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小説「泥流地帯」の著者
『三浦綾子さん』と上富良野の関わり (その一)

上富良野町本町5丁目14-1 中 村 有 秀
昭和12年11月28日生 (85歳)

文中縦書き数字は、算用数字を単純に漢数字に置き換える表記(記数法)で、引用・転載部分はママ表記。また、要所に元号年と西暦年を併記するようにしている。
  はじめに
 二〇二二(令和四)年は、三浦綾子さんが一九二二(大正一一)年四月二五日に生まれてから、「生誕百年」を迎える年でした。
 三浦綾子記念文学館(旭川市神楽七条八丁目)では、生誕百年記念特別企画展「プリズム―ひかりと愛と いのちのかがやき―」と題して、令和四年四月一日に始まり、令和五年三月二一日まで開催されました。
 筆者(中村)も観覧に行き、展示資料が多いことに驚くと共に大変参考になりました。
 ただ、「光世の日記」と「綾子の日記」はガラス越しに見るだけで残念でしたが、プライベートの守秘と保存のためには、止むを得ない措置と思いました。知りたかったある日の出来事……。
 しかし、田中 綾館長著作の「あたたかき日光(ひかげ)―光世日記より」が北海道新聞に二〇二二(令和四)年三月二六日から毎週土曜日に掲載が始まり、小説「泥流地帯」関係やその他の文学作品について、新たな事実と背景を知ることができました。
 特に、連載第三四回(二〇二二年一一月一二日)の第九章「二人の書斎 3」の文中にある
 一九七四(昭和四九)年の年末、北海道新聞の権瓶泰昭学芸部長と旭川支社の合田一道デスクが連れ立って三浦家にやってきた。
 「いかがでしょう、来年の秋からの日曜版の連載小説を、お引き受けいただけないでしょうか」
を読み、「三浦綾子さんと上富良野の関わり」として書く動機になりました。時に「三浦綾子生誕百年」の思いと、三浦夫妻に感謝を込めて……。
  一、小説「泥流地帯」を書く契機は

 三浦綾子さんは、小説「泥流地帯」を書く契機について「三浦に勧められて……」と、各種の出版物に書かれています。
 その中から、何点かの出版物を記します。北海道新聞旭川支社の合田一道デスクとの最初の対話や三浦夫妻の会話から、光世氏の深い思い入れが感じられます。

(1)  「あたたかき日光(ひかげ)」― 光世日記より [34]  作・田中 綾
          二〇二二(令和四)年一一月一二日 北海道新聞
==…綾子への原稿依頼はきりがない。一九七四年の年末、そろそろ恒例の、自宅での「子どもクリスマス会」の準備をと思ったころ、北海道新聞の権瓶泰昭(ごんぺいやすあき)学芸部長と旭川支社の合田一道(ごうだいちどう)デスクが連れ立ってやって来た。
「いかがでしょう、来年の秋からの日曜版の連載小説を、お引き受けいただけないでしょうか」
 ちょうど夕飯時で、近年気に入っている鉄板焼きを勧めながら、光世はスケジュールを思案した。
 すでに五、六社と書き下ろしや連載の話が進んでおり、とくに長い連載になる予定の『天北原野』は、道北はじめ、多くの場所に行く必要がある。
 ところが、光世がカレンダーを眺めているすきに、綾子があっさりと快諾してしまった。
「はい、お引き受けします」
「ち、ちょっと待ってください」
 あわてて光世が間に入る。
「来年の秋では厳しいので、せめて再来年スタートではどうでしょう」
 三、四カ月の猶予をもらい、光世はようやくひと息ついた。
「綾子、日曜版の連載にあの話はどうだろう。大正泥流、十勝岳の噴火の話だよ」
 この提案が、『泥流地帯』を書くきっかけとなった。==

掲載省略:写真 三浦夫妻書斎での執筆風景
(2) 上富良野町開基百年記念誌への寄稿文
          一九九七(平成九)年七月 上富良野町

 「私の中の上富良野」として三浦綾子さんの寄稿文の冒頭に次のように書かれている。
==私には三浦の勧めで書いた小説が二篇ある。一つは小林多喜二の母を主人公にした「母」であり、もう一つは「泥流地帯」である。
 この「泥流地帯」は、一九二六年五月二十四日に起きた十勝岳大爆発をもとに、人生の苦難の意味を追究した作品で、……==
(3) 小説「泥流地帯」を回顧して    三浦 綾子
          一九九五(平成七)年八月一日
          北海道を旅する手帖「北の話」 第一八八号
==ものを書くようになって三十一年、今までに出版した本は、七十冊を超えた。この中の約半分はエッセイで、残りは小説(伝記を含めて)である。
 小説には三浦の勧めによって書いたものが二つある。その一つは「母」で、小林多喜二の母をモデルにした。そしてもう一つは「泥流地帯」である。「泥流地帯」は大正十五年五月二十四日に起きた十勝岳大爆発の惨事をもとに書いたものである。
 「母」にせよ、「泥流地帯」にせよ、詳細な記録が残されている。何れもずしりと腹に応える史実である。共産主義にうとい私が多喜二の母を書くことは、むろん大変なことだったが、十勝岳山麓を襲った泥流の惨事を小説化することは、もっとむずかしいことであった。殊に農村地帯の日々を描くことは農を知らぬ私にとって、絶壁をよじ登るような困難な業であった。
 ともあれ、北海道新聞の日曜版に小説「泥流地帯」を書くことに決めた私は、出来得る限りの取材をしようと思った。何をどう始めてよいかわからぬ悲惨な事実に、目を覆ってはいられない。取材には三浦がそして北海道新聞旭川支社の合田一道氏が必ず同行してくれた。
 〜 中 略 〜
 望岳台の一帯には、この時の爆発に吹き飛ばされた大小の岩石が、焼け焦げたまま、今もころがっていて生ま生ましい。爆発によって大きな山津波は発生した。折しも融雪季のこととて、山津波は何倍にもふくれ上がり、一筋は白金温泉街に、他の一筋は上富良野への沢を急襲した。その泥流は時速六十キロの早さであったと伝えられている。ごうごうと地響きを立てて駆け下る泥流は、両岸の立木をも削り取り、人も、家も、馬も、畠も、あっという間に呑みこんで山間を突っ走る。その様は、さながら小山がもの凄い早さで迫ってくるようであったとか。
 かくて、ある部落は全滅し、死者一四四人と伝えられる。思いもよらぬ惨害に人々は呆然とした。そのほとんどは農民たちで、彼らは三十年間、実にまじめに、営々として鍬をふるい、田畠を耕し、一家力を合わせ、隣人と仲よく、酒さえも慎んで、ひたすら開拓にいそしんできた人たちであった。
 私は、幸いにしてこの大災害からまぬがれ、命を全うした人々に話を聞いた。まぬがれたと言っても、愛する妻子を失ったり、親を失ったりという悲しい体験をした人たちであった。  人生においての不可解な一つに、まじめに生きている人が大変な苦難に遭うということがある。それは今年一九九五年一月の関西大震災で、人々が等しく感じたところではないだろうか。私たち人間は、不幸や事故に出会ったことを、すなわち当人の行為の結果だと思いやすい。だが、この世界の出来事は、そう簡単に割り切ることはできないのだ。三浦が私に、十勝岳大爆発を題材に小説を書くように言ったのは、このテーマを追究して欲しかったからである。旧約聖書には有名なヨブ記がある。ヨブという人は、その時代最も正しい人として、神からも人からも愛された人物であった。だがその遭遇した災難は、到底書くに耐えないところで、私などには到底解明でき得ない話である。
 〜 中 略 〜
 何れにせよ、私はこの小説「泥流地帯」を書いてよかったと思う。私は精一杯力をこめて書いた。その災難に死んで行った人のことを思い、後に残された人の辛さを思い、時には声を詰まらせながら口述した。
 筆記する三浦も涙を拭いながら筆記した。
 美瑛、白金、上富良野――この美しい景勝の地を旅する人が、かの大爆発の災害を偲んでいただけたら幸である。==
(4) 「愛・つむいで」     綾子・光世共著   写真・後山一朗
          二〇〇三(平成一五)年六月三〇日 北海道新聞社刊
 綾子はおよそ、事を始めるのに臆(おく)することがなかった。それでも、私が書いて欲しいと勧めた小説「泥流地帯」はためらった。人一倍慎重でもあったが、失敗は恐れなかった。  (光世)

 失敗は大きな私たちの履歴である。やれるかも知れない、と思った時、自分でも気づかなかった力が出てくるものなのだ。初めから、できないと言えば、できずに終わる。   (綾子)

  二、佐藤喜一著 創作「十勝泥流」について

(1) 古書店で見つけた「十勝泥流」の初版本

 私が、佐藤喜一著の「十勝泥流」(一九四六・昭和二一年七月一〇日発行 玄文社刊)を手にしたのは、札幌に出かけた折のことでした。一九六七(昭和四二)年九月、古書店の「弘南堂書店」で二五〇〇円で購入したのです。
 帰りの列車の中で、夢中で読んだ記憶があります。表紙は「十勝泥流」となっていますが、短編の「忠別太(ちゅうべつぶと)の番小屋」「海豹(かいひょう)島員手記」「恢復(かいふく)期」の三作品も掲載されています。
 佐藤喜一氏は、一九三七(昭和一二)年七月に同人誌「燔祭(ばんさい)」を創刊、主宰となりました。一九三八(昭和一三)年三月「燔祭」第五号に創作「泥流 @」を発表、その後一九三九(昭和一四)年の「燔祭」第一二号まで連載し、「泥流」の前編が終了とされています。後年に「十勝泥流」と改題され、一九四六(昭和二一)年七月に出版されました。

掲載省略:画像 初版単行本「十勝泥流」表紙

(2) 「十勝泥流」の十勝岳と吹上温泉

「十勝泥流」には 実 態 は
TK婦人の哀悼の一首 九條武子夫人の短歌
加田農場 山加農場
荒井牧場 新井牧場
H硫黄鑛業 平山硫黄鑛業所
作文 船越武士 作文 船引 武
宿主の富座氏 宿主の飛沢辰巳氏
大町桂月の句 長谷川零餘子の句
十勝岳爆発災害横死者の碑 十勝岳爆発記念碑
 「門野克巳」を主人公にして、一九二六(大正一五)年の十勝岳爆発の前、爆発泥流災害直後の五月三一日、そして一九三七(昭和一二)年一月と、三つの時期に分けて記述されています。
 佐藤喜一著の「十勝泥流」と三浦綾子著「泥流地帯」共に、一九二九(昭和四)年三月二五日発行の「十勝岳爆発災害志(ママ)」を、参考文献とされています。
 「十勝泥流」には、冬期の交通手段の馬橇、十勝岳の地形、鉄索コース、吹上温泉宿の状況(電話室・乾燥室・客室・客の往来・谷底の温泉風呂)と、平山硫黄鑛業所等が克明に描写され、当時の様子が思い起こされます。
 創作「十勝泥流」に記述されている事項と、この実態について比較してみました。
 「十勝泥流」を一読され、多くの「かみふらのフットパス」コース内に設定されている「ゆかりの地」を巡ってみてはいかがでしょうか。

掲載省略:写真 昭和初期頃の吹上温泉全景
掲載省略:写真 吹上温泉へ客を運ぶ馬橇
掲載省略:写真 谷底の浴場をつなぐ吹上温泉の廊下
(3) 石川郁夫著「佐藤喜一」の書評

 北海道新聞の二〇一八(平成三〇)年七月八日の「ほん ほっかいどう」欄で、三浦綾子記念文学館 田中綾館長による、「自己を封印した作家 丁寧に例証」との見出しの石川郁夫著「佐藤喜一」の書評に、目が留まりました。
 それは、
==昭和初年代のプロレタリア文学最盛期に、早稲田大文学部で学んだ。同級生らが学生運動で放校処分を受けるなか、佐藤は、運動から手を引く誓約書を提出し、難を逃れたという。とはいえ、文学を志す青年にとって、それが少なからぬしこりを残したことは想像に難くない。
 評論家の高野斗志美が、佐藤を「転向作家」と呼んだことも引用されているが、本書は、その呼称がより深い意味をもつことにまで言及している。==
というものでした。
 佐藤喜一著「北海道文学史稿」(一九五六・昭和三一年十一月三〇日発行―楡書房)に、早稲田大学在学中の出来事として、
==…一九三〇(昭和五)年一〇月二二日、早大罷休悪化の報、新聞にもでる。クラスにも組織ができた。組織・宣伝・警備・連絡・会計、二十銭の資金提出。結果、退学届を出した者もいた。
 「当局の盟休の切崩し」「一部左傾学徒の策動とにらみ」「足竝(あしなみ)乱る」「いよいよ悪化」等新聞のレポは飛んだ。火の消えた学園。…==
と記されており、当時の状況が伺えます。

掲載省略:画像 佐藤喜一著「北海道文学史稿」表紙
記事の背景:  一九三〇(昭和五)年一〇月一六日、早慶野球戦入場券の配布方法に端を発した早稲田大学学生大会が開かれたが、事は切符問題を離れたものになった。大学が十七日に新聞に発表した「声明書」には、「不法にも校庭に集合し入場券不買同盟、学生の自治権獲得、授業料三割値下、野球部応援拒絶、選手出場禁止等の決議を為し、計画的に恩賜記念館に闖入(ちんにゅう)して狼藉(ろうぜき)するの醜態を演じた」とあり、その騒動の内容が判る。この後、二十一日の学生側の同盟罷業(同盟休業=サボタージュ)やデモに始まる行動には、学生側と大学側との調停により翌月の十七日に最終的な幕がおりた。
 田中綾館長は、
==「十勝泥流」は小説でありながら記録、事実に限りなく即し、内的表白(ひょうはく)を深く封印していることを本書は丁寧に例証している。
 そして、「十勝泥流」と三浦綾子の「泥流地帯」を併読すると、より佐藤の創作感が際立ってくるだろう。==
と結ばれています。
(4) 小説「銃口」のモデルの一人土橋明次氏と佐藤喜一氏

 両氏は、旭川中学校第二二回卒業(一九二九・昭和四年三月)の同期で、一九三九(昭和一四)年発行の「旭川中学校同窓会員名簿」に次のように記載されています。

  佐藤喜一 旭川夜間中学校教諭
         旭川市宮下通一六丁目左四(早大卒)
  土橋明次 東旭川村旭川尋常高等小学校(旭 師)

 大学卒業後は各々教師の道を歩みましたが、土橋明次氏は一九四一(昭和一六)年一月一〇日に治安維持法違反容疑で検挙されました。その罪状は、日常生活をありのまま綴方にとの「北海道綴方教育連盟」の活動に関わるものでした。
 その頃の佐藤喜一氏は、一九四一(昭和一六)年六月まで結核で茅ケ崎の南湖院に入院。その後一九四二(昭和一七)年三月まで室蘭市の土木現業所に勤務され、同年四月から旭川市立高等女学校教諭となりました。
 同期であった土橋明次氏の検挙・拘留・判決について、佐藤喜一氏はどう考えられ、その後の二人の交流はどうあったのでしょうか。――
(土橋明次氏の長女 中川裕子さんが、郷土をさぐる誌第二三号に「上富のこと思い出すまま」と題して、父・母そして北海道綴方教育連盟等について掲載。筆者・中村も寄稿)
(5) 土橋明次氏 作品受賞祝いに三浦家へ
==一九九六(平成八)年九月一一日、三浦綾子著小説「銃口」が第一回井原西鶴賞を受賞された。
 この日、「銃口」のモデルの小川文武氏、土橋明次氏と木内綾さん、目加田祐一氏等が、ささやかな式に参列された。(「永遠に…三浦綾子写真集」より)==
 土橋明次氏は八五歳にもかかわらず、千葉県からお祝いに駆けつけています。「北海道綴方教育連盟」事件から五五年、小川氏と共に積年の思いで、三浦夫妻に祝意と謝意を申し上げたことでしょう。

掲載省略:写真 三浦綾子さん(右)の取材を受ける土橋明次さん。左は夫の光世さん。
             1989(平成元)年9月(中川裕子さん提供)
(6) 「佐藤喜一先生」の追悼集

 佐藤喜一氏は、一九九二(平成四)年三月二日に享年八一歳で逝去されました。
 一九九二(平成四)年一二月一〇日発行の同人誌「火曜会誌 VITA」第六号で、「佐藤喜一先生追悼集」が掲載されました。
 追悼集は、各々の立場、関係、交遊等から、弔辞三名・追悼文二六名から寄せられています。
 その中で、「十勝泥流」の関係について、掲載分を抜粋して紹介します。
――弔 辞――         木原 直彦

…先生は早稲田大学に在学中から文学に志し、昭和十三年に発表した「十勝泥流」という小説がありますが、北海道の風土のなかから生まれた抒情味豊かな作品で、戦前の代表作の一つです。…

――弔 辞――         高野斗志美

…昭和十三年、先生は『早稲田文学』新人創作号に「蒼園」を発表し、新進作家の第一歩を築きます。その先生がなぜ、「十勝泥流」をもって戦後、小説の筆を折るのか。たぶん、先生から詩と小説をうばいとったのは〈昭和〉という時代であったのです。…

――追悼文――         和田 謹吾
   秘めたる情熱の人 ―佐藤先生の文学魂―


…『十勝泥流』は昭和十年代に、氏がみずから出しておられた同人雑誌に発表されたものである。……『十勝泥流』は大正末期の十勝岳噴火にまつわる郷土史の上に展開するロマンであったが、今日の北海道の文学の方法は、佐藤さんをなにほど超えられているか。…

――追悼文――         三浦 綾子
  初めて会った日の印象


 私が佐藤喜一先生を初めてお見かけしたのは、確か昭和十七年の六月頃であったと思う。当時私は、啓明小学校に教師として勤めていて、佐藤喜一先生は旭川市立高女の教師として通っていられた。
 ある朝、向うから色の青白い青年が歩いて来た。何か考えこんでいるような表情で、私たちとすれちがった。
 すれちがった瞬間、私はその青年の胸に、妙に鋭い洞察力のようなものが秘められているように感じて、うしろをふり返った。一緒に歩いていた同僚が、「いまの人、佐藤喜一ですよ」と、私にささやいた。
 その佐藤喜一先生と親しくさせていただいたのは、私の小説「氷点」が人選した昭和三十九年であった。道で初めてお見かけしてから、二十二年の月日が流れていた。
 私は新刊書が出る度に、先生のお宅にその本を届けに行った。
 「まあお入りなさい」
と、うれしそうにおっしゃって下さるのだが、時間がなくて玄関先で失礼することが多かった。それでも三度か四度は、お家の中に入れていただいた。…

  三、三浦夫妻の上富良野への現地取材

 北海道新聞社から日曜版連載小説の依頼を受けたのは、一九七五(昭和五〇)年の二月か三月頃のことで、綾子さんは意外にあっさりと引き受けられました。しかも、光世氏の勧める題材を書くと言ったのでした。

(1) 上富良野への現地取材

 三浦光世著「三浦綾子創作秘話―綾子の小説と私」(二〇〇一・平成一三年一一月一日主婦の友社発刊)に、執筆のための現地取材について書かれています。
==取材は直ちに始められた。被災地である上富良野へも、幾度となく足を運ぶことになった。
資料も集め始めた。随時取材に出かける綾子のために、その都度直ちに同行してくれ、体験者を集めてくれたのは、当時北海道新聞旭川支社に勤務していた合田一道氏であった。氏には、このようにひとかたならぬ協力をいただいた。
一九七五年といえば、大爆発から四十九年も経っている。が、家族を失った体験者や、山津波を目撃した人など、少なからずおられて、取材は大いに進んだ。中には、小学校教師で、出張中に最愛の妻を亡くされた菊池政美先生にもお話しいただいた。……吉田貞次郎村長の二女「清野ていさん」、三女「安井弥生さん」には、何度も取材に伺い大変お世話になった。==
 この取材には、合田一道(ごうだいちどう)氏と共に野尻巳知雄(みちお)氏(当時上富良野町役場企画課広報公聴係長)が同行案内され、数枚の写真も撮影されています。
 この時のことについて、広報「かみふらの」一九七五(昭和五〇)年一〇月第一九八号に次の記事が掲載されました。
==十勝岳爆発が小説のテーマに
 大正十五年五月二十四日に、十勝岳が大爆発を起し、百四十四名の尊い生命を奪い去りましたが当時の被災の模様と、復興不可能といわれた状態から、たくましく生きぬいた先人の苦労をテーマに、小説が書かれることになりました。
 この小説は、北海道新聞社の依頼で、作家の三浦綾子さんが執筆することになったもので、九月二十二日にご主人の三浦光世さんとともに取材に来町し、高田さんなど、当時被災にあわれた方々と会って話しを聞いたり、今だになまなましく当時の形を残す泥流跡を観察されました。
 小説は来年一月十一日から毎週日曜版に登載予定です。==
 この稿の執筆に当たり、三浦綾子記念文学館から合田一道氏の紹介を頂き、早速に連絡させていただいたところ、合田一道氏から次の貴重な資料の送付を受け、驚きと共に感激しました。

 @ 写真  一〇枚
 A 資料
  ・「三浦綾子さんを囲む会」の栞(しおり)
         (昭和五二年七月一六日開催)
  ・座談会出席者のプロフィール(右に同日)
  ・上富良野町 立松石次郎さんの文章
  ・「泥流地帯」雪の道(直筆原稿一八枚コピー)
  ・三浦綾子新聞小説「泥流地帯」の世界・栞

 三浦夫妻、合田一道氏は、幾度も上富良野町に足を運ばれ、十勝岳の泥流跡や日新・草分・日の出地区の被災地を中心に取材されました。被災者・遺族・関係者からの聞き取り調査、そして先人が遺された数々の爆発災害記念碑と多岐に及んでいました。
 合田一道氏から送られてきた「取材時の写真」を掲載します。撮影時期は「bP」を除き、全て一九七五(昭和五〇)年九月です。
掲載省略*写真 下記10葉

1  三浦家書斎で打ち合わせの合田氏と三浦夫妻
      〜1976(昭和56)年3月(後山一朗氏撮影・合田氏提供)
2  「十勝岳爆発記念碑」前で(野尻氏撮影・合田氏提供)
3  十勝岳の泥流跡を取材する(合田氏撮影・提供)
4  十勝岳の泥流跡を取材する(野尻氏撮影・合田氏提供)
      右から三浦光世・不明・三浦綾子・野尻巳知雄・合田一道
5  泥流跡と富良野川源流を歩く(合田氏撮影・提供)
6  「十勝岳爆発記念碑」を見る(合田氏撮影・提供)
7  上富良野市街「五丁目橋」で祈る(合田氏撮影・提供)
8  「松浦武四郎 顕彰記念碑」前で(合田氏撮影・提供)
9  古老からの聞き取り〜上富良野町役場応接室(合田氏撮影・提供)
      (左)三浦綾子さんと光世氏 (右)加藤清氏・岩田賀平氏と古老の皆様
10 聞き取り取材出席の古老〜上富良野町役場応接室(合田氏撮影・提供)
      後列 右から三浦光世・三浦綾子・篠原八重子・田村イネ・高田コウ
      前列 右から篠原藤一郎・高田信一
(2) 草分老人クラブに古老の写真確認へ

 合田一道氏から送られた写真の中に、三浦夫妻と共に五名の被災遺族、古老の方々が取材後に撮影したもの(写真10)がありました。
 氏名確認のため、二〇二三(令和五)年二月に上富良野町草分老人クラブ(会長北村碩啓(みつひろ)氏)の例会に取材して三名の氏名(篠原藤一郎夫妻と田村イネさん)が確認されました。
 その後、残る不明者二名について調査を進めたところ、郷土をさぐる会誌第二号に『泥流に流されて』として寄稿された「高田コウさん」に似ている様なので、遺族である「日の出地区高田民子さん」に聞くと、夫の両親「高田信一氏・コウさん」であることが判明しました。
 この折に、ある古老の方々から「三浦夫妻が上富良野に取材の時のタクシーに、乗せてもらった人がいるよ」と聞かされました。

(3) 三浦夫妻のタクシーに乗った人とは

 草分老人クラブの古老の話を聞き、筆者は早速訪問しました。
 その方は、上富良野町中町三丁目在住の「U・S」さんで、四八年前のことを次のように語ってくれました。
==それは、私が上富良野高校二年生の昭和五〇年九月頃でした。帰りのスクールバスに乗れなかったので、学校の制服姿に鞄を持って道々美沢上富良野線を日新の自宅に向かって歩いて帰る途中でした。その時、タクシーが停まり優しそうな小父(おじ)さんが「どこまで行くの。日新に行くなら乗って行かない」と、声をかけてくれました。
 私は「日新の自宅へ帰るの…」と言って、後部座席を見ると右側に品のあるご婦人が座っていました。
 小父さんの勧めと、ご婦人の手招きで後部座席に座り、小父さんは助手席に座られました。
 小父さんは、「日新なら、十勝岳爆発災害のことを知っているかい…」と尋ねられました。
 私は、おばあちゃんからいろいろな苦労話と災害の怖さを聞いていたので、そのことを車中で話しました。
 隣のご婦人は頷いたり、二、三質問されましたが、自宅前にタクシーが着いてしまったので、お礼を申し上げ手を振って別れました。
 後日、新聞や「広報かみふらの」で、小説「氷点」で有名な「作家 三浦綾子さん」が十勝岳爆発災害と復興について取材に来ていたことを知り、あの時の「小父さんとご婦人」が三浦夫妻であることが判りました。あの時、サインを戴いていればと思っています。
 小説「泥流地帯」が新聞に連載され、それを読むのが毎週の楽しみでした。
 今から、四八年前のことですが、三浦光世・綾子ご夫妻の優しい心遣いと温かさに、まだその余韻が心に残っています。==

  四、小説「泥流地帯」のタイトルと新聞連載

(1) タイトルは「光世氏」が決めた

● 「三浦綾子 創作秘話」(三浦光世著)には、
==私はいつの頃からか、一九二六年の十勝岳大爆発を題材に、一篇の小説を彼女に書かせてみたいと思うようになった。人間の苦難をどう見るか、どう受けとめるべきか、そんなテーマで書いてみてはどうかと、考えたのである。==
 光世氏のそのような思いが、小説「泥流地帯」のタイトルになったのでは……と思います。
 佐藤喜一著の創作「十勝泥流」は、昭和一三年頃に同人誌に連載が始まりましたが、共通することは十勝岳爆発で最大の被害の原因は「泥流」でした。
 佐藤喜一氏・三浦光世氏ともに、タイトルの中に「泥流」を入れたことが理解できます。泥流が発生していなければ……。
 また光世氏は、
==文体にタイトルがそぐわないこともあった。この「泥流地帯」は私の提案したタイトルであるが、これは重過ぎた。事実、編集者から、
「タイトルが少し重いんじゃないでしょうか。『泥流の村』くらいでは、どうでしょうか。お考えいただければ……」
というコメントもあった。言われてみれば「泥流の村」くらいがよかったかと思う。
 小説「泥流地帯」には、続篇もあって、場面は村だけに終始するわけではない。それにしても「地帯」まで言わなくてもよかった。==
と記しています。

●「あたたかき日光―光世日記より」(田中 綾作)[39](二〇二二・令和四年十二月十七日道新)には、
==『泥流地帯』というタイトルは、いつものように光世によるものだった。人物設定にも、光世の境遇が重ねられている。
 「ねえ、ミッコ、妹さんとの年齢差はこれで合ってる?」
 光世は幼時に父を失い、母は、四人の子のうち長女の富美子を養子に出し、三人の子を滝上町の祖父に預けた。長男の健悦と妹の誠子は、父方の祖父・三浦小三郎に、次男の光世は母の父である宍戸吉太郎に預けられた。
 「ああ、合っているよ」
 「そのころのお母さんのことも、もう少し聞かせて」
 光世のまつ毛が、ふいに下を向いた。
 「そのころのことは……実はあまり、覚えていないんだ」
 母シゲヨは、光世が四歳のころ、美容師修業のために単身で札幌に行っていた。約九年もの間、光世は母不在の家で育ったのだ。==
とあり、小説「泥流地帯」での人物設定に似ています。

(2) 北海道新聞日曜版への連載と出版

 新聞連載小説として、三浦綾子著「泥流地帯」が始まるとの記事が、北海道新聞に載りました。
十勝岳爆発泥流災害とその復興について取材に来られていることは、新聞や町の広報紙で知っていました。
 どの様なストーリーで、当時の村の様子は……と様々なことに思いと期待を巡らせていました。

● 「泥流地帯」
 一九七六(昭和五一)年一月四日から九月一二日まで、道新日曜版に連載された。
 小説「泥流地帯」の単行本は一九七七(昭和五二)年三月二五日に、文庫版は一九八二(昭和五七)年八月二七日に新潮社より発刊された。
 「泥流地帯」の発刊により、上富良野町文化連盟主催で「三浦綾子さんを囲む会」と「出版記念祝賀会」が、一九七七(昭和五二)年七月一六日に開催された。(詳細は、本稿の第五項に記す)

● 「続 泥流地帯」
 一九七八(昭和五三)二月二六日から一一月一二日まで連載された。
 「続 泥流地帯」の単行本は一九七九(昭和五四)年四月一五日に、文庫版は一九八二(昭和五七)年八月二七日に、新潮社より発刊された。

掲載省略:写真 単行本「泥流地帯」と「続泥流地帯」

  五、小説「泥流地帯」の出版記念『三浦綾子さんを囲む会』の開催

 一九七五(昭和五〇)年九月に、三浦綾子さんが大正一五年の十勝岳爆発泥流災害と復興を題材にした小説を書くために、上富良野町を訪れて現地取材をされました。
 その三ヶ月後、北海道新聞日曜版に一九七六(昭和五一)年一月四日から「泥流地帯」の連載は、
――外は闇だった。
 星光一つ見えない。まるで墨をぬったような、真暗だ。あまりの暗さに、外に出た拓一は、ぶるっと体をふるわせる。――

で始まった。
 そして一九七六(昭和五一)年九月一二日の、

――「な、耕作、母ちゃんばうんと大事にするべな」
 「うん、大事にする」
 耕作は深くうなずいた。再び、汽笛が長く響いた。――

で終わりました。

 読者、特に上富良野に住む人達は、この長編小説を一喜一憂して読まれたことでしょう。

《三浦綾子さんを囲む会》

 小説「泥流地帯」が新潮社から単行本として、一九七七(昭和五十二)三月二五日に発刊されました。
 上富良野町文化連盟(会長 西 武雄氏)が主催者となり、三浦夫妻を迎えて「泥流地帯」出版を記念する「三浦綾子さんを囲む会」を、一九七七(昭和五二)年七月一六日に開催しました。
 「三浦綾子さんを囲む会」は、第一部に北海道新聞社 合田一道氏の司会による「小説 泥流地帯と上富良野町の歴史」をテーマにした「座談会」が、引き続き第二部として「出版祝賀会」が行われました。
 「三浦綾子さんを囲む会」の栞は、取材時に同行された合田一道氏から送られた貴重な資料なので、ここに再録します。

掲載省略:画像 三浦綾子さんを囲む会栞表紙
〜〜 三浦綾子さんを囲む会 〜〜

開催日
ところ
主 催
後 援
   

 昭和五二年七月一六日
 公民館ホール
 上富良野町文化連盟
 上富良野町・上富良野町教育委員会
 北海道新聞社・新潮社
◆ 第一部 座 談 会 一四:〇〇〜一六:〇〇
テーマ 「小説泥流地帯と上富良野町の歴史」
≪出演者≫
司  会 北海道新聞社  合田 一道
作  家  三浦 綾子
   三浦 光世
上富良野町長  和田松ヱ門
上富良野町文連会長  西  武雄
上富良野町文連副会長  本田  茂
上富良野町文連文芸部長  青地  繁
上富良野町史編集者  岸本 翠月
元日新小学校教諭  菊池 政美
爆発当時の罹災者等
  杉山芳太郎  伊藤 鶴丸  立松石次郎
  一色  正三  清野 てい  小林  春江
元 上富良野町助役  加藤  清
≪特別参加≫
芦別市長  細谷徹之助
富良野市教育長  中野 定幸
北海道新聞社編集局長  建部 直文
(敬称略)
座談会出演者のプロフィール
<作家 三浦 綾子さん>
 昭和三九年人間の原罪をテーマにした「氷点」が朝日新聞一千万円小説に当選、これがきっかけとなり、その後「道ありき」「自我の構図」「塩狩峠」「細川ガラシャ夫人」など愛と魂をゆさぶる数多くの作品を次々に発表する。最近作は「果て遠き丘」。
 昭和五一年一月から九月にかけ、北海道新聞日曜版に十勝岳爆発をテーマにした「泥流地帯」を連載、人間の生と死を描いて爆発的な評判をとる。このたび新潮社から出版。来年一月から北海道新聞日曜版に続編を連載する予定。
 旭川市生まれ。現住所:旭川市豊岡二条四丁目
<作家 三浦 光世さん>
    信仰を通じて綾子と知り合い、昭和三四年結婚。綾子の最大の理解者、協力者として著作活動の後ろ盾となる。綾子との共著「太陽はいつも雲の上に」「愛に遠くあれど」歌集「共に歩めば」「少年少女の聖書ものがたり」がある。「泥流地帯」の取材には綾子とともに再三現地をおとずれた。耕作の祖父、市三郎は、光世の祖父がモデルといわれる。短歌あららぎ同人。
 東京都生まれ。現住所:同じく。
<司会 合田 一道さん(北海道新聞社)>
 北海道新聞記者として帯広、釧路、室蘭などを回り、昭和四九年旭川支社報道部次長。三浦綾子が北海道新聞日曜版に「泥流地帯」連載と決まり、編集担当者となる。取材で三浦夫妻とともに現地へ。現在本社販売促進部次長。「北海道ロマン伝説の旅」「北海道祭りの旅」などの著書がある。
 上砂川町生まれ。現住所:札幌市白石区栄通一六丁目
<町長 和田松ヱ門さん>
      明治三八年五月一五日生 七二歳
 読書愛好家として知られ、歌人でもある。研究心が旺盛で、二度程ヨーロッパ各国を視察し、欧州事情を学ぶ。昭和三八年文化連盟の初代会長、昭和四六年に町長に当選する。
 昭和五一年一〇月に、若き日からの作品をまとめ、歌集「噴煙絶えず」を発刊。
<文化連盟会長 西  武雄さん>
      明治四五年七月一五日生 六七歳
 黒松内町で生まれる。昭和一二年から終戦まで陸軍の獣医として従軍し、その後、上川生産連に務めたあと、昭和二六年に上富良野町共済組合に来る。
 昭和五二年頃、黄田先生に師事し詩吟を学び、昭和三八年に文化連盟創立とともに副会長、昭和四八年会長となる。
<文化連盟副会長 本田  茂さん>
        大正二年九月五日生 六四歳
 島津で生まれる。従軍で両足を切断され、不遇にもめげず困難を克服され、俳句を中心に活躍される。土岐(とき)錬太郎先生に指導を受ける。
 句集「だるま抄」を発刊。現在文連副会長を務める。
<文化連盟文芸部長 青地  繁さん>
      大正一一年八月一五日生 五五歳
 東中に生まれる。農業を営むかたわら、昭和一五年に国語短歌雑誌「青空」に入社。小田観螢(かんけい)、太田水穂(みずほ)先生の指導を受け、「新墾(にいはり)」「潮音(ちょうおん)」の社友として活躍、昭和五一年歌集「青蛙」を発刊。
<町史編集者 岸本 翠月さん>
      明治四一年一〇月一日生 六九歳
 中富良野町に生まれる。農業を営むかたわら、小田観螢、岡本高樹、太田水穂、四賀光子先生の指導を受け「新墾社」「潮音社」で短歌を学ぶ。
 昭和四八年中富良野神社境内に歌碑建立。著書「生命の微」外五点、地方史、伝記では「中富良野町史」、「上富良野町史」外一〇巻を手がけた外「田呂善作伝」「松浦周太郎伝」を執筆し、現在「石川清一伝」を執筆中(当時)。
<元日新小学校教諭 菊池 政美さん(旭川市)>
 爆発当時の日新小学校教諭。

※筆者注:菊池姓について、筆者(中村)の調査結果、政美氏本人申し出により、昭和三年一〇月三日付旭川区裁判所許可で「菊地」から「菊池」に改姓が行われている。周囲の方々はこのことを知らずに、「菊池」と「菊地」の姓を混用していることが伺われる。資料として参照した書籍等資料でも両姓が混在しているが、本稿では記事の改姓前後の時期に関わらず、改姓後の「菊池政美」で統一した。
<取材協力者 加藤  清さん>
        大正八年一月二六日  五八歳
 元助役、教育長を歴任。三浦先生の取材に当って、献身的に協力された。
<当時の罹災者 杉山芳太郎さん>
        明治三八年二月六日生 七二歳
 東中で生まれ、間もなく現在地(日の出)に移住、爆発当時は田で代かきをしていたが、遠くから押しよせよせてくる泥流を見て、家族八人が夫々(それぞれ)市街と山に分かれて避難した。
 家の近くを流れる泥流に人や馬が押流されるのを、必死に救済に当った。
<当時の罹災者 伊藤 鶴丸さん>
        明治三〇年二月二九日生 八〇歳
 上富良野町の第一回の移住民を乗せた「敦賀丸」の船上で生まれる。
 十勝岳の爆発では、周囲が泥流の渦と化し、父は近くの林の上に孫を背負って、本人は子どもと少し小高くなった堤防に上り、腰まで水に浸りながら、必死に押し流されるのを防いだ。
<当時の罹災者 立松石次郎さん>
        明治三〇年一月二四日生 八〇歳
 町の第一回入植の時に、親とともに入村し。爆発では、山際に居住していたので難を免れたが、兄弟や親戚を多数亡くしている。
<当時の罹災者 一色 正三さん>
        大正五年八月一一日生 六三歳
 草分で出生、災害当時は市街に移転していたが、父母はまだ出生地で住んでいた。父母は家諸とも泥流に押し流されてしまったが、寄跡的に助かり、当時の新聞でも大きく報道された。
 元商工会長、社会教育委員長など歴任。
<当時の罹災者 清野 ていさん>
        大正八年一月一一日生 五八歳
 元吉田貞治郎村長の次女で、罹災者。
<当時の罹災者 小林 春江さん>
        大正六年四月一一日生 六〇歳
 故小林八百歳さんの娘さんで、罹災者。
◆ 第二部 小説「泥流地帯」出版記念祝賀会
司会 和田 昭彦
一、主催者あいさつ
   上富良野町文化連盟会長  西  武雄
二、歓迎のあいさつ
   上富良野町長  和田松ヱ門
三、祝   辞
   北海道新聞社編集局長  建部 直文
四、花束贈呈(三浦さん御夫妻に)
山本 逸子・ 伊藤 圭子
五、記念品贈呈
六、三浦綾子さんから一言
七、祝   盃
八、アトラクション
   エレクトート演奏  坂本 良子
   踊   り 文化連盟婦人部
九、お別れの盃
  「泥流地帯」出版記念パーティー出席者  (五十音順)
 ア 青地  繁 荒   猛 有我 英子 安藤 嘉浩  イ 一色  武 一色 正三 伊藤 圭子 伊藤 鶴丸
伊藤 よし 伊部 酉市 伊部ひろの 岩佐マサ子 岩田 賀平  ウ 植田 スミ 宇佐見利治  オ 太田 明代
大福 幸夫 大道美代子 大柳 正二 大柳 房子 小笠原 操 荻野 浪子 長内よしえ 小畑加津美
温泉 国一  カ 笠原 重郎 加藤  清 加藤 慶子 加藤 輝子 金子 全一 金子 トヨ 川上 貴代
川上 雅夫 菅野  稔 菅野 朝子  キ 菊池 政美 岸本 翠月 木平カヲル  ク 久野専一郎 倉本千代子
倉本 良輝 栗栖 省吾  コ 鴻上 利雄 小玉佐智子 小林 春江 小松亜左子 近藤 光子 斉藤 元孝
坂本 城雄 坂本 良子 佐川 愛子 佐川 清男 佐川  登 佐川 泰正 酒匂 佑一 笹木 庄吉
佐々木宏子 佐藤 良子 佐野 静恵 末広 宗一 菅原  敏 杉山芳太郎 鈴木  淑 清野 てい
田浦  博 高木香代子 高木 信一 高橋 冬芦 高橋  博 高橋 安子 田口 輝子 竹谷 岩俊
竹谷 愛子 多田 繁夫 多田 良夫 巽   清 建部 直文 立松 静江 立松石次郎 田中 一米
田中喜代子 谷  与吉 谷口 武男 千々松絢子 千葉  長 千葉美代子 辻  甚作 土屋佐加恵
富樫銀次郎 飛沢 尚武 長岡 長一 仲島徳五郎 中野 定幸 中村 有秀 納谷 富一 成沢  茂
成田 久子 西  武雄 野尻巳知雄 長谷川喜蝶 長谷川裕子 平井  進 平塚まさ子 福塚 賢一
星越 一郎 細谷徹之助 本田  茂 本間 久子 増子 京子 松田由美子 松藤 みち 松藤しずか
松原 雅子 松山 益平 丸山美枝子 三島 笑子 三島 功一 水上 悦子 水島 雅夫 水谷甚四郎
水谷 武雄 水谷 宗菊 向山伊太郎 六平 美子 村岡 八郎 村上 和草 村端 外利 村本 喜八
森川 良子 柳谷 賢一 薮下みさを 山岡きくえ 山崎 智子 山田 外吉 山本 逸子 吉岡さよ子
吉岡 光明 米田 末範 分部  孝 鷲下  清 和田松ヱ門 和田 昭彦 渡辺 弘子 渡辺 房子
 参加者は一四四名で、順不同で掲載されていたが、読み易いように「五十音順」に整理しました。
 四六年前の行事ですが、読者の皆様の親族・知人・友人等のお名前を見つけることができると思います。
 筆者も出席していましたが、今、見れば懐かしい氏名が沢山あり、当時を思い出します。
 北海道新聞では、この「囲む会」を報じる中で、「座談会」の様子について、次の記事を掲載しました。
==…また、出席者の間からは「爆発後の農民の歴史を主体に続編を書いてほしい」という声も多く、北海道新聞を代表して出席した建部直文取締役編集局長は「日曜版の小説は大好評だった。読者の多くは続編を望んでおりぜひ――」と注文、三浦さんもうなずいていた。…==
 この時の意見の影響の有無は不明ですが、この後同紙日曜版に、「続 泥流地帯」が連載されたことはご存じのとおりです。


◆ 三浦夫妻から「野尻巳知雄氏」に礼状

 野尻氏は、役場広報公聴係長として三浦夫妻の取材に協力するなど、上富良野の窓口的役割にありましたが、一九七六(昭和五一)年四月一日付で役場企画課から教育委員会社会教育係長に異動になり、奇遇なことに異動先においても、この「三浦綾子さんを囲む会」の事務局を担いました。
 お世話になったとして、野尻氏に次の礼状が届きました。
一九七七(昭和五二)年七月二〇日付礼状

 この度は、本当にお世話になりました。
 すばらしい、すばらしい出版記念会を持って頂きましたことを、何んとお礼申し上げてよろしいのか、言葉がございません。
 お一人お一人のご真実を思い起こし、感謝しております。
 遅くなりましたが、足りない分として色紙お送り申し上げました。野尻様あての一枚お取りください。誠に拙い字でおはずかしいですが、感謝のしるしとしてお納めくださればうれしうございます。
 それから誠にお手数とは存じますが、祝賀会に出席して下さいました方達の名簿がございましたら、お送りいただきたいのですが、お礼状を差しあげたく思いますので、よろしくおねがい申しあげます。
 とりあえず、お礼とおねがいまで。
 一層のご活躍を祈りあげつつ。  三浦 光世・綾子
掲載省略:写真 野尻氏に届いた直筆礼状

  六、「泥流地帯」に実名登場の上富良野の人々
◆ 『和田町長』(和田松ヱ門氏)

 第六代の上富良野町長(昭和四六年八月〜昭和五四年八月まで三期)で、短歌・文筆に優れて「文人町長」ともいわれた。青年時代は吉田貞次郎氏に私淑し、そして生涯の恩師として仰ぎ人生を過ごしました。
 吉田貞次郎氏について、和田松ヱ門氏は次の出版物に心情を切々と述べられているので一読をお勧めします。

 『かみふ物語』(昭和五四年一二月発行)
   ○ 十勝岳爆発災害と復興反対
   ○ 吉田貞次郎さんの思い出
 『郷土をさぐる 第二号』(昭和五八年一二月発行)
   ○ 吉田貞次郎先生を偲ぶ

 上富良野町文化連盟の創立に心血を注ぎ、初代会長(昭和四〇年一〇月)となり、今日の基礎を作りました。
 歌人として、昭和二〇年に「噴煙短歌会」を創立し、上富良野町役場勤務の土橋明次氏(三浦綾子著「銃口」のモデルの一人)のガリ版印刷で歌集「噴煙」の発行を続けました。
 和田松ヱ門氏は、歌人として「耕人(こうじん)」と号し、歌集は「噴煙絶えず」(昭和五一二年発行)・「富良野平原」(昭和六二年発行)を自主出版しています。
 歌碑は、自宅前に昭和五二年一〇月二四日に建立され、次の短歌が刻まれています。

  蒼穹(そうきゅう)に 孤(こ)の夢描き 七十年
     滾(たぎ)るものあり 十勝火の岳
         ― 耕人 ―

 和田松ヱ門氏は、生前に日記を書かれると共に、膨大な各種資料を遺されていました。
 それを遺族の和田昭彦氏を中心に、「和田松ヱ門回顧録」として二〇一四(平成二六)年七月二六日に編集発刊されました。その頁数は六九三を数えています。図書館「ふれんど」に収蔵されています。
 町長に初当選後の町助役(現在の副町長)選任に有力町議の動きで、二転三転の動静が記されているなど、町政の裏面史的な貴重な資料でもあります。

◆ 『清野ていさん』

 十勝岳爆発災害復興の父と言われた「吉田貞次郎村長」の二女で清野 達氏に嫁ぎました。清野氏は陸軍少佐で終戦を迎えました。
 尋常小学校二年の時に爆発泥流を経験し、災害・復興の語り部として長く活動されました。三浦夫妻の取材に大変協力されました。
 また、次の寄稿文が遺されています。

 『郷土をさぐる 第二〇号』(平成一五年四月発行)
   ○ 離れがたき我がふるさと
     「父 吉田貞次郎の思い出」
 『かみふらの女性史』(平成一〇年三月発刊)
   ○ 「母なる大地に生きて」

◆ 『安井弥生さん』

 吉田貞次郎村長の三女で安井吉典氏に嫁ぎました。安井吉典氏は衆議院議員となり、任期の最後は「衆議院副議長」を務めました。
 弥生さんは、夫吉典氏が「冬の日 愛すべし」とした著作の中で、「私もひとこと」として次のように記している。
==副議長在職中と引退した時の二度、同伴で、天皇皇后両陛下より赤坂御所で夕食の御馳走を頂きました。==
 副議長の時、天皇陛下より弥生さんに、「お父さんは十勝岳爆発災害復興に大変ご苦労されたのですね」と労いのお言葉をいただき、感激されたと語っておられます。
 弥生さんも、姉の清野ていさんと共に寄稿されました。

 『郷土をさぐる 第二〇号』(平成一五年四月発行)
   ○「泥流地帯」と―父のこと―

◆ 弥生さんの夫「安井吉典氏」のエッセイ

 安井吉典氏が自著「天使のトランペット」の中に『三浦綾子さんと私』として、三浦綾子さんの兄について記していますので掲載します。

 『天使のトランペット』 安井吉典著
     (二〇〇二(平成二)年六月二五日発刊)
==私は三浦綾子記念文学館を訪れると、先ず三浦さんの大きな写真に敬意を表したあと、三浦さんの実家・堀田家の家族がそろった写真のところへ必ず足を運ぶ。若き日の三浦さんと共に実兄堀田都志夫が写っているのである。
 堀田都志夫君は、旧制旭川中学校で私と同期の第二十六期(昭和八年卒)生であった。確か卒業後は当時の国鉄に就職したと記憶しているが。若くして逝った。
 三浦さんが昭和三十九年「氷点」で朝日新聞の一千万円懸賞小説に入選したとき、同期会で「あれは堀田都志夫君の妹さんだ」と皆で話し合ったことを思い出す。
 私の妻の弥生は吉田貞次郎村長の三女で、今も上富良野に住む姉のていと共に三浦さんの取材活動に協力した。
 大正十五年の十勝岳大爆発の時、姉ていは小学校二年生、弥生は五歳だったが、この二人も小説に実名登場している。
 「続 泥流地帯」の出版早々に本を送っていただき、その本の表紙裏に、私と弥生の連名に宛てた三浦さんの次のサインがあり、私達にとって大事な宝物となった。

  謹啓 本当にありがとうございました。
   吉田村長御一家様のすばらしさを思います
      一九七九・五・一 三浦綾子 ==
以下次号に続く
筆者からのお知らせ
 文中で、「郷土をさぐる誌」「かみふ物語」「かみふらの女性史」に記事掲載の案内付記が、ところどころにありますが、これらは「郷土をさぐる会ホームページ」に掲載していますので、題名で検索することによりお読みいただけます。本誌末にも検索方法お知らせしてありますのでご覧ください。
  《郷土をさぐる編集委員会から》

 本稿「『三浦綾子さん』と上富良野の関わり」は、頭初一五項目を一括掲載する予定でしたが、本誌の総頁数の関係(第四〇号記念として「郷土をさぐる会のあゆみ」を特集掲載)から、第六項までを「その一」として本号第四〇号に掲載し、次に示す「第七項〜一五項」及び「取材協力者・参考文献」については「その二」として、左記の内容で、次号第四一号に掲載することにしました。
七、
八、
九、
一〇、
一一、
一二、
一三、
一四、
一五、
小説「泥流地帯」文学碑の建立への道程
三浦夫妻は何時「泥流地帯」文学碑へ
三浦綾子さんから「上富良野への寄稿文」
三浦夫妻「結婚三〇周年のある日」録音テープ
三浦綾子さんの北海道内に建立の文学碑
短歌を刻む「三浦光世・綾子」のお墓
和寒町塩狩峠に建つ「三浦夫妻の歌碑」
三浦夫妻と旭川工業高校教師との繋がり
「十勝岳噴火」の地域の伝承活動
・取材協力者
・参考文献


機関誌      郷土をさぐる(第40号)
2023年3月31日印刷      2023年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀