後世に語り継ぐ事業シリーズ
少女は音楽の水先案内人になりたい
上富良野町本町1丁目 坂 本 良 子
一九三七(昭和一二)年九月一〇日生れ(八六歳)
文中縦書き数字は、算用数字を単純に漢数字に置き換える表記(記数法)で、要所に西暦年と元号年を併記するようにしている。
はじめに〜「水先案内」について
一九四〇(昭和一五〜二五)年代頃の地域社会には基礎音楽指導環境は皆無で、自力で資料や指導者を探すなど独学するしかない環境に在った。私はこの体験から後輩への基礎指導が必要と痛感し、その役割を担えないかとの目的意識を持った。
当時の時代背景は、一九三七(昭和一二)年の日中戦争勃発で一般家庭は貧しく、一九四一(昭和一六)年にアメリカとも戦端を開いて、この終戦を迎えた一九四五(昭和二〇)年以降もしばらくは困窮、不安定な生活が続いた。
原稿執筆の二〇二三〜二四(令和五〜六)年の世界は、ウクライナにロシアが侵攻、新型コロナ感染症の相変わらずの流行、イスラエルとハマスの衝突、野球選手大谷翔平の二刀流の活躍など、過去から現在の世界のニュースの移り変わりは驚きばかりだ。
誕生と幼少期
北海道常呂郡野付牛(昭和一七年市制改称で北見市)で安田清、キオノ両親の一男四女の三女として誕生した。父は宮大工、指物師(釘などの接合金属を使用せず、ケヤキなどの木材同士を組み合わせて家具を作る)だったが、住まいが近所からの貰い火で全焼したため、母方の親戚を頼り中富良野村(昭和三九年に町制)に移住した。後に現住の上富良野町(昭和二六年に町制)に転居することになった。
小学校時代(一人目の恩師との出会い)
一九四四(昭和一九)年四月中富良野村国民学校(終戦後昭和二二年四月に中富良野小学校へ改称)に入学した。お下がり(年上の兄弟姉妹のお古のもらい物)のランドセル、左胸に長方形にたたんだ白いハンカチを着け、オカッパ頭(全員同じスタイル)、軍歌と戦争賛美の歌、そして敗戦を経験、国民全員が物不足と貧しい環境で育った。
一人目の恩師である担任教師は、丸い顔で丸縁眼鏡の女性「もりあい先生」(フルネームの記憶がない)で、アルト(女声の低い音域)の声で優しく包み込むような話し方で温かかった。
当時は「いじめ」という言葉はなかったが、今でいう「いじめ」を経験した。原因は良子(私)が風邪(発熱し咳と鼻水)で母親が着せた赤い綿入れの「ちゃんちゃんこ」で登校したこと。その姿は皆んなと違っていたらしく、五、六人にとり囲まれて髪の毛と綿入れの袖口を引っ張られた。その時、もりあい先生が小走りで来て、「皆んな見てね、お母さんは、カゼをひいた良子ちゃんのカラダにアッタカイわたいれをつくってきせてくれたのネ、はやくなおるといいね」とクラス全員に話してくれた。叱りつけるのではなく、語りかけたこの姿に憧れた。
掲載省略:写真 中富良野小学校の1年生2クラスの終業記念
(最後列右端が私良子、2列目左から7人目もりあい先生)
音楽との出会い
私には八歳年上の肺結核で寝たきりの姉がいた。なぜか両親は姉の相手役として、私に絶えず枕元にお座りでレコード係を命じた。当時のハンドル手回し蓄音機に厚いSPレコードをかける役割で、これをどのようにして手に入れたのか不明だ。
モーツアルト作曲、交響曲第四〇番ト短調K五五〇の全楽章(四楽章まである)が枕元に積まれていた。毎日一楽章から表と裏面の入れ替えとハンドル回し役で、外で友達と遊んでいても呼び戻されレコード係となる。このことが音楽と触れる原点になった。その姉も一七歳で死去、その時の姉へのレコードは両親の精一杯の愛情の深さとして感じた。
中学生時代(ラジオ時代)
ラジオから流れる音楽は、あの原点(亡き姉の枕元で聴いた曲)のモーツアルトの交響曲とベートーベンの交響曲で、調子の悪いピーピーと鳴るスピーカーに耳を付けて聴いていた。大きな夢はオーケストラの指揮者で、ラジオから流れてくる曲に合わせ長い菜箸で指揮の真似事をしていた。
二人目の恩師(野村政司先生)
中富良野中学校音楽教師の野村先生は、音楽に興味を持つ生徒には音楽室を開放(通常は教室入口とピアノを施錠)し、放課後にはオルガンとグランドピアノを自由に触れさせてくれた。指導にも力を入れ楽譜の読み方から教えてくれた。
初級ピアノ教則本しか知らない私に、ベートーベン作曲「エリーゼのために」を根気よく教えた。この成果は、NHK主催の「腕自慢」ラジオ放送のコンクールで、私に入賞の鐘をもたらした。ピアノでも音楽表現が出来ることを野村先生の指導で体験できた。
掲載省略:写真 中富良野中学校音楽教師野村先生(ピアノ前)と良子(先生の後ろ)
三人目の恩師(川田信男先生)
担任の川田先生は「音楽を続けたいなら高校進学しなさい」と強く勧めてくれた。父は「女に学問はいらぬ」と猛反対で、現代社会ではジェンダー差別と取りざたされるが、当時女性の役割は「家事と子育て」が当たり前の時代だった。
反論すると、長い煙管(きせる)(きざみタバコを吸うための細い筒状)で頭を叩かれ、そのタバコの火が髪の毛に燃え移り、今でも残る右後頭部のミニトマト大のハゲが出来てしまった。今ならば、児童虐待の大問題となるところだ。
川田先生に父の頑固な反対を相談すると、「勉強は一生続くことをお前は知ったのだな。頑張れよ」と涙を流してくれた。先生は、放課後二、三日おきに五、六回も家庭訪問で父を説得してくださった。根負けしたのか、父は「貧乏家庭だから受験だけなら」と許してくれたのだが、なんと合格し父を悩ますことになった。
先生は「娘さんは自分の将来を決めようとしているので、お父さんも頑張ってください」と再び父を説得、おかげで道立富良野高等学校に入学を許され、川田先生存在の有難さと教師の素晴らしさを身にしみて感じた。
掲載省略:写真 中富良野中学校担任川田信男先生(前列中央)と良子(後列中央)
高校生時代
実家は旧中富良野役場前からまっすぐ前に進んだところで、すぐ右側に消防署があったため、毎日の正午を知らせるサイレンが息の止まりそうな音量で鳴り響き、その日の出来事を全てかき消してくれそうな環境下で一家は暮らしていた。
一九五三(昭和二八)年四月、そこから中富良野駅へ向かい、道立富良野高等学校への汽車通学が始まった。中富良野駅舎は木造のガッシリした造りで、待合席も頑丈な木造ベンチ、腰を下ろすとやすらぎを感じた。
通学列車は石炭を燃料にする蒸気機関車に引かれ、冬の客車内はダルマストーブ(丸い形の石炭ストーブ)の上でスルメを焼く行商の人達からご馳走されたこともあった。行商の苦労話や自分達の部活動の話題、世間話などが様々に広がり、賑やかに飛び交い、大人との交流が心地よかった。
筋力トレーニング
ピアノに向かって弾くだけが練習ではない。富良野駅から高校迄の徒歩で片道約一五分の時間を惜しんで、重い教科書と辞書が入った手提げカバンの持ち手に、左右交互に力が弱い指を入れて、筋力強化のために持ち歩いた。特に、薬指と小指の二本のみでカバンを持ち、駅との往復を歩いた。
四人目の恩師(草浦正雄先生)
部活は運動部(バレーボール・卓球・野球・陸上・柔道)と文化部(合唱・書道・家庭)に分かれていて、私は合唱部に入部した。
合唱部にはピアノが有り自由に弾ける。合唱部では女声合唱(後に混声合唱になる)で、その時三年生の小玉美智子さん(コダマ印刷のお嬢さん)との出会いは、声楽とピアノとのアンサンブルの素晴らしさを知るきっかけになった。
合唱指導の草浦先生はNHKラジオ全国合唱コンクール高等学校の部で北海道代表として全国東京大会まで進んだ実力者だった。合唱の伴奏法に力を入れ合唱指導後に一対一で声に対する音色、音量、フレーズ奏法をレッスンする展開だった。ここでピアノに対する探究心が深められた。
掲載省略:写真 先生達と合唱部同窓会(前列左から3人目草浦先生、この右横が小玉美智子さん、最後列左端が私良子)
ピアノとの対話
現代の音楽界の情報は豊富だが、一九五〇年前後(昭和二〇〜三〇年頃)は音楽教室、指導者、教則本、音楽情報誌等は身近には皆無で、登校する中学、高校にあるオルガンやピアノ、教職員がもたらすものが唯一だった。
草浦先生の伝手(つて)を得て、旭川学芸大学(現教育大学)ピアノ科田島教授宛に手紙を出し教則本(ツェルニー、ソナチネ、ソナタ、バッハインベンション等)の存在を知った。すべてが手探り状態で、高校音楽室のピアノのみが頼りであり、毎日の練習を支えた。
日曜日は一日中練習する。草浦先生の取り計らいで教室とピアノの鍵は自由に使用し、夜二〇時迄練習、暗い廊下を心細く走り抜け、生徒玄関に着くと安堵した。暗くなると草浦先生は時々パンと牛乳を差し入れして下さり、やさしさに支えられた。
富良野駅二〇時三〇分発の汽車通、帰宅二一時、この繰り返しが高校時代のピアノとの対話になった。
掲載省略:写真 ピアノを練習した音楽室で
高校時代のエピソード
「女には学問はいらぬ」、当時としては「そうなんだ」と呪文のように聞こえていた。反発精神と父への意思表示として、高校二年生の夏休み後にショートカット(男子学生と同じ刈り上げ)スタイルで登校すると職員室に校内放送で呼び出され、生活指導教師から「どうして男子の頭なんだァ」と。「ハイ、音楽大学に進学したいけれど、女には学問いらぬという親の反対に、男子スタイルで抵抗しています」と答えると、職員室は大爆笑で、複雑な気持ちで職員室を出た。三歳上の兄(英雄。上富良野町役場に就職し、助役を務めて退職)も私を応援して、何度も親を説得してくれた。
しかし、父は「音楽大学への進学などとんでもない」と頑なで、進学の希望を心に秘めながらも、とりあえずは社会人となる道を進んだ。
このような家庭事情と教育環境の中で高校を卒業した。
掲載省略:写真 いつも気遣ってくれた兄英雄と私
浪人時代とアルバイト(受験資金準備)
進学を認めない父の援助を得ることは無理と判断した。念願の音楽大学を受験するためには、二年間の資金準備が必要と目論見を立て、ピアノが弾ける保母を募集していた富良野みその幼稚園にアルバイトとして採用された。音楽大学への進学を決意していた私にとって、入学試験の演奏実技を磨くためにはピアノが不可欠で、絶好の環境だった。
保育、掃除、明日の準備などの仕事を終えた後は、高校時代と同様に、幼稚園のピアノで夜二〇時迄練習して帰宅する日常だった。
幼稚園はカトリック教会を併設していたので、カトリシズム環境でオルガンの音色からパイプオルガンに、また祈りの聖歌から古代キリスト教のグレゴリオ聖歌に興味を持った。
決心と行動 家族との決別
音楽大学への進学の意思も固く、受験資料の取り寄せなど、着々と準備を進める姿を見て、父は諦めたのか「勘当」を口にした。
「お前は体が弱いのに(時々目まいを起こして倒れた)親から離れて死にに行くようなものだ、勘当だ」というのだ。母は泣いていた。父の頑固さに引けを取らない親不孝者で、家族を巻き込むトラブルメーカーだった。
一九六一(昭和三六)年四月の入学を目指し、広島のエリザベト音楽大学の受験を申し込んだ。不合格の場合でも、一年後の再受験のために広島で働いてもいいという覚悟を決めていた。
小さな洋服ダンスとその中に入っていた洋服など身の回りの物を、友達に買い取ってもらって片道交通費に充て、貯めた受験資金を手に、一月下旬のある日、一番列車に乗って函館の青函連絡船に向かった。まさに、あの演歌歌手石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の情景であった。
新しい出会い(新天地と敗戦の現実)
津軽海峡を渡り青森から汽車に乗り換え、何度も乗り継ぎをするうちに車窓の眺めが真っ白な雪景色から徐々に緑色に移り変わり、赤い花(思い返すとツバキだったのではないか)が咲き乱れる暖かい広島に到着すると、不思議な感覚になった。広島は、一九四五(昭和二〇)年八月六日に原子爆弾が投下されたところだ。戦争の傷跡はあちらこちらに残りながらも、現在につながる復興は着実に進んでいた。
乗り継いだ最後の列車は夜行になり、到着はまだまだ薄暗い早朝で、おまけに広島は全く不案内のため、行先の住所のメモ書きを見せて駅前からタクシーに乗った。
大学から宿所として指定された寄宿寮を目指したのだが、隣接する世界平和記念聖堂に降ろされた。
世界平和記念聖堂は、世界で最初に被爆した広島の地に平和のシンボルとして献堂され一九五四年に竣工したカトリック大聖堂で、二〇〇六(平成一八)年四月二一日に国の重要文化財に指定されている。
タクシーを降りた目前で明かりが漏れているこの聖堂を訪れると、地下聖堂からミサ(カトリック教会典礼・礼拝の祭儀)を終えてエルネスト・ゴーセンス(ベルギー人・イエズス会神父でエリザベト音楽大学学長)が、ステンドグラスの光を背に進んでくる。
音楽大学の受験生であることを自己紹介すると、ニコニコと両手を広げて迎えてくれた。先に連絡をしてあったことから、「(たどたどしい日本語で)遠い北国からよく決心をしてきましたね。長旅でしょうから、話は寮で休み落ち着いてからにしましょう」とねぎらってくれた。エリザベト音楽大学は世界平和記念聖堂に隣接されていたのだった。
エリザベト音楽大学創立は広島原爆投下後、被災地にカトリック教のイエズス修道会が小さな小屋にオルガンを入れ被災した子供達に歌を指導したことから始まり、後にベルギー国皇太后エリザベト陛下からの資金後援で設立された。教育理念はカトリシズムに基づいている。
掲載省略:写真 世界平和記念大聖堂
五人目の恩師(ゴーセンス学長)
エリザベト音楽大学には、希望していたピアノの他に、パイプオルガン・グレゴリオ聖歌の学科があったので、音楽を通じた知人や先輩などが勧めてくれた中から選んで、受験することにした。
入学試験は、筆記と専攻するピアノの実技で行われたが、試験までの数日間滞在した大学寄宿舎「セシリヤ寮」(上富良野に開いた「セシリヤ音楽院」と同名)には、有料ながらピアノの練習室もあり、自分でも納得できる準備ができたせいか、念願の合格通知を受けることができた。
学長の「ゲンキー(元気)」の声はオペラ歌手のように心地よく響く。毎日校内を歩き廻り、出会った学生に大きな瞳と明瞭に動く口で、大きな身振りと共に「アニャタ、イマゲンキデスカ?」と声をかける。遠くからでも聞こえると、学生達はなぜかホッと安堵する。
学長の音楽史のテストはユニークで、一人ずつ対面式で行った。レコードを途中から二秒ほど聞かせて止め、「作曲家、曲名ヲコタエナサイ。ソシテスベテヲハナシナサイ」と、まるで取り調べ形式の恐怖のクイズ式テストだった。指揮法の授業では指揮棒を握って踊り始めるのだったが、不思議と曲想と一致していた。
掲載省略:写真 ゴーセンス学長肖像
掲載省略:写真 学長はイタズラ好き(演奏旅行引率)
学生生活と授業
新しい学制によって、一九五二(昭和二七)年に二年制の音楽短期大学に、一九五九(昭和三四)年には三年制に、一九六三(昭和三八)年に四年制になった。
私は三年制で入学したので、卒業は一九六三(昭和三八)年三月になった。
学生生活は、受験準備で滞在した大学の寄宿舎である寮に、引き続きそのまま入った。私のような遠方からの入学生は、ほとんどがこの寮に入っていた。
在学同学年の学生数は、四〜五〇名ほどで圧倒的に女性が多く、男性は五〜六名だったと思う。訪問コンサートや演奏旅行では、混声合唱がメニューに組み込まれていたので、男性は引く手あまただった。
学生は、演奏者としての職業音楽家、また私のように音楽指導者を目指す者、他に経済環境に恵まれていてステータスとしてのテクニックを磨く者など様々だった。
アルバイト帰りに練習室に戻ろうと学校通りに差し掛かった時、六〇年安保闘争(一九五一年に調印された日米安全保障条約の改定調印に対して、反米と反政府を掲げた大規模デモ運動)の学生たちの声が遠く、異次元の世界からの掛け声に聞こえたのを何度も体験した半面、エリザベト音楽大学の学生たちは音楽専攻に没頭していた。
朝六時に寮を出る、学内ピアノ練習室(使用有料)で三〇分練習、レコード室で三〇分手当たり次第に聴く、これが私の日課だった。
一七歳で死去した姉のSPレコードを思い出しホームシックになった。その度に学長が姉の思い出話を聞いてくださる。また、寮の離れに茶室があり、寮生はこれを「泣き部屋」と呼んでいて、ひっそり、たっぷりと泣くことができた。
よく聴いたのはLP版(手廻しから電化、ダイヤ針に機能化)のストラビンスキー(ロシア人)作曲の「火の鳥」で学長の音楽史のテスト出題曲になった。
七時三〇分寮に戻りセシリヤ寮の食堂で朝食(トースト・牛乳・サラダ・スープ)を摂り、八時三〇分に登校する。これが朝の日課だった。夕食はご飯も出る和食で、洋食の朝食ではワクワクする新生活を、和食の夕食ではふるさとの家族を思い起こすせつなさを感じた。
掲載省略:写真 セシリヤ寮の夕食(寮母さんと共に)
専攻のピアノ以外の授業もあり、グレゴリアンチャント(グレゴリオ聖歌)、合唱指揮法、キーボードハーモニーと即興演奏等ではマンツーマン対応指導で厳しく、食事ものどを通らないほど追い込まれた。
日曜日はアルバイトで大学入口受付か平和祈念聖堂の「ミサ」のパイプオルガン奏(前奏曲・聖歌・後奏曲)をした。また、寮の裏は広島で有名な「太田川」がゆったりと流れていた。
垣根越しで一人暮らしの高齢女性に、こちらから「おはようございます」と挨拶すると、「(広島弁)あらうれしいじゃけん。どちらから」「ハイ北海道です」「へえー、そんな遠くかららのう、初めて若い学生さんにあいさつされたじゃけん、驚いたけん、うちのイチジクどうぞ」と庭の木から採った数個をいただいた。その時の会話で、「原爆の時にはこの太田川に沢山の死体が流れてきたけん」と聞き、北海道の故郷では思いもしなかった悲しい事実を知った。
掲載省略:写真 アルバイトで聖歌伴奏のパイプオルガンを弾く
奨学資金とアルバイト
手にしてきた学資は僅かで、加えて親からの送金は望めなかったので、入試成績順に五名の枠があった育英会の奨学金を受けられることになった。当時の奨学金の受給は、毎月一回制服スタイルで礼儀を正し銀行窓口で現金を受け取り、その足で授業料に充てた。
返金は、卒業後毎年九月一〇日(返金日を忘れないように誕生日に決めた)に一万円ずつ一〇年契約で、合計一〇万円を感謝しつつ完済した。
軸になった音楽家庭教師のアルバイトでは、短大生と中学生の姉妹の家庭を二軒掛け持ち、寮費と楽譜代、その他に充てた。
病院等施設訪問
大学のカリキュラムになっている実地のコンサートが、年間の計画で継続して実施され、カトリック教系の大学・高校や教会等へ出向いての演奏会が恒例行事となっていた。
東京「上智大学」や青森「明の星短期大学」への演奏旅行で、当地の学生とのオフタイムの交流が記憶に残っている。遠隔地になると、全学挙げての行事になり、懇親と激励の意図なのか、ゴーセンス学長も同行して下さり、緊張も伴った楽しい思い出になっている。
大学では教育目標(精神教育)として毎年一二月に、全学生が分担して施設訪問を行った。病院と養老院では窓の下でクリスマスキャロルを歌った。
刑務所訪問では屋内体育館ステージで特異な体験をした。ステージの前に死刑囚、終身刑の順に着席している。ステージへの入場は、その中央を囚人の後ろ姿を見ながら進み、囚人・看守共にシーンと静まる中で、学生達は息を詰めるように緊張感を高めた。
曲はクリスマスキャロル、グレゴリオ聖歌、童謡が演奏された。歌い終わる度に一般コンサートでは無い感情が沸く。それはエンディングに「ふるさと」を歌い終えた時だった。最前列の死刑囚の皆さんが俯いて泣いている。終演後は囚人の正面を見て、再び息を殺して退場した。
卒業後、現在まで様々な場面で福祉施設訪問を行ってきているが、これが訪問に際しての原点になっている。
掲載省略:写真 昭和37年6月青森への演奏旅行
コンクールと卒業演奏
専攻毎に学生控室の廊下に成績順位が張り出され、反省、安堵、屈辱の感情が入り乱れる顔々が並ぶ。
特に卒業予定学生は、ザビエルホール(コンサートホール)で論文発表からコンクールでの順位も発表される。
そこから上位三位入賞(三人)が卒業演奏を行う。この三人に選ばれ、私が卒業した一九六三(昭和三八)年は、フランス人作曲家ドビュッシーの「月の光」が課題曲で、誇りと緊張の中で演奏をやり遂げることができた。
掲載省略:写真 ピアノ秋吉教授とピアノ専攻の学友
掲載省略:写真 エリザベト音楽大学卒業の日に1963(昭和38)年3月
勘当を解かれて
勘当期間とは言え兄妹の差出名で好物や常備薬の入った小包が時々寮に送られてきた。両親の配慮とうすうす分かり、親の愛情に申し訳なさがつのった。この頃実家は、兄英雄が上富良野町役場に勤務したこともあり、中富良野から上富良野へ転居していた。
音大受験の時に、故郷の音楽環境の乏しさに「早く帰って来て音楽を基礎から教える指導者になる」と自らに約束していた。しかし、勘当の身では帰るわけにはいかないとの意地もあり、また、秋吉教授の勧めもあって、大学に残って教員を目指す進路の準備を進めていた。
ところが、大学卒業間近になると、突然父から勘当は解くから帰ってこいとの連絡があった。過去のわだかまりがありながらも、昔から抱き続けた志と母や兄弟姉妹への思いで、上富良野へ転居していた親元へ戻った。
職人気質の頑固者で、また、後に聞いたのだが先祖が武士であったという祖父に育てられた父は、家長としての尊厳にこだわったのか、跳ね返りの私には兄姉妹に比べて特に厳しく、内心は別として決して喜ぶ素振りは見せてくれなかった。
その頃の上富良野は、矢張り音楽環境は依然として同じだったので、たくさんの人達のお世話をいただき、一九六三(昭和三八)年帰郷すぐにホームレッスン(ピアノレッスン)を始めた。
広島での音楽環境とは雲泥の差の中で、元気と気力、行動力を発揮しながら、指導レベルを専門学校・音楽大学等進学と趣味の範囲に分けた初級・中級・上級に区分し、レッスン内容と回数を設定して船出した。
音楽教室指導講師に
一九六四(昭和三九)年に、日本楽器北海道支部ヤマハ音楽教室指導講師資格を取得した。
日本楽器の指導システムはグループ指導が中心で、楽器販売と並行して展開した。指導部と販売部に分かれ、指導部での仕事は音楽教室の先生を指導することで、内容は生徒指導法と展開法、そしてカリキュラムの作成と、この展開法を指導した。担当は北海道空知支部で、旭川に集まった先生を指導する形で、約一二年間携わった。
全国を統括する指導部会議は、二か月に一度、一日で札幌と東京間を往復する強行軍のフライトによって続いた。
レッスン室の新築と結婚
一九六四(昭和三九)年、坂本城雄と結婚した。
生徒の技術向上には、可能な限り学んだ成果を発表する場が必要だった。結婚を機にレッスン室と発表の場を兼ねた施設を建てることを決意し、キリスト教の音楽の守護聖人である「セシリヤ」を冠して、本町一丁目の現在地にセシリヤ音楽院を開いた。期せずして、大学時代を過ごした寄宿舎「セシリヤ寮」と同名になった。
レッスン室に間仕切りをした発表会場だったが、それ迄の上富良野小学校音楽室を借りての発表会に比較して、開催の自由度も高まり、大いに生徒の向上意欲が高まった。この後、一九七一(昭和四六)年にステージが備わった上富良野町公民館が落成し、以降の発表会はこの公民館で行うようになった。
掲載省略:写真 セシリヤ音楽院
初めてのレッスン開始から六〇年、セシリヤで音楽基礎から中・上級を経た生徒達は約一二〇〇名に上り、音楽を友にした人生に巣立っていった。
掲載省略:写真 第20回セシリヤの会演奏発表会 昭和61年10月5日
指導の足跡
指導の場としての本拠をセシリヤ音楽院に置きながらも、依頼を受けるなど活動の場が広がっていった。
一九七四(昭和四九)年に上富良野高等学校音楽非常勤講師(六年勤務)、一九七六(昭和五一)年にはピアノ奏法の新境地を得るためウイーン国立音楽大学に短期留学をした。
この年一九七六(昭和五一)年一二月のある夜、富良野市教育委員会職員と富良野高校時代の先輩小玉美智子さんが見え、『コール・フラヌイ女声合唱団』の指揮者の依頼があり、以降四〇年間指導にあたった。
この合唱団は、一九七二(昭和四七)年九月に富良野文化会館の落成を祝うため、「富良野中央公民館マザーズコーラス」として結成され、一九八五(昭和六〇)年に現在の「コール・フラヌイ」に改名している。上富良野、中富良野、富良野ではもっとも古い合唱団になっている。
メンバーは市内、上富良野、中富良野の主婦らで、主に成人式やワールドカップ等の富良野市公認行事や、全道公民館合唱祭等の催事に演奏を行っている。
さらに、「歌の宅配便」として、富良野市内の老人施設や地域のふれあいサロンなどで歌を通じた交流を実施している。
掲載省略:写真 コールフラヌイ30周年 平成14年9月28日
掲載省略:写真 歌声で市制50周年式典に花を添えるコール・フラヌイ〜2016(平成28)年5月10日
かみふらのジュニアコーラス
一九八二(昭和五七)年に「子供合唱団」の名称で、初代団長佐藤留美子さん(母親代表)、団員一七名で創立し活動が始まった。練習場所は公民館二階のアップライトピアノがある部屋になった。
音楽好きで歌が大好きな子供たちが入団しやすいように、子供が家庭でいただく「おこづかい」で払える月額五〇円とし、父母達が要望する「子供たちがホッとする居場所」になるよう指導を心掛けた。
活動は、団主催の定期演奏会の他に、HBC主催「キャンプ演奏」、町民コンサート参加などで、最も重要な活動として「ラベンダーハイツ訪問」を恒例行事にした。
高齢者と児童の交流を重要視し、歌と会話交流の終わりには一人ずつ握手をしながら涙を流して別れを惜しむのが毎回の風景だったが、二〇一九(令和元)年から新型コロナ感染症対策で中止になった。
このコロナ感染症への対策は、定期練習だけではなく全ての活動を縮小、中止せざるを得ず、またかねてから「習い事選択肢の多様化」「スクールバンド活動や学童保育の充実等教育現場の変化」が父母の話題となっていたことから、二〇二二(令和四)年をもって三九年間続いた団を解消することになった。
掲載省略:写真 ジュニアコーラス発表会での混声合唱
演奏活動で現役
夫の健康状態に合わせて、希望する少数の方のみの個人レッスン以外は、指導者としての活動はほとんど退く形になっている。
しかし、「雀百まで…」「三つ子の魂…」の気持ちが騒ぎ、演奏家としては町内外の音楽仲間と共に活動を続けている。
定例のものとして、毎月一回セシリヤ音楽院内で、小さな「サロンコンサート」を継続して開催している。
掲載省略:図 「旭川市制施行100年記念ウインターコンサート」
と「井上靖生誕記念日コンサート」パンフレット
不定期ではあるが機会をとらえながら、音楽仲間や打楽器奏をする息子と共に、「和洋楽器コンサート」を試みている。
昨年、音楽仲間と共に、縁がつながる二つのコンサートに出演した。二〇二三(令和五)年は旭川市市制施行一〇〇年の各種記念行事が行われたが、この一つとして三月五日大雪クリスタルホール音楽堂で「ウインターコンサート」が開催された。出演一〇の個人・グループの中に、音楽仲間の橋直子・坂本世志哉・村山友希・私坂本良子四名のグループとして参加した。
この際に、主催者側からパンフレットを作成する都合で、グループに名前を付けてもらいたいという。名付けは、最年長の私に一任するというので、若い順のかな読み名前の頭文字をとって「なよとよ」で出演した。一回限りの適当な名前として考え出したのだが、このコンサートの聴衆の中にいた旭川の「井上靖記念館」館長の目に留まり、計画中の「井上靖生誕記念日コンサート」への出演のオファーが寄せられた。
このグループの四人は、器楽アンサンブルでそれぞれ活動されており、今回のようにアカペラ(無伴奏合唱)は異例の活動で、開催日の二〇二三(令和五)年五月六日の日程を何とか調整して、出演を引き受け盛況に終えることができた。
掲載省略:写真 「なよとよ」のメンバー(左から坂本世志哉(息子)・村山友希・橋直子・私坂本良子)
福祉活動と音楽療法
開催の形は、時の流れと共に少しずつ変わっているけれど、私が代表を務める「音楽愛好者の会」が主催する「町民福祉コンサート」を、第二五回目を数えて二〇二三(令和五)年九月一〇日、町保健福祉総合センター「かみん」で開催した。
コンサートでは、近郊の音楽仲間らがコーラスや箏曲、民族舞踊などさまざまな歌や演奏の披露のほか、今回は初めて、外国の太鼓やヴァイオリンなどの演奏体験や食品パックの手作り楽器に挑戦する音楽ワークショップを開催して、好評を受けた。チャリティとして開催し入場は無料だが、会場に置いた募金箱に入った多くの善意は、町社会福祉協議会へ届けた。
また、社会福祉協議会が運営する小規模多機能型居宅介護事業所「ふくしん」では、健康・体力の維持増進のための様々な動作・作業メニューを行っているが、この一つとして月に二回「セシリヤ音楽教室」の形で「音楽療法」を受け持っている。
音楽療法とは、音楽を楽しみながら聴いて、歌って、体を動かし、健康の維持、心身の障害の機能回復、生活の質の向上を目指すもので、息子と分担して担当しているが、最近は息子の担当日が多くなってきている。
また、クリスマスや敬老祝いなどの行事には、音楽仲間と共に訪問して、ミニコンサートやみんなで歌って楽しんでもらっている。
掲載省略:写真2葉 「ふくしん」のセシリヤ音楽教室〜上が私良子担当日、下が息子世志哉担当日
あとがき
「少女は音楽水先案内人になれたのか…」、その実感として教え子第一号(六〇歳代)さんから便りがあった。すでに音楽教師を退職し、音楽仲間と自主企画コンサートをしているとのライン通信があり、添付された動画はバッハ作曲「フランス組曲」を楽しそうに演奏している。そこには、音楽指導に夢中になり、演奏者としての自身の勉強をしていなかったことを気づかされるものがあった。昔の少女だった八六歳の音楽教師であった。
過去の日本中にあった「女に学問はいらぬ」という男女差別を振り返って、現在二〇二四(令和六)年、少女は音楽水先案内人を終えた。しかし、教え子達や音楽仲間から刺激を受けて、自分の楽しみだけではなく、できるだけ長く福祉活動などに役立っていきたいと、日々を送っている。
この随筆執筆中の二〇二四(令和六年)一月一日、年の初めを祝う能登地方の家族団らんの時を大地震が襲った。尋常ではない被害の報道に触れる時、亡くなられた方々のご冥福と、被災者の生活安寧と逸早い復興を願うばかりです。
《編集付記》
坂本良子さんは、音楽教授、指導の他に、楽曲の創作も行ない、自ら演奏するだけではなく合唱や器楽演奏者、施設唱歌等に提供されています。
《作品集》
◎ 合唱曲
「女声三部 子ネコのジャズダンス」
「歌の扉」「中央保育所のうた」
「ふくしん わっはっは」
◎ ピアノ曲
「即興曲」「上富良野からカムロースへのメッセージ」
◎ アンサンブル曲
「サンピラーカーニバル」
◎ ヴァイオリン曲
「無伴奏グレゴリオ聖歌よりアヴェ・マリア」
◎ 編 曲
「富良野市歌」「ふるさと」
「かごめかごめ」
その他
機関誌 郷土をさぐる(第41号)
2024年3月31日印刷 2024年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀