― 各地で活躍している郷土の人達シリーズ ―
上富良野で生まれた私のその後
神奈川県横浜市緑区 岩 田 道 顯
昭和二二年六月二四日生(七七歳)
上富良野で生まれ育った私の、歩んだ足跡を紹介する。私は現在、横浜に住んでおり七七歳である。
一 上富良野時代
北海道で生まれたか住んでいる大方の人は、祖先を辿ると道外にルーツを持つ。私の祖父は現在は黒部市となっている山間の村の生まれで、一九〇五(明治三八)年上富良野村の東中地区に入植した。
※ 編集注「上富良野村」:一九八七(明治三〇)年七月「富良野村」として設置、一九〇三(明治三六)年七月「上富良野村」と「下富良野村」に分村、更に「上富良野村」は一九一七(大正六)年四月に「上富良野村(現上富良野町)」と「中富良野村(現中富良野町)」に分村している。なお、「明治三六年下富良野村」は編入・分割・合併の歴史を経て、現在の「富良野市」「南富良野町」「占冠村」になっている。
その後、同郷の女性と結婚している。母も現在の黒部市生まれで、幼少のころ東中に移住してきている。このように父母のどちらもルーツは富山県にあるので私のルーツは一〇〇%富山県ということになる。
私は、一九四七(昭和二二)年に生まれてから、高校卒業までの一八年間を上富良野で過ごした。その間私は、上富良野だったから、あるいはその時だったから遭遇できた多くの体験をしながら育った。それらは、今でも上富良野時代の体験として時折思い出す。その中でも私にとって忘れることのできない二つの出来事がある。
掲載省略:写真 1969(昭和44)年頃 休みに帰郷した際に居合わせた家族・親族と集合写真(筆者は左端、右端は弟)
一−一 修学旅行最終日に十勝岳が大爆発
その一つは、一九六二(昭和三七)年の十勝岳の大爆発である。その日はたまたま中学三年の修学旅行の最終日で、登別温泉の旅館で朝起きたときに先生から、十勝岳が爆発したことを知らされた。不安に駆られながらも予定通り上富良野をめざして汽車で帰ることになった。しばらく走ったところで、十勝岳の噴煙が見えだした。かなり遠いが、噴煙が高く噴き出しているのがはっきり見えた。そのあと通過した最寄り駅の名前は「早来(はやきた)」であった。そのときに初めて早来という地名を知ったのだが、それ以来、早来の地名をニュースなどで目にするたびに、十勝岳の爆発を思い起こすようになってしまった。乗り合わせたおばあさんが、「心配だねえ」と声をかけてくれたことも忘れられない。
東中に帰り着いた頃には、噴煙は横に大きくなびいていた。のちに、朝方に撮った写真を見せてもらったが、それには十勝岳から勢いよく、空高く噴き出している大噴煙が写っていた。二〇〇〇mを超える十勝岳が、低山に見えてしまうほどの大噴煙であった。修学旅行から帰ってきたときに私たちが見た噴煙は、時間が経過し噴火が少し収まってきた頃のものと思われる。そのときの火山灰は、知床半島まで到達したと新聞には書かれていた。
掲載省略:写真 中学校修学旅行最終日の記念写真1962(S37).6.30
掲載省略:写真 東中へ帰ってきたときには噴煙は東へ大きく流されていた:1962(S37).6.30
一−二 富良野高校焼失に衝撃
二つ目は、一九六五(昭和四〇)年六月一八日に富良野高校の校舎の大部分が焼失した火災である。そのとき私は高校三年生であった。夜中に消防のサイレンで目を覚まし自宅二階の窓から見ると、富良野の街中と思われる当たりに火の手が見えた。響き渡るサイレンの音から判断すると富良野盆地のあちこちから消防車が駆けつけている様子なので、大きな火災であろうと推察された。もしかしたら炎の方向は高校あたりかもしれないと一瞬不安がわいたが、いつまでも消えないので、そのまま就寝することにした。
朝テレビをつけると「富良野高校全焼」の文字が大写しになっていた。当時は、写真映像を送る手段が限られていたので、文字だけのニュースだったが、衝撃を受けた。とりあえず登校して、炭で真っ黒になりながらも私たち生徒は、黒焦げになった柱を引きずるようにして黙々と運び出した。一生懸命になって焼け跡を片付けたことは、六〇年たった今でも忘れられない。
私たち三年生は、優先的に焼け残った教室で授業を受けることができた。しかし、下級生たちは、市内の小学校・中学校・高校の校舎に間借りして授業を受けるはめになった。なんとか急場をしのいだが、生徒も先生も大変な苦労を強いられた。
この二つのことは、中学校・高校で席を同じくした旧友たちにとっても、私と同じように、記憶に深く刻まれ決して忘れることのできない出来事になったに違いない。
一−三 農作業手伝いの経験も忘れられない
さらに付け加えるならば、中学・高校生時代は、農作業をよく手伝ったということであろう。生家は、水田・畑で農作物を栽培し、牛馬を飼う農家であった。この時代は皆、子供も働き手の一員とみなされ、農作業を手伝うのは当たり前のことであった。私も、春から雪が降るまでの間は、学校から帰ると弟と一緒に仕事を手伝った。この期間は、家で勉強をする時間は限られていた。その分、学校での授業に集中した。冬になると、農作業は減り勉強時間を確保できるので、冬の期末試験は少しだけ成績が良くなった。
刈り取った稲束を乾燥させるための稲架(はさ)掛けは、必ず夜なべ作業であった。そのときに見た、空からこぼれ落ちるような満天の無数の星、少しずつ位置をずらす天の川、十勝岳から決まった時間に昇り時刻を知らせてくれるプレアデス星団(昴(すばる))は今も忘れることができない。
ヤギの乳しぼりは私の役割であった。ヤギは私によくなついてくれ、大学に入って帰省したときにも、嬉しそうに身をすり寄せてきた。牛たちも、大きく目を見開き懐かしそうな表情で、私を迎えてくれた。
これも、私の上富良野時代の想い出である。
二 会社員になって
一九七〇(昭和四五)年四月に、私は明治製菓に就職した。新人研修を経て配属されたのは、中央研究所生物室であった。生物室は、農薬と動物用医薬品の新薬探索や開発研究を行うのが主たる目的の研究室である。私は、大学で植物病理学を専攻していたので、必然的に農業用殺菌剤に関する業務を担当することになった。米国留学や他の研究所出向はあったものの、私はこの研究所で定年まで研究員として働いた。
当時の明治製菓は、製菓事業と薬品事業を二本柱として営む会社であった。中央研究所は、そのうちの薬品事業傘下の研究所であり、主要な業務は、医療用新規薬品の探索と開発研究となっていた。医薬品を中心に構成されている研究所であるので、私の所属する研究室は医薬品の研究室と比べると規模は小さく機能は細分化されていなかった。自分たちで完結できない機能は、一部、医薬品の研究室に補完してもらっていた。また、医薬品探索担当者との共同研究や人事の交流もあった。
掲載省略:写真 新入社員研修の際の記念写真(筆者は最後列右端)1970(S45).4
掲載省略:写真 入社の頃の明治製菓中央研究所1970.4
私が勤務する研究所は横浜市内にあったため、私はその後、横浜に住み続けることになった。明治製菓の本社に近い東京駅に初めて降り立ったときには、東京の空気は匂いがすると感じた。また、水道水も生ぬるく、これも匂いがした。
しかし、横浜に住み続けるとこれらは次第に気にならなくなった。大気汚染が改善されたせいか、水道水の水質が改善されたのか、それとも時間の経過とともに私がこれらに慣らされて感じなくなってしまったためなのか、その両方なのかは分からない。
横浜に住んでみて、最初の冬は(今でもそう思うのだが)、上富良野に比すとここは天国であるように思えた。毎日が快晴でポカポカ陽気で、雪はほぼ降らない。最低気温も氷点下五℃まで下がれば記録的低温扱いであった。上富良野が地獄≠ニいうわけではないが、上富良野には身をもって体験したことのない人には理解できない冬の厳しさがあった。
例えば、氷点下三〇℃以下になったため学校が休校になったとか、吹雪が激しくなってきたので授業を切り上げホワイトアウト状態の中を集団下校したとか、走ると耳が風を切って凍傷になるので冬は走るのは厳禁などである。体験したことのない人に冬の厳しさを分かってもらうのは、ほぼ不可能である。いくらこんなことがあったと事例を挙げて説明しても、実際に五感で感じてもらえるわけではないので限界がある。さらに、稀ではあるが大袈裟な話£度にしか受け取ってくれない人もいる。
三 イネいもち病防除剤プロベナゾールとの出会い
私が所属した研究室でプロベナゾール(商品名:オリゼメート粒剤など)に出会ったことが、私の生涯の生き方を決定づけたことは間違いない。
プロベナゾールは、イネいもち病に有効であるとして、私が所属した研究室で選抜・最適化された化合物である。いもち病は、カビの一種がイネに感染することによって発生し、日本をはじめ東南アジアの稲作にとって最大の病害となっている。感染部位によって、葉いもちと穂いもちに分けられ、穂いもちの方が実害が大きい。しかし、穂いもちの感染源は葉いもちであるので、葉いもちの発生を少なくすることが、穂いもちの発生を少なくすることにつながる。プロベナゾールは、葉いもちに有効な薬剤で、田面水に粒剤を散粒する方法で使用される(現在は、育苗箱処理が主要な使用法となっている)。
プロベナゾールは、私が入社したときにはまだ公的な試験機関で行う圃場有効性や使用法を確認する段階であり、開発の途上にあった。その後二〜三年圃場試験を重ねることにより有効性、使用法を確立することができ、農水省(当時はまだ農林省)に申請し、一九七四(昭和四九)年に農薬登録を取得した。これでようやくプロベナゾールを発売する準備が整った。
ところが、一九七三(昭和四八)年からの第三次中東戦争が引き金となってオイルショックが誘発され、石油製品が異常に値上がりする事態となった。プロベナゾールも石油製品から合成するため、大幅な合成コスト増は避けられず、農家の人に買ってもらえる価格にならないと判断された。せっかく開発したプロベナゾールなのだが、発売断念という苦渋の決断を下さざるを得なかった。
それでも、発売は断念したものの圃場試験だけは続けることにした。そして、この年に各地でいもち病が大発生した。農家の人はその防除に苦慮したのであるが、一方で、プロベナゾールを施用した水田だけはほぼ完全にいもち病の発生を抑えていた。たまたまではあるが、いもち病が大発生したことにより、私たちはプロベナゾールの防除効果の再発見≠することになった。このような卓越した防除剤を農家に届ける必要があると判断し、一九七五(昭和五〇)年にプロベナゾールの販売を開始した。
プロベナゾール製剤の価格は高いままであったが、すぐれた防除効果についての情報が広まり、販売開始後、紆余曲折はあったが順調に全国の稲作農家に受け入れられていった。その結果、プロベナゾールは、殺虫剤や除草剤も含めても国産の農薬の中では最も多い売上高を記録するようになった。このようにして、プロベナゾールは、いもち病防除剤の特効薬として揺るぎない地位を確立することになった。
四 プロベナゾールの作用機構が抵抗性誘導であることの発見
順調にプロベナゾールは使用面積を伸ばし全国に普及していったのであるが、私の興味は、プロベナゾールの作用機構解明にあった。
四−一 プロベナゾールの作用機構解明のアプローチ
![]() 図1. いもち病菌感染により活性化されるイネ脂質代謝系 |
![]() 図2. プロベナゾールの作用機構の概略 |
プロベナゾールは、カビの感染症であるいもち病の発病を抑制するにもかかわらず、いもち病菌に対しては実質的には抗菌作用を示さない。それなのに何故、プロベナゾールはいもち病に対して高い発病抑制効果を発揮することができるのか。それが疑問であると同時に、そこには何か新しいメカニズムが働いていることが予想された。
私に社命として課せられていた研究課題は、新規の防除剤の創生であったが、プロベナゾールの作用メカニズム解明にも自分自身の研究テーマとして取り組むことにした。
その当時、植物病理学の分野では、病原菌と宿主植物との相互関係について、植物の「防御応答」の観点から調べる研究が行われていた。防御応答を電子顕微鏡などを用いた形態的な変化から解析する研究も発表されていたが、私が興味を持ったのは、植物生理・生化学的な変化からの解析である。これまでに防御応答として報告されている生化学的な現象を、私は研究室に備えられている最新の分析機器を用いて解析することにした。新しい解析手法を開拓する必要があったが、比較的容易に実験データを得ることができた。
四−二 プロベナゾールの作用機構が抵抗性誘導であることを発見
解析の結果、プロベナゾールを処理したイネでは、植物の細胞壁の内側を補強する物質の生合成系が活性化していることが観察された。植物の細胞壁この物質は、防御応答では、病原菌の感染に対して「物理的バリヤー」として機能するとされている。しかも重要なことは、プロベナゾールを処理しただけではほとんど応答がなく、いもち病菌を接種したときに特に活性化していたことである。
また、これは複数の研究員と共同で行った実験であるが、プロベナゾールで処理し、いもち病菌を接種したイネでは、抗菌性物質が蓄積されていることを発見した。抗菌性を有する化合物の蓄積は、防御応答では病原菌の感染に対して「化学的バリヤー」として機能していると見なすことができる。
プロベナゾールの作用機構を、図1、図2にまとめて表示した。
防御応答を時系列的な観点から見てみると、感染直後に活性酸素が発生することによる過敏感細胞死が誘導され、続いて化学的バリヤーが構築され、そのあとに物理的バリヤーが形成されるという順になる。
このような実験結果から、プロベナゾールは、「抵抗性誘導物質」と位置付けられるようになった。
四−三 プロベナゾールは日本発の世界初
抵抗性誘導物質は、これまでの実験結果が示したように、植物がもともと持っている防御機能を、病原菌が感染するときに誘導・亢進(こうしん)させ、それによって病害の発生を抑制する薬剤であることを意味する。いわば、植物の力≠上手に引き出して、発病を抑制する薬剤であることを示している。抵抗性誘導物質として実用化されたのは、プロベナゾールが世界で最初である。
私たちは、日本発でしかも世界初≠めざして日々研究を続けているが、プロベナゾールの発見とその開発成功は、その両方を実現することのできた数少ない例である。プロベナゾールの成功は、世界の化学企業に新たな抵抗性誘導剤の探索を動機付けることになった。また、植物自身が病原菌の感染に対抗できるほどの強力な機能を持っていることが実証されたことで、様々な方法で、その機能を引き出す研究が盛んに行われるようになった。それらの研究をサポートする情報がほしいということで、私は、プロベナゾールの開発と作用機構について説明する講演やセミナーを、定年まで幾度も求められた。
四−四 抵抗性誘導剤は耐性菌出現の可能性が低い
抵抗性誘導剤は、一般的に病害防除に用いられている殺菌剤とは、防除原理が全く異なる。殺菌剤は病原菌に直接作用して防除するのに対し、これまで述べてきたように抵抗性誘導剤は植物を介して(植物を強くして)発病を抑制する。殺菌剤には常に耐性菌出現のリスクがつきまとう。
耐性菌は、遺伝子の変異で出現した低感受性菌を殺菌剤で選抜することでその密度を高め、顕在化する。その結果、防除効果が低下し、その薬剤を使用し続けることができなくなる。一方、抵抗性誘導剤は発病抑制効果を発現させるときに、病原菌を選抜する過程がない。原理的(作用発現の際に病原菌選抜の過程がない)な観点からは、抵抗性誘導剤に対する耐性菌出現の可能性は低いと考えることができる。実際にも、プロベナゾールは五〇年間使用され続けているが、これまでに耐性菌が出現したとの報告はない。
四−五 抵抗性誘導剤は次世代型防除剤
抵抗性誘導剤は、その作用発現の過程で殺菌作用を必要としない。すなわち、殺生物性を求められない。このように抵抗性誘導剤は、環境中の生物に直接的な悪影響をおよぼすことなく使用目的を達することができる。先に述べたように耐性菌出現の可能性も低く、これからの防除剤のあり方を先取りする薬剤である。次世代型防除剤であるとも言える。
私は、このような特性をもつプロベナゾールに、定年まで(退職した現在も)関わることができたことを嬉しく思う。私はまた、抵抗性誘導物質の作用機構研究を長きにわたってリードすることができたと、密かに自負している。
五 病原菌に存在する自己矛盾物質の発見
五−一 病原菌に存在する自己矛盾物質の発見の端緒
プロベナゾールの作用機構に関する研究の過程で、接種試験に使用するいもち病菌の胞子懸濁液(けんだくえき)は、オートクレーブという装置で高温・高圧滅菌したのちに廃棄していた。
あるとき廃棄する前に、滅菌済の胞子懸濁液をイネの葉に塗布処理してみた。そうすると、驚くべきことに、このイネでは生きている胞子が感染した場合と同じような防御応答がおきていることが観察された。これは、胞子の生死にかかわらず、イネの防御反応が開始されたことを意味する。滅菌胞子懸濁液の中に防御応答開始の引き金となる耐熱性の物質が含まれていることを示している。これは、病原菌であるにもかかわらず病原菌が宿主に感染するのを妨げてしまう物質を、病原菌自身が持っているということを意味する。生物学的に矛盾した不合理な理解しにくい現象の発見でもある。
五−二 病原菌に存在する自己矛盾物質の単離
この発見は、私の好奇心と興味を大いに湧きたたせることになった。さっそく、私はこの物質を、精製し単離することにした。この物質は、滅菌胞子懸濁液中に溶けだしてきていたので、水溶性物質であると判断された。それで精製は、水溶性物質を単離するときの手法を用いることにした。液体培養した大量の菌糸を液体窒素で凍結させ、粉砕し、分画したものをイネに処理して活性画分を特定するという作業を繰り返し、防御応答の引き金となる物質(プロテオグルコマンナン)を、単離することができた。
その化学組成を調べたところ、この物質はマンノースを主成分とする糖鎖とたんぱく質(プロテイン)から成ることが分かった。糖としてグルコースも少量含まれていたので、この物質は、プロテオグルコマンナンと同定した。このような働きをする微生物由来の物質はその後、いくつかの論文で発表されるようになった。そのような物質は「エリシター」と呼ばれている。また、最近では、植物や動物の防御応答を活性化する微生物由来の分子群を「MAMPs」(Microbe Associated Molecular Patterns;微生物関連分子パターン)と総称している。MANPsによる防御応答は、動植物で共通する「自然免疫」と考えられる。周知のように動物では、自然免疫に加え抗体の産生を伴う「獲得免疫」が存在している。
六 プロテオグルコマンナンに関する研究で博士号を取得
自己矛盾的な働きをするプロテオグルコマンナン(後述)について得られた実験結果を、学会で口頭発表した。発表後、参加していた東京大学応用微生物研究所(現在は分子細胞生物学研究所と改組)の大岳(おおたけ)望(のぼる)教授から、「君、それを博士論文としてまとめてみたらどうかね」と声をかけられた。
大岳教授とは、新規抗生物質の探索で共同研究を行っていたので、互いに旧知ではあったが、プロテオグルコマンナンに関しては共同研究の枠外であり、教授にはその情報を公開していなかった。そこで、実験結果を教授に開示し、論文を書き上げるために必要な補完実験などについて助言をいただいた。補完実験は順調に推移し、論文を構成するデータがそろった。論文の執筆は、まだ、ワープロのない時代だったので、手書きで書き進めた。
推敲(すいこう)の過程で、何ページ分も書き直すこともあった。会社の業務とは直接関係のない研究だったので、論文の執筆は休日に少しずつ進め、それを続けることで全体を完成させた。今となれば、このような作業は懐かしくもある。論文の表題は少し大風呂敷を広げ「いもち病に対するイネの生体防御機構」とした。
論文提出後、教授たちによる審査や、複数の外国語試験などを経て、所定の学力を有するもの≠ニ認定された。それを受けて、東京大学から一九八三(昭和五八)年九月五日付けで農学博士号を授与された。
博士号の取得は、社外では名刺に記載された肩書が権威付けになる場合があるが、社内では何の意味も持たない。人事考課や、ポストにも反映されることはない。あくまでも、個人的な資格・出来事として扱われる。また、研究所の男性研究員の三人に一人は博士号を持っており、博士号の取得は特別なことではなかった。
博士号の取得を喜んでくれたのは、家族であり、特に父であった。父は、上富良野の実家で、親戚中を集めてお祝いの会を開いてくれた。このとき私は、初めて親孝行をすることができたと思った。
七 同期入社の友人との競争
私が配属された研究室には、二人の同期入社の男性がいた。そのうちの一人は、東京生まれで東京大学卒業であった。彼は、友人であり仲間であったが、仕事や研究に関してはライバルでもあった。団塊の世代なので多くの新人が中央研究所に採用・配属されたが、その中でも彼には負けたくなかった。彼も研究に打ち込み、私が博士号を取得してからほぼ一年後に、彼の母校から博士号を授与された。
私が一方的に彼との競争を意識しながら研究を進めていたつもりだったが、退職してから彼と会ったときに「岩田さんにはどうしても研究では勝てなかった」と話してくれた。彼も私のことをライバル視していたのだと、そのとき初めて知った。上富良野という小さな町の農家に生まれ農作業を手伝っていた私と、東京で恵まれた環境に育ち東京大学まで出た彼とでは、生い立ちに大きな違いがあった。
頑張れば、そのような人と、同等かあるいはそれ以上の研究成果を出せることを知ったことは嬉しい体験であった。残念ながら彼は、すでに故人となっている。
掲載省略:写真 2006(H18).1.31;研究室のメンバーと人工気象室の中で(筆者は前列左から3人目)
八 プロテオグルコマンナン研究のその後
図3. いもち病菌の侵入に対応するイネの情報伝達系概念図
プロテオグルコマンナンは、先に述べたようにイネに処理すると防御応答を誘導する。そこで、いもち病防除剤として使用できないかを調べたが、水溶性物質なのでイネの葉に浸透せず発病抑制効果は得られなかった。
しかし、植物の防御応答研究の材料としては使用できる。病原菌が感染したかのような反応を誘導するので、生きたいもち病菌を用いる代わりにモデル実験的に用いることができる。プロテオグルコマンナンを用いる方が、実験系を単純化できるので、より有用である。
入社したときの私の研究室の室長でのちに玉川大学の教授に転出した関沢泰治博士が、プロテオグルコマンナンの有用性に目を付け、大学で行ったほとんどの研究でこれを使用してくれた。関沢教授は、いもち病菌が感染した直後のイネの生化学的反応についてプロテオグルコマンナンを使ってモデル実験を行い、多くの知見を得た。そして、感染情報の伝わり方は、リン酸化カスケードなど動物のそれと類似していることを見出し、新たな情報伝達系の仮説を提唱した(図3)。私も、この研究に関わることができた。
また、関沢教授は、室長時代も教授になってからも、私が興味本位に個人的に行っていた研究を引き立てサポートしてくれた。深く感謝している。
九 ウイスコンシン大学留学
一九八六(昭和六一)年一〇月から一年三ヶ月の間、会社の留学制度を利用して、アメリカ中西部に位置するウイスコンシン州のウイスコンシン大学に留学した。ウイスコンシン大学は州都マディソン市にある。マディソン市は上富良野と似たような気候で冬は寒く、到着したころはすでに紅葉が散り始めていた。街は自然豊かで四季を問わずいつも景色が美しかった。特に秋は、紅葉に囲まれ美しかった。大学のキャンパスは市街地の三分の一ほどを占める広大なもので、湖のほとりにあった。市内にはほかにもいくつかの湖があり、冬にはそれらは全面凍結した。湖は市民の憩いの場であり、市民は湖面や氷面スポーツのほか、釣りなどで楽しんでいた。
留学先は、Department of Plant Pathology(植物病理学科)にあるLuis Sequeira教授の研究室であった。私のウイスコンシン大学における肩書は、Visiting Scientistであった。Sequeira教授の研究室の主要な研究テーマは、植物と病原菌の相互作用解析であった。その研究を、ナス科の植物とそれに感染して青枯病を発症させる病原細菌Ralstonia solanacearumを用いて行っていた。Sequeira教授は、この分野の研究では世界的権威である。私は、感染直後に生じる過敏感細胞死について、植物側の反応を解析する実験と、病原菌が分泌する過敏感誘導物の機器分析などの実験を担当した。研究室では、担当する研究のほかに、当時、勃興期(ぼっこうき)にあった分子生物学的手法を学ばせてもらった。留学中に得られた知識・情報と、実験手法は、日本へ戻ってからの研究に大いに役立った。
二〇〇一(平成一三)年に、ウイスコンシン大学で開かれた国際学会に参加する機会を得た。そこで、Sequeira教授や、彼の研究室から巣立っていった同窓生と再会し、十数年前を懐かしんだ。
その中でも、私にとって特別な存在であったのは、Dr. Douglas Cookである。私が在籍していたころ、彼はまだ大学院生であったが、すでにカリフォルニア大学の教授となっていた。彼には、毎日のように、特に分子生物学的な実験では様々なことを教えてもらった。私生活でもお世話になった。彼は、帰国時に置いてきた私の車を売却してくれ、その売却代金の小切手を日本に送ってくれもした。彼とはその後、つくば市で開催された国際学会の場でも、再度会うことができた。
掲載省略:写真 1986(S61).12:クリスマスパーティでDr. Douglas Cookと
掲載省略:写真 2001(H13).7:ウイスコンシン大学Department of Plant Pathologyの建物の前で(国際学会参加で再訪)
一〇 マディソンでの生活と体験
一〇−一 スケールの大きさは日本と比べものにならない
アメリカでは日本と比べ物にならないほどの国土の強靭さとスケールの大きさ、資源の豊かさ、自然の豊かさを体験した。また、人々は、余裕を持った心で生活し、他人に対しては大きな包容力を持っているように思われた。住み心地もよく、だれもがゆったりとした人生を過ごしていける国であるように感じた。
私の留学先であるDepartment of Plant Pathologyは、八階建てのビルの大部分を占めていた。教授が何人もおり、日本の大学の植物病理学研究室を全部集めたくらいのスケールがあるのではないかと思われた。また、他のDepartmentでも植物病理学を研究題材としている教授が何人もいた。このようなスケールで植物病理学の研究が全米の大学で行われているとなると、日本の学者や研究者が一生懸命頑張ったところで、アメリカには到底かなわないと強く感じた。スケールの大きさは成果のレベルにも関わることなので、他の研究分野を含めて日米の差はどんどん広がっていくであろうと感じた。最近調べてみたところ、ウイスコンシン大学関係者でノーベル賞を受賞した人は、二〇名以上いた。
一〇−二 娘たちは市の負担でタクシー通学
娘たち二人は、マディソン市内の小学校と中学校に入学した。二人は、英語を母国語としないESL(English as Second Languages)のクラスがある学校に通うことになった。そのクラスは市内の限られた学校にしかなく、私の家族が居住したところからは遠方にあった。そこで二人の通学は、スクールバスではなく市が手配したタクシーを使うことになった。実際に、毎朝二台の車がアパートの前に迎えに来て、小学校と中学校にそれぞれ送り届けてくれた。
私がアメリカの包容力を感じたのは、そのタクシー代を市が負担し、学費までもが免除されていたことである。私のビザは、税金が免除される種類のものであり課税されなかった。税金も払っていない外国人のために、教育費用の一切を援助してくれるとは夢にも思っていなかった。私は、日本に外国人の教育を援助するこのような仕組みが用意されているとの情報に接したことがなかった。おそらく、日本にいる外国人の子供たちのほとんどは不自由な状態に置かれたままなのであろうと思うと、アメリカとの違いを比較してしまった。
日本では、会社・研究中心の生活で事実上の母子家庭状態であった。家族には寂しい思いをさせていたが、アメリカでは家族と過ごす時間を多く取れた。
娘たちのマディソン市での生活体験は、その後の彼女たちの進路と人生に大きな影響を与えることになってしまった。彼女たちは、日本の高校を卒業するとアメリカの大学に入学し、そこで生活し、卒業した。さらに、孫までもそれに続いている。
掲載省略:写真 毎朝タクシーが迎えに来る1987(S62).3頃
一〇−三 アパートの庭に住んでいた動物
私たち家族が住んだアパートの部屋は一階にあり、掃き出しの窓の外には庭があった。庭の草むらのなかに小さな穴がいくつか開いており、そこには、thirteen liners squirrelという一〇pくらいの大きさのリスの仲間が住んでいた。吐き出しのところへピーナッツを置くと、穴から出てきてそれを食べるようになった。食べる前に、プレリードッグのようにすっくと立ち上がり、周りを見回すしぐさが可愛らしかった。
春のある日、感動することがおきた。いつものようにピーナッツを置くと、いつものthirteen liners squirrelが数匹の子供たちを連れてやってきたのだ。「ワー、見て見て」と家族で感嘆の声を上げた。いつの間にか母親になっていたのだ。まるで、今日はお披露目の日ですよと子供たちを連れてきたかのようだ。そのあとその家族は、秋まで庭をかけまわり私たちを和ませてくれた。冬には、同じ場所にカケスの仲間ブルージェイがけたたましい鳴き声とともにピーナッツをついばみに来た。
掲載省略:写真 アパートの庭に住んでいたthirteen liners squirrel1987(S62).4頃
一〇−四 サマータイムに注意
慣れていない日本人には、サマータイムには注意が必要だ。特にその開始の日を知っていないと、大変なことになる。懇意にしていた日本人は、子供たちをいつもの時間に学校へ送り届けたので、遅刻させてしまった。私は気が付いたからよかったが、飛行機に乗り遅れるところであった。
元の時間に戻る初冬には、それまでの日よりも一時間遅く帰宅することになる。そうするとまだ明るさが残っていた前の日とは異なり、真っ暗な中を星空を見上げながら帰宅することになる。急な時刻の変更は、不思議な感覚に陥る。
一〇−五 帰国後は日本の浮かれ方に違和感
一九八八(昭和六三)年に帰国すると、日本経済はバブルに浮かれていた。多くの人が、今にも日本経済は、世界一になり、世界をリードしていく国になると信じていた。しかし、私はそれには違和感を覚えた。たしかに、当時、アメリカ経済は日本に追いつかれそうで、自信を無くしていた。けれどもアメリカに住んでみると、アメリカの社会インフラは日本と比べものにならないほど強固なものであり、日本は絶対にアメリカを追い越すことはできないと確信できた。
日本の何倍もの面積があるアメリカ全土にくまなく高速道路が張りめぐらされ、しかもその利用はほぼ全てが無料であり、走っている車は大きく、燃費は非常に悪いがその分ガソリンは安く(〇・二〇〜〇・二五ドル/L)、石油は自国で大量に採掘され、住んでいる家は大きくしかも広い土地にゆったりと建てられ、何日にも亘って車を走らせても景色が変わらないほど続く小麦やトウモロコシ畑など、多くは日本が追い越せないものばかりある。帰国した私に、自信ありげに「日本は今すごいことになっている。日本は今も、これからも、世界をリードしていくんだよ」と説明してくれる人もいた。日本をしばらく離れ、浦島太郎になってしまった私に、親切心から説明してくれたのであろうが、私には、ほとんどの日本人は、井の中の蛙になってしまったように思えた。
その後三五年間の日本経済の推移をみると、経済成長はほぼ止まり、世界の国々からどんどん追い抜かれていくことになった。不幸にも、その当時感じた私の予感が当たってしまった。
一一 プロベナゾールなどの抵抗性誘導剤の作用機構研究のその後
図4. 防御反応誘導における情報伝達系とプロベナゾールの推定作用点
会社では、売れている薬剤の作用機構を研究するよりも、新しい薬剤を見つけ出すことが求められる。プロベナゾールは、植物の抵抗性を誘導することで発病を抑制する薬剤であることはすでに述べた。プロベナゾールの作用機構をより詳細に解明するための研究は、私は、個人的な興味のような位置づけで、定年まで継続して行った(もともと、個人的な興味で始めた研究であったが…)。
プロベナゾールの成功例に動機づけられて、世界の化学会社からいくつかの抵抗性誘導剤が開発され、それが農業場面で使用されるようになった。私の研究室や、抵抗性誘導剤に興味を持っている大学・研究機関による研究は、それら抵抗性誘導剤の作用の類似性や違いを比較検討することで進められた。そして、生化学的な解析に加え、遺伝子発現解析など分子生物学的な手法を導入することで、より詳細に研究が進められた。その結果、抵抗性誘導剤の作用機構研究は大きく進展した。(図4)
私の研究室で行ったプロベナゾールで発現が誘導されるイネ遺伝子の研究では、御堂直樹博士(現在は東京医療保健大学教授)と、梅村賢司博士の貢献が大きかった。
かなり、作用点は絞られてきたが、プロベナゾールの受容体はまだ特定できていない。受容体が特定されると、その立体構造を解析することが可能になり、受容体にプロベナゾールよりもより完全に結合できる分子をデザインすることができる。これからの課題である。
一二 「植物防御システム研究所」出向
一九九六(平成八)年一〇月から、新潟県に設立された研究会社「植物防御システム研究所」に出向した。この会社は、農水省が七割を、残りを明治製菓など民間数社が出資して設立した七年間限定の研究組織である。
私は、後半の三年間、代表権のある所長として研究活動に参加した。この会社は、社名のとおり植物の防御システム≠ノついて研究する会社である。当初から明治製菓の別の研究所から派遣されていた古賀仁一郎博士(現在は帝京大学教授)は、すでに素晴らしい成果を上げていた。この会社が設立される前に、派遣されることが決まっていた彼が、私のところへ情報収取に来たことがあった。その際に、プロテオグルコマンナンの経験から、エリシターの探索を行うのならば水溶性ではなく脂溶性物質の方が好ましいと助言した。彼はそれを研究に反映させ、新たなエリシターとして、脂溶性物質セレブロシドを発見していた。
七年間の研究期間が終了したのちに、社長となった私がこの会社を清算させた。そして、出資会社の責任として明治製菓が、セレブロシドを抵抗性誘導剤として実用化させるための業務を引き継ぐことにした。研究の進捗管理よりも、会社運営の難しさを体験した三年間であった。
新潟は、雪深い地域とのイメージがあるが、私が暮らした新潟市は、雪はほとんど積もらない。積もっても、一週間ほどで完全に溶けてしまう。それよりも、日本海側から流れてくる黒い雲が上空を覆い、毎日のように雷を伴ってあられ混じりの雨が斜めに吹き付け、傘も役に立たなくなるのがこの地方の冬の本当の姿であろう。
一三 大学・大学校の非常勤講師
二〇〇三(平成一五)年十月から二〇一七(平成二九)年三月まで、岩手大学の非常勤講師を務めた。また、二〇一六年四月からは、「かながわ農業アカデミー」の非常勤講師を務めている。ほかには千葉大学で三年間、客員教授を務めたこともある。
岩手大学では「生物制御化学」の授業を、集中講義の形式で担当した。会社の業務ではないので、有給休暇の届を出して授業に対応した。授業は、病害虫・雑草の説明、それらから作物を護るための予防法・防除法、防除剤の作用メカニズム、食の安全安心に関わるような内容で構成した。基本的には、学生たちが卒業後に農業技術指導者になることを前提とした。三〇時間分の授業を三日間で一気に行うのは大変だが、学生たちも大変である。
それでも、最後に試験を行うと、学生たちは設問に真剣に取り組み、私の授業を理解した答案を提出してくれた。学生にとっても、私の授業分野は未知の事柄が多く、新鮮さを感じたようだ。「このような授業は、日本の全ての農学部で行うべきだ」という感想を、試験用紙の余白に書いてくれた学生もいた。先生にだけはなるまいと、昔から決めていたが、学生のこのような反応を目の前にすると、先生も悪くないなと、決意≠ェ揺らいでしまう。
かながわ農業アカデミーは、神奈川県立の農業大学校に相当する組織である。高校を卒業したばかりのクラスと、農業に転職あるいはすでに農業をしているが学び直しをしたい人たちで構成されているクラスを担当している。どちらも「作物保護」の授業を教えている。基本的には岩手大学で教えていた内容と同じであるが、こちらでは、科学的≠ノよりも農業現場≠ノ役立つ情報の提供を重点に置いている。農業を志す人たちのクラスは、年齢が二〇〜六〇歳程度と幅が広いが、共通しているのは、意欲の強さと真剣さである。質問も多く、熱意を感じる。
食の安全安心については、授業では「全ての化学物質は安全ではない、しかし、不安全でもない。全ての化学物質は、ある量を超えると有害であるが、それ以下では無害である」との考えを伝えている。化学物質の健康に与えるリスクは、化学物質の毒性の強さの強弱ではなく量で決まるとの考え方である。この考えを理解してもらうために例えとして
「毎日飲んでいるコーヒーやお茶には、経口急性毒性のレベルが劇物≠ノ相当するカフェインが含まれている。しかし、毎日コーヒーを飲んでも健康に悪影響はない。それは、含まれているカフェインの量が微量だからである。つまりそれ以下≠セからである」
を紹介している。残留基準値はある量≠フ一〇〇分の一〜一〇〇〇分の一となるように設定されている。
会社では専門用語や業界用語を普通に使用していたが、学生にはそのままでは通じない。平易で一般的な言葉に置き換えるように心がけてはいる。しかし、無意識にその言葉を発していることに気付き、説明しなおすこともある。学術用語を平易な言葉に置き換えること自体がそもそも難しい。
授業では学生に、その時々の動向や、新しい技術の開発状況、将来予測などの情報を提供することに務めている。そのためには、私自身の頭の中も常にアップデートしておかなければならない。私も年齢を重ねてきたが、まだまだ日々勉強であると、自分自身に言い聞かせている。
一四 おわりに
生まれ育った上富良野時代と、会社ではほとんどを研究員として歩んできた私の足跡を、なるべく平易に紹介したつもりである。独りよがりで自己満足的な内容になってしまったが、私の書いた文章に興味を持ってくださる方がいるとすれば望外の喜びである。なお本稿で取り上げた植物の防御機構に関する情報は、「郷土をさぐる会編集委員」の申し出を受け入れて、極端な専門用語を使わず平易に心がけたが、全容の一部はWebサイト「Dr.岩田の植物防御機構講座」
https://www.mc-croplifesolutions.com/suitozai/oryze/dr-iwata/
にも掲載されているので、関心のある方は閲覧願う。
私は、二〇二二(令和四)年三月に植物病理学会の永年会員に推挙された。論文投稿・学会発表は行ってきたが、学会活動にはほとんど貢献していない。学生のときから永き≠ノわたって学会費を納め続けたことが評価≠ウれたか。
本稿の執筆を勧めてくださいました、「郷土をさぐる」編集委員会と、東中小中学校時代の同級生である高松克年さんに深謝いたします。
終わり
機関誌 郷土をさぐる(第42号)
2025年3月31日印刷 2025年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 和田昭彦