小説「泥流地帯」の著者
『三浦綾子さん』と上富良野の関わり (その二)
上富良野町本町5丁目14-1 中 村 有 秀
昭和12年11月28日生 (86歳)
文中縦書き数字は、算用数字を単純に漢数字に置き換える表記(記数法)で、引用・転載部分はママ表記。また、要所に元号年と西暦年を併記するようにしている。
前号のあらまし
本稿は、当初前号第四〇号に一括掲載の予定でしたが、総頁数の関係(第四〇号記念「郷土をさぐる会のあゆみ」を特集掲載)から、第六項までを「その一」として前号に掲載し、残る「第七項〜一四項」及び「取材協力者・参考文献」については「その二」として、本誌第四一号に掲載することになりました。尚、「第一五項」は独立記事として、本誌第四二号に掲載予定です。
二〇二二(令和四)年は、三浦綾子さんが一九二二(大正一一)年四月二五日に生まれてから、「生誕百年」を迎える年で、三浦綾子記念文学館では、生誕百年記念特別企画展「プリズム―ひかりと愛と いのちのかがやき―」と題して、令和四年四月一日に始まり、令和五年三月二一日まで開催されました。
筆者(中村)も観覧に行き、展示資料が多いことに驚くと共に大変参考になりました。
展示されていた「光世の日記」と「綾子の日記」は、ガラス越しに見るだけで残念でしたが、田中 綾館長著作の「あたたかき日光(ひかげ)―光世日記より」が北海道新聞に二〇二二(令和四)年三月二六日から毎週土曜日に掲載が始まり、小説「泥流地帯」関係やその他の文学作品について、新たな事実と背景を知ることができました。
この記事に触れたことが、本稿「三浦綾子さんと上富良野の関わり」を書く動機になりました。
前号「その一」に掲載の三十一頁の項目は次のとおりです。
一、小説「泥流地帯」を書く契機は
(1) 「あたたかき日光(ひかげ)」― 光世日記より(34)
(2) 上富良野町開基百年記念誌への寄稿文
(3) 小説「泥流地帯」を回顧して 三浦綾子
(4) 「愛・つむいで」 綾子・光世共著
二、佐藤喜一著 創作「十勝泥流」について
(1) 古書店で見つけた「十勝泥流」の初版本
(2) 「十勝泥流」の十勝岳と吹上温泉
(3) 石川郁夫著「佐藤喜一」の書評
(4) 小説「銃口」のモデルの一人土橋明次氏と佐藤喜一氏
(5) 土橋明次氏 作品受賞祝いに三浦家へ
(6) 「佐藤喜一先生」の追悼集
三、三浦夫妻の上富良野への現地取材
(1) 上富良野への現地取材
(2) 草分老人クラブに古老の写真確認へ
(3) 三浦夫妻のタクシーに乗った人とは
四、小説「泥流地帯」のタイトルと新聞連載
(1) タイトルは「光世氏」が決めた
(2) 「あたたかき日光―光世日記より」(田中 綾作)
(3) 北海道新聞日曜版への連載と出版
五、小説「泥流地帯」の出版記念『三浦綾子さんを囲む会』の開催
(1) 第一部 座 談 会
(2) 第二部 小説「泥流地帯」出版記念祝賀会
(3) 三浦夫妻から「野尻巳知雄氏」に礼状
六、「泥流地帯」に実名登場の上富良野の人々
七、小説「泥流地帯」文学碑建立への道程(みちのり)
本年二〇二四(令和六)年は、一九二六(大正一五)年五月二四日に発生した、十勝岳噴火泥流災害から九八年となり、あと二年で百年となることから、百年記念事業の実施が予想されます。
また、小説「泥流地帯」文学碑は、一九八四(昭和五九)年に十勝岳噴火災害復興六〇周年として建立したので、本年で建立四〇年を迎えます。
本誌第四号(一九八五年二月発行)で、「『泥流地帯』文学碑由来記」として、高橋静道建立期成会長が寄稿されておられるので、できるだけ重複を避けながら実際に携わった一人として、建立への道程(みちのり)を綴ります。
(1) 文学碑建立への契機
昭和一二年生れ丑年会(平山 寛会長)の男性一〇三人が、四二歳の厄払いとして、一九七九(昭和五四)年一二月に「かみふ物語」を編集発行しました。その中で開拓・十勝岳噴火や復興への記事があることから、丑年会の野尻巳知雄氏を通じて、三浦綾子さんに寄稿文をお願いしたところ、「汽車の窓から」と題したエッセイが寄せられて、私たちは大変感激しました。
本稿『九、三浦綾子さんから上富良野への「寄稿文」』に書きましたが、野尻氏は三浦夫妻が「泥流地帯」執筆のための現地取材を、幾度も案内されていたため、この知己を頼りにしたものでした。
厄年丑年会に集った仲間は、昭和一二年生れに因(ちな)んで、その後も毎年「一二月一二日」に懇親会を開催していました。一九八二(昭和五七)年一二月一二日開催の時に、「後厄も無事に乗り越えたので、何か地域に貢献を」との話題が持ち上がり、それでは「泥流地帯」文学碑建立してはとの意見が多くありました。
野尻氏と筆者(中村)が役員になっている「上富良野町郷土をさぐる会」に相談(昭和五八年一月二十九日)した結果、文学碑建立に向けて関係団体に働きかけることが決められました。この後の動向を、経過に従って記します。
◎ 昭和五八年四月二六日
文学碑建立について、関係団体役員が参集して、今後の進め方について協議する。その時の関係団体は、文化連盟・郷土をさぐる会・昭和十二年生れ丑年会・草分土地改良区・日新住民会・草分住民会・日の出住民会・専誠寺の八団体であった。
◎ 昭和五八年五月一八日
文学碑建立期成会の準備会として、期成会の発起人と役員を内定する。
(2) 建立期成会の設立総会準備へ
期成会の発起人と内定された役員によって、設立総会の開催へ向けて、議案を含め各種資料の作成と案内等準備作業が進められた。
◎ 昭和五八年六月一〇日
「泥流地帯」文学碑建立期成会の設立総会が開催され、正式に設立された。この過程で文化連盟が何回かの役員会を開催して、「文化連盟創立二〇周年事業」の一つとして位置づけされたことは、役員・活動・寄付金の面で大きな力になった。
選出された会長・副会長は次の通り。
会 長 高橋静道(文化連盟)
副会長 金子全一(郷土をさぐる会)
〃 松下金蔵(草分土地改良区)
〃 平山 寛(昭和十二年丑年会)
〃 増田修一(専誠寺)
以下役員詳細は「郷土をさぐる誌第四号」参照
(3) 様々な課題を解決
期成会が設立されて、主軸の諸工程を定め、作業の分担を決めて実務に着手していくと、外部的要因も加わって、次々と新たな課題が出てきて、この解決と軌道修正に忙殺されることになりました。
◎ 文学碑完成の日程変更
当初の予定は、昭和五八(一九八三)年七月三〇日までと計画したが、規模の決定と設計・用地確定の許認可・文学碑台石の搬出等の進捗日程が、相互に関連することや、町長・町議会議員選挙(八月一四日)に関わる行動制約(期成会関係者の多くが各候補者の後援活動)も影響して、なかなか進まないことから、文学碑完成除幕を昭和五九(一九八四)年五月二四日に変更することが役員会で決定された。
◎ 建立用地の選定
文学碑の建立場所を決定することが最優先課題で、役員会に案として、@旧創成小学校周辺 A深山峠周辺 B旧日新小学校周辺 C十勝岳泥流地帯等が挙げられ検討された。
最終的に草分神社周辺を予定地としたが、この土地は北海道の所管する河川敷地(富良野川)であるため、「永久建造物」は無理との事であったが、上富良野町出身の平井進道議会議員が北海道庁の所管へ折衝し許可を得られた。
しかし、草分住民会では「文学碑の護持」と「神社との不調和や環境」の問題が出されたが、当時の立松慎一草分区長と高士茂雄草分公民館分館長の力添えで、草分住民会と草分神社氏子の了承を得ることができた。
(4) 三浦綾子さんが文学碑建立を固辞
小説「泥流地帯」文学碑建立について、三浦綾子宅に高橋静道期成会長と役員が訪問し、趣旨を申し上げました。
この協力要請に対して、三浦綾子さんは、
――私の小説「泥流地帯」を通じて、被災・復興への先人の皆様の魂が上富良野町民方々の心の中にあれば、私はそれで充分です。「文学碑」なんてとんでもない。――
と固辞されました。続いて、
――一般的に文学碑の建立は著者が亡くなってから、その業績や価値観によって考えられるべきものであり、生前に顕彰的な要素を内容とする「文学碑の建立」は、誠に申し訳ありませんが、固くお断り申し上げます。――
と語られました。
三浦綾子さんの意志の固さを知ったことから、期成会役員会を緊急に開催し、善後策を協議しました。
その結果、三浦綾子さんが「文学碑建立」への反対の意思が強いことと判断し、昭和五八年一一月一五日開催の役員会で、規約改正により次のとおり期成会の名称を改めることにしたのでした。
旧 「泥流地帯」文学碑建立期成会
新 「十勝岳爆発災害復興六〇周年記念」
『泥流地帯』文学碑建立期成会
再度の訪問にあたっては、建立趣旨を改めること、併せて「十勝岳爆発災害復興六〇周年記念」の冠を碑面に入れることを申し上げ、ご了承を得ることができました。その際、三浦綾子さんから「建立に一切かかわらない」ことを申し受けました。
高橋静道期成会長が、三浦夫妻との協議に大変苦労されたことを思い出します。文学碑の完成を一年遅らせたことが、「復興六〇周年」に合致することになり、偶然の幸いになったのだった。
この後十年余りたって、「三浦綾子記念文学館建設」に際しての様子が、「三浦綾子記念文学館 一〇年のあゆみ」誌の、夫三浦光世氏が館長としての巻頭「ごあいさつ」に記されています。
――文学館建設の発起人がわが家に来て下さり、「三浦綾子記念文学館を建てたいのですが…」と切り出されたのは、一九九五年であった。
その時、妻綾子は答えて言った。
「わたしの名前の付けた建物など、恐れ多いです。どうか、そんな計画はなさらないでください」
とし、謙虚な綾子は首を縦に振りませんでした。
これに対して発起人は言われた。
「いや、あなたの個人の家を建てるわけではありません。この旭川市から、作家が出たことを記念するために、建物は必要です。
特にその資料を保管して置く場所が必要です。そのような場所がなければ、貴重な資料もいつしか散逸してしまいます。
もしそうなると、次の世代の人たちが、先輩たちは、何をしていたんだ、というに違いありません。
確かにこれは申し訳ないことです。どうか反対しないで下さい」
妻綾子は、その言葉に、「そうですか」と短く答えて、頭を縦にふった。
こうして三浦綾子記念文学館は、建てられることになったのであるが、妻にとっては只々恐縮以外の何ものでもなかったにちがいない。デビュー作『氷点』が、朝日新聞の懸賞小説に入選したとはいえ、芥川賞や直木賞等の権威ある文学賞を与えられたことはない。――
この後、「三浦綾子記念文学館設立実行委員会」が中心になり、その活動は旭川市民から全国の三浦ファンへと広がりました。一般募金者は一万五千人、総額は二億一千万円を超え、北海道及び旭川市や周辺自治体からの建設助成金もあり、民設民営の希少な文学館として誕生しました。
三浦綾子さんの基本的な考え方は、「泥流地帯」文学碑建立から一貫していたことが感じられます。
『三浦綾子記念文学館』オープン記念式典
一九九八(平成一〇)年六月一三日
― 初代館長 高野斗志美氏 ―
その二〇年後に、三浦綾子記念文学館の「分館」が隣接地に建設された。
『三浦綾子記念文学館分館(口述筆記の書斎)』
二〇一八(平成三〇)年九月二九日オープン
― 三代館長 田中 綾さん ―
著者も、この「分館」オープンセレモニーに出席した。
掲載省略:写真 分館オープンでの田中 綾館長挨拶
掲載省略:写真 田中館長と筆者
◎ 「泥流地帯」文学碑完成予想図の変更
完成予想図 2
当初の計画は、文学碑を中心にして、周囲を一八センチメートル方形のタイルを貼って、小公園化するものだった。タイルには、寄付者の氏名と思い出やコメントを刻む予定でした。
しかし、確保した敷地では、タイル貼りの面積が不足する上に、刻字費等を含めて三三〇万円の見積りで、予算的な関係も含めて、困難であることから断念しました。(完成予想図1参照)
碑台石と予算の関係で、役員会及び工事部会において、現在のように変更決定されました。特に、この困難な工事に当たって、事務局の木村 了氏(後の第五代文化連盟会長)の行動力は語り草になっていました。(完成予想図2参照)
掲載省略:図画 完成予想図1
尚、「泥流地帯」文学碑建立への寄付は、「一人一万円以内」の取り決めを行い、期成会役員の奔走によって、二九三の個人、団体から二八四万五千円が寄せられました。
(5) 「泥流地帯」文学碑除幕式
除幕式典は、十勝岳爆発日時に合わせて、草分神社境内において、一九八四(昭和五九)年五月二四日午後四時一七分から挙行されました。
◎ 文学碑の除幕で紅白の綱を引いたのは
十勝岳爆発泥流の被災地で生まれた
○日新地区 喜 多 泰 史 君 (五歳)
○草分地区 船 引 麻記子さん(五歳)
の二人によって、紅白の綱が引かれて「泥流地帯」文学碑が披露されました。除幕式から四〇年を経て、二人は四五歳になっているが、思い出に残っていることでしょう。
◎ ツアー「文学碑除幕の旅」一行来町
北海道新聞社・道新観光主催で、一泊二日の『三浦綾子 十勝岳文学碑除幕の旅』が募集され、ツアーメニューの一コマとして、五月二四日の除幕式に一行四五名が来町しました。
ツアーに同行した講師は、北海道文学館事務局長の木原直彦氏(後に、文学館長・名誉文学館長となる)で、「文学碑建立記念の栞」に「文学碑に寄せて」と題する寄稿文をいただいた。この中から抜粋します。
掲載省略:図画 三浦綾子十勝岳文学碑除幕の旅」募集チラシ
――雑貨屋のおかみさんであった三浦さんが「氷点」をひっさげて登場されたときは、実に新鮮であった。 (中 略)
代表作の一つである「泥流地帯」は、十勝岳の大爆発という惨禍のなかで、運命の過酷さに打ちのめされながらも懸命に生きる人たちの、その生きざまは尊く美しい。このたびの文学碑は爆発の鎮魂碑であるとともに、三浦文学の顕彰碑でもあろう。――
掲載省略:図画 木原直彦氏寄稿原稿
◎ 木原直彦氏との出会いからの繋がり
筆者(中村)は、郵便局に勤務していたが、一九六二、三(昭和三七、八)年頃、ある文学誌のサークルに入っていて、その時に木原直彦氏の知己を得ていました。
この縁で、小説「泥流地帯」文学碑建立に当たっての指導をいただくために、「北海道文学館」(当時は札幌市中央区大通り西一三丁目)の木原直彦事務局長を訪ねたのは、一九八三(昭和五八)年三月末のことでした。
その時、道内に建立されている中から、六基の文学・歌・俳・詩碑それぞれの「趣意書・碑の形態・建立経過・除幕式次第等」の資料提供をいただき、非常に参考になりました。
この縁から、「文学碑建立の栞」に寄稿文をいただき、また「三浦綾子 十勝岳文学碑除幕の旅」のツアー催行に繋がったのでした。
木原直彦氏からの資料の中に、旭川市常盤公園内に一九六七(昭和四二)年五月に建立された「小熊秀雄詩碑」の建立運営委員に関するものがあり、三浦光世・三浦綾子の名が連ねられていました。
掲載省略:写真 除幕した文学碑の前で(左:木原氏と右:筆者中村)
(6) 『先人を偲び建立を祝う会』サプライズ
◎ 実在する登場人物
「続 泥流地帯」の目次に「火柱」の項があり、その第三章に「ていちゃん」が登場します。
―― 「母さん。兄ちゃん。ていちゃんの綴り方を読むから、聞いてなよ」
耕作が言うと、ていは赤くなってうつむいた。弥生はうれしそうに小さな手を叩く。
「題はねえ、〈五月二十四日〉という題だよ」
耕作は、五月二十四日と口に出しただけで、胸のふさがる気がした。それは、祖父母と富と良子の命日でもあるのだ。が、声を励まして耕作は読み出した。
〈五月二十四日ハ、山ガクズレテキテ、大スイガイニアッタノデス。
私ノオバアサンモ、トウトウスイガイノタメニ、ナクナッテ、カナイジュウガカナシガッテイマス。
(中 略)
ウチノマエヤヨコニハ、センロヤ大キナ木ヤ、デンシンバシラガヨッテ、一メンノドロ水デス。イツ、モトノヨウニナルデショウト、ニイサントハナシテイマス。エハガキニ、私ノウチガデテイマス。〉
二年生としては、しっかりと事件をとらえて書いている。
耕作は読み終って吐息をついた。
「うん、上手だ。とてもよく書けてるね、ていちゃん」と、耕作はほめた。――
小説中の「てい」と父の「吉田貞次郎村長」、妹の「弥生」は実在の人物で、被災の中心地にあった上富良野尋常小学校二年生の「吉田てい」さんが書いた作文全文を、そのまま掲載したものでした。
この作文は、北海道庁学務部社会課に事務局を置く十勝岳爆発罹災救済会が、一九二九(昭和四)年三月二五日発行した「十勝岳爆発災害志」の、第一一章「罹災児童の感想文」に収録されています。
◎ 祝賀会でのサプライズ計画
結婚した「清野てい」さんは、御主人をなくされた後も、故父貞次郎宅を守って住んでおられました。
「先人を偲び建立を祝う会」事務局の一部の人で、祝賀会でのサプライズとして、お孫さんの清野香織さん(当時七歳・横浜在住)に、祖母の作文を読んでもらうことを計画しました。父の清野 彬氏(ていさんの長男)に内密に連絡して、横浜から香織さんに電話で作文を読んでもらい、それを録音するというものでした。
祝う会式次第の「フィルムと合唱で綴る」の中で、上富良野混声合唱団が「泥流地帯」文学碑建立に相応(ふさわ)しく、「大地讃頌(さんしょう)」を力強くそして美しいハーモニーで合唱され盛り上がった後に、「清野てい」「安井弥生」さん御姉妹がステージに招き上げられました。
御姉妹は何のことかと途惑う中、録音した香織さんの朗読する音声が会場に流れました。
最初は、「誰の声で」「なにを」と思ったようですが、ていさんは直(す)ぐに、孫の香織ちゃんの声で、読んでいるのは自分の作文であることに気づき、御姉妹は壇上で涙を流されました。
司会者から、事務局が計画したサプライズであるという顛末を披露したところ、会場は大きな拍手につつまれました。
こうして、十勝岳爆発災害復興六〇周年記念「三浦綾子『泥流地帯』文学碑の建立除幕式」と「先人を偲び建立を祝う会」が盛会裡に終了し、参会者一同思い出のある会となりました。
掲載省略:写真 ― ステージに立つ ―(左)清野ていさん と(右)安井弥生さん
八、三浦夫妻は何時(いつ)「泥流地帯」文学碑へ
(1) 三浦夫妻が参列できなかった除幕式
小説「泥流地帯」の文学碑建立除幕式は、十勝岳爆発災害復興六〇周年記念として、一九八四(昭和五九)年五月二四日午後四時一七分(大爆発の時間)から挙行されました。
小説「泥流地帯」出版祝賀会(一九七七―昭和五二―年七月一六日開催)に出席し、三浦夫妻と交流のあった町民や、文学碑建立に浄財を寄せられた方々は、三浦夫妻とお会いすることを大変楽しみにしていました。
しかし、著者の三浦綾子さんは、一九八四(昭和五九)年の初めから予定をしていた「ちいろば先生物語」の取材に、ご夫妻で五月七日から六月一三日までアメリカ・イタリア・イスラエル・ギリシヤを訪れている最中であって、この除幕式と建立祝賀会に参列することが出来なかったのでした。三浦綾子ファン、町民や関係者は残念がりました。
(2) 三浦綾子さんからの寄稿文
取材旅行で式典への参列ができなかった「三浦綾子」さんから寄稿文『大正十五年五月二十四日を想うとき』と表題にした録音テープが送られてきました。
その内容は、本稿の次項第九項『三浦綾子からの上富良野に寄せられた「寄稿文」』に記載しましたので参照ください。尚、寄稿文は「文学碑建立の栞」に掲載しましたが、三浦綾子さんからの聖書の言葉
『よろこぶ者と共によろこび
泣く者と共に泣け』
に感動し、「記念の栞」の表紙にも使用しました。
三浦綾子さんからの録音テープが送付されて来た時に、建立期成会事務担当の野尻巳知雄氏(前郷土をさぐる会副会長、現参与)に宛てた添書がありました。
掲載省略:図画 野尻さんに宛てられたカセットテープの添書
(3) 「泥流地帯」文学碑に来られた「三浦夫妻」
海外取材のために式典に参列できなかったご夫妻に、建立期成会では取り敢えず「礼状・建立記念の栞・写真・新聞記事」を郵送しました。
三浦夫妻の帰国後に、期成会長 高橋静道氏を中心に四・五名でお礼のご挨拶に伺いました。そして、早い時期に来町され「泥流地帯」文学碑にと要望していましたが、内々で来られた可能性はありながらも、その後の動向は全く判りませんでした。
筆者(中村)は、小説「泥流地帯」文学碑建立の事務局の一人として携わっていた関係で、その思いを募らせていました。
その後、三浦夫妻は一九八七(昭和六二)年六月一四日と一九九九(平成一一)年七月一一日の二度来られていることが判り、その際の写真もあったので、その状況を記します。
◆ 一九八七(昭和六二)年六月一四日の時
一九八九(平成元)年一二月七日から一一日まで旭川市マルイ今井デパートで、「作家生活二五周年記念・三浦綾子文学展」が開催されていることを新聞報道で知りました。
この文学展の最終日に観覧することができたのですが、会場で「あっ!」と声を上げ、驚きと感激が湧きあがりました。
それは、私が探し求めていた「泥流地帯文学碑の前の三浦夫妻」を写した写真が、その会場に展示されていたからです。
会場におられた秘書の「八柳洋子さん」に事情をお話したら、早速、添書きと共に写真が送られてきました。今は亡き「八柳洋子さん」に感謝申し上げます。
掲載省略:図画 八柳秘書から送られた写真の添書
掲載省略:写真 ロケ隊が撮ったシーンスチール(185-1:八柳秘書提供)
その写真のデータには、次の様に記載されていました。
「一八五―一(シーンナンバー)・一九八七・六・一四」
綾子・光世泥流地帯#閧フ前でテレビロケ
上富良野草分神社境内
テレビロケは、「三浦綾子 人・文学・風土」と題する番組の一部シーンで、ビデオジャポニカの制作でした。
◆ 一九九九(平成一一)年七月一一日の時
― ご逝去される三ケ月前のこと ―
三浦綾子さんは、一九九九(平成一一)年一〇月一二日に多臓器不全により、享年七七歳で生涯を閉じられました。
ご逝去される三ケ月前に、入退院を繰り返し体力が十分でないのに、夫妻の思い出が多い「美瑛の丘」と「泥流地帯文学碑」を見たいと現地を訪れ、この「見る意欲」に感動しました。
その時のことが、夫の三浦光世氏と、二代秘書八柳洋子さんの入院中に三浦夫妻をお世話した初代秘書の「宮嶋裕子」(旧姓 夏井坂)さんが、各々著した二作から一部関係部分を抜粋して記します。
◇ 三浦光世著『妻 三浦綾子と生きた四十年』
発行年 二〇〇二年五月十六日
発行所 株式会社 海竜社
掲載省略:図画 三浦光世著『妻 三浦綾子と生きた四十年』
「死ぬという仕事」の項に、「最後の一年」として……
――一九九八年六月十三日、三浦綾子記念文学館が建設され、そのオープンの式に綾子も出席することができた。挨拶はスムーズに言葉が出なかったが、ひとこと「ありがとうございます」と、いつもは出ないほどの声が出た。それが少なからず感動を呼んだ。
(中 略)
こうして最後の一年、一九九九年を迎え二月一日に入院し三月一日に退院したのだが、悲しい日であった。
通算二十六年、まさに献身的に務めてくれた八柳洋子秘書が、五十五歳で命を終えた日であった。
(中 略)
綾子は退院して、すぐに家には帰らず、まず、洋子秘書宅に弔問に行った。
「洋子さん、とても美しい顔をしているわよ」とその顔をなでながら、綾子は涙を浮かべていた。
(中 略)
七月十一日はいつものように礼拝を守り、帰宅して昼食をとることができた。しかも、午後から「美瑛の丘」を見に行くと言い出した。
私は、タクシーに乗るだけでも運動になると思って、つれて行った。美瑛の丘まで車で三十分、そこで帰るとちょうどよいドライブになったかもしれない。
が、綾子は、上富良野にある「泥流地帯」の文学碑も見たい様子であり、私たちは足をのばした。
そのためか、帰りは少し疲れを覚えたようである。その夜の夕食は、六時四十五分から九時四十五分まで三時間かかった。――
掲載省略:写真 美瑛の丘を散策する三浦夫妻 1994(平成6)年9月11日
◇ 宮嶋裕子著『三浦家の居間で』
発行年 二〇〇四年一月二十日
発行所 マナブックス
第二章「いのちが惜しいです」の項に、「三浦家を訪ねた読者たち、その後」として……
――綾子さんが最後の礼拝を守ったのは一九九九年七月一一日であった。その日、礼拝を終えて自宅に戻った三浦夫妻を、関西に住むKさんが訪ねた。彼女は、友人の勧めで「塩狩峠」を読み、感動し、三浦作品を貪るように次々に読んで熱心なファンになった人である。
(中 略)
この日は、久々の訪問だった。歓談の後、「これから美瑛の丘に行きます」というKさんに「私も見に行きたいワ」と綾子さんが言った。Kさんは喜び、光世さんも綾子さんの意欲を喜び、共に、綾子さんが最も愛し「美しい丘」と呼んでいた風景を楽しんだ。
(中 略)
さらにKさんが、「泥流地帯」の文学碑を見に行くと聞いて、綾子さんも足を延ばし同行した。
光世さんは「久しぶりのドライブで疲れるといけないから帰ったほうがいいのでは……」と心配したが、綾子さんは行きたかったらしい。――
掲載省略:写真 「泥流地帯」文学碑の前に立つ三浦夫妻(宮嶋裕子さん提供)
九、三浦綾子さんから上富良野への「寄稿文」
三浦綾子さんは、一九二六(大正一五)年の十勝岳爆発災害と復興について小説化『泥流地帯』の取材に何度も上富良野町に、北海道新聞旭川支社の「合田一道記者」が同行案内でいつも足を運ばれた。
役場・文化連盟・被災者・遺族・古老の皆様と、数多くの方々からの聞き取りと資料収集に努められた。ある時は(昭和五〇年九月二二日)、十勝岳中腹の現地にも「野尻巳知雄氏」(当時役場企画課広報広聴係長)の案内で取材が行われました。
取材中の交流や小説「泥流地帯」の発刊のいきさつから、上富良野町の各種団体から「三浦綾子さん」に寄稿文の要請がなされました。
三浦綾子さんからは、掲載誌・紙の目的や内容に応えるように、心のこもった内容のご寄稿文・エッセイが届けられました。
三浦綾子著「ごめんなさいといえる」(二〇一四年/平成二六年/四月二五日発行・小学館刊)にこれらが収録されていますので、この機会に全文を掲載します。
「三浦綾子さん」の上富良野への思いと、心の温かい人間性を感じます。
掲載省略:図画 「ごめんなさいといえる」表紙
@ 『汽車の窓から』 三浦綾子
《寄稿先》
掲載誌 『かみふ物語』
発行日 一九七九(昭和五四)年一二月二日
発行者 上富良野町 昭和十二年生れ丑年会
先日釧路に行っての帰り、汽車で上富良野を通過した。三浦と私は、上富良野の街に目を、座席にじっと坐っていた。
汽車が上富良野駅を過ぎると、私は何か胸苦しさを覚えた。ふっと「続 泥流地帯」のラストシーンを思い出したのである。
耕作と拓一は、その日、稲刈をしていたのだ。十勝岳爆発後、はじめて稲が実ったのだ。だがこの日は、節子が福子を深雪楼からつれ出して、旭川に逃げて行く日でもあった。拓一も耕作も、稲に鎌を入れながら、果して福子が節子と共に逃げるかどうか、気がかりでならなかった。
たまらなくなった耕作は鉄道線路の傍(そば)に来た。
――「ボーッ」
汽笛が真近にひびいた。耕作の胸が激しく動悸を打った。もくもくと黒煙を上げて、木立の蔭から汽車が現れた。
(乗っているか、乗っていないか)
耕作は息をつめて汽車を見た。――
その小説の一文を思いながら、私は三浦に言った。
「何だか、ほんとに耕作が立って待っているような気がするわね」
「うん、ほんとだな」
三浦も答える。
「あ、そこよ! 耕作の家は!」
私は持っていた白いハンケチをふった。福子が逃げ出すことができたら、白いハンケチをふる約束だったのだ。私は、事実列車の窓下に、耕作が目を見ひらいて汽車を見上げているような気がした。
現実と小説が、私の胸のうちで一つになった。とうに終わった筈の小説が、再び甦える。五十年前の出来事が現在のことに思われる。私にとって、「泥流地帯」は、そのような小説なのである。
この四月、「続泥流地帯」が新潮社から出版される運びになった。「泥流地帯」と共に、二冊共上富良野の方々には実におせわになった。
取材への度重なるご協力、出版記念会など、その蒙(こうむ)ったご懇情は、終生忘れることができない。書き終えたのに書き終えた気がしないのは、小説の主人公への愛着と、上富良野の方々への感謝が絡み合っているからかも知れない。
ともあれ、上富良野の皆様のご発展を心より祈って、御礼に替えたい。
― 昭和五十四年三月 ―
掲載省略:写真 三浦綾子十勝岳にて
A 日新小学校『閉校に寄せて』 三浦綾子
《寄稿先》
掲載誌 上富良野町郷土をさぐる 第二号
『日新小学校回顧録』として特集
発行日 一九八二(昭和五七)年六月三〇日
発行者 上富良野町郷土をさぐる会
私の小説「泥流地帯」に引きつづき、「続泥流地帯」が、この春新潮社から出版された。
共に、上富良野の和田町長をはじめ、町の方々にひとかたならぬお世話になった。何とか一日も早く、「続泥流地帯」を上富良野町まで届けたいと思っていた矢先、日新小学校閉校の知らせがあった。
これは、私にとって決して小さなニュースではなかった。言いようもない感慨に私はふけった。
「続泥流地帯」の出版と同時に、日新小学校が閉校になるというのも、単なる偶然とは思えなかった。
日新小学校は、「泥流地帯」の主人公たち、石村拓一、耕作、そして曽山福子の卒業した学校である。
この主人公群のみならず、石村兄弟の姉 富、妹 良子、その友だちの権太、福子の兄 国男もまたこの学校を卒業している。そして優秀なる教師菊川先生は、この登場人物たちの受持ちであった。
日新小学校は、単級の小さな小学校であった。
現在の場所より、もっと奥の沢に校舎はあった。小さくはあっても、生徒たちは菊川先生の導きによって、毎日楽しく過ごした。生徒たちの成績もよかった。連帯意識も強かった。
その小学校が、大正十五年五月二十四日、十勝岳の大爆発によって、丈余の泥流に呑まれてしまった。登場人物の大半が死んだ。その悲惨な様子を、私は小説の中に書いた。自分のことのように涙を流しながら書いた。
日新小学校は被災して直ちに復旧された。八月には、小説の登場人物たちは菊川先生を囲んでクラス会をした。時が流れ、日新小学校へ通う子供たちの数も今は乏しくなった。そして閉校になる。私はひどく淋しいのである。
菊川先生こと、菊池政美先生は、今、旭川に七十歳を超えて詩吟界に書道界に活躍しておられる。
日新小学校閉校の報は、菊池先生にとって誰よりも感慨深いものにちがいない。校舎諸共(もろとも)、奥さんやお子さん、そして生徒たちを失ったのだから。
ついこの間、上富良野町役場まで、「続 泥流地帯」を持参しての帰り、私たち夫婦は、主人公たちが学んだ日新小学校跡を訪ねて見た。
(ここにあった学校が流された……)
地響きを立てて、丈余の泥流が校舎を呑みこむ様を思いながら「そうか、閉校するのか」私はぼんやりと呟いていた。
掲載省略:図画 「郷土をさぐる 第二号」表紙と記事
◆ 日新小学校とは
明治四四年一一月一一日、上富良野村第四教育所として開校された。大正六年四月一日に日新尋常小学校になったが、大正一五年五月二四日発生の十勝岳爆発泥流災害により校舎は流失し、児童一一名、職員家族四名(菊池政美先生の母・妹・妻・長女)が犠牲になった。
・昭和一六年四月一日 日新国民学校に改称
・昭和二二年四月一日 日新小学校と改称
・昭和五四年四月一日 児童数減少により上富良野西小学校に統合
日新小学校閉校式典は、昭和五四年三月二四日に挙行された。
日新地区の皆さんにとっては、移住開拓・十勝岳爆発災害・復興と、他の地区より大変な苦労と苦難があった。
地域の様々な行事の中心であった「日新小学校」は、開校から六八年の歴史を刻み、巣立った卒業生は四五二名を数えた。
掲載省略:図画 日新小学校閉校「文集 絆」と「記念誌」
◆「日新小学校回顧録」 (郷土をさぐる誌第二号)
その一 閉校に寄せて 三浦 綾子
その二 日新小学校教師の手記 菊池 政美
(大正 二年・第 三回卒業)
その三 日新小学校と共に歩んで 片倉喜一郎
(大正一〇年・第 九回卒業)
その四 十 勝 岳 抄 田浦 夢泉
その五 日新老人クラブの詞 上村 重雄
◆「続日新小学校回顧録」(郷土をさぐる誌第三号)
私の少年時代 佐川 亀蔵
(大正一一年・第一〇回卒業)
日新中学校の思い出 白井弥太郎
(日新小 昭和二六年・第三九回卒業)
(日新中 昭和二九年・第 四回卒業)
B 『大正十五年五月二十四日を想うとき』 三浦綾子
《寄稿先》
掲載誌 十勝岳爆発災害復興六〇周年記念
三浦綾子「泥流地帯」文学碑建立記念の栞
発行日 一九八四(昭和五九)年五月二四日
発行者 十勝岳爆発災害復興六〇周年記念
三浦綾子「泥流地帯」文学碑建立期成会
掲載省略:図画 『「泥流地帯」文学碑建立記念の栞』表紙
ご参席の皆様、私三浦綾子でございます。
本日は誠に感慨深い私達にとって忘れることの出来ぬ日でございます。
大正十五年五月二十四日、十勝岳のあの大爆発は一三七名(注・美瑛町七名を含め一四四名)の尊い命を奪いました。私はこの事実を知りました時に、何んとも言えない思いに襲われました。
人一倍正直に、そして真面目に勤勉に開拓した人々が何故にこの様な災難に遭わなければならなかったか……私はつくづくとそう思いました。そして小説を書くことを思い立たせていただいた訳でございます。
小説を書くに際しまして上富良野の役場の皆様、そして災害に遭われた方々の甚大なご協力によりまして「泥流地帯」が出来あがりました。
私は、その取材の最中に幾度、胸をつまらせたことかわかりません。どれほど、どんな大きな希望を持って、この『上富良野』にやってこられた方々が、その希望が実現してようやく三十年、苦労が報われたと思われた頃、せっかく耕した田も畑も……建てた家も…そして何よりもかえがたい命も失われたということ…。これは亡くなった方、そしてそのご家族、また友人、凡ての人にとって言い難い辛いことであったと思います。
私は『泥流地帯』の小説の中で、当時の吉田村長の告別の言葉を『爆発災害志』から引用して書かせていただきました。
『大正十五年五月二十四日午後四時十勝岳霊猛威ヲ振ヒテ本村開拓ノ功労者百三十七名ヲ奪ヒ田畑其ノ他ノ損害無慮三百万円ヲ算スルノ一大惨害ヲ呈スルニ至レリ天変地異洵ニ測知スルヲ得ストイエドモ何スレド其レ悲痛ノ極ミナル唯々天ヲ仰イデ浩歎セサルヲ得サルナリ』
おそらく吉田村長は血を吐く思いで、この弔辞を読んだことと思います。そしてその後、人々は復興問題に直面するわけでした。復興すべきか、復興せざるべきか、村を二分してこのことに議論をかわしたわけでしたけれど……それから六十年、今の『上富良野町』を見て、その時の災害の跡を感ずることが出来る人はいるでしょうか…。すばらしい上富良野町として発展しております今の姿を見るにつけ、今日までの復興に力を入れた方々のご苦労を思う……私は思うのでございます。
今日ここに、何んの罪もなく命を奪われた一三七名の方々の遭難の祈念と、そしてその後復興に力を尽された方々の祈念として、ここに碑が建立されることになりました。これは、おめでたいと言うべきか……ことよりも、もっと違う言葉で言い表わさなければならないように私は思います。
そして、その言葉は何んという言葉であるべきか私はわかりません。私達一人ひとり、言葉にならない言葉がきっとあるのだと思います。ただ願わくば、この碑によって…あの日の惨劇が…あの日、天に召された一三七名の方々の御霊が…祈念せられ…また、その意志を継いで絶望することなく、それはそれは大変な中で復興に尽した方々の、その辛い苦しい復興の努力を讃える碑として、凡ての人に祈念していただきたいものと思うものでございます。
本日、私は以前より計画されておりました『週刊朝日』の仕事でヨーロッパに渡っております。丁度、この日は若(も)しプログラムが順調に進みますならばローマに到着する予定の日でございます。ここに参席できませんでしたことを深くお詫び申し上げます。そして上富良野町の方々が今後も一層この碑にこめられた『上富良野魂』というべきでしょうか、その魂を受け継いで生生(せいせい)発展なされますよう心からお祈りしたいと思います。
これは私事でございますけれど、私共は昭和三十四年五月二十四日結婚いたしました。この日で満二十五年を迎える訳でございます。五月二十四日に結婚いたしました私が、五月二十四日に災難に遭われた方々のことを小説にさせていただいたというご縁も不思論に思うものでございます。
心から御霊安(みたまやす)かれと祈り、また上富良野町凡(すべ)ての人々の上に神の大きな励ましと慰めがありますように心からお祈りいたします。
最後に聖書の言葉「よろこぶ者と共によろこび、泣く者と共に泣け」という言葉をお贈りしたいと思います。
(ヨーロッパへの取材旅行前に録音し送付いただいたものを、転載しました。)
C 『私の中の上富良野』 三浦綾子
《寄稿先》
掲載誌 『上富良野町開基一〇〇年記念誌』
―遥かなる 夢の連なり―
発行日 一九九七(平成九)年七月
発行者 上富良野町
掲載省略:図画 『上富良野町開基一〇〇年記念誌』』表紙
私には三浦の勧めで書いた小説が二篇ある。一つは小林多喜二の母を主人公にした「母」であり、もう一つは「泥流地帯」である。
この「泥流地帯」は、一九二六年五月二十四日に起きた十勝岳大爆発をもとに、人生の苦難の意味を追究した作品で、北海道新聞の日曜版一九七六年一月四日号から、同年九月十二日号に亘って連載された。私はこの小説のラストに、十勝岳爆発による山津波の凄(すさ)まじさを描こうとした。
このため、幾度となく上富良野を訪ね、和田町長や町の文化団体の方、幾人もの被災体験者の方がたに会って、取材させていただいた。あまりにも重い事実は、私の筆の及ぶところではなかったが、曲りなりにも一篇の小説として世に送ることができた。したがって、上富良野と言えば、反射的にかの大災害と共に、小説「泥流地帯」が脳裡に甦(よみがえ)る。
そしてこの小説は、続編を求められ、再び北海道新聞日曜版に連載されたのであった。続編では、もっぱら災害後の復興に重点をおき、災害に生き残った人たちの労苦を描くことにした。被害は一四四名の尊い命のほか、実り豊かな田畑や多くの家屋に及んだ。何れも開拓者たちが真面目に、営々として築き上げた大事な財産であった。しかし泥流による硫黄のため、田畑の復興は絶望視されていた。
私はこの復興にまつわる取材のためにも、幾度も上富良野に足を運んで、得難い話を開いた。特に清野ていさん、安井弥生さんのお話は貴重だった。
いま、上富良野の沃野(よくや)には大災害の名残りはない。が、当時の吉田村長始め復興に全力を傾けた人々の姿が、私の胸を打って止まない。
「人生は苦難に遭わないことが重要なのではなく、苦難を克服することこそが重要なのである」という。上富良野の歴史は正にその言葉を証明していると思う。
◆ 特別エッセイ
上富良野町開基一〇〇年記念誌は八〇頁で編され発行されました。
ここに掲載の小説家「三浦綾子」さんの『私の中の上富良野』のほかに、日本画家「後藤純男」氏の『厳しい自然が創り出す美しさ、偉大さ。北の地には私の心にひくものがある。』と表題するエッセイも同時に掲載されています。
一〇、三浦夫妻「結婚三十年のある日に」
筆者(中村)の書棚に、三浦光世・三浦綾子「結婚三十年のある日に」のカセットテープが二巻(内容は同じでパッケージが縦型と横型)あります。
編集注 カセットテープ:一九七〇年(昭和四五年前後)から一九八〇年代(平成初期)まで普及した音源記録媒体で、家庭に一台はあるというほど普及したカセットデッキ(家電)により、録音・再生ができた。
このテープは、旭川市三条八丁目国劇デパートにあった古書店「ひとつむぎ書房」(三浦綾子さんの命名)の目加田祐一氏から頂き、また他日には目加田氏の講演録画テープ=三浦綾子「銃口」―平成5年7月28日付=も頂きました。
目加田祐一氏は、三浦綾子さんが旭川市立啓明国民学校教師時代の教え子で、三浦綾子著「銃口」や「細川ガラシャ夫人」その他の歴史小説関係の、資料収集と情報提供に協力されました。
また、広い分野での豊富な知識を持ち、独特の語りと、著書「寄生木(やどりぎ) 残照」の執筆に東北・関東への取材行動力が思い出されます。
三浦綾子さん生誕百年を思い、「結婚三十年のある日に」のカセットテープを聞き直しました。
三浦綾子さんの「語り」は、低音ながら抑揚のある声で結婚三〇年の生活・行動・生い立ち等を、夫 光世氏が唄う歌詞に合わせて語られ、光世氏の高音の美声が心に響きました。
綾子さんの「語り」の内容を、カセットテープA面の音源から文字起こしをしたので、ここに記します。カセットには歌詞カードが付録していて、ご夫妻が詠まれた短歌もあり、合わせて掲載します。
三浦夫妻の「結婚三〇年」に思いを馳せて、「語り」の所を音読又は黙読され、そして光世さんの唄う歌詞を口遊(くちずさ)んでは……。
掲載省略:図画 2種類のカセットケース
=『結婚三十年のある日に』から=
A面 @赤とんぼ A浜千鳥 B月の砂漠
C船頭小唄 Dあざみの唄 E麦と兵隊
B面 @讃美歌 一三六 A讃美歌 一三八
B讃美歌 三八〇 C讃美歌 三二〇
語り 三 浦 綾 子
歌 三 浦 光 世
編集・演奏 佐々木義生
協 力 村田 和子
楽曲協力 日本コロムビアKK
収録場所 旭川スタジオ・ウッド
収 録 日 一九八九(平成元)年四月一八〜二五日
― A面の短歌 ―
◇ 着ぶくれて吾が前を行く姿だに
しみじみ愛(かな)し吾が妻なれば 光世
◇ 部屋中に行き交(か)う度に抱きくるる夫(つま)よ
今日はあなたも寂しいのか 綾子
◇ 何もない所から雲が湧いてくると
寝ころんで妻が空を見てゐ(い)る 光世
◇ 病む吾の手を握りつつ眠る夫(つま)
眠れる顔も優しと思ふ 綾子
《三浦綾子さんの語り》
今日は、皆さんお元気でいらっしゃいますか。
私、三浦綾子です。三浦と私は、おかげさまで今年で結婚三〇年となりました。
光世六五歳、綾子は六七歳です。もういい老人夫婦となりました。腎臓結核で腎臓一つ取ってしまいました三浦と、長年療養していた私も三〇年も生きてこられたなんて……。
本当に日頃の皆様のお祈りとご友情によるものだということを、心新たにして感謝申し上げたいと思います。
こんなことを申し上げますとね、あるいはお笑いになるかも知れませんけれども、今日までの三〇年間、私はどんなに自分自身の結婚というものに感動して来たか判りません。
なぜなら、三浦が私の前に現れた時、私は肺結核で八年目の療養生活でした。おまけにカリエスでギブスセットに寝たきりの生活でした。
こんな病人であった私に、しかも二つ歳上の私に、三浦は本気で結婚を申し込んでくれたのです。
そして、誠実に五年待って結婚してくれたのです。私三七歳、三浦は三五歳でした。
ところで三〇年の間、この三〇年の間の結婚生活の中で、三浦は私のために良く歌を唄ってくれました。
私は三〇年の記念に唄ってくれた、数々の歌の中から思い出多いのを選んで、吹き込んで貰おうということになりました。
三浦は嫌だといいました。下手だから、リズムが合わないから、メロディーが狂うからとか、いろいろと言いましたけれど、私は声のスナップ写真と思ってといいました。
写真は、必ずしも美しい人が撮る訳ではありませんよね。それと同じように、声のスナップ写真があってもいいと思ったのです。
そして、三浦を口説き落として吹き込むことにしました。
皆様は、私達の生活をどのように思いになるか判りませんけれども、大抵の方はいつも机に向かっていて、小説を書いている二人を瞼に思い浮べてくださるのではないでしょうか。
でも、私達の三〇年の生活の中には、こんな場面もあったということを。この吹き込んだテープやCDによって判ってくだされば、それもうれしいと思います。
童謡・懐かしのメロディー・讃美歌を、それぞれ吹き込むことになりました。
掲載省略:写真 自宅のカラオケセットで合唱する。唱歌や懐メロがレパートリー
―赤 と ん ぼ―
《綾子さんの語り》
新婚当時には散歩に出かけますと、近所のお子さんが十人ほどついて来て、一緒に堤防などを歩きながら、三浦が唄って上げた思い出があります。
♪ 夕やけ小やけの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か… ♪
―浜 千 鳥―
《三浦綾子さんの語り》
何故か三浦はこの「浜千鳥」が好きでした。三歳で父を失い、母は三浦を親戚の家に預けて遠くに旅立ちましたから、親を訪ねて鳴く鳥があるという歌詞のあるこの歌を、好んだのかもしれません。
私は幼かった三浦の寂しさを思いながら、この歌に合わせて幾度も幾度も羽ばたく真似をして、部屋の中を踊りまわったものでした。
♪ 青い月夜の 浜辺には
親をさがして 鳴く鳥が… ♪
いかがでしたでしょうか。
私は三浦の唄は、リズムやメロディーが少々狂っても心がある唄だと、ただ聴き惚れ三〇年まいりました。笑ってください。
新婚時代のこの頃、私達は旭川市九条一四丁目に住んでいました。今も旭川に住んでいますけれど、一間(ひとま)きりの小さな家を、私は「いいなぁー、いいなぁー、小さな家はいいなぁー、トイレに入っていても声が聞こえる」と、何んと無邪気に喜んでいたのです。
湯呑はお祝いに貰った五個しかなくて、家族集会で教会の方々が十人もお見えになるとさあ大変で、小丼(こどんぶり)などを動員して何とかお茶のみに使ったことを思い出します。
そんな一間きりの家で、三浦が詠んだ短歌があります。
「手を延ばせば天井に届きたりき一間なり
我らが初めて住みし家なりき」
―月 の 砂 漠―
《三浦綾子さんの語り》
近所の子供たちと一緒に唄った歌です。子供達は日曜日には一緒に教会に行きました。
散歩の時には、大きな声で「天に召します我等の父を…」などと、主への祈り叫びながら歩きました。
まるで、七夕祭りに「ローソク出せ、出せよ…」と大声で歩くあの子供達のように、大きな声で叫びながら私達の後について来るのでした。
♪ 月の砂漠を はるばると
旅のらくだが 行きました… ♪
―船 頭 小 唄―
《三浦綾子さんの語り》
船頭小唄は、いつ頃から唄われていたか存じませんが、私達の小さい時から聞いてきた歌でした。
結婚して三〇年の間には色々なことがありました。二人とも体が弱くて、三浦は入院を三回、私は二回しました。おまけに癌の手術もして、決して良い事ばかりはありませんでした。
三浦の母が死に、私の両親も死にました。兄弟の死にも遭いました。三浦も肺炎で死ぬ思いもしました。そんな中であっても、不思議に喧嘩らしい喧嘩もしないで、子供を前に私達夫婦は肩を寄せ合って生きて来たような気がします。
そんな私達のひっそりした生活と、この歌には何か共通したものを感じるんですね。二人ともこの歌が好きで、いつも唄います。
♪ 俺は河原の 枯れすすき
同じお前も 枯れすすき… ♪
―あ ざ み の 歌―
《三浦綾子さんの語り》
旭川の直ぐ近くに富良野市があります。そこには今は亡き作曲家 八洲秀章(やしまひであき)先生が居られました。
三浦の大好きな「山のけむり」「さくら貝の唄」等の作曲家です。私の秘書の夫 八柳(はちやなぎ) 務(つとむ)さんは優秀なピアノ調律師で、この八洲に非常に可愛がられておりました。
そんな関係で、お目にかかれるチャンスが与えられようとした矢先、残念ながら八洲先生は亡くなられたのです。
私達は懐メロが好きなのです。そこには、自分達の過ぎ去った青春の思い出が込められているからです。
新婚の頃から今日まで、讃美歌や歌曲と共に、我が家では懐メロもまた唄われて来たのです。
♪ 山には山の 愁いあり
海には海の 悲しみや… ♪
―麦 と 兵 隊―
《三浦綾子さんの語り》
第二次世界大戦に於いて、中国では一千万人もの尊い命が失われました。
日本の侵略による戦争であることを思いますと、本当に胸が痛みます。そのことを思って軍歌は努めて避けて来ました。
でも、この「麦と兵隊」に漂うものは、込められているものは、戦争への悲しみであるように私達は思います。
この徐州(じょしゅう)での戦いは、日本の大敗に終わりました。いづれにせよ、中国側も日本側も沢山の兵士達が死んでいったのです。
とにかく、二度と戦争はあってはならないという思いと、戦争があったことを忘れてはならないという思いを込めて、唄ってもらいます。
♪ 徐州徐州と 人馬は進む
徐州居よいか 住みよいか… ♪
―A面の短歌―
◇ ノートをして来し説教をストーブの
傍に夕べ妻に告げゐつ 光世
◇ 病む夫の傍への座り思うこと
夫知らぬ過去の私の事 綾子
=『結婚三十年のある日に』の録音について=
三浦綾子さんの全篇日記文の『生かされてある日々』の文中に、「結婚三〇年のある日」の録音について書かれています。
録音の契機と状況が手に取るように判り、三浦綾子さんの心情が緊緊(ひしひし)と伝わってきます。
その日記文は、次の様に、全ての日付を「〇月〇日」と伏字として出版されています。
〇月〇日
今年は結婚三十年の年。その記念に、旅行をしようかなどと思っていたが、この体では旅行は無理。そこで、歌の好きな三浦に歌でも吹きこんでもらおうかと話していたが、「うそから出たまこと」のたとえどおり、本当に吹きこむことになりそうだ。
〇月〇日
とうとう今日で結婚三十年記念の歌と語りの吹き込み終わる。
一日三時間平均で、四日かかった。延べ十二時間である。その暇があれば原稿を書けと言われそうだが、この吹き込みは私たちにとって一つの証しのつもり。イエス・キリストの父なる神が、三十年間の結婚生活を導いてくださったことの証しなのだ。私たちは結婚する時、単に仲がよいだけの家庭ではなく、二人でキリストを宣(の)べ伝えたいと、話し合ったものだ。その話し合いの延長線上に、この吹き込みもあったと言える。
十二時間で十曲を吹き込んだ。ヘッドホーンをつけて、幾度も歌い直しをさせられる三浦の姿を見ていると、何か可哀(かわい)そうで、こんな吹き込みなどさせるのではなかったと、胸の痛んだこと幾度か。しかし作曲家の佐々木義生さんの話では、
「一曲に一日かかる人もあります。十二時間で十曲では、凄(すご)く早いほうですよ」
とのこと。改めてプロの人たちの苦労と努力を知る。--中略--とにもかくにも今日で吹き込みは終わった。あとは只、主が取り用いてくださることを祈るのみ。編曲、演奏の佐々木さん、歌唱に協力をしてくださった村田和子さんに感謝。只、神の御名の崇(あが)められんことを。
この「十項」を終えるに当たり、録音テープを贈ってくれた「故 目加田祐一氏」に感謝申し上げます。
目加田さんは、「おーい 中村君 よく書き遺してくれたねー」と、あの独特の語りの声が天国から聞こえてくる様です……。
一一、北海道内に建立の「三浦綾子文学碑」
上富良野町に小説「泥流地帯」文学碑がありますが、北海道内の三浦綾子作品に関わる文学碑はどうなのかと思い調査した結果、五基の文学碑があり、それを建立年代順に記します。
それぞれの地域に行くことがあれば碑を訪れて、小説のストーリーと背景を肌で感じ、三浦綾子さんの意図は何だったのか、各々(おのおの)の立場で思いを馳せて下さい。
(1) 小説『泥流地帯』文学碑
小説『泥流地帯』文学碑
・建立年月 一九八四(昭和五九)年五月二四日 ・建立場所 空知郡上富良野町草分 開拓記念館前 ・建立経緯 郷土をさぐる誌第四号の『「泥流地帯」文学碑由来記』(文学碑建立期成会長の高橋静道氏著)と、本誌第四一号の前記第七項『小説「泥流地帯」文学碑建立への道程』の記事に詳述しているが、三浦綾子著の小説では一番早く建立された文学碑。
(2) 小説『石の森』文学碑
・建立年月 一九九二(平成四)年九月二六日 ・建立場所 紋別郡生田原町(現・遠軽町生田原)
オホーツク文学碑公園内・初出掲載 「月刊セブンティ」誌(集英社)に、一九七五(昭和五〇)年二月号から一九七六(昭和五一)年二月号まで連載。 ・初版刊行 「集英社」から、一九七六(昭和五一)年四月二五日刊行。 ・建立経緯 「オホーツク文学碑公園」内の七基の小説文学碑の一つとして建立された。
一九九〇(平成二)年、当時の生田原町長 林 照雄氏の発案で、「千島列島を望む根室半島」から「サハリン(樺太)を望む宗谷岬」までの延々約五五〇キロメートルは、根室市から稚内市の三支庁・三七市町村(一九九二年・平成四年当時)に及び、独特の自然と風土を誇っている「オホーツク沿岸」には、実に多くの優れた文学作品が生まれていた。
その文学作品を、かけがえのない精神文化の遺産として「オホーツク文学碑公園」を造成し、小説・随筆・詩・短歌・俳句と、一九基の碑が建立されていて、全国にも例のない規模である。
「オホーツク文学碑公園」の命名と監修は、北海道文学館長の木原直彦氏が担っている。
小説『石の森』文学碑
木原直彦氏は、上富良野町に建立の『「泥流地帯」文学碑』について、指導とご助言をいただいた。(その時は、北海道文学館事務局長であった)
また、旧生田原駅舎の跡に一九九三(平成五)年七月八日に「オホーツク文学館」が建設された。
・碑 文
小説「石の森」の碑文は文学碑表面に額をとり、小説の一文を刻した銘板が取り付けてあり、その刻字は次の通りで、碑の横に解説板がある。
掲載省略:写真 『石の森』文学碑横のパネルには三浦綾子の経歴と業績を紹介
三浦綾子 野付半島
やがて車は、オホーツクの海に出た。昨日斜里の浜で見たオホーツクの海は、青空の下に明るいのどかな春の海だった。が、今日のオホーツクの海は、くもり空の下に、秋の海のように佗(わび)しかった。
ついに野付半島にきた。地図で見ると、ウラメシヤーの、あの幽霊の手そっくりの、かぼそい半島、でも、幅は結構何百メートルかはある。一番せまいところで二百メートルあるという。右に入江があり、左に海が広がる。
驚くほど近くに国後島が見えた。山肌に白く残雪がへばりつく爺爺岳(ちゃちゃだけ)が見える。風が激しく、波がガラスの破片のようにガキガキに見える。
小説「石の森」より
・公園内の碑
「オホーツク文学碑公園」には、小説関係の碑七基のほか、随筆・短歌等の文芸碑があり、この内容は次のとおり。
《小説関係の文学碑》 作者名 作品名 小説の舞台 三浦 綾子 石の森 野付半島 高見 順 北海の渡り鳥 納沙布岬 戸川 幸夫 オホーツク老人 知床半島 船山 馨 見知らぬ橋 網走 渡辺 淳一 流氷の旅 紋別 原田 康子 風の砦 宗谷岬 八木 義徳 風景 北オホーツク沿岸
《小説以外の文学碑》 作者名 部門 作品名 田宮 虎彦 随筆 オホーツク沿岸をゆく 高橋揆一郎 〃 湧網線 瓜生 卓造 〃 知床旅情 中山 周三 短歌 根室 山名 康郎 〃 オホーツク 更科 源蔵 詩 怒るオホーツク 渡辺 茂 〃 オホーツク漁村 河邨文一郎 〃 オホーツク 原子 修 〃 ハナサキ蟹 鮫島交魚子 俳句 花栗 山岸 巨狼 〃 雪鳴 園田 夢蒼 〃 こほろぎ馬車
――「オホーツク文学碑公園」――
「オホーツク文学碑公園」は、市街地を流れる生田原川中央橋付近の高台河川敷に建設し、面積は一・四ヘクタール。町が約一億四千万円を投じ、平成三年から二年がかりで完成した。
文学碑公園は、自然の森を生かした樹木の間に、散策路沿いにベンチ・四阿(あずまや)などが点在し、それぞれの文学碑を辿りながら、文学談議を巡らす知的な空間を醸(かも)し出している。
文学碑公園建設時の生田原町の人口は三二〇〇人であり、大変な事業であったことが想像される。
掲載省略:写真 オホーツク文学碑公園パンフレット
掲載省略:写真 オホーツク文学碑公園銘板石碑
――「オホーツク文学館」――
「オホーツク文学館」は、「オホーツク文学碑公園」完成の翌年、一九九三(平成五)年七月八日にJR生田原駅跡に建設オープンされた。
一階は図書館で、閲覧室・エントランスホール(駅待合室)・幼児室とエレベーターも設備されている。
二階は文学資料展示室(文学公園関係資料を含む)・研修室・資料収蔵庫・AV(視聴覚)コーナーがある。
掲載省略:写真 「オホーツク文学館」外観
掲載省略:写真 歌句碑(かくひ)ロード銘板石碑
筆者(中村)は、一九九三(平成五)年九月一〇日に訪町した。両施設の充実した内容に感激し、思わず感嘆の声を上げた。その夜は、JR駅近くの生田原温泉「ノースキング」に宿泊。翌日は、生田原川の遊歩道沿いに、広く各地から募った短歌や俳句を刻した碑が連続して並んでいる「かくひロード」(歌句碑ロード)を一基??黙読しながら散策、文化薫る生田原町に浸り、堪能した旅であった。
遠軽・紋別地方を訪遊の折は、是非「オホーツク文学」の一端に触れてみてはいかがかと思う。
(3) 小説『氷点』文学碑
・建立年月 二〇〇〇(平成一二)年一〇月一二日 ・建立場所 旭川市三浦綾子記念文学館前
@ 小説「氷 点」 ・初出掲載 「朝日新聞」朝刊に、一九六四(昭和三九)年一二月九日付から一九六五(昭和四〇)年一一月一四日付まで掲載 ・初版刊行 「朝日新聞社」から一九六五(昭和四〇)年一一月一五日刊行
A 小説「続 氷 点」 ・初出掲載 「朝日新聞」朝刊に、一九七〇(昭和四五)年五月一二日付から一九七一(昭和四六)年五月一〇日付まで掲載 ・初版刊行 「朝日新聞社」から一九七一(昭和四六)年五月二五日刊行
B 執筆とタイトル
三浦光世著の「三浦綾子 創作秘話」・「妻 綾子と生きた 四十年」に次のように書かれている
―― 一九六三年の元旦、私と綾子は、綾子の両親の家に新年の挨拶に行った。その時綾子の母が言った。
「綾子、秀夫がね、ここを姉に見せるようにと言って、出かけて行ったよ」
綾子は差し出された『朝日新聞』を手にとった。そこには、懸賞小説募集の社告が掲載されていた。
・原稿枚数は 八百枚及至一千枚
・一位入選には 一千万円
・応募資格は プロ・アマ問わない
・応募締切は 一九六三年一二月三一日
というものであった。綾子は一読して、「わたしには関係ないわね」と笑った。が、次の朝、私に言った。
「光世さん、わたしね、昨夜小説の粗筋ができたの。書いてもいい?」、愚図の私が、珍しく即座にOKした。
私の許可を得た綾子は、さっそく長編小説の構想を練り、一週間後の九日から執筆を開始した。
当時、綾子は雑貨店を開いており、日中はその仕事に当り、夜十時頃床についてから、書くことになった。布団の中に入って俯(うつぶ)せになり、枕元に原稿用紙をひろげ、折々インク壜に万年筆を突き刺しながら書き始めた。
書き出して三日目、私は勤務先へ通うバス停で、ふと「氷点下」という言葉が頭に浮かび、夕刻帰宅した時、
「綾子、『氷点』 という題はどうだ」と言うと、綾子はすぐに、「あら、いいタイトルね。それにするわ」と答えて、『氷点』ということになった。
『寝床に腹這ひ凍れるインク突つきつつ
書きつぐ妻よ午前零時二時』 ――
C 応募から入選発表まで
――こうして一九六三年十二月三十一日、締切日ぎりぎりに小説『氷点』は、旭川の本局から送り出されて行った。十二月三十一日のスタンプがあれば有効ということであった。――
三浦商店を営みながら、夜一〇時から夜半まで、一年間に一千枚の原稿を書き続けた「三浦綾子さん」。それを支え、時には春夏秋冬の見本林や藤田旭山邸へと足を運ばれた「三浦光世氏」。そして共に祈り。
選考経過を見守る六か月。夫婦の心境を推し量る意味で暦日に従って記す。
== 「朝日新聞」社告から一席入選に == ・一九六三(昭和三八)年一月一日 「朝日新聞」一千万円懸賞小説募集の社告 ・ 同 年 一月二日 三浦綾子、懸賞小説応募を決める ・ 同 年 一二月三一日午前二時 長編小説「氷点」が脱稿、旭川本局から発送、応募作品数は、七三一編であったと後で知る。 ・一九六四(昭和三九)年六月一九日発表 第一次選考の二五編に『氷点』が入った。 ・ 同 年 六月三〇日発表 第二次選考の一二編に『氷点』が入った。 ・ 同 年 七月一〇日発表 最終選考で『氷点』が一席となる。
二席は三編、選外佳作は八編と発表された。== 一席の授賞式と記念講演 == ・一九六四(昭和三九)年七月二一日 一千万円懸賞小説の入選授賞式は、朝日新聞東京本社で行われた。三浦綾子さんに、母キサさんと、末弟の秀夫氏が同行された。
一席入選の授賞式の後に、三浦綾子さんの記念講演が行われた。・ 同 年 七月二四日 朝日新聞社主催の「文芸講演会」として、「三浦綾子さん」を中心に大阪で開催。その後、名古屋(七月二七日)、北九州市(八月三日)と続き、末弟の秀夫氏が随行された。地元の旭川市(八月六日)、札幌市(八月七日)と強行日程だった。 ・ 同 年 八月一日 講演活動と著作に専念するため、「三浦商店」を三年で閉店。 ・ 同 年 八月二四日 旭川市主催で受賞祝賀会が開催され、多くの市民から喜びと祝福を受ける。 ・ 同 年 一二月九日 朝日新聞に連載が始まり、「一千万円懸賞小説」として話題が大きくなり、翌年の一一月一四日付で連載終了と同時に、朝日新聞社から小説『氷点』が刊行されて、一大ベストセラーになると共に、映画、テレビのドラマ化により、『氷点』ブームが巻き起こり、作家の地歩が築かれた。
D 小説「氷点」の文学碑建立
小説「氷点」の文学碑
小説「氷点」が発表されたのが一九六四(昭和三九)年で、その三六年後に文学碑が建立されました。一大ベストセラーの作品が、なぜ今になってと思いました。そこには、三浦綾子さんの文学碑に対する一貫した固い信念があります。
小説「泥流地帯」文学碑建立に際して、上富良野町の建立期成会と三浦綾子さんとの折衝経過は前の第七項に記しましたが、その固辞する姿を傍(そば)にして、三浦光世氏の心暖かい気配りで、綾子さんの信念を貫く意味を含めて、この時期の建設になったのでしょう。
E 文学碑の建立除幕式
三浦綾子記念文学館が建設され、一九九八(平成一〇)年六月十三日にオープンセレモニーが行われましたが、この翌年一〇月一二日に三浦綾子さんは、満七七歳でご逝去されました。
三浦文学の象徴的な長編小説「氷点」の文学碑を、中心舞台となった見本林の中、そして三浦綾子記念文学館の傍らにとの関係者からの声が高まり、広く三浦文学ファンや旭川市民の支援を受けて建立されました。
文学碑の除幕式は、「故 三浦綾子さん」の命日、一周忌の二〇〇〇(平成一二)年一〇月一二日にあわせて行われました。
文学碑の碑文は、小説「氷点」の第一章ともいうべき冒頭の書き出しが、次のように刻まれています。
氷 点
三浦綾子
風は全くない。東の空に入道雲が高く陽に
輝いて、つくりつけたように動かない。
ストローブ松の林の影がくっきりと地に濃く
短かった。その影が生あるもののように、
くろぐろと不気味に息づいて見える。
掲載省略:写真 三浦光世「文学碑建立に寄せて」碑面
文学碑の裏面には、三浦光世氏の「文学碑建立に寄せて」として、妻綾子さんの著作、名作小説の数々、随筆、講演活動への業績を心より讃える心情と、見本林への思いが綴られています。
そして最後の三行――この地を訪れた皆さんが――に、三浦夫妻の願いが込められていると信じつつ、この項を終えます。
(4) 小説『道ありき』文学碑
・建立年月 二〇一四(平成二六)年六月二八日 ・建立場所 旭川市春光台 春光台公園 ・初出掲載 「主婦の友」誌に、一九六七(昭和四二)年一月号から一九六八(昭和四三)年一二月号まで連載(主婦の友社) ・初版刊行 「主婦の友社」から、一九六九(昭和四四)年一月三一日刊行 ・建立経緯 小説「道ありき」は三浦綾子さんの自伝小説として書かれ、自身は旧姓の「堀田綾子」として登場させている。この第一一章に、前川 正氏が自暴自棄だった堀田綾子さんを「春光台の丘」に誘い出して、「強く生きる」ことを切々と諭(さと)した。
その「春光台の丘」に、小説「道ありき」の文学碑を建立しようと、旭川市在住の黒江 勉氏が実行委員長となり募金活動が行われた。
二〇一四(平成二六)年六月二八日に、三浦光世氏を迎えて、「だれにも道≠ヘあるのだ」との思いを込めて建立除幕式とシンポジウムが行われた。
文学碑のデザインは、和寒町在住の彫刻家「長澤裕子さん」が担当された。
春光台公園西側の管理事務所の近くに、「道ありき」のモニュメント碑と銘板碑の二つの碑が並び、「春光台で綾子は再生の歩みを始める」と紹介している。
掲載省略:写真 『道ありき』文学碑除幕式2014年6月28日(森下辰衛公式サイトから)
◆ 三浦綾子さんの「自伝小説」
自伝小説は四作品があり、「誕生」から「氷点入選」までを四期に分けて著されています。その内容を成長順に掲載しますが、著作発出期日では「道ありき」・「草のうた」・「この土の器とも」・「石ころのうた」の順になります。
@ 『草のうた』 誕生から小学校時代まで
― 一九二二年〜一九三五年の間 ―初出は、一九六七(昭和四二)年「女学生の友」に四月号から一九六八(昭和四三)年三月号まで連載(小学館)
初版は、一九八六(昭和六一)年一二月二〇日(角川書店刊)A 『石ころのうた』 女学校から教師時代まで
― 一九三五年〜一九四六年の間 ―初出は、一九七二(昭和四七)年「短歌」四月号から一九七三(昭和四八)年八月号まで連載(角川書店)
初版は、一九七四(昭和四九)年四月三〇日B 『道ありき』 闘病時代から結婚まで
― 一九四六年〜一九五九年の間 ―初出は、一九六七(昭和四二)年「主婦の友」に一月号から一九六八(昭和四三)年一二月号まで掲載(主婦の友社)
初版は、一九六九(昭和四四)年一月三一日(主婦の友社刊)
◆ 『道ありき』文学碑がなぜ春光台公園に
小説『道ありき』文学碑
その理由は、『道ありき』第一一章に、前川 正さんと堀田綾子さんの遣り取りの一節で……
――ある日彼は、わたしを春光台の丘に誘った。萩の花の多いその丘は、萩ケ丘とも呼ばれていた。
六月も終わりに近い緑は、したたるように美しく、二人の行くてに小リスがちょろりと太いしっぽを見せていた。
(中 略)
「ここに来たら少しは楽しいでしょう」と前川正が言った。
「どこにいても、わたしはわたしだわ」
ソッ気なくわたしは答えた。
「綾ちゃん、いったいあなたは生きていたいのですか、いたくないのですか」
彼の声が少しふるえていた。
「そんなこと、どっちだっていいじゃないの」
(中 略)
「どっちだってよくはありません。綾ちゃんおねがいだから、もっとまじめに生きてください」
前川正は哀願した。
(中 略)
「綾ちゃん! だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」
彼は叫ぶようにそう言った。深いため息が彼の口を洩れた。そして、何を思ったのか、彼は傍らにあった小石を拾いあげると、突然自分の足をゴツンゴツンとつづけざまに打った。
さすがに驚いたわたしは、それをとめようとすると、彼はわたしのその手をしっかりと握りしめて言った。
「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」
わたしは言葉もなく、呆然と彼を見つめた。
いつの間にかわたしは泣いていた。久しぶりに流す、人間らしい涙であった。
(だまされたと思って、わたしはこの人の生きる方向について行ってみようか)
わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。彼が求めているのは、わたしが強く生きることであって、わたしが彼のものとなることではなかった。――
掲載省略:写真 光世氏が胸ポケットに携帯していた前川正氏の写真(三浦綾子記念文学館ブログから)
この後「前川 正氏」は一九五四(昭和二九)年に若くして急逝され、失意に沈む綾子さんは、三浦光世氏の優しい心に癒されながら心を通わし、やがて一九五九(昭和三四)年五月二四日に二人は結婚しました。
「道ありき」の最終ページに、光世氏と綾子さんの決意ともとれる、シーンが書かれています。
――どのようなときにも、二人は信仰に立って、真実に生きていきたいと願ったのである。
あたたかい、風一つない春の夜であった。――
この第一一章の、前川 正氏と堀田綾子さんとの会話が、三浦文学ファンの心に響き、この会話の地である「春光台の丘」に「道ありき」文学碑が建立になったのでしょう。
(5) 小説『塩狩峠』文学碑
・建立年月 二〇二二(令和四)年一〇月一四日
除幕式は、二〇二三(令和五)年四月二八日に「わっさむ塩狩峠公園」オープン時に実施・建立場所 和寒町 わっさむ塩狩峠公園 ・初出掲載誌 「信徒の友」(日本基督教団出版局)一九六六(昭和四一)年四月号から一九六八(昭和四三)年一〇月号まで ・初版刊行 「新潮社」から一九六八(昭和四三)年九月二五日刊行 ・建立経緯 二〇〇五(平成一七)年に惜しまれつつ廃業した塩狩温泉の跡地を、二〇一五(平成二七)年に和寒町が周辺地と共に購入し整備を計画的に進めてきた。
二〇二二(令和四)年に完成し、「わっさむ塩狩峠公園」と命名された。
公園化の一事業として、小説「塩狩峠」文学碑が、和寒町在住の彫刻家「長澤裕子さん」のデザインと監修により建立された。
掲載省略:写真 『わっさむ塩狩峠公園』オープン・テープカット
小説『塩狩峠』文学碑
文学碑は塩狩地区にある巨岩の「夫婦岩」をイメージし、一・八〇メートルの高さの花崗岩で造られ中央の御影石のプレートには、中心に三浦綾子さんの書による大きな刻字
塩 狩 峠
三 浦 綾 子
と、そして小説の一節が次の様に刻まれている。
汽車はいま
塩狩峠の頂上に近づいていた。
この塩狩峠は
天塩の国と石狩の国の国境にある
大きな峠である。
プレートの下部には、小説「塩狩峠」の最終章「峠」に記述されている『雪柳』の絵が鮮やかにデザインされていると共に、右下部に『雪柳』の文字が、碑の側面には建立年月が刻されている。
小説「塩狩峠」文学碑のデザインと監修された「長澤裕子さん」は、次の三浦綾子作品に関しても製作担当されている。
・小説「道ありき」文学碑(旭川市春光台公園)
二〇一四(平成二六)年六月二八日建立
・「氷点通り」モニュメント(氷点橋〜文学館)
二〇一八(平成三〇)年一一月一六日設置
掲載省略:写真 三浦綾子文学の道モニュメント(春永睦月ブログ「私の氷点ロード。」から)
◆ 最終章「峠」に記述『雪柳』の一節
小説「塩狩峠」文学碑のプレートに刻まれた『雪柳』の絵と碑文との配列調和に強烈な印象を受けました。
北海道新聞社刊「文学散歩 北海道の碑」(東 延江著一九八九年発行)に、全道の一一三碑(文学・歌・句・詩・川柳)が掲載されていますが、碑面に花木が刻まれたものはありませんでした。
小説「塩狩峠」のラストシーンに記載の『雪柳』の一節には……
(前 略)
ふじ子と吉川は、塩狩峠の信号所で、汽車からおろしてもらった。
「ボーッ」
汽車は二人に別れを告げるように、大きく汽笛を鳴らして信号所を離れた。汽車の黒い煙が、落ち葉の匂う雑木林に消えるまで、二人はおり立った所に立ちつくしていた。
五月二十八日、信夫が逝(い)った二月二十八日から、ちょうど三カ月たったきょうである。
(中 略)
塩狩峠はいま、若葉の清々(すがすが)しい季節だった。両側の原始林が、線路に迫るように盛り上がっている。タンポポがあたり一面に咲きむれている。汗ばむほどの日ざしの下に、吉川とふじ子は、遠くつづく線路の上に立って彼方をじっと眺めた。かなりの急勾配だ。ここを離脱した客車が暴走したのかと、いく度も聞いた当時の状況を思いながら吉川は言った。
「ふじ子、大丈夫か。事故現場までは相当あるよ」
ふじ子はかすかに笑って、しっかりとうなずいた。その胸に、真っ白な雪柳の花束を抱きかかえている。ふじ子の病室の窓から眺めて、信夫がいく度か言ったことがある。
「雪柳って、ふじ子さんみたいだ。清らかで、明るくて」
そのふじ子の庭の雪柳だった。
ふじ子はひと足ひと足線路を歩き始めた。
(中 略)
郭公(かっこう)の啼く声が近くでした。郭公が低く飛んで枝を移った。再びふじ子は歩き出した。いたどりのまだ柔らかい葉が、風にかすかに揺れている。
(信夫さん、わたしは一生、信夫さんの妻です)
ふじ子は、自分が信夫の妻であることが誇らしかった。
吉川は、五十メートルほど先を行くふじ子の後から、ゆっくりとついて行った。
(かわいそうな奴)
不具に生まれ、その上長い間闘病し、奇跡的にその病気に打ち克(か)ち、結婚が決まった喜びも束の間、結納が入る当日に信夫を失ってしまったのだ。
(何というむごい運命だろう)
だが、そうは思いながらも、吉川はふじ子が、自分よりずっとほんとうのしあわせをつかんだ人間のようにも思われた。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯(ただ)一つにて在(あ)らん」
その聖書の言葉が、吉川の胸に浮かんだ。
ふじ子が立ちどまると、吉川も立ちどまった。立ちどまって何を考えているのだろう。吉川はそう思う。ふじ子がまた歩き始めた。歩く度(たび)に足を引き、肩が上がり下がりする。その肩の陰から、雪柳の白が輝くように見えかくれした。
やがて向こうに、大きなカーブが見えた。その手前に、白木(しらき)の柱が立っている。大方受難現場の標(しるべ)であろう。ふじ子が立ちどまり、雪柳の白い束を線路の上におくのが見えた。が、次の瞬間、ふじ子がガバッと線路に打ち伏した。吉川は思わず立ちどまった。吉川の目に、ふじ子の姿と雪柳の白が、涙でうるんでひとつになった。と、胸を突き刺すようなふじ子の泣き声が吉川の耳を打った。
塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひるだった。
◆ 三浦文学で「塩狩峠・塩狩温泉」の初登場
三浦綾子さんの初の短編小説『井戸』に、「塩狩峠」と「塩狩温泉」が登場している。
『井戸』は、文藝春秋社発行「オール読物」の一九六五(昭和四〇)年一〇月号に掲載発表された。
小説「塩狩峠」は、前記のとおり一九六六(昭和四一)年四月号から一九六八(昭和四三)年一〇月号の「信徒の友」誌に連載されたものなので、短編小説『井戸』は六ケ月早く発表されたことになります。
三浦綾子さんは、『井戸』について
――私の作品に初めて登場したのは『塩狩峠』の片鱗他である――
と語っています。(随筆集「それでも明日は来る」の中の「冬の塩狩峠」に執筆)
尚、『井戸』は短編小説なので、三浦綾子中短編小説集「病めるときをも」を表題にして、「足」「羽音」「奈落の声」「どす黝(ぐろ)き流れの中より」「病めるときをも」に加えた六編が収録されています。
短編小説『井戸』に登場の一節は、
―― 結婚が五月と決ったある冬の午後、真樹子は思いたって名寄の友人を訪ねることにした。十四年もの長い間、ただギプスベッドにねていただけの真樹子が、人の妻になるということ自体、真樹子にも納得いかないことであった。学校時代の友人を訪ねてみたところで、無論納得のいく問題ではない。だが旭川を離れて自分自身をたしかめたい思いが真樹子にはあった。
わがままな体の弱い年上の女を、一生の伴侶(はんりょ)と決めた浩二がかわいそうで、真樹子は凍って外の見えない汽車の窓に、爪で「バカ」「バカ」と書いていた。指のぬくみで僅(わず)かにとけた「バカ」の字の間から、樹氷の林が流れて過ぎた。
汽車があえぎあえぎ、塩狩峠にさしかかった頃、真樹子はトイレに立った。席にもどろうとした真樹子は、思いがけなく中村加代の姿をみいだして、おどろいて立ちどまった。
「まあ、加代ちゃん」
と、なつかしさに人がふり返るほどの大声をあげた真樹子に、加代は昔と変りない嬉(うれ)しいような、淋(さび)しいような微笑をみせて、
「しばらく」
と抑揚のない声でいった。二十年ぶりで会ったというのに、加代は二、三日ぶりで会ったような感激のない表情をしている。
(中 略)
「それからな、今度、塩狩温泉に行かないかと言った女給もいるんだぞ」
加代の夫は威張った。
「連れてってあげるといいわ。あそこの温泉静かでなかなかいいお湯よ。真樹ちゃん入ったことある?」
加代は真樹子に話しかけた。――
◆ 平成三〇年和寒町で『塩狩峠展』の開催
作家三浦綾子さんの初版本を含め八〇点を展示した「塩狩峠展」が、一九九一(平成三)年一一月二日〜四日に、第二九回和寒町民文化祭協賛事業として、和寒町郷土資料館において開催されました。筆者(中村)は、一一月四日に見学のため足を運んだ。
小説「塩狩峠」は、三浦綾子さんと夫光世氏による最初の「口述筆記」による作品で、資料館内には「塩狩峠」の初版本と共に、その他の著作品・自筆の「清心」と書かれた色紙、八か国の外語翻訳版も展示されていました。
その中で、著者の好きな二冊として「泥流地帯」と「海嶺」が特別展示されているのを見て、驚きと嬉しさが湧きあがりました。
また、小説「塩狩峠」のモデル『長野政雄氏遺徳顕彰碑』(一九六九年九月に塩狩駅構内に建立)の除幕式記念アルバムと、当時の新聞切り抜きも展示され、多彩で充実した内容で、大変参考になりました。
掲載省略:写真 和寒町平成三〇年『塩狩峠展』チラシ
掲載省略:写真 著者の好きな二冊「泥流地帯」と「海嶺」
一二、短歌を刻む「三浦光世氏・綾子さん」のお墓
「綾子、いい仕事をたくさんしてくれたね。ありがとう…。」と帯書きされている三浦光世著の『綾子へ』が、二〇〇〇(平成一二)年一〇月一二日に発刊されました。
その発刊日は、綾子さんの一周忌の命日であり、妻 綾子さんへの温かい気配りが感じられます。
「綾子へ」の第九章「妻綾子への手紙」には、語り口調でお墓について次のように記しています。
◆ 三浦光世著『綾子へ』には
――綾子の遺骨は、葬儀の日以来、客間に置いてあるんだがね。いつだったか、百合子姉さんがね「綾子の墓はやはり建てておいたほうがいいんじゃない。ファンの方が訪ねてくると思うの。教会の納骨堂でもいいけど、中へ入れないし、これが三浦綾子の墓と、はっきりわかるものがあったらいいんじゃないかしら。別に豪華なものは要らないけど、考えてみて」と、お勧めくださった。全く同感で、「はい、それがいいと思います。何れ建てることにいたします」と、返事をしてね。雪が融(と)けるのを待って場所も見に行った。福田穣(ゆたか)氏の紹介で、観音霊園の一画に決めてきた。その後、墓の設計図も出来てきて、墓碑のスタイルなども決めた。
「? 三浦光世綾子の墓」としたよ。これを横書きにして、その両側に綾子と私の短歌二首を並べることにした。
着ぶくれて吾が前を行く姿だに
しみじみ愛し吾が妻なれば 光世
病む吾の手を握りつつ眠る夫
眠れる顔も優しと思ふ 綾子
「愛し」には「かなし」、「夫」には「つま」とルビを付すことも考えたが、まあそこでしなくてもいいだろう。よし≠ニしてくれるだろうな。
墓碑の前面には聖書の言葉「神は愛なり(聖書)」と掲げることにした。これも横書きのスタイルだ。
こうと決まって、私が毛筆で碑文?や短歌を書いて業者に渡したのは、六月末だったかな。八月三日には完成するそうだ。
納骨式は八月七日を予定した。六条教会の芳賀先生に司式をしてもらうことに、これも既におねがいしてある。
芳賀先生からは、教会には「永眠者記念礼拝」を毎年執り行ない、先輩を偲んでいるわけで、そのためにも教会の納骨堂に分骨して欲しいと、求められている。なるほどと、これも承った。――
掲載省略:写真 三浦光世著の『綾子へ』
『綾子へ』の最終章「再び、妻綾子への手紙」には、
――墓は予定どおり、観音霊園の一画に完成してね。八月七日月曜日、無事納骨式をすませたよ。身内の外、高野斗志美館長、後藤憲太郎先生も列席してくださった。三十人余りのささやかな式だったが、芳賀康祐先生の司式で、綾子愛唱の讃美歌一三六、一三八番がうたわれ、聖書朗読、祈り、説話と進められて終了した。
納骨式に出かける前にね、喪服を着た私は客間に入り、綾子の遺骨を小さな壺[つぼ]に分骨したよ。昨年十月十四日以来、およそ十カ月、写真と共に客間に飾っておいたのだがね。その壺をあけて、分骨したわけだ。さすがに心切なくてね、下手な歌ができた。
・カリエスを病みし脊椎(せきつい)はどの骨か
分骨の壺に入れる手を止(と)む
・小さき壺に分けゆく妻の遺骨の中
緑の斑点(はんてん)を持てる一片
そして、納骨式の一首。これは単なる報告歌のようで、綾子に「つまらん」と言われるかもしれないね。一応掲げておく。
・三浦光世・綾子の墓と刻みし下
十カ月家に置きし遺骨を納む
まだまだ言葉は尽きないが、紙数が尽きた。
では綾子、「また会う日まで、また会う日まで……」――
掲載省略:写真 三浦光世氏が生前に建立した夫妻の墓
◆ 三浦光世「信仰を短歌(うた)う」でお墓を語る
長年連れ添った妻・三浦綾子さんを天に送り、心の整理をつけるかのように、「信徒の友」の読者に語った思い出の数々として、歌人「林あまり」さんとの対談が、一九九九(平成一一)年一二月一四日に旭川で行われました。
その対談の中で、お墓について次のように語っています。
――原始仏教では、墓もないと聞きますけれど、キリスト教は旧約の時代から墓はありますね。
立派なものではないにしても、私達の墓も作りたいと思いまして、そこには「三浦光世・三浦綾子の墓」とでも書きたいと考えています。
その裏に、私の歌「着ぶくれて吾が前を行く姿だに……」を入れて、綾子の歌「病む吾の手を握りつつ眠る夫 眠れる顔も優しと思ふ」を並べて入れたい、と思ったりもしますが。――
掲載省略:写真 三浦光世著「信仰を短歌う」
三浦光世著「信仰を短歌う」の中で、光世氏は「当時の私は、その人生観を変えるほどに感動したのは次の一首である」と、著書「証としての短歌」に記述されています。その歌は、
――『妻の如く想ふと吾を抱きくれし
君よ君よ還り来よ天の国より』
綾 子
キリストを彼女に伝えて、清い青春を終えた前川 正への挽歌である。この作品を見た時の感動は、二七、八年経た今も全く消えることがない。
哀切極まりのない作品で、キリスト者の絶品の一つという思いは一貫して変わらない。――
とあります。
百合子姉さんからの、「お墓を建てたほうがいいんじゃないの」の進言の時期と、この対談の前後については不明ですが、光世氏はお墓の件について、思い出のある短歌を刻むことを含め、熟慮されていたことが伺えます。
この対談の中で、林あまりさんが「綾子先生が、光世先生の歌でお好きだったのは、どれですか」の問いに……
――(三浦)そうですね。初期の作品『君を思ふ夕べかなしくて袖に来し 白き蛾を鉢の菊に移しぬ』が好きだったんではないでしょうか。
そのほかに、『家建つる願いを持ちて妻と来し 野にあざやかに虹かかりたり』も好きだったと思います。――
綾子さんが好きだった前記の二首は、和寒町の塩狩峠記念館横の小高い丘にある「三浦夫妻 歌碑の森」に、他の六首と共にそれぞれ刻まれた八基の歌碑が、一九九九(平成一一)年四月三〇日に建立されています。
一三、和寒町塩狩峠に建つ「三浦夫妻の歌碑」
三浦綾子さん作品の文学碑は、上富良野町に建立されたのが初めてで、一九八四(昭和五九)年五月二四日のことでした。
富良野盆地に開拓の鍬が下ろされ、そして十勝岳爆発泥流の被災地であった草分地区に、小説「泥流地帯」の文学碑が建立されたのです。
その建立に事務局として関わっていたこともあり、三浦綾子さんの文学碑が他の市町村に、どの小説の文学碑がどこに建立されているのかを調査しました。その結果は、前記第一一項のとおりです。
その折、三浦夫妻は短歌(アララギ派)を数多く詠まれているので、歌碑の存在についても三浦綾子記念文学館に照会し、次の資料提供を受けました。
◆ 記念文学館 長友学芸員からの資料
――綾子は幼なじみの「前川 正」に短歌を詠むことを勧められ、一三年の療養生活の比較的早い頃の一九四九(昭和二四)年から短歌を学び始めました。作家になるまでの大きな趣味の一つでした。
光世は綾子に勧められて「アララギ」に学ぶようになり、晩年まで多くの歌を詠みました。
塩狩峠記念館「歌碑の森」には、綾子・光世がそれぞれ四首ずつ詠んだ短歌があります。
綾子の「前川 正」の挽歌……夫となる光世が「愛の絶唱だ。この歌が自分の女性観を変えた」と短歌もあります。
この歌以外は、光世が綾子を見舞っていた頃から新婚時代までの、お互いのことを詠んだものです。
この塩狩峠記念館は、旭川の豊岡にあった三浦商店という雑貨店(編集注:結婚後夫妻で建てた新居兼店舗)を移築したものですが、その雑貨店を建てる土地を見に行った時に、光世が詠んだ歌もあります。
ぜひ、じっくりご覧になってください。――
とあり、親切に教えていただきました。
短歌が詠まれた時期は、綾子さんは、「前川 正氏」が逝去された一九五四(昭和二九)年の翌年昭和三〇年から結婚された昭和三四年までです。
光世氏は、一九五六(昭和三一)年からで、綾子さんへの見舞―交際―婚約―結婚―家新築の昭和三五年までの期間でした。
掲載省略:写真 「塩狩峠記念館」外観
◆ 塩狩峠記念館と「三浦夫妻 歌碑の森」へ
長友学芸員の資料提供により、筆者は直ぐに和寒町の「塩狩峠記念館」に向かいました。
記念館への道路入口に案内看板があり、それには「塩狩峠記念館」、その下に「三浦綾子旧宅・歌碑の森」と表示されていました。(写真参照)
道路から、右側の小高い丘にある「歌碑の森」に歩を進めると散策路になって、その両側に綾子さんは「円柱」で四首、光世氏は「四角柱」で四首の歌碑八基が点在して建立されています。
刻字されている短歌を、読まれた時の出来事等と年譜を参考に記しました。三浦夫妻が短歌で表現した心を推察してください。
掲載省略:写真 「塩狩峠記念館」道路入口に案内看板
◆ 三浦夫妻の歌碑と年譜について
―一九五五(昭和三〇)年― 妻の如く想ふと吾を抱きくれし 君よ君よ還り来よ天の国より 綾 子 |
―一九五六(昭和三一)年― 君を想ふ夕べかなしくて袖に来し 白き蛾を鉢の菊に移しぬ 光 世 |
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年譜 〜 | 前年五月に前川 正氏召天。 悲しみが深く一年間ほとんど人に会わず過ごす。 |
年譜 〜 | 〜昭和三〇年六月、キリスト教誌「いちじく」の誌友の綾子を初めて訪問。その後、週一回の見舞を続ける。 |
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―一九五六(昭和三一)年― まなざしも語る言葉も亡き君に似て 三浦さんは清しく厳し 綾 子 |
―一九五七(昭和三二)年― 旅の終わりの今朝吾が見たる夢淋し 生きよと三度君に告げゐつ 光 世 |
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年譜 〜 | 病気が回復に向かう。 光世の週一回の見舞を受けていた。 |
年譜 〜 | 光世の見舞いと激励が続き、綾子は家の中を歩いたり、起きて食事ができるようになる。 |
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―一九五九(昭和三四)年― 降る雪が雨に霰に変わる街を歩みぬ 今日より君は婚約者 綾 子 |
―一九五九(昭和三四)年― 昨日嫁ぎ来りし妻と庭に佇ち 青き胡桃の花房仰ぐ 光 世 |
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年譜 〜 | 一月二五日、旭川六条教会で、三浦光世と婚約式。聖書を交換する。 | 年譜 〜 | 五月二四日、旭川六条教会で、堀田綾子と結婚式。 |
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―一九五九(昭和三四)年― 浴衣着て共に歩めばしみじみと 結婚したる吾等と思ふ 綾 子 |
―一九六〇(昭和三五)年― 家建つる願いを持ちて妻と来し 野にあざやかに虹かかりたり 光 世 |
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年譜 〜 | 結婚により三浦姓となり、新居は旭川市九条一四丁目に。 新婚旅行は、九月に層雲峡に行く。 |
年譜 〜 | 九月に雑貨店を兼ねた自宅の新築を計画。場所は豊岡二条四丁目。 |
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◆「塩狩峠記念館」と「歌碑の森」事業
和寒町開基百年事業として、当時の藤井辰夫町長が塩狩地区に整備を進められた。
一九九九(平成一一)年四月三〇日、三浦夫妻も出席しオープン記念式典が行われました。この年の一〇月一二日に三浦綾子さんがご逝去されたので、和寒町として思い入れのある事業になったことでしょう。
小説「塩狩峠」に『永野信雄』として記されている「長野政雄遺徳顕彰碑」は、一九六九(昭和四四)年九月一日に塩狩駅構内(現在は町有地)に建立されました。その中心は、旧国鉄旭川鉄道管理局・国鉄OB会・旭川六条教会・和寒町でした。
従って「塩狩峠記念館」は、「長野政雄遺徳顕彰碑」と共に和寒町の観光資源となり、三浦文学ファンはもとより、多くの人々が訪れています。
また、新聞報道によると三浦綾子著の小説「塩狩峠」の文学碑が、二〇二二(令和四)年一〇月一四日に建立され、二〇二三(令和五)年四月二八日に「わっさむ塩狩峠公園」オープンセレモニーと共に除幕された。
◆ 和寒町役場で「短歌の森」の取材
「短歌の森」関係で、いくつかの疑問があったので役場を訪れました。
○ 建設費は――
開基百年事業として、「塩狩峠記念館」と「歌碑の森」で五、四二九万円。「歌碑の森」の碑石製作費は五七万四、四〇八円、士別市の大塚石材店が碑刻字・施工とし、決算文書に「町長 藤井」「助役 森」「建設課長 小野」の押印がありました。
小野課長は小野好秋氏で、私が学んだ旭川工業高等学校の二年後輩でした。バスケットボール部で共に汗を流し、一緒に全道大会にも出場した仲で、OB会で何度か顔を合わせていました。
小野君には、上富良野町の専誠寺に建つ「十勝岳爆発惨死者碑」の調査に協力をいただきました。この結果、旭川市願成寺住職で書家の「藤 光雲師」の揮毫、「和寒村川西 佐藤円治氏」が彫工して、昭和二年五月に上富良野村に送付されたことが判明し、郷土をさぐる誌第九号に書くことができました。彼に聞けば、今般の疑問について判ると思っていましたが、残念なことに令和二年四月一二日に逝去されたことを知り、ご冥福を祈るばかりです。
いくつかの疑問点について、士別市の大塚石材店、役場職員に聞きましたが判らず、次のように推測しました。
○ 短歌の選定と揮毫は――
三浦夫妻がそれぞれ選歌され、揮毫もされたのではないでしょうか。
○ 碑石の形状は――
和寒町からの希望を聞かれた際に、夫婦の短歌がすぐ判る様にと共に、光世氏は「真面目な性格から四角柱体」を選び、綾子さんは「それでは私は円柱体にするよ…」等のやり取りが想像されます。
一四、三浦夫妻と旭川工業高校教師との繋がり
三浦光世氏・綾子さんが執筆された出版誌に、旭川工業高等学校教師であった「藤田國道(俳号・旭山)先生」と「碇(いかり) 博志先生」の記述がありました。
筆者(中村)は旭川工業高等学校建築科に一九五三(昭和二八)年四月に入学し、一九五六(昭和三一)年三月に卒業したのですが、在学中に両先生の授業を受けました。
藤田旭山邸をモデルにした小説「氷点」の辻口病院邸が、現在三浦綾子記念文学館が建つ外国樹種見本林の中にあるという設定から、非常に興味をもって各種出版物を読み、ここから得られた思いを記してみます。
辻口邸のモデルになった藤田邸の外観
◆ 藤田旭山先生について思いつくままに
(1) 藤田先生の自宅前は私達の通学路――
藤田旭山先生の邸宅は、旭川市宮下通り二二丁目にあって、私は富良野からの通学でした。旭川駅を出ると直ぐ右折して宮下通りを歩き、一条二四丁目の学校(現在の旭川厚生病院・旭川東警察署の位置)に通う三年間で、藤田先生の自宅前は、私達富良野線組の通学路でした。
藤田邸は和洋折衷様式で、洋風の二階建てと和風の平屋建てで構成されていて、洋風部分にはアーチ状の欄間が装飾され、建築科に学ぶ私にとって非常に印象深い建物でした。
三浦綾子さんが、小説『氷点』の「辻口邸」のモデルにしたことが理解できました。
(2) 和服姿の藤田先生と出会う――
先生の出勤時に、私達汽車通学生が度々路上で出会いました。
ある時、先生は和服を着て、山高帽を被り高下駄を履いて、小脇に風呂敷包みを抱えて漂々と歩いて出勤する姿を見ることがありました。
さすがに、国文を教える先生だったと、今もその情景を思い出します。
(3) 藤田先生「旭川市文化賞」を受ける――
一九五三(昭和二八)年一一月三日、藤田旭山先生は永年の句作活動と俳句の普及と指導に力を注ぎ、その意欲的な活動が認められて、「旭川市文化賞」(芸術部門・俳句)を受賞されました。
文化賞を受けた後の最初の国文授業の時、私たちのクラス皆んなで申し合わせて、先生が教壇に立つタイミングで「先生!文化賞おめでとう」の大合唱と共に拍手で祝いました。
先生は少し照れながら、「ありがとう、君達も特技や趣味を持つべきだ」と話されたことが印象的でした。
掲載省略:写真 藤田旭山肖像(「旭川九十年の百人」から)
(4) 「藤田先生」に関わる三浦綾子さんの随筆
三浦綾子さんは、長編小説の連載や中短編小説を執筆する超多忙な著作活動を身体(からだ)を労(いた)わりながら、光世氏との口述筆記により多くの名作を著してきました。
その傍ら、数々の随筆・エッセイを書かれており、その中には「藤田旭山先生・月女夫人」――三浦綾子さんとの様々な出会いと、思い出が記されています。これを、初出年順に掲載すると共に、その一部を書き留めます。
@表 題 『小説の舞台とわたし』
掲載誌 「旭川市民文芸」第一五号
発行年 一九七三(昭和四八)年一〇月二四日
(旭川文化団体事務局)
A表 題 『旭山夫人の手袋』
掲載誌 「旭川春秋」第一五一号
発行年 一九七八(昭和五三)年一月一日
収録誌 随筆集「孤独のとなり」に収録
一九七九(昭和五四)年四月角川書店
B表 題 『酒樽の匂い』
掲載誌 ARCAS〜日本エアシステム機内誌
発行年 一九九〇(平成二)年三月一日
収録誌 随筆集「心のある家」に収録
一九九一(平成三)年一二月講談社
C表 題 『旭山先生と私』
掲載誌 「旭山句集」第四句集
発行年 一九九七(平成九)年二月一日
尚、三浦綾子さんが執筆された随筆は数多くあり、それを数年間毎にまとめて、「三浦綾子随筆集」として次のとおり発刊されている。
@随筆集 「あさっての風」
発行年 一九七三(昭和四七)年一一月三〇日
発行所 角川書店
A随筆集 「孤独のとなり」
発行年 一九七九(昭和五四)年四月三〇日
発行所 角川書店
B随筆集 「泉への招待」
発行年 一九八三(昭和五八)年九月一日
発行所 日本基督教団出版局
C随筆集 「それでも明日は来る」
発行年 一九八九(平成元)年一月二五日
発行所 主婦の友社
D随筆集 「心のある家」
発行年 一九九一(平成三)年一二月一〇日
発行所 講談社
■ 随筆『小説の舞台とわたし』より
この随筆の中で、『氷点』の舞台が「見本林」と「辻口啓造邸」になった経緯を、三浦綾子さんは次のように書いている。
――わたしにとって小説の舞台を、どこにするかということは、かなり重要な因子となる。
(中 略)
「氷点」の舞台である見本林は、ストーリーを考えているうちに目に浮かんだ。それはかつて、三浦に伴われてはじめて見本林を訪れた日の、うす暗い不気味な印象が強烈に胸に焼きついていたからである。
舞台を見本林に決めてから、小説が完成する迄に、私は何十回となく見本林を訪れた。熱いまひる、あるいは秋のたそがれ時、そして冬の漂烈たる寒さの中、また、ある時は真夜中というように。
(中 略)
見本林のそばに住む人のように、わたしは見本林の四季をわが身に感じとりたかった。
見本林の舞台は決まったが、家がなかなか決まらない。
(中 略)
そしてある夜、ふっと思い出したのが、宮下二十二丁目の藤田旭山先生のお宅である。
このお宅は女学校時代、旭山先生の御令弟寅一先生に英語をならうため一夏通ったことがあり、のちに終戦の年、句会で伺ったことがある。
昭和五年、酒造会社を経営していた旭山先生の御父上が二万円で建てられたという家である。
和洋館から成るその家は、いかにも病院経営者である辻口病院の先代が建てたにふさわしい家に、わたしは思われた。
思い立ったが吉日で、すぐに翌日お訪ねして、お家の中を見せていたゞいた。今年亡くなられた月女さんが、明るい笑顔で迎えて下さり親切に御案内下さった。間取りを図に書き、そっくりそのまま小説につかった。
(中 略)
現実の面白さや変化は、作家の想像力を超える。景色の四季の移り変わりにしても、たとえば、見本林のカラスのおびただしい死などは、想像から生まれにくい。
それで、わたしは、ストーリーは作っても、舞台は現実にある場所を求めるのである。
そして、それはある先輩が教えてくれた、「小説はよく知っていることを書け」といった小説作法にも従うことになるのだと思うのである。
それで、私の小説に出てくる場所には、私は必ず行っている。――
■ 随筆『酒樽の匂い』より
――私が生まれた家の三軒隣に、?藤田という造り酒屋があった。その蔵の敷地に、日当たりのいい広場があって、いつも大きな酒樽が四つ五つ干されてあった。
私たち子どもはその樽の中に蓙(ござ)を敷き、その辺から摘んできたクローバーや草花などで、ままごとをして遊んだ。樽の中には、えもいわれぬ花の香がほのかに漂っていたものだった。あれはまさしく、私にとっては懐かしいふるさとの香りである。
私の小説「氷点」は、実にこの樽の匂いと無縁ではない。樽の中で遊んだ小さな女の子の私は、四十年経って小説を書いた。
私はその時、小説の主人公の家を、旭川市内にある現実の建物に置こうと思った。その私の胸に浮かんだのが、この造り酒屋?藤田家の、昭和五年に二万円で建てたという、和洋折衷の家であった。
(中 略)
この家の近くの啓明小学校に、若い頃私が勤めていたこともあって、ご一家とは知り合いでもあったことから、甘えてその屋敷をモデルに使わせて頂いた。
ご主人は藤田旭山といい。俳句の仲間を育てていられた。ご夫人は随筆家の森田たまさんのような素敵な女性で、何かと理解を示してくださった。
それは正に、あの大きな酒樽に沁み込んだ、ほのかな香りのようなやさしさであった。
このお二人があって、私の小説の主人公たちは、住む家を与えられたのである。――
(5) 坂井京子さん作図の藤田邸見取り図
モデルになった藤田邸から作成した
辻口邸の間取図(坂井京子作図)
一九三〇(昭和五)年に建築の藤田邸ですが、「氷点」関係の出版物には外観が掲載されていました。
旭山先生の三女である坂井京子さんが、自分が生まれ育った我が家がモデルになっていることから、「三浦綾子記念文学館図録」(一九九八年六月一三日・三浦綾子記念文化財団発行)に、「藤田邸のたたずまい」として手書きの見取り図を作成し掲載されました。
「氷点」に登場している陽子と次子の部屋は一階の離れに、二階は徹の部屋と記載され、非常に精巧に書かれ、興味ある見取り図なので、じっくりと細かいところまで見て、小説「氷点」のシーンに重ね合わせてみてはどうでしょうか。
藤田邸は、旭川市民団体「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の、「歴史的価値のある建物をたたえる二〇二一(令和三)年の『第二回建築賞』」に選ばれました。
富良野市の「渡部医院」も、同会の二〇二三(令和五)年の「特別賞」に選出されました。渡部医院は一九二三(大正一二)年建築の木造二階建て、洋風モダンな外観が特徴です。
(6) 藤田旭山先生の三女との出会い
旭川文学資料館が、二〇〇九(平成二一)年五月一七日に開館した。筆者(中村)も会員になり、オープンセレモニーに出席した。
この折、俳句資料コーナーの藤田旭山先生の展示物の前で立ち止まり、思わず一枚の写真をジーット見つめていました。
その写真は、俳人石田雨圃子主宰の俳誌「木の芽」一周年記念俳句大会(一九三〇年―昭和五―六月二九日・慶誠寺)の時のものでした。
写真の中央に「石田雨圃子」と「野村泊月」の二人、その左隣に「藤田旭山先生」が写っていたことに驚きました。
その時、「藤田旭山について何か…」と声をかけてくれたのが、資料館ボランティアで、ネームプレートに「坂井京子」とありました。
掲載省略:写真 旭川文学資料館パンフレットとオープンに際して閲覧する著者
私は旭川工業高等学校で、藤田先生に国文の授業を受けたこと、そして、石田雨圃子の句碑「秋晴れや雪をいただく十勝岳」が、上富良野町中茶屋に建立されていて、その建立経緯を「上富良野町郷土をさぐる誌」第三号に執筆したことを申し上げました。
そうしたら、「藤田旭山は父で、私は三女です」と語られ吃驚(びっくり)しました。全くの奇遇と喜びを感じ、旭山先生のこと―父の思い出をひととき語り合いました。
これが坂井京子(俳号・今日子)さんとの出会いの時でした。
資料館の展示を見終えて、再び坂井京子さんにお会いし、「石田雨圃子」「藤田旭山」「野村泊月」が写る展示写真のコピーをお願いしたところ、早速三日後に、短信メモと共に写真が送られてきました。
その後も、何回かの連絡や照会したことが思い出されます。
句誌「木の芽」一周年記念俳句大会にて
(前列左から4人目:藤田旭山、中列右:石田雨圃子、中列左:野村泊月)
旭川文学資料館提供
(7) 『藤田旭山展』の開催と坂井京子さん
旭川文学資料館において、二〇二一(令和三)年一一月四日から二〇二二(令和四)年三月二六日まで、『藤田旭山展』が開催されました。
約六ケ月間の企画展でしたが、旭山先生にゆかりのある人々、旭川市民等多くの来場者がありました。
掲載省略:写真 『藤田旭山展』チラシ
省みますと、旭山先生は一九九一(平成三)年三月六日、行年八九歳でご逝去されているので、「没後三〇年」の企画展でもありました。
旭山先生の三女坂井京子(俳号・今日子)さんは、奇しくも父旭山の企画展開催中の二〇二二(令和四)年一月五日、享年八三歳でご逝去されました。
父の「旭山句集」(第四句集)は、一九九七(平成九)年二月一日に発刊されたのですが、その企画・編集に携わった発行人の藤田尚久氏は「あとがき」に「旭山の子孫を代表して、坂井今日子が編集に深く携わったことを申し添え、その労をねぎらいます」と書かれています。
病気療養中の今日子さんは、父母の思いを込めて―旭川ゆかりの俳人―「藤田旭山展」の準備や運営を直接手伝いたかったと思います。しかし、無事に開催されていることを知り、どれだけ喜んだことでしょう。
■ 「藤田旭山先生」の句碑
「藤田旭山先生」の句碑が、旭川市旭山公園に一九七九(昭和五四)年一〇月建立された。
― 雪虫の 夕暮れ青し 旭川 ―
坂井今日子さんは、父亡き後は後藤軒太郎主宰の「舷燈」に所属しました。二〇〇七(平成一九)年「舷燈」の終刊号に次の句が読まれています。
― 雪虫や 墓碑のごとく 父の句碑 ―
この句は、旭川文学資料館友の会通信第三八号(二〇二二年―令和四―三月三一日発行)の会員追悼の欄に、「坂井京子さんのこと」として、会員であり友人の「立岩恵子さん」の追悼文中に掲載されている四句のうちの一句です。
父旭山の句碑への、俳人としての今日子さんの想いと、子供としての偲ぶ心情が伝わってくるようです。
坂井京子さんに、生前のお世話に深謝し、ご逝去を悼み心からお悔やみ申し上げます。
◆ 三浦夫妻「結婚祝う会」に『碇先生』が
筆者(中村)の母校、道立旭川工業高等学校土木科の「碇 博志先生」が、三浦夫妻の「結婚祝う会」の司会をなされたことを知ったのは、一九九一(平成三)年九月でした。
それは、主婦の友社発行の「三浦綾子全集」の月報四と月報五に、三浦光世氏が「妻を語る」として著してありました。その中から抜粋掲載します。
■ 月報四―一九九一(平成三)年九月
――暖かくなるにつれ、彼女なりに嫁ぐ日の準備や、心づもりに時間を費す日も増えていった。
時には六条教会に出て、幾度か披露パーティーの委員たちと話し合うこともあった。パーティーの司会を引き受けてくださった碇博志氏始め、皆さん何くれとなく心配してくださった。――
■ 月報五―一九九一(平成三)年一〇月
――一九五九年五月二四日、旭川六条教会で結婚式を挙げた。―中略―式のあと、つづいて階下の幼稚園ホールで祝会が持たれたが、これはまたまことにもってささやかな会であった。会費僅かに百円也。当時の教会役員の申し合わせに従ったのだが、これは私たち一組だけで、その後はこんな例はなかったようだ。ノー・アルコール、ノー・スモーキング、ケーキに紅茶、椅子は幼稚園児のもの。―中略―
碇博志氏のあたたかい司会、友人知人の心こもる祝辞やスピーチで、けっこう会は盛り上げられた。――
とあります。三浦光世氏の率直な気持ちが綴られています。
碇先生は、日本基督教団旭川六条教会で洗礼を受け、熱心な信徒でした。信徒の仲間からも信望も厚く、光世氏、綾子さんとも年齢的に近かった関係もあり、「結婚祝う会」の司会進行役を引き受けられたのだと思います。(弟 碇 孝男さん談話から)
碇先生は、土木科専任の教諭でしたが、建築科の私達も「測量」の授業を受けました。端正な風貌でテキパキと授業を進められるので、私達の理解度は高まりました。
今思えば、三浦光世氏と碇先生は「よく似ている」と……そして前川 正(綾子さんの幼馴染で成人後も相愛だったが早逝)とも……思われます。
= 碇 博志先生の略歴 =
・ 一九二七(昭和二)年 旭川市で生まれる。 ・ 一九四三(昭和一八)年 庁立旭川工業学校土木科の第一回生として卒業。 ・ 一九四四(昭和一九)年 母校の土木科助手。 ・ 一九四九(昭和二四)年三月 北海道大学工学部を卒業し、母校の土木科専任教諭となり、一八年間土木技術者教育に情熱を傾注。 ・ 一九六七(昭和四二)年四月 道立函館工業高等学校教頭となる。その後、道内の工業高等学校の教頭・校長を歴任。 ・ 一九八二(昭和五七)年一一月 道立名寄工業高等学校の校長で退職。 ・ 二〇〇〇(平成一二)年三月 遠軽町にある「留岡幸助翁」が創設された「社会福祉法人 北海道家庭学校」の理事に就任、二〇〇七(平成一九)年二月まで在任。 ・ 二〇一三(平成二五)年九月 享年八七歳で逝去。
終わりに
小説『泥流地帯』と『続 泥流地帯』それぞれの最終章に、『汽笛』の描写が次のように書かれています。
小説の内容と共に、当時の情景が想像されます。
『泥流地帯』最終章の「煙」(八)節に
――遠くで汽車の汽笛の音がした。母の佐枝は、遅くとも明日には、帰って来るだろう。家も子も親も流されてしまった泥流の村に帰って来るだろう。
「な、耕作、母ちゃんばうんと大事にするべな」
「うん、大事にする」
耕作は深くうなずいた。再び、汽笛が長くひびいた。――
また、『続 泥流地帯』最終章「汽笛」(三)節に
――(白いハンケチか。赤いマフラーか)
一輌目が過ぎた。
「あっ!」
叫ぶ耕作の目の前を、白いハンケチがふられて過ぎた。
「兄ちゃん!」
耕作は思わず叫んで、拓一をふり返った。拓一が、くずれるように稲の中にうずくまるのを、耕作は見た。
(兄ちゃん! よかったな、兄ちゃん!)
耕作は泣きたい思いだった。と、拓一がすぐに立ち上った。鎌を持った手を大きくふった。鎌がきらりと、朝日を弾き返した。家の前に立つ佐枝も手をふっている。何も知らない村長だけが稲を刈りつづけている。
汽車は見る見る小さくなってうねって行った。
「ぽーっ」
深山峠にさしかかったのか、汽笛が三度長く響き渡った。――
執筆に当たり、取材や資料収集にご協力いただきました皆様に、厚く、深くお礼申し上げ、「ぽーっ」・・・ ・・・ 『汽笛』の余韻に浸りながら、この稿を終えます。
《取材協力者》
取材にご協力いただき、ありがとうございます。
誠に失礼ながら、敬称は省略させていただきます。
(順不同)
札 幌 市 木 原 直 彦 合 田 一 道
旭 川 市 三浦綾子記念文学館 (許諾番号22)
旭川文学資料館
目加田 祐 一 小 泉 雅 代
沓 澤 章 俊 長 友 あゆみ
碇 孝 男 坂 井 京 子
遠 軽 町 オホーツク文学館(生田原町)
西 原 敏 男 今 泉 基 六
和 寒 町 和寒町役場産業振興課
三 好 圭 輔 西 田 きみ子
高 橋 甚 多
上富良野町 佐 川 泰 正 福 井 昭 一
松 本 茂 樹
《参考文献》
・三浦光世「信仰を短歌(うた)う」 三浦光世著 ・歌集「共に歩めば」 三浦光世・三浦綾子共著 ・歌集「吾が妻なれば」 三浦光世著 ・歌集「夕風に立つ」 三浦光世著 ・「綾 子 へ」 三浦光世著 ・「妻 三浦綾子と生きた四十年」 三浦光世著 ・「ごめんなさい といえる」 三浦綾子著 ・「氷点」を旅する 三浦綾子記念文学館編著 ・綾子・光世「愛つむいで」 三浦光世・綾子共著 ・綾子の小説と私―三浦綾子創作秘話 三浦光世著 ・図録 三浦綾子 財団法人三浦綾子記念文化財団 ・評伝 三浦綾子―ある魂の軌跡 高野斗志見著 ・三浦綾子生誕一〇〇年 記念アルバム 公益財団法人三浦綾子記念文化財団 ・「三浦綾子全集」第二十巻 主婦の友社 年譜・著作目録 村田和子編 ・「かみふ物語」 昭和十二年生れ丑年会編 ・上富良野町郷土をさぐる会誌 第二号・第三号 ・十勝岳爆発災害復興六〇周年記念 三浦綾子「泥流地帯」文学碑建立記念の栞 ・「旭川九十年の百人」 北海タイムス社編 ・「父 吉田貞次郎」の思い出 清野てい著 ・「泥流地帯」と父のこと 安井弥生著 ・私の回想「冬の日 愛すべし」 安井吉典著 ・「天使のトランペット」 安井吉典著 ・上富良野町開基百年記念誌 上富良野町 ・和寒町百年史 和 寒 町
《参照WEBサイト》
・三浦綾子記念文学館WEBサイト
・和寒町WEBサイト
・旭川市WEBサイト
・遠軽町観光協会WEBサイト(生田原地区)
・上富良野町郷土をさぐる会WEBサイト
機関誌 郷土をさぐる(第41号)
2024年3月31日印刷 2024年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀