 85上富良野町本町   西條 常雄
41上富良野町富原   黄田 義栄 86上富良野町宮町   高橋 重志
42中富良野町鹿討   部落 一同 87上富良野町日の出  松岡 隆七
43上富良野町常盤区  小玉キヌエ 88上富良野町東中   初田 タマエ
                   タケノ
44上富良野町島津   海江田武信
注 八十三番が欠番となっているのは、今なお年二回の講を開いているため、施主の強い希望により、八十八体の一連のものとしながらも、当分の間現在地(西二線化二十七号)に置くこととした。このため深山峠には、八十三番の御座所の札が建ててあるだけである。

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一