編 集 後 記
編集委員長 北向 一博
全国各地で、異常気象が荒れ狂っている印象だが、上富良野町では暖冬少雪の傾向が続いている。しかし、過去の経験から、三月下旬から四月上旬の豪雪に対しては油断できない。気温が高い時期だけに、降った雪は湿って重く、既に始まっている野菜の育苗には大敵だ。大型農業ハウスを、簡単に押しつぶしてしまうこともある。道路や鉄道沿いの樹木に着雪すると、重さに耐えかねて枝を折ったり、根元から倒れて道を塞ぎ、交通、物流に支障を与えたことは、過去に幾度となくある。忘れかけている災害だが、やってこなければ幸いだ。
本号第四二号の出版に向けて、第一回目の編集会議を開催したのは、昨年令和六(二〇二四)年九月下旬のことだったが、この時点で掲載が決まっていたのは、前号で予告した私北向の『蝦夷地から北海道…』と前会長中村氏の『十勝岳噴火の…』の二編のみという状況だった。編集会議の中で執筆投稿依頼候補として出てきたのが、今回掲載が叶った「各地で活躍している郷土の人たちシリーズ」の岩田道顯氏と細川昇氏の二氏、また「後世に語り継ぐ事業シリーズ」として「上富良野中学校吹奏楽部」を取り上げること、他に幾名かの候補が挙げられ、各編集委員の伝手をたどって依頼をさぐることだった。
骨格が固まったのは、一二月に開催の編集委員会になってからで、和田会長が執筆を取り付けたM本幹郎氏、当会の田中正人幹事長が執筆する二編を加えた七編となった。それでは、この七編の概要を、エピソードを交えて紹介する。
まず、岩田道顯氏執筆の「上富良野で生まれた私のその後」だが、岩田氏は当会監事の高松氏と同じ東中地区の同級生とのことで、事前に打診していただいていたため、私の方からの最初の電話接触で投稿が叶った。明治製菓に就職し、中央研究所生物室で農薬と動物用医薬品の開発研究を行い、退職後も経歴を生かして大学等の講師などで活躍されている。
研究論文を執筆されておられたことからか、生い立ちから現在までを整然と執筆されており面白く、かつ、大変興味深く読めるものだが、中盤の研究内容に関する部分は、専門用語に加えて学術的なものとなっていた。誠に失礼ながら、私でも理解できるようにとの申し出に対して、快く大きく書き換えを頂いた。
家族を伴ったアメリカ留学に関するエピソードでは、日本との環境の違いが書かれていて、日本の研究者がアメリカに流出(進出)していく事情も納得できた。
次に、細川昇氏の「私の歩んだ道」だ。細川氏の実家は、私の住居と同じ島津地区で、直線距離で五〇〇メートルほどのごく近所、私の一歳上、一学年違いなのだが、部落(集落)が異なるため子供の頃から遊んだこともなく、記事の執筆依頼のあいさつが「初めまして」だった。同郷だけに共通の記憶や知人も多く、快く執筆依頼を受けていただいた。
昨年令和六(二〇二五)年三月にエア・ウォーター物流株式会社社長を退き相談役に就かれているが、まだまだ残務もあるお忙しい中での執筆にお礼申し上げたい。阪神淡路大震災と東日本大震災の双方に、救援物資の輸送部門に携われた様子も書かれている。
文中に「私の人生は、突然の辞令により、転機を迎えてきました」とあるとおり、転職、転勤の度に信頼と責任を高め、トップの席を任されるようになった生きざまを述べている。
次は、後世に語り継ぐ事業シリーズとして取り上げた「上富良野中学校吹奏楽部の歩み」だ。
編集会議の席上で、中澤編集委員から出された話題がきっかけになった。上中吹奏楽部所属だった三人の生徒が、進学した高校でも吹奏楽部に入って、出場した全国大会で最高賞の「文部科学大臣賞・最優秀グランプリ賞」を受賞したこと、この三名には二〇二四年上富良野町文化賞が授与されたというものだ。中澤委員は町の教育長を勤めていたことや、子息やお孫さんが吹奏楽部に所属したという編集委員もおられ、一挙に掲載が決定された。現在町議会議長職の中澤委員が、多忙を縫って経歴と人脈を基に取材を担当、執筆は文才と行動力の田中編集委員が、写真や図版の整理と全体構成を私北向が担当するという、編集委員トロイカ体制になった。
多くの関係者のご協力を得てまとめ上げられたことに、お礼を申し上げたい。
次は、M本幹郎氏による『魅せられた上富良野町へ「いい移住三〇年」』だ。前述したが、当会和田会長から「町へ移住してから長らく経ったので心境を書いてくれないか」とM本氏に打診したことから、投稿を頂くことになった。
バリバリの会社員だったM本氏は「三つの出逢い」をきっかけに、家族とも相談の上定年前に退職、上富良野町深山峠に営業中のログハウスのレストラン「ウッディ・ライフ」を譲り受けて、第二の人生を歩み出した。日本全国にわたる転勤生活の中で、趣味として収集した大量の「貝のコレクション」を、念願だった展示施設「貝の館」を建設して収蔵、公開している。絶滅危惧種「カワシンジュガイ」の保護活動も併せて執筆されている。
次に、私北向の『蝦夷地から北海道そして上富良野(前編)』を配置した。
記事冒頭にも記載したが、前号で執筆した「道議会議員故平井進〜北海道の発展と自治〜」の取材過程で収集した資料を基に、追加調査した結果をまとめたものだが、掘り下げるうちに人類の発生までも遡ることで、予定記事量を大幅に超えてしまった。この結果、掲載記事の総量を調整するためもあり、二分割して本号の前編になった次第だ。
江戸幕府の蝦夷統治までは進みたいと思ったが、室町時代のアイヌ文化が登場する頃で分割する結果になっている。
世界には、宗教が絡むのか民族の純血主義を唱える方々もいるが、日本民族を含めて、純血の考えが有名無実なことは、全遺伝子解析の結果が物語っているようである。
次は、当会顧問の中村有秀氏(前会長)の『「十勝岳噴火」の地域での伝承活動』だ。中村氏が、先の号で執筆された『小説「泥流地帯」の著者「三浦綾子さん」と上富良野の関わり』の取材過程で得られたものをまとめた記事だ。
今年令和七(二〇二五)年が昭和一〇〇年に当たる年だが、昭和元=大正一五(一九二六)年なので、「大正十勝岳噴火」からも数え年で一〇〇年になる。
この噴火災害の被災記憶を語れる人は、既にいなくなった。この噴火に関しては、多くの機関や研究者により様々な形で記録されているが、これらに触れられる機会は乏しい。実はこの中にも、「上富良野町図書館ふれんど」と「上富良野町郷土館」に収蔵・公開されているものもあり、記事の中で紹介されている。
最後は、田中編集委員による『かみふらのフォト回顧二〇二四(令和六)』だ。
「あとがき」にも書かれているが、前第四一号の記事として出稿して、第一校ゲラまで編集作業が進んだ『二〇二三(令和五)年スクラップかみふらの』が、ある地方新聞のスクラップ紙面を多用したため、多額の著作権料の支払いを求められたことから、急遽掲載を断念し、幻の記事になった経緯がある。
今年は著作権を意識しながら、昨年の執筆熱意を反映したのが、今回の記事になっている。将来に記録すべき事業や出来事について、写真を配置して執筆されたものだが、要所にその由来や実施背景にも触れている。
田中氏は、連載コーナー化を意識されていることから、実現へ向けた第一歩として、次号の予告記事にあえて記載した。
機関誌 郷土をさぐる(第42号)
2025年3月31日印刷 2025年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 和田昭彦