郷土をさぐる会トップページ     第42号目次

― 後世に語り継ぐ事業シリーズ ―
上富良野中学校 吹奏楽部の歩み

取材 中澤良隆  執筆 田中正人  構成 北向一博

(文中 敬称略)
  義務制中学校の誕生
 戦後教育は戦後の混乱と窮乏の中、文部省は戦時全体主義体制から平和民主主義体制へ昭和二〇(一九四五)年九月一五日に切り替えるという「新日本の教育方針」が発表された。
 続いて九月二〇日に、いわゆる墨塗り教科書≠フ指示である「教科用図書取扱いに関する件」や、一二月三一日の「修身、歴史、地理教育停止に関する件」で三教科の授業中止指示で昭和二〇(一九四五)年が終わった。
 翌昭和二一(一九四六)年第一次米国視察団が来日し、四月七日付けで報告書にまとめられ、これが新教育の発足に大きな関わりを持つことになる。
 新しい学校制度として、六・三・三・四制、特に六・三の義務制とその無月謝、男女共学制は、戦後窮乏の時で、日本再建の道は教育にあるという見地にたって、実施となった。
 総理大臣吉田茂の諮問機関である教育刷新委員会がこの原案を決定したのが昭和二一(一九四六)年一〇月一六日、次いで一一月二九日に教育基本法の要綱を決定し、更に教育刷新委員会は一二月にはこれらを含む教育全般の改革案の建議を行い、これを受けて政府が新学制の実施方針を決定、小中学校は昭和二二(一九四七)年度、高等学校は昭和二三(一九四八)年度、大学は昭和二四(一九四九)年度から実施と発表したのが昭和二二(一九四七)年二月である。
 続いて同二二(一九四七)年度中に、政府は教育基本法案、学校教育法案の閣議決定、三月末には二法の公布となり、四月一日から六・三制の義務化実施となり、全国に新制中学校が誕生した。
  上富良野での中学校開校

 上富良野村(当時:昭和二六年八月一日町制施行)としてもこの施策に対応するために、各小学校校下から準備委員を選考し、昭和二二(一九四七)年二月、村役場において第一回六・三制準備委員会が開催された。以後、数次にわたって準備委員会が開かれた結果、中学校は村内一校とし、東中には生徒数や地域性から分校を設置することに決定、上富良野中学校を上富良野小学校に、東中分校を東中小学校に併置になった。
 昭和二二(一九四七)年五月三〇日午前一〇時、上富良野小学校屋内運動場において開校式を挙げ、戦後の混乱と窮乏の中で、慌しく新制中学校の発足をみた。
 遠距離通学問題解決のため、里仁小学校校下生徒は美瑛第四中学校(美馬牛)へ委託通学に、そして江幌、日新分校設置と東中分校の独立など、実態や要望に対応した変革を重ねた。
  上富良野中学校のあゆみ
 昭和二二(一九四七)年四月一日、学制改革による上富良野村立上富良野中学校が設置された。
 通学区域は東中地域を除く上富良野村一円、校舎は小学校正面校舎九教室を借用し、八学級生徒数四七五名、梅田鉄次郎校長以下教員一四名で、五月三〇日開校式を挙げ、翌日から授業が開始された。
 校地は当時、開放されていた島津農場区域で競馬場として使われていた字富良野原野一〇八六番地の長方形一万〇四七九坪(約三・四六?)で、十勝岳連峰を望む風光明媚の現在地に定められた。
(一) 校舎の建築
@ 校舎及び付属施設の新設
 昭和二四(一九四九)年四月三〇日、校舎第一期工事落成。(教室八、生徒便所)六学級移転。昭和二五(一九五〇)年五月二六日、校舎第二期工事(教室四、音楽・職員室、用務員室、宿直室、水飲場)落成。これに先立ち一月二三日、三学期になり壁工事など一部を残し、落成を待たずに残りの六学級が小学校から移転し、この時ようやく小学校校舎間借りの併置状態が解消された。
 昭和二五(一九五〇)年一二月、校舎第三期工事で屋内体育館工事の(二分の一)が完成したのだが、昭和二九(一九五四)年構造上の危険校舎であることが判明して解体となり、再工事となっている。
 昭和二五(一九五〇)年一〇月一八日、校舎第四期工事完成。(教室二、職員室、校長室、玄関)
 昭和三三(一九五八)年九月二三日、校舎第五期工事体育館完成。
 昭和三四(一九五九)年五月二九日、グランド整地完成。(昭和二六、二七、二八年の生徒と校下青年団奉仕出動の整地作業を経て、自衛隊施設隊によって完成された)
 昭和三五(一九六〇)年九月一八日、校舎第六期工事落成。(教室四、玄関、他管理関係六)
 昭和三八(一九六三)年一〇月四日、校舎第七期工事落成。(特別教室九、準備室六、渡り廊下)
 以上、開校以来十六年余を経てようやく、施設内容が整った。

掲載省略:写真 第4期工事完了時(S25.10.18)の校舎
掲載省略:写真 開校10周年記念空撮(S32.9.27)
A 一回目の校舎改築と設備充実
 戦後の物資不足の際に建築されて以来二〇年余りの木造老朽校舎であったため、昭和四二(一九六七)年度防衛施設庁「防衛施設周辺の生活環境整備事業」の採択を受けた補助事業として、校舎改築が開始された。
 昭和四九(一九七四)年度に上富良野中学校の騒音防止対策事業が採択され、建て直しが決まった。
 翌昭和五〇(一九七五)年六月一日着工の第一期工事は五一(一九七六)年三月一日に完了し、三年生の教室が移動した。同年一二月には二期工事が完了検定、昭和五二(一九七七)年六月には第三期工事が着工され、同年一〇月二〇日に完了を見た。
 一〇月二九日には開校三〇周年校舎落成記念式典が行われて落成を祝っている。総工費は約五億三千万円。昭和五六(一九八一)年には体育館の騒音防止対策工事も行われている。

掲載省略:写真 昭和52年校舎落成時の全景
B 耐震改修と特別教室棟の全面改築
 平成七(一九九五)年の阪神・淡路大震災では、地震により多くの尊い人命が奪われた。その主な原因の一つは、建築物の倒壊によるもので、これを機に「建築物の耐震改修の促進に関する法律(耐震改修促進法)」が、平成七年一二月二五日に施行された。
 この後、同法は幾度かの改正を受けて、平成一七(二〇〇五)年九月の中央防災会議(内閣府)で社会全体の国家的な緊急課題とされ、住宅及び多数の者が利用する建築物の耐震化率を平成二一〜二七年度までの七年間で九割にするという目標が示された。平成二三(二〇一一)年三月一一日に発生した東日本大震災も影響し、建設に拍車がかかった。
 町では、文部科学省の「安心・安全な学校づくり交付金」を受けることにし、工事は平成二七(二〇一五)年六月から実施され、平成二八(二〇一六)年八月に耐震工事は完成している。

掲載省略:写真 平成28年耐震改修完成校舎(外観は変わらず)
(二) 上富良野中学校校章と校歌
 上富良野中学校のシンボルである校章は、昭和二三(一九四八)年に制定された。全校生徒・教職員から図案を募集し、これをもとに美術担当の北川博教諭が作成したもの。
 校歌は昭和三〇(一九五五)年八月に制定された。中学校設置から七年も経ており、この頃になってやっと新学制に馴染んだということだろうか。
 昭和三〇(一九五五)年九月開催の学校祭の折、ブラスバンド(後に吹奏楽部)を先頭に、全校生徒がこの校歌を歌いながら、町なかを行進した。
 作詞の入江好之(一九〇七〜一九八九年)は、小樽市生まれで旭川師範学校(現北海道教育大学旭川校)卒業の詩人・児童文学作家・教育者であり、上富良野中学校の教師等の伝手で作詞を依頼したものと思われる。旭川市立知新小学校ほか旭川市内小中学校八校、名寄市立名寄東中学校の作詞を行っている。
 作曲の宍戸馨は、一九五〇〜六〇年代の多数の小中学校音楽科教科書の執筆者に名を連ねている音楽教育者・作曲家。ネット上で調べたところ、探せた範囲で士別市立南小学校・鶴居村立鶴居中学校・旭川市立春光小学校・釧路市立春採中学校・帯広市立光南小学校・帯広市立東小学校の校歌の作曲者に名がある。


上富良野中学校吹奏楽部の誕生

(一)上富良野の吹奏楽と桐山英一
 桐山英一が組織した桐山ブラスバンドが結成されたのは昭和一二(一九三七)年一一月。
 日中戦争の戦勝祝賀のため村主催で祝賀旗行列が行われた際、先頭に立って参集村民を神社まで先導し、またその夜の商工会主催の祝賀提灯行列でも村民の先頭にたって市中を一巡したという記録がある。(『我村』第二六号昭一二・一一・二五)
 またこのバンドは、日中戦争勃発後は、出征兵の歓送、歓迎の際の演奏を一手に引き受けていたと記録されている。(『我村』第二八号昭一三・七・二五)
 その桐山英一は、伊藤七郎右衛門が経営する永楽座を昭和一六(一九四一)年一一月五日に引き継ぎ、永楽座館を増改築し、上富良野劇場として落成開業して支配人となった。
 永楽座館を経営する一方で、無声時代の弁士として映画を説明演出した。無声映画からトーキー(音声付き映画)になると、楽器の出番もなく、映画の仕事も低調になり、劇場で使っていた楽器が不要になってしまった。ちょうどそこへ中学校の梅田鉄次郎校長がフラッと遊びに来たので、「どうだ、あの楽器隊の楽器欲しくないか」と言うと、「おお、くれるならもらおう」と言って、譲ることになった。
 梅田校長が学校に帰ると、子どもたちがさっそく、職員室に走ってきた。「校長先生がおじさんの家からもらったものがありますか」と言うので、「ああ、あるよ。そこの楽器だ、壊さないように持って行きなさい」と言うと、喜んで持って行った。
 これが中学校のブラスバンドが充実するきっかけとなった。
 楽器は寄贈されたが足りないため、昭和三二(一九五七)年開校一〇周年記念事業の一環でPTAがお金を集めて楽器を購入し吹奏楽が大きく動き出した。
 テレビの普及と共に映画の衰退が始まり、桐山英一所有の「上富良野劇場」は昭和三八(一九六三)年に閉館している。
 桐山は、昭和二二(一九四七)年四月三〇日に実施された村議会選挙に初当選。以後一定の得票を維持し連続当選を続け、昭和五〇(一九七五)年八月迄の二八年七期にわたり町村議会議員として活躍した。
 なお、氏の略歴などは郷土をさぐる第三八号「桐山英一からの聞き書き」(三原康敬著)に詳しい。

掲載省略:写真 桐山英一氏
掲載省略:写真 昭和32年の吹奏楽クラブ(当時3年生)(上富良野中学校所蔵アルバムから提供)
(二) 吹奏楽の指導者
 このようにブラスバンドが誕生したのだが、はっきりとした楽器の譲渡年は不明である。梅田鉄次郎校長が昭和二二(一九四七)年五月から二八(一九五三)年五月まで就任しており、二七(一九五二)年までには桐山氏から譲渡されたことがうかがわれる。
 昭和二五(一九五〇)年一一月にピアノが設置され、昭和三二(一九五七)年に開校一〇周年記念事業としてブラスバンド整備事業を実施している。
 発足当時の吹奏楽の指導には小森文夫先生を中心に指導に当たり、その指導も熱心で厳しいものがあり、吹奏楽の基礎を築き上げたと言われている。
 指導に当たられた歴代の顧問の先生は次の方々である。
小森 文夫   昭和二四・四〜昭和三四・三
柴谷 賢一 昭和三一・四〜昭和三九・三
今野 欣伍 昭和三五・四〜昭和四十・三
小関 恒夫 昭和四十・四〜昭和四九・三
二木 耕一 昭和四三・四〜昭和四八・三
藤島 信行 昭和四八・四〜昭和五三・三
野村 政士 昭和四八・四〜昭和五七・三
山口  健 昭和五七・四〜平成 元・三
皆川  仁 平成 元・四〜平成 七・三
西岡 美穂 平成 四・四〜平成 五・三
鎌田夕香子 平成 六・三〜平成一二年三
木幡 吾子 平成一二・四〜 結婚し波多野姓
波多野吾子 平成一六・四〜平成一八・三
山口 清司 平成一八・四〜平成二三・三
村山  望 平成二三・四〜平成二八・三
佐藤  響 平成二八・四〜令和 五・三
大熊 勝映 令和 五・四〜現在〜
  上富良野中学校全国大会への道
 桐山氏から譲渡された楽器をもとに、おそらくは吹奏楽器や打楽器に興味がある生徒たちが集い、組織だった活動が整わない愛好会のような形で、上富良野中学校の吹奏楽が始まったと思われる。
 世話役兼指導者となった小森文夫音楽教諭は、楽器の数に見合う生徒数を募り、クラブ活動として練習を重ね、学校行事や町内の催しに合わせた発表の場を広げ、学校内外に認められるクラブ活動になっていった。
 ほとんど初心者の一年生が二年余りのうちに、合奏団の中核を担うことになる。指導者の教諭だけではなく、次々と巣立っていく卒業生の足跡、積み重なり創られた伝統の力が高まっていった。
 厳しい練習、その先の希望として、様々な輝かしい発表の場があった。

※ 歴代の成績は文末の「上富良野中学校成績一覧」表参照
 ■ 旭川の音楽大行進

 昭和四(一九二九)年、当時の北海タイムス旭川支局長・竹内武夫が、戦没者を慰霊する北海道招魂祭に新たな趣向を加えようと計画。市内で楽器店を営んでいた町井八郎の協力を得て実施したとされている。
 町井は、東京音楽学校の卒業生で、楽器店経営のかたわら、嘱託として旭川師範学校で音楽授業を受け持ち、管楽器やバイオリンなどの演奏を指導していた。
 当時の新聞によると、パレードが行われた六月五日は快晴。第七師団ラッパ隊、旭川師範学校、朝日小学校、旭川市民管弦楽協会、合同酒精音楽隊など一〇団体、約二百人が参加して第一回慰霊音楽大行進(護國神社奉納音楽行進)として実施されたのが始まり。吹奏楽の国内最大のイベントであった
 昭和二三(一九四八)年第二〇回実施後、一時中断され、昭和二八(一九五三)年第二一回に再開され、昭和四九(一九七四)年第四二回からイベント名称が、現在の『北海道音楽大行進』になった。
 開催時期は毎年六月五日に行われていたが、政教分離が叫ばれる様になり、平成一四(二〇〇二)年第七〇回から開催日が六月第一土曜日に変更された。
 平成二八(二〇一六)年第八四回は、史上初の悪天候により中止。令和二(二〇二〇)年第八八回と次年令和三(二〇二一)年第八九回は新型コロナウイルス感染症流行の影響により、二年連続の中止になり都合三回中止となっている。

掲載省略:写真 第一回慰霊音楽大行進(北海道音楽大行進実行委員会サイトから)

 ■ 北海道吹奏楽コンクール

 北海道吹奏楽コンクールは、令和六年で第六九回の開催となっていて、北海道吹奏楽連盟が主体となって実施している。
 このコンクールに出場するためには、同コンクール旭川地区大会で金賞を取り、なおかつこの金賞受賞校から選考されたもののみが、札幌で開催の本選に進める。
 今でもこのコンクール旭川地区大会に参加が続いており、四月に卒業生と新入部員の入れ替えで編成された上富良野中学校の腕試しの場となっている。
 この地区大会は、かつては慰霊音楽大行進(現在は北海道音楽大行進)に兼ねられており、上富良野中学校ブラスバンドとしての出場は昭和二八年からで昭和三七年現在で連続十回になる。(上富良野町史)
 上富良野中学校の北海道吹奏楽コンクールでの演奏記録によると、旭川地区大会に吹奏楽部として昭和四七(一九七二)年に初参加、これまで四八回出場し本戦コンクールへは七回進んでいる。本選北海道吹奏楽コンクールへ進んだ七回全てで金賞受賞、このうち五回で東日本学校吹奏楽大会への出場を果たした。
 昭和四三(一九六八)年に吹奏楽部に入部していた岡和田一廣(島津)によると、部長は加藤正純(日の出)で消息不明だが、当時の部員で現在上富良野に住む人は、仁義代志雄(宮町)、西村昭教(島津)、渡辺清勝(江花)、佐々木栄治(旭野)、中田稔(栄町)と結構多く、それぞれ音楽行進には参加していると語っている事から、現在まで続けて参加しているようである。
 昭和四七(一九七二)年、旭川地区大会に初出場した伊藤一正部長(現旭川在住)は、「銀か銅を受賞したのかは覚えていない。当時はこの少し前にいくつかの楽器を整備しました。曲はコンクール用と言うより聞きやすい曲で、参加する事が目標でした」と、コメントを寄せている。女子部員も入部する様になって来ている。
 昭和六一(一九八六)年には旭川地区大会で初の金賞を受賞した。B編成。自由曲は大草原の歌(R・ミッチェル)で山口健教諭の時。
 翌年もダンスフォーバンド(小長谷宗一)で金賞受賞したが、二年続けて本戦の北海道吹奏楽コンクールへの出場をのがしている。
 同じ山口健教諭の下で、昭和六三(一九八八)年の第三三回コンクール旭川地区大会に、初めてのA編成(五〇名以内)で臨んだが、結果は銀賞にとどまった。全部員参加の編成による発表の場とするのか、選抜編成により上位大会を目指すのか、試練のチャレンジだったのではなかろうか。
 旭川地区大会での受賞すら大変なことではあるが、同じ金賞でも順位がついていて、上の大会に進めない金賞も、今後の励みにしている様である。

掲載省略:写真 昭和43(1968)年の吹奏楽部は男子が主体(岡和田一廣提供)
掲載省略:写真 昭和47(1972)年旭川地区大会に初出場(伊藤一正提供)
掲載省略:写真 昭和63(1988)年旭川地区大会に初のA編成で出場し銀賞(田中正大提供)

 ■ 東日本学校吹奏楽大会

 この大会は、北海道・東北・東関東・西関東・東京都・北陸の六地区吹奏楽連盟と朝日新聞社が主催する学校吹奏楽のコンクールである。
 他に、アマチュア吹奏楽団体を対象とした全日本吹奏楽コンクール(詳細は末尾解説「全日本吹奏楽コンクール」参照)があるが、両方に重複したエントリーはできない。このため、各地区音楽連盟が開催する吹奏楽コンクールは「東日本学校吹奏楽大会」出場予選の役割を果たしている。
 北海道吹奏楽連盟では、「北海道吹奏楽コンクール」を「東日本学校吹奏楽大会地区大会」に位置付けて、入賞者の中から規定数の学校を選考して、地区代表として本大会へ送っている。開催要項は幾度かの改正を経ているが、令和六(二〇二四)年現在の北海道の場合、小学生の部二校、中学生の部五校、高等学校の部三校が配分されている。
 バンドの編成人数には制限があり、東日本大会中学生部門は三〇名以内、一方北海道コンクール中学生部門ではA編成五〇名以内、B編成三五名以内、C編成二五名以内の三種の編成があり、出場基準が異なっている。東日本大会の出場を目指す場合は、北海道音楽連盟が規定するB編成、C編成での出場が基本となる。
  東日本大会の足跡
 令和六(二〇二四)年九月、北海道新聞に上富良野中学校が東日本大会に一四年振りに出場するという記事が掲載された。この事がきっかけとなって、上富良野中学校吹奏楽部の歩みとして本稿を書く事になった。
 ここでは、北海道吹奏楽コンクールで金賞を得て、東日本学校吹奏楽大会に進んだ五回にスポットをあて簡略に記述する。
(一)東日本大会へ転機の指導者

 上富良野中学校へ、平成一八(二〇〇六)年に赴任した山口清司氏は在職した五年間輝かしい成績を収めている。
 平成一八(二〇〇六)年〜二二(二〇一〇)年迄の就任時における年次成績は下表の通りである。
 平成一八年こそ地区大会銀賞の成績であったが、平成一九年からの四年は旭川地区大会並びに全道大会をすべて金賞で勝ち進み地区、全道、全国と勝ち抜き全国大会四年連続銀賞と金賞の快挙となった。
開催年 編成 北海道吹奏楽
コンクール
東日本
吹奏楽大会
曲   目 指揮者
(先生)
備考
回数 地区 全道 回数 成績
2006年
平成18
51 銀賞 [自] 管弦楽組曲《第六の幸福をもたらす宿》 (M.アーノルド) 山口清司
2007年
平成19
52 金賞
代表
金賞
代表
銀賞 [自] 喜歌劇《こうもり》セレクション (J.シュトラウスII世 (鈴木英史)) 山口清司 全道全国
初出場
2008年
平成20
53 金賞
代表
金賞
代表
銀賞 [自] マゼランの未知なる大陸への挑戦 (樽屋雅徳) 山口清司 全道全国
2回目出場
2009年
平成21
54 金賞
代表
金賞
代表
10 金賞 [自] マードックからの最後の手紙 (樽屋雅徳) 山口清司 全道全国
3回目出場
2010年
平成22
55 金賞
代表
金賞
代表
11 金賞 [自] アニー・ムーアの祈りの詩 (樽屋雅徳) 山口清司 全道全国
4回目出場
(二)平成一九(二〇〇七)年

 上富良野中学校吹奏楽部は旭川地区大会を勝ち抜き、九月一日に札幌開催の大会で見事金賞に輝き、第七回東日本学校吹奏楽大会初出場を決めた。
 全国大会は一〇月六日(土)石川・金沢歌劇座を会場に、北陸吹奏楽連盟が主管して開催され、曲目は喜歌劇「こうもり」セレクションを選曲して銀賞を受賞した。
 なお、この年、上富良野小学校スクールバンドも第五二回北海道吹奏楽コンクール小学生の部に出場し、初めての金賞受賞であったが惜しくも選考次点となり全国大会を逃している。この時の演奏曲はシャロム!(P・スパーク)で、指揮は甲斐由絵顧問であった。
 上富良野小学校は、翌年の第五三回北海道吹奏楽コンクールでも続けて金賞を受賞している。
 また、上富良野西小学校は昭和五二(一九七七)年一一月に開校二〇周年を迎え、これを記念して金管楽器をそろえた。これにより、六年生全員によるスクールバンドを組織し、平成二(二〇二〇)年十二月には旭川地区スクールバンドフェスティバルに出演、平成三(二〇二一)年一一月十七日には同フェスティバルでNHK賞を受賞。
 その子等が上富良野中学校吹奏楽部に引き続き入部し、レベルの向上と町づくりに大きな影響を与えている事は言う迄もない。

掲載省略:写真 第7回東日本学校吹奏楽大会〜金沢市(銀賞)(内田亜希子提供)
掲載省略:新聞紙面 北海道吹奏楽コンクールで初めて金賞〜東日本大会への抱負を語る村岡裕真部長2007(平成19)年
掲載省略:写真 第7回2007 東日本学校吹奏楽大会パンフレット
掲載省略:新聞紙面 第52回(2007)北海道吹奏楽コンクール上富良野小学校スクールバンド金賞を報じる日刊富良野2007

(三)平成二〇(二〇〇八)年

 当時の中沢良隆教育長は、石川県金沢市で開催の平成一九年東日本学校吹奏楽全国大会には公務で、翌埼玉県所沢市で開催の平成二〇年全国大会の応援は教育長退任後に夫婦で駆けつけ、連続銀賞受賞を臨席しており、印象深いと語っている。
 十月一一日(土)埼玉県・所沢市民文化センターミューズで開催され、西関東吹奏楽連盟が主管している。
 マゼランの未知なる大陸への挑戦(樽屋雅徳作曲)を選曲している。

掲載省略:新聞紙面 2年連続で東日本学校吹奏楽大会への出場を報じる(北海道新聞2008.10.1)

(四)平成二一(二〇〇九)年

 一〇月一〇日(土)に第九回東日本学校吹奏楽大会が北海道・札幌コンサートホールKitaraで開催され、上富良野中学校吹奏楽部が全国三度目の挑戦で初の金賞を受賞した。主管は北海道吹奏楽連盟。
 大会前にはインフルエンザの流行により出場が危ぶまれたが、「体調は万全でなかったが、道大会と同じ会場であったため普段通りの演奏が出来た」と山口清司顧問(当時三二歳)は語る。
 樽屋雅徳作曲の「マードックからの最後の手紙」を演奏した。
 部長は置かず、各自の自覚を促す目的から、部長は日替わりであったと言う。(当時部員鶴谷祖母談)

掲載省略:新聞紙面 インフルを押しての出場で金賞受賞を報じる2009.11.6道新

(五)平成二二(二〇一〇)年


 当時の向山富夫町長は、
「上富良野中学校吹奏楽部は、旭川支部大会、全道大会並びに全国大会すべて金賞を受賞した。陸上競技などの体育活動でも優秀な成績を収め、中でも新関涼介君が、陸上競技で第三七回全日本中学校陸上競技選手権大会に出場。谷口創大君が、第四一回ジュニアオリンピックの男子三〇〇〇メートルの部に出場。上富良野町から同大会に出場するのは、昭和五九年以来二六年ぶりで、その名を全国にも届ける大活躍をされ現在の町は、若い人の活躍に勇気づけられている」
と、事ある毎に挨拶している。
 平成二二(二〇一〇)年一一月三日文化の日に、町の文化振興に貢献したとして、上富良野中学校吹奏楽部を「第五五回北海道吹奏楽コンクール中学校B編成の部で金賞を受賞し、第一〇回東日本学校吹奏楽大会に北海道代表として出場、金賞を受賞した功績を認め」文化奨励賞を贈呈した。
 新関・谷口君の他スポーツ関係の奨励賞受賞者を多く輩出したのもこの年。
 一〇月九日(土)東京・府中の森芸術劇場 どりーむホールで開催された東日本学校吹奏楽全国大会の主管は東京都吹奏楽連盟。
 演奏曲目は、樽屋雅徳(たるやまさのり)が上富良野中学校吹奏楽部のために作曲したオリジナル曲「アニー・ムーアの祈りの詩」で挑戦した。
 樽屋雅徳は、昭和五三(一九七八)年三月五日生。日本の作曲家・編曲家、指揮者。銚子市立銚子高等学校から武蔵野音楽大学音楽学部作曲学科を卒業し、佐藤博、宮本良樹に師事。
 大学卒業後は、作・編曲活動の他、吹奏楽団体の指揮・指導も行っている。
 山口清司は樽屋雅徳の曲に惚れ込み樽屋の曲を三年続けて演奏し、見事東日本二連覇を果たした。

掲載省略:写真 作曲家 樽屋雅徳
掲載省略:写真 第10回東日本学校吹奏楽大会金賞(2010年9月府中の森芸術劇場)
■ 平成平成二二(二〇一〇)年大会出場者
  ※ 部長・副部長は日替わり制
江口和香奈     菅  倫瑠     後藤 七海      佐藤 実結  
鶴谷 朱音 鈴木 理己 加藤 瑞望 白田 悠香
辰  友菜 増子 侑花 大野 美南 松田紗理伽
江嶋 彩音 橋本  暁 安田 愛梨 多田明日華
五代儀りか 神内  葵 健名 美紅 小松 美紅
内田 恭平 春山 由依 西方彩美莉 瀧上 歌蓮
驫木 沙耶 萓原世莉奈 小松 芽生 源  陽嘉
菅原万夜里 南  千里 佐藤 美帆 村上 穂香
山口 晴香 渡部 真央 佐々木奈友美 三五名
(六)令和六(二〇二四)年大会

 東日本大会出場へつながった平成二二(二〇一〇)年から、十四年の歳月が過ぎた旭川地区大会は、令和六年八月三日旭川市民文化会館で開催された。
 上富良野中学校は大熊勝映教諭の指揮により、自由曲、アイヌ民謡「イヨマンテ」の主題による変奏曲(福島弘和作曲)で望み、中学B編成の部で金賞に輝き、見事代表に選出され全道大会に出場を決め、第一関門を突破した。
 北海道吹奏楽コンクールは、八月二九日から九月一日の日程で札幌コンサートホールKitaraで開催され、上富良野中学校は八月三〇日の中学校B編成の部一七校の最後、一七番目に二八名の構成で出場した。成績は金賞で、なおかつ地区代表として東日本大会への出場も決まった。
 全道大会出場については、令和六(二〇二四)年九月二七日付けの学校だよりに澤田克之校長の「感動する姿」と題して吹奏楽に関するコメントを投稿している。
 要約して掲載すると、
 「この度、吹奏楽部が八月に札幌で開催された道吹奏楽コンクールに出場し、見事、金賞に輝きました。
 その結果、茨城県で開催される東日本学校吹奏楽大会への出場権を獲得する事となりました。本校の吹奏楽部はB編成のカテゴリーであり、B編成としては頂点である全国大会の参加となります。
 私自身は音楽の専門的な知識はありませんが、日頃から校内での演奏を耳にしており、各コンクールや地域行事での披露を初めとして、吹奏楽部の素晴らしい演奏にいつも感動しておりました。
 今まで精一杯練習を重ねて来た生徒たち。熱心に指導して戴いた顧問の先生たちの努力が報われた瞬間であったと推察します。今回改めて、本校の生徒の素晴らしさを実感しました。
 このように生徒が活躍することができるのも、子どもたち自身の頑張りはもとより、保護者・地域の皆様のお力添えがあるからこそ、感動を与えてくれる子どもたちの姿があるのだと強く感じています。
 私たちも生徒一人一人の力を伸ばす教育活動を更に進めて参りますので、今後ともご理解とご協力を宜しくお願いいたします」
と結んでいる。
 部活動育成会は、資源回収に取り組み、それで得たお金を、部活動育成会に繰り入れ、各部の全道・全国大会等の支援に活用している。
 一〇月一二日には水戸市で開催された「第二四回東日本学校吹奏楽大会」(東関東吹奏楽連盟主管)に北海道代表として出場した。
 出場は実に一四年ぶりで、三〇人以下で編成する吹奏楽部が出場するコンクールの最高峰とされ、中学生部門は北海道から北陸までの代表三〇校が出場し、銅賞に輝いた。
 顧問の大熊勝映教諭(四七歳)は、上富良野中学校吹奏楽部第二五回定期演奏会の席上で、
 「今の三年生は私が赴任した年に、前の活動方針からは変わりましたが、活動を継続してくれました。
 吹奏楽コンクール旭川地区大会予選では、コロナ騒動で中止された令和二(二〇二〇)年を挟んだ七回連続金賞を受賞。そして五年ぶりに旭川地区代表として七回目の北海道大会へ出場、その大会でも金賞を受賞し、一四年振りに北海道代表として東日本学校吹奏楽大会出場を果たし、銅賞を受賞しました。
 今日は今のメンバーに合っていると感じて選んだ自由曲「アイヌ民謡『イヨマンテ』の主題による変奏曲」(福島弘和作曲)の他、練習した数々の演奏をお聞き戴きました。一〇名の三年生は今日で引退します。今までの努力、そしてその活躍に惜しみない拍手をお送り下さい」
と、締めくくった。
 嶋崎部長は「東日本大会で目標としていた金賞に届かなかったので、後輩に夢を託したい」と述べ、城越新部長らにエールを送った。

掲載省略:新聞紙面 北海道コンクール上富良野中学校金賞(朝日新聞号外)
掲載省略:新聞紙面 第二四回東日本学校吹奏楽大会で銅賞(朝日新聞号外)
■ 令和六(二〇二四)年大会出場者
◎部長  ○副部長
村上菜奈香    山内 唯愛    山田 百恵    森井 心音
佐藤  楓 工藤 柚華 森  加帆 佐藤 美暖
深瀬 未結 吉居  花 松井 麻琴
嶋崎 心々 ◎嶋崎 夢衣 宇野 心白
寺坂  心 佐藤なのは 森田  凛 ○高橋理衣奈
田中  歩 高松ひなた 谷口  練 阿部 聖愛
藤岡 志人 米谷 侑真 末永 晴愛 ○城越 咲空
内田  梓 八重樫龍輝 計 二八名
  活躍の跡
 この様に上富良野中学校(以下上中)吹奏楽部の活躍の素晴らしさに改めて敬服した。富良野吹奏楽団の全面協力で、令和七(二〇二五)年二月に四年振りに第三一回富良野地区吹奏楽祭が開催され、富良野沿線中学五校・高校三校の一校として普及演奏活動もしている事を、取材を通して認識できた。
 また、令和七(二〇二五)年二月一五、一六日にカナモトホール(札幌市民ホール)で開催された北海道アンサンブルコンテストでは、上富良野中学校吹奏楽部の「木管三重奏」(山内・深瀬・工藤氏)は金賞(全国代表はならず)、上富良野小学校スクールバンド六年生七人による「管打七重奏」は銀賞に輝いている。

掲載省略:写真 第31回富良野地区吹奏楽祭(2024年2月)

 最後に、本稿執筆の機会をとらえて、吹奏楽部在席の有無にかかわらず、昭和二二年度以降の上中卒業生の音楽関係者に限定し、卒業順で上富良野町文化賞等受賞者を掲載し、活躍を纏めてみた。
 ◆ 堀江 富雄(特別枠・芸名堀江鈴峰(れいほう))

 昭和二二(一九四七)年旧制小学校高等科第四二回卒業生で、新制中学校への改変の途上のため中学には入っていない。
 昭和二九(一九五四)年から民謡同好会に入会、昭和五八(一九八三)年新たに民謡岳勝(がくしょう)会を設立、会の指導者及び講師として活躍。上川地区連合全国民謡の部に出場し優勝、全道民謡大会では準優勝等数多く入賞している。更に公民館講座並びに岳勝会の講師のほか、文化連盟での監査、平成元年には同連盟副会長、芸能部長として町文化祭、富良野沿線芸術祭その他各種行事に積極的に参画し、その卓越した識見と誠実な人柄は広く町民から人望を集めた。その功績は顕著であるため昭和五八(一九八三)年、上富良野町文化連盟より文化貢献賞を受賞。上富良野町からは、平成五(一九九三)年に文化賞を受賞した。
 令和四(二〇二二)年一二月没(八九歳)。

 ◆ 小田島 茂(芸名小田島一茂)

 上中第三回・昭和二四(一九四九)年度卒業生。
 昭和二八(一九五三)年一月、上富良野民謡同好会に入会。
 同年北海道民謡連盟より公認の民謡囃子(はやし)の講師資格取得。その後三代目会長に選出され会員の育成と演奏技術の研修等に尽力し、優秀な人材育成に努め、文化祭行事などに積極的に協力。文化振興に貢献されとして、平成二三年七七才の時に文化功労賞を受賞した。道南口説き節(北海道民謡)が愛唱歌。平成三〇(二〇一八)年五月没。葛本美知子氏によると初代が千秋薫、二代目が富樫銀次郎で小田島茂は三代目に当たるとのこと。

 ◆ 葛本 武志

 上中第六回・昭和二七(一九五二)年度卒業のブラスバント部員であった。
 豆腐屋を営む傍ら民謡活動。昭和三三年三月同級生の熊谷美智子(後述)と結婚。昭和二八年一月上富良野町民謡同好会に入会、以後同好会の三味線(芸名孝真(こうしん))尺八(芸名鈴秀(れいしゅう))の伴奏者として活躍し、昭和四二年三弦孝真会を発足させ代表に。
 昭和四三年から富良野市・美瑛町・名寄市等地方の民謡伴奏指導者として尽力した。昭和五十年豆腐店閉店。人格円満、芸能識練達者である。
 町の文化振興に貢献し、永年会の指導者として組織の向上・発展に尽力した功績は多大であると認められ、平成元(一九八九)年に上富良野町文化賞を受賞した。
 平成十四(二〇〇二)年、民謡歴五十年を唄・伴奏者として北海道民謡連盟より最高師範を授与されている。平成十五(二〇〇三)年一月没。
 又、弟の二三男も上中第十四回(昭和二七年度)卒業生でブラスバント部員であった。オーボエ奏者として陸上自衛隊中央音楽隊にスカウトされ、後に指揮者として活躍。現在札幌在住である。

 ◆ 葛本美智子

 葛本美智子は、前項葛本武志の妻であり、上中第六回・昭和二七(一九五二)年度の卒業生。昭和三三(一九五八)年、夫武志と供に上富良野民謡同好会に入会、町内外の各催しに参加し、活動を続ける一方、民謡に踊りを加えると一層すばらしいものになるのではと考え、その研究、技術の習得に努めた。美瑛町の鈴木先生の指導を仰ぎ、特に昭和四六(一九七一)年には東北地方に赴き、民謡踊りの基本を現地で研究され、昭和五三(一九七八)年には、同志を募り、大雪民謡舞踊研究会を設立し、設立当時より指導者として会の充実、発展に努めた。
 その後も、町内外の各催し等において積極的に活動を続け、平成九(一九九七)年度からは、いしずえ大学の講師も勤められ、その指導力は高く評価されている。更に、平成六(一九九四)年度から文化連盟監事として連盟業務を監査し、連盟の発展に、また本町の文化向上発展と振興に寄与された。人格は、誠実・温厚で、真面目な活動は衆人の認めるところであり、芸術的にも会員はもとより、広く町民から称賛され平成十年に上富良野町文化賞を受賞した。(詳細郷土をさぐる第三六号)北町在住。

 ◆ 和田 昭彦

 上中第十回・昭和三一(一九五六)年度卒業生。
 家は酪農を経営していたため、ブラスバントに入会出来る環境になく、あこがれの存在であった。
 昭和五二(一九七七)年六月から上富良野町混声合唱団を設立、団の主権者として、又団長として活躍し、その卓越した識見と誠実な人柄は広く町民から人望を得ている。その他、昭和五七年上富良野町町文化連盟から文化賞を受賞するなどその功績が認められ平成四年、上富良野町より文化賞を受賞した。令和七(二〇二五)年、現在郷土をさぐる会会長。

 ◆ 小酒井 梓
 ◆ 赤平 陽芽
 ◆ 児玉 純花


 上中第七五回・令和三(二〇二一)年度卒業生。
 全員が小学生のころから楽器に触れ、上中吹奏楽部に入部し、練習を共にした。
 令和四(二〇二二)年四月、三人は旭川明成高等学校にそろって進学、同校吹奏楽部に入部した。
 令和四(二〇二二)年十月三十日に千葉県で開催された第二八回日本管楽合奏コンテスト全国大会高等学校B部門(三六人以上)において旭川明成高校吹奏楽部が文部科学大臣賞・最優秀グランプリ賞を受賞したことにより、部員として出場した三人に上富良野町から令和五(二〇二三)年十一月に揃って文化賞が授与された。
  《解 説》
■ 北海道吹奏楽連盟の沿革

 第一次と第二次に分けられ、昭和一四年七月一五日、札幌市時計台で大日本吹奏楽報告会札幌支部の発表会にはじまり、北海道吹奏楽連盟の結成となった。
 第二次の北海道吹奏楽連盟は、昭和三〇年六月五日、旭川市の北海道護国神社境内において結成式を催し、全道的な組織へと発展している。

■ 吹奏楽コンクール旭川地区大会

 Musica Bellaデータベースによると、吹奏楽コンクール旭川地区大会は、昭和三一(一九五六)年に第一回目が開催され、令和二(二〇二〇)年にはコロナの蔓延防止のため中止となったが、今年で六八回の開催となっている。
 上富良野中学校の吹奏楽コンクールでの演奏記録は昭和四七(一九七二)年から始まる。これまで四八回出場した記録が残っている。

■ 全日本吹奏楽コンクール

 一般社団法人全日本吹奏楽連盟と朝日新聞社が主催している。
 一方、北海道・東北・東関東・西関東・東京都・北陸の六地区吹奏楽連盟と朝日新聞社が主催する東日本学校吹奏楽大会では、この両方にエントリーできないため、上富良野中学校はこちらに出場している。
 全日本吹奏楽連盟は、吹奏楽及び管・打楽器による音楽の普及・向上を図り、もってわが国の芸術文化の発展に寄与することを目的としている。
 全日本吹奏楽コンクールには実施規定があり、中学生、高等学校、大学、職場・一般の四部門で実施される。
 全国大会には、規定により中学生五十人以内、高校と大学五五人以内、職場・一般六五人以内(いずれも指揮者除く)の編成での出場となる。
 中学生での構成詳細は五十人以内がA、三五人以内をB、二五人以内をC編成としている。
 A編成は課題曲と自由曲を一二分間で、B編成は自由曲のみを七分間で、C編成は自由曲のみを六分間で演奏し、審査により金賞、銀賞、銅賞のいずれかが贈られる。
 昭和一五(一九四〇)年に朝日新聞社が創設したものの、太平洋戦争勃発により中断、戦後は昭和三一(一九五六)年に再開された。本大会は、日本の吹奏楽界では最大規模の大会である。
  《参考資料》
郷土をさぐる 第一五号・第三八号
かみふらの一一五年歴史年表 上富良野町郷土をさぐる会
上富良野百年史         上富良野町
広報かみふらの         上富良野町
上富良野中学校開校50周年記念誌みなぎる力
                上富良野中学校
開校30周年・校舎改築落成記念誌 上富良野中学校
上富良野中学校ホームページ
上富良野中学校定期演奏会パンフレット
北海道新聞2019.9.1付け 村岡氏切り抜き
     2021.11.6付け 町切り抜き
日刊富良野 2007 切り抜き掲載
朝日新聞号外 掲載
    上富良野町立上富良野中学校に銅賞
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
吹奏楽ネットサイト〜北海道吹奏楽コンクール
    上富良野の2小中、吹奏楽で全道へ
中学3人「全国目指す」北海道新聞デジタル
  《取材協力》
岡和田一廣    伊藤 一正   北川いずみ
田中 正大 山口 清司 内田 亜希子
鶴谷 陽子 村岡ひとみ 釘崎甚三郎
澤田 克之 大熊 勝映 小田島登志子
細川 勝美 葛本美智子  (順不同)
上富良野町及び上富良野町教育委員会
北海道吹奏楽コンクール上富良野中学校成績(旭川地区大会初初出場以降)
※ 表中「金代」は、金賞を受賞して上位大会への選考代表となったもの
道コ
ン回
東日
本回
開催 編成 地区 全道 東日
曲目 指揮者
17回 1972(S47) 不明 自由曲 雨にぬれても(B.バッカラ) 仁木 耕一
18回 1973(S48) 不明 自由曲 交響曲第9番「新世界より第4楽章」(Aドヴオルジャーク) 藤島 信行
19回 1974(S49) 不参加 不参加 藤島 信行
20回 1975(S50) 不明 自由曲 水上の音楽(G.F.ヘンデル) 藤島 信行
21回 1976(S51) 不明 自由曲 水上の音楽(G.F.ヘンデル) 藤島 信行
22回 1977(S52) 不明 自由曲 序曲「イシターの凱旋」(J.オリヴァドーテイ) 野村 政士
23回 1978(S53) 不明 自由曲 喜歌劇「ヴェネツィアの一夜」序曲(J.シュトラウスU世) 野村 政士
24回 1979(S54) 不明 自由曲 序曲「イシターの凱旋」(J.オリヴァドーテイ) 野村 政士
25回 1980(S55) 不明 自由曲 フーガ ト短調(J.S.バッハ) 野村 政士
26回 1981(S56) 不明 自由曲 ヘリテージ序曲(J.A.コーデイル) 野村 政士
27回 1982(S57) 不明 吹奏楽のための幻想曲(E.H.エリクソン) 山口  健
28回 1983(S58) 不明 自由曲 チェスフオード・ボートレート(J.スウェアリンジェン) 山口  健
29回 1984(S59) 不明 自由曲 ノスタルジア(三上次郎) 山口  健
30回 1985(S60) 不明 自由曲 「小組曲」よりT.U.W(A.リード) 山口  健
31回 1986(S61) 金賞 自由曲 大草原の歌(R.ミッチェル) 山口  健
32回 1987(S62) 金賞 自由曲 ダンス・フォー・バンド(小長谷宗一) 山口  健
33回 1988(S63) 銀賞 自由曲 銀河宇宙(本西利恵)、課題曲 カーニバルのマーチ(杉本幸一) 山口  健
34回 1989(H元) 不明 自由曲 アルヴーマー序曲(J,バーンズ) 皆川  仁
35回 1990(H2) 銀賞 [自] 序曲《フェニックス》 (カーナウ) 皆川  仁
36回 1991(H3) 銀賞 [自] ラプソディ・エピソード(C.カーター) 皆川  仁
37回 1992(H4) 銀賞 [自] 序曲 祝典((E.H.エリクソン)) 西岡 美穂
38回 1993(H5) 不参加 不参加 不参加
39回 1994(H6) 不参加 不参加 不参加 不参加 不参加 不参加
40回 1995(H7) 不参加 不参加 不参加 不参加 不参加 不参加
41回 1996(H8) 不明 銀賞 [自] 序曲 《フェニックス》 (カーナウ) 鎌田友香子
42回 1997(H9) 金賞 [自] 呪文と踊り (J.B.チャンス) 鎌田友香子
43回 1998(H10) 金賞 [自] 火の伝説(櫛田朕之扶) 鎌田友香子
44回 1999(H11) 銀賞 [自] 朝鮮民謡の主題による変奏曲 (J.B.チャンス) 鎌田友香子
45回 2000(H12) 金賞 [自] センチュリア (スウェアリンジェン) 木幡 吾子
46回 1回 2001(H13) 不明 銀賞 [自] リクディム (ヴァン=デル=ロースト) 木幡 吾子
47回 2回 2002(H14) 金賞 [自] 呪文と踊り (J.B.チャンス) 木幡 吾子
48回 3回 2003(H15) 銀賞 [自] 吹奏楽のための神話(天岩屋戸の物語による) (大栗裕) 木幡 吾子
49回 4回 2004(H16) 金賞 [自] 吹奏楽のための交響詩《ぐるりよざ》 (伊藤康英) 波多野吾子
50回 5回 2005(H17) 金賞 [自] 火の伝説 (櫛田?之扶) 波多野吾子
51回 6回 2006(H18) 銀賞 [自] 管弦楽組曲《第六の幸福をもたらす宿》 (M.アーノルド) 山口 清司
52回 7回 2007(H19) 金代 金代 銀賞 [自] 喜歌劇《こうもり》セレクション (J.シュトラウスII世 (鈴木英史)) 山口 清司
53回 8回 2008(H20) 金代 金代 銀賞 [自] マゼランの未知なる大陸への挑戦 (樽屋雅徳) 山口 清司
54回 9回 2009(H21) 金代 金代 金賞 [自] マードックからの最後の手紙 (樽屋雅徳) 山口 清司
55回 10回 2010(H22) 金代 金代 金賞 [自] アニー・ムーアの祈りの詩 (樽屋雅徳) 山口 清司
56回 11回 2011(H23) 金代 金賞 [自] 喜歌劇《サーカスの女王》 より セレクション (カールマン) 村山  望
57回 12回 2012(H24) 金賞 [自] メガ・スモールバンド 村山  望
58回 13回 2013(H25) 金賞 [自] 第六の幸運をもたらす宿 (M.アーノルド) 村山  望
59回 14回 2014(H26) 銀賞 [自] バンドのためのシンフォニック・ソング (R.R.ベネット) 村山  望
60回 15回 2015(H27) 金賞 [自] 喜歌劇《メリー・ウィドウ》 より 序曲 (レハール) 村山  望
61回 16回 2016(H28) 銀賞 [自] フイルムノ中ノ英雄(田村修平) 村山  望
62回 17回 2017(H29) 金賞 [自] 遙遠の海〜アウロラを求めて〜(田村修平) 佐藤  響
63回 18回 2018(H30) 金賞 [自] 桜花の光跡 (高昌帥) 佐藤  響
64回 19回 2019(R元) 金代 金賞 [自] 蒼海の覇道 (田村修平) 佐藤  響
65回 20回 2020(R2) 中止 中止 中止 中止 コロナ中止 佐藤  響
66回 21回 2021(R3) 金賞 [自] オペレッタ「白馬亭にて」(R.ベナツキー) 佐藤  響
67回 22回 2022(R4) 金賞 [自] ゾウの足 〜1986.4.26 チェルノフ?イリ原子力発電所事故による〜 (林大地) 佐藤  響
68回 23回 2023(R5) 金賞 [自] 交響的詩曲《走れメロス》 (福島弘和)    大熊 勝映
69回 24回 2024(R6) 金代 金代 銅賞 [自] アイヌ民謡「イヨマンテ」の主題による変奏曲 (福島弘和) 大熊 勝映

機関誌      郷土をさぐる(第42号)
2025年3月31日印刷      2025年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 和田昭彦