魅せられた上富良野町へ「いい移住三〇年」
上富良野町深山峠(西9線北34号) M 本 幹 夫
昭和一四年四月二七日生(八五歳)
一 はじめに
上富良野町のすばらしさに魅せられて、この町に住んで三〇年になります。
M本ファミリーは、ウッディ・ライフ(レストラン・ログハウスペンション・風の丘アートギャラリーピラミッドを営んでいる私M本幹郎(はまもと みきお)、家族は妻(弘子)・次男(丈弘)の三人家族です。私は、日々、上富良野町の街おこしと観光産業の発展に寄与する仕事に励んでおります。
この度、上富良野町郷土をさぐる誌に、和田会長から原稿の依頼を受けました。私は、津市と上富良野町の友好都市提携一五周年記念(提携締結一九九七年、二〇一二年に一五周年)に、三重大学の学生さん三〇〇名に、講演した言葉を思いだして、郷土をさぐる誌に記載させて頂くことにしました。当時の状況を記載している部分もありますので、現在にそぐわない部分もありますが、汲み取ってお読みください。
私と妻の大好きな言葉に「出逢い」という言葉があります。だから、私たちは人に逢うことが大好きです。その出逢いからは感動や夢やロマンや愛が生まれます。
私たちは出逢いが大好き人間であります。私は日本NCR(文末注1)東京本社に入社し、日本全国六ケ所の支店を巡り、三〇年前に、最後の勤務先が北海道の札幌でした。
掲載省略:写真 2023年空撮ウッディ・ライフ(Google Earthから)
二 北海道を最後の住処に
妻も北海道は初めてでした。その当時の家族の状況といえば、私は札幌で単身生活、長男は長崎大学の歯学部生(長崎)、次男は東京の日本大学工学部建築科の学生(東京)でした。妻が一人名古屋住まいの留守番役で、四人がそれぞれ、札幌・長崎・東京・名古屋と別所帯で生活をしておりました。
妻は月に一回、年に一二回前後の札幌への通い妻です。私の受け持ち支店が、函館・帯広・釧路・北見・旭川・留萌・稚内の七ヶ所です。各支店へは、年に各二回の出張がありました。
支店出張の日程に合わせて妻を札幌へ招き、その時は妻を同伴する形で出張し、私は業務に専念する一方、妻には各支店周辺の観光散策を勧め、日頃の不義理を埋め合わせていました。もちろん妻の旅費は自前ですが、会社からは同伴出張を認められた上での家族サービスでした。たまたま、函館支店出張の折に、北海道新聞の朝刊の案内版に渡島当別のトラピスト修道院で午後三時に、事前予約での礼拝可能とのこと、直ちにその日の予約をしました。予約の時間に訪れると、小山神父がお見えになり、神父により修道院の礼拝所に案内され、お祈りをいたしました。
帰りには神父のお招きで、礼拝堂の前に建っている美しいステンドグラスの小礼拝堂で礼服・帽子などを試着させて頂き写真を撮り、ミニ礼拝堂の中を案内して頂きました。その時の小山神父との出逢いに感謝して、毎年、お年賀、お便りなど、長いお付き合いをしていただいたことに感謝いたしておりました。
五年ほど経ったある日に、小山神父様から旭川の泥流地帯の作家三浦綾子先生に会いに行くというお電話があり、その折に我が家にお立ち寄り頂き、お食事をして頂いてから、三浦綾子記念館迄ご案内させて頂きました。
あかちゃんがおぎゃー≠ニ生を受けた時の「産声」が、あかちゃんとお母さんとの最初の「出逢い」、まさしく、そのときの感動が人を動かし、人を変えてゆくものではないでしょうか。難しい理論や、理屈じゃないと思います。
「人生とは人と人との出逢いなり」と言われておりますように、「出逢い」により私たち家族の人生において、素晴らしさを育み高められたことに感謝申し上げます。
今から二五年前、西暦二〇〇〇年ミレニアムイヤーを迎えた頃、上富良野町PR大使と愛知ふるさと大使を委嘱されていた為に、上富良野町の十勝岳・ラベンダー観光と愛知県のジブリパークをPRするために、私は妻と共に一ヶ月間、八県庁の知事と一二市の市長にお会いするために九州に出かけました。
この計画は、観光旅行を兼ねての私自らの発案で、全て自己負担でしたが、帰省後、愛知県大村知事と上富良野町向山町長に報告書としてまとめ提出させていただきました。
その旅の途中、有名な小国町黒川温泉で、旅の詩人、須永博士(文末注2)先生と偶然にお会いしました。先生はいつも「心をこめて人に逢う。優しさこめて人に逢う。愛をこめて人に逢う。出逢いはいつも大切に。自分をいつも大切に」というモットーを心がけている、という話を伺いました。まさしく、人と人との出逢いこそが一番大切な心がけではないでしょうか。
今では、この言葉を「ウッディ・ライフの座右の銘」としてお客様と接しています。
掲載省略:写真 1993年札幌支店玄関前で
掲載省略:写真 宮崎県庁へ東国原知事(当時)を訪問
三 人生を変えた三つの出逢い
私たちは、人との出逢いを第一印象で判断しがちでありますが、それゆえ、最初の出逢いこそが、最も重要なことと心がけるべきです。皆様も人生において、沢山の素晴らしい出逢いがあればあるほど、素敵な人生を得られることでしょう。私たちも、その素晴らしく、そして、素敵な出逢いとして、三つの大きな出逢いがありました。その出逢いが私たち夫婦の運命と人生を大きく変えたといっても過言ではありません。
(一) 第一の出逢い
それは勿論、「人との出逢い」です。私達が上富良野町里仁地区にお住いの田浦ご夫妻から、現在、私達が住んでいる深山峠の土地三町歩(約三ヘクタール)を購入させて頂きました。
私たち夫婦は、北海道の西は函館、北は稚内、東は根室、南は襟裳岬、隅から隅まで、五年間に三回隈なく旅をし、北の大自然の中、北の大地で生活をしている人々の情緒豊かで、思慮深い人間性にぞっこん惚れ込んでしまいました。北海道丸ごと大好き人間となり、私たちが第二の人生を歩むのに素晴らしい出逢いとなり、ここ上富良野町深山峠に居を構える決心を致しました。
皆様にとっても、今まで歩まれた自らの人生の中で、いろんな方と多くの素敵な、素晴らしい出逢いがあったことでしょう。私たちにとっても、当然ながら、多くの出逢いがありましたが、須永博士先生にお会いし「人生とは人と人との出逢いなり」とお話を聞いてからは、如何なる出逢いにおいても、積極的な向き合いにチャレンジ致しました。人からのお話を聞いて、それが自分の血となり、肉となりました。本当に、出逢いこそが素晴らしく私たちの運命をかえました。須永先生は帰りには「人生とは……」の書を額に入れてプレゼントして頂きました。今でも、ウッディ・ライフの店内に飾ってあります。
(二) 第二の出逢い
それは、「自然が多く残っている北の大地とログハウス」です。
人は自然の中で生まれ、育てられ、自然によって、人としての優しさを備えますが、そこには自然との共存・共生が必要と思っています。この素晴らしい神様からの贈り物、この財産を預かっている私たちはそのことに誇りを持って、この自然を後世に大事に引き継がなければなりません。
自然は人の心を癒してくれます。私たちが雑木林の中を歩くと森が発散するフィトンチッドを胸一杯に吸い込み、木漏れ日の中を歩けば、疲れた体に活力がよみがえり、なぜか、身体をリフレッシュし、心を優しく、楽しくしてくれます。
私たちは貪欲な夫婦と思います。私たちは通じて転勤人生、赴任地はいつも第二の故郷と考え、五感の肌で感じるもの全て、私たちの感性の対象物です。その中で、心に残る思い出の出逢い、それは運命的な出逢いとなった深山峠のログハウス、ウッディ・ライフです。
掲載省略:写真 1983年伊東剛が開業当時のウッディ・ライフ、当時は周辺に何もなかった。
文人、大町桂月(文末注3)先生が大雪山に登山し、その紀行文の中で、「山の高さを知るならば富士の山、山の雄大さを知るならば大雪の山々、山の美しさを知るならば利尻富士、山の尊厳さを知るならば十勝岳」と書かれております。
私たちはその十勝岳の尊厳と、雄大な姿とそのすそ野に広がる広大な大パノラマの景観を満喫し、自然に心が癒されました。この深山峠こそ、神から授かった宝物と感じました。
まさに、これからの観光には、心に残る思い出の地、自然に心の癒される地が必要ではないかと思います。私たちが出逢った運命に感謝申し上げます。
月日の流れは早いもので、深山峠にコテージレストラン・ペンション・風の丘 アート ステージ ピラミッドをオープンして、足掛け三〇年になろうとしています。その当時、富良野では、倉本聡(文末注4)先生の「北の国から」、美瑛では前田真三(文末注5)先生の「拓真館」、上富良野では後藤純男(文末注6)先生の「美術館」、中富良野では富田忠雄(文末注7)氏のラベンダーで有名な「ファーム富田」が日本中、いや、世界中に情報を発信していました。
そのお陰で観光客は年々増加していますが、私たちはこのまま、安穏(あんのん)としていて良いはずがありません。北海道の基幹産業である農業の冷え込みから、観光産業のウエイトが重要な一躍を担う今日、私たちが必要なことは何であるか、私たちは真剣に考えてみる必要があるのではないでしょうか。
(三) 第三の出逢い
それは、「海の宝石といわれている貝殻たち」との出逢いです。
話は今からさかのぼること、約五〇年前、NCRに勤務していたとき、私は丁度、海洋博が開催されている沖縄県の那覇に転勤となりました。二人の息子は小学校の一年生と二年生、南風原(はえばる)小学校の校庭は冬だというのに、ハイビスカスやブーゲンビリア等常夏の花が咲き誇っていました。
夏休みの宿題のため、家族で珊瑚礁に出向き、貝や魚や海草やサンゴ礁で海からの贈り物を採集しに行きました。海岸から沖の珊瑚礁まで、子供たちにはライフジャケットを着せ、更に、浮き輪を付けて、ゴムボートに載せて、それを引きながら珊瑚礁に向かって泳いでいきました。
その時です、突然長男が「お母さん、お母さん、この海の下に竜宮城があるの!」、子供たちは目を丸くして、海の中を覗き見て、ここに竜宮城があると思ったのでしょう。コバルトブルーの紺碧の海、太陽はさんさんと輝き、海の中には、色とりどりの珊瑚や美しい貝、海の草花、その中を熱帯魚が乱舞しているのを見れば、まさしく、竜宮城と思ったのでしょう。常夏のパラダイス、沖縄の海は子供たちにとっては素晴らしい思い出いっぱいの日になりました。
夏休みの作品は、子供たちが悪戦苦闘の末作った「美しい貝殻を敷き詰めた竜宮城」、なかなかの出来栄えでした。南風原小学校での苦労の末の作品が優秀賞となり、子供たちは有頂天、その喜びは計り知れません。今でもウッディ・ライフ美術館、風の丘アートギャラリーピラミットの一室に飾ってあります。是非、皆様方も深山峠の竜宮城を見に来てください。このことがきっかけになって、その後の人生を家族で貝を集めることになりました。大正一四年に発表された「月下の一群」(文末注8)にジャン・コクト仏詩人の作品の一言「私の耳は貝のから、海の響きをなつかしむ」が掲載されています。
掲載省略:写真 妻とともに
この大きな三つの出逢いに加えて、後に記す伊東剛氏との出逢いがあり、ここ上富良野の深山峠に居を構えました。この深山峠は、私と妻が最後に選んだ心のキャンバスの地であり、こよなく愛する恋人でもあります。
この峠から眺められる景観は、十勝岳・旭岳の大雪連峰の山並み、一八〇度の眺望、その間に何と二千メートル級の六つの連山が聳え立つ眺望と、その山麓から繋がるなだらかな丘陵地は、陽光溢れる自然と人間の繋がりの見られる造形美に包まれた自然の丘と称えられています。
隣町美瑛町が「丘のまち」のキャッチフレーズでPRしていますが、この景観は美瑛から富良野までの丘陵に広がっており、深山峠からの眺めも絶景です。その牧歌的風景は、パッチワークの丘、彩りの丘とも称えられ、ヨーロッパの国々に勝るとも劣りません。
四 M本ファミリーが思うこと
当時のことを思うと、経済界、政界においては、「スピード」が「キーワード」の一つとされ、経営者は国際競争の中で淘汰されないためにTPPの加盟(日本は二〇一三年に加盟)にスピードと叫べば、政治家は東日本大震災(二〇一一年三月発生)の復興こそがスピードアップと考えていました。その反面、私たちの暮らしの生き方の面では、原発に頼ることでなく、心のゆとり「スローとかエコ」という言葉が「キーワード」になるのではないでしょうか。
皆様も、よく耳にする言葉に「スローフード」という言葉があります。
競争・成長・効率・便利・開発・大量・消費・大量廃棄、これらの言葉は全てスピードが重要ポイントになる「二十一世紀」を表わす代表的な言葉ですが、その先に「豊かで幸せな世界」になったでしょうか。
じっくりと考えてみる必要があります。人類の生きるスピードは、もはや地球が許容できるスピードを追い越してしまいました。
その一例が地球温暖化の危機、我々の出す二酸化炭素の排出量が、自然の処理能力を上回った結果です。地球の温暖化がこのまま進むと、日本の砂浜は大半が消えてしまうといわれております。でも、消えるのは砂浜だけではありません。地球の平均気温の上昇の予測は、今世紀中に約一・四〜五・八℃。洪水や干ばつなどの異常気象、多くの動植物の絶滅、様々な病気の蔓延など環境や生態系に大きな変化を引き起こそうとしています。その原因は温室効果をもたらす二酸化炭素。暮らしの見直し、無駄なヱネルギー、原子力の使用をやめることが今求められています。私たちの未来まで壊さないように。
私たち家族は、日々の生活の中だけでなく、お客様に対して、「5つのスロー」を心がけています。では「5つのスロー」とは一体全体何でしょうか。
掲載省略:写真 ウッディ・ライフ来客との談笑
@「スローアグリカルチャー」
私たちは、近隣の農家の方々が安全で・安心な農法で作られた農作物を、私たちプロが一〇〇%以上の付加価値をつけて、お客様に提供する。六次産業への進む道です。
A「スローフード」
現在、よく耳にする言葉で、食文化を守る運動に代表されています。私たちが提供する料理をゆっくり食べて頂く、おもてなしの心なくして「スローフード」の成功はありません。
B「スローライフ」
時間どろぼうから時間を取り除き、自然の地に心を癒し、心のゆとりを持って過ごす場所を提供します。
C「スローマネー」
地球を瞬時に駆け巡るマネーでなく、地域を循環する地域通貨が必要ではないでしょうか。現在よく耳にする「エコーマネー」ともいわれています。私達の考えるものは、流通・交換を目指すものではなく、地域の快適な生活を維持するための共働費用の流れです。
D「スローエネルギー」
現在では「エコ・エネルギー」「再生可能エネルギー」ともいわれています。この新しいエコエネルギーには自然エネルギーとリサイクルエネルギーがあります。地球温暖化の危機を防ぐ、二酸化炭素の排出量の削減、自然環境を傷つけないやさしいヱネルギーです。
二〇一一(平成二三)年三月一一日に発生した東日本大震災による福島第一原発事故を教訓に、原発に依存しない社会の実現をめざすことは、温暖化対策との並存の課題点があります。しかし、無駄なヱネルギーを使わない、地球にやさしい太陽熱・地熱・風力・バイオマスによる発電、家庭や事業所で今まで捨てていた「ごみや廃棄物」を再資源として「リサイクルエネルギー」を引き出し利用するなど、新たな技術開発と生活の見直しが必要と思います。
五 新たな挑戦への人生ビジョン
三〇年前、札幌に転勤となった五年間は、最後のサラリーマン生活になりました。その時に、第二の人生ビジョンをもちながらも、その後の展開を、自分も妻も全く考えたことはありませんでした。五年間の北海道生活で、様々な場所で多くの人に巡り合いましたが、深山峠で運命を変える一人に出逢いました。それは、深山峠の景観に惚れ込んで、珍しいログハウスのレストラン・コテージ、ピラミッド型の建物の中に写真を展示するギャラリー(写真館)を建て経営していた写真家、伊東剛(文末注9)氏でした。
後に知るのですが、倉本聰先生が富良野市布礼別川沿いに富良野塾を立上げられた時に、母屋となったログハウスは、カナダの有名なログビルダー、ダンミルの建築様式で、深山峠のウディ・ライフで開催された講習会で富良野塾の塾生が勉強されたものとのことです。
私たちと伊東氏は何の面識もありません。ただ、昼食を食べる為、偶然に立ち寄ったレストラン・ウッディ・ライフ、昼食後、写真館のギャラリーで、上富良野・美瑛の素晴らしい風景写真を見ていたら、館長の伊東氏から、突然話し掛けられたのです。
名刺を頂き、私達夫婦の身の上を話すうち、ログハウス経営話題から一転して事業譲渡の申し出になり、その後とんとん拍子で話が進む運命的な出逢いとなりました。先に記した三つの出逢いに加えた、第四の出逢いでした。
後日話がまとまり、伊東氏が所有しているウッディ・ライフを、居抜(いぬ)きの条件で購入することができました。ピラミッド写真館部分は後々の購入です。
しかし、この運命的な出逢いだけで、私たちは衝動的に事業譲渡を受けたのではありませんでした。
丁度、私が五〇才になった時、私と妻は一〇年後のサラリーマン生活を考え、第二の人生のビジョンとして六〇才の再出発について、語り明かしました。我々二人の第二の出発、それは、夢の話に終わるか、正に、ロマンとして語り明かすにすぎないか、途方もないビジョンでもありました。
私たち夫婦が夢描いたビジョンとは一体何であったでしょう。まとめると、次の六項目で、この実現に少しでも近づける場所が見つかり、そこで仕事ができればと、絶えず繰り返し、繰り返し、友人・知人に話したりし、願望してきました。たまたま出逢った伊東氏にも話したのは当然です。
掲載省略:写真 現在のウッディライフ。左の貝の館は1997年建設
@ 貝殻が繋ぐ家族
それは、海から遠く離れた地に、海からの贈り物、海の宝石といわれる貝殻を、海に行くことの少ない子供たちに見せたり、又、子供たちと貝の話しができたり、勉強できる場所を作ること。三五年前から、私たち家族で全国の磯や浜辺に出向き、「磯こじき」として、家族で拾い集めた夢とロマンのある貝殻は数千点、いや数万点にも上っていて、これを展示できる博物館を作ることが夢でありました。
素晴らしい海からの贈り物の貝を無駄にしないように、貝が取り持つ夫婦と子供たちとの絆を大切にしたい一心で収集しました。
A 自然の中で暮らす夢
都会から離れて、自然が沢山残っている場所、それは、森の中でもよし、雑木林、丘でもよし、何しろ、自然が残り、空気とお水が美味しい所に住むことでした。
B 生きがいのある再出発
第二の人生六〇才は未だ未だ若い、「六〇、七〇洟垂れ小僧」というではありませんか。何時までも、青春でありたいならば、何か仕事を持つべきだ。仕事を持つことが生きがいとなり、楽しく生活ができることだと思います。
福沢諭吉先生の「心訓」の言葉の中の一つにも、「世の中で一番楽しく立派なことは生涯を貫く仕事をもつこと」と教えてくれています。
C 宿泊所の開設
レストランなどでも、沢山の出逢いがありますが、普通は一見のお客様であり、ただの出逢いだけでは残念です。そこで宿泊場所を作り、夕食・朝食を宿泊者と共に食事をする。アットホームな宿を作ることでした。
D 自身に合った働き方
五七才まで、企業戦士として、第一線で、働き続けましたから、第二のビジョンで、只、我武者羅に働くのではなく、自分自身の目標・目的に合った仕事をする。働くことに生きがいを持って、世の中のために、町のために、何らかのお役になる仕事であれば、それは素晴しい仕事だと思います。そんな仕事をするのが私たちの夢でありました。
E 温泉のある生活
資金の目処は全くないながらも、温泉を掘って浴場施設を持つことは、宝くじに幸運を求める実情で、現実となる日はいつかという夢のレベルです。取り敢えず、自宅の横に温泉を掘りあてる土地(地質調査もしないままの可能性未知)を用意し、「夢は完結しないのがいい」などと思い続けています。
六 東日本大震災被災者への支援
M本ファミリーの「スローマネー」の考えは、東日本大震災の被災地支援につながりました。
二〇一一(平成二三)年六月中旬、陸前高田市で写真館を経営していた写真家佐々木宏氏が、旅行の途中でウッディ・ライフに立ち寄り、自らの被災経験や現地の状況を語り、これを聞いて仮設住宅に住む人たちに地元野菜を届けることを思い立ちました。
避難生活をする皆様に、地元産のジャガイモ・玉ねぎ各五トンを、八年間(当初一〇年間を予定したが仮設住宅が撤去れたため八年間で終了)、石巻と陸前高田二市の仮設住宅の皆様に届けました。
送った野菜類は、賛同頂いた近隣農家の方から安価に購入したもので、コンテナ二台に詰め込んで、富良野通運から災害支援物資の特別運賃の適用を受けて送り続けました。
昨二〇二五(令和六)年、石巻市の齋藤正美市長・陸前高田市の佐々木拓市長より長年の支援感謝するとの感謝状を頂きました。
掲載省略:写真 上富良野町内農家の南川知広氏、中富良野町農家の山田敏和氏の協力を得て、私(濱本)の三者で、石巻市・陸前高田市の東日本大震災被災者に支援物資としてじゃがいも・玉ねぎ送り続けてきた。
掲載省略:写真 令和5年で避難者支援を終えたことに伴い(上)石巻市長と(下)陸前高田市長から届いた感謝状
七 貝の博物館・美術館
貝との出逢いは、新たな人生へ踏み出す原点であったのかもしれません。
ある時、NHKのテレビ放映で「深山峠に建っている、貝の博物館・美術館は日本一と言っても過言ではない」と放映されました。私も日本中歩き周り、貝を展示している施設を見て回りましたが、我田引水ながらウッディ・ライフの貝の博物館・美術館は日本一と自負していたところです。
今日(こんにち)、未だ深山峠の貝殻の美術館・博物館には足を運んで頂く方は少なく残念で堪りません。多分、私たちがお迎え入れるのに、何かが欠けているのでしょう。
本文後半に書かせていただく「カワシンジュガイ」は、当館展示テーマの一つになっていて、このカワシンジュガイは近い将来天然記念物になる日も遠くないと思っています。それまで、じっくり、のんびり、「果報は寝て待ての精神」で進もうと思っています。
かなり以前になりますが、当時の高橋教育長の助言をもらい、夏休み前の時期に、上富良野小学校・西小学校・東中小学校へ、貝殻のお話をしに伺っていたことがあり、今年は再び各学校に出向くことを考えたいと思っています。斉藤町長・鈴木教育長にもご協力の程宜しくお願い致します。
両手義手の詩画家、大野勝彦(文末注10)画伯が阿蘇高原で営んでいる「大野勝彦美術館」に立ち寄った時、展示詩作に「夢は叶うもの、思い強ければ」の言葉があり、感銘しました。美瑛町字留辺蘂の「西美の杜美術館」に俳優榎木孝明水彩画と共に大野画伯の作品が展示されていることから、年に一度程度は作品管理のため美瑛西美の杜を訪れ、都合の付いた時にはウッディ・ライフへ食事に立ち寄られることから親交を得ました。この縁により、現在貝の展示のほかに、コレクションした大野勝彦画伯の詩画等百点も展示しています。
時に触れ、折に触れ語り続けた私たちのビジョンは、想定した定年より三年早い五七才で、運命的な、神懸かり的な巡り逢いに恵まれました。私たちもこの不思議な出逢いにただびっくりしている次第であります。
青春とは年齢にあらず。創造・情熱・夢・ロマンを持つ人に宿る。何事に対しても前向きに、チャレンジする精神を抱き、持ち続けることこそ青春であると思います。 「木を見て、森を見ず、森を見て、木を見ず」と言われます様に、絶えず一ヶ所だけを見るのでなく、全体を見なければならないと、老体ながら日頃から心掛けています。
皆様方もよくご存知のあの西暦二〇〇〇年のミレニアムの年に、一〇七歳で亡くなられた名古屋市の長寿双子のお姉さん、成田キンさんは一〇〇歳になってから、若返ったと聞いています。一〇〇歳を越えると、不思議な世界観が宿るのかもしれません。可能ならばこの境地を感じてみたいものです。
横道にそれたので、貝の話に戻します。自然界における貝の造形美の素晴らしさ、幾何学的な模様の美しさ、その美しさに魅せられて、五〇数年間、家族で拾い集めた貝はいくらあるか想像がつきません。夢とロマンのある貝に魅せられたことが私たちの運命を大きく変えたといっても間違いありません。
私は、数ケ月後、二〇二五(令和七)年度中には「貝がらたちのよもやまばなし」というタイトルの書籍を発刊する予定です。刊行の折には、町長、教育長、上富良野町の図書館・小学校・中学校・高校にも寄贈したいと思っています。
掲載省略:写真 廃材で建築した「貝の館」
八 『カワシンジュガイ』との出逢い
海から遠く離れた場所深山峠に、「貝の博物館」を作ったことには、少しは違和感、不釣り合いと感じられたと思いますが、これには理由があります。
私たちは、四四年前に東京本社から三重県津市に転勤となりました。伊勢神宮参拝後、二見ヶ浦の鳥羽水族館を見学後、御木本真珠島に行き、御木本幸吉翁の博物館を見にいきました。何とそこに大きなカワシンジュガイが展示してあるではありませんか。
掲載省略:写真 鳥羽市御木本真珠島の博物館の展示(著者撮影)
絶滅危惧種であり、当然に希少種であり、国のレッドマークU種のカワシンジュガイが展示されていたのです。その産地名に、何と何と北海道上富良野産と記載されているではありませんか。この貝は日本が世界の南限で天然記念物にも指定されるべきものです。
一九八八(昭和六三)年の環境庁より発行されているレッドデーターブックによれば、本州では、絶滅危惧U種に指定されている貴重な貝であり、数十年前には、広島県安芸郡美和町の美和小学校敷地にカワシンジュガイの生育保護観察保護池がありました。広島大学・岡山大学の先生方や貝殻コレクターの仲間が立ち上がり、広島県では天然記念物に指定したとされています。この貝は自然環境のバロメーターともいわれているほど、清流の川にしか生息できない貴重な貝で、私と妻が美和小学校の生育保護観察池のカワシンジュガイを見学に行った時にはすでに全滅していました。
北海道のアイヌの方々はこのカワシンジュガイを神様の使い手として、大事にまもっていたそうです。アイヌの人々は、このカワシンジュガイの貝殻をアワやヒエを刈る時の大事な道具として使用していたそうです。
今は、北海道の河川でも、生息地は少なくなりつつあります。上富良野に住んでから知り合ったのが富良野高校の永盛教諭、その教え子の科学部の生徒さんたちと一緒に、十勝岳の麓を流れる布礼別川で観察調査しました。その成果が「富良野市布礼別川に生息するカワシンジュガイについて」としてまとめられ、全国高等学校文化連盟東日本大会の発表で優勝したとのことで、私始め、カワシンジュガイの仲間も嬉しくてたまりませんでした。
掲載省略:写真 富良野高校生による保護のための採取活動
● カワシンジュガイ観察保護池
その頃、高橋教育長(当時、故人)が私の貝の博物館に来られて、今、「清富小学校が生徒は五名ですが、四名になると廃校になる可能性がある」とのこと、何か良い計画がありませんかと尋ねられました。
早速、私は富良野の永盛教諭が指導する、科学部のカワシンジュガイ観察調査報告が、東日本大会で優勝されたことを話しました。
丁度その時に、太陽財団が地域に貢献できる活動をしている組織・団体に支援するとの記事を見て、私たちはカワシンジュガイを守る地域の皆様方と北海道のカワシンジュを守る観察保護池を作る決心をしました。
私は論文を作成し、計画書を提出した結果、何と難関を突破して承認され、報奨金を頂くことになったのでした。合わせて、阿寒湖のマリモと同じく、天然記念物に指定してもらおうと、国にアプローチして行くことにも行動を開始しました。
この幻の貝を地域のほこりにしようと考え、仲間を集めて「カワシンジュガイを守る会」を結成、地域の子どもたちと貝の生息状況を観察し、生息保護に努めることで自然環境の大切さを伝え、子どもたちに夢を与えることにしたのです。
掲載省略:広報紙面 保護観察池の完成を報じる町報かみふらの2003-09-10
掲載省略:写真 カワシンジュガイを観察する清富小学校児童:(財)北海道新聞野生生物基金発行「モーリー11:2004年12月」記事から
活動のシンボルとして、教育委員会では太陽財団の支援金を財源の一部にして、清富小学校に観察保護池を整備しました。
しかし、上富良野町議会のある議員が清富小学校の観察保護池を見て、上富良野町議会で「一年目に一個体死んでおり、二年目にも一個体死んでおり、このままでは本当に死滅するから、即座に観察保護池の撤去を」と質問し、賛成が反対より一票多く、撤去することになりました。「議会で決まり、取り壊すことになったからご理解をしてほしい」と、当時町長の伝言を高橋教育長後任の教育長が私の所に伝えに来ました。
納得できない私としては、私の説明で駄目不足ならば、「富良野高校永盛教諭か、北海道大学のカワシンジュガイを研究している栗原教授、又は、水産省管轄下の責任者にカワシンジュガイの観察保護池が今、如何に必要か、参考人として議会で説明してもらう」と話し、この旨町長・教育長に伝えてもらいたいと申し入れましたが、結果は何も聞き入れられず観察保護池は撤去されました。
日本全国のカワシンジュガイの研究者たちからの、上富良野町長・教育長・議員の無理解に対する声は、私に向けて寄せられ、非常に悔しい思いをしました。同時に、ご支援、ご協力いただいた方々に対する申し訳なさがつのりました。
更に後日談があります。観察池の撤去二年後の春先には、宮内庁職員が来られて、「天皇陛下、皇后陛下が清富小学校のカワシンジュガイ観察保護池を訪問する計画をしたい」とのお話がありました。
実は、翌年(二〇〇三(平成一五)年)七月四日に「天皇陛下様・皇后陛下様が中富良野の富田ラベンダー園を見学に行かれるご計画があり、旭川空港より、お帰りになるその途中に、カワシンジュガイの観察保護池を是非、見たいとのこと」との問い合わせがありました。この時点では、私たちカワシンジュガイを守る会皆様と手がけたカワシンジュガイの観察保護池は既に撤去されていました。
清富小学校保護観察地の新設整備については、様々な方面から宮内庁に情報が入っていたようですが、廃止撤去の情報は届いていなかったようです。
びっくり仰天、ご返答に迷いました。間もなく、宮内庁より、「天皇陛下・皇后陛下が訪問見学を希望している」と再度のお問い合わせがありました。
天皇陛下は貝の研究者であり、学識者としてもご見識が高いことは衆知のことで、葉山の御用邸には、素晴らしい貝殻の資料館も作られております。
町では、どの様に取り繕った対応をしたかは知りませんが、今になって考えるとカワシンジュガイの観察保護池ができ、天皇陛下・皇后陛下にご視察頂いていれば、カワシンジュガイの観察保護池も素晴らしい取り組みとして、後世まで語り継がれていたかもしれません。又、上富良野町の名前が全国に広がり、カワシンジュガイが北海道の天然記念物に指定されて保護の充実が図られたことでしょう。そして、観光資源化されていたのかもしれません。
今こうして、その当時のことを思いだすと、残念で、残念で、残念でたまりません。今でも、全国の仲間たちもからもお問い合わせがあり、私たちが行動していることが町民の皆様にも浸透されていないことが残念で堪りません。
行幸の七月四日、当日は国道二三七号、ウッデイ・ライフの前で車を止めて、「カワシンジュガイを守る会」の横断幕の前に並ぶ会員三〇数名に手を振って、ご挨拶を頂きました。
なお、残念ながら清富小学校の児童数はその後も減り続け、地域住民の理解のもと、一九九一(平成三)年三月で閉校して、上富良野西小学校に統合されました。
一〇 三重大学講堂での講演会とその後
「ひとの世の幸は人と人との出逢いから始まります。皆様方と今日のこの良き日の出逢いをいつまでも・いつまでも」で締めくくった講演壇上に、私は立っていました。
津市と上富良野町との友好都市提携以来、一五周年の記念事業として、津市から招かれて三重大学講堂で行った講演でのことで、この際の内容に加筆・修正をして、今般記事の投稿内容になっています。
掲載省略:雑誌面 三重大学300名の学生に講演(北海道経済2012年1月号記事)
きっかけは、二〇一一(平成二三)年一一月、町から「かみふらのPR大使」を委嘱されたことから、過去に会社員として勤務経験があったこと、又上富良野町と友好都市提携先であった津市への訪問PRを行ったことにあります。
二〇一一(平成二三)年一一月四日、津市の前葉泰幸市長と内田三重大学学長と私(M本)と、午前中二時間、津市丸の内のセンターパレス会議室で対談をさせて頂き、午後一時からは一〇〇分の「ビジョンを描く人生」と題した講演と討論を、三重大学講堂で学生約三〇〇名を前に行いました。
丁度その時、三重テレビの取材もあり、夕方、名古屋の自宅に戻っていた時(当時ウッディ・ライフは冬期休業で名古屋に居住)に、妻と放映(三重テレビ ワイドニュース)されたのを見ました。なかなかの堂々とした講演ぶりにホッとしました。
また、津市中心市街地にぎわい創出プロジェクトに私を呼んで頂き、「かみふらの町のPR」と「就職とキャリア形式」の講演も行い、講演内容は、一二月三〇日放送の「Future Talk よみがえる津の中心市街地」にも編成されました。
翌二〇一二(平成二四)年春、上富良野町に戻ってから、機会があって高橋教育長(当時)に津市での出来事を伝えたところ、是非「いしずえ大学」の生徒(六〇歳以上の町民)にも話してほしいと依頼を受け、講演させていただきました。講演が終わってからは沢山のいしずえ大学の先輩の生徒さん達からいろんなご質問を頂き、私も喜びと嬉しさと感動で胸がいっぱいになりました。いしずえ大学の皆さんとの出逢いも私の人生の素晴らしい一ページになりました。
終わり
《プロフィール》
生年月日 1939(昭和14)年4月27日
出生地 東京都渋谷区道玄坂
小学校 名古屋市中区 老松小学校
中学校 名古屋市千種区愛知中学校
高等学校 〃 愛知高等学校
大学 〃 南山大学
勤務先 NCR東京本社入社
転勤先:名古屋支店・津支店長・浜松支店長
那覇支店長・名古屋支店長
札幌支店長(道内七支店統括兼務)
《深山峠関連》
1992(H4)年7月 観光旅行の途上立ち寄り
1995(H7)年8月 伊東剛に逢い施設譲渡の話し
1996(H8)年4月 「ウッディ・ライフ」購入
1996(H8)年5月 レストランのみ営業開始(4〜10月の夏場のみ、休業期は名古屋に住まう)
1996(H8)年6月 廃材で「貝の館」建設
1999(H11)年4月 次男(丈弘)が経営に加わる
2001(H13)年頃〜 カワシンジュガイ保護活動
2009(H21)年4月 通年営業開始
2010(H22)年5月 伊東氏からピラミッド美術館・田浦氏から土地購入、ほぼ現在の経営状態になる
2011(H23)年11月 「かみふらのPR大使」委嘱
2017(H29)年11月 上富良野町社会貢献賞表彰
2024(R6)年11月 深山峠環境美化活動善行表彰
《編集委員注釈》
●注1〜 日本NCR株式会社:情報処理システム、通信システム、ソフトウェア等の製造販売ならびにこれらに関連するサービスの提供する米国NCR社の日本法人。 ●注2〜 須永博士(すながひろし):一九四二(昭和一七)年東京生まれ。展覧会と講演会で日本各地を巡りながら、詩・絵画・書・陶作を行い、「旅の詩人」と呼ばれる。 ●注3〜 大町桂月(おおまちけいげつ):一八六九(明治二)年〜一九二五(大正一四)。高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。名言「一日に千里の道を行くよりも、十日に千里行くぞ楽しき」が知られる。 ●注4〜 倉本聰(くらもとそう):脚本家、劇作家、演出家。本名は、山谷 馨。東京都渋谷区出身。『昨日、悲別で』『前略おふくろ様』などの脚本で知られるが、富良野地方を舞台にしたテレビドラマ『北の国から』は身近な作品。 ●注5〜 前田真三(まえだしんぞう):一九二二(大正一一)年〜一九九八(平成一〇)年、日本の写真家。上高地、奥三河、富良野(北海道美瑛町・上富良野町)などにおいて風景写真や山岳写真を多数撮影し、一九八七(昭和六二)年北海道美瑛町に廃校になっていた旧千代田小学校跡にフォトギャラリー拓真館を開設した。 ●注6〜 後藤純男(ごとうすみお):一九三〇(昭和五)年千葉県に生まれ、埼玉県内の小・中学校で教職に就きながら創作を始めた。画業専念後は日本美術院賞・大観賞・文部大臣賞・総理大臣賞等を相次ぎ受賞、現代の日本画巨匠として東京芸術大学教授を勤める。大学退官後一九九七(平成 九)年に上富良野町に「後藤純男美術館」開設。二〇一六(平成二八)年に上富良野町特別名誉町民となった。同年死去。 ●注7〜 富田忠雄(とみたただお):一九〇三(明治三六)年に中富良野に入植した開拓農家の三代目として一九三二年(昭和七)年に誕生、一九五八年(昭和三三)年にラベンダー栽培を開始、一九七〇前後には富良野地方だけでも二三〇ヘクタール以上、約二五〇戸の農家が全道内の奨励特用作物になったラベンダー栽培をしていた。この後貿易自由化による低価格の輸入品に負けて農作物としての使命を終える一方、観光資源への価値転換を図る先駆者として多角経営を展開し、現在に至る「富田ファーム」を作り上げた。 ●注8〜 「月下の一群」(げっかのいちぐん):一九二五(大正一四)年第一書房から刊行された堀口大学によるフランス近代詩の名訳集。堀口大学は、明治から昭和にかけての日本の詩人・歌人・フランス文学者。 ●注9〜 伊東 剛(いとうごう):一九四九(昭和二四)年生れ旭川市出身の写真家。一九八三(昭和五八)年上富良野町深山峠に建てたログコテージを拠点にして、上富良野・美瑛を中心に風景写真作品を制作。ログコテージはライダーの宿泊施設としても経営し、一九八九(平成元)年には同地に常設ギャラリー「ザ・ピラミッド」を開設した。写真集は「大地讃讃」「大地の輝」「幻想光響詩」等。 ●注10〜 大野勝彦(おおのかつひこ):一九四四(昭和一九)年熊本県菊池郡菊陽町生まれ。高校卒業後、実家の農家(ハウス園芸)を営むが、一九八九年(平成元)農作業中、機械により両手切断。リハビリ・療養中から詩画制作に入る。一九九〇(平成二)初の詩集「両手への賛歌」、翌年初の画集「両手への賛歌」出版。一九九七(平成九)年菊陽町に「美術館」開設、二〇〇三(平成一五)年 南阿蘇村に「風の丘 阿蘇大野勝彦美術館」開館。詩画集「さよならのあとに」「夢は叶うもの 思い強ければ」「はい、わかりました」「勝彦の無手勝流」ほか多数。
機関誌 郷土をさぐる(第42号)
2025年3月31日印刷 2025年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 和田昭彦