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上富良野神社のまつり

三 原 康 敬  昭和二十四年九月二十八日生(七十二歳)

  まつりの写真
 我が家に上富良野神社の祭典行事を写した写真が残されている。若い日の父親と近所のおじさん達が酒樽を神輿に仕立てて練り歩いているのが写っていて、スナップ写真のほかに集合写真もあり、昭和二十五年と町制が施行された昭和二十六年の『樽みこし』の参加者が写っている。
 昭和二十五年撮影の写真は、『上富良野神社平和祭初御輿奉納記念昭和二十五年八月一日』というキャプション(写真説明文字)が書かれている。御旅所の記念撮影で、背景の建物が現在の「ふじスーパー」のところにあった「伊藤木工場」の建物である記憶があり、本町(もとまち)に住む平倉さんに尋ねて確かめた結果、平倉さんの祖母伊藤リキさん(伊藤木工場創立者伊藤七郎右ヱ門夫人)と三代目弘夫さん、平倉さん本人が写っていて、「伊藤木工場」の工場と社屋の事務所前の御旅所で撮影されたことが確かめられた。
 書かれている写真説明文字から、昭和二十五年の祭典は「平和祭」という文字が含まれた名称で行われた。戦後、進駐軍の占領下であることから、この名称になったものと考えられる。
 このことは推察するに「神道指令」(一九四五・一二・一五GHQ発令の国家神道廃止、政治と宗教の分離、神社神道の民間宗教の存続を指示。一九五二年、講和条約発効で効力がなくなる。)という時代背景があって、このような名称が使われたものと思われる。占領下における町の祭典に歴史的な配慮が見て取れる貴重な写真でもある。

掲載省略:写真 戦後の復興期、娯楽の空白を埋めるため子供たちと
            鎮守様のお祭りに粋と花を添える一町内の人達
掲載省略:写真 御旅所:伊藤木工場の前で撮影された集合写真
            伊藤さんと一町内有志と子供達
  樽みこしの奉納

 御旅所で撮影された写真説明文字に「初御輿奉納記念」と書かれているが、これは、神社の近所に住む人たちが娯楽の乏しい戦後の時代、祭典を盛り上げようと立ち上がって、現在の子供みこしの原点となる『樽みこし』を作成して神社に奉納したので、このように説明が書かれたのである。
 昭和二十五年集合写真(伊藤木工場の前で撮影)で一町内有志の氏名として、三好 豊、薮下鉄次郎、山岡 寛、小玉信勝三島五二次(いふじ)、三原健吾が分かる。紋付羽織袴の差配と他の五名については不明。
 当時の祭典関係資料があるか上富良野神社宮司に問い合わせたところ、保存資料はほとんど皆無であるとのことであった。
 そこで、郷土をさぐる会に郷土史料として託された、故北野哲二氏が保存していた『上富良野新聞』の記事を調べてみたところ、昭和二十七年八月一日発行(第六十八号)の二面に、大見出しで「今日祭典の幕開くー二日に亘り多彩な催し展開」とあり、記事の内容には『みこし渡御』の順路と余興の催しが書かれている。その下に小見出し「樽みこし出動」の記事があり、新調されたとある。

掲載省略:新聞記事 樽みこしが一町内有志の奉納であることが書かれた上富良野新聞記事
列後部に樽みこしが参加する。一町内有志によって新調された樽みこしは同町内の児童五十名、更に市街各町内から五十名の参加を求めて総勢百名の可愛らしいかつぎ手が出動して景気を添えることになった。
と書かれた記事で、新調の意味は昭和二十五年に一町内有志の奉納した樽みこしの酒樽は「北の誉」と書かれた酒樽で、急造した一時しのぎのような簡易的なものであった。翌二十六年八月一日、町制施行祝賀行事に合わせて行われた神社の祭典にも樽みこしの奉納が行われ、上富良野駅前で撮影された集合写真には「北の誉」と書かれた酒樽の樽みこしが写っている。
 昭和二十五年と翌二十六年の「北の誉」の簡易的な初代樽みこしが劣化したことから、昭和二十七年に新調された二代目の樽みこし「和が友」と年を分けて二基の奉納があったことが分かる。
 また、『上富良野町史(昭和四十二年八月十五日発行)』第五部「教育・宗教」第二編「宗教」の四一六ページに、「御神輿その他」があり、
祭典に祭らしいおもむきを添える御神輿は第一町内の樽神輿が迎え水となり昭和二十七年七月、時の総代を中心とする御神輿献納奉賛会の活動によって御神輿一基三十五万円、渡御に要する附属品一式二十五万円、地元調達附属品七万円、其他十万円、計七十万円で出来上がり、昭和三十五年一月の御神輿車の奉納と相まって今日に至っている。
と書かれていて、『御神輿』の奉納は一町内有志の「樽みこし」から始まったことは確かである。
 本格的な『宮神輿』については後で触れるが、町史には、昭和二十七年に新調献納された、『御神輿(宮神輿)』の献納に至る経緯が書かれている。

掲載省略:写真 昭和26年8月1日 上富良野駅前に集合した一町内の人達
       町制施行に合わせて行われた上富良野神社例大祭の御神輿(樽みこし)奉納奉仕者と稚児行列の参列者
  町制施行祝賀と一町内の樽みこし奉納

 昭和二十六年八月一日の「樽みこし」集合写真の購入希望者を取りまとめた用紙に、一町内の人々の名前が残っていたので氏名を記す。
 この写真から、男児の御輿担ぎ手に、女児の稚児行列も加わったことがわかる。
御輿かつぎ (男児)  三十六名
稚児     (女児)    十七名
一町内の人達(奉仕者)
  市街一の一町内会
    岩田賀平、薮下鉄次郎、佐藤八千代、三島五二次、山岡 寛、三好 豊、赤間一善、
    三原健吾、桑田、村上、福地、鈴木、丸藤、橋本、田中、千葉、
    井内、西山、神林、河内、宮下、武山
  市街一の四町内会
    泉川、岡本、久保、平田、佐野、後藤、大屋
  御神輿の献納

 「樽みこし」の起源について調べていると、昭和二十七年に上富良野神社の『御神輿(宮神輿)』が献納された経緯を町史により確かめることができた。
 故清水一郎さんが郷土をさぐる誌第九号に「上富良野神社の由来」を書いているが、御輿についてはふれていないので故北野哲二氏が保存していた『上富良野新聞』の詳細な記事と『上富良野町史』に書かれた内容を基にまとめてみた。
 昭和二十五年八月一日の例大祭については『上富良野新聞』が昭和二十五年九月一日創刊なので、一町内有志の奉納した「樽みこし」の新聞記事は見あたらない。『上富良野町史』とその後の『上富良野新聞』に書かれた記述から「樽みこし」奉納と『御神輿(宮神輿)』献納の経過を確かめることができた。
 『御神輿(宮神輿)』献納について『上富良野町史』の記述は要約されていて、詳しく知ることが出来ないため、詳細を極めている『上富良野新聞』の記事を引用する。

 上富良野新聞(昭和二十六年十二月十一日発行)の記事に、『御輿献納運動起こる、沿線唯一の御輿のない町、来年祭迄にぜひ実現したい』という見出しで、八月一日の町制施行を機に、一部で御神輿の献納話が持ち上がり、二十七年八月一日の例大祭に献納する計画が出来上がったことが書かれている。
 昭和二十七年四月一日の記事には、『おみこし順調』の見出しで、篤志寄附が集まったこと、中富良野町の寺院に内地の神仏具商が来道中で、製作の下準備の交渉を行っていることが書かれている。
 上富良野新聞(昭和二十七年五月一日発行)には、途中経過の記事『【みこし】発注す、六月三十日到着予定』という見出しで、『御神輿(宮神輿)』の具体的な内容が書かれている。原文のまま引用する。
 「既報の通り折よく来道中の金沢市御神輿商と慎重折衝の末正式注文を発し契約書を取り交わした。駅着で三十六万円、六月三十日が受取期限となっており、それ迄に諸附属品の準備も整えられる予定である。」契約書による仕様概要は次の通り。

1、大棒二本小口金具打黒塗、蝋色仕上
2、台総金具天揚黒塗
3、鳥居、玉垣、高欄、段等朱塗金具打
4、縁側黒塗面金具打
5、胴廻り黒塗地板金ぱく押金具打
6、胴廻りの彫刻並に江梁木鼻金ぱく押
7、組物三重組金ぱく押
8、屋根の面垂木地抜、面棟金ぱく押金具打
9、垂木、隅木、けた輪垂木等朱塗、木口金具打
10、屋根上総金具打
 右に附属するもの、大鳥一羽、小鳥四羽、鈴縄四本、鈴十二ケ、鏡四面等すべて最高仕上、胴幅一尺七寸四分、高さ六尺五寸、総重量は十五貫程ある」。
掲載省略:写真 改修を終えて令和2年例大祭にお披露目された宮神輿

 このように書かれていて、奉納された『御神輿(宮神輿)』の構造を知ることができる。
 上富良野新聞(昭和二十七年七月十一日発行)には、『献納式十三日か、待望のみこし到着す』の見出しで、上富良野駅に到着後、駅前の山本木工場倉庫に運んで組み立てを行い、十三日、トラックで市街を一巡し神社に到着後、献納式を挙行することが書かれている。装束と附属品はすでに到着済みで、八月一日の例大祭は開村以来、初のみこし渡御で華やかに開催されることになり、みこしの担ぎ手を連合青年団の成年に達した六十余名に頼み、以後、毎年この方法でみこし渡御の実施を決めたことが書かれている。
 上富良野新聞(昭和二十七年七月十一日発行)には、『みこし献納終了』の見出しで、十三日の献納式は、『御神輿(宮神輿)』をトラックに乗せ、雅楽の伴奏で賑々しく街角の要所々々でお披露目を行い、神社に到着して、献納式を終了したこと。『豪華な祭典行列、古式豊かに市街を行進』の見出しで、初のみこし渡御の行列編成順序が書かれている。
 昭和二十七年八月一日の町内一巡みこし渡御行列記事を原文のまま引用する。
「警察の側車、オートバイ先導…先太鼓(白丁三人)…行列係長…御役青年隊長(側車)…大榊(白丁四人)…社名旗(白丁一人)…猿田彦命…しし舞…前駆(神職騎馬)…大榊(白丁四人)…紅白旗(白丁二人)…前衛護衛係(祭典委員長騎馬、馬丁一名)
…幣馬(馬丁一名)…四神旗…この次にみこしとその両脇に賽物箱がつく、続いて…宮司(騎馬)…錦旗(白丁二人)…後衛神職(騎馬、馬丁一名)…祭鉾(白丁二人)…後衛護衛係(筆頭氏子総代騎馬、馬丁一名)…五色旗(白丁五名)…後駆神職(騎馬、馬丁一名)…一般供奉員…樽みこし、出し物等が参加すればこの後に着く。沿線神社から六名の神職が参加し、青年奉仕隊員六十名、出動馬九頭という賑やかな行列である」。
掲載省略:写真 昭和40年代、南一条通りを行く例大祭の
          大榊・四神旗・宮神輿(昭和35年新調の御輿車に積載)の行列

 このような行列であることが分かる。
 上富良野新聞(昭和三十二年八月一日発行)の記事では、『今日、祭礼』の見出しで、御旅所と行列順序について書かれており、「本年は、みこしはトラックを使用」という本文記事があり、昭和三十二年のみこし渡御行列から、『御神輿(宮神輿)』は担ぎ神輿の巡行から、トラックに積載して巡行する渡御の行列になったことが分かる。
  御輿車の奉納

 『御神輿(宮神輿)』をトラックに積載して巡行する渡御は厳(おごそ)かな隊形を整えるため、『御神輿(宮神輿)』を積載する『御輿車』の新調が決まり、昭和三十五年一月、『御輿車』が奉納になったことが上富良野町史の「御神輿その他」について書かれている文章から知ることができる。

掲載省略:写真 神馬の引く御輿車(昭和35年奉納)で木津建設前を巡行する例大祭の宮神輿

 上富良野町史には神社の境内地に奉納された社標、鳥居、狛犬、石燈籠などについて書かれており、郷土をさぐる会の現中村会長が調べている「石碑が語る上富良野の歴史」にも網羅されているので、それ以外の神社の歴史にかかわる行事と奉納を調べてみた。
 昭和三十四年、厄年を迎えた大正七年生まれの人達が社殿に供える「御神鏡」と「御幣」の奉納を行った写真が残されている。ふれ太鼓を先頭に奉納者の氏名が書かれた額と奉納品を担いだ「天馬会」の一行が、舗装されていない砂利道の町道北二十五号道路の中学校校舎前を通過している奉納披露の行列を写した写真である。
 この時、奉納された「御神鏡」と「御幣」は、昭和六十三年七月三十日、遷座祭が行われた新社殿の完成に伴い、新たに新調奉納されたので、「御神鏡」は新社殿に保存されているが「御幣」は、経年劣化により著しい破損があり、新調を機に宮司により丁重に処分された。「御神鏡」台座には奉納者の氏名が書かれており、宮司が記録として保存している。
 四十二歳の厄年を迎えた人たちが神社に厄払いのため奉納を行う慣習が始まり。以後、慣例化してゆく先駆けとなった。

掲載省略:写真 「御神鏡」と「御幣」
掲載省略:写真 昭和34年7月22日、厄年会『天馬会』の奉納披露行列。
         飾台に乗せられた「御神鏡」と「御幣」が「白丁」と呼ばれる装束に身を包んだ会員に担がれている。
         (歩くのは町道北25号道路で、後方は当時の上富良野中学校正面玄関)
  獅子舞の奉納
 上富良野神社例大祭の神幸行列に勇壮な獅子舞が斎行していた。「上川神社獅子舞部」の郷土芸能「旭川獅子舞」という、富山県黒部市釈迦堂地区に獅子舞の起源をもつ団体に奉納を依頼していた。刀を使う舞(演目名・取り扱い)、傘を使う舞(演目名・車返り)の勇壮な演目が御旅所ごとに演じられていた。
 上富良野神社の生出宮司に聞くと、激しい演技であることから、負傷と伝承者の高齢化により一時休止になったので上富良野神社例大祭の斎行が見送られることとなり現在に至っていると話された。
 「上川神社獅子舞部」の郷土芸能「旭川獅子舞」の由来と沿革について、旭川市のホームページには、市教委社会教育部文化振興課が調べた結果について公表されている。
 それによると富山県で行われていた獅子舞に由来するもので、富山県出身者の青年により東旭川村公有地の東旭川組と永山村牛朱別の永山組の二班により旭川市内で伝承されることになった。
 現在は東旭川村公有地の獅子舞が上川神社獅子舞部として伝承している。由来地の富山県で調査を行った結果、演目は「ボウホドリ」、「猩々」、「唐傘」などがあり、荷車の荷台を屋形船に仕立て、荷台の上で舞うものであった。調査の結果について、獅子舞の伝承と由来がこのように公開されている。

掲載省略:写真2葉 昭和40年代、御旅所で傘を使う舞の演目・車返りに見入る人達
          (右:木津建設前 左:長藤時計店前)
  徳神会と担ぎ神輿の復活

 「樽みこし」の起源から書き始めて、上富良野神社に関する歴史との関連について調べたところ、昭和の終わりに担ぎ神輿(『御神輿(宮神輿)』)が復活したことも調べて書くように編集会議で勧められた。
 宮司に問い合わせたところ、復活の経緯は、昭和六十年の例大祭に神輿を担ぎたいと祭りの期日も迫った二週間前に、「徳神会」の会長から申し出があり。すでに神輿渡御の巡行経路と隊列の道路使用許可を受けていることから実現は難しかった。
 例大祭行事は計画に基づき進めていたが、突然、難問が持ち上がり、変更を余儀なくされ、申請書類の作り直し、道路使用許可の変更申請と役員への説明などに忙しい日々となったことを話された。関係機関の理解もあり、何とか許可を受けて担ぎ神輿の渡御が実現した苦労が隠されていた。昭和三十二年に、『御神輿(宮神輿)』が担ぎ神輿からトラックに積載して巡行する渡御の行列になって以来、「徳神会」の担ぎ神輿巡行で復活を果たした。

掲載省略:写真 復活した担ぎ神輿。大通りを練り歩く『御神輿(宮神輿)』(昭和60年8月1日フクヤ薬局前)
  御造営竣工奉祝例大祭

 昭和六十三年七月二十日発行、上富良野神社社報「ひばりが丘」(祭典号外)に上富良野神社例大祭の斎行を昭和六十年、天皇陛下御在位六十年奉祝の記念行事として三か年計画で行われた新社殿が竣工。
 七月三十日、新社殿への御霊移し「遷座祭」を行い、七月三十一日から八月二日まで上富良野神社例大祭を行う「宮司のあいさつ」と御造営奉賛会長の宇佐見利治氏が例大祭の祭典委員長として奉仕する「祭典委員長のあいさつ」が掲載され、町民氏子の協力で造営事業が終了した感謝と、あわせて新社殿の最初の例大祭が斎行される御礼の挨拶が述べられている。
 御神幸式の巡路図に午後、佐川建設前から福祉センターまで、大通りを徳神会がかつぎ神輿で練り歩く注釈が書かれている。
 神社祭典役員欄には、「俵みこし」代表の名前があり。これによって、新社殿竣工を祝う町の青少年団体協議会の総勢二十名による俵みこし奉納が行われたことを知ることができる。

掲載省略:写真 若い力、上富良野町の未来を担う若者による青少年団体協議会の『俵みこし奉納』巡行(昭和63年8月1日)
  令和四年の神輿渡御

 令和四年七月十五日発行上富良野神社社報「ひばりが丘」に令和四年度上富良野神社例大祭の宮司挨拶があり。令和四年(二〇二二年)は上富良野神社が創祀されて百二十年となるので、令和二年に修復された『御神輿(宮神輿)』のお披露目と上富良野神社創祀百二十年奉祝を合わせて。すべての住民会を巡行する御神幸式(おみこしさまの渡御)を行うことが書かれている。
 令和四年八月一日の神輿渡御巡行については、次のように記載されている。
 神社発、九時。→清富会館→日新寿の家→草分防災センター→里仁会館→静修会館→江幌寿の家→江花会館→島津ふれあいセンター→公民館(西富)→役場前(大町)→神社→宮町会館→住吉集会所→JAふらの駐車場→セントラルプラザ→本町コミュニティ広場→日東会館→旭子供広場→東明会館→白樺公園(緑町・南町)→旭野会館→富原会館→東中会館→神社帰着、十六時三十八分。このような斎行の行程である。

参考図書

『上富良野町史』昭和四十二年八月十五日発行
『上富良野百年史』平成十年八月発行

参考資料

旭川市教育委員会社会教育部文化振興課『郷土芸能旭川獅子舞』
令和四年七月十五日発行上富良野神社社報「ひばりが丘」
上富良野新聞(昭和二十六年十二月十一日発行)
上富良野新聞(昭和二十七年五月一日発行)
上富良野新聞(昭和二十七年七月十一日発行)
上富良野新聞(昭和二十七年八月一日発行第六八号)
上富良野新聞(昭和三十二年八月一日発行)

機関誌      郷土をさぐる(第40号)
2023年3月31日印刷      2023年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀