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十勝岳の登山道

三 原 康 敬
昭和二十四年九月二十八日生(七十四歳)

 本文を含め、引用・参照部分の年号は元号に( )書きで西暦年を記載した。ただし、書籍名称に入っている年号はそのままとしている。
  十勝岳ジオパークの誕生
 美瑛町と上富良野町の両町で十勝岳ジオパーク構想が持ち上がった際に、サポーターとガイドの養成が行われることを知ったので、十勝岳に関する文献収集とか郷土史研究団体の活動を通じて得た知識で、何か貢献できることがあるのではないかと考え、ガイド資格を得るための養成講習を受けることを決意した。
 ガイドを志望した動機は平成二十三年(二〇一一年)に旭川市大雪アリーナを会場に開催された「日本火山学会二〇一一年秋季大会」の特別講演で「ジオパーク」について、『「定義(理念):大地の公園」地球科学的に見て重要な自然遺産を含む、自然に親しむための公園。地球科学的に見て重要な特徴を有し、自然遺産や文化遺産を有する地域がそれらの遺産を保全し教育やツーリズムに利用しながら活用すること。』という知識を得ていたからである。
 受講者なので、講師の講義内容について、異論を述べる立場にないことから、反論と異議を唱えることを自粛し、受け身の立場で終始した。講師に対する質疑応答の時間に受講者から出された質問の内容を自分なりに解釈すると、このジオパークに関するガイドの基礎知識(十勝岳の自然に関することにつき)が乏しいのではないかと思えた。ガイド資格よりもこの地域の特性などを学習する目的で受講する人がいることも知った。
 ジオパーク構想は、両町の機関・団体による組織構成であった。平成二十九年(二〇一七年)度、「十勝岳ジオパーク(美瑛・上富良野エリア)構想」のテーマ「うねる大地が描く十勝岳の軌跡」で認定申請を行った。しかしながら認定が見送りとなった。このことから平成三十年(二〇一八年)、新たに申請のスタートを切るにあたり、テーマを再検討するので、ジオサポーター養成講習受講者などが集まり、新たなテーマの再検討ワークショップが開催された。この時、私が漏らした何気ない一言が検討されて、新たなテーマ「丘と火山がおりなす彩り」が決まった。
(編集注:協議会運営委員会で漢字の「織なす」が提案されたが、「かな」に変更して決定された。)
 細かい文字の加盟申請書を丹念に読んで、この時思ったのは、非常に苦労して作成されていると感じた。しかしながら、申請書の内容を地元の有識者に確かめ、意見を求めて作成すべき必要性があるのではないかと思えた。
 地元の歴史的経過と由緒ある地名とか地形の特徴について、歴史上の事実を確認する史料で確かめて一致させる必要性が不足していると思った。上富良野町の歴史書に位置づけられる、平成十年(一九九八年)八月発行「上富良野百年史」の記述を全く度外視しているか、または読み込んでいないと思われる。
 さらに、違和感があるのは、最初の構想にある、パンフレットの組織図を見ると、専門部会の地域・普及部会に「郷土史研究団体」がないのである。私は、文化団体代表ということで、「郷土をさぐる会」からの選出で文化財保護委員を引き受けているが、文化財保護委員会の会議でジオパーク構想に関する議案があった。両町対等な組織構成を基本とすることから、美瑛町には上富良野町の「郷土をさぐる会」と対等になる団体がないことで、名を連ねていないことがわかった。二度目の認定申請につながるパンフレットの組織図には郷土史研究団体が構成メンバーに入っている。

 私は、「日本火山学会」の会員だが、専門分野を「十勝岳に関する文献収集」として入会を許されている。そんな私が、上富良野の歴史について収集した火山活動の文献史料などで知識を得た、故郷上富良野に関する歴史と火山噴火の関わりを考えると地域おこし協力隊ジオパーク専門員が学術的見地から作成した申請書では、歴史的な解釈などがなされていないように思えた。
 日の出公園に地形を利用して小銃射撃場の的壕が設置されていると、提言したことがある。しかしながら、この提言は歴史的施設なら銃撃痕が無ければならない、またストーリー性がないと取り合ってくれなかった。これは、西郷隆盛が西南戦争の時、立てこもった鹿児島の史跡を意識してのことと思った。つまり、戦争遺跡という観点からのとらえ方を基に取り合ってもらえなかった。この専門員が転出してから、銃撃痕を見つけたが日の目を見ていない。
 同じく、明憲寺近くの富良野川に架かる上富良野橋下の川底にある泥岩のような岩が西の山の末端で、町の東側の十勝岳連峰の地質と異なる対比を知ることができるのではないかと話すも、ストーリー性を盾にこれも取り合ってもらえなかった。このほかに、自然地形について、気が付くままに作成したこの地域の地球科学的なサイトや景観を羅列したA4一枚のリストを提供した。

掲載省略:写真 後に見つけた石垣の銃撃痕

 このような経緯から、地名についての通称名と歴史的な地名の裏付けについて、資料を基に調べてみた結果を書くことにした。「上富良野町郷土をさぐる会」に入会していて、日頃、思っていることは歴史学者の「歴史の犯罪者になってはならない」、地名研究者の「『由緒ある地名』は通称名と異なる」ということば。このことから、未熟ではあるが、資料・史料をよく精査して書くことを基本的な心構えにしている。
 「由緒ある地名」については明治二十一年(一八八八年)から明治二十二年(一八八九年)までの「明治の大合併」、昭和三十一年(一九五六年)から昭和三十六年(一九六一年)までの「昭和の大合併」、平成十一年(一九九九年)から平成二十二年(二〇一〇年)までの「平成の大合併」を経て、町村名から消えた経緯がある。先祖調べで戸籍謄本を交付してもらうと、合併前の「由緒ある地名」が見え消し(棒線消しで訂正のため、訂正前が読み取れる)で残っているので知ることができる。
 後に触れるが、地名に関して三つの不思議が思い当たる。十勝岳に無い「十勝岳温泉」、最近は「十勝岳温泉郷」という表現で言い表している。「旧噴火口」なのに「安政火口」と「ヌッカクシ火口」。「振子沢」に無い「振子沢噴気孔群」。
  旧噴火口と安政火口
 ジオに密接な関連のある十勝岳について、地名で感じたことにふれる。「郷土をさぐる」第三十七号に『旧噴火口』の地名考と題して書いたが、あまり反応が芳しくないと感じている。たかが五百冊の発行で、ほんの一握りの人にしか知られていないことからである。「由緒ある地名」の『旧噴火口』はいまだに歴史の表舞台から退いている。歴史書の平成十年八月発行「上富良野百年史」では、『旧噴火口』の地名が一般的な通称名としてとらえられている。
 郷土をさぐる会初代会長の金子全一氏が「郷土をさぐる」第九号で會田久左エ門翁に触れた一文で、十勝岳温泉開発の経緯を横から見ていた感想を寄稿している。
 この中で、初めに『安政火口』からの引湯、中ほどで『旧噴火口』の記述があり、締めくくりは、『安政火口』の記述となっている。これは年代をたどって書いていることから、年代の経過に伴って地名が変わったことがわかる。十勝岳温泉の開発申請に際して思い付いた地名であった経緯の記述でもある。
  歴史的経過と登山道
 郷土をさぐる会の現編集委員長北向一博氏が上富良野町役場商工観光課に勤務していた時、十勝岳連峰の登山道をくまなく歩き、地点と地点の距離と行程の時間を計測してA3判の「十勝岳コース図」を作成した。この地図は、私を含め駅の観光案内所でボランティアガイドをしている際、登山者へのルート案内に重宝している。十勝岳に関する資料収集からこの地図に無い、あまり知られていない過去の登山道と噴火で休道となっている登山道について、資料を基に調べてみたので書くことにした。
 
上富良野村全図略図
 丸山と称される中央火口丘の噴気帯から硫黄を採取していた平山鉱業所の元山事務所から採鉱場所に至る作業道が硫黄搬出のためにつけられていた。馬一頭が通れる幅の道で、当時の上富良野村から旭野地区の山加を通って十勝岳に至る道路の一部でもある。
 この登山道を登り、スキー登山を楽しんでいた「山とスキー部」と「恵迪(けいてき)寮旅行部」が合併した創立間もない北大山岳部が吹上温泉旅館をベースに十勝岳連峰を踏破して各ピークに初登頂の足跡を残すことになる。「十勝温泉」(現十勝岳温泉ではなく、吹上温泉を指す)と親しみを込めて呼ばれた。

掲載省略:写真 吹上温泉発行の絵葉書(渡り廊下と浴場)〜昭和9年9月27日のスタンプが押されている

 スポーツ登山の黎明(れいめい)期、十勝岳連峰の新たな登山ルートを登った北大山岳部により「和辻(わつじ)記号」と言われる連峰の地形的な要所にA点からZ点までの記号がつけられた「十勝連峯登路圖」がある。主要地点を表すこの呼び方は北海道内の山岳会に広く知られている。「北大山岳部々報第一号」に「陸地測量部五万分一地形図に登路その他を書き込み、そのまま凸版にしたるものなり。」の記述がある。
 「十勝連峰登路図」を作成した和辻廣樹氏をはじめ、北大のOB・学生は、十勝連峰を「十勝」と親しみを込めて呼ぶ場合が多く、昭和六十三年(一九八八年)から平成元年(一九八九年)の十勝岳噴火の時、観測にあたっていた北大理学部出身の火山研究者なども「十勝」と親しみを込めて呼んでいた。

掲載省略:写真 初代十勝岳避難小屋(郷土館収蔵写真)頂上直下の前十勝岳〜馬の背〜本峰ルート登山道の傍にあった

 陸地測量部の地図に、旅館の場所は発見場所の地形から『瀧の湯』と表記されていて、現「吹上露天の湯」駐車場の位置に旅館があり風呂場へは渡り廊下で結ばれていた。
 昭和三十年(一九五五年)前後に活躍した富良野高校山岳部のOBに聞くと、前十勝岳から十勝岳本峰のコース途上に山小屋の残骸、風化した柱と土台が残っていたのを目にしたと話す。昭和三十七年(一九六二年)の十勝岳噴火で前十勝岳経由の登山コースは休道となっている。
 前十勝岳から十勝岳本峰の登山コースを、十勝岳山頂標になっている「光顔巍々(こうげんぎぎ)」碑建立のため辿った記述が上富良野村史原稿に残されている。

62噴火以前の大正火口
〜前十勝岳〜本峰の登山コースがわかる国土地理院地図

 昭和三十七年(一九六二年)六月二十九日の十勝岳噴火の日、異常現象確認のため気象庁が行った現地調査で歩いた経路でもあり、昭和三十七年噴火までは十勝岳本峰に登山する一般的なルートであったことがわかる。郷土をさぐる第三十八号(令和三年(二〇二一年)四月一日発行)に掲載の倉本千代子さん「上富良野に生きて(四)」の「十勝岳登山での思い出」にも、十勝岳本峰に登山する一般的なルートであったことが書かれている。
 古書店から購入した、吹上温泉発行の絵葉書に前十勝岳から十勝岳を写した写真がある。昭和三十七年(一九六二年)の十勝岳噴火を自衛隊機が上空から撮影した郷土館所蔵の写真で、この登山コースを知ることができる。

掲載省略:絵葉書 吹上温泉発行、登山コースのわかる絵葉書。前十勝岳頂上から十勝岳への登山道を望む。62噴火前の地形がわかる痩せ尾根を登った先のなだらかな鞍部に小屋が建てられていた。

  大正噴火翌々日の登山

 大正十五年(一九二六年)六月十日発行、小樽新聞附録「趣味と娯楽」六月号(第二巻第六号)が郷土館に寄託されており、郷土館ボランティアの時に見つけたので、コピーをもらって入手した。現物は個人史発行のため家族に引き取られている。
 小樽新聞社の塲崎(ちょうざき)記者が爆発翌々日に十勝岳に登ると題して、十六ページから三十ページに記事を書いている。調査に関する記事の概略は、一行は二十一名で、先導が飛澤辰巳氏(吹上温泉経営者)、旭川測候所長、上川支庁屬(ぞく)渋谷、小樽新聞社活動写真撮影班、小樽新聞社写真班員廣瀬、上富良野村村吏、消防組員十余名。とあり、村吏は郷土をさぐる誌第十八号寄稿者の長井禧武(よしたけ)氏を指すと思われる。
調査に関する行程の時間経過が記事に書かれていて、午前八時に駅前の救護隊本部を出発。午前十時、山加農場到着(二里半=約十q)、午前十時三十分、平山鉱業山加事務所通過とあり、二時間後、一里(四q)を歩いて平山鉱業元山事務所に到着したとある。推定であるが山加事務所からは泥流の流れた所を歩いて、周囲を捜索しながら元山事務所に向かったと考えられる。
  登山のための交通
床鍋繁則氏が「郷土をさぐる」第九号に寄稿した一文の中で、十勝岳の冬山と夏山に詳しい人と交流があって、上富良野で育った自分が赤面するほど詳しい人であると書いている。その小串靖夫氏が書き表した「昭和七年―北海道の冬山(1)から―」を引用している。その内容は、上野駅を出て上富良野駅に着き、馬橇で吹上温泉に向かう道中記と十勝岳登山で、当時の交通事情と登山ルートを知ることができる。これに関しては、「郷土をさぐる」第六号に六平健さんが運送業者の視点から『吹上温泉往来』を寄稿しているので関連して詳しく知ることができる。十勝岳に関する資料として、購入・所蔵している『日本山岳会の創立七十周年記念出版覆刻(ふっこく)日本山岳會(かい)編「會報一號(ごう)―一〇〇號」』昭和五十年(一九七五年)十月一日印刷、昭和五十年十月十四日発行の昭和十年(一九三五年)四月會報四十五號附録一頁に『登山関係自動車便調査(T)』があり、その中に十勝岳の調査結果が記載されており、交通事情が分かるので参考にこの記述を引用する。
  十勝岳
上富良野驛(えき)―吹上温泉 一八粁(きろめーとる) 一圓(えん) 貸切 五圓
一日三回(ママ)
  驛 發(はつ) A・M七、三〇 P・M五、〇〇
  温泉發 A・M九、〇〇 P・M七、〇〇
五月下旬ー十月下旬
冬期馬橇(ばそり) 一圓 一臺(だい)三名三圓 一臺一名二圓
 これにより、吹上温泉への交通手段と料金を知ることができた。
  気象庁の現地観測登山
 気象庁が十勝岳の観測業務を本格的に開始したのは、大正噴火以後、昭和火口(新々噴火口)の出現が契機となり、現地調査を行ったのが始まりである。
旭川測候所調査結果『昭和二十七年度第二次十勝岳噴火口調査報告(昭和二十八年二月旭川測候所)』がある。緒言に、旭川測候所長の木村耕三氏が「昭和二十七年(一九五二年)八月十七日夜間(推定)に新しい火口が出現したので、九月下旬、第一次調査を実施。降雪前に本格的な第二次調査を行った」とある。この時登った調査ルートは上富良野町役場を出発、白銀荘を基地として行なわれた。

昭和31年度冬期十勝岳火山活動調査報告の表紙
一般的な登山道のコースが図示されている
前十勝岳を通る道、旧噴火口を通る道が分る

 『昭和三十一年度冬期十勝岳火山活動調査報告』(昭和三十二年(一九五七年)二月旭川測候所)によると、調査目的は各噴気孔の状況調査と積雪量の調査であった。報告の中に、「現在、新噴火口及び新々噴火口の各噴気孔は極めて純度の高い硫黄を折出しており、従業員約五十名で採取している。また、国鉄登山バスの開通、白金温泉付近の開発等により、従来の上富良野側の白銀荘等のヒュッテとともに、登山スキー客が年を追って増加しており、夏季は軽装の登山者が山麓から山頂に続くほどの状況である」という戦後の登山ブームを反映した一文がある。この時の調査ルートは白銀荘を基地として一週間行われた。
 気象庁が日本国内の火山について恒久的観測を開始するにあたり、予備調査を経て本格的な調査のため、昭和三十二年(一九五七年)八月八日〜十三日、気象庁・札幌管区気象台・旭川地方気象台の三者が合同して地元役場と北海道大学の協力を得て行われた。『験震時報・第二十三巻第二号』(昭和三十三年九月発行)に「十勝岳火山基礎調査報告」現地調査を実施とあり、重要な基礎調査結果が報告されている。この時の調査登山は、八月九日、安政火口(通称旧噴火口)、大正火口(新噴火口)、八月十日、熊ノ沢噴気孔群、八月十一日、大正火口の磯部鉱業硫黄採取煙道五か所、湯沼、丸山亀裂、磯部小屋、昭和火口、擂鉢(すりばち)火口、北向火口の日程で調べた。
 「昭和三十七年(一九六二年)十勝岳噴火」のとき、前兆ともいえる異常現象が発生したことから、現地確認のため、調査を行うことになり観測期間は六月二十六日から三十日であった。二十九日は一行四名(大野・札幌管区気象台、古寺・藤森・旭川地方気象台、田浦・美瑛町役場)で大正火口から前十勝岳、馬の背、旧噴火口、十勝岳温泉(現在、建築工事中)、白銀荘、泥流と歩き、下山する大野・田浦と元山宿舎に向かう古寺・藤森は泥流の白銀荘分岐で別れた。二十九日の観測では前十勝の尾根付近で亀裂を発見、翌日は大正火口内の高温地域を熱電体温度計で測定する予定であった。
 調査のために歩いた登山道は、白銀荘〜平山鉱業硫黄搬出路〜磯部鉱業元山宿舎〜大正火口〜前十勝岳〜馬の背〜旧噴火口〜崖尾根〜白銀荘のコースである。この日、「大正噴火」から三十六年ぶりに噴火が発生した。三十日の調査のため、元山宿舎に宿泊した古寺・藤森の両技官はこの噴火で恐怖の体験と飛んできた噴石により負傷することになった。

  十勝岳の産業開発と道路

 気象庁が行った十勝岳の火山観測業務と北大山岳部の登山、平山鉱業の硫黄採掘事業、吹上温泉と白銀荘から登る登山路(通称名・温泉道路)について書いてみた。
 しかし、上富良野村から多田農場を通過してヌッカクシフラヌイ川沿いに登り、四キロ地点から樹林帯の中を崖尾根の下に向かい、現在の凌雲閣横からハイマツ帯の中を旧噴火口に至る、馬一頭が通れる幅の道で硫黄採掘と硫黄運搬が行われたことに触れていないことから、地図に残る翁温泉と硫黄精錬所の地点を通る登山路を調べてみた。
 大正十三年(一九二四年)八月発行の「上富良野村村勢一斑」の附録管内全図と昭和二十年代発行の国土地理院地図によって、大正から昭和初期のヌッカクシフラヌイ川沿いにあった旧噴火口へ至る道がわかり、管内全図にある道路の書き方で村道・通行道・登山道の区別がわかる。

上富良野村村勢一斑の管内全図
ヌッカクシフラヌイ川沿いの道路と支流の
旭野川沿いの吹上道がわかる。


 「上富良野村村勢一斑」の管内全図で旧噴火口に至る道は、市街地から東四線北二十六号までは主要村道の図示、その地点から東九線北二十八号の地点宮下農場までは村道で、その先は多田農場内を通過して国有林境界の地点までは通行道の図示、この地点から旧噴火口を通り十勝岳頂上までの経路は登山道となっている。
 一方、吹上温泉への道路について「上富良野村村勢一斑」の管内全図には、ヌッカクシフラヌイ川沿い道路(通称温泉道路)の図示、東六線北二十七号で川は本流と支流(旭野川)に分かれているが支流沿いの道が吹上温泉へのメインルートとして書かれている。東二線北二十六号から十人牧場〜山加農場〜中茶屋の平山鉱業山加事務所まで村道、中茶屋から吹上温泉と平山鉱山硫黄採掘場を通り十勝岳頂上までの経路は登山道となっている。
 川沿いを旧噴火口に向かう道は、上富良野演習場ができたことで、吹上温泉と市街地を結んでいた中茶屋と旭野地区・山加農場を通る道に迂回して開通となった現在の登山道路が産業開発道路として建設された経過は次のようになる。
 陸上自衛隊演習場の設置に伴い、ヌッカクシフラヌイ川沿いに旧噴火口に至る登山道路が経路変更となった経緯を、上富良野町百年史などの史料から調べてみた。
 演習場設置の歴史背景は、昭和二十六年(一九五一年)十月四日の警察予備隊総監の空中視察で、十勝岳連峰の山麓に広大な原野を発見したことが発端となった。
 昭和二十九年(一九五四年)七月一日防衛庁発足、昭和二十九年十二月末上富良野演習場(中演習場)用地買収完了、昭和三十年(一九五五年)六月射場開き、昭和三十年七月二十三日射撃訓練実施、という経過の史料がある。
 演習場獲得計画に際して、地元上富良野町は「北海道空知郡上富良野町保安隊演習地に関する決議書」の別紙要望事項中「六、道路の整備について」の項目に、「演習場に関係のある一切の道路に對(たい)しての路面擴(かく)張並補修を行い農業生産用道路交通に些(いささ)かの支障もないようにお願いし度(た)い。」とある。これは、後に【七項目要求】と呼ばれることになる。この【七項目要求】の道路の整備に対して、「要望にそうよう努力する。」という方針が示された。
 上富良野町百年史の記述には、
昭和三十年六月、演習場射場開き(昭和二十九年十二月、用地買収完了)演習場内の通過道路切替。上富良野駅〜北二十六号道路〜中茶屋〜硫黄精錬所〜翁温泉〜旧噴火口となる(中茶屋〜硫黄精錬所間:富良野営林署登山路)
とある。演習場設置に関する要望書の道路整備要求が実現した歴史的経過である。
 これにより、十勝岳産業開発道路の工事が進められることになった。この工事の概要について資料などを基にまとめると次のようになる。
【昭和三十五年度】道路取り付けルートの測量
【昭和三十六年度】四、一〇〇m(中茶屋〜4q地点)三〇八地区施設隊施工。
【昭和三十七年度】二、〇四六m(4q地点〜翁温泉)
               第三施設団第一施設群第一〇四施設大隊第二中隊施工。
【昭和三十八年度】一、四〇〇m(翁温泉〜カミホロ荘)三〇八地区施設隊施工。
【昭和三十九年度】四七〇m(カミホロ荘〜旧道交差地点)
               岩見沢駐屯一〇二地区施設隊施工。
【昭和四十年度】六二〇m(旧道交差地点〜終点)第二師団施設隊施工。
 このような経過によって産業開発道路が竣工した。

  十勝岳産業開発道路の秘話

 午前中、役場議会事務局で所用を終わらせて、正午のサイレンが鳴るころ消防の事務室に来訪した議員が「君たち若い人たちにぜひ覚えておいてほしいことがある」と話を切り出してきた。郷土をさぐる第三十八号(令和三年(二〇二一年)四月一日発行)に掲載の「桐山英一氏からの聞き書き」に「町長との思い出」があり、町長リコール(解職請求)問題が語られている。
 道路を工事する作業員宿舎の建築を巡る工事契約に絡んで紛糾し、議会の議決を経ていないことから、議会無視ということで二日間にわたり審議し、二日目の午前四時に町長のリコールを発議した結果、町長と議会議員の双方が辞職することになった出来事である。
編集注:リコールを成立させるには、有権者数の三分の一以上の署名を集めて町の選挙管理委員会に提出することが必要だった。
 訪ねてきた議員はこのことについて、議事進行の経緯をつぶさに見分していたことから、全議員の意見が一致してリコールを掛けた本当の要因は他にあると話し始めた。
 国が計画する畜産振興に結び付く乳牛育成の牧場用地として、日新鰍の沢に白羽の矢が立ったが、北海道内では炭鉱の閉山が相次ぎ、石炭産業の衰退で需要が無くなっているにもかかわらず、炭鉱の坑木用にカラマツを造林するための山林保護、林業振興を主張して拒む動きがあり、現在の美瑛町の白金模範牧場の場所に決まった。このため、些細なことであるが反省を求める意味で、産業開発道路の専決処分は議会軽視であるということでリコールを上程したのだが、諸般の事情を勘案し、専決処分を承認して正常化を図ったこと。混乱を招いたことから、その後、全議員が総辞職することに至った経緯を教えてくれた。

掲載省略:画像 上富週報に掲載された十勝岳産業開発道路の建設工事区間略図。
           演習場を迂回して営林署の登山道(中茶屋〜硫黄製錬所間)を基に
           計画された経路であることがわかる。
掲載省略:写真 車両から降りて、難工事の後をたどり、徒歩で工事視察を行う関係者一行
             (郷土館収蔵・百年史写真)
  十勝岳の鉱山開発文献に見る記述

「上富良野百年史」には硫黄採掘事業に関する記述が掲載されており、鉱山開発の経過を知ることができる。百年史の編纂で参照した文献以外に、硫黄採掘に関する十勝岳の文献資料を、北海道地下資源調査所図書室に勤務する知人に依頼して、入手した文献に記されている人物を調べてみた。
松田市太郎は「イシカリ川水源見分録」に、安政四(一八五七)年、十勝岳に登頂して硫黄を持ち帰ると記述している。同じころ、松浦武四郎がこの地を通過している。高山に登るには登高路がないので、いずれも川沿いに沢登りの登攀(とはん)方法をとって、人跡未踏の地に歩みを進めたと推定される。地理不案内なことから、先住のアイヌの人に道案内の同行を求めていた。北海道内の鉱物資源を探査するため、多くの技術者により調査が進められた。
 「北海道鉱床調査報文」明治二十四年(一八九一年)三月に「ケンルニ硫黄山」の記述がある。明治二十一年(一八八八年)大日方技師報告で、
 明治二十年(一八八七年)九月、根室からの帰途大津村を出発、十勝川を遡上して三十里。左側サオロ渓谷を遡上して十勝岳(ケンルニ山)に登頂。十勝アイヌは「ケンルニ」、上川アイヌは「オプタテシケ」と呼称。山塊から二河川が流下していて「フラヌ」は空知川に合流、「ベベツ」は忠別川に合流。「ケンルニ」山頂に大噴火口があり、常に黒煙を噴出。これは石狩河畔で望見した所である。硫黄鉱区は二か所、噴火口下部とその南、約半里にある。面積五千坪のものは厚さ一尺五寸、八万二千五百石。面積四千坪のものは厚さ二尺、八万八千石。合計十七万石。
編集注:一尺=約三〇・三p、一寸=十分の一尺、一坪=約三・三u、一石=一〇斗=一〇〇升=一〇〇〇合=約一八〇・三九リットル
とあり、この明治二十一年の報告にある石狩河畔で望見した黒煙の記述が、十勝岳噴火史の明治二十年(一八八七年)噴火記録となる。
 明治二十四年(一八九一年)十二月編集、「北海道地質報文」には、明治二十年(一八八七年)に大日方一輔、明治二十四年(一八九一年)十二月に横山壮次郎が人跡未踏の地、十勝岳に登山したこと、横山の実見した硫黄堆積は三ヶ所で、大日方技師の測定より少量の積算、
その一は、火口内側と火口内。内側は、面積四千坪、厚さ一尺五寸、火口内は、面積五百坪、厚さ二尺。その二は、火口の南(「フラヌイ」川水源)面積五千坪のものは厚さ一尺五寸、八万五千石。その三は、第二鉱区の数丁隣で面積一千八百坪、厚さ二尺、四万石。
と書かれている。

平山鉱業搬出模式図

 「鉱物調査報告」大正九年(一九二〇年)一月農商務省発行、石狩國空知郡十勝岳付近鐵鑛(てっこう)及硫黄鑛調査報文に、「美富(ヨシトミ)」硫黄山と「ヌッカクシ」硫黄山の概要が書かれている。
美富(ヨシトミ)硫黄山は、位置が美瑛村と上富良野村の両村に接するので付けられた名称であり。鑛主の交代が頻繁で、大正七年(一九一八年)三月、中川太郎が経営にあたり今日に及んでいる。ヌッカクシ硫黄山は、「ヌッカクシ」火山の噴火孔内にあり、今より七、八年前、一時、硫黄採掘に着手した者があったというが現在は休業している。鑛床の硫黄は美富(ヨシトミ)硫黄山と同じ鑛質であるが、八年前に一時稼業に着手したが噴気が弱く生産量が尠(せん)少(しょう)なため休業となっている。
 「北海道鉱業誌」大正十三年(一九二四年)六月発行北海道石炭鉱業会編には、平山鉱山の記述があり、
平山徳治、火口一一〇八トン、製品四一二トン。製紙用「パルプ」原料として産出
と書かれていて、生産年は大正十二年(一九二三年)の生産数と思われる。この生産数量については、上富良野村・村勢一斑の大正十三年版統計資料に、
硫黄産出量、火口硫黄一五一六トン、精製硫黄四一五トン。上富良野駅取扱(発送)、大正十年 一三九六トン、大正十一年 ―(注:発送がなかった)、大正十二年六四一トン。
という記載がある。
 平山鉱山の沿革には、
明治初年北畠男爵稼業シ、後札幌村田不二三氏ノ有トナリシテ、中川太郎氏譲受ケ、當時美(ヨシ)富(トミ)鉱山ト稱セリ。大正六年七月頃現鑛業権者平山徳治氏此ノ事業ニ干與(かんよ)
とある。
 「北海道地下資源調査資料」昭和三十二年(一九五七年)九月北海道開発庁発行に、十勝地区の硫黄・褐鉄鉱鉱床調査報告があり、「磯部鉱山硫黄鉱床」について、鉱区の登録番号並びに沿革と現況の記述で、
大正噴火で昭和二十九年(一九五四年)まで休山。昭和三十年(一九五五年)、磯部清が再開、昭和三十七年(一九六二年)の噴火まで火口硫黄を採取した。精錬硫黄の生産量、月産二〇〇〜二五〇トン。硫黄品位七〇%以上の昇華硫黄原鉱の出荷量は約五〇トンで、主な出荷先は国策パルプ工業KK、興国人絹パルプKK、北越製紙KK、十条製紙KK、青木化学製油KK。
とある。このように、それぞれの文献資料に硫黄採掘事業に関する記述が掲載されており、鉱山開発の経過と資源調査のための登山とたどった道を知ることができる。
  ヌッカクシ硫黄山の写真

 「大正十五年十勝岳大爆発記録写真集」昭和五十五年(一九八〇年)三月二十八日発行に、大正噴火を伝える当時の新聞を復刻して附録としているが、この大正噴火の新聞記事に掲載された硫黄採掘場所写真「爆発した硫黄山全景」、この場所は大正火口を生じた採掘場所ではなく旧噴火口(ヌッカクシ硫黄山)の硫黄採掘場所を撮影していることに気づいた。新聞社で保存していた写真を噴火報道の製版に組んだ際、過去に撮影した写真を用いたものと思うが、場所が違うし、よくある裏焼き写真で左右が逆になっている。誤って掲載されているが旧噴火口を撮影した写真であり、かえって貴重と思える。

掲載省略:画像 裏焼きで掲載された旧噴火口(ヌッカクシ硫黄山)
掲載省略:画像 旧噴火口を撮影した正しい写真
           十勝岳爆発災害志に掲載された旧噴火口写真。画面左下の川床が
           ヌッカクシフラヌイ川、崖上中央の歩道上に4名の人影。画面右上が
           八つ手岩に至る尾根。中央奥がカミホロカメットク山と稜線。硫黄採
           掘場所と思われる噴気帯(ヌッカクシ硫黄山)の噴気は現在消滅して
           いる。
《参考文献》

○「上富良野村史原稿」
   村役場書記 熊谷一郎(昭和一八年)
○「十勝連峰登路図」
   和辻廣樹 北大山岳部々報 第一号
○上富良野町郷土をさぐる会「郷土をさぐる」誌
  ・「吹上温泉往来」 六平 健
    第六号(一九八七年八月二〇日発行)
  ・「十勝岳温泉を開発した故会田久左エ門氏」 金子全一
    第九号(一九九一年二月二五日発行)
  ・小串靖夫氏が書き表した「昭和七年―北海道の冬山(1)から―」 床鍋繁則
    第九号(一九九一年二月二五日発行)
  ・「上富良野に生きて(四)」 倉本千代子
    第三十八号(二〇二一年四月一日発行)
  ・「桐山英一氏からの聞き書き」加藤清・岩田賀平
    第三十八号(二〇二一年四月一日発行)
○小樽新聞附録「趣味と娯楽」六月号(第二巻第六号)
   小樽新聞 大正一五年六月一〇日発行
○『日本山岳会創立七十周年記念出版覆刻「會報一號―一〇〇號」』
   日本山岳會編 昭和五〇年一〇月一四日発行
○「上富良野村村勢一斑」
   上富良野村 大正一三年八月発行
○「上富良野百年史」
   上富良野町 平成一〇年八月発行
○二〇一七年度「十勝岳ジオパーク(美瑛・上富良野エリア)構想」
   十勝岳ジオパーク推進協議会
○「イシカリ川水源見分書」松田市太郎 安政四年
○「北海道鉱床調査報文」
   北海道廰第二部地理課 明治二四年三月
○「北海道地質報文」   明治二四年一二月編集
○「石狩國空知郡十勝岳付近鐵鑛及硫黄鑛調査報文」
   農商務省発行「鉱物調査報告」 大正九年一月
○「北海道鉱業誌」
   北海道石炭鉱業会編 大正一三年発行
○「北海道地下資源調査資料」
   北海道開発庁 昭和三二年九月発行
○「大正十五年十勝岳大爆発記録写真集」附録(復刻新聞)
   上富良野町 昭和五五年三月二八日発行
○「度冬期十勝岳火山活動調査報告」
   旭川測候所 昭和三二年
○「験震時報・第二十二巻第一号」   気象庁
○「験震時報・第二十三巻第二号」   気象庁
○「十勝岳硫黄鉱山噴火災害誌」
   磯部鉱業株式会社 昭和三七年一一月一五日発行

機関誌      郷土をさぐる(第41号)
2024年3月31日印刷      2024年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀