郷土をさぐる会トップページ     第42号目次

蝦夷地から北海道そして上富良野(前編)

北 向 一 博
昭和二八年五月五日生(七一歳)

  はじめに
 北海道住民の私たちは、どのように今の生活を得てきたのか。筆者の記憶(昭和二八年生れ)では、学校での明治維新頃以降の歴史授業は、どういうわけか、さらっと流されてしまって、よく学んでいない。
 現在は、「郷土学習」の単元があり、昔と比較するとはるかに詳しい教育を受ける機会がある。
 筆者の執筆で前第四一号に掲載された「道議会議員故平井進〜北海道の発展と自治〜」をまとめる際に、出てくる疑問を調べていくうちに、「そうだったのか」とガッテンする多数の情報に触れることができた。
 蝦夷地・北海道の歴史は江戸後期から始まったという個人的なイメージを持っていたが、考古学的には数万年前に遡る先人の生活が刻まれている。
 現生人類のルーツまでさかのぼり、日本人に至る流れをたどりながら、認識を深めていく。文字等の記録に残っていない先史時代の生活は、遺跡等生活痕跡の発掘に基づいた考古学により、多様な学説が積み重ねてこられたが、著しい科学技術の発展により、発掘物の生成(作成)の年代や場所までわかるようになっているという。さらに、発掘された状態の良い人骨からは、遺伝子レベルでルーツをたどれるようになっており、多様な学説は取捨選択され、定説としてまとめられてきた。
 ここでの記述は、信ぴょう性が疑われるものは除き、定説として一般化されている内容に基づいている。
 なお、人類の進化を示す段階を、従来「猿人」「原人」「旧人」「新人」の区分で説明されてきたが、現在は「新人(ホモ・サピエンス類)」が「旧人(ネアンデルタール人)等」より以前に存在していたことが発見され、人類学では呼称として使用しない方向になっているが、本稿では旧来にならって「旧人」も使用する。
 紙面の都合で、原稿を前編と後編に二分割して、本号では、日本人のルーツから北海道におけるアイヌ文化の登場と和人との関りまでを掲載する。
 一 現人類の誕生から世界への拡散

 過去に様々な人類が生息していたが、地球上に住む現人類は、「ホモ・サピエンス」の一種類のみとなっている。人種と混同されているのが、「自然的な骨格・皮膚・毛髪等の遺伝的・形質的特徴による生物学的な区分の違い」を、慣例的に「人種の違い」としているもので、以降はこの慣例に従う。
図-1 ホモ・サピエンスの世界拡散ルート

 この区分はなだらかに差異するもので、線引きは学者により異なるが、一九五〇年代以降はネグロイド(黒色人種群)、コーカソイド(白色人種群)、モンゴロイド(黄色人種群)、オーストラロイド(黒褐色人種群))の四大区分が一般的となっている。なお細区分は多様で数十に及ぶものもある。
 一五世紀から始まる大航海時代以降、人々の流れが急拡大(植民地化や人身貿易)したことによる混血が進み、現在は遺伝子レベルでの解析に基づくと、この慣例的な人種区分は意味を成さなくなっているようである。
 「ホモ・サピエンス」のルーツは、遺伝子(ミトコンドリアDNA)解析の結果、二〇〜三〇万年前のアフリカ中南部一帯に住んでいた集団にあることが判っている。同時期に形質のことなるいくつかの人類集団が生存していたというが、それらの子孫は途絶えてしまい、現人類の起源になる集団のみが繁栄の道を築いた。
 約一〇万年周期で繰り返される氷河期等気候変動への対応力、細菌やウイルス等病原体への抵抗力、食物の獲得や社会性の確立等生活能力などによって、繁殖・生存能力を向上させて、人口を増やしていったのではないだろうか。
 仮定の試算として、一〇〇年で三代の世代交代があって人口が一・五倍になるという条件下で、最初一〇〇人の人口が一億人になるのは何年後かを計算すると、四〇〇〇年で一億一〇〇〇万人を超える。ここまでの増加率はなかったと思うが、増えた人口を支えるために、新たな狩猟採取の場を求めて世界に広がざるを得なかったのが実情と思われる。
 二〇万年前に始まる集団は、五万年前頃までに増えた人口があふれ出し、「図1 ホモ・サピエンスの世界拡散ルート」のように世界中に広がり始めた。
 二 進出現人類と各地在住前人類の関係
 現人類ホモ・サピエンスは人口の増加を繰り返しながら、世界へ拡散していったが、進出先には現人類と別の様々な系統から発生した前人類が生活していた。
 著名なところでは、ヨーロッパでは旧人ネアンデルタール人系統が先住しており、ここに進出した現人類はクロマニヨン人(人骨が発掘された地名から命名)と呼ばれ、同時期に混住していた。DNA解析によるとネアンデルタール人系統とクロマニヨン人には交雑混血が生じたようだが、その後ネアンデルタール人は絶滅した。この原因は、部族等集団の社会性を獲得したクロマニヨン人等の新人類が優勢種として生き残ったという説が通説になっている。
 同様なことが、アジア全域からオセアニアに在住していた旧人デニソワ人系統との関係がある。ネアンデルタール人系とデニソワ人系統の勢力境界は中東あたりにあり、DNA解析で相互に交雑混血の経過が認められている。現人類(新人)・ネアンデルタール人系統(旧人)・デニソワ人系統(旧人)は共通の祖先をもつことが判っている。デニソワ人系統を二つの人種に分割する分類もあるが、ここでは一人種とする。
 このほかに、インドネシアのフローレス島で化石が見つかったフローレス原人がある。フローレス原人は、形質的に先の三人種とは異なる系統の祖先をもっているようだが、解析可能なDNAが見つけられていないので、進化系統が未明である。
 現人類(新人)ホモ・サピエンスが世界へ拡散していく途上では、四人類が共存していた時期があるが、結果として現存するのは私達現人類ホモ・サピエンスのみで、他は二〜三万年前頃までに、全て絶滅している。(図2)

掲載省略:図2 人類の系統と地理分布の模式図

 図1を見ると、北アメリカ大陸に現人類の足跡が発見されるのは一万五〇〇〇年前までで、多くの研究者が探索・発掘を続けているが、現在のところこれ以前の人類の在住痕跡は発見されていない。一方、中南米を経由して陸続きの南アメリカ大陸のチリ・アルゼンチン南端の最古の人類痕跡は一万二〇〇〇年前で、単純に考えれば三〇〇〇年程度で南北アメリカ大陸を縦断拡散したことになる。この拡散スピードの速さは、人類未踏の地であることから、先住者との軋轢(あつれき)がないことに加え、すでに後期旧石器時代(三万五〇〇〇〜一万二〇〇〇年前)に生きる生活能力の高さが裏付けた。生活の糧となる狩猟採取できる動植物が豊富であったため、人口の増加率が極めて高く、新天地への拡散が促進された結果ではないか。同時に、弱肉強食の人類未踏の地では、先住肉食動物(オオカミ・コヨーテ・ピューマ・アメリカライオン・クマ類等)の獲物≠ノなる場面も想像され、人類の天敵になった猛獣のテリトリーを避けて、安住の地を求める旅には拍車がかかったのではないだろうか。多種各論の学説に触れると、人類学素人の筆者の想像は広がる。
 なお、ホモ・サピエンスが世界へ拡散する途上で、各地で留まった一族はその当地で繁栄し、五〇〇〇年前頃にエジプト文明・メソポタミア文明、四五〇〇年前にインダス文明、三六〇〇年前に中国文明を築いた。
 三 日本列島の人類
 日本各地で考古発掘がなされてきたが、人類よりもはるかに古い恐竜等古生物の骨格化石の発見が相次いでいる一方、新人(ホモ・サピエンス)以前の旧人・原人の痕跡は確認されていないため、現時点では日本の人類は新人に始まるというのが定説である。
 日本の最も古い人類痕跡(石器類)は約三万八〇〇〇年前(長野県香坂山遺跡)で、この人々は中国からモンゴル地域に五万年前頃には到達し、先住の旧人デニソワ人との交雑混血を含めて住み換わった新人ホモ・サピエンスであった。この頃の新人は、まだ中期旧石器時代(八万〜三万五〇〇〇年前)にあって、船による渡海能力を持っていなかった。
 この五万〜二万年前頃は、地質年代の新生代第四期更新世(二〇〇万年〜一万年前)の中にあって、日本列島に宗谷海峡はなく、津軽海峡・対馬海峡は狭く浅い水道状態で、、北海道は北から樺太を経由、本州・四国・九州は南から朝鮮半島を経由して大陸と往来可能の期間があった。(図3参照)
 さらに図4に示すように、氷期(氷河期)の最中で、水が極地や高山に氷や雪として蓄積されたため、海水面が大きく下がったことにより、海岸沿いの陸路が発現していた。
 このような地理環境の中にあって、マンモスを追いながら大陸の海岸部をめざした新人一団は、樺太と朝鮮半島の二方向から当時の陸路をたどって、日本列島に到達した。これが日本人の祖先で、後に縄文文化の担い手になった。

掲載省略:図3 5〜2万年前の日本列島
掲載省略:図4 氷期と間氷期〜縦軸単位はm(国立研究開発法人海洋研究開発機構)

 二〇二四(令和六)年五月に「中央大学・東京大学・立正大学学園・渇ホ山灰考古学研究所・潟pレオ・ラボ」による共同調査による「現生人類(ホモ・サピエンス)の日本列島への到達・定着過程を示す遺跡の発掘調査成果」が発表され、岡山県で三万六〇〇〇〜三万四〇〇〇年前の人類遺跡(石器類)が確認されている。
 新人の日本渡来のルートとして、台湾を経由して先島諸島・沖縄諸島(沖縄県)、奄美諸島・トカラ列島(鹿児島県)に沿った海路の可能性も研究されている。
 国立科学博物館では、人類が今の台湾から舟で黒潮を越えて沖縄の島々に移り住んだと考えた。同館では二〇一九(令和元)年に丸木舟で台湾から与那国島まで渡る実験を行い、この様子はニュースやNHK特集番組でも報道され、可能性が実証された。
 この経路をたどったと仮定する人々は、五万年前頃には中国南部海岸に到達して、早期に海洋漁労に携わるようになり、船の製作技術を得たと考えられる。那覇市にある三万二〇〇〇年前、旧石器時代の遺跡のなぞの解明に道筋がついた。
 NHK番組ヒューマニエンスシリーズの「グレートジャニー」では、新人が急速に世界へ拡散できたのは、この拡散途上で大きな発明があったからではないかと紹介した。動物が生息域を拡大する過程では、長い毛をもったマンモスのように体の形態を変化させたが、新人はほとんど生物学的な構造を変えずに、あらゆる環境に適合して拡散した。これを可能にしたのが「針と糸」の発明で、トナカイなどの獣皮や草木繊維による防寒衣を作ることで、極北地帯や寒冷高地に進出できたというものだ。
 また、現人類には肌の色が異なる民族がいるが、細胞を破壊する紫外線に対する防御と、健康を維持するための日照確保への適合の結果だという。
 四 北海道の先史時代
表1 旧石器時代と新石器時代(諸説の中の一つ)

表2 北海道概略史年表
北海道教育委員会サイトの北海道史年表より
 新人が日本へ渡来した中期から後期の旧石器時代は、海水面が低下していたため陸路で移動できたが、年間平均気温が現在よりも七〜八℃も低い氷期の中で、内陸よりも温暖な海岸部が生活の場になった。寒冷に対する住居や被服などの生活能力は、すでに身に着けてはいたであろうが、暖地を求めて多くは道外へ南下したことは想像できる。
 しかし、この後二万年ほどかけて温暖化が始まり、気温は現在よりも二℃程度高くまで上昇し、この間に高度な加工や道具が多様化する新石器時代に入った。この生活文化様式を土器の使用を象徴として縄文時代と呼ぶ。
 旧石器時代の後期になり、温暖化の進行とともに海水面が著しく上昇し、樺太と大陸間に「間宮海峡(タタール海峡)」、樺太と北海道間に「宗谷海峡」、北海道と本州間に「津軽海峡」、朝鮮半島と九州間に「対馬海峡」が出現し、船による渡航技術が発達するまでの間、生活圏が分断されることによって、独自の発達を遂げることになり、本州以南で進んだ縄文時代は、北海道では約四〇〇〇年も遅れて始まった。(表1)
 学校で習った日本の歴史年代と、北海道の年代を、概略で対比させたのが、表2である。北海道に先住した人々は、本土和人との交易を行いながら、独自の生活を築いていたのが分かる。
 北海道の縄文時代に入ると、海を渡る交易が始まったようで、樺太や大陸、日本本土との装飾品や石器・土器の交流の跡が残されている。
 五 北海道が置かれた特殊事情
 ここで、北海道の先住者について知るうえで、北海道には特殊な事情があったことに焦点を当ててみる。
 先に取り上げたように、日本列島に人類が住み始めたのは三万から四万年前のことで、この人々のルーツは二〇〜三〇年前頃のアフリカ大陸中南部にあり、旧石器と火を使いこなす集団、ホモ・サピエンスにあることが判ってきた。
 この頃は、ユーラシア大陸の西側(ヨーロッパ)にはネアンデルタール人が、大陸東側(アジア)にデニソワ人が住んでいた。この先住者の地域に、人口を増やしたホモ・サピエンスが広がって優先人種になり、先住人種は二万年頃前までには絶滅した。絶滅の原因には諸説あるが、争いによるのではなく、生活能力や集団社会性の差による自然淘汰という説が有力で、この過程では、近縁人種のため交雑が進んだようだ。
 近年のDNA解析技術急進の結果、当時の三大人種はアラビア半島周辺の中東地域で相互に交雑が進んだようで、日本列島に到達した人々ホモ・サピエンスは、デニソワ人系統を多く、ネアンデルタ―ル人は少なく、二人種の系統DNAを保有しており、広くアジアに住む人々の共通の傾向という。ロシアからヨーロッパ方面のスラブ系人種はネアンデルタ―ル人の形質を多く受け継いでいる。
 先に図3で氷期(氷河期)と海水面の関係を述べたが、図5には海水面が現在より最も大きく一三〇メートル低下した二万年前の海岸線を示した。(福岡県みやこ町歴史民俗博物館の町田洋氏作図のものを参照して筆者が作成)
 この海水面が最も低下した時にも、最浅部一四〇メートルの津軽海峡は狭隘(きょうあい)化しながらも陸続きにはならず、旧石器時代以前から生物相、特に動物の生息境界になっていて、明治初年に英人・ブラキストンにより「ブラキストン線」と命名された。
 南側本州には、中国東北地方系に属するニホンザル、モグラ科、ニホンカモシカ、ヤマネ、ムササビ、ヤマドリ、アオゲラ、ニホンリス、ニホンモモンガ、ツキノワグマなど、および多くの淡水魚、北側北海道には、シベリア地方系に属するヒグマ、エゾモモンガ、クロテン、ナキウサギ、エゾヤチネズミ、エゾリス、エゾシマリス、ヤマゲラ、エゾライチョウ・ヤチウグイなどがあげられる。
図5 2万年前頃の日本列島
出典 福岡県みやこ町歴史民俗博物館
 このブラキストン線は、大陸北東から陸続きになった樺太(サハリン)を経由して北海道に渡った人々と、最深部でも一三〇メートルに満たない対馬海峡を、大陸と陸続きになった時代に渡ってきた人々の、日本列島内の南下と北上による広がりの境界線になった。
 この境界線を乗り越えたのが、船を使った漁労技術を発達させた本州側の縄文人であろうと考えられている。この頃には、樺太方面からも船による漁労技術が持ち込まれており、北海道にも本州側に約四〇〇〇年遅れて縄文時代が始まった。(表1・表2参照)
 この数千年の期間が、同じルーツを持つ縄文人の間に、文化だけではなく容姿の差異を生じさせた。本州側の縄文人は、対馬海峡部分や台湾部分から琉球諸島を経由して、移民族との相互往来による混血同化が継続しており、やがて稲作の伝来や青銅器、鉄器の伝来により、弥生時代が到来した。
 一方、北海道においては縄文時代以前から、後にアイヌ文化を築く人々の他に、「ニヴフ」(北海道の北部に暮らしていた民族)、「ウイルタ」と「ウリチ」(サハリンや北海道に住むツングース系民族)、イテリメン(カムチャツカ半島に住む民族)、アレウト(アリューシャン列島住む民族)等にルーツを持つ渡来民族が住み、勢力争いをしながらも交雑混血してきたようだ。

 六 北海道の縄文時代の生活
 この、北方系民族たちの影響が、縄文時代とこれに続く個性的な文化を生んだと思われる。
 縄文時代の人びとは、狩猟・漁労及び植物採集をしており、遺跡の貝塚からは、ヤマトシジミを主としてアサリ、マガキ、なかにはホタテ貝のように外洋性のものや、現在生息していない暖海性の貝類も含まれている。また、獣骨ではイルカ、トド、アシカ、オットセイなどの海獣が九〇%を占め、陸獣はシカ、クマ、オオカミなどであり、魚はサメ類、チョウザメ、イワシ、ウグイ、ボラ、マグロ類、また鳥類の骨も発見されている。海洋哺乳類の捕獲には、機能性の高い船が不可欠であり、当時の高い技術が想像される。
 現在二〇〇を超える貝塚が道内に存在し、人びとは、貝塚の近くに竪穴住居を掘って住んだものと思われる。野山で弓矢、ヤリなどでシカやウサギを狩る者たち、丸木舟に乗って、網やモリ、ヤスなどで魚や海獣を獲る者たちが家族、一族の担い手になり、女は浅瀬で貝を拾ったり、山野の木の実や植物の根、茎を集めて生活していたと思われる。
 貝塚はもとゴミ捨て場と思われていが、海獣・陸獣の頭骨等骨格を整然と並べて廃棄する風習、人骨が埋葬されていたことなどから、貝塚は宗教的、物送り場的性格も併せ持つものと考えられている。
 縄文時代の終わりごろには、大陸と関連のあるストーンサークルも出現する。東北地方北部にもみられるが、北海道には余市・小樽・音江・斜里などに多く残され、墓地と考えられている。
 ◆ ユネスコ世界文化遺産
    「北海道・北東北の縄文遺跡群」
7 北海道の遺跡の分布図


 縄文時代の遺跡の発達経過を「居住地の形成」→「集落の成立」→「集落施設の多様化」→「拠点集落の出現」→「共同祭祀場と墓地の進出」→「祭祀場と墓地の分離」の六段階に分け、東北、北海道に所在する段階ごとに特徴的な一九遺跡(内北海道六遺跡)を「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、世界遺産に登録することをめざして運動が続けられてきた。

掲載省略:図6 ユネスコ世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」

 この運動を通じて、世界に例のない自然と共存し精緻(せいち)で複雑な精神文化を醸成した縄文時代の貴重性が認められ、二〇二一(令和三)年七月二七日に世界遺産一覧表に記載された。
 北海道内には、このほかの縄文時代の遺跡に加え、時代の異なる様々な遺跡が存在しており、この分布状況は図7(榎本守恵著「北海道の歴史(昭和五六年発行)」を参考に作図)のとおりである。
 道央・道南、オホーツク沿岸地域にやや集中し、道北、道東にまばらな傾向がある。
 七 縄文時代後の北海道
 第五項に示すように、北海道の歴史は本州等本土と異なる経過を経てきた。
 本土で稲作と共に発達した弥生時代が北海道にないこと、北方遠地のため中央政権の覇権が及びにくかったこと、文字が伝わらず文化の承継伝搬に支障が残ったことなどから、本土人(和人)との交流が盛んになる江戸時代を迎えるまで、独自独立の文化圏が守られた。
 縄文時代後の時代ごとに、榎本守恵著「北海道の歴史」を参考にその概要を示す。

(一) 続縄文時代(表2・図7参照)

 西暦紀元前後、本州方面では、縄文文化から金属器を使用する弥生式土器文化の時代に入り、農耕もはじまった。しかし、北海道では弥生式土器はみられず、弥生式にはない縄目文を土器に残しているので、続縄文時代とよんでいる。前代以来の採集経済を継承し、農耕は伴っていなかったが、すでに縄文晩期から鉄器の流入がみられ、続縄文期には生産道具や加工道具の製作に大きな影響を与えた。しかし、日常的に使用したのは、鉄器により加工された石器や動物骨が中心であった。
 続縄文時代には、特徴のある土器を使用する地域文化が生まれ、代表的なものは、道南の恵山式土器を中心とする恵山文化と、道東と道央と多少差異はみられるが、一括して後北式土器を中心とする江別文化とに大別できる。恵山文化が本州の影響を受けている一方、江別文化はより北海道の伝統形式とみられている。そして、紀元四〜五世紀ごろ、江別文化は道南を覆い、さらに東北地方の宮城県あたりまでの広がりをみせた。しかし、八世紀になると、土師器(はじき)を伴う本州文化がふたたび北上し、江別文化圏は道内に後退した。歴史教科書に登場する阿倍比羅夫(あべのひらふ)の遠征は、この時代のことである。
 話しはそれるが、土器の型に「〇〇式」と「式」が付く場合、付かない場合の記述が混同散見される。「縄文」と「縄文式」、「弥生」と「弥生式」の例だが、ネット検索で色々調べてみたが、この使い分けは明確な違いはなく、研究者や記事執筆者の主観によるものとしか思えない。本稿においては、「ないよりもあったほうがいいかな」程度の理由で「式」を付けておく。
 余談だが、「弥生時代」「弥生式土器」の「弥生」の名称理由を調べると、最初に発見発掘されたのが三月のある日だったことから、三月の旧呼称「弥生」を付したというのである。安易すぎるのではないかと思う一方、そんなものかと納得した。


(二) 擦文(さつもん)時代(表2・図7参照)

 八世紀から一三世紀、奈良時代から平安時代を経て鎌倉初期にいたる間は、北海道は全体として、刷毛(はけ)でこすったような文様をもつ土器を作製使用する擦文時代とよぶ。前の後北式土器の江別文化が終わるころ、本州古墳文化時代の代表的土器といわれる土師器(はじき)が流入し、道南・道央の遺跡で発見されている。土師器は弥生式土器を継承したもので文様がなく、擦文土器よりは焼きがよい。擦文土器の形は、おおむね土師器をまねることからスタートしている。
 また、朝鮮の新羅(しらぎ)焼の系統である須恵器(すえき)も、少数ながら道南・道央・道北に出土する。須恵器は土師器に比べて吸水性が少なく、丈夫であったが、その高熱による焼成は当時の北海道の技術では困難であったので、出土器は本州方面からの移入品と思われる。
 なお、この頃になると、続縄文期と違って石器の使用が急速になくなり、移入鉄器が主流を占めてきた。擦文人は、鉄器製造の技術はまだ持っていなかった。
 また、竪穴式住居に住んでいたが、時代の流れとともに形状は変化してきた。縄文期は多角形の竪穴であったが、恵山文化には楕円形が多く、道東では隅丸の舌状部(突き出し部分)が特徴であった。
 擦文人の竪穴はほぼ正方形になり、中央に切った炉のほかに、壁際のカマドが特徴的になる。これらは土師器文化の直接の模倣である。カマドから壁を貫いて煙道が設けられるが、カマドには大型の甕(かめ)形土器が使用された。
 恵庭市の墳墓の副葬品に、農耕具と思われる鉄製のカマとクワが発見され、宗谷支庁管内豊富町の擦文竪穴から鉄の斧、クワやアワ・ソバ・緑豆が出土している。カマドをはじめこれらの事例から、擦文文化はある程度の農耕のうえに成立していたのではないかと思われている。
 === 古墳の謎 ===

 本州では、大和朝廷の成立期に古墳文化が栄えていた。高塚式古墳は四、五世紀を過ぎるとしだいに衰退していくが、関東・東北は時期がずれ、とくに東北北半地域には八世紀に入って古墳がつくられ、末期古墳といわれる。
 北海道では、昭和初期に、さらに遅れた擦文時代の江別や恵庭で、東北と似た古墳が発見された。一九基、一四基の群集墳のほかに単独古墳も報告されている。東北の末期古墳よりやや小型の、直径三〜七メートル、高さは三〇〜八〇センチメートル程度だ。墓穴も長方形で浅く、前時代のような楕円ではなく、伸展葬である。
 出土遺物には土師器のほか、蕨手刀(わらびてとう)・直刀(ちょくとう)・鉄斧・鉄鎌などの金具、勾玉(まがたま)などがある。北海道では稀な墓式で、恵庭では蕨手刀に和同開珎(わどうかいほう)も出土しているところから、八世紀ないし九世紀初めのものとみられている。墓式は集団・民族によってほぼ決まっていて変異は少ないため、このような古墳は北海道では異例で、むしろ本州大和朝廷との関連が考えられる。この時期に突然、石狩低地帯西側にのみにつくられたのは、当時の朝廷武将が蝦夷(えぞ≠ナはなくえみし≠ニ読む。この詳細は後述)経略を北海道まで押し進めた結果である、すなわち、そのような武将が葬られているのだと見る研究者がいる。
 これらの謎めいた古墳の包蔵地は、今となっては農地等への土地利用が進み、ほとんどが破壊されてしまったあとで.新しい手掛かりは望めない。確証が得られず謎のままとなっている。
(三) オホーツク文化(表2・図7参照)

 擦文文化の時期、道北及び道東のオホーツク海沿岸に、擦文人とは異なる外来民族によるオホーツク文化圏が樹立された。大陸北東部に源をもち、樺太から南下して住みついたものという説もある。高度の金属器を所有して漁労、狩猟を営んでいたが、擦文人に比べて特に海獣漁にたけていた。
 網走市の最寄(もよろ)貝塚が最も有名であるが、出土した遺物には、石斧(せきふ)・石鏃(せきぞく)・石槍(せきそう)などの石器、銛(もり)・鏃(やじり)・釣針・箆(へら)など海獣骨の器具、金属製の刀、蕨手刀・鉾・斧・耳環・鈴などがみられる。細かな骨の彫刻にも優れている。土器はオホーツク式とよばれる従来と異なる文様を持つ。
 また、貝塚や竪穴から出土する動物の骨は、ヒグマ・キタキツネ・エゾタヌキ・アシカ・クロテン・エゾシカ・マイルカ・クジラ類・アザラシ類・トド・シャチなどがある。
 アイヌの伝承文学・ユーカラのなかに、外来の人との戦争物語ともいわれる英雄譚(えいゆうたん)が出てくる。擦文人とオホーツク文化人の関係と見られるが、大半は擦文文化に同化して、やがてオホーツク文化は消滅した。その要因は、一般には、元(蒙古)のシベリア及びサハリン侵攻によって、オホーツク文化人の根拠地を失ったためといわれているが、詳しいことはわからない。
 八 アイヌと和人
 本州以南の人々との往来の増加や、平安時代中央政治の影響が北海道に及ぶと、現在に残る文献にも関連する記述が残されるようになるが、呼称や表記が混乱している。また、鎌倉時代から室町時代を経て江戸時代に入ると、相互の産物を流通させる交易の仕組みが、いわゆる和人に有利になるように変容される。
 ここでは、当時の時代背景を含め、この経緯を理解するために、難解な部分もあるが、榎本守恵著「北海道の歴史(昭和五六年発行)」からの引用を中心に、説明を加える。
(一) 呼称の整理

 アイヌ≠ニいう語は、アイヌ語では本来人間を意味する。他方、和人≠ニいう語は、江戸時代後期の幕府の蝦夷地直轄以来の用語といわれている。その以前の和人はシャモとよばれたが、それはアイヌ語の隣人を意味し、アイヌ以外の人を指すシサムが語源である。
 以降の記述では、便宜上、アイヌとは異なる、本州渡来の人びとを、古代・中世においても和人とよぶ。また、アイヌは古文献の慣例に従って蝦夷≠ニも表現する。蝦夷は古代ではエミシ≠ニよみ、人種を意味する言葉ではなく、「荒ぶるもの、王化に浴さない東北の人びと」をさしていた。エゾ≠ニよむようになったのは、平安時代の末頃からである。古くは渡島(わたりしま)・越度島(こしのわたりしま)とよばれた北海道は、平安末頃から蝦夷ヶ千島(えぞがちしま)・蝦夷ヶ島(えぞがしま)とよばれるようになった。考古学者の指摘によれば、多少時間のズレがあるようだが、鎌倉時代後半にアイヌ文化の形成となり、蝦夷(えぞ)=アイヌとなる。

(二) アイヌ文化の始まり

 平氏と源氏の覇権争いが終結して鎌倉幕府が開かれると、和人の蝦夷地への関心が高まり、同じ一三世紀ごろ擦文文化が消滅して、アイヌ文化が出現する。多くは竪穴ではなく平地に住居を構え、室内の中央に炉はあるが、擦文住居の特徴だったカマドが消えた。本州から移入された鉄鍋の普及によるものであろうといわれている。
 擦文文化が消滅した事情としては、いわゆる和人との関りが新たな段階に入ったことにあるといわれ、この中でも、生活様式を一変させた事情には、次のようなことが挙げられている。
 日本海海運における商品のなかに内耳(ないじ)鉄鍋があり、これを模倣したと思われる内耳土器が擦文末期にみられる。製鉄の技術をもたない擦文人は土器で製作したのだが、穴のある内耳に紐を付けて、炉の上に下げたカギに吊して煮炊きできるようになった。
 始めは土器で模した鍋であったが、本州からの鉄鍋移入が進むと共に、カマドの必要性は薄れていった。鉄器をつくれなくても、本州との交易の比重が高まると生活は変わってくる。アイヌのチセ(家)には、カマドはほぼ消失していた。
 和人が北海道に移住してきたとき、先住民族は和人に蝦夷(えぞ)とよばれたアイヌであった。それまで、狩猟・漁労の採集経済でくらしてきたアイヌだけの生活圏に、鎌倉時代以降、和人が住みつき、その数はしだいに増えていった。両者のあいだには、文化や生産技術の格差があり、やがて詐欺的行為を起因にした対立が生じ、和人のアイヌに対する圧迫、侵略が始まる。いくたびかの戦争と謀略ののち、和人のアイヌ支配の構図が強められていった。北海道の歴史を、先住民族アイヌの側からみると、それはまさしく和人によるアイヌ搾取と侵略の歴史、アイヌの衰亡史であった。
 同じ地域のなかに和人とアイヌ民族との併存、これは本州ではみられない北海道史の特色である。したがって領主権力は、和人に対する支配と、アイヌ民族に対する支配と二様の対応を必要とした。さらに、とりわけ近世江戸時代において、農業生産が行われなかったことは重要である。封建社会は農業生産のうえに成り立ち、農民を土地に縛りつけておく。江戸時代の大名領主権は、米の生産高、石高(こくだか)で表示されたが、蝦夷ヶ島松前藩は石高が示されなかった。アイヌは狩猟生活を脱していない段階にあり、移住した和人も積極的に農業をもたらしたとはいえなかった。南方系の水稲耕作を中心とする農業は、寒冷の北海道にはむりであったことも一つの要因であろう。
 それでは、松前藩の財政はどうしたのであろうか。蝦夷交易、つまりアイヌとの交易すなわち商業が、その財政の基礎をなしていた。江戸幕藩制三〇〇諸藩のなかで、松前藩はただ一つ例外的なしくみをもった藩であった。アイヌ民族の存在と農業生産を持たなかったことは、本州の社会とは違った北海道的あゆみをもたらすことになった。

(三) 政権と蝦夷統治

 平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、奥州平泉(岩手県南西部)を拠点に活躍した奥州藤原氏の清衡・基衡・秀衡の三代は、産出する砂金をもとに京文化を取り入れ、約一〇〇年にわたって繁栄を誇ったが、文治五(一一八九)年、源頼朝に攻められて滅亡した。
 奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、そのあとへ葛西・宇佐美・曽我・工藤などの御家人を配置し、奥州総奉行などを置いた。奥州(磐城(いわき)・岩代・陸前・陸中・陸奥(むつ)五か国の総称。現在の福島・宮城・岩手・青森の四県と秋田県の一部)の情勢は、こうした御家人を軸として幕府に掌握され、いわば再編成されていった。鎌倉初期に津軽地方(青森県津軽郡)が出羽(山形県と秋田県)から陸奥(福島県、宮城県、岩手県、青森県と秋田県の一部)へ移管されたので、蝦夷ヶ島も陸奥の管轄に入ることになった。津軽の藤崎(青森県藤崎町)にいた安東氏は、北条義時(鎌倉幕府第二代執権)のころ蝦夷管領(えぞかんれい)(執権の代官職)を命ぜられたという。
 安東氏は安倍氏の子孫と称した。前九年の役(平安時代後期一〇五一年から一〇六二年にかけて東北地方の陸奥国で起こった戦役)に敗れた安倍貞任(あべのさだとう)の子・高星(たかあき)は津軽にのがれ、代々藤崎に居城を構えてこの地方の土豪(特定の土地の小豪族)となり、安東(安藤とも書く)氏を名乗った。蝦夷管領を命ぜられて間もなく、岩木川河口の海が大きく湾入する十三湊(とさみなと)(青森県五所川原市の中世港湾都市)に移って勢力を伸ばした。十三湊は日本海側北端に位置する天然の良港で、蝦夷ヶ島に対しても、日本海海運の拠点若狭(わかさ)(福井県南西部)方面とを結ぶ重要な港であった。室町時代の「廻船(かいせん)式目(しきもく)(海商法規)」の代表的港・三津七湊(さんしんしちそう)の一つにあげられ、夷船(えぞぶね)・京船(きょうぶね)が群集する港であった。
 津軽・若狭・越前(えちぜん)に北条氏嫡系の所領をもつ執権・北条氏と、津軽と若狭を結ぶ安東氏の関係からか、安東氏は北条氏の嫡系近臣の蝦夷管領となった。蝦夷管領は蝦夷守護とも、津軽守護人ともいわれた。職務は「武家の濫吹(らんすい)(無能の者が才能のあるように装うこと)を鎮(しず)める(乱れや騒ぎをおさめる)」とも、「東夷(京から見た東国や蝦夷の人々)の固め」ともいわれる。

(四) 蝦夷統治の主役

 初めは津軽地方の治安警察的性格のものが、居住する蝦夷および往来する蝦夷を通じ、しだいに蝦夷ヶ島へ勢力をひろげていった。
 執権・北条氏は、海運ルートを重視して勢力の拡大を図っていたので、十三湊を拠点とする安東氏は、その関係で起用されたともみられる。
 一四世紀はじめには、安東氏の関東(かんとう)御免(ごめん)(幕府公認)の津軽船は二〇隻あり、日本海海運に乗って若狭や越前へ蝦夷地産の昆布などを運び、さらには近畿、瀬戸内海や九州まで足を伸ばして活躍していた。室町時代に入ると、安東水軍の活躍はさらに著しくなり、みずから日の本将軍≠ニ称するものもあらわれた。
 安東氏は、蝦夷ケ島から下北半島・津軽一帯にわたって勢力を広め、一族を各地に配置していたが、鎌倉末期にいわゆる津軽大乱を引き起こした。宗家と庶子家とが対立して七年におよぶ合戦になり、幕府の調停も武力介入も容易に成功しなかった。この不手際が幕府の権威を失墜させ、鎌倉幕府滅亡の要因ともなったのである。
 南北朝の戦乱(南朝と北朝の二つの朝廷が並立して政権を争った内乱)にも先の対立があらわれ、主流は南朝派に属し、その末期には南部氏に保護されていた北畠(きたばたけ)顕家(あきいえ)の子孫を、波岡(なみおか)城に迎えている。
 安東宗家は津軽下郡(しもごおり)十三湊を中心としたので、下国(しものくに)家とよばれていた。これに対して、南北朝末期に大光寺城に拠った分家を、上国(かみのくに)家と称した。
 室町時代に入ると、八戸を根拠とする南部氏がしだいに津軽に進出してきた。南部氏は甲斐(かい)の清和源氏武田氏の一族で、鎌倉初期に糠部(ぬかのぶ)に移ってきた勢力である。南部氏の攻撃により、まず上国安東氏が大光寺城・藤崎城を失って壊滅、宗家の下国安東盛李(もりすえ)も敗れて十三湊を捨て、蝦夷島へのがれるはめになった。本領は失ったが、蝦夷支配権は南部氏に奪われたわけではない。一族の安東政李(まさすえ)も敗れて南部氏に捕えられていた。
 折から南部氏の重臣で蠣崎(かきざき)村の蠣崎蔵人信純(くらんどのぶずみ)が反乱をおこし、政李は救出されて蝦夷地へ渡ったという。蠣崎は一時勢力をふるったが、ついに敗れて蝦夷地へのがれた。蠣崎蔵人信純はもとは清和源氏武田氏で、蝦夷地では武田信広(のぶひろ)と名乗ったという説もある。いずれも一五世紀前半から半ばにかけてのことである。蝦夷島にのがれた安東氏は、その後も本領回復を図ったが、ついに成功しなかった。
 秋田地方には、土崎(つちざき)湊(みなと)(秋田市北部の地区)を拠点とする安東氏の別家があり、さらに檜山(ひやま)(青森県烏帽子岳周辺の地域)に拠点をおいた下国の一族があった。槍山安東氏は嗣子が絶えたため、蝦夷島にあった安東政李を招いた。かくて政李は蝦夷島を離れたが、これで檜山安東氏は政季ともども正当に蝦夷支配権を得たのである。檜山安東氏はのちに湊安東を併合、江戸時代には秋田氏と称した。
 九 和人の移住
 藤原泰衡(やすひら)の残党は奥羽に放たれたが、鎌倉幕府の『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、建保(けんぽ)四(一二一六)年六月、東寺の凶賊や強盗・海賊の類五〇人余りを夷島(えぞがしま)に流したとある。
 続いて文暦(ぶんりゃく)二(一二三五)年、夜討・強盗の末輩を蝦夷島に流罪とした。たとえ流罪とはいえ、北海道への和人移住の記録はこれが最初である。この頃はまだ擦文時代末期であった。
 まだ伝説の域を出ないが、日蓮の高弟・日持(にちじ)が永英(えいにん)三(一二九五)年駿河(するが)を出発、奥州を経て蝦夷ヶ島に渡り、石崎(いしざき)(現函館市)に数年滞在の後、さらに進んで大陸の教化に向かったという。
 和人の数が少ないうちは、さして問題はなかったかもしれない。けれども、和人の移住が増えてくると、アイヌとのあいだに摩擦が生じてくる。まだ狩猟採集生活から脱していないアイヌに対して、すでに農耕文化に入って久しい和人の優越感があろう。アイヌのイオル(狩猟圏)も平穏ではなくなった。製鉄の技術をもった和人は、志苔(しのり)(道南十二舘の一つで現函館市)に豊富な砂鉄を利用して鍛冶(かじ)村を形成した。その技術を持たぬアイヌ、そこにも交易の必要があった。だが、たとえば、鍛冶は和人の独占であり、したがって一方的に価格を押しつけられる。アイヌが自ら生産できない米などの農耕食料でも同様であった。 そして、アイヌの数観念の弱さと、それにつけこんで数をごまかす和人の悪らつさ、アイヌの和人に対する不満・不信や憤りは、しだいにアイヌ社会全体に広がっていった。
 アイヌとの交易は、従事する和人に大きな利益をもたらした。最初は蝦夷管領の差配によって統制されていたが、幕府公認の津軽船の横行と利益を求める商人たちの行いは、蛮行ともいえるものに変わり、反発するアイヌとのいさかいが頻発するようになっていく。
 次号では、利益を生んだ交易の内容を紐解くことから始まる。 
(以降次号後編へ)
《参考資料》
 【書 籍】
・榎本守恵著「北海道の歴史(昭和五六年発行)」

 【TV放送】
・NHK「グレートジャーニー」
・NHK「日本人はるかな旅」

 【WEBサイト】
・フリー百科事典『ウィキペディア』
・Google Search Labsシステム
・国立アイヌ民族博物館
・千葉県酒々井町サイト
・北海道開発局
・北海道教育委員会
・東京大学大学院理学系研究科広報委員会
  ・沖縄科学技術大学院大学(OIST)
・JICA独立行政法人国際協力機構
・NHK NEWS WEB
・NHK for School
・国際環境経済研究所
・日本西アジア考古学会
・リクルートワークス研究所
・世界史の窓サイト
・北海道スキープロモーション協議会
・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」
・旅の基本情報たびらい
・宗教情報レルネット(RELNET)
・学習塾プラント WEB
・一般社団法人持続可能なモノづくり・人づくり支援協会

機関誌      郷土をさぐる(第42号)
2025年3月31日印刷      2025年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 和田昭彦