郷土をさぐる会トップページ     第06号目次

元町長 海江田武信様を偲ぶ

仲川 善次郎 明治三十四年二月五日生(八十七歳)

私は大正七年の夏上富良野で農業を営んでいた伯父の仲川源之助を頼り、三重県志摩郡阿児町国府より十七歳の時渡道し、現在の西小学校の処に居付きました。其の間、今の中富良野にも同郷から移住し営農に励んでいた農家の中に親戚に当る人もいたので、時どき農作業や作況等について報告を聞かされていましたので、何れ農業で生計を立てるには水田経営が一番と考え、適地をあちこちと探していました。
その内に現住所である島津農場の小作人が小作権利を売りに出していることを聞き、早速島津農場の事務所にお伺いいたし、管理人の海江田信哉様からその土地の事についてお話や農場入地についての心得等について詳しく承り、特に問題の土地でありましたので、前小作人が残して行かれた債務の一部金壱千八百円を私が支払うことで入地の了解を得ましたのが大正九年十二月でした。
昭和十年の春早々島津農場に移転しましたが、移転して始めて感じた事は、隣り近所は勿論組内の方方の親切なことで、本当に平和な部落であることを痛感いたしました。
島津農場もこれ迄金納であった小作料が大正十年から田は物納(米で納める)になりましたので、小作米を受け入れる倉庫の建築、更に小作米を受け入れる作業等多忙を極めるようになって来ました。加えて、当時既に島津農場では営農に必要な肥料や資材を共同購入する組合が組織されておりましたので農場に入って間もなく選ばれて、今は亡き北川清一氏、中田平一氏と共に三人が管理人海江田信哉様の鮨示を仰ぎながら、時には留萌や増毛方面迄鰊粕の買いつけに行ったことも再三ありました。
秋には一応組合員に貸しつけました肥料代金の回収から其の年度の組合の決算等何れも管理人を組合長としてお願いしておりました関係もあり、海江田さんとは特にご昵懇にしていただいておりましたので、今回思い切って武信様を偲んで取り纏めをさせて頂く事になりました。
御尊父信哉様について
武信様の御尊父信哉様は、鹿児島県鹿児島郡下伊敷村大字下伊敷から明治十八年七月、二十一歳の時野幌屯田兵として家族五名を引き連れて入殖されました。
屯田兵としての入殖でありますので、軍事上の訓練及び開墾耕稼に従事し、服務期限は現役四年、予備役三年、後備役十三年、計二十年と決っていたと言われていました。
明治二十四年に曹長に進級され、選ばれて札幌農学校(現在の北大)に兵科別科生として入学を命ぜられました。ここで農学の大意を勉強せられ翌二十五年三月少尉に任官、兵村に帰ることになりましたが、習得した技術を生かすため軽川(現在の手稲町)にあった前田農場の支配人として勤務し開拓に従事、その間の明治三十年六月二男武信様がお生まれにななったそうです。
その後真狩の農場主有島武郎氏の御尊父武様と海江田信哉様とは友達であったことから、有島様から真狩で農場経営をやりたいと思っているので調査をして呉れと頼まれ、調査に行ったのが縁となって、将来性のある処だから管理をしてもらいたいと頼まれる事になったと言われます。真狩に居付く心算で種物の用意をした直後、島津農場開拓の話が持ち上がり、島津家に於ても適任者を物色中、海江田信哉様が最適任者と言うことで是非農場の開拓に協力するよう強い要請があったそうです。一方有島家に於ても島津の殿様の言う事だから致し方ないと観念されたので、島津家農場の調査を始めたと聞かされていました。
其の後島津農場の開拓について御苦労をなされた事柄については、本誌第一号に詳しく述べてありますので省略させていただきますが、自ら開拓を体験せられ農場経営に一身を打ち込まれた尊い管理人であり、常に小作人の面倒をよく見てくれておりましたので、小作人からは慈父の如く尊敬されておりました。毎年一月には農場内の組長を始め組合理事、監事、水路委員等が事務所に招かれて、大振舞の御馳走になった事は今も尚忘れられない思い出であります。
特に健康には注意されておられた方でございましたが、昭和二年の春、急性肺炎で病床につかれ、当時名医と呼ばれた飛沢先生の御手当と御家族の方々のお手厚い看護が効を奏し、一命を取り留める事が出来ましたが、其の後農場管理職は武信様に譲られました。この時小作人一同相計って、翁の威徳を後世に伝え偲んで行くようにと、島津会館の敷地内に翁の碑を建立し、其の後毎年四月十七日を祭日と定め祭典を行っております。
海江田武信様の生い立ちから晩年迄
海江田武信さんは明治三十年六月十五日、軽川の前田農場で海江田信哉様の二男として生まれ、明治三十八年四月一日旭川市北鎮小学校に入学、引き続いて上川中学校(現在の東高)、北海中学を経て岩見沢農学校獣医科に進まれ、大正五年獣医科第七期生として卒業しました。
同年四月から日高種馬牧場に三ヶ年間勤務中、お父上が健康を害されたので止むを得ず日高種馬牧場を辞して帰郷し、元の郵便局の向いの近江という豆腐店の処で開業していた朝倉さんの後を引き受け獣医業を開業、翌年現在の公民館の処に診療所を新築し移転開業されたが、農場の開発が進むに従い、父の管理職事務の増大等により事務の代理を務めることになり診療所も閉じることになりました。
先生は青年時代から頭髪を長く肩まで伸ばしておられました。勉強家で私共も青年時代から種々御指導を受けましたが、中でも礼儀の正しい事には何時も感心致しました。
朝起きは中々苦手のようでしたが、朝は必ず神前でお詣りを済ませ、御両親の前に手をついて朝の挨拶をしておりました。簡単な事ですがこれが家庭円満の秘訣だなあと思いました。御家産は御両親とお兄様御一家と同居しておりましたので大家族でしたが、至極円満な御家庭でした。
農場管理人代理を勤める事になって間もなく、本町開拓史上最悪の大正十五年の十勝岳の大爆発に遭遇し、漸く軌道に乗りかかった農場も大きな被害を蒙り、これの復興に大変御苦労をされました。特に昭和二年御父上が病床につかれ、農場管理職を引き継がれてからは、他の地域に先んじて、客土事業を始め暗渠排水事業等土地改良事業の施行により、農地の改良に努められ、小作者もまた喜んでこの事業に協力したものでした。
農場解放の経過について
昭和十年の秋東鷹栖町の松平農場解放の話を聴き、早速私と北野豊氏が松平農場に視察に行きました。
農家から実情を聴いて戻り、其の実情を例年行われている新年宴会の席で話をしたところ、解放を望む人が多かったのですが、中には慎重組もいました。
そこで小作料として納める金額と自作農創設資金を借りて自作農家になった場合の比較表を示して説明をした処、多数の賛成を得たので早速解放促進委員七名を選び、極力解放運動を続けることを決議しました。
次いで二月十一日には委員の他各組の農事実行組合長も同行し管理人に御願いに行く運びとなりました。小作人の意とする農場解放方を島津家に懇願して戴く事をお願いした処、管理人も快く承諾をしてくれましたので、其の後村当局を始め上川支庁及び道庁に、解放慫慂方と自作農創設資金の御願いを陳情しました。
更に三月には小作人の総会を開催し、自作農創設期成会を組織、不肖私が委員長に、北野豊氏が副委員長に、委員には塚本弥作、久保茂作、高橋蔵治、金山作次郎、杉本茂樹氏が選ばれ実質的な活動が始められました。尚七名の委員の外各農事組合の組合長は委員会に列席されて意見を述べていたので、各個人別の評価耕作面積の測量等至って順調に行われました。
続いて六月島津公爵家から家扶の伊知地一清様と薩摩鉱業株式会社社長白男川譲介様が調査に来られたので、六月二十七日金子村長と共に私と時の産業主任であった本間庄吉氏が農場解放と解放に伴う種種の要望書を持って上京、島津家で陳情した結果快く解放を承諾して頂いた時は本当に嬉しいものでした。更に自作農創設事務については、管理人に余り負担のかからないように臨時雇を入れてお願いしました。
尚農場解放記事については町史にも詳しく記されておりますので省略させていただきます。
海江田先生の公職歴につきましても町史に詳しく記されておりますが、先生は昭和七年村会議員に初当選されて、以後継続五期間御苦労を願っております。
更に昭和三十年五月からは初代田中町長の後を継がれ、二代目町長として三期十二年間町政進展のため尽力されました。高潔な精神と礼儀の正しい事にはいつも敬服しておりました。お酒は呑めない方でしたが、客席や宴会の場では洒の代りにお茶を銚子に入れて、これを呑みながら最後までお相手をしておりました。
座持ちがお上手で、宴も賑やかに歌が出る頃になると、鹿児島オハラ節を所望されて、しばしば歌っておられました。原曲をお国ことばで歌われるので、珍妙さに、合わす手拍子も一段と大きくなったものです。
おごじょこらゝちょのげがおてた
     (お嬢さんもしもし手拭が落ちました)
もたんちょのげがないがおちょかい
     (持ってこない手拭がどうして落ちますか)
オハラハァー
趣味は盆栽作りと骨董品を集めることで、先生の町長時代には時々土地改良事業予算の陳情等に私も共に上京したことがあり、骨董店の前を通るのを楽しみにしているようでした。
先生は富良野川の鉱毒水処理についても大変関心を持たれ、秋田県の玉川迄地下滲透法実施現場を視察に同行した事もありました。又、日新ダムの建設については、ダム建設において一番困難な建設用地買収に、特段の御協力をいただきました事は今も忘れられません。
昭和四十二年、新庁舎の落成と開町七十周年の盛典を無事に済ませ、多年に亘る数多くの業績を残されて町政より引退され、其の後間もなく名誉町民に推薦せられ、奥様と共に息子の後継者博信様御家族のもとで楽しく余生を送っておられましたが、昭和五十七年九月九日満八十五歳を以って他界されました。
本当に悲しいお別れでした。今は只、ありし日を偲び御冥福をお祈りするのみです。

機関誌 郷土をさぐる(第6号)
1987年8月15日印刷  1987年8月20日発行
編集・発行者上富良野町郷土をさぐる会 会長 金子全一