郷土をさぐる会トップページ     第40号目次

編集後記

編集委員長 北向 一博

 上富良野町郷土をさぐる会の機関誌として、一九八一(昭和五六)年一〇月一〇日に「郷土をさぐる第一号」を創刊したが、二〇二三(令和五)年四月一日発行の本号で第四〇号になる。発刊当初から一年一号を目指す編集体制を執り、定期はかなわないながらも、年度で数えれば実質四一年度で、四〇号を達成することができた。節目となることから、今までを振り返る資料記事を配した。

 表紙絵には、上富良野町にゆかりのある方々の絵画作品を使わせてもらってきたが、第二〇号、第三〇号に倣(なら)ってカラー印刷にすることで、記念号としての表装にすることになった。
 本町にアトリエ兼美術館を構えた日本画家 故後藤純男氏の作品三七一点が上富良野町に寄贈され、町ではこれを二〇二二(令和二)年一月二四日に上富良野町有形文化財(美術工芸品)に指定したことから、この作品の中に候補を求めることになった。
 第二〇号においては、生前の後藤画伯のご好意を得て、当号冒頭の十勝岳噴火泥流災害の語り部「清野てい・安井弥生」ご姉妹の記事に即して、時を経て静穏勇壮な「十勝岳連峰」の画面を使わせてもらった。
 本号記事内容を考慮しながら、作品リストを探る中から目を引かれたのが、「一九九二年 ラベンダーの丘」である。著作権を保有する株式会社後藤美術研究所に申し出て、快く許諾(きょだく)を得て表紙への使用が叶った。

 冒頭記事は、郷土をさぐる編集委員の野尻巳知雄氏が「ラベンダー観光の断面から ラベンダー・オーナー制度発足の事情 エトセトラ」と題して執筆された。上富良野のラベンダー観光草創期に、野尻氏は役場の担当係長として勤務されており、今だからこそ書ける波瀾のエピソードや観光振興の裏方の活躍などを振り返って書かれた。
 ラベンダーまつりに出店したヤクザが営む露天商とのトラブルについても書かれている。編集委員の中から、掲載にふさわしくないとの意見が出たが、四〇年前の事実であり、文責を負(お)って掲載したいとの著者の思いを請(う)けたものである。

 次は、猪狩昌和氏の「農業技師『猪狩源蔵の生涯』(その後)」である。猪狩昌和氏は、祖父の「猪狩源蔵」が農業技師として、大正一五年の十勝岳噴火泥流に襲われた農地復旧に大きな功績を遺されたことについて、二〇一七(平成二九)年四月発行の本誌第三四号に寄稿いただいた。この記事については、本会のホームページにも掲載公表しているが、これを見た「源蔵」の教え子である「水野直治」氏(現八五歳)から「昌和」に手紙が届いた。「水野直治」氏は「源蔵」の後を追うように、泥流の爪痕が残る上富良野の土地改良に携(たずさ)われたというのだ。新たに得られた水野氏からの情報を、「その後」として再度寄稿いただいた。

 次は、当会の会長でもある中村有秀氏執筆の「一五歳一ヶ月で戦死された『寺上隆敬君』を偲ぶ」である。前号「郷土をさぐる第三九号」で、中村氏が「その一」、編集委員(幹事長)の田中正人氏が「その二」として分担して執筆した「戦没者二七七柱の『忠魂碑』について」を掲載した。この執筆に当たっては、様々な資料や遺族からの聞き取りなどの調査に基づいて、既存の記録を補完修正する役割を果たした。この結果は、郷土をさぐる誌読者に止めるだけではなく、当会編集委員会の協議の結果、独立した簿冊として後世に残すべきと総意し、町の戦没者追悼奉賛会・遺族会・社会福祉協議会の協賛を得てA4判九二頁の「戦没者慰霊『忠魂碑』」として、二〇二二(令和四)年七月一日に刊行した。ここには、誌面の都合で「さぐる誌」に未掲載のものに加え、追加調査を行って充実したものとなった。「さぐる誌」で上富良野出身の最年少戦死者を「土井 繁」氏一七歳としたのだが、この過程で「寺上隆敬」君一五歳一ヶ月が最年少と判明した。この結果を受けて、範囲を広げた再度の調査を行った成果を、「寺上隆敬」君の戦死の背景と合わせて、短い波乱の人生をまとめ上げた。

 次は、当会の編集委員でもある三原康敬氏の、調査記事の「上富良野神社のまつり」である。三原氏の父親が遺された多くの写真の中に、かつてのにぎやかな上富良野神社祭りのスナップが遺されていた。
 今は失われてしまった町並みや人々の生活が記録されている。「みこし」の形も「樽みこし」や「俵神輿」、その後立派な「宮(みや)神輿(みこし)」に移り変わった。町内の渡御も神輿車の「曳みこし」から、担ぎ手、曳き手などの担い手不足からトラック車載に変わった。今の「担ぎ神輿」は、一九八五(昭和六〇)年八月に担ぎ手有志「徳神会」によって復活されたものだ。時代と共に変わってきた「神社のみこし」について、三原氏の調査結果が綴られている。

 次は、郷土をさぐる会幹事長(兼編集委員)田中正人氏による「上富良野町における新型コロナウイルスとその影響(3)」である。奇しくも第三八号から毎回、感染終息を願いながらの連載となってしまったが、本号で最終となる。政府では二〇二三(令和五)年一月二七日に、感染症法上の位置づけについて、五月八日から、今の「二類相当」から季節性インフルエンザなどと同じ「五類」に移行する方針を決定したからである。結果として、今までのような感染状況に関する情報が得られなくなる。この後記を書いている三月中旬現在で、感染対策の象徴でもあったマスク姿が消えつつある。感染者数も減少傾向が続いており、油断大敵ながら、経済活動を含めて徐々に元の生活に戻っていくのだろう。

 次は、本誌二編目の中村有秀氏による「小説「泥流地帯」の著者『三浦綾子さん』と上富良野の関わり」である。後述の「郷土をさぐる会のあゆみ」にあるように、一九七八(昭和五三)年一二月に、厄年を迎えた有志による「昭和一二年生れ丑年会」が組織された。奇遇ながら本号冒頭の「ラベンダー観光の……」記事の執筆者野尻巳知雄氏と共に、中村氏の両氏は中心となる役割を果たし、一九七九(昭和五四)年一二月二日に「かみふ物語」を発刊した。三浦綾子さんが、北海道新聞社のオファーを受けて、「泥流地帯」新聞連載のための取材を開始したのが、一九七五(昭和五〇)年九月のことで、役場の広報公聴係長であった野尻氏は現地コーディネーターとして、三浦夫妻との上富良野側窓口となっていた。中村氏は、「丑年会」、その後の当会「郷土をさぐる会」の発足、「泥流地帯文学碑」建立と、三浦夫妻との親交が続き、「三浦綾子文学館」のサポーターとして、多数の収蔵資料と長年の人脈を基に本稿が執筆された。本号第四〇号が記念号であることから、誌面の都合により一挙掲載をあきらめ、次号と分割して「その一」としての掲載になった。

 最後は、区切りの第四〇号として、特集「郷土をさぐる会のあゆみ」を編集した。大半は、中村有秀会長が整理された資料に基づくものだが、誌面数を抑えるため、活字を小さく、表での整理を多用したため、大変読みづらい誌面となったことをお詫びしたい。「執筆者別掲載号一覧」と「発行各号掲載記事一覧」を駆使すれば、故人を含め懐かしいお名前を見つけられるのでは……

 巻末の「在庫のお知らせ」にあるとおり、若干の既刊号残部があるのでお取り寄せ願いたい。前年までの発行記事は、写真や図版を除いた文字のみを、郷土をさぐる会のホームページに掲載しているので、ご一覧願いたい。

2023(令和5)年3月末日

機関誌      郷土をさぐる(第40号)
2023年3月31日印刷      2023年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀