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農業技師「猪狩源三の生涯」その後

札幌市豊平区 猪 狩 昌 和 昭和二十二年八月十五日生(七十五歳)

  はじめに
 親族のために調査しまとめた「祖父 猪狩源三の足跡“源三と賢治の対話”“十勝岳爆発流泥に関する源三の調査研究”」という私の小文が、岩手大学農学部名誉教授の若尾紀夫先生の目に止まることとなり、岩手大学宮澤賢治センター編「賢治学」第四輯(二〇一七年七月二〇日発行)に「祖父“猪狩源三”と宮沢賢治」という標題で掲載されました。
 同時期に、上富良野町郷土をさぐる会編集の「郷土をさぐる」第三四号(二〇一七年四月一日発行)に寄稿し「大正泥流九十年によせて、泥流地帯の復興にかけた農業技師 猪狩源三の生涯」という標題で掲載されました。
 筆者としては、猪狩源三という農業技師が存在した記録を残したことで一段落したものと思っていました。
 その後、五年を経過した昨年(二〇二二年)五月、北海道立中央農業試験場主任研究員、東京農業大学農学部助教授、酪農学園大学教授というご経歴の農学博士(東京大学)水野直治先生よりお手紙を頂戴しました。
 そのお手紙により、猪狩源三と水野直治先生とは「師弟関係」にあり「十勝岳爆発流泥に関する源三の調査研究」を継いで、その後の当地の「調査研究と土壌改良」を進められて来られたことを知り、水野先生との出会いと、先生のご業績について『「猪狩源三の生涯」その後』としてまとめてみました。
  水野直治博士との出会い
 お手紙の内容は、
「突然の手紙での失礼お許し下さい。私は現在八五歳の老人です、私は猪狩源三先生の授業(酪農学園短期大学)を受けた最後の学生です。そこで習ったことは私の仕事に大きな影響をもたらしました。私は三〇年ほど農業試験場の研究員を務めましたが、一九九〇年から四年ほど網走の東京農大に移りました。その時三年ほど富良野盆地の十勝岳泥流の調査を学生と伴にいたしました」
という出だしでした。
 水野先生の研究で「ジャガイモのそうか病の原因と対策」の論文は、猪狩源三から習ったことがヒントになった事(Plant and Soil誌に掲載された英文の論文が同封されていました)、先生が「泥流調査に携わるときに、猪狩源三の調査研究を参考にされたこと」などが書かれている丁重なお手紙と「十勝岳泥流地帯の化学的特性〜富良野盆地の土壌、河川水のイオウを中心とした物質の収支と秋落ち水田の改良対策〜」(一九九五年上富良野町発行)という八八頁にものぼる調査研究報告書、及び「一九二六年十勝岳泥流水田土壌のイオウと鉄の含有率」という日本土壌肥料学会誌に発表された研究論文のコピーが同封されていました。

掲載省略:画像 「十勝岳泥流地帯の化学的特性〜富良野盆地の土壌、河川水のイオウを
          中心とした物質の収支と秋落ち水田の改良対策〜」表紙

 源三の調査研究は一九六二年(昭和三七年)に北海道農業専門技術員技師千葉登氏らによって、まとめられた「十勝岳泥流地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書」(第七報)をもって一旦終了したものと思っておりました。

掲載省略:画像 「十勝岳流泥水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書(第七報)」表紙

 この度お送りいただいた資料「十勝岳泥流地帯の化学的特性」(一九九五年)を読んで、水野先生を中心に、十勝岳爆発から七〇年後に及んで尚、爆発流泥の農作物への影響を調査研究されていた事を知りました。
 何よりも祖父源三がまとめた「十勝岳爆発流泥に関する調査成績」(一九四〇年北海道農事試験場報告三九号)が源三の没後も、水野先生のご研究に引き継がれていたことを知り、大変な驚きでありました。そして、これ等のことをお伝え頂いた水野先生に、感謝するばかりでした。

掲載省略:画像 「十勝岳爆発流泥に関する調査成績(一九四〇年北海道農事試験場報告三九号)」表紙
  「十勝岳泥流地帯の化学的特性」

 この報告書は酪農学園大学・北海道文理科短期大学教授水野直治先生が一九九五年に上富良野町から発表された調査報告書です。
 当時、東京農業大学網走寒冷地試験場の助教授で、その後酪農学園大学の教授になられた水野先生をはじめ、農業試験場時代の同僚であった富良野地区農業改良センター主任の丸岡孔一氏、北海道立上川農業試験場土壌肥料科長の稲津脩氏(農学博士)、北海道大学農学部を卒業され北海道中央農業試験場研究員の後藤英次氏や長谷川進氏の共同調査研究でありました。
 そしてこの調査は、東京農業大学網走寒冷地農場で水野先生が指導されていたゼミの五名の学生の方々の協力のもと、一九九〇年から一九九三年にわたる調査と研究をまとめたものでした。

 (この調査の経緯)

 この報告書の冒頭に当時の上富良野町長菅野學氏がこの調査を行う経緯について次のように書かれています。
「その時(大正一五年の十勝岳爆発)からすでに七〇年を経過したが未だこの時の泥流の痕跡が残り、多量のイオウに原因する特有の秋落ち水田が富良野盆地の農民を苦しめているのが現状であります。この地帯は泥流発生直後に北海道農事試験場技士猪狩源三氏を中心として精力的に調査されましたが、その後どのように変化したか長い間調査の手が入りませんでした。
 このたび、東京農業大学網走寒冷地農場、北海道立上川農業試験場土壌肥料科、富良野地区農業改良普及所、上川支庁農業振興部計画課、上富良野町農業協同組合および酪農学園大学の協力を得て一九九〇年から一九九三年にわたる調査研究が行われ、このほどその報告書が完成しました」(原文のまま)
 (調査報告書の内容―目的と結果)

 この報告書の「緒言」の三項目目に「本調査および試験の目的」を次のように述べられています。
「すでに一九二六年から七〇年の歳月が経過したが、いまなお農地の改善が完了せず、多くの農民が悪条件の中で農業を営んでいること、泥流で持ち込まれたイオウがその後どの様に変化したか、また農地にどのような影響を与えているかの調査がなされていなかったことから、今後の対策に支障をきたしていた。またいまなお十勝岳から酸性水が流入していて良質米生産が要求されているにもかかわらず、その影響がどのようになっているか不明であった。
 このことから、今後の対策の指針を見いだすための基礎資料を得る必要があること、などのため今回の調査と対策試験を実施することとなった」
として、報告書は次の項目で内容がまとめられています。

  T 緒言
  U 試験方法
  V 泥流地帯の調査結果
  W 高イオウ非泥流地帯の調査結果
  X 河川水の分析結果
  Y 秋落ち水田対策試験
  Z 解決と当面の対策法
  [ まとめ

 「まとめ」には、「調査結果の所見」や「対策」について七項目にまとめられています。
 この調査報告書をもとに、その後の先生の調査研究をまとめた論文「十勝岳火山泥流(一九二六)による酸性硫酸塩土壌の問題と対策」を「農業と園芸」九一巻三号(二〇一六年三月 養賢堂発行)誌に発表しています。
 この中で水野先生は火山国日本において「秋落ち水田」は古い問題ではなく、土壌学の参考書にもこの問題が欠落していることを指摘しておられます。
  水野先生とお仲間の研究

 水野先生は農業試験場時代から十勝岳爆発後の、“泥流地帯”で発生している水稲の「秋落ち」現象について、農家を苦しめているその要因と対策について、調査研究の必要性について問題意識を持たれていたと思われます。
 水野先生のグループはこの本格的な調査研究を始める前に、日本土壌学雑誌第六三巻第六号に「一九二六年十勝岳泥流水田土壌のイオウと鉄の含有率」という研究論文を発表されています。
 猪狩源三の調査研究は「爆発泥流に含まれるイオウによる酸化した強酸性土壌対策」が土壌改良の中心でした。多量の石灰資材投入による土壌改良により、正常な水田に戻りつつありましたが、六〇数年経過してなお、水田の秋落ち(根腐れや、強酸性による著しい生育障害)が認められました。
 水野先生は「イオウの還元によって発生する硫化水素と、これによって引き起こされる水稲の“秋落ち”現象」について「イオウの多い地帯で見られる水稲の根腐れ現象は鉄の欠乏によって助長され、とくに遊離酸化鉄の存在が重要」として「イオウと鉄の含有率」について着目したのがこの論文でした。
 その後三年間に及ぶ現地調査と研究により、先の報告書「十勝岳泥流地帯の化学的特性」がまとめられ、十勝岳爆発泥流による土壌汚染の改良、とりわけ水田の改良対策が進められました。

掲載省略:写真 秋落(硫化水素による)で欠株になった水田
掲載省略:写真 暗渠排水の工事作業(土は硫化物で暗緑色)
  水野先生と猪狩源三との出会い

 「十勝岳泥流地帯の化学的特性〜富良野盆地の土壌、河川水のイオウを中心とした物質の収支と秋落ち水田の改良対策〜」(一九九五年上富良野町発行)の中で、この調査の責任者である水野先生が「富良野盆地」と題して調査報告書の刊行にあたり所見を述べています。その中に、猪狩源三について次のように書かれています。
「私と猪狩源三との出会いは学生のときに遡る。猪狩源三には土壌学を習ったが、そのとき既に七〇歳近い老人で、小説『泥流地帯』の中の農業試験場の技師さんとしての有名人であることは知らなかった。その後農業試験場で酸性硫酸塩土壌対策に取り組んだとき、泥流調査に関する猪狩氏の膨大なデータのある事を知った。当時、化学研究の装備が貧弱なときどのようにしてあれだけの仕事を成し遂げたのか興味がわき、道庁人事課にお願いして元農業試験場技士、北海道農業専門技術員猪狩源三の履歴書をとりよせ、今でも大事にとっている。そこには猪狩源三の輝かしい若き日の記録があった。東北帝国大学農科大学成績優秀につき二ヵ年間特待生に任命され授業料免除とあった。十勝岳泥流調査当時、猪狩源三の下で分析に従事した人を訪ね、どのようにしてあの仕事をなしとげたのか聞いた。彼はずいぶん仕事の早い人で、分析のかたわら原稿を書いていたという。その猪狩源三ですら泥流対策は一人で研究するにはあまりにも過酷な仕事であると嘆かせた」(原文のまま)

掲載省略:画像 「十勝岳泥流地帯の化学的特〜調査報告書」の所見「富良野盆地」のページ
 源三が亡くなる一年前(昭和三三年)に発行された、源三の研究の最後の報告書となった「十勝岳爆発三〇年後における流泥被害地土壌に関する調査研究報告書(第三報)」の巻頭に記述された、「緒言〔U〕今後の調査研究の問題点」という中に、次の記載があり、気になっていました。
「本調査研究は当初より筆者一人専ら之に当たり、最近迄は道農業改良課の一員として本職に従事する傍ら本調査研究を一人で之を行いつつある現状で・・・(中略)一時も早く結論を確立し現地の農業に役立たしめねばならないにも拘らず、既に五箇年有余の歳月を経過して来た事は誠に遺憾とする所である。従って将来は研究の或種の組織を持ち数人の適当なる職員により研究を行うことが必要であり・・・(中略)片手間的研究の域を脱し組織的研究の域に進むことを念願するものである」
と。
 水野先生のその後の泥流地帯の調査研究を祖父源三が知ったらどんなに喜ばれたか、先生とお会いすることが出来て祖父は墓場の陰から喜んでいるものと想いを馳せる所です。

掲載省略:写真 猪狩源三の調査報告が大きな推進力になって1974(昭和49)年8月8日竣工した日新ダム
  水野先生・稲津脩氏・後藤英次氏と懇談

 二〇二二年六月一八日、猪狩源三の研究と仕事について直接お伺いする機会が実現しました。新篠津村の稲津先生の事務所で、お忙しい中二時間ほど懇談することができました。
 お三方とも一九九〇年からの泥流地帯の調査研究に直接携われており、水野先生を通して「源三の足跡」について、お知らせ頂いた方々です。
 稲津脩先生は、泥流地帯の調査に携わった当時上川農試土壌肥料科長で、食味が落ちるといわれた北海道産米の品種改良の第一人者です。
 後藤英次氏は、北海道大学卒業直後に調査に携わり、現在は上川農試の研究主幹という現役の研究者です。
 私にとっては「祖父源三の足跡」を知るお三方のお話に、感激と感謝の気持ちが一杯で、土壌改良のお話になるとお三方とも話題豊富で、ご熱心なご努力の様子を伺い知ることが出来るものでした。
 とりわけ、源三が対策に取り組んでいた時は明らかになっていなかった「泥流地帯の土壌改良に酸化鉄を用いる」ことについて、
「苫小牧の日軽金が工場閉鎖となり、困っていた多量の「赤土」(アルミニューム精錬滓〜酸化鉄四〇%になる)の処理に、ダンプ2台ほど譲り受けて泥流地帯の土壌改良に使用した所、効果抜群であった」
というお話には、源三の泥流地帯の改良にかけた想いが、水野先生はじめ皆様に伝わっているようでした。

掲載省略:写真 北海道農事試験場時代の源三(前列左 1992.7.10)
  おわりに

 水野先生は「十勝岳泥流に関わってから,源三の消息や親戚関係者を三〇年間もさがして来ました。五月はじめにインターネットを開き,そこでお孫さんの文章を見つけました(手紙より)」という。上富良野町郷土をさぐる会編集の「郷土をさぐる」三四号への筆者の寄稿が、出会いのきっかけとなりました。
そしてこの「猪狩源三の生涯〜その後」として寄稿することとなり、水野先生はじめ、貴誌へ改めて感謝申し上げる次第です。   (二〇二三年一月)
《著者略歴》
出生地  岩手県盛岡市三ツ割字田畑
現住所  札幌市豊平区西岡五条十三丁目
最終学歴
     一九七〇年三月(昭和四十五年)北海道大学工学部機械工学第二学科 卒業
職 歴
   ・一九七〇年四月〜一九九八年五月 生活協同組合コープさっぽろ 最終職 常勤理事
   ・一九九八年五月〜二〇〇一年六月 釧路市民生活協同組合 最終職務 常務理事(和議再建担当)
   ・二〇〇一年七月〜二〇一二年九月 株式会社シーエックスカーゴ(日本生活協同組合連合会子会社)最終職 専務取締役補佐
《猪狩源三の略歴》

 郷土をさぐる第三四号掲載「泥流地帯の復興にかけた農業技師 猪狩源三の生涯」(猪狩昌和著)から以下転載

 猪狩源三は明治十年頃、現在の岩手県盛岡市から当時の北海道札幌郡豊平村に入植した猪狩庄右エ門、源吉父子の開拓二世として、一八八九(明治二十二)年三月一日北海道岩見沢市で出生。一九一四(大正三)年東北帝国大学農科大学農芸化学科(現 北海道大学農学部)を卒業し、同科の副手から北海道農事試験場の技師として従事した。昭和五年岩手県農事試験場長として赴任するまで、和歌山県農事試験場技師、民間の古谷製菓化学研究所主任などを歴任し、北海道帝国大学となった母校の講師も勤めた。その後再び北海道農試に復職し農芸科学部主任などを歴任した。
 この間一九一八(大正七)年「実験拘櫞(クエン)酸製造法」(有隣堂出版)の著書や「オブラート製造法」の発明(古谷製菓化学研究所時代)、そして北海道農事試験場時代には一九二六(大正十五)年五月の十勝岳爆発による泥流被害と土壌調査に携わった。
 一九三〇年(昭和五年)、同郷の先輩でもある当時北海道帝国大学総長佐藤昌介の勧めもあり、北海道農事試験場から岩手県農事試験場長として赴任した。
 一九五九(昭和三四)年死去。

機関誌      郷土をさぐる(第40号)
2023年3月31日印刷      2023年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀