=上富良野町郷土をさぐる会誌=
『第四二号』の発刊について
上富良野町郷土をさぐる会 会長 和 田 昭 彦
昭和五五(一九八〇)年暮れに郷土をさぐる会が創立し翌年第一号発刊以来、昭和五九(一九八四)年、平成元(一九八九)年、平成九(一九九七)年は次号編集のための空白年がありましたが、第一四号までは不定期ながらも発行し、第一五号以降は毎年年次総会開催時に配布すべく四月に一年も欠かさず発行し続け、今年は第四二号をお届けすることが出来ました。
前会長の中村有秀氏は、創立以来のメンバーとして昨年退会した野尻巳知雄氏、岡田三一氏らと共に会を支えてこられ、平成二六(二〇一四)年四月からは一〇年間会長を務められておられたましが、昨年令和六(二〇二四)年四月の年次総会で体調を理由に勇退され、私が第六代会長を引き継ぐことになりました。
私は、平成二〇(二〇〇八)年に入会し、令和五(二〇二三)年空席となった副会長になったばかりで、五代目までの会長のような経験知識、実績に乏しく、編集に携わる様になってからもまだ七年しか経っておらず、重責に身が引き締まる思いです。
私事になって恐縮ですが、幼少のころから内気で人付き合いが苦手、ラジオを聴き、少年雑誌を読み、映画を見に行ったりと一人でいることが多く、高校の音楽部で合唱をするようになってから、幾らか人付き合いが苦にならなくなりました。高一の昭和三二(一九五七)年、無線の専門学校に行っている次兄(後にSTVに入局し開局に携わる)がテレビのキットを買って来て組み立て、我が家で一四吋(いんち)の角の丸い白黒テレビを見れるようになり、ラジオからテレビの視聴に興味は移り、さらにクラシック音楽観賞へと趣味は広がり現在に至っています。
その様な訳で、郷土史研究とは全く異なる分野を生きて来ましたが、父が平成四(一九九二)年に一八二六枚の原稿用紙に書きためた回想録を遺し亡くなり、当時三六五日休み無く働く家業の酪農の仕事と、十指に余る役職を引き受けていたので、なかなか遺稿の整理には取り掛かることが出来ずにいました。
一〇年余りが過ぎた頃、父の遺品の中に先祖に繋がる戸籍抄本が見つかり、それを繋ぎ合わせると曽祖父母は岐阜県郡上八幡(ぐじょうはちまん)の出身であることが解り、何百年となく家系を守って来た御子孫宅と繋がり、叔父叔母.兄弟姉妹、従兄妹ら一同でその地を訪ねたことから、初めて郷土史研究に興味を持つことになりました。この経過については「上富良野町郷土をさぐる会誌第三八号」に『「和田松ヱ門回想録」を纏めて〜和田家先祖のルーツを訪ねる旅』として寄稿させていただきました。
しかしながら、先にも述べたように郷土史研究の実績は乏しく、この重責が勤まるか判りませんが、研究熱心な会員が沢山いるので、これまでサークル作り、組織作りには少なからず関わってきた経験を生かして、しっかりと組織を継続して、次代を継いでくれる会員達が運営しやすい環境を作りたいと思います。
今年は昭和一〇〇年、そして戦後八〇年の節目の年になります。私は昭和一七(一九四二)年生まれで戦争の記憶がかすかに残っている最後の年代で、戦争がどんなに悲惨なものであるか数々の報道で伝え聴き、平和であることがどんなに幸せなことか体験して来ました。
先日、テレビを見ていて『過去は未来のためにある。伝え、知る、学ぶことが、きっとあしたの平和の力とむすびあうと信じています』と言う言葉に触れましたが、郷土をさぐる会の現会員の殆どは戦後生まれですが、私達の活動こそがまさしく先人達の労苦に学び伝え、負の遺産を二度と繰り返すことなく、明るい平和な未来をきり拓く先達になればと思います。
新会長として就任して以来、初の会誌発刊に当たり、個人的な心境報告が中心になってしまいましたが、今後とも当会の運営と活動に、ご支援ご協力賜りますようお願い申し上げ、発刊のご挨拶といたします。
機関誌 郷土をさぐる(第42号)
2025年3月31日印刷 2025年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 和田昭彦