郷土をさぐる会トップページ     第42号目次

― 各地で活躍している郷土の人達シリーズ ―
私の歩んだ道

札幌市厚別区上野幌 細 川   昇
昭和二七年七月二九日生(七二歳)

  はじめに
 「郷土をさぐる」事務局から突然の原稿の依頼があり、上富良野町の出身で多方面で活躍されている方の歴史を知りたいとのことで、上富良野町の為に成ることでしたらとお引き受けいたしました。私が社長になるまでの歴史を、記億に残っている事をお話しします。
 なお、文中で勤務している会社に関する部分で、会社名を書いていない、又は簡略名としているのは、合併・分社・吸収・新設・機構改正等による企業集合体のため、しばしば社名の変更があり、混乱を避けています。私の経歴と共に、会社の概要を末尾に載せますので、突き合わせください。
 同窓会でしばしば冗談でやゆされる「高卒ドライバーが社長になった成り上がり人生」の真実を読んでください。
  細川家のルーツ

 私の生家細川家は、大正五年祖父万次郎、祖母ミサが三重県桑名郡多度町から上富良野町基線北二〇号の住所へ入植し、私の父勘七は大正六年三男三女の三男として同地で出生しました。
 勘七は田中フジ子と昭和一八(一九四三)年に結婚して、実家現在地の基線北二一号に分家、かやぶき屋根の住宅一五坪と納屋一五坪、水田二ヘクタール(二町歩)の規模でした。
  生立ち
 私は昭和二七(一九五二)年上富良野町基線北二一号で細川勘七、フジ子の四男一女の末っ子として生まれ、地元の上富良野小学校・中学校を卒業して、昭和四四(一九六九)年富良野市の旧富良野工業高校機械科(現富良野緑峰高校)に入学、その後昭和四六(一九七一)年に卒業して神奈川県大和市にあります日産自動車の子会社大和工業株式会社に就職しました。
 幼少期のころ、実家は稲作農家として生計を立てておりましたが、周辺農家の半戸分と農地も少なくて稲作だけでは食べて行けず、両親は部落の農家の手伝いの他に鶏を飼い、その卵を売って生計を立てていました。
 それでも生活が苦しく、長女も部落の農家の手伝いをして稼ぎ、やっと生活をしておりました。その後次男(長男は幼少の頃死去し実質長男として家業を継いだ。この後は、兄と書く。)も中学卒業後、通信制の高校に通いながら生計を助けて頂いて、姉、兄には足を向けられないほど感謝の気持ちで一杯です。
 終戦後で食糧難ではありましたが、実家は農家で米がありましたので贅沢はできませんでしたが両親、姉、兄の並々ならぬ努力のおかげで育ちました。
 幼児期のころは、いつもおやつは畑に育つトウモロコシ、カボチャ、トマト、イチゴを収穫して食べさせてもらいました。少し大きくなってからは、トマト、イチゴを畑でつまみ食いもしました。またお正月は、好物の豆餅、雑煮が食卓を賑わせ、今でも姉から豆餅を送っていただいて昔を思い出して食べております。小学校時代の夏休みには佐藤農園でビールの原料のホップ摘み取りのアルバイトをして小使い稼ぎをしておりました。

掲載省略:写真 平成27(2015)年11月22日 細川均長男の結婚式に静岡県三島市訪問の折、三島大社構内にて。左から次男均、三男敏雄、長女信子、私四男昇
掲載省略:写真 昭和53(1978)年上富良野町実家前にて〜右から後列私の妻ルリ子、姉の長女、実母、私の姉、中列実父、姉の次女、前列父に抱かれた私の長男
  不慮?の事故
 小学校六年生の時に、自宅の周りを親戚の原付バイクをいたずらして乗り回すうちに農業用水路に転落し、親戚に大変ご迷惑を掛けて、深く反省しています。その時悔しくて、悔しくて、機械の知識のなさに情けなく、将来は絶対運転手になるとその時心に決めました。
 今では考えられないことですが、中学三年生から無免許でオートバイを運転して二度無免許で検挙され、警察に捕まるたびに、家庭裁判所に親父が身元引受人として迎えに来てもらった苦い記憶があります。本当に両親、兄弟には迷惑を掛けてばかりでした。
 高校時代には、現在家業を継いでいる兄均(ひとし)が、室蘭の製鉄所で働いたお金でオートバイを買ってくれ、爆音を立てて街中を我が物顔で走りまくった事が思い出されます。

掲載省略:写真 中学2年生の私
掲載省略:写真 高校生の時、愛用のバイクで十勝岳温泉駐車場にて。私も持っていない写真が母のアルバムに残っていた
  就 職
 高校三年の三学期に、将来の仕事は運転手に成りたいと進路指導の先生に相談したところ、運転手になるためには大型免許が必要と指導を受けて、大型免許の取得資格は二〇歳からとのことで、運転手の職業を断念致しました。
 車が好きだったことで、高校の進路指導の先生から日産の子会社、大和工業を紹介していただき、両親からも「お前は苦労を知らないから、親元を離れて修行して来い」と言われて、卒業直ぐに昭和四六(一九七一)年神奈川県大和市の大和工業に入社致しました。
 生まれてから一度も上富良野を離れたことがなく、入社早々にホームシックになり、実家のおふくろが恋しく、夜勤の勤務終了後、毎日のように早朝、無人の会社の事務所でお袋に電話をしていました。
  転 職
 入社四年目に今の妻と知り合い、社内恋愛に発展して昭和五〇(一九七五)年に結婚しましたが、どうしても運転手の仕事が諦めきれませんでした。姉の旦那の親戚の人が北酸運輸株式会社で帯広営業所長をしているとの情報を聞き、姉に相談してつなぎの連絡を取ってもらい、さっそく帯広の会社に行って面接を受けて、なんと念願の採用になりました。
 当時は神奈川県大和市に住んでおりましたが、帯広に転職が決まり、結婚してすぐのことでお金もないため、家賃の安い雇用促進住宅を申し込みました。しかし、空室がないため、一か月単身で下宿して、妻は上富良野の実家に住ませておいて、家財道具は会社の車庫に保管してもらい、一か月後に無事雇用促進住宅に入居できました。
 姉の紹介で会社に入社させていただき、姉の顔に泥は塗れないと必死に働きました。それでも生活は困窮していて、将来へ向けた覚悟を決めました。
 当時は普通免許しか持っていませんでしたので、大型二種、大型特殊、けん引免許、ボイラー二級、危険物丙種、移動監視者、運行管理者と必死で生活防衛のため、資格取得に頑張りました。学生時代より社会人になってからの方が勉強して頑張った記憶があります。それが私の仕事の糧となっていきました。
  私生活
 帯広で再就職して二年目、子供が生まれましたが、基本給だけでは生活が苦しく、寸暇を惜しんで時間外や割増の仕事を引き受け、生活に充てる収入増に苦心しました。
 今では労働基準法が厳しく難しいですが、今から四五年前はそんなに拘束時間、休日出勤もゆるく運用され、昼間はほくさん運輸で高圧ガスの配送、夜は乳業メーカーの牛乳をトレーラーで札幌まで週三回の運行で、睡眠時間は一日三時間程でしたが、なんとか生活を繋ぎました。
 日曜日は休日出勤をして家具の輸送の仕事をしてお金を貯めて、子供も成長して小学校高学年になってから、やっと一〇年目にして宅地を買い、翌年三月二〇日にマイホームの建設のために地鎮祭をして建設に着手しました。マイホーム完成が六月予定で楽しみにしておりましたが、その矢先の三月二二日に突然の辞令が出て、四月一日付で札幌に転勤になり、夢のマイホームへの入居は叶いませんでした。
 夢のマイホームはまさしく夢に終わり、借家として賃貸しましたがローン返済完了と同時に、札幌で現在の住宅を買うための資金に充てるため売却しました。

掲載省略:写真 帯広の公園で〜長男1歳昭和53(1978)年
  札幌に転勤
 札幌に転勤して、当社として初めて食品分野の物流に進出して、札幌の地理も仕事も職場の仲間も知らずに凄く不安でしたが、この転勤が私の人生を大きく変えました。
 帯広ではトラックに一一年乗務して高圧ガスの配送をしていましたが、札幌に来てお客様と会議をすると、飛び交う業界用語が分かりません。周りの先輩に聞いても、初めての物流分野の仕事のため、質問してもその答えの内容自体が理解できず、しばらくは戸惑った記憶があります。また、いきなり管理職に抜擢されて、会社の損益にも責任ある立場となって、非常に苦労したことが思い出されます。
 帯広勤務の時は会社で一番優秀な社員と自負していましたが、札幌に転勤して、歯も立たないくらいに井の中の蛙であったことが身に沁みました。しかし家庭に戻れば妻、子供二人が待っています。どんなに疲れていても子供の顔を見てファイトを掻き立て、またチャレンジして努力しました。しかし、私自身、能力、体力の限界を感じて、帯広の元の上司に帯広で再出発をしようと相談したところ、「本当に真剣に努力したのか」と言われ、私も「札幌に転勤してから一日二、三時間の睡眠時間で半年間努力致しました」と返答いたしました。私の置かれた実情を理解してくれたのか、その帯広の上司が本社の経営トップに「細川を潰すなら帯広に返せ」と打診をして頂いたことを聞き、涙が止まらなくなりました。
 そこから社長以下幹部社員が招集され、お客様と今まで私一人で対応していた仕事が会社全体の対応へと変わり、経営体制の改革に向かって動き出しました。その時私は一人じゃないんだと痛感しました。生活の不安を抱えて悩んでいた時に、元の上司への相談がきっかけになり、会社全体で動いていただいたことで、新たなファイトが湧きあがりました。
 しかし、赤字から黒字になるまで五年の歳月がかかりました。四〇年前に取り組んだコンビニエンスストアの物流も、今では北海道六五〇店舗、東北一二五〇店舗へと業容の拡大が出来ました。

掲載省略:写真 平成5(1993)年6月コンビニエンスストアの視察のためロサンゼルスで
  阪神・淡路大震災
 平成七(一九九五)年一月一七日五時四六分「兵庫県南部地震」が発生し、その被害は死者六四三四名、行方不明三名、重傷者一万〇六八三名、軽症者三万三一〇九名、家屋全壊一〇万四九〇六棟、半壊一四万四二七四棟と、かってないほどの「阪神・淡路大震災」が起きました。(地震の名称とこれによって起こった災害の名称は、一般的には異なることが多い)
 私は、北見に出張している時に地震の一報が入り、すぐお客様と連絡をとって情報収集を行い、翌日にはドライバー一四名と車両七台をもってフェリーで大阪に向かいました。
 尼崎付近まではあまり被害がなく、神戸市付近に近づくにつれ、破壊された住宅と、その前に線香があげられている悲惨な光景が次々と現れました。すぐお客様の会社で打合せをして配送に出ようとしましたが、高速道路が破壊されてストップしていました。一般道路は渋滞で思うようには配送が出来ず、緊急物資輸送許可証をいただいて、その許可証をトラックのフロントに表示して、なんとか配送に従事することが出来ました。
 夜は泊まる宿もなく、お客様の会社の事務所の机の間に布団を敷いて、寝泊まりをして仕事をしました。現地に着いて一週間ほどで少し渋滞も緩和されて、宿も大阪府高槻市に見つかりましたが、八畳に七名が就寝するという状態で、「いびき」がうるさくて十分な睡眠がとれなかったためか、昼間いらいらした社員同士の喧嘩が始まり、その仲裁に苦労したことが思い出されます。この応援で、当社の知名度もかなり上がりました。今思うと、お金では買えない貴重な経験をさせていただいたと思います。

掲載省略:写真 押しつぶされたオフィスビル
掲載省略:写真 震災で倒壊した阪神高速道路
  新しい仕事で失敗
 平成一三(二〇〇一)年に業務用食材の問屋物流に取り組み、新しいシステムでセンター方式の運用に挑戦しました。しかし、我々が掌握していない帳簿外在庫がかなりあり、これを整理するため、五〇〇坪から八五〇坪の冷蔵庫に引っ越しをしました。この倉庫は、中の品物が何処に何があるか分かるロケーション管理の手法を取り入れたものでしたが、帳簿に載っていない在庫が多過ぎることで、倉庫の管理システムがパンクして、一年で七八〇〇万円近くの損害を出す大失敗を起こしました。
  新しい物流センター
 平成一六(二〇〇四)年、北海道の小売り大手が物流改革の一環として、新しい物流センターを建設するとの情報を東京の大手物流会社より入手しました。倉庫運営はその大手物流会社が担当して、足回り配送部門を当社にお願いしたいとのことでした。早速上司に相談したところ、いきなり「ばかやろう」と怒鳴られ、「うちは何をしている会社なんだ」と怒られ、「頭を冷やしてこい」と説教される始末です。私としては新しい仕事の情報を持ってきて、いきなり、なんで怒られているか分かりません。上司に質問すると、配送だけでは面白くないので、当社で建設するので倉庫込みの仕事も取ってこいと言われ「なるほど」と理解致しました。
 地元北海道内のことであり、その新規物流センターを受注でき、業務をスタートして二か月くらいセンターに泊まり込み、センター業務を軌道に乗せるために奮闘しました。
 なんとか二か月でセンターの正常化にこぎ着けて、今ではそのセンターも順調に立ち上がり、二〇年が過ぎて当社の一つの事業に成長しました。
  東日本大震災
 平成二三(二〇一一)年三月一一日一四時四六分、東北地方太平洋沖を震源とする巨大地震「東北地方太平洋沖地震」が発生し、地震の規模はマグニチュード九・〇で、日本周辺における観測史上最大の地震でした。発生した災害を総称して「東日本大震災」と名付けられました。震源域は広大で青森県沖から茨城県沖までの南北約五〇〇キロメートル、東西約二〇〇キロメートル、最大震度七は宮城県栗原市で、宮城・福島・茨城・栃木の四県三七市町村で震度六強が観測されました。特に津波の被害が甚大で、死亡者一万九七七五名、行方不明二五五〇名、負傷者六二四二名に上り、第二次世界大戦後初めてで、関東大震災(一九二三年)、明治三陸沖地震(一八九六年)に次ぐ被害です。
 福島県ではいまだに放射能の影響で故郷に戻れない住民が六万名以上おり放射能の恐ろしさを露呈しています。
 地震発生時、私は愛知県豊田市の自動車メーカーで物流の視察に来ていました。工場見学終了後の会議室で、デスカッションをしている最中に参加者の携帯が鳴り出し、一人二人と席を退室する者が増え、最終的には三分の二の方が退室して、これはかなり重大なことが起きていると感じました。
 翌日以降の物流見学会スケジュールが中止になり、翌日の朝ホテルのテレビで石巻市付近の被災映像見て、すぐに名古屋市の中部国際空港から札幌に戻り、情報収集と対策会議を開きこの結果を受けて、翌日仙台に向けて出発しました。しかし、仙台空港が被災して使用出来ないため、山形空港へ変更になり、そこから陸路仙台市に入りました、
 現地に着き、これは阪神・淡路大震災よりも凄いと感じました。当社としてもトレーラーシャーシ八〇台、トラック二〇台が津波で流され、フェリー埠頭に行くと、当社のシャーシが無残な姿で残されていることに愕然としました。その上に当社パート社員二名が避難途中に津波に呑まれて亡くなりました。本当にあの被災地を見て、戦争の後のようで、道路も破壊され、住宅も流され、田畑には建物の残骸が散乱、倉庫の中は泥と残骸の山、そんな光景を目の当たりにしました。
 特に苦労したことは宿泊ホテルが予約出来ず、福島、山形、盛岡とホテル探しに奔走した事が思い出されます。せっかくホテルを見つけても地震の影響でエレベーターが使用出来ず、一一階まで階段を上ったことがあります。即札幌本社へ被害状況、今後の対応策を報告して指示を仰ぎました。私もこの悲惨な状況をみて何処から手を付けていいのか分からず、呆然として札幌本社へ戻りましたが、本社では既に上層部が凄い勢いで救援物資を準備していました。軽油、トイレットペーパー、自転車、カップヌードル、その他生活必需品を積み込んで一一トン車三台で被災地に向かいました。その凄さに感銘を覚えました。
 その後会社から私に、復興支援責任者として仙台に行けと転勤の辞令が出て、一瞬戸惑いましたが何んとかなるさの精神で、平成二三(二〇一一)年四月に単身で仙台に乗り込み、その年の六月の株主総会で代表取締役社長に就任致しました。
 まずは、車両が二〇台流され補充の必要があったのですが、新車は間に合わないので、すぐディーラーに連絡をとり、埼玉に中古の四トントラックの箱車があるとの情報を得て、埼玉から車両一〇台を購入して、残りの一〇台は地元仙台の協力会社より揃えました。ドライバーは北海道から応援をいただき、なんとか体制を整えて業務を遂行しました。
 私が社長に就いたこの会社は、平成二二年四月に当社が買収をしたもので、当時の売り上げは年間二四億ですが、利益は年間八〇〇〇万の赤字で累損が五億もあり、どこから手を付けていいのか分からず、銀行からの借り入れが凄く、途方に暮れておりました。取りあえず親会社に相談をしてお金を借りて銀行の借り入れを一気に支払うことにしましたが、銀行から猛反発を受けて苦労しました。また従業員の所得が低いのに驚きましたが、親会社からは段階的に対応してくださいとの回答で、徐々に給料を改定して、社員のモチベーションの改革を行いました。
 一一年後の令和三(二〇二一)年には売上五七億、利益四億五千万まで成長して、累損も解消しました。また、札幌にいた娘夫婦も偶然、札幌から仙台に転勤して順風満帆の生活をしていました。

掲載省略:写真 津波に襲われた被災地
掲載省略:写真 大型船も津波に打ち上げられた
掲載省略:写真 集結した車両
  突如札幌に転勤辞令
 私の人生は、突然の辞令により、転機を迎えてきました。
 ある日、札幌で新しい物流センターの業務を受注して立上げましたが、センター運営が上手くいかず、毎月膨大な赤字が出ているが何とかしろと、当時の親会社の社長から札幌に転勤するように内示を受けました。
 その時私の年齢は六九歳で、定年間近かですと理由を述べて、お断りしましたが特例もあるとのこと、この問題を解決出来るのはグループ会社内で「あなたしかいない」とおだてられては承諾するしかありません。
 令和四(二〇二二)年二月に北海道の会社へ転勤して代表取締役社長に就任致しました。その後、今までの経験を活かしお客様と協議した結果、四月には問題が解決できて赤字体質も解消されました。二年ほど社長を務めましたが、私の年齢も七二歳になり、令和六(二〇二四)年三月末で後進に道を譲り社長を退任して、顧問になり現在に至っています。
 退任し顧問になって間もない四月一一日、「鰹、船三井さんふらわあ」が運航するフェリー「さんふらわあ かむい」の命名・進水式が、建造している内海造船活島工場(広島県尾道市)で行われ、招待された多くの関連・協力会社と共に出席しました。この時には多くのお世話になった方々にも会え、退任のあいさつができる機会にもなりました。
 なお、「さんふらわあ かむい」は、LNGと重油の両方が使え、二酸化炭素排出量を三割以上減らせるフェリーとして、今年二〇二五年一月二一日に大洗港と苫小牧港を結ぶ航路に就航しています。

掲載省略:写真 令和4(2022)年全体営業所長会議にて社長として訓示
掲載省略:写真 進水式祝賀会にて
掲載省略:写真 「さんふらわあ かむい」進水式 令和6(2024)年4月11日
  まとめ
1  私が会社に入社して今年で五〇年になり、経験で得たことは、仕事の変化を嫌う人は成長がない。私の人生は常に変化、変化でした。
2  いつも会社の上司から「若い時の苦労は買ってでもしなさい」と教育を受けていました。今、顧問と云う立場になり、その意味がようやく理解出来たような気がします。
3  やはり人間は、ダーウィンの「種の起源」の言葉から、
  何かが起こった時に
   最も強い人、最も賢い人が
    生き残ったのではなく
     その変化に適応したものが生き残った。
4  私は常に相手の事を考えて
   行動することが
    最後は自分に帰ってくる。
 この四つの行動指針により、一三年間社長業を務めることが出来たと、振り返っています。
《私が勤めていたエア・ウォーター物流株式会社の概況》
・本社所在地 札幌市豊平区月寒東2条16丁目1番6号
・創業年月日 1947(昭和22)年北酸商事株式会社としてスタート。
1962(昭和37)年北酸運輸として分離。
・資 本 金 1億7750万円
・従 業 員   3077名
・認可車両台数  1749台
・拠 点 数 61拠点(関東・東北・北海道)
《私の履歴書》
1971年3月   北海道道立富良野工業高校 機械科卒業(現富良野緑峰高校)
1971年4月 大和工業株式会社入社(神奈川県)
1976年10月 北酸運輸株式会社帯広営業所入社 (現エア・ウォーター物流株式会社)
1990年4月  (株)ほくさん総合物流株式会社 食品流通営業所長 (現エア・ウォーター物流株式会社)
1994年10月 大同ほくさん物流株式会社 北海道運輸事業部食品営業所長 (現エア・ウォーター物流株式会社)
1999年12月 大同ほくさん物流株式会社 営業開発室部長 (現エア・ウォーター物流株式会社)
2002年4月 エア・ウォーター物流株式会社 食品物流事業部長
2003年6月 エア・ウォーター物流株式会社 理事 食品物流事業部長
2005年6月 エア・ウォーター物流株式会社 取締役 食品物流事業部長
2008年4月 エア・ウォーター物流株式会社 営業副本部長 兼 営業開発部長
2010年10月 エア・ウォーター物流株式会社 広域営業担当
2011年6月 エア・ウォーター食品物流株式会社 代表取締役社長
東日本エア・ウォーター物流株式会社 取締役
2014年6月 エア・ウォーター食品物流株式会社 代表取締役社長
2021年6月 エア・ウォーター食品物流株式会社 代表取締役社長
東日本エア・ウォーター物流株式会社 取締役
2022年1月 エア・ウォーター食品物流株式会社 代表取締役社長
東日本エア・ウォーター物流株式会社 取締役
エア・ウォーター物流株式会社 代表取締役社長
2022年6月 エア・ウォーター物流株式会社 代表取締役社長
2024年4月 エア・ウォーター物流株式会社 顧 問
《社名変更の経過》
1962年5月   北酸運輸株式会社誕生
1979年6月 ほくさん運輸株式会社に社名変更
1987年8月 株式会社ほくさん総合物流誕生(ほくさん運輸、ほくさん商事合併)
1994年8月 大同ほくさん物流株式会社誕生(株式会社ほくさん総合物流、大同運輸合併)
2000年7月 エア・ウォーター物流株式会社誕生
 (大同ほくさん、共同酸素合併で親会社がエア・ウォーターに社名変更のため)
2010年4月

エア・ウォーター食品物流株式会社誕生

《エア・ウォーター北海道のグループ会社(合計7社)》
【事業会社】
 エア・ウォーター北海道・産業ガス株式会社
 エア・ウォーター・ライフサポート株式会社
 エア・ウォーター・ライフソリューション株式会社
 北海道エアウォーター・アグリ株式会社

【関係会社】
 株式会社ホクエイ
 エア・ウォーター・ラボアンドフーズ株式会社
 株式会社札幌デンタル・ラボラトリー

(注 意)
 エア・ウォーター物流株式会社は本体の物流部門にあり、北海道・本州を統括する会社で地域事業会社には入らない。
掲載省略:図  エア・ウォーター物流株式会社 組織図

機関誌      郷土をさぐる(第42号)
2025年3月31日印刷      2025年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 和田昭彦