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一五歳一ヶ月で戦死された『寺上隆敬君』を偲ぶ

上富良野町本町五丁目十四ノ一 中 村 有 秀
昭和十二年十一月二十八日生 (八十五歳)

文中縦書き数字は、算用数字を単純に漢数字に置き換える表記。

 一、生年月日不詳者から最年少戦死者が判る
 郷土をさぐる誌第三九号に、上富良野町出身者で第二次世界大戦における最年少戦死者は「土井 繁氏」で、戦死時の年齢を一七歳と記載しました。
 戦死者の名簿の中で、生年月日不詳と記録されている「寺上隆敬(たかひろ)君」についてご遺族関係の取材で、生年月日は昭和五年六月一八日生れで、戦死は昭和二〇年七月一四日なので、「一五歳一ヶ月」での戦死であったことが判明しました。「土井 繁氏」より一年七ヶ月も早いので驚くと共に、第三九号の一部訂正と「寺上隆敬君」の数奇な運命について記します。
 尚、郷土をさぐる誌に記載の「上富良野村出身少年兵戦死者一覧」を下表のとおりお詫びして訂正します。

上富良野村出身 少年兵戦死者一覧
氏  名 生年月日 戦死年月日 享年 戦没地
寺上 隆敬 昭5年6月18日 昭20年7月14日 15歳1月 函館沖
藤原 光浩 昭3年3月15日 昭18年8月31日 15歳5月 南方海上 国光丸
土井  繁 昭4年3月15日 昭20年11月29日 16歳8月 トラック島
川上  享 昭3年2月20日 昭20年6月18日 17歳4月 樺太沖
北川  享 昭2年1月 2日 昭20年1月24日 18歳 徐州陸軍病院
高田  弘 昭2年6月9日 昭20年12月2日 18歳6月 比島 南西海上

 二、海友会記念誌で遺族が語る

 第二次世界大戦時に、海軍に所属した上富良野出身者で、帰還された人々により上富良野海友会が組織された。
 上富良野海友会は『錨(いかり)と翼(つばさ)』を標題にして、次の様に記念誌が二冊発行された。
 @「皆さんの略歴と感想文」〜復員兵六二名
         昭和五〇年八月一五日発行
 A「三三年忌の回想の誌」〜戦没者遺族三六名
         昭和五二年八月一五日発行
 「三三年忌の回想の誌」の中で、遺族として叔父の伊藤喜三郎氏が『寺上隆敬君』について次の様に寄稿されている。
『寺上隆敬の父(與一郎)は、隆敬が二年生の時の昭和一二年八月四日に享年三六歳で逝去された。
 母(ひな)は、その四年後の昭和一六年一〇月三〇日に逝去したので、私が代わって面倒を見ていた。
 高等科を卒業後、海員養成所の課程を終了し、一度家に帰ってきたが「これから輸送船に乗船するが船名は秘密で言えないが…」と、函館沖にて昭和二〇年七月一四日に米軍(アメリカ軍。以降「米軍」で統一)の来襲を受け船と共に戦死した』
と記されていて、軍歴は次のようになっている。
  「錨と翼」の寺上隆敬君の軍歴等には

  ●昭和一九年徴用  軍属
  ●小樽海運局海員養成所を経て、函館沖にて輸送船に乗務中に米軍の来襲を受け戦死。

 ※「軍属」とは〜軍人ではなく軍務に服する者

掲載省略:画像 上富良野海友会記念誌 『錨(いかり)と翼(つばさ)』 表紙
 三、寺上與一郎家と伊藤喜三郎家の関係

 前項二で、伊藤喜三郎氏が「寺上隆敬」の面倒を見ていたとあるが、その関係には次の事情があった。
 寺上與一郎氏の妻「ひな」さんと伊藤喜三郎氏の妻「はつさん」は兄弟姉妹が多い姉妹で、「ひな」さんは長姉で「はつ」さんは末妹ということから年が大きく離れていたが、寺上與一郎氏と伊藤喜三郎氏は義兄弟の仲にあった。
 今回の調査取材には、寺上家の長女「陽子」さんと伊藤家の長女「紀子」さんのご協力を頂き、心より厚くお礼申し上げます。
 両家の系図は次のとおり。

 父 寺 上 與一郎   
昭和12年08月04日没36歳

 母     ひ な   
昭和16年10月30日没37歳

┐┌
││
├┤
┘│
  ├
  │
  昭和05年06月18日生れ
長男 寺 上 隆 敬
  昭和20年07月14日没

  昭和11年01月25日生れ
長女 寺 上 陽 子
    ( 現姓 軽部 )

叔父 伊 藤 喜三郎   
平成02年05月11日没88歳

叔母     は つ   
昭和18年09月02日没26歳

┐┌
││
├┤
┘│
  昭和15年07月29日生れ
長女 伊 藤 紀 子
    ( 現姓  谷 )
 寺上家は昭和初期に新篠津村から上富良野村に移住され、市街五町内(現在の中町二丁目)に居住され「寺上文房具店」を営む。
 郷土をさぐる会発行の「昭和一一年頃の町並みと地区の家々」の地図に、「八百屋 杉本塚太郎」(現在の杉本生花店)とあり、その隣に「文房具屋 寺上」と記載されている。
 寺上文房具店を営む父「與一郎」氏、母「ひな」さんの長男として昭和五年六月一八日に生れ、「隆敬」と命名された。
 隆敬君の妹「陽子」さんは、寺上家の長女として昭和一二年一月二五日に生まれる。
 「寺上文房具店」は、寺上與一郎夫妻が昭和一一年と昭和一六年に相次いで逝去され、長男「隆敬君」は小学生であったので、伊藤喜三郎氏が文房具店を引き継がれ、伊藤文具店として昭和三六年頃まで営んでいた。


 四、一四歳から入所できる「海員養成所」とは

 「寺上隆敬君」が入所した「海員養成所」について、歴史的な時代背景と法令等の動きを記す。
 昭和一二年の日華事変の発生等により、船舶は世界的に不足となった。政府は昭和一二年度から船舶の建造に対する補助金交付や国家総動員政策が打ち出され、「船員養成教育」についても整備拡充策がとられた。
 特に普通船員の養成は、昭和一四年七月八日に「逓信省海員養成所」の開設が公布され、次表の海員養成所の開設が告示された。
 小樽海員養成所は、岡山県の児島海員養成所と共に一番早い開設であった。
 海員養成所終業後の受け入れ体制として、「船員徴用令」が昭和一五年一〇月二一日に公布された。

養成所名 道府県 告示年月日
1 児島海員養成所 岡山県 昭和14年 7月10日
2 小樽海員養成所 北海道 昭和14年 9月22日
3 唐津海員養成所 佐賀県 昭和15年 1月30日
4 宮古海員養成所 岩手県 昭和15年 5月22日
5 宮崎海員養成所 宮崎県 昭和17年12月 7日
6 七尾海員養成所 石川県 昭和17年12月12日
7 岸和田海員養成所 大阪府 昭和20年 3月31日
8 門司海員養成所 福岡県 昭和20年 3月31日
9 高浜海員養成所 愛知県 昭和20年 3月31日

 昭和一四年七月一〇日付、逓信大臣 田辺治通の通定による「海員養成所規則」があり、この要点は次のとおり。
船舶の運航及び機関運転従事者の一般知識と技能を授けると共に心身の鍛錬。
学科は「航海科と機関科」。
修業期間は一年。
入所する者は一四歳(機関科は一五歳)以上一八歳未満の男子で、高等小学校を卒業した者、または所長が同等以上の学力があると認めた者。
授業料は徴収せず、修業中は手当の支給と物品の給付または貸与する。
本所修業後、二年間は船舶に勤務を義務とする。
船舶所有者の委託による入所を認める
 太平洋戦争への突入と共に、海運はその超重要性から即応体制の確立が必要とし、政府は昭和一六年八月一九日に「戦時海運管理要綱」を定め、更に昭和一七年三月二四日に「戦時海運管理令」を公布した。それは、船舶及び船員を統合的な国家管理によって、全船舶を一元的に統制し、輸送、配船することだった。
 本令に基づき、昭和一八年四月一日に「特殊法人 船舶運営会」が発足し、ここに海運は他産業に類例のない国家管理体制に入った。
 「戦時海運管理令」の条文中に、船員の徴用関係について次の条文があったので特記する。
第一九条  本令により徴用する者は、船舶運営会の運航する船舶に配置せらるものとす。
第二一条  被徴用船員に対する給料・手当・賞与その他の給与は命令の定むる所により船舶運営会が支給するものとする。
 戦局の進展と被害船舶の増加、船員不足のため、昭和二〇年一月二〇日に船員徴用、船員使用等に関する規定を統合した「船員動員令」が公布され、船員動員及びその充実を目的としたものであるが、戦局の悪化がうかがえる。
 五、「小樽海員養成所」の沿革

●昭和14年09月22日 開設告示される。
●昭和14年10月28日 開所式及び入学式を小樽市役所議事堂にて挙行。入学者は、航海科・機械科の各三〇名。
―「寺上隆敬君」は、昭和一八年四月に航海科に入所し、昭和一九年三月に修業を終え「船舶運営会」所属の輸送貨物船に乗船した―
●昭和20年08月28日 終戦により文部省の指示で授業停止。
●昭和20年10月10日 米軍により校舎接収。
●昭和21年04月01日 小学校に間借りし、別科として授業再開。
●昭和21年05月18日 米軍から接収校舎返還。
●昭和27年08月01日 「小樽海員学校」に変更。
●平成13年04月01日 独立法人「国立小樽海上技術学校」となる。
―修業年限 三年 学科は本科 定員三〇名―
●令和03年04月01日 独立法人「国立小樽海上技術短期大学」を併設開校。

 昭和一四(一九三九)年の「小樽海員養成所」の開設から、八四年の歴史を刻んできた。
 太平洋戦争で、幾多の若き養成所出身の船員を送り、多数の戦死・戦傷者を出してしまった。
 祖国日本のため、今日の平和に繋がる尊い若き生命を捧げられた戦没者の御霊に、謹んで哀悼の誠を捧げご冥福をお祈り申し上げます。
 六、小樽海員養成所に入所、そして船員に

 寺上隆敬君、陽子さんの兄妹は、両親を早くに亡くされた。
 母の妹「伊藤はつ」さんを母親代わりに、頼りにして生活していたが、昭和一八年九月に二六歳で逝去された。
 寺上隆敬君は、寺上家を背負い六歳下の妹「陽子」さんを思い、早く自立しなければとの一途の強い決意で、一四歳になる昭和一八年四月に「小樽海員養成所航海科」に入所した。その理由は次に考えられる。
 戦局は厳しくなり、船員不足等は緊急課題で、これに応じるのが国民の義務であると判断すると共に、養成所は授業料不要、手当の支給と物品の給付・貸与があり、叔父にこれ以上の負担をかけたくないとの思いもあったと思われる。
 昭和一九年三月、小樽海員養成所の一年間を修了、「船舶運営会」の管理下にあった民間の徴用船の乗組員として徴用され軍属となった。
 七、米軍の北海道空襲について
 北海道空襲とは、昭和二〇(一九四五)年七月一四日と一五日の二日間、米軍の艦載機が北海道各地を空襲した出来事だ。
 太平洋上の一三隻の大型空母・軽空母から発進した艦載機約二千機が、道内各々の目標に向かって波状的に攻撃を開始した。
 道内で空襲を受けた市町村は七九を数えた。主に太平洋沿岸であったが、日本海、オホーツク海側、また内陸部でも被害があった。檜山・宗谷管内だけが空襲されていない。
 米軍の空襲を受けた北海道内の市町村及び死亡者数は表のとおりである。
北海道空襲 死亡者数  (単位:人)
 [渡 島]   [胆 振]   [後 志]  [石狩/空知] [留萌/上川]  [十 勝] 
松前  15
福島  21
知内  4
木古内 0
上磯  2
函館 518
戸井  7
椴法華 3
南茅部 6
鹿部  11
森    9
砂原  5
八雲  2
長万部 4
伊達  21
室蘭 480
登別  0
白老  0
苫小牧 9
追分  0
厚真  4
鵡川  0
寿都  16
岩内  6
共和  0
神恵内 0
積丹  13
古平  21
余市  0
小樽  33
札幌  1
千歳  0
江別  4
石狩  13
厚田  11
浜益  0
由仁  0
岩見沢 0
増毛  0
留萌  2
富良野 4
美瑛  0
旭川  2
鷹栖  0
比布  0
広尾  1
大樹  2
更別  0
浦幌  3
豊頃  2
幕別  0
帯広  5
池田  4
音更  3
本別  40
士幌  0
[釧 路]
音別  9
白糠  7
釧路 192
釧路町 8
厚岸  5
浜中  2
阿寒  5
標茶  2
[日 高]
[網 走] えりも 0
様似  1
浦河  5
静内  4
新冠  2
門別  5
[根 室] 網走  12
小清水 2
清里  0
斜里  0
常呂  1
根室 385
別海  1
中標津 3
標津  0
合計:死者
1,958人
 北海道空襲の被害は、七月一四日・一五日の二日間で次のとおりであった。
被害項目 被害数
死 者 1,958人
負傷者 970人
被害戸数 6,680戸
被災人口 33,400人

 青函連絡船沈没による死者や軍徴用による輸送船や軍艦船死傷者等は当時の混乱状況下にあり、特に軍の被害は軍事機密もあって正確な数字を見い出すことは困難であった。
 残された資料から得られた被災状況は、表に示す通りだが、負傷者数はまだ多いといわれる。
 =「富良野町」も空襲を受ける=
 北海道の中心点である内陸部の「富良野町(現富良野市)」までも、米軍機が来襲した。
 富良野が鉄道輸送三路線の要衝であることから、攻撃の的になったのだった。
 この時筆者は小学校二年生で、この恐怖を体験した。空襲警報、低空でのグラマン機による機銃掃射のバリバリバリッの音、防空壕への避難、家財道具は学田一区へ、疎開は学田三区の知人宅にと思い出される。富良野圏域での歴史の実体験として書かせてもらった。
 米軍の富良野空襲を時系列に記しておく。
―昭和二〇(一九四五)年七月一五日―
第一回空襲 午前五時一五分 グラマン
  富良野駅へ機銃掃射
  植竹病院がロケット弾で炎上
八機
二名死亡
一名死亡
第二回空襲 午後〇時二〇分 グラマン
  頭無川右岸の住宅が焼夷弾炎上
  栄町にロケット弾と焼夷弾
  富良野病院付近にロケット弾
  光明寺に焼夷弾
一二機
一名死亡
一〇棟焼失
家屋・樹木被害
屋根被害
第三回空襲 午後四時一五分 グラマン
  西三条南二丁目にロケット弾
四機
住宅二戸炎上
 富良野空襲から一ヶ月後に終戦となった。世界から戦争がなくなる平和を心から願うばかりである。
 八、「寺上隆敬君」が戦死された函館空襲
 昭和二〇年七月一四日の米軍の空襲により、「寺上隆敬君」は徴用輸送船に乗船中の函館沖において、一五歳一ヶ月で戦死された。
 海軍徴用の輸送船であったため、軍事機密としてその状況は公式には明らかにされていない。
 函館市史等文献に残されている記述を引用して、函館空襲の状況を記す。

―函 館 空 襲―
 昭和二〇(一九四五)年七月一四日、グラマン五〇余機が午前一一時頃までの数時間にわたり、波状攻撃を繰り返した。更に午後二時頃、グラマン約三〇機が再び来襲して、函館港内及び市内を爆撃した。
 船舶八五隻が沈没破壊され、民家は一六九棟三八四戸余が全半焼、死者は五一八人とある。
 海上の被害は、青函連絡船八隻が沈没、座礁炎上二隻、損傷二隻、死者行方不明四二五人に上り、青函連絡船は壊滅的な被害を受けた。
 前記で、船舶八五隻が沈没破壊されたと記したが、青函連絡船の被災は一四隻なので、残り七一隻は軍関係船舶と漁船であった。
 この軍関係船舶の中に、「寺上隆敬君」が乗船していた徴用輸送船(船名は不明)があり、函館沖海上で爆襲を受けて沈没し、戦死された。
 戦死者の中には、海軍派遣の警戒隊員、船員養成所出身者及び養成所就学中の生徒がいたと記されている。

―松 前 町 空 襲―
 昭和二〇(一九四五)年七月一四日、松前町市街と松前沖の船舶が、米軍グラマン一五機による二回の空襲を受ける。
 攻撃された船舶は、海軍徴用の輸送船で、応戦しながら海岸に乗り上げようとしたが、沈没三隻、座礁六隻とあり、被災船舶名も記録されている。
 この空襲での死亡者は、その多くは『小樽海員養成所出身の若き少年兵であった』とあり、寺上隆敬君の仲間も乗船していたものと思い、記させてもらった。
 九、「寺上隆敬君」の妹さんが語る

 今回の取材で、妹の「軽部陽子」さん(苫小牧市在住)と何回か会話の機会を得た。
 令和五年で八八歳の米寿を迎えておられるが、元気溌剌(はつらつ)で声が通り、私の質問にも記憶を辿(たど)りながら語っていただいた。
 私が生まれた翌年の昭和一二年八月二四日に父が亡くなり、その四年後の昭和一六年八月四日に母が亡くなりました。私は六歳でした。
 兄と二人きりとなり、随分さみしい思いをしましたが、伊藤の叔父・叔母に助けられ大変お世話になりました。
 兄は国民学校卒業の一四歳で「小樽海員養成所」に行く時に、わたしの頭を撫でながら「兄ちゃんは船員になるために頑張るから、陽ちゃんも叔父・叔母さんの言うことを聞き頑張れよ!」と言ったのが昭和一八年三月末頃で、私を残していく兄は心配でならなかったと思います。
 しかも、お世話になっていた叔母が同年の九月に亡くなられ、一層寂しさが募りました。
 昭和一九年三月に海員養成所を修了した兄は、「これから船に乗るが、陽子も勉強に、お手伝いに頑張れよ!」と、言い残していった。
 昭和二〇年七月一四日に兄が戦死したと叔父から聞き、頼りにしていた兄なのに…。
 私は天涯孤独の身になりました。様々な苦労と喜怒哀楽を経験してきましたが、現在は娘二人が同じ市内(苫小牧市)に住んで行き来し、のんびりと老後を楽しんでいます。
 天国から見守ってくれている「父さん・母さん・兄ちゃん」の分まで、長生きしようと身体に気をつけて過ごしています。
◆取材にご協力いただいた方々

 軽部 陽子さん 苫小牧市 (寺上隆敬氏の妹)
 谷  紀子さん 富良野市 (伊藤喜三郎氏の長女で軽部陽子さんの従姉妹)
 杉本伊三雄氏  上富良野町(寺上文房具店の隣)
 市立小樽図書館 小樽市 石塚氏
 国立小樽海上技術学校 小樽市 早川氏

◆引用参考文献

 海員学校沿革史・一九八四・小樽海員学校後援会
 「錨 と 翼」・一九七七・上富良野海友会
 語りつぐ 北海道空襲・二〇〇七・北海道新聞社
 続富良野こぼれ話・一九八四・富良野郷土研究会
 函 館 市 史・一九九七・函館市

機関誌      郷土をさぐる(第40号)
2023年3月31日印刷      2023年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀