郷土をさぐる会トップページ     第40号目次

ラベンダー観光の断面から
ラベンダー・オーナー制度発足の事情 エトセトラ

郷土をさぐる編集委員 野尻 巳知雄 (八十五歳)

  はじめに
 私は上富良野町役場に勤め、様々な部所で勤務して平成七(一九九五)年三月に定年で退職したが、この間の昭和五十七(一九八二)年四月から昭和六十二(一九八七)年三月までの五年間、商工観光課で係長、課長補佐として商工観光行政に携わった。
 この時期は、昭和八(一九三三)年に設立された上富良野町十勝岳観光協会が、盤石の十勝岳や温泉観光に加えて、特産のホップや観光人気が高まりつつあるラベンダーを新たな観光資源として位置付けて、変革に取り組む最中にあった。
 観光協会の公益事業と収益事業の両輪の促進を図るため、昭和六十(一九八五)年九月に改組知事認可による「社団法人 かみふらの十勝岳観光協会」の設立登記までの担当を担えたことを、感慨深く思い返す。
 同時並行で取り組んだ『ラベンダー・オーナー制度』は、出資募集事業としての売り込みが、話題性を得てマスコミ報道にとりあげられ、多くの会員を集めることになり、法人ならではの成果を上げることができた。
 かみふらの十勝岳観光協会の保有資料の提供も受けて、当時を振り返ってみる。
 一 昭和五十七年の観光環境

 私が商工観光課に異動となった昭和五十七(一九八二)年のラベンダー観光の現状は、ラベンダーの紫の絨毯を連想させるラベンダー畑を一目観ようと僅かではあったが観光客の姿をまばらながら見ることが出来る程度であった。
 それでも昭和五十一(一九七六)年の全国カレンダー展で、ラベンダー畑を写した前田真三氏(写真家)のカレンダーが大蔵省印刷局長賞を受賞し、その写真が三菱銀行本店のロビーに展示されたこと、またラベンダー畑が国鉄のポスターとして全国に紹介され、吉河啓司氏(後述)のラベンダー畑が北海道新聞に掲載されたこともあって、ラベンダーを観(み)に訪れる観光客が徐々にではあるが年々増加の傾向にあった。
 しかし観光資源として脚光を浴び始めたラベンダーであったが、農家が作付けを始めた目的が農作物であったため、昭和三十三(一九五八)年に道の奨励特用作物の指定を受けて作付けが拡大し、最盛時には八十五ヘクタールあったラベンダー畑も、安い合成香料の輸入品に押されて五十二(一九七七)年に、委託栽培契約先の香料会社から契約委託解除の通告を受け、五十三(一九七八)年にはほとんどのラベンダー栽培農家は耕作を取りやめ、ラベンダー畑は他の農作物に切り替わってしまった。
 五十七(一九八二)年に残っていたのは島津の前川光正氏(五十八年に取りやめている)と東中の太田信夫氏、吉河啓司氏(数年後に他の作物に切り替わる)の三戸、面積も全部で一・五ヘクタールと僅かな面積が残るのみであった。(この年ラベンダーは押し花、ドライフラワー、匂い袋に加工されて販売されていた)
 昭和五十四(一九七九)年に上富良野十勝岳観光協会(以下昭和六十年に法人化した「かみふらの十勝岳観光協会」を含めて「観光協会」と記述する)では、観光資源としてラベンダー畑の景観を残すことが緊急の課題であるとしてこの問題を大きく取り上げ、街中にラベンダーを植栽しようと、各団体に補助金を出したり、官公庁舎前庭にラベンダーを植栽するなどの運動を進めてきたが、このような小手先の対応では訪れる観光客の満足を得ることは困難であった。
 当時の観光協会は町主導型で、会長には町長が当たり、副会長は助役、商工会長、農協組合長、議会議長のほか、理事十三名で構成され、事務局は町商工観光課が担当していた。
 会議の中で年々消えていくラベンダー畑を観光資源として残すには民間に頼るには限界があり、町営の圃場を作るべきであるとの強い意見が出された。
 観光協会の提言を受けた町は観光協会と諮り、昭和五十四(一九七九)年に住吉区にある金子全一氏所有の畑を借り上げ、青少年団体協議会(会長上田修一)の男女六十余名の労力奉仕により、〇・八ヘクタールに二年生のラベンダーを植栽してラベンダー園を作り、五十五(一九八〇)年には日の出公園の整備とともに一・五ヘクタールのラベンダー園を造成し新しい苗の植栽を行った。(観賞には三年以上の年月を要する)
 住吉のラベンダー園には観光客がぼつぼつと訪れ、駐車スペースには観光客目当てに山一農産の斉藤正弘氏が、売店第一号を出店し、自家製のラベンダーグッツや曽田香料が卸していた匂い袋、東中の浜商店が作った押し花や、ドライフラワーなどの販売をしていた。

掲載省略:写真 住吉ラベンダー園〜昭和56(1981)年(現在の西町)

 昭和六十二(一九八七)年には、除草を依頼していた業者が、除草剤を多く散布したために、ラベンダーが枯死してしまう一方で、日の出公園に植栽したラベンダーが見ごろとなってきたので、住吉のラベンダー園をもとに復元して所有者にお返しした。
 二 「北海ホップ祭り」で集客

 一方商工会(会長仲島徳五郎)でもラベンダー畑の減少による観光客の減少を心配し、ラベンダーに代わる観光資源の発掘を考えて、上富良野町がサッポロビールの原料「ホップ」の生産地であることから、昭和五十三(一九七八)年九月三日に商工会主催による「北海ホップ祭り」を島津公園に仮設のステージを設置し、町内の文化団体や芸能人を招いて盛大に開催した。
 五十四(一九七九)年には花火大会も併せて七月に実施して祭りに花を添え、五十五(一九八〇)年には名称を「北海ラベンダー・ホップ祭り」と改めて、ラベンダーの最盛期である七月三十日に実施した。
 五十六(一九八一)年には第四回「北海ラベンダー・ホップ祭り」が実行委員会主催により、第一会場島津公園、第二会場住吉ラベンダー園、第三会場富原ホップ園の三会場で内容も多彩に規模を拡大し、七月十九日に開催した。また、八月開催の「渥美二郎ショー」において、第一回ミスラベンダーを発表した。

掲載省略:写真 第4回北海ラベンダー・ホップ祭り〜昭和56(1981)年7月19日

 昭和五十六(一九八一)年十月一日に町花に「ラベンダー」町木に「アカエゾマツ」を制定したことにより、五十七(一九八二)年には七月二十五日に「第一回町花指定記念ラベンダー祭り」として、町内の各関係機関、団体で実行委員会を組織し、商工会を中心に町・観光協会が事務局となって日の出公園を会場に実施された。
 実行委員会会長には一色正三商工会長が当たり、会場準備や運営、後片づけには観光協会役員、商工会役員、商工婦人部、青年部、農協職員、役場職員など町を挙げての祭りが開催された。
 イベントには町内の「フラヌイ太鼓愛好会」会長前田弘氏が上川管内太鼓連盟の初代会長になったことから、上川管内太鼓連盟加盟団体の面々百名ほどの打ち手が各市町村から集まり、太鼓の競演を開催してラベンダー祭りに花を添えた。
 百個の太鼓が繰り出す大音響は、日の出山全体を壮大な音色で包み、いやがうえにも訪れた観光客を魅了して離さなかった。
 翌年五十八(一九八三)年は七月二十三日(土)・二十四日(日)の二日で開催され、観光客約五万人が訪れ、日の出山全体が人で埋め尽くされたと記録されている。
 三 ラベンダー祭りの開催回数

 恒例行事には、第何回という冠(かんむり)がつくのだが、「ラベンダー祭り」の回数表示については少し混乱がある。
 夏の観光イベントの起源ともいえる『北海ホップ祭り』は、上富良野町商工会主催で昭和五十三(一九七八)年九月三日に開催された。
 第二回『北海ホップ祭り』は昭和五十四(一九七九)年七月二十二日に上富良野町商工会主催で、第三回は『北海ラベンダー・ホップ祭り』に名称を変えて昭和五十五(一九八〇)年七月三十日に上富良野町商工会主催で、第四回『北海ラベンダー・ホップ祭り』は昭和五十六(一九八一)年七月十九日に観光協会・農協も加わった実行委員会主催に移行したが、メイン会場は一回〜四回まで変わらず島津公園に特設されて開催された。
 前述のとおり、昭和五十七(一九八二)年は七月二十五日に『第一回町花指定記念ラベンダー祭り』と冠して、会場を日の出公園に変更して実行委員会形式で開催したことから、話がややこしくなる。
 翌昭和五十八(一九八三)年からは七月中の二日間日程になり、以降は会場を日の出公園に固定して毎年継続開催されたが、この年には回数の冠は付けられなかった。
 昭和五十九(一九八四)年は『第六回上富良野ラベンダー祭り』として七月二十一・二十二日に開催された。町花指定記念としては第三回、昭和五十三年の『北海ホップ祭り』から数えると第七回になるのだが、『第一回ホップ祭り』が九月に開催されてラベンダーに焦点が当てられていないことから、『ラベンダー祭り』の起点を昭和五十四年七月開催の『第二回ホップ祭り』に置くことで混乱を収めたのだった。

掲載省略:写真 広報かみふらのみんなのひろば≠ゥら〜昭和57(1982)年9月号(9月13日発行)
掲載省略:写真 第6回ラベンダーまつり〜昭和59(1984)年7月21・22日
            (22日イベント・道内郷土芸能交歓会)

 なお、ラベンダーまつりとしての開催は、平成十五(二〇〇三)年七月十九・二十日開催の第二十五回を最後に、翌平成十六(二〇〇四)年には「ラベンダーまつり」と「十勝岳火まつり」を統合した新しいイベント『かみふらの花と炎の四季彩まつり』として七月二十四・二十五日の二日間、日の出公園を会場に開催された。
 商工会主催により昭和五十八(一九八三)年八月二十日に第一回として始まった「商工夏まつり」は、平成元年から内容を刷新し「十勝岳火まつり」と名称も変え、他の夏季イベントとの日程の都合を見て七月又は八月に開催していたが、この運営や支援に従事する人々の多くがラベンダーまつりと重複し、家業や家庭生活を犠牲にする事態も発生していた。この解消の一策としての統合であった。
 『かみふらの花と炎の四季彩まつり』は新型コロナウイルス蔓延の影響で、令和元(二〇一九)年七月十四日開催の第四十一回(ラベンダーまつりの回数を引き継いでいる)を最後に現在まで休止している。
  令和三(二〇二一)年、令和四(二〇二二)は『ラベンダーフェスタかみふらの』として、ラベンダー畑のライトアップとこの映像のライブ配信の形で開催された。

掲載省略:写真 『かみふらの花と炎の四季彩まつり』〜平成16(2004)年7月24・25日


 四 「ラベンダー祭り」奮闘記

 ここで祭りにまつわるエピソードを紹介しよう。
 以下の記事には、関係者にとっては辛辣な内容を含んでいるが、筆者の文責で敢えて書かせてもらうことをお許し願いたい。
 事件は昭和五十七(一九八二)年七月二十五日(日)の祭りが終わり、私と役場職員が後片づけでごみの処理を行っている時に発生した。
 事の起こりは、その筋(ヤクザ)の露天商(以下「その露天商」と書く)が前年までの商工会が主催するイベントに出店していた経緯から、ラベンダー祭りも継続して出店を許可していたことが原因だった。その露店商が販売していたのは綿あめと、かき氷だったが、綿あめの製造には電気を必要とすることから、売店が並ぶ通路を跨(また)ぎ電線が張られていた。
 祭りも無事終了し、後片付けのごみ処理に役場所有の普通免許証で扱える二トンダンプを使ったが、ダンプの専門の運転手は休日のため業務につかず、運転は商工観光課の職員が担当した。
 職員はダンプの運転はほとんど経験もないため、誤ってごみ処理の帰りにダンプの荷台を下ろさずに上げたままで通路を抜けようとし、荷台がその露天商の引き込み線を引っかけて、綿あめ機を通路に転げ落として、壊してしまったのである。
 運転していた商工観光課の職員が、「係長大変なことを起こしてしまいました」と、真っ青な顔をして報告してきた。その職員は、いつも慎重に行動するまじめな人で、普段乗り慣れていないダンプを運転した結果であったが、相手がその露天商という最悪の相手の事故を起こしてしまったのである。
 私は、「これはまずい」と、とっさに考えた。それは午前中にもこんな出来事があったからである。
 地元の食品販売に関係のない一般の商店主が、祭りの観光客に喜んで貰おうと、無許可で殺菌していない搾りたての生の牛乳の入った集乳缶を通路に置いて、無許可で販売していた。それをその露天商が見とがめ、私を呼び止めて「係長さん、生の牛乳を販売しても良いのかね!許可を出しているのかね!」と詰問(きつもん)され、私は早速牛乳を販売している商店主に、無殺菌の牛乳の販売は出来ないことと、店を出すには保健所と公園を管理する役場の許可が必要であることを説明して撤退してもらった。また、こんなこともあった。
 祭りの一週間前に、日の出公園を訪れる観光客を目当てに、その露天商と仲間数人が、氷水の販売をしていた。その日は日差しが強く気温の高い日であったため、露天商の仲間の一人が上半身裸となり、大衆の前に刺青(いれずみ)を晒していたので、私は役場の腕章を身に着けて身分を分かるようにしながら近づき、「ここは公共の場です。一般の観光客も多いので、刺青を見せることは好ましくないので上着を着てください。ところで、ここで店を開くには役場の許可が必要ですが、許可を受けていますか?受けていなければ、役場に行って許可を受けてください」と告げた。
 その露天商は、「わかった、今日は日曜日だから、明日にも役場に行って許可をもらうので今日はこのまま営業をさせてほしい」と言われ、断るとその反動も恐ろしく、そのまま営業を黙認する事にした。
 その一週間後のラベンダー祭りで、こともあろうに、飲食業に関連した商店主が、祭典に訪れる観光客を目当てにイチゴシロップを掛けた氷水を、露天商が販売している値段の五割も高く販売していたのである。
 それを見ていたその露天商は、「地元の商店はエゲツナイネエ。ヤクザも顔負けだよ!」と、強烈なパンチのきいた嫌味を投げかけてきた。「一週間前の裸の注意を根に持っているのだろうか?」との思いが過(よぎ)り、私は返す言葉が出なかった。「自分は正統法で、祭りに協力している」かの様な口振りで私に話してきたのである。よく小説で「ヤクザが猫なで声で話をする時は何かを裏に潜めている」と言われていることを頭に思い浮かべ、何も起こらないことを願っていた矢先の出来事であった。
 五 壊した「わた飴機」の始末

 そんな事を頭に思い浮かべたとき、その露天商の商売道具を壊してしまったことの現実に、これからの事を考えると身が竦(すく)む思いであった。
 この事を課長(竹谷岩俊氏)に報告し、関係者(商工観光課・土木建設課、商工会事務局等)で話し合ったが、ヤクザ相手の交渉事など誰も経験したこともなく、よい結論など出る訳がなかった。
 話の中で「富良野地区を支配しているヤクザの親分S氏に相談して、ヤクザ同志で話し合ってもらい、その結果、善後策を練るのが良いのではないか」との意見が出され、その方法で進めることとなった。
 S氏との交渉には、神社祭典などの出店で露天商との関係が深い公園管理の担当係長に当たってもらい、善後策を相談してもらう事になった。
 さっそく富良野に走り、S氏に事情を説明して交渉に当たってもらい、その結果を待って町長室で待機していたところ、当事者のその露天商から電話があり、「S氏から話を聞いた。私はどちらでもいいが、こんな問題の解決にヤクザを中に入れると、仲介したヤクザへの仲介料が更に増え、却(かえ)って高いものになるけど良いのか」との話であった。
 課長を筆頭に残っていた職員で相談した結果、今後はS氏を通さずに当事者と直接話し合いで決めることにして、その夜は解散することにした。
 当事者のその露天商に、「翌日祭り終了後の夜に町長室で話し合いたい」旨を連絡し、ご足労を願うことにした。また、親分Sには菓子折りを持ってお礼に伺い、今回の件からは手を引いてもらう事で今後の方策を進めることになった。
 六 黒光りする匕首に驚愕

 翌日、その露天商が町長室に表れ、請求された損害賠償金は、綿飴機の修理代(製造元の京都までの送料、荷造り料など約二十万円、修理期間の休業による営業損料が最も高額で、一日の売上げ金の平均が約四万円で、休業日数二十日間をかけた約八十万円)など、諸々の経費を含め総額「百万円」という高額な要求であった。持参した資料(バインダーにとじた資料)には、毎日の営業記録が記載され、仕入高、販売高、経費、人件費など事細やかに記載されていた。
 その日は夜も遅いため資料をお預かりして「結果を町長とも相談し検討させてもらい、後日、改めて再度協議する」ことを伝え、その日はお帰り頂いた。
 翌日、町長に経過報告した後、ラベンダー祭り実行委員会会長の一色会長にも報告したところ、あまりの高額に二人とも驚いていた。町長からは「君達で問題を解決して、終わったら結果を報告しなさい」と簡単に言われてしまった。
 仕方なく課長と相談して相手方に七月二十七日の午後にお会いしたい旨連絡したところ、「トーヨーホテルの一室を借りてあるので」と、場所を指定された。
 私は「話し合いの筋として相手から出された条件はすべて認めた上で交渉に当たる方が得策でないか、その上で減額できそうなところを相手と話し合い、値引きをしてもらう戦法が良いのではないか」と課長に進言し、その方向で交渉しようと決まったが、課長からは、「今までの経過から、交渉の話し合いには、相手のK氏と何度か会話をしている野尻君が当たった方が良いと思うので君から話を・・・!」と、言われ、最初の交渉の切り出しは私が進めることとなってしまった。
 指定された部屋に課長と二人で入ると、黒光りする鋭い匕首(あいくち)を抜き出し、いきなりぶすっと椅子に差し込んだのには驚かされた。
 課長はびっくりして後ずさりしたが、私もさすがに光る刃波の抜き身に驚きと恐怖を覚え、半分震えながらも必死で平静を装い、「そんなもので素人を驚かしても無駄です、私は経験がありますからそんなものは仕舞って下さい」と、さも経験があるかのように振る舞い、匕首に驚かないことをかろうじて相手に伝えた。(もちろん匕首を出されて驚かされた経験などあろうはずはなかったのだが・・・)
 その露天商は匕首を出して驚かし有利に話を進めようと考えて居たかどうかは分からないが、「若いのにいい度胸をしているな!」と相手も多少驚いている様子であった。
 その露天商に、「公のお金を捻出するのは容易なことではない」ことの事情を説明し、「あなたの要求する内容はすべて認めましょう。しかし、百万円は高額であり、あなたが要求された金額ではとても支払うことは無理なので、再度ご検討願いたい」旨伝え、「営業日数を減らせないか、荷造りや送料をもっと安くならないか」、などと何度か交渉を繰り返した。
 相手もこちらの事情をくみ取り、最終的に六十万円に減額して賠償金を支払うことで結着したのである。しかし、六十万円と言っても高額であることと、表に出すことが出来ない事情を抱えているので、どうしたものかと課長と頭を抱えた。
 結局、観光協会の中で処理する事しかなく、観光協会の土産品の利益から三十万円を何とか支出できる目途が立ったが、残りの三十万円については、どこからも捻出することは困難であった。
 ラベンダー祭り実行委員会会長の一色商工会長に相談し、「一色会長にも会長としての責任もあるので、残りの三十万円について町長への口添えを!」お願いした。支払いは観光協会の土産品会計で一時立て替え、年度の最終清算で、商工会と観光協会の補助金を増額して、夫々(それぞれ)十五万円を分担する形をとり、三十万円を捻出することで解決することができた。
 こんな経験は普段することが無いとの思いから、敢えて掲載させて頂いた。

掲載省略:イラスト 匕首(あいくち)のイラスト

 七 「ラベンダー祭り」は町が主体で
 昭和五十八(一九八三)年からは、商工会で独自に「上富良野町商工夏祭り」を企画されたので、ラベンダー祭りは町と観光協会が主催して(事務局は役場商工観光課が担当)新たに実施することになった。
 ラベンダー祭りの宣伝に、「経費の掛からない方法がないか」と無い知恵をしぼり、「祭りのイベントとしてHBCラジオの公開生放送を取り入れる事が出来ないだろうか!また、公開放送を事前に知らせる告知放送で、ラベンダー祭りを宣伝できないか!」と考え、旭川駅前ビルにあったHBCの事務局を尋ね相談することとした。HBCの担当者は好意的で「そのような事業については、代理店の「第一企画」が担当しているので、そちらで相談して下さい」と同じビルの中にある代理店の会社を紹介され、一緒に案内していただいた。
 第一企画の担当者は吉田氏と言う方で、ラベンダー祭りの宣伝に「HBCラジオの公開生放送を取り入れ、その宣伝を事前に流すことは出来ないか」と相談したところ、「無料とはいかないが、安い経費で公開放送をやってもらうように図ってみましょう」と、HBCラジオの宣伝を進めてもらう事となった。(公開放送にはそれなりの経費が掛かったが、事前のお知らせ放送は無料で二週間ほど放送された)
 吉田氏のアドバイスで、ステージに使う音響設備と芸能人の出演を旭川市にある音響イベント会社「サウンド企画」に依頼する事になった。
 ステージには、当時新人で売り出し中の「佐野量子さん」(現、中央競馬の騎手武豊騎手夫人)を招き、イベントを盛り上げてもらった。(新人であったので格安の出演料で運営できた)
 ラジオ宣伝の効果は予想以上で、五十八(一九八三)年のラベンダー祭りに五万人ほど、ラベンダーシーズンを通算すると約十万人もの観光客が押し寄せている。
 その後も、第一企画(現在のアサツーデイケイ株)の吉田氏のアドバイスを受けて、毎年ラベンダー祭りが盛大に運営されてきた。
 実行委員会発表による祭りの入込は翌五十九(一九八四)年七万人、六十(一九八五)年九万人、六十一(一九八六)年十万人、六十二(一九八七)年十二万人、第十回目の六十三(一九八八)年には十三万五千人が押し寄せ、以後数年は十三万人前後で推移した。その後は祭りへの集中混雑を避けてなのか、ラベンダーの開花シーズンに分散する傾向が強まり、減少傾向に推移した。
 八  「ラベンダー・オーナー制度」の発足

 昭和五十八(一九八三)年度の観光協会の理事会で、一色副会長から「上富良野の玄関口に当たる深山峠の田浦博氏の所有する畑(五ヘクタール)に、ラベンダーを植えると一段と景観が映えると思うので、ぜひ町が買収して観光資源を増やすべきではないか!」との発案が出された。
 協議の結果「町が買収することは農地法の関係からも、公園用地としての計画にのせるにも無理があるので、民間の力で何とか工夫できないだろうか」との意見に集約され、今後の検討課題とされた。
 私は、観光協会の事務局の一員として、この問題を解決すべく、「何かいいアイデアがないだろうか」と、いつも頭に描いていた。
 昭和五十八(一九八三)年十二月中旬の昼休みに、役場当直室のテレビでNHKのニユースを見ていると、確か旭川営林署だったと記憶しているが、「営林署で木材のオーナーを募集している。金額は二十万円で二十年後に立木を売って現金化し、収益を出資者と国が分け合うとする仕組み」とのことが画面に流れていた。
 私はこのニュースを見て、この制度をラベンダー畑(深山峠)の民間の力による拡張に応用できないだろうかと思いめぐらした。
 田浦氏が所有する深山峠の五ヘクタールの面積をラベンダー園にするには、五万株のラベンダーが必要であり、五年を目標に造成する事を考えると、一年に一万株、一人十株のオーナーを千口集める事で達成が可能ではないかと、またオーナーの年数は、造成計画が五年であることから五年間とし、一口一万円であれば手ごろな値段であり、ラベンダーのロマンに投資する人は結構いるのではないかと考えた。
 このラベンダーのオーナー制度の企画を役場に訪れていた第一企画の吉田氏に相談したところ、「うまくマスコミを使えば不可能ではないよ!」とのアドバイスを受けた、
 この計画を竹谷課長に相談したところ、「観光協会でやるのであれば問題はないと思うから理事会にかけて相談してみたら、また問題はオーナー募集を全国的に展開するにはどのような方法があるか、理事の皆さんはマスコミの利用についてあまり知識をもっていないだろうし、マスコミに関して専門知識を持った第一企画の吉田氏に、オブザーバーとして会議に出て、説明してもらってはどうか」との助言をもらった。
 昭和五十九(一九八四)年一月十八日に理事会を開きラベンダー・オーナー制度の企画(詳細は、後筆の同年三月三十一日発行の読売新聞全道版に掲載)を説明し、吉田氏から「マスコミの利用について、ニュースとして流すのであれば、宣伝費は殆んど掛からずに宣伝できる。また、全国からオーナーを募集するのであるから、信用を持ってもらう事が大事であり、町長さんを先頭に観光協会の役員さんが記者クラブ(上川支庁内)を訪問して、PRに努める必要がある」との説明を受けた。
 また、会議では、「観光協会の規模も大きくなり役場の御用機関を脱却して法人化すべきではないか」との意見が出された。
 同年三月二十三日に開いた理事会では「観光協会の法人化」と、「ラベンダー祭り」についての議題を事務局から説明し、「ラベンダー持ち株運動の計画」については、四月一日から始め、宣伝には「最初に新聞のニュースとして取り上げてもらうこと。ラジオ、テレビにミスラベンダーの出演を第一企画の吉田氏にお願いする。また、なるべく早い時期に観光協会長(町長)や副会長(助役、商工会長、農協組合長、議会議長)が旭川の記者クラブを訪ね、オーナー募集の説明をする」ことなどが協議された。
 また、理事からは、「実行するには金額(一年の事業費が一千万円になる)も事業の規模(全国展開)も大きいので、理事会の中にプロジェクトチームを作り進めてはどうか」との意見が出された。
 さっそくプロジェクトチームを立ち上げて実行することになり、プロジェクトのメンバーには、次の各氏が選ばれた。
会長  菅野 稔
会員 尾岸孝雄 金子隆一 岡沢孝春
高橋博男 松岡隆七 斉藤正弘

 九 「持ち株運動」は盗作?


 新聞に載る前に、第一企画の吉田氏から私に「HBCテレビの旭川局(上川地方のみの放送)に出て、ラベンダー持ち株運動の内容を説明してほしい。アナンサーの質問に答えることで良いから」と言われ、課長に相談したところ「事業については理事会の承認も頂いているし、宣伝に良い機会だから出て来なさい」とけしかけられた。
 昭和五十九(一九八四)年三月二十五日の日曜日に録画し、夜の地方版で放送されると言われ、第一企画の吉田氏に連れられてHBCテレビ局のスタジオに案内された。
 録画には竹谷課長と菅野理事、小野議長も同席され、すぐに撮影が始まった。
 最初にアナンサーから「ラベンダー持ち株運動を始めようとしたきっかけは何ですか」と質問され、予想もしなかった質問に戸惑うとともに、発想のきっかけが、NHKテレビの「木材オーナー募集」のニユースを見てヒントを得たということから、「他人の発想を盗用した」と思われるのではないかとの考えが一瞬頭をよぎり、頭の中が真っ白になって、次の言葉が出て来ませんでした。
 少し間をおいてから「全国のラベンダーのフアンの力を借りてラベンダー畑の拡張を試みようと考えました」と、質問とミスマッチな答えをしてしまい、あのときの恥ずかしかった気持ちは今でも忘れることが出来ません。
 この放送の後、とんでもない事が起こっていた。どこのチャンネルかははっきりしないが、人伝えに耳にしたところでは、全国ネットのテレビで、ジャーナリストの竹村健一氏がこのラベンダー持ち株運動のことを話題に取り上げたことから、瞬く間にこの運動のニュースが全国に広がっていったようで、テレビの宣伝力のすごさは次の日にさっそく表れて、予想外の反響の大きさに驚かされた。
 竹村健一氏の放送が、全国チャンネルの電波に乗っていたことなどは全く知らなかったので、翌日の朝から役場に事務所があった観光協会あての問い合わせの電話が殺到して、役場の機能が一時麻痺してしまった。総務課長から「野尻君、電話が殺到して苦情が来ているがどうなっているのだ!」と、苦言をいわれるほどであった。(この日に受けた観光協会あての照会の電話は、三百件を超えていたという)
 これくらいラベンダー持ち株運動が全国的に話題となったことは、ラベンダーに対する人気と、オーナー制度の持つ夢とロマンが多くの人の心を揺さぶり、マスコミも「持ち株運動」のユニークな試みに、ニュ―ス性を感じたことから、全国的に拡散して行ったのではないかと思われる。
 一方あまりにも早いオーナー運動の広がりと展開に、今後の進展を考えると、希望やらうれしい気持ちの半面、不安と恐ろしさが輻輳(ふくそう)して、複雑な思いであった。
 同年四月六日に開かれたプロジェクト会議では、「オーナー募集の現状」についてと、「今後のマスコミ利用による宣伝方法」、「深山峠オーナー園造成の方法」について、また「オーナー事業関係予算の見通し」について協議された。
 この会議で、ほとんどの理事はテレビ、ラジオ、新聞などのマスコミによるオーナー制度の全国的な広がりに驚くとともに、「深山峠のラベンダー造成だけでなく、日の出公園のラベンダー園の拡張にも応用してはどうか」との意見についても協議された。
 十 多くのテレビ・ラジオに出演
 昭和六十(一九八五)年度の上富良野十勝岳観光協会総会に出された「五十九年度事業報告」の観光宣伝に関する事業(ほとんどが第一企画の吉田氏による事業の展開であった)には、次のような宣伝に関する事業が報告されている。

 昭和五十九(一九八四)年度に、全国から依頼のあったマスコミに出演した回数等は次の通りである。
・ 四月十七日
 NHKラジオ、オーナー募集を放送
・四月二十七日
 町長、議長、商工会長等らが記者クラブを訪問
・五月二十二日
 HBCラジオでオーナー募集放送
・五月三十日
 テレビ朝日にキャンペーンガール出演
・六月二十九日
 TBSテレビ「三時に会いましょう」にミス出演
・七月一日
 NHKテレビ「昼のプレゼント」にミス出演
・七月十日
 日本経済新聞でオーナー募集記事取材
・七月十二日
 サンケイスポーツ新聞で取材
・七月十七日
 HBCテレビ「テレポート6」に出演
・七月三十日
 HBCテレビ ミス出演
・九月二十四日
 NHKラジオ「一村一品」で全国放送
・十一月二十三日
 NHKテレビ「まち自慢」にミス出演
※ 昭和五十九(一九八四)年度だけでマスコミへの登場は十二回にも及び、任期一年の「ミスラベンダー」は、キャンペーン事業に引っ張りだこの活躍を見せた。昭和五十六(一九八一)年に商店街連合会によって選出が始まった『ラベンダーガール』は、昭和六十三(一九八八)年七月二十三・二十四日に開催された第十回からラベンダーまつりの行事の中に組み込んで、公募による第一回『ラベンダーキャンペーンガール』発表に変わった。

掲載省略:写真 岩手県一戸市でのキャンペーン〜昭和63(1988)年9月23日
掲載省略:写真 ラベンダーキャンペーン風景〜平成12(2000)年5月25日

 この様にラベンダー持ち株運動は、多くのマスコミに取り上げられ全国に広まって行ったのである。
 しかし、これらの運動が素晴らしい成果を得た背景には、第一企画の吉田氏の力添えがあったことが大きな要因であり、五年後には事業費で収入が総額五千万円以上になる事業であることを考え、昭和五十九(一九八四)年四月一日付で商工観光課長に異動してきた成田政一新課長に、今までの経緯を説明して「この運動が成功したら宣伝費として第一企画に、百万円位支払う様に考えても良いのではないか」と話し合った。
 このことを口頭ではありましたが「この運動が成功したら宣伝費として第一企画に百万円を支払うことを課長と話し合っている」旨を、吉田氏に話した。ただ、私も計画の途中に人事異動で他の部所に変わることを考えていなかったことと、計画の完成が五年後であることから、第一企画との契約は文書で残していたわけではなかった。
 十一 観光協会の法人化と事務所独立

 計画期間の五年間には、いろいろな変化があった。
 その第一の変化は、観光協会長の町長が昭和五十八(一九八三)年九月に和田松ヱ門氏から酒匂佑一氏に変わったこと。計画の推進役である観光協会の事務局長(商工観光課長)が五年間に四人も交代したことである。昭和五十九(一九八四)年四月に竹谷岩俊氏から成田政一氏になり、同年十月には成田政一氏から安田斉氏に代わり、法人化した後、事務所を独立した六十二(一九八七)年四月には片井昭二氏が着任している。
 また、協会内部も、昭和五十九(一九八四)年十一月十四日の理事会(会長:酒匂佑一、副会長:倉本良輝、一色正三、菅野学、小野三郎、理事:南藤夫、野口光雄、清水一郎、尾岸孝雄、金子隆一、岡沢孝春、高橋博男、松岡隆七、会田義寛、斎藤正弘、塩田哲夫、有本保文、監事:辻甚作、佐藤勇、高田秀雄各氏)で、法人化改組の問題を進めるために準備委員会を設置し、準備委員に一色正三、高橋博男、斎藤正弘、南藤夫、尾岸孝雄、岡沢孝春各氏を選出して、法人化に向けての展開が進み始めた。
 観光協会の運営体制も、昭和六十(一九八五)年四月からの法人化に向けて役員のほとんどは民間人の中から選出することになり、四月二十三日に開かれた観光協会の総会に提案され承認された新役員予定者は、次の通りである。
 会長:安藤嘉浩(会社役員)、副会長:南藤夫(農業)、清水一郎(農業)、理事:松岡隆七(農業)、辻甚作(農業)、高田秀雄(農業)、佐藤勇(旅館業)、高橋博男(農業)、会田義寛(旅館業)、斎藤正弘(会社役員)、塩田哲夫(写真店)、岡沢孝春(会社役員)、監事:小玉庸朗(病院長)、一色正三(商工会長)、内村良三郎(農協専務)、事務局長 安田 斎(商工観光課長)、専従職員に打越孝弘、荒川幸子の二名の各氏が配置され、また同年八月に知事の認可を受けて法人化となったことから、事務局職員であった町の観光係が一名減員となった。
 六十二(一九八七)年四月一日からは、事務局も完全に独立して公民館の中に事務所を移した。新事務局長には役場を退職した片井昭二氏にバトンタッチされるなど、観光協会は多くの混乱が続いていた。
 このような状況と五年計画の事業で、第三年目から五年目までは計画の半数しかオーナーを集めることが出来ていなかったこともあって、第一企画との正式な文書での契約が施(ほどこ)されなかったのである。

掲載省略:写真 深山峠ラベンダーオーナー園〜昭和62(1987)年7月21日

 昭和六十二(一九八七)年三月に、観光協会事務所の公民館への移転独立とともに、私も教育委員会社会教育課長に転出したので、片井新事務局長に第一企画の吉田氏との関わりと、事業が成功したら百万円の宣伝費を支払う約束をしていることを引き継いだのだが、その後のことは私が観光業務から離れてしまったので、どのように処理されたかは定かではない。郷土をさぐる第九号で片井氏がオーナー制度について記載しており、その文章から推察すると第一企画の吉田氏との約束は果たしていないようにうかがえる。最終的に、約束を文章化して残していなかったことから、約束が反古となってしまい、せめて半額に減額してでも契約書に残すべきであったと反省し、吉田さんには本当に申し訳なかったと今でも思っている。
 この原稿を書くにあたり、オーナー制度の発足について、片井氏(郷土をさぐる第九号)と私の文章とは可成り違った内容となっているが、私は、私なりに自分の経験を伝えることで記載しており、どちらが正しいかなどの判断は、読者の皆さんにお任せしたいと思う。
 十二 持ち株運動の宣伝記事

 ラベンダー持ち株運動の宣伝は多岐にわたって行われている。その資料は、観光協会のプロジェクトチーム会長として活躍された菅野稔氏が、コピー百三十五n、七十一枚の冊子として残されており、その一部を転記させていただいた。

掲載省略:資料簿冊写真『ラベンダーオーナー制度新聞・情報誌等掲載記事』

 上富良野の観光と持ち株運動は、最初は公の力によって行われてきたが、その後は独立した観光協会による民間の力で、全国的な広がりで進められている。
 ラベンダー持ち株運動が最初に新聞記事に報道されたのは、読売新聞全道版の昭和五十九(一九八四)年三月三十一日付の新聞に掲載され、記事の内容には、事業発足の様子を克明に記載されている。
 ラベンダー持ち株運動
  〜栽培面積三倍に
……観光客の期待にこたえ〜


 観光資源の確保と過疎化阻止を狙って、二つの町が、それぞれユニークなアイデアを打ち出している。(他の町は丸瀬布町で、「フレンド町民」募集運動を展開)

 高貴な紫色で人気を集めるラベンダーの産地・空知郡上富良野町では、減る一方の栽培面積の拡大をめざして四月から「ラベンダー持ち株運動」を展開する。地元観光協会では、十年後に面積を三倍に増やし、訪れる観光客の期待にこたえると意気込む。
 ラベンダーは南フランスが原産地。日本では気候の似ている富良野地方だけで栽培されている。その中でも上富良野町に栽培面積が最も広い。しかし、広いとは言っても、昭和二十三年から国の補助金を受けて特用作物として栽培が行われ、八十五fにも達した三十〜三十六年に比べると、現在は町営二f、民間一・五fだけ。栽培農家戸数も四十戸から四戸に激減した。
 原因は、石けん、シャンプー、香水の原料となるラベンダーと同じ原料(ラテンバイン)が安くフランスから輸入されるようになり、農家が次々とイモ畑豆畑に転作したためだ。
 その一方で、観光資源としてのラベンダーの人気は高まり、特に三年前、テレビドラマ「北の国から」で紹介されてから毎年十二万人の観光客が、花の咲く七月中旬から八月中旬にかけて訪れている。だが、花畑の面積は少なく、失望する観光客もいるため、かみふらの十勝岳観光協会が持ち株運動でラベンダーを増やす作戦を開始した。
 一口一万円で十株のオーナーになってもらうもので、所有権は五年間。毎年収穫されるラベンダーは、ドライフラワーにして所有者に送るが、本人が畑で刈り取るのは自由。また、希望があれば本人に代わって委託販売し、最終年度に売上金を送金するシステム。
 一年目の今年は五百口(五十e)を募集するが、かなり申し込みがあるとみて千口分を用意している。来年以降も千口分を募集、十年間で十fのラベンダー畑にする計画。畑は旭川から富良野に通じる国道二三七号線の深山峠沿いで、車からの眺望もよいところ。同町では、ドライフラワーがミセスに人気があるところから、ミセスをターゲットに運動を広げていくという。(旭川)

掲載省略:新聞紙面 読売新聞(全道版)昭和59(1984)年3月31日
 十三 成田新課長への取材記事

 また、昭和五十九(一九八四)四月九日付の北海道新聞上川版の人物紹介欄で、四月一日付で新しく商工観光課長に異動してきた成田政一氏が十勝岳観光協会事務局長として紹介され、ラベンダー持ち株運動について次のように述べている。
 ラベンダーのオーナーに
      なってみませんかー


 上川管内上富良野町の十勝岳観光協会は四月一日からラベンダー持ち株運動をスタートさせた。その狙いは民間から資金を募ってラベンダー園を町内に造成しようという発想だ。

 *開花期の刈り取り自由

「要するに希望者に一口一万円で、わが町の町花であるラベンダー十株のオーナーになってもらい、集まった資金で広さ五fのラベンダー園を造成しようという計画です。もちろんオーナーは自分のラベンダーを開花期に自由に刈り取れるほか、希望によっては観光協会を通して香料材として東京のメーカーに販売、年四千円余りの収入を得ることが出来ます。ほかにラベンダーせっけん、香水、ドライフラワーといった商品を格安で買う特典もある。オーナーは決して損をしないシステムなんです」
「五fのラベンダー園をつくるには五万株が必要。一人十株で五千人のオーナーを集めたいわけです。造成地は十勝岳連峰を一望できる深山峠。美しい山並みをバックに『おかむらさき(編集注:ラベンダー品種)』が一面に広がるなんてロマンチックでしょう。真夏の開花期にラベンダーの真っただ中で野外コンサートやビヤガーデンなどを開く計画もあります。シーズン中二十万人は集めたいですね」
 新聞やテレビなどでこの持ち株運動が報道されると、事務局に申し込みや問い合わせが殺到、昨今のラベンダーブームをそのまま反映している感じだ。

 *予想以上の反響に驚き

「申し込みだけで既に四百件近い。問い合わせはその倍以上あり、正直なところびっくりしています。道内が主力と読んでいたんですが、本州方面からも結構多く割合は半々。遠くは九州、沖縄からの申し込みもあり、反響の大きさは予想以上でした。オーナーの方たちは上富良野の名前に親近感を抱いてくれるでしょう。つまりこの持ち株運動はマチのイメージアップにもつながるわけです。ラベンダーの里・上富良野は全国に広がるはずです」
 持ち株運動を始めた昭和五十九(一九八四)年度は、運動のユニークさもあって、全国各地の新聞・ラジオ・テレビなど、多くのマスコミに取り上げられて宣伝された。中には投資目的に一人で十口・二十口もの大口で申し込む人が現れたり、また、第一企画の吉田氏から、「キリンビール」と「JAL日本航空」から「深山峠のオーナーの持ち株全株を多額の金額で買収したい」との申し出があるが、「検討してほしい」との話もあった。
 私は、「ラベンダー・オーナー制度は、全国のラベンダーフアンに夢とロマンを提供し、観光客として上富良野へ訪れてもらう」ことが目的なので、投資目的や、全株引き受けでは「目的に反する事でありお受けできない」と、返答した。

掲載省略:雑誌紙面 雑誌「旅行読売」(旅行読売出版社)〜昭和59(1984)年8月1日発行
 十四 オーナー制度全国の新聞雑誌に掲載される
 そのほかの昭和五十九(一九八四)年〜平成五(一九九三)年までの記事で、掲載された新聞・雑誌等については、プロジェクト会長菅野稔氏が残された資料を参考にして紹介する。(資料が膨大になるため一部のみ紹介)
 この資料によると、昭和六十一(一九八六)年ころから毎年「オーナー募集」の資料を全国の新聞社等に送付して、記事としての掲載を依頼していたようで、平成六(一九九四)年度では七十五の新聞社に、平成七(一九九五)年度には、百二十九の新聞社に資料を送った記録が残されている。
◆ハーブのある暮らし〜講談社文庫「香りの花束」広田?子著 昭和五十九(一九八四)年四月二十日発行
  内容は
「かみふらの十勝岳観光協会事務局」 北海道空知郡上富良野町役場内〒番号 電話番号 (編集注:当時の事務局)
あなたもラベンダーのオーナーになることができます。ラベンダーの故郷ともいわれる上富良野の役場では、ラベンダー持ち株運動を始めました。一人一万円で十株を五年間所有することができ、管理や刈り取りは役場が行ってくれ、秋にはドライフラワーが所有者に届きます。その他、特典もありますので、くわしいことを知りたい方は、問い合わせてみてください。(資料から転記)
 以降掲載のその他の記事は、一部を除き名称のみ記載する。

◆旅情雑誌 「旅の手帳」弘済出版社
◆「日本海新聞」 鳥取県
◆週刊「TVガイド」 東京ニュース通信社
◆週刊「アサヒ芸能」
◆「旅行読売」 旅行読売出版社
◆「カード・エイジ」 エイチ・シー・ビー
 十五 募集内容の一部変更

◆花をクリエイトする雑誌「フローリスト」
  誠文堂新光社    昭和五十九(一九八四)年九月一日発行
 ラベンダーの里から   いまオーナーを募集しています

 今月の「花風景」に北海道上富良野からのラベンダー便りを紹介しましたが、かみふらの十勝岳観光協会で募集しているラベンダー・オーナーについてふれてみます。
 この組織に加入すると、一人一〇株一万円で、五年間オーナーになれます。オーナーは上富良野に行って協会の許可を得れば、所有する株の花を自由に刈り取ることができ、毎年収穫したラベンダーの花は、ドライにして送ってもらえます(送料オーナー負担)。
 また、販売手数料一〇%を支払えば、協会が時価で売りさばいてくれます。
 香水や石鹸など、協会で販売している製品は、市価の二〇%引きで買うことができます。
 ラベンダーの管理は協会が責任もって行い、委託販売の場合は毎年、生産高、販売高の報告があり、最終年度に合計額を送金してくれます。
 ラベンダー・オーナーの申込書は協会に連絡すれば送ってくれ、原則として一人一口です。
(申し込み先は省略)(この文章で新しくなったことは、販売手数料が一〇%であること、ドライフラワーの送料がオーナー負担であること、原則一人一口の加入であることが書き加えられている)
◆「北海タイムス」
 上川版(十回) 全道版(一回)
◆「北海タイムス」
  六十三(一九八八)年三月十五日(上川版)
 『北の浪漫紫人』発刊
   ラベンダー持ち株運動をPR


 かみふらの十勝岳観光協会は、ラベンダー持ち株運動をPRする観光パンフレット『北の浪漫紫人』をこのほど発刊した。
 ラベンダーの里・上富良野町は、丘陵地にラベンダーが植栽されていて、シーズンになると一面紫のじゅうたんを敷きつめたようになり、周囲の麦畑の黄金色、十勝岳連峰とマッチ、訪れた人たちにロマンを与えている。
 観光協会は、この美しいラベンダーの花株を全国の人に持ってもらおう、と五十九年からオーナー制度を導入し、日の出公園、深山峠、ヒノキオーナー園(編集注:昭和六十一年ヒノキ新薬鰍フ百口対応)として開放している。これまで三千人が会員になり、今年も受け付けているがこれまでに二百人が申し込んできている。会員には園に名前を書き入れて写真を送るほか、五年間毎年オーナー園で栽培したラベンダーの花をドライフラワーにしてプレゼントしている。
 今回のパンフレットは、オーナーに送付する一方、会員拡大と上富良野町の観光をPRしようと、つくった。横十八a、縦十一aで一万部印刷。内容は三オーナー園をカラー写真で紹介、ラベンダー・オーナー制度を記載。東亜国内航空スチュワーデス永田由紀子さんのわたしのラベンダー=A会員レターコーナー、昨年二十三人が園を訪れた感想、作家、松本清張さんのラベンダーに魅せられて=Aかみふらのの四季、ラベンダー製品などカラー写真を使い、十六nにまとめられている。(この記事から、作家・松本清張氏もオーナー会員になっていたことがわかる)
◆「北海道新聞」上川版(十二回)全道版(三回)

掲載省略:新聞紙面 北海道新聞(上川版)〜昭和61(1986)年5月11日

◆「ウッデイライフ」 山と渓谷社
◆「朝日新聞」 各地で(六回)
◆「毎日新聞」 各地で(三回)
◆「読売新聞」 道内版
◆旅の手軽な情報誌
   「北海道フリー」朝日新聞社
◆「地域情報」北海道東北開発公庫開発企画部
◆週刊「女性自身」
◆「西銀ランド」 西日本銀行広報室
◆「クロッシング」 日本交通公社
◆「ふるさと情報パック」山と渓谷社
◆ライダーマガジン「チャンプユー」ムックハウス
◆ペットと家族 「クオプレス」ホクレンペットフーズ
◆「ウッデイライフ臨時増刊号」山と渓谷社
◆週刊朝日臨時増刊「風を切って北海道」
◆大人の遊び提案ハイクオリテーな遊びマガジン「エリアントス」 T&Eジャパン
◆日刊「旭川新聞」
 十六 オーナーの料金を改正
◆健康と若さをつくる雑誌 「はつらつ」
       平成元(一九八九)年六月号
  北海道でラベンダー・オーナー募集中

 北海道の夏を紫色に彩るラベンダー。
 香り豊かなこのラベンダーのオーナーになりませんか、と上富良野十勝岳観光協会では、ただ今、オーナーを募集中。五年分送料込みで一万五千円を初年度におさめると十株のラベンダーが所有でき、毎年収穫される約千本の花をドライフラワーにして送ってもらえます。オーナーは自分の好きな時に上富良野へ行って自由に刈り取ることもできます。詳しくは、電話0167─45─3150へ。(この記事の内容からオーナーの料金が送料込みで一万五千円に値上げされたことがわかる)
◆「公明新聞」全国版
◆JR北海道情報誌 「THE JRHOKKIDO」(二回)
◆「ガーデンライフ」 誠文堂新光社
◆「全国農業新聞」(三回)
◆旅の手軽な情報誌「北海道フリー」毎日新聞社
◆心いきいき・ヒント・マガジン「パンプキン」
◆「さっぽろタウン情報誌」
◆日本エアシステム情報誌「アルカス」
◆「はいせんす絵本」 (株) フェリシモ
◆ハーブの全て「ハーブ大全」 小学館
   平成二(一九九〇)年五月二十日発刊
 かみふらの十勝岳観光協会 北海道空知郡上富良野町(一部省略)公民館内(編集注:当時) ?0167─45─3150 一万五千四百五十円で五年間、ラベンダー十株のオーナーになるプランを実施中。年一回、乾燥ハーブが送られる。(この年から消費税が上乗せされている)
◆旅の情報誌「じゃらん」
◆第百生命情報誌「スウイング」
◆農林水産情報「農林漁業現地情報」農林水産省統計情報部
◆ハーブ情報誌「フローリスト」別冊(三回)
◆北海道ニュース「特産品ガイド」北海道知事室広報課
◆全道イラスト地図「きた来る北海道」北海道観光連盟
◆「ハーブ百科」主婦と生活社
◆「北海道時刻表」 日本交通公社
 十七 オーナー料金再度値上げ
◆「日経流通新聞」 日経流通新聞社
     平成五(一九九三)年五月九日発刊
 ラベンダー・オーナー募集

 北海道上富良野町は、平成六年度の「香りのオーナー」を募集している。(一部省略)
 香りの特産品をアピールするため、「香りのオーナー制度」を九年前にスタートした。平成六年度の募集では、七百口を受け付ける。一口十株のオーナーになり、そこから収穫した花をドライフラワーに加工して宅配する。宅配は年一回、三年にわたって続け、一回に約千本の花が届く。これまで」二百口が決まっており、東京、大阪からの申し込みも多い。一口一万七千円。(この年からオーナーの料金が値上げされている)
 この他平成五(一九九三)年度の記事掲載は、次のとおりであった。

◆「でべろおぴんぐ」旭川開発建設部広報誌
◆「ジパング倶楽部」
◆オーナー制度情報誌 「ふるさと通信」
◆千趣会 お花を訪ねて「いつか行く旅」
◆ガイドブック 「南から北へ花の息吹にふれる旅」
◆生活選手「ビジオ・モノ」
◆手作りの香りを楽しむ 「ハーブ&ポプリクラフト」
◆旅の情報誌 「旅の手帳」
◆「園芸ガイド」埼玉県広報誌
◆旅の絵本「妖精村通信」
◆「北海道観光百景」 北海道
◆日本エアシステム社内版 「つばさ」
◆自己開発を応援する仕事情報誌「ダイヤモンド・エグセクテブ」
◆使える・得する・ハマる「キャズ」
◆情報マガジン 「タダダ」
 平成六(一九九四)年度は、オーナー資料を全国七十五新聞社に送付し、掲載実績は次の十社であった。
1、北国新聞
2、福井新聞
3、東奥日報社
4、読売新聞 朝刊・夕刊  
5、読売新聞
6、神戸新聞
7、中部経済新聞
8、京都新聞
9、福島民報社
10、鹿児島新報社
金沢
福井
青森
東京
名古屋
神戸
名古屋
京都
福島(カラー)
鹿児島
 平成七(一九九五)年度は、オーナー資料を全国百二十九新聞社に送付し、掲載実績は次の十三社であった。
1、上毛新聞         
2、埼玉新聞
3、山陽新聞
4、報知新聞
5、大分合同新聞
6、朝日新聞
7、朝日新聞
8、朝日新聞
9、今日新聞
10、福島民報社
11、大阪新聞
12、毎日新聞
13、産経新聞
群馬
埼玉
岡山・広島
関東
大分
北海道
空知版
埼玉
別府
福島
大阪
鹿児島
大阪(反応多い)
 十八 ラベンダー・オーナーの推移

 昭和五十九(一九八四)年から始めたラベンダー・オーナー制度は、現在まで制度内容の変更を経ながら続いており、その推移は、観光協会から提供を受けた資料により、表に示す通りである。
ラベンダーオーナー園会員数の推移
会員数推移 15,942名 16,354口 内訳:15,641名 16,017口 特別会員301名337口
年次 人数:名 口数:口 特別会員 会費:円 年数 場所 内容 備考(企業等大口)
'84(S59)年度 1,153 1,172 3〜 3 10,000 5年間 深山峠 10株  
'85(S60)年度 965 1,022 5〜 5 日の出公園  
'86(S61)年度 406 439 11〜11 日の出公園 ヒノキ新薬 100口
'87(S62)年度 310 320 4〜 4 日の出公園  
'88(S63)年度 338 354 13〜13 日の出公園  
'89(H元)年度 934 955 28〜28 15,000 深山峠  
'90(H02)年度 666 674 29〜29 15,450 日の出公園 フェリシモ 300口
'91(H03)年度 643 654 15〜15 日の出公園 フェリシモ 200口
'92(H04)年度 645 665 10〜10 日の出公園 フリック 10口
'93(H05)年度 541 550 2〜 2 日の出公園  
'94(H06)年度 691 700 7〜 7 17,000 3年間 深山峠  
'95(H07)年度 510 511 8〜 8 深山峠  
'96(H08)年度 710 731 1〜 1 日の出公園  
'97(H09)年度 695 700 27〜27 深山峠  
'98(H10)年度 430 435 8〜 8 深山峠  
'99(H11)年度 398 400 12〜12 日の出公園  
'00(H12)年度 262 265 10〜10 深山峠  
'01(H13)年度 142 152 3〜 3 10,500 2年間 深山峠 A:5株・オイル1個
 生花300gorドライ150g
B:5株・オイル1個
 生花200gorドライ100g
 
423 424 7,350  
'02(H14)年度 140 151 4〜 4 10,500 2年間 深山峠  
78 78 7,350  
'03(H15)年度 28 31 2〜 2 10,500 2年間 深山峠  
22 26 7,350  
161 165 15,750 C:5株・ドライ200g
  メロン2玉・オイル1個
 
'04(H16)年度 159 165 4〜 4 15,750 2年間 深山峠  
'05(H17)年度 110 116 1〜 1 10,000 1年間 深山峠
日の出
D:5株・ドライ300g
  メロン2玉・オイル1個
 
'06(H18)年度 704 715 3〜 3 深山峠 明治乳業 500口
'07(H19)年度 323 333 8〜 8 深山峠 北洋銀行 100口
'08(H20)年度 156 164 25〜43 深山峠 JTB 40口
'09(H21)年度 169 180 22〜40 深山峠 JTB 40口
'10(H22)年度 137 141 0〜 0 深山峠  
'11(H23)年度 129 134 5〜 5 深山峠
アートパーク
サンドラック 5口
銀座ソニービル 12口
'12(H24)年度 148 155 0〜 0 深山峠
アートパーク
サンドラック 5口
銀座ソニービル 6口
'13(H25)年度 夏 162 夏 165 夏1〜 1 10,000 1年間 深山峠
アートパーク
夏コース〜D
秋コース〜E
 5株・石鹸(大)1個
 ドライ300g・野菜4kg
サンドラック 5口
秋 52 秋 52
'14(H26)年度 夏 156 夏 156 0〜 0 10,000 1年間 深山峠 サンドラック 5口
秋 57 秋 58
'15(H27)年度 夏 146 夏 148 夏4〜 4 10,000 1年間 深山峠    
秋 54 秋 55
'16(H28)年度 夏 128 夏 133 夏8〜 8 10,000 1年間 深山峠 サンドラック 5口
秋 37 秋 37
'17(H29)年度 夏 162 夏 164 夏6〜 6 10,000 1年間 深山峠 夏コース〜D
秋コース〜E
ポッカサッポロ
 2株・ドライ200g
 香り袋
ラベンダーティーナイター
   春 31口
秋 55 秋 55
483 483 2,000 ポッカサッポロ 483口
'18(H30)年度 夏 138 夏 140 夏3〜 3 10,000 1年間 深山峠 夏コース〜D

秋コース〜E
サンドラック 5口
秋 54 秋 54
'19(R元)年度 夏 157 夏 160 夏2〜 2 10,000 1年間 深山峠 サンドラック 5口
牧野由依
  ライブ 35口
秋 48 秋 48
'20(R02)年度 夏 175 夏 180 夏5〜 5 11,000 1年間 深山峠 バスクリン 3口
秋 61 秋 61
'21(R03)年度 夏 136 夏 137 夏2〜 2 11,000 1年間 深山峠  
秋 54 秋 54
'22(R04)年度 夏 152 夏 153 夏3〜 3 11,000 1年間 深山峠  
秋 56 秋 56

機関誌      郷土をさぐる(第40号)
2023年3月31日印刷      2023年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀