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石碑(いしぶみ)が語る上富の歴史(19)
戦没者二七七柱慰霊の『忠魂碑』について(その一)

上富良野町本町五丁目 中村 有秀
昭和十二年十一月二十八日生(八十四歳)

(文脈以外の敬称略)
 はじめに
 二〇二一(令和三)年一二月八日の新聞・テレビ等で、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦から八十年と報道された。
 それは、一九四一(昭和一六)年一二月八日未明日本連合艦隊機動部隊が、米国のハワイ・オアフ島真珠湾を奇襲し、米国太平洋艦隊の主力に大打撃を与えた。これが、米英を敵国とした太平洋戦争の開戦と宣戦布告となった。その戦史の冒頭には
 ・日本時間午前二時 日本軍マレー半島上陸
 ・同日の午前三時十九分 米ハワイ真珠湾空襲
とあり、戦火は太平洋南方まで拡大された。
 それから八十年。郷土史を研究している仲間の田中正人氏が令和三年七月一日開催の上富良野戦没者追悼式に遺族として参列。
 コロナ禍により久しぶりに忠魂碑前での追悼式で様々な事が去来し、忠魂碑についての記録を書き遺した原稿が寄せられた。
 一九七一(昭和四六)年七月一日「忠魂碑」が改修建立(世話人代表 宇佐見利治氏)され、その経過、碑文、戦没者氏名、改修建立寄付者名等が詳細に書かれている。
 日露戦争の開戦から一一八年を経て、この機会に「忠魂碑」に関わる様々な事を後世に書き遺すのは今しかないと考え、私が(その一)。田中氏が(その二)として執筆し掲載する事にした。
一 明治三七、八年戦役 『凱旋記念碑』
 ◎揮毫 陸軍少尉 斉藤太郎
          正五位勲二等功四級
 ◎建立年 明治三九年(推定)
 ◎建立地 上富良野神社 社殿右側
 ◎碑身の大きさ
       高さ 一m五四p
       横幅 一m三〇p
       厚さ   四〇p
(一) 明治三七、八年戦役とは

 日本とロシアとの間で、満州、朝鮮の支配権をめぐる日露戦争の事で、明治三七、八年戦役ともいう。
 日清戦争(明治二七、八年)により得た日本の権益に対し、ロシアがこれを侵し朝鮮半島まで進出したので、一九〇四(明治三七)年二月一〇日、ロシアに対し宣戦布告した。
 遼東半島の旅順港を望む二〇三高地の要塞攻防戦は激烈を極めた。海軍は旅順港閉塞作戦を展開。
 一九〇五(明治三八)年五月二七日、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を壊滅させた。
 旭川第七師団は一九〇四(明治三七)年八月に動員され旅順攻囲軍に編入されて、偉勲を立てた。
 しかし、旭川第七師団の戦死傷者は一万一千人を超えた。上富良野村の戦死者は五名です。
 一九〇五(明治三八)年九月、米国の調停により講和が成立し、一九〇六(明治三九)年三月に旭川第七師団は凱旋帰国した。

(二)上富良野村の戦没者
戦没者氏名 戦没年月日
渡辺源太郎 明治三七年一一月三〇日
高松高次郎 明治三七年一二月二八日
十川 伊八 明治三八年 三月一〇日
西條 治平 明治三八年 三月一一日
今井小右エ門 明治三八年 三月三〇日
(三)凱旋記念碑の建立は

 上富良野百年史(平成一〇年八月発行)に、日露戦争と上富良野の人々として次の様に記してある。
 『日露戦争の凱旋歓迎寄付金、奨戦会積立金も募った。奨戦会積立金は田村栄次郎(ママ)らによって積立られたもので「戦役記念品を購入し従軍者及戦死病没者遺族に贈與する事」にその積立処分金をあて、三九年三月一二日解散した』とある。
 従って「凱旋歓迎寄付金」と、上富良野在郷軍人団(明治三九年結成)の活動で、『明治三七、八年戦役凱旋記念碑』は一九〇六(明治三九)年に建立されたと推察される。
二 凱旋記念の松
 明治三七、八年戦役『凱旋記念碑』について記して来たが、この日露戦争に従軍し凱旋された上村孫三郎氏の「凱旋記念の松」も歴史の一頁として記録に留めたい。
 上富良野村島津に在住の上村孫三郎氏が、明治三七年に勃発した日露戦争に従軍し、明治三八年九月五日の日露講和条約調印により帰国時に、凱旋記念として松の種子を持ち帰り、自宅の庭に蒔かれた。
 上富良野町は、一九七二(昭和四七)年三月二八日に「上富良野町文化財保護委員会条例」を制定し、上富良野町文化財保護委員会(初代委員長石川清一氏)が設置された。
 その条例に基づき、昭和四八年六月一五日付けで次の二点が上富良野町文化財として決定した。

掲載省略:写真〜凱旋記念の松
(一) 上富良野町指定文化財
@ 種 別 天然記念物
  名 称 「凱旋記念の松」(アカマツ)
  所在地 上富良野町東二線北二一号
  所有者 上村 孫一
 指定理由 所有者 上村孫一氏の父孫三郎氏が、明治三七年に勃発した日露戦争に従軍。翌三八年終戦の帰村時に凱旋記念として持ち帰った「松の種子」を、自宅の庭に蒔かれたという。
 この松は別名「峰の松」とも呼ばれ、本州、四国、九州、朝鮮に分布し、クロマツと共に日本の風景を形造っている代表樹種である。北海道では珍しく、この地方では現在も自生の事実がない松である。
 特に、この地方にない暖地に生育する樹種でありながら、七〇年の老松は上富良野町の風土に順応し、同種の寒地用樹にも増して健康であり、樹形も見事である。よって末永く保存する。
A 種 別 有形文化財
 名 称 「東中尋常高等小学校奉安殿」
 所在地 上富良野町東八線北一八号
    (八幡(マ)神社(マ)境内)
 所有者  東中住民会
 指定理由 省略
(二) 凱旋記念の松の歴史を辿る
         =上村家三世代で育てたアカマツ=
 上富良野島津に在住の上村孫三郎氏が、日露戦争から凱旋時にアカマツの種子を持ち帰り、自宅の庭に蒔いてから六九年の歳月が流れた。
 一九七三(昭和四八)年六月一五日に上富良野町指定文化財(天然記念物)となった。
 上村家の「孫三郎・のぶ」「孫一・アサエ」「泰治・明子」各夫妻が三世代で育成・剪定等に並々ならぬ作業を続け、明治・大正・昭和・平成の代を超え、見事な樹木に成長した松が「凱旋記念の松」と命名され、町内外の人々に知られる事になった。
(三)台風で凱旋記念の松が倒木
 上村家が三世代にわたって育成された「凱旋記念の松」は、二〇〇四(平成一六)年九月八日の台風十八号により倒木した。町内でも大きな被害があった。
 一九〇五(明治三八)年に、種子を蒔いて育てた「凱旋記念の松」は、倒木までの期間が一〇〇年の節目でもあった。
 島津住民会(向山安三会長)は、役員で倒木の処理にあたり、上富良野町はこの年一一月五日付けで指定文化財から解除した。
 「凱旋記念の松」は、歴史を伝え、地域を見守り百年の年輪を刻み続けており、誠に惜念の気持ちが湧いています。

掲載省略:新聞紙面〜「息絶えた凱旋の松」(日刊富良野2004.9.14)
三 忠魂碑

◎揮 毫 陸軍大将子爵 大迫 尚敏
◎建立年 大正七年七月
◎建立地 上富良野神社境内
◎碑身の大きさ 高さ 二m四〇p
        横幅 一m二〇p
        厚さ   四五p

(一)忠魂碑の建立年月日と忠魂祭について
 上富良野村史(昭和一八年執筆)の草稿原稿の「上富良野村在郷軍人分会の項に」忠魂碑の関係について次の記述がある。
 「大正七年八月一一日、神社境内に忠魂碑を建設し忠魂祭を行ふ」とあり、忠魂碑の建立は在郷軍人分会が中心となっているので、この建立月日の相違はどの様な理由があったのでしょうか。
 また、「招魂祭」として永年に亘って呼称し、村民、町民に親しまれて各種行事や出店があって賑やかに催され、建立時は「忠魂祭」であった事も判った。
(二)忠魂碑に刻名された戦没者名について
 上富良野開基七〇周年記念として昭和四二年八月に発行された「上富良野町史」(七〇年町史)には、戦死者名に次の様に記載されている。
 「裏面には大正七年七月建立とあって、戦死者の名が深く刻んである」として十川伊八氏から鹿間義一氏まで戦死者三一名が記してある。
 その戦死、戦病死年月日順に整理すると次の様になり、日清戦争の西山源治氏(明治三一年一〇月七日戦死)から大東亜戦争の高橋幸雄氏(昭和一七年一月三〇日戦死)までと判り、それを一覧にした。
氏 名 没年月日 氏 名 没年月日
1 今井小右エ門 明治38年3月30日 20 伊藤 十一 昭和14年6月27日
2 高松高次郎 明治37年12月28日 21 西谷  登 昭和14年8月24日
3 西山 源次 明治31年10月7日  22 北村 貞雄 昭和14年8月24日
4 十川 伊八 明治38年3月10日 23 永楽  覚 昭和14年8月23日
5 西條 治平 明治38年3月11日 24 鹿間 義一 昭和14年9月16日
6 渡辺源太郎 明治37年11月30日 25 高松 春由 昭和14年11月10日
7 松井 国松 大正8年8月21日 26 笹川 貯一 昭和14年3月31日
8 長谷 義雄 昭和7年3月12日 27 山口 晃一 昭和14年8月24日
9 菅原 七郎 昭和8年5月22日 28 佐々木正助 昭和16年1月12日
10 加藤 守男 昭和10年11月5日 29 包子 末一 昭和15年5月25日
11 小原 東治 昭和15年4月15日 30 萬谷 清一 昭和15年7月1日
12 ◎永田勇次郎 昭和12年1月28日 31 春名  f 昭和15年6月15日
13 飯田 一郎 昭和13年5月28日 32 吉田 栄良 昭和15年7月21日
14 遠藤 八郎 昭和10年9月29日 33 菊地 寅吉 昭和15年10月15日
15 佐々木儀男 昭和13年4月6日 34 遠藤 一男 昭和15年10月30日
16 ◎● 中田 銀蔵 昭和13年8月2日 35 上村 永吉 昭和16年2月27日
17 太田小太郎 昭和13年9月24日 36 竹沢 富夫 昭和16年3月30日
18 結城 勘作 昭和13年9月24日 37 広瀬 茂雄 昭和16年5月14日
19 皆口 鶴松 昭和13年11月25日 38 高橋 幸雄 昭和17年1月30日
 上富良野百年史には、「裏面に三一人の日露戦争の戦死者名が刻まれている」とあるが、三一人中の一名が日清戦争。三名が日露戦争の戦死者である。
 また、忠魂碑の建立は大正七年七月なので、建立後の戦没者は二七名に及んでいる。
 このことから、戦死公報に基づいて「忠魂碑」の
碑身裏面の上部に追加刻名されている状況が伺え、永年の風雪を越えて一部に戦死者名は判読出来る。(注 大東亜戦争以前の上富良野町史に漏れている御芳名に◎印。この後の項、中央墓地の墓碑がある御芳名に●印)
@ 三番 西山源治氏の戦死年の相違は
・「上富良野村史」(未完)と、「七〇年町史」には、明治二七年一〇月札幌病院にて戦病死。
・「上富良野百年史」編纂室作成の町内戦没者遺族名簿」及び上川支庁地区連合遺族会の創立四〇年記念史「英霊と共に四〇年の歩み」平成四年発行には、「明治三一年一〇月七日」とある。
・戦死年は相違するが、西山源治(源次)氏は、「日清戦争」での戦死であり、遺族が上富良野に移住して「忠魂碑」に祀られたと推察する。
A 七番 松井國松氏の戦役と戦死年

・大正八年八月二一日に戦病死とあり、その他の事は不詳となっている。
・上富良野出身の松井博和氏(元北海道大学大学院教授)が郷土をさぐる誌第二一号に博和氏の祖父仙松の兄である「松井國松氏」について、「第一次世界大戦(日本は主としてドイツと抗戦)で、二年の兵役後、軍隊生活で患った病気で旭川衛生病院に入院加療中、大正八年八月二一日死亡した」とある。
・旭川第七師団の一部がシベリアに出兵し、松井國松氏もその戦役にあった。
(三)中央墓地の墓碑
 江幌出身で栄町に在住の包子義昭氏(昭和七年生れ)・トシ子夫婦より貴重な証言を得た。
 祖国を愛し、護国の柱となって散華した崇高な大志を村民、子孫に遺したい意向もあり、「村葬を持って英霊の功績を讃えると共に、昭和十五年頃までの戦没者には村費をもって中央墓地の一角に碑石を建立した」と記憶にあり、「江幌小学校の卒業には渡辺悟郎先生が担任で、江幌で亡くなった方の遺影を掲げ敬った」と話された。
 尚、戦況の拡大と犠牲者の増大により以後、墓碑の建立は出来なくなっている。

掲載省略:写真〜町営墓地の15基の墓標(名簿●印)
(四)忠魂碑の碑身裏に「額」を取った痕跡が
 忠魂碑の碑身裏面の上部に戦死者三一名の氏名が刻まれているが五〇p四方の「額」が彫ってある。
 この項の共同執筆者の田中正人氏と、その痕跡について検討した。
 「額」内外には、一部文字を削った形跡が見られる。これは、忠魂碑建立の「趣意」と戦死した英霊を讃える「銅板碑文」があったと判断されますが、それを取ったような痕跡です。上部の右半分は刻字の彫りも深く読み取れるが、左半分は判読が難しい程削り取られた跡になっていてかろうじて判読出来る程度である。
 一九四五(昭和二〇)年、大東亜戦争の終結に伴い、占領軍(GHQ)の指示により、軍国調のものは一切を撤去するよう命ぜられた理由と思われる。
更に興味深いのは、上川管内の比布町他の忠魂碑塔等に様々な事例があった。
 上富良野では表面の「忠魂碑」の文字は肉太で深く刻まれて鮮明に残っていて難を逃れている。

掲載省略:写真〜忠魂碑の裏面
掲載省略:写真〜昭和5年建立牛馬供養追善記念碑
この外に下川町(下川神社)も変更した記録が残されている。
上富良野町

表面は難を逃れたが
裏面に異変が
(上富良野町神社)
当麻町

忠魂を板で覆い後に板
を取り外した(當麻神社)
下川町

忠魂碑を頌徳碑にする
(桜ヶ丘公園)
東神楽町

忠魂碑の忠を削り顕功
碑に。
(東神楽神社義経台)
和寒町

忠魂碑〜平和塔に後忠
魂に戻す。
(保健福祉センター)
愛別町

平成3年に移転再整備。
(北町スポーツ公園)
名寄市

忠魂碑〜殉公碑後又忠
魂碑に。(名寄神社)
富良野市

忠霊塔を平和記念塔に
する。(朝日ケ丘公園)
富良野市

忠魂碑別に有り。(富良
野小学校〜富良野神社
に移設)
(五)揮毫 陸軍中将 大迫尚敏とは
 一八四四(弘化元)年一二月二四日 薩摩藩士(鹿児島)大迫新蔵の長男として生まれる。
 薩摩藩の造士館で学び、薩摩藩五番組として薩英戦争に従軍。戊辰戦争従軍の後、一八七一(明治四)年三月、陸軍に入り御親兵に属す。同年少尉・中尉と進み、一八七四(明治七)年には陸軍大尉となる。
 一八七七(明治一〇)年、西南戦争に出征し、戦中の同年四月に陸軍少佐熊本鎮台参謀に進む。
 一八八三(明治一六)年六月、陸軍中佐・歩兵第六連隊長、一八八五(明治一八)年五月に近衛歩兵第一連隊長、一八八七(明治二〇)年に陸軍大佐に進級。一八九〇(明治二三)年一〇月、第四師団参謀長、翌年の参謀本部第一局長を経て、一八九二(明治二五)年九月、陸軍少将に進み歩兵第五旅団長に就任。
 この時、日清戦争が起こり出征する。その功により一八九五(明治二八)年八月に、男爵の爵位を授かり華族に列せられた。
 その後、参謀本部次長となり、階級は陸軍中将に進み一九〇〇(明治三三)年四月、永山武四郎中将の後任として、第二代の第七師団長に就任する。
 一九〇四(明治三七)年二月に始まった日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略の為、八月に第七師団の動員が決まった。乃木希典大将の指揮する第三軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。その後も奉天会戦に参戦し一九〇六(明治三九)年三月に帰国する。
 この時の功により同年四月、功二級金鵄勲章を賜り、五月に陸軍大将に進む。
 一九〇七(明治四〇)年九月、子爵に陞爵(しょうしゃく)し、同年一一月一三日、予備役に編入となる。
 一九〇九(明治四二)年四月一日に後備役となり、一九一四(大正三)年四月一日に退役した。
 一九一二(明治四五)年七月三〇日明治天皇が崩御、九月一三日に大喪が行われたその日に、学習院院長であった乃木希典大将夫妻が殉死されたので、その後任として同年一一月に学習院院長に就任し、一九一七年(大正六)年八月まで務める。
 一九二七(昭和二)年九月二〇日、享年八四歳で逝去。同日付で勲一等旭日桐花大綬章受章。

掲載省略:写真〜大迫尚敏氏肖像
(六)第七師団長 大迫尚敏氏の余録
@ 人物像の評は

 古武士的な風貌に加え、和歌と漢詩に長け、子息を日露戦争の旅順戦で亡くした。
 乃木希典大将の後任として学習院院長を五年努める等の経歴から薩摩の乃木希典大将の異名を持つ。

A 帝国在郷軍人会本部会長に推されるも

 帝国在郷軍人会の創立は日清戦争や日露戦争の終結時に陸海軍で検討されていた。
 一九一〇年(明治四三)年の晩春に陸海軍の現職四者協議により規則・規約他の案が決定した。
 寺内陸軍大臣は本部会長に、「古老の故をもって後備陸軍大将大迫尚敏氏に白羽の矢をたてたが、これを固辞されたと」創立発起人会で報告された。
 会長問題は難産であったが、発起人将官の協議により寺内陸軍大臣に就任を請うて承諾を受けた。
 それにより、一九一〇(明治四三)年一一月三日東京偕行社において帝国在郷軍人会の発会式が挙げられた。
  会老 元帥陸軍大将 公爵 山形 有朋
  会老 元帥陸軍大将 公爵 大山  巌
  会長 陸軍大将   子爵 寺内 正毅
 なお、本部評議委員一八名の中に上富良野にある『明治三七、八年戦役 凱旋記念碑』の揮毫者 斉藤太郎氏が陸軍中将として連なっている。

B 上川管内の「忠魂碑」等の揮毫

 上川管内二三市町村の全部に、各戦役で戦死された英霊を祀る「碑、塔」がある。
 第七師団長 大迫尚敏氏が揮毫された碑は四基あり建立年順に記す。(上川支庁地区遺族会発行 英霊と共に四十年の歩み より)
●東神楽町
・碑 名  顕功碑
・建立年  一九〇四(明治三七)年
・揮 毫  第七師団長 大迫中将
・建立地  東神楽町義経台

●上富良野町
・碑 名  忠魂碑
・建立年  一九一八(大正七)年七月
・揮 毫  陸軍大将 子爵 大迫尚敏書
・建立地  上富良野町神社境内

●富良野市
・碑 名  忠魂碑
・建立年  一九一八(大正七)年一一月
・揮 毫  陸軍大将 子爵 大迫尚敏書
・建立地  富良野小学校校庭→富良野町神社境内

●当麻町
・碑 名  忠魂
・建立年  一九二五(大正一五)年
・揮 毫  第七師団長 大迫尚敏中将
・建立地  当麻町柏ヶ丘
C 旭川市の「旭橋」の命名

 一八九九(明治三二)年四月第七師団設置に伴い、軍隊の配備が完了。 旭川駅から師団所在地(近文)間の道路整備が進み。石狩川に架かる鷹栖橋(明治二七年に高欄付きの木橋に改築)は、一九〇一(明治三四)年に鉄骨の永久橋に掛け替え工事が始められ、一九〇四(明治三七)年五月に竣工し、大迫第七師団長が「旭橋」と命名した。
 「旭橋」は軍用幹線道路としての風格を備えるに至った。
 道路も通称で「師団道路」から「師団通り」となった。第二次世界大戦の終戦後は、「平和通り」となる。

掲載省略:写真〜明治37年5月に竣工の旭橋
四 忠魂碑を支えた関係団体
 日露戦争から各戦役での戦没者を英霊として「忠魂碑」に祀って百十余年の歴史を刻んで来ました。
 明治・大正・昭和・平成・令和とその時代、時代を背景に多くの関係団体が、その慰霊と護持に務めて来ましたが、村史(未刊五〇周年)、町史(七〇年)、百年史等を含めて、創立・設立・改編について年代順に記するが、時局と時代の流れが感じられる。
 特に、一九四五(昭和二〇)年八月の終戦時までは戦局の激化に伴い、国策によって次々と戦時体制へ組織強化が進められた事が判断される。

掲載省略:写真〜愛国婦人会上富良野支部
◆ 戦前 (昭和二〇年の終戦まで)
(一) 「愛国婦人会上富良野支部」の創立

 一九〇一(明治三四)年二月に創立とあるが、愛国婦人会は軍事援護事業を目的とする婦人団体で、一九〇〇(明治三三)年の北支事変(義和団事件)に東本願寺の慰問団に加わって従軍した「奥村五百子(いおこ)」が、戦場の経験から強い軍隊と出征兵士、傷病兵の慰問や、軍人遺家族の援護に女性も立たねばと、一九〇一(明治三四)年二月一四日に創立し、「半襟一掛の用を節し」として全国に活動を展開した。
 日露戦争の一九〇五(明治三八)年には、会員が四六万三千人に達し、日本最大の婦人団体となり、慰問袋の作成や、兵士の送迎を行っているとある。
 従って、上富良野支部の創立は明治三七、八年の
日露戦争の頃と考えられる。明治四二年発行の「上富良野誌」(分村前の中富良野も含む)には、愛国婦人会会員四二名の氏名があるが、七〇周年町史には明治三四年創立は全国的なので、もっと遅いと記してある。
(二) 「上富良野村在郷軍人団」の設立
 一九〇六(明治三九)年日露戦争の凱旋兵士が中心になって設立された。
  団 長  後備陸軍二等軍医 成瀬 孝三
  副団長  後備陸軍歩兵中尉 吉田貞次郎
(三) 「帝国在郷軍人会上富良野分会」の設立
 一九一〇(明治四三)年一一月三日、国策により在郷軍人の統一指導機関として、帝国在郷軍人会上富良野分会が設立された。在郷軍人団は発展的に解散した。
 歴代会長及び、就任年月日は次の通りである。

   初代 成瀬 孝三  明治四三年一一月三日
   二代 吉田貞次郎  明治四五年 四月一日
   三代 山本逸太郎  昭和一四年四月二一日
   四代 西野目喜太郎 昭和一八年 四月八日

 在郷軍人会の事業は、国防思想の普及を中心に多岐に亘り、特に「忠魂碑」や「慰霊塔」の建立・建設は、上川支庁管内の各々の市町村にある在郷軍人会分会が中核となっている。
 従って、上富良野村の「忠魂碑」も、帝国在郷軍人会上富良野分会が中心となって、一九一八(大正七)年七月に建立以来、一九四五(昭和二〇)年まで「招魂祭」を担っていた。
(四)「大日本国防婦人会上富良野分会」の設立
 一九三五(昭和一〇)年に設立された。
 一九三一(昭和六)年九月一八日の満州奉天(審陽)北方柳条溝での南満鉄道爆破事件を契機として満州事変勃発により、国家総動員の立場から、大日本国防婦人会の町村組織として設立された。
 上富良野分会は各地区毎に全戸加入の班体制を取って、会員は千二百余名となった。
 愛国婦人会と共に出征軍人のの送迎、英霊の弔慰につとめたられた。

掲載省略:写真〜大日本国防婦人会上富良野分会
(五)「上富良野軍友会」の発会
 一九三六(昭和一一)年三月一二日発会式を行う。「軍友会の」の目的は、在郷軍人会上富良野分会を後援し、その健全なる発展を促し併せて国防の強化と社会の公益を図るとしている。
 会員は、上富良野在住の在郷軍人服役期間満了者によって組織され、会員数は二一〇名。

   発会式での創立役員
 会 長 吉田貞次郎  副会長 鹿間勘五郎
             〃  田中勝次郎
 一九四三(昭和一八年)会 長 田中勝次郎
            副会長 鹿間勘五郎
             〃  山口 梅吉
(六)「上富良野村銃後後援会」の設立
 一九三七(昭和一二)年八月一日に設立。村内の一三行政区を銃後後援会分会とし、会長には村長の金子浩氏、副会長には助役の白井重吉氏が就任。
 上富良野村の設立から一三日後に、道庁は銃後後援会を設置するよう昭和一二年八月一四日付けで、各支庁長、全市町村に指示された。
 上富良野村銃後後援会は、村及び村民の時局を見据えた迅速な対応を感じた。
◎銃後後援会寄附者芳名録
 村内全戸に銃後後援会が寄附を募り、一四六二戸から七千七四六円八六銭に達した。村の広報誌「我村」の第二六号(昭和一二年一一月二五日発行)にて各分会毎に寄附者名と金額が掲載されている。
 この「上富良野村銃後後援会寄附者芳名録」を基に、上富良野郷土をさぐる会が上富良野開基百年記念事業として、ふるさと上富良野「昭和一一年頃の街並みと地区の家々」として全戸を地図化して一九九八(平成一〇)年三月三〇日発刊した。編集作画の作業は、市街地は佐藤輝雄氏(本町)、郡部は成田政一氏(新町)が受け持ち、関係町民一七一名から聞き取り確認の大変な行程を経て完成させた。

 銃後後援会は、一九三九(昭和一四年)四月一日に国の指示により、全国市町村が一勢に「銃後奉公会」となり、同年一〇月二八日には郷土防衛を目的に、「上富良野防護団」として結成された。

掲載省略:広報誌面〜『我村』と寄附者芳名録記事・銃後後援会規約
(七)「大日本婦人会上富良野分会」の創立
 一九四二(昭和一七)年七月四日に創立された。
 当時の上富良野村には「愛国婦人会」と「国防婦人会」があり、その活動は軍人援護、遺家族慰問、その他諸種の国民運動に尽力してきた。
 大東亜戦争勃発により、政府は愛国と、国防の一元的に統一する必要から、昭和一七年二月二日に、「大日本婦人会」を創立した。村は、中央の要請に従い、昭和一七年七月四日に発足した。会員は二一二〇余名である。
 役員は、
   分会長  金子 シナ(金子浩村長夫人)
   副分会長 山本  忍(山本逸太郎夫人)
   副分会長 西野目ユキ(西野目喜太郎夫人)

掲載省略:写真〜愛国婦人会と国防婦人会合同での慰問袋作成
(八)戦時中の国家経済統制等について
 大東亜戦争の戦域拡大や戦局の悪化により、国は経済・産業・技術で多くの分野で統制を実施した。国民生活に関わる一部を次頁に記すが戦争による国民の耐乏生活が深刻化した。
(九)兵役法の改正について
 ・兵役法施行規則改正交付(陸軍省令)
 一九四四(昭和一九)年一〇月一八日付けにて一七歳以上を兵役編入とあるので、上富良野村の一〇代で戦死された少年を調査すると、次頁の四名があり、大正一五年・一四年生まれの戦死者は九名おり、戦争で短い青春と人生が閉じられた。
 ・『浪夫記』より(五男土井幸吉編集発行)
 下記の故土井繁氏の父である土井浪夫氏が八三歳の昭和五三年一月に「浪夫記」を作った。その文中には「四男繁は、一五歳にて少年海兵団通信兵として入隊。一七歳にしてトラック島の夏島にて戦死す」そして母ミヨネさんの深い悲しみと落胆ぶりが書かれている。
 また、別頁には、「繁が死んでから三〇年。繁の墓を私の手でやっと建てました」とありました。
 その時に詠まれた短歌は、

    〜疾く逝きし
   吾子の墓に たたずめば
         墨新しく 秋風の立つ〜

 若くして戦禍に散った遺家族の皆様の心情が詠まれているので掲載しました。
上富良野村少年兵戦死者一覧
氏名 生年月日 戦死年月日 享年 戦没地
土井  繁 昭和4年3月15日 昭和20年11月29日 17歳 トラック島
川上  享 昭和3年2月20日 昭和20年6月18日 18歳 北太平洋
北川  享 昭和2年1月2日 昭和20年1月24日 19歳 徐州陸軍病院
高田  弘 昭和2年6月9日 昭和20年12月2日 19歳 不祥
西暦(年) 和暦(年) 月日 施策等
1938 昭和13 9月19日 商工省 石炭配給統制規則を公布 切符制度へ
1939 昭和14 4月12日 米穀配給統制法公布
1941 昭和16 4月1日 米穀配給通帳制・外食券制実施
1942 昭和17 1月1日 塩通帳制配給実施
2月1日 味噌醤油切符配給・衣料点数切符制実施
5月9日 金属回収令(寺院の仏具・梵鐘等の強制供出)
1943 昭和18 3月24日 金属回収本部官制交付(家庭の金属供出)
(一〇)「上富良村国民義勇隊」の編成
 一九四五(昭和二〇)年六月二三日、国は戦局の悪化に伴い本土決戦も考え、「義勇兵役法」を公布。その内容は「男子は一五歳以上〜六〇歳以下・女子は一七歳以上四〇歳下を国民義勇戦闘隊に編成す」とあり、戦争遂行のために数々の既存組織を一切解散し、全て国民義勇隊となり、国土防衛の任に。
 上富良野村も即時に、銃後の一切の組織を解散し、国民義勇隊に統一し、上富良野村幕僚長に金子浩村長がなった。この義勇隊は、八月一五日の終戦と共に自然消滅した。
 しかし、終戦を知らず国民義勇隊訓練をしていた東中在住の「上村重雄氏」が、郷土をさぐる誌第五号に次の様に寄稿されている。
 ―終戦の日の思い出―
 『私達は、終戦の日の昭和二〇年八月一五日は早朝五時から、東中国民学校校庭において、国民義勇戦闘学校隊・東中中隊の編成完結式並びに戦闘訓練が男女合同により実施され、郷土防衛の使命を担って立ち上がったのでした。
 当日、午後も終戦を知らずに第一小隊の竹槍訓練を東七線北一七号の道路上で藁人形を使って男女合同で実施の最中、当時の少年隊伝令の久保田英市隊員が来て、「本日正午に戦争が終わった」との本部からの通告を口頭で私達青年隊員に伝達された。
 全員が涙を流し、その場で宮城を遙拝し、最後の「君が代」をあふれる涙をぬぐおうともせず斉唱したのでした。
 この時に流した涙には様々な思いが秘められて、敗戦による虚脱感と同時にこれでやっと平和が訪れると言う安堵感が、複雑に錯綜したのでした。
 そして二度とこんな悲劇が起こらないことを心から願った。』
と結び、国民の真実の声だったと思う。
 上村重雄氏は一九二八(昭和三)年四月三日生まれで、昭和二〇年の終戦は一七歳であった。
 この寄稿文は、「昭和六〇年八月記」とあるので、戦後四〇年を経ての貴重な歴史の証と判断し、掲載しました。
(一一) 戦時中の銃後体制の変遷について
@ 「上富良村壮年連盟」の設立
 一九三一(昭和六)年二月一一日に農業者を中心に「上富産業組合青年連盟」を設立したが、戦時体制下で農民の利益だけでは行けないとして、一九四一(昭和一六)年一月八日に解散した。
 その二日後の、昭和一六年一月一〇日に「上富良野村壮年連盟」を設立し、幹事長に和田松ヱ門氏。

A 「大政翼賛会上富良野支部」の結成
 一九四〇(昭和一五)年一〇月一二日、第二次近衛内閣によって、新体制運動推進のために、創立された官制的な国民統合組織であった。昭和一六年二月一四日に上川支庁支部が組織されてから同じ月に上富良野支部が結成となり、上富良野村と翼賛体制のもとに編成されて行く。
  支部長 金子 浩氏(村長)


B 「上富良野農業報国挺身隊」の結成
 一九三一(昭和六年二月に設立されていた、「上富産業組合青年連盟」が、一九四一(昭和一六)年一月「上富良野村壮年連盟」となった。
 その後、国は産業報国を単位産業報国会として、部隊組織に再編の変形として、「上富良野農業報国挺身隊」が一九四一(昭和一六)年七月一五日に結成された。
  支部長 和田松ヱ門氏
(和田松ヱ門)回顧録には支部長委嘱とある。

C 「上富良野翼賛壮年団」の結成
 一九四一(昭和一六)年一月一〇日設立した「上富良村壮年連盟」は「大政翼賛会上富良野支部」の結成から一年後に解散した。時局の動きに対応し、「上富良野翼賛壮年団」として一九四二(昭和一七)年三月三一日に結成され、翼賛会の傘下に。
  名誉団長 金子  浩氏(村長)
  団 長  和田松ヱ門氏
  副団長  金子 全一氏

D 「上富良野村農産物出荷協力隊」
 一九四二(昭和一七)年九月に、全村農業者を以て発足した。
 働き手の中心者が戦役のため、収穫・脱穀・荷造り等の遅延者に手間替え作業を実施すると共に、出荷の最盛期には、隊員一八〇名、馬車六五台を出動し、貨車の積み込み・荷下ろしを行い、滞貨の一掃と農産物の円滑な協力を続けた。
  協力隊長 和田松ヱ門氏

E 「国民勤労報国隊」の動員
 一九四一(昭和一六)年一一月一二日に、国民勤労報国協力令が公布となり男子は一四歳から四〇歳、女子は一四歳から二五歳の未婚者の勤労奉仕が義務付けられた。
 勤労者が軍隊に召集されて、鉱山・工場等で労務不足となり、勤労動員が強化されていった。
 上富良野村では、一九四三(昭和一八)年から勤労動員が始まり、この年に上芦別炭鉱・奈井江炭鉱に二五人が動員されていた。
 一九四四(昭和一九)年には、一三カ所の炭鉱・木工場等に七六名の国民勤労報国隊の出動があり、主に市街地の男子に課せられており、長期の者は三ケ月にも及んでいた。

F 「女子勤労挺身隊」の動員
 一九四四(昭和十九)年一月一八日にに、国は緊急国民勤労動員方策要綱を決定して動員規模を拡大し、八月二三日には女子勤労挺身隊令を公布した。
 上富良野村では布部石綿に五名が十九年四月二五日から、同じく五名が一一月六日よりそれぞれ一ケ年動員されていた。
 また、横浜市の古河電気に八名、ニシン加工のために礼文島へ一〇名が動員されたと、村役場の昭和一九年事務報告にある。

G 学徒勤労動員の援農隊
 一九四二(昭和十七)年一月九日に、国民勤労報国協力令施行規則に基づいて「学徒動員法」が発出。
 一九四三(昭和十八)年六月二五日に、「学徒戦時動員体制確立要綱が閣議で決定され、学徒の動員が法制化された。
 出征家族で営農困難な農家に優先的に配属され、援農隊の若い力で労働力の補充と食料増産に、遠く親元を離れて、一五・一六歳の少年が汗を流してくれた。
 学徒勤労動員の援農隊状況を年度別に記すと
◆ 昭和十七年
・北海道庁立旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)
 六月二〇日〜六月二五日(二〇名)(村内の各地区)
 一〇月一日〜一〇月五日(四〇名)(  〃   )

◆ 昭和十八年
・岐阜県立可児実業学校(現・岐阜県立東濃実業高等学校)
 五月 八日〜六月十二日(四五名)(江幌静修草分)
・岐阜県立郡上農林学校(現・岐阜県立郡上高等学校)
 五月 五日〜六月十五日(四六名)(市街地近郊)
・山口県立宇部農芸学校(現・山口県立宇部西高等学校)
 六月 六日〜八月一三日(四一名)(東中)
・山口県立小郡農学校(現、山口県立山口農業高等学校)
 六月 七日〜八月一二日(一〇五名)(東中除く村内全域)

◆ 昭和十九年
・長野県立北安曇農学校(現・長野県池田工業高等学校)
 五月二〇日〜八月二五日(八三名)(村内全域)
・札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)
 六月一五日〜七月三一日(上富良野・中富良野全地域)
 八月七日〜一〇月三一日(併せて二九〇名)
・茨城県立大子農林学校(現、県立大子清流高等学校)
 八月一七日〜一一月一五日(村内全域九六名)

◆ 昭和二〇年
・北海道庁立函館商業学校(現・函館商業高等学校)
 五月二〇日〜一一月一六日(五六名)(東中・島津)
・小樽双葉女学校(現・小樽双葉高等学校)
 六月一二日一〇月上旬(東中地区)
・小樽私立女子商業学校(現・閉校)
 八月一日〜九月二五日(四五名)(東中地区)
 昭和二〇年の動員援農隊は、北海道内の三学校であった。八月一五日正午、戦争終結の詔書放送を引率の教諭と生徒は、援農先の地区の人々と共に聞き、銃後の任務に精励していたのにと涙を流された。
 終戦になったが、援農隊は秋の収穫を終えてから地区の人々の感謝と見送りをうけ、農産物、澱粉などのお土産を持ちそれぞれの学校・親許に帰られた
―援農隊の事例についてー
 一番遠方の学校は山口県の宇部農芸学校、小郡農学校で、県下の他の農学校と共に北海道援農隊として臨時列車で出発した。当時の輸送状況が悪く三泊四日を要した。
 出発の服装は制服制帽または国防色の服に戦闘帽・巻脚絆・地下足袋・腕章・着替えや教科書などを入れたリュックを背負った姿であった。
 宿泊は、分宿組は援農先の農家へ。合宿組は、国民学校(青年学校)・お寺・地区集会所に泊まり、食事は旭川・上富良野の女子青年団と大日本婦人会が炊事を担った。
 援農期間の長い学校は函館商業学校の六五名の学生で、五月から一一月までの六ヶ月で一八八日の長きに亘り未経験で不慣れな農作業に頑張ってくれた。終戦によって「援農報国隊」は、「祖国再建報国隊」となった。
 食糧事情は、戦争中の統制経済から終戦により悪化した。食糧確保のために、援農隊員は「食糧の買い出し」として援農先を訪れ、暖かく迎えてくれて食糧確保にお世話になったと記してある。

掲載省略:写真〜長野県北安曇農学校援農隊(上富良野創成青年学校にて)
―戦後五〇年援農隊員が上富良野へー

 一九九五(平成七)年に、終戦五〇年を迎えたが学徒動員としての援農隊員は六〇歳半ばとなった。
 一九九四(平成六)年に、札幌商業・函館商業・
小樽双葉女学校・岐阜可児実業・茨城大子農林・長野北安曇農学校等からグループや個人を含め百名以上の元援農隊員が来町し、受け入れ農家を訪問された。
 当時の世帯主や遠くからの家族が駆けつけてくれた交流で、往事を偲び感動と余韻を味わえた方、受け入れ農家が離農し寂しい思いをされた方、世代交代で何となく話が合わなかったり、先代の写真を見て仏壇の位牌に頭を垂れ、五〇年の時の流れに思いを馳せる姿には、健気な一五歳の少年と少女の
後ろ姿でしかなかった。
 そして、「一日でも先代に今の私の姿を見て頂きたかった」等々、援農以来の五〇年振りの再会が話題になったと、下田達雄氏(元 東中中学校校長)著の「昭和の軌跡―北の大地への学徒勤労動員―上富良野村の場合」に記述されている。
 五〇年振りに訪れた元援農隊のことが、新聞、テレビで報道された。新聞記事の一部を紹介する。

掲載省略:新聞紙面〜元援農製の訪問を報じる北海道新聞紙面
掲載省略:写真〜岐阜県可児実業学校旧援農団上富良野訪問(1994.8.25)
掲載省略:写真〜茨木県太子農林学校旧援農団上富良野訪問(1994.6.21)

 一九九四(平成六)年四月付けの北海道新聞夕刊「まど」の記事の田中久さんは明治三六年生まれ、夫の庄蔵さんは明治三〇年生まれですが長男の清一氏は(昭和一七年八月二一日にガダルカナル戦死)された。次男の乙(きのと)氏は昭和一六年一月一六日に召集され満州の東安・斉州島の戦地へ行ったが昭和二〇年一一月に帰還された。
 戦役で働き手が無いのは全国的な状況であったが、田中庄蔵家には援農隊が次の様に来ている。

・昭和一九年五月二〇日〜八月二五日
  長野県立北安曇農学校
   濱沢徳次郎・中島喜代治
・昭和一九年八月一七日〜一一月一五日
   長谷川公平・会沢 義光
 長谷川公平氏は平成三年、濱沢徳次郎氏は平成六年にそれぞれ妻と共に来道され、久さんと半世紀振りの再会を喜びあった。

掲載省略:新聞紙面〜一九九四(平成六)年四月付北海道新聞夕刊「まど」の記事
掲載省略:系図〜田中家の系譜
◆ 戦後(昭和二〇年の終戦から令和まで)
(一) 「上富良村遺族会」の結成
 一九四六(昭和二一)年四月一日に結成された。
一九四五(昭和二〇)年八月一五日、終戦によって忠魂碑の祭祀を斉行してきた在郷軍人会が解散になり、碑の祭祀を執行(とりおこな)うため、昭和二一年に戦没者遺族をもって遺族会を結成し、初代会長に山囗梅吉氏がなる。
 その後、遺族は招魂祭に招かれる立場ということから、遺族後援会、(後に招魂祭奉賛会→戦没者追悼奉賛会)が結成されて祭祀が斉行されることになり、遺族会は本来の遺族相互の地位の確立、親睦と英霊の護持についての認識啓蒙に務め、結成から七七年の歳月を経ている。
・歴代会長と就任月日
 初代 山囗 梅吉 昭和二一年四月一日
 二代 石川 庄一 昭和三六年四月一日
 三代 渡辺 悟郎 昭和四四年八月一日
 四代 松藤光太郎 昭和五一年四月一日
 五代 高田 樫三 昭和五五年四月一日
 六代 勝井  勇 昭和五九年四月一日
 七代 松藤 信光 平成一六年三月二日
 八代 佐藤 輝雄 平成一九年四月一日〜現在
・宇佐見利治氏と渡辺悟郎氏との関わり
 「忠魂碑」改修建立世話人代表の宇佐見利治氏が「かみふ物語」(昭和一二年丑年会編)に表題「悲願成就」として次のように記している。
「上富良野忠魂碑を整備し、戦没英霊御名璽を刻し、雄大にして且優雅な整備を申し上げ御魂をお迎えしてお慰め申し上げたいと会(え)しつゝ幾星霜、悩み続けて参りました。」とある。
 札幌護国神社境内に建立されている一七基の碑・誌(郷土をさぐる会第三〇号に筆者が寄稿)の中に、宇佐見氏が献身的に関わった次の三つの碑がある。

   ・ノモハン英魂の碑   昭和四五年建立
   ・アッツ島玉砕雄魂の碑 昭和四五年建立
   ・北千島慰霊碑     昭和四五年建立

 そして、宇佐見利治氏の文は続く。
 『多年の苦悶を逐次清算しつゝ、多年の経験を生かし郷土忠魂碑の整備を考え乍ら、三野優君と話し堅い同志を得、更に久保茂儀君に話した所卒先同意を得、三人相集い着々とその準備を進めて居る矢先の昭和四十五年五月、今は故人となられた遺族会長の渡辺悟郎先生(元江幌小学校長)が、私に、忠魂碑を整備してほしい。遺族会は望んで居るとの尊言を承り、』と記してある。
 遺族会三代会長の渡辺悟郎氏は、江幌国民学校長として一九四一年(昭和一六)年七月二〇日から一九五一(昭和二六)年四月三〇日まで在職。(昭和二二年から新学制により江幌小学校と改称)
 子息、「渡辺北男氏を昭和一七年八月二一日」太平洋ガダルカナルで亡くされている。
 宇佐見利治氏としては、「忠魂碑」の建立は、一九一八(大正七)年七月から五二年余が過ぎし、生きて帰って来た一人として「何とかしたい」との思いに駆られていた。
 一方、遺族会第三代会長の渡辺悟郎氏は、遺族会設立から二五年が経ち、上川支庁管内の各市町村の「忠魂碑・塔」が着々と整備されている状況を見聞し、改修建立したいと遺族会で協議するも、財政的に全面負担は無理と先延ばししていた。
 「忠魂碑」の建立と遺族会の英霊に対する思いが一致し、宇佐見利治氏は一二名の忠魂碑整備建立世話人を中心にして、昭和四五年六月二八日、上富良野町忠魂碑整備期成会」を立ち上げ、期成会会長と、世話人代表となって運動を展開した。
 忠魂碑整備に多くの町民の理解と協力をいただき、御芳志者二六三八名、五百万円の浄財寄進によって、昭和四六年六月二五日に完成させ、昭和四六年七月一日の招魂祭当日お披露目をした。
 招魂祭は毎年八月一五、一六日に開催していたが、昭和三九年より七月一日となる。理由は「お盆には家族で先祖の霊を」と「農家の農閑期に」であった。
(二) 上富良野町社会福祉協議会
 国は戦後の社会福祉整備の一環として一九五一(昭和二六)年三月二九日に、「社会福祉事業法」が公布された。
 その法律により「上富良野町社会福祉協議会」が一九五三(昭和二八)年三月二八日に、関係八団体、会員八〇余名によって設立された。
 その後、社会福祉環境は大きく変化したが、町と社会福祉協議会は、時代の流れを的確に捉えて、各分野を先進的な事業展開と役職員の努力と、関係団体の協力により推進されてきている。
 上富良野町招魂祭は、「政教分離」と言うことで、一九八四(昭和五九)年七月から、役場社会係より、上富良野町社会福祉協議会が事務局を担って、準備と運営を行っている。
・歴代会長と就任月日

 初代 海江田武信 昭和二八年 三月二八日
    就任時は町議会議長〜昭和三〇年五月より町長
 二代 佐藤敬太郎 昭和三二年一〇月
 三代 高橋 寅吉 昭和四五年 八月
    社会福祉法人の設立認可(昭和五七年七月三日)
 四代 飛澤 尚武 平成 九年 八月
    任期中の平成一二年五月八日に急逝される
 五代 堀内愼一郎 平成一二年 五月
 六代 北川 雅一 平成二六年 六月  
 七代 田中 利幸 令和 三年 六月(現在)
・上富良野町戦没者奉賛会の中核を担う「上富良野町社会福祉協議会」

 一九八三(昭和五八)年四月の地方統一選挙にて北海道知事に当選した「横路孝弘氏」は、行政が宗教と関わるべきでないとして、護国神社参拝を取りやめると発表した。
 同年五月三一日付けで、北海道の佐渡民生部長名で「護国神社例大祭及び市町村の慰霊祭に対する取り扱いについて」と題した通知が出され、この中で神式戦没者慰霊祭への供花等を見合わせる等の姿勢を示し、これを受けて自治体主催の慰霊祭等が影響を受けた。
 上富良野町は、翌年の一九八四(昭和五九)年から、宗教色を払拭するために白菊の献花方式に改められ、主催は上富良野町から上富良野町招魂祭奉賛会となり、事務局も役場町民課社会係から上富良野町社会福祉協議会が担うことになった。
 それらを決めた総会が、昭和五九年五月三〇日に開催され、上富良野町遺族会会長の勝井勇氏が「お国のためにと志願や応召して私達の身内は戦死した。戦後四〇年を迎える時に、なんで国や道そして町までも手を離すのですか」と、切々と訴えている言葉を、当時体育協会の理事長としてその場に立ち会った私(筆者)は思い出します。

掲載省略:写真〜上富良野町社会福祉協議会創立50周年記念誌
― 政教分離の根拠「憲法」には ―

 憲法第二〇条第一項後段、第八九条に、
@ いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
A 国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。
B 公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは、団体の使用、辯益もしくは、維持のためこれを支出し又は、その利用に供してはならない。

―事例―
@ 【三重県津市】体育館起工式(昭和四〇年一月一四日)で公費による神式の地鎮祭が違憲として訴訟。
・津地裁では合憲判決(昭和四〇年一月一四日)
・名古屋高裁では違憲判決(昭和四六年五月一四日)
・最高裁でも違憲判決(昭和五二年七月一三日)
A 【北海道砂川市】空知太神社に市有地を無償提供しているのは違憲と、平成一二年に提訴された。
 最高裁は二〇一〇(平成二二)年一月に違憲判決とした。政教分離訴訟で史上二例目となる。
・招魂祭式典が「忠魂碑」前から「公民館」に

 招魂祭は、明治三九年に「忠魂祭」として在郷軍人団が中心であった。
 明治四三年からは、「上富良野在郷軍人会分会」が設立され、大正七年七月に「忠魂碑」が上富良野神社境内に建立以来、その維持管理、祭祀は昭和二〇年の終戦まで「在郷軍人会分会」が担った。
 一九一八(大正七)年から「忠魂碑」前での招魂祭は八〇年に亘って継承されてきた。
 一九九九(平成一一)年七月の招魂祭から、上富良野町公民館大ホールで行う事になった。

掲載省略:写真〜公民館で開催された戦没者追悼式

 上富良野町招魂祭奉賛会の役員会で種々検討され、総会に図られ、改正の主な要点は次の様になる。

 @ 名称
  上富良野町招魂祭が上富良野町戦没者追悼式に
 A 組織名
  上富良野町招魂祭が上富良野町戦没者追悼奉賛会に変更。
 B 追悼式場
  忠魂碑前(屋外)から公民館大ホール(屋内)
 C 変更理由
  準備及び当日の式場が天候に左右されなく円滑な祭祀が可能。

 遺族の皆様が高齢になり、式典と奉賛芸能発表(文化連盟担当)が別会場であったのを、統合によって、遺族・来賓・関係者の移動を要しない。
 会場統合の条件として、白木の慰霊柱の設置は、「上富良野町戦没者之霊」と「上富良野町戦没者名」「菊花の祭壇」を準備するとされた。
 また、式典終了後に「忠魂碑」に参拝を希望する遺族には送迎するなど、遺族の皆様に配慮する対策が取られた。
 音楽パレードは、「社会を明るくする運動」の啓発パレードとして実施となった。
 尚、上富良野町戦没者追悼式の会場は、二〇〇五(平成一七)年より、保健福祉総合センター「かみん」となり今日に至っている。
 一九八四(昭和五九)年七月から「招魂祭」を上富良野社会福祉協議会関係団体が担って三八年の歳月が過ぎた。遺族の世代交代もあるが、各戦役での戦没者を祭祀する心を継承し、そして共に、不戦と恒久平和を祈念していきたい。
(三) 招魂祭・戦没者慰霊を支え続ける「上富良野町中央婦人会」の草創期
 一九四五(昭和二〇)年八月一五日の終戦により、日本は連合国総司令部(GHQ)の指令下に入り、帝国主義から民主主義・自由主義へと、国家・政治構造の改革が進められた。
 日本国憲法は一九四六(昭和二一)年一一月三日に公布、一九四七(昭和二二)年五月三日施行。
 しかし、それ以前の一九四五(昭和二〇)年一二月一七日の衆議院議員選挙法改正がGHQの指令で女性の参政権や選挙権及び被選挙権等の改正が実施された。
 また、一九四六(昭和二一)年九月二七日には市町村制の改正を含め、第一次自治制度の改革が進められ、市町村自治の民主化の上では画期的であった。
 上富良野村の昭和二一年度総務事務報告には、「婦人会は未だ結成を見ず、男女同権・女性参政権が叫ばれている折、早急に婦人会の結成が熱望されている。」とある
 しかし、一九四六(昭和二一)年一月八日に、日新婦人会が上富良野村の戦後初の単位婦人会の結成であった。
 その後の単位婦人会及び中央婦人会関係団体の活動については、郷土をさぐる誌第三七号に「竹谷愛子の知られざる功績」に詳細が記してあるので省略します。
 「忠魂碑」の護持と、「招魂祭」の運営について永年に亘って奉仕されている中央婦人会が創立時から様々な苦境を乗り越えて来た先輩の足跡が判った。
 それは、上富良野新聞(昭和二五年九月一日創刊)に、中央婦人会の動向記事として掲載されていた。
 上富良野中央婦人会の創立五五周年「婦人会の軌跡」(平成一七年三月三〇日発行)と、創立七〇周年「軌跡」(令和三年二月一日発行)には記載のない空白期の出来事を、新聞記事に沿って記す。
 上富良野新聞を創刊号から廃刊までバックナンバー(二四三号)を保存していた島津在住の北野哲二氏が田中正人氏(娘婿で今回の共同執筆者)を通じ、郷土館に保存依頼された。
 上富良野新聞(昭和二五年九月一日付)に、『市街地婦人団体として活躍した「母の会」が解散してから新たに、中央婦人会の結成が役場、教育委員会の肝いりで準備されつつあった所、八月九日(ママ)、上富良野小学校で創立総会が開催された。役員は、次の通りであるが、全村的にまで発展するものとして、近く郡部の既存婦人会と協議の上連合婦人会の組織が出来るものとみられている』とある。
◆設立年月日 一九五〇(昭和二五)年八月一〇日

 ○創立時の役員
  会 長 梅野よしえ  監 事 高畠みさほ
  副会長 渋江 勝子   〃  辻内みよ子
   〃  西野目ユキ  会 計 曽山 繰子
  理 事 田中 ヤイ   〃  松原 ユキ
   〃  北川 玉子  書 記 及川 綾子
   〃  加藤 きく
◆創立総会に「門上千恵子氏」の講演

 上富良野聞信寺二世住職 門上浄照師の長男秀叡氏の夫人で、東京地方検察庁の検事門上千恵子氏(略歴は次頁)の講演が次の演題で行われ、出席者に指標と大きな感銘を与えた。
 演題「新しい婦人の地位」
  一 婦人会のあり方
  二 新しい婦人の地位
  三 男女同権と女らしさについて
  四 貞操観念について
  五 結び
 尚、講演会の全文が上富良野新聞社に寄せられ、昭和二五年九月一日(第一号)同年九月一一日(第二号)に上・下として掲載された。

掲載省略:新聞紙面〜講演会の内容を報じる上富良野新聞
=日本の女性検事第一号=
 『門上千恵子さん』の略歴


 一九一四(大正三)年十二月八日愛媛県伊予郡松前町にて福枡家の長女として生まれ、松山高等女学校から広島県立女子専門学校(現・県立広島大学)国文科を卒業。
 一九三九(昭和一四)年、九州帝国大学法文学部法律学科を卒業。一九三七(昭和一二)年に、ローマ法の研究で帝国学士院から賞を受けている。
 九州帝国大学卒業後、岡山県立林野高等女学校の英語教諭を経て、九州帝国大学へ戻り、法律学研究室の助手として一九四四(昭和一九)年まで勤務。この間に現在の司法試験にあたる難関な高等文官試験司法科試験に合格し上京する。
 一九四四(昭和一九)年、門上秀叡氏(上富良野村 聞信寺第二世住職 門上浄照師・ふじのさんの長男)と結婚され門上姓となる。戦前の日本では女性の任検が認められていなかった。
 一九四九(昭和二四)年一一月一五日、東京地方検察庁に任検。日本における「女性検事一号となる。
 一九五〇(昭和二五)年八月一〇日に夫、秀叡氏の故郷である「上富良野村中央婦人会」の設立総会で「新しい婦人の地位」として講演された。
 同年の一〇月七日婦人人権擁護同盟の結成に参加され、市川房枝女史らと共に活動を進められた。
 その後、千葉地方検察庁を経て東京地方裁判所に公判検事として勤務。
 一九六四(昭和三九)年、検事を退官し、一九六五(昭和四〇)年に弁護士登録し、東京都新宿区で法律事務所を開設し、九〇歳まで弁護士として活動された。
 夫の門上秀叡氏(東京経済大学名誉教授―倫理学)は二〇〇六(平成一八)年に九四歳で逝去。
 千恵子さんは、夫の後を追うがごとく、翌年の二〇〇七(平成一九)年八月に九二歳で逝去された。
◆初代会長 梅野よしえさんの転出

 昭和二五年八月一〇日の中央婦人会創立総会で選出された梅野よしえ会長(松の湯 梅野松太郎夫人)は諸種の事情により、辞任し転出。会長職は四ヶ月であった。
 それにより、副会長の渋江勝子さんが、会長代行として残任期間を務める。(昭和二六年三月の中央婦人会主催の敬老会に、会長代行渋江勝子さんが挨拶されたと「上富良野新聞」に記事がある)
◆ 一九五一(昭和二六)年度の総会

 中央婦人会の年度替わり総会は四月一四日に公会堂にて開催。事業報告、決算報告についで役員改選を行い、次の如く選出された。
  会 長 曾山  操  監 事 山本 ウメ
  副会長 渋江 勝子   〃  守田 マス
   〃  西野目ユキ  会 計 梅田  寿
  理 事 加藤 キク   〃  松原 ユキ
   〃  田中 ヤヱ  書 記 北川 玉子
   〃  辻内みよ子   〃  鈴木弥栄子

            〃   鈴木みよ子、
           (上富良野新聞二四号)

◆ 一九五二(昭和二七)年度の総会

 四月六日の午後一時より公民館にて開催する。役員改選は会長に加藤きく氏、副会長河村恒子氏が選ばれたが、新会長就任挨拶の後に「個人的な事情により暫時離町するやもの状況にあるため、不在中は旧会長に代行を依頼したい。また旧役員の中から四名を今期役員に加えられたい」等の付帯条件が出された。
 旧会長の曾山操は「会長不在、事故ある時は副会長が代行するのが至当である」として拒絶した事に端を発し、新旧役員間の論争が交わされ、副会長も「家庭の事情」で固辞されて、役員選出は暗礁に乗り上げた。
 遂に、婦人会解散論にまで発展して午後六時一端休会し、午後七時半から再会されたが、中央婦人会の名誉にかけても解散を避けんとする熱意の下に協議が重ねられた。
 その結果、委員制を提案されて全員の賛同を得て事態は急転直下円満裡に解決に向かい、その条件は
 ・旧役員は全員を顧問とする事
 ・町内毎に推薦された新理事を委員とする事
に意見が一致、難航を続けた総会は無事終了した。
 町内毎の委員は次の通り決定した。
 一町内 佐藤 サク 谷口はぎの
 二町内 佐藤  栄
 三町内 河村 恒子 三野美津子 酒匂ヨシコ
 四町内 二木 とわ 鈴木 小雪
 五町内 羽柴ちよ子 齊藤かほる
 六町内 石橋コスギ 林部ふみ子
 七町内 山口ツキ子 岩田 照代
(上富良野新聞五七号)

◆ 一九五二(昭和二七)年度の委員会

 四月一七日、委員制によって一段落した中央婦人会役員改選について初の委員会を開催した。
 四月六日に決定した「委員制」について検討したところ、「会則に沿った合法的なものでないこと」が強く批判され、委員の中にも初めて今日までの経緯を知る者があるなどのため、改めて委員制に至った経過報告し遺漏の点を認めるに至った。
 従って、委員制解消して白紙に戻し改めて総会を開催して会則に準拠した方法で新役員選挙を行う事で意見の一致があった。総会招集に関する事務措置を酒匂主事に依頼する事として同夜十一時解散した。
(上富良野新聞五八号)

◆ 一九五二(昭和二七)年度の役員選出総会

 難航を続けた役員改選問題は、四月三〇日の臨時総会に梅田、佐藤、北川の各顧間列席の下に改めて審議された結果、先の案の「委員制」を解消して元の会則に從い、会長には固辞する渋江夫人の承諾を遂に得て以下の各役員も一挙に決定した。
 会 長 渋江 勝子  会 計 河村 恒子
 副会長 梅田  寿  書 記 泗匂ヨシコ
  〃  羽柴ちよ子
(上富良野新聞六〇号)

◆ 一九五三(昭和二八)年度の総会

 四月一三日に中央婦人会の総会が開催され、役員改選の投票を待った結果、会長に西野目夫人、副会長に辻内夫人、久保夫人が当選したので、交渉委員をあげて翌日の四月一四日に三氏の就任について懇請したが、何れも家庭的事情により固辞され、交渉は行き行き詰まりとなった。
(上富良野新聞九一号)

◆ 一九五三(昭和二八)年度の臨時総会

 四月一三日開催の総会で当選した会長、副会長の辞退により、現役員会は善後策を協議した結果、再び総会を招集し会員の総意に諮ることにした。
 四月二八日に公会堂にて臨時総会が開催され、渋江会長から交渉経過が報告され、その後の協議を行ったが、新役員選出は膠着して進展せず、各顧問が各々の意見を述べられたが、渋江会長は遂に休会のやむなき事を宣するに至った。ここに発会三年を経た中央婦人会は休会する事になった。
(上富良野新聞九二号)

◆ 一九五四(昭和二九)年七月に役員会開催

 休会を宣して一年三ヶ月経過したが、各方面から再起を要望されつつ今日まで至っていたが、役員間で協議していた所、公民館から役員会の打合せ開催の呼びかけが行われた。
 七月二九日、夜七時半から公民館にて、休会以来の初の正式役員会が開催された。
 渋江会長以下八名の出席により、会の運営と今後について協議が行われた。
 結局は、会長問題に突き当たって、解散説と存続説があって進展せず、何れにしても総会を招集して会員の総意に従うべきとして閉会した。
(上富良野新聞一二九号)

◆ 一九五四(昭和二九)年一〇月に再始動

 一年六ヶ月に亘り休会していた中央婦人会が、会員及び一般町内の婦人団体活動を要望する世論が高まり、一〇月二八日に公会堂にて臨時総会を開催した。
 北川玉子氏が新会長(第四代)に選出され、待望の中央婦人会は円満に決定された。
 会 長 北川 玉子
 副会長 梅田  寿(留任)
  〃  辻内みよ子(羽柴氏が転出しての後任)
 尚、その他の役員は留任して新会長を支え、任期は翌年の三月末までとされた。
(上富良野新聞一三八号)

◆ 一九五四(昭和三〇)年度総会

 四月三日公会堂にて開催。出席会員四〇余名で、議案審議と役員改選が行われた。新役員は次の通り。
 会 長 北川 玉子  監 事 辻内みよ子
 副会長 伊多波コト   〃  渋江 勝子
  〃  花輪あさ子  会 計 志賀(不 明)
 理 事 二木 とわ   〃  千秋 雪子
  〃  若林(不 明)  書 記 石橋コスギ
  〃  佐藤  栄   〃  及川 綾子
(上富良野新聞一五〇号)

◆ 一九五五(昭和三一)年度総会

 四月一日午後六時から公会堂にて開催。出席会員六〇余名により、議案審議が行われ、長期に亘る休会に引き続き、先ず役員の団結と融和においた活動へと意欲に燃える会員の意向が反映した活気ある総会であった。役員は選挙により次の通り選出された。
 会 長 伊多波コト  会 計 千秋 雪子
 副会長 花輪あさ子   〃  二木 とわ
  〃  石橋コスギ  書 記 西  スミ
             〃  久保 ムラ
(上富良野新聞一八一・一八二号)

◆ 一九五六(昭和三二)年度総会

 四月三日に公会堂にて開催。議案審議の後に役員改選を行ない、次の役員が選出された。
 会 長 北川 玉子  監 事 辻内みよ子
 副会長 田中喜代子   〃  佐藤  栄
  〃  畠山 京子  会 計 清水  貞
 書 記 山岡きくえ   〃  末広きよ子
(上富良野新聞二一五号)


中央婦人会歴代会長

 ・初 代 梅野よしえ 昭和二五年八月一〇日〜
 ・二 代 曽山  操 昭和二六年四月一四日〜
 ・三 代 渋江 勝子 昭和二七年四月三〇日〜
 ・ 休会       昭和二八年四月二八日〜
 ・四 代 北川 玉子 昭和二九年一〇月〜
 ・五 代 伊多波コト 昭和三一年四月一日〜
 ・六 代 北川 玉子 昭和三二年四月〜
 ・七 代 石橋コスギ 
 ・八 代 宮野 静江 昭和三五年 愛の鐘建設委員
 ・九 代 畠山 京子 昭和三七年〜
 ・    服部 チエ
 ・    赤川 トイ              ↑
 ・    酒匂ヨシコ            〜就任順・年次不詳〜
 ・    山岡キクエ 昭和四二年〜   ↓
 ・    長内よしえ
 ・    佐川 泰子
 ・一六代 大道美代子 昭和五一年
 ・一七代 倉本千代子 昭和五二年〜昭和五三年
 ・一八代 竹谷 愛子 昭和五四年〜平成二〇年
 ・一九代 藤田 敏子 平成二一年〜平成三〇年
 ・二〇代 森本 京子 平成三一年〜令和三年度現在

 中央婦人会は、お互いの親睦を深め、婦人としての知性と教養を高め、住みよい地域づくりに役立つことを目的にして活動していて、招魂祭の護持と慰霊の奉賛会活動に協力支援を戴いている。
 中央婦人会草創期の渋江勝子さん、北川玉子さんの足跡とご功労が偲ばれます。
 コロナ禍で令和二年八月三日の臨時総会から活動を控えていたが、この程総会を開き再開した。(会員数五九名)

掲載省略:写真〜上富良野中央婦人会創立55・70周年記念誌

◆ 上富良野町連合婦人会
 昭和三十二年七月一日の創立当時の加盟団体は中央・島津・東中・草分・日の出・江花・江幌(静修と統合)富原・里仁の九団体であった。四十年に旭野と日新、四十二年には清富が加盟して十二団体となったが、後に旭野・日新が脱会して十団体となり五十五年度まで継続した。昭和五十六年三月「解散総会」を以てその歴史を閉じている。
 昭和四十年頃から行政への協力事業が多くなり、招魂祭、敬老会、歳末たすけ合い、共同募金等多彩な事業を行った。解散後は中央婦人会に事業の主なものが引き継がれている。

 連合婦人会歴代会長と在任年度
  ・初 代 伊多波コト 昭和三二年度
  ・二 代 北川 玉子 昭和三三年度
  ・三 代 倉島 君緒 昭和三四・三五年度
  ・四 代 畠山 京子 昭和三六年度
  ・五 代 宮野 静江 昭和三七〜三九年度
  ・六 代 細川ふじ子 昭和四〇年度
  ・七 代 赤川 トイ 昭和四一・四二年度
  ・八 代 藤原 和子 昭和四三〜四五年度
  ・九 代 加藤 輝子 昭和四六・四七年度
  ・一〇代 増島リリー 昭和四八〜五一年度
  ・一一代 六平 美子 昭和五二〜五五年度
(四) 招魂祭・戦没者慰霊を支え続ける「上富良野町文化連盟」の歩みについて
 毎年七月一日に「忠魂碑」前で上富良野招魂祭が執行われ、祭祀の終了後に会場を変えて文化連盟の皆様が奉賛芸術祭として、ご遺族、参拝者・町民の皆様に慰霊の念を込めて芸能発表や作品展示等を長年に亘って奉仕を続けられています。
 文化連盟の皆様は、神社祭典、文化祭その他の多くの町のイベント等に多大な貢献をされています。
 「忠魂碑」に秘められた歴史と、戦没者慰霊の心を脈々と継承されて来た上富良野町文化連盟のあゆみを記す。
 一九四五(昭和二〇)年八月の終戦により、文化への息吹が出はじめ、さまざまの文化団体やグループが生まれたが、団体同志の連携は無く町内全体を巻き込む活動まで発展していなかった。
 一一月三日の「文化の日」には、各々の団体が個々に活動していた。
 その状況を何とかしたいと和田松ヱ門氏が一九六四(昭和三九)年五月、葛本利八・本田茂・高畠清子・二口正次郎らに呼びかけて発起人となり、文化に関わる十六団体により連合結成の懇談会を開催。
 同年十一月には「文化連盟団体連絡協議会」として一三団体による第一回文化祭を開催した。
 同年十二月には文化連盟結成準備委員会が発足し、委員長に和田松ヱ門氏を選出した。
 一九六五(昭和四十)年十月六日文化連盟団体連絡協議会を発展的に解消し「上富良野町文化連盟」として三四団体が加盟して設立され和田松ヱ門氏が会長に就任した。
 二〇二一(令和三)年での歴史を刻んで五六年加盟二九団体・会員二三八名で歩み続けている。
文化連盟歴代会長と就任月日

 初代会長 和田松ヱ門(昭和四〇年十月より)
 二代会長 本間 庄吉(昭和四六年八月より)
 三代会長 西  武雄(昭和四九年四月より)
 四代会長 高橋 静道(昭和五七年四月より)
 五代会長 木村  了(昭和五九年四月より)
 六代会長 安西 英雄(平成二〇年四月より)
 七代会長 和田 昭彦(平成二七年四月より)
 八代会長 小林 啓太(令和三年四月より現在)
 ◆文化連盟創立記念事業等について

・昭和四八年一一月 創立一〇周年記念式典
・昭和四九年七月 創立一〇周年記念誌発刊
・昭和五二年七月 三浦綾子さんを囲む懇談会と、小説「泥流地帯」の出版記念パーティ
・昭和五八年一一月六日 創立二〇周年記念式典
 記念誌発刊
・昭和五九年五月二四日
 創立二〇周年記念事業と位置づけ、十勝岳爆災害発復興六〇周年記念「泥流地帯」文学碑の建立式典及び、記念パーティを実施する。文化連盟から「泥流地帯」建立期成会の役員に次の方々が担当され建立に大きく貢献された。また、会員の皆様から寄付金の協力をいただき、そのご芳名は文学碑裏面に刻まれている。
 会 長 高橋 静道  総務部 田中喜代子
 事務局 木村  了   〃  田浦  博 
 会 計 和田 昭彦   〃  鈴木  務 
 式典部 山岡キクエ  資金部 和田 昭彦
  〃  葛本美智子   〃  青地  繁
  〃  千々松絢子   〃  高橋 民吉
  〃  森本 京子  工事部 村岡 八郎
  〃  松本 紘子

 ・平成五年一二月 創立三〇周年記念式典
      一一月 記念誌発刊
 ・平成九年四月〜一〇月
 上富良野町開基一〇〇年記念事業を文化連盟加入の各団体が実施する。
 ・平成一五年 創立四〇周年記念式典
 ・平成一五年一一月三〇日 記念誌「文化のあゆみ」発刊
 ・平成二五年一二月 創立五〇周年記念式典、記念誌「文化のあゆみ」発刊

掲載省略:写真〜「泥流地帯」文学碑
掲載省略:写真〜上富良野町文化連盟創立50周年記念誌
(五) 招魂祭・戦没者慰霊を支え続ける「上富良野町体育協会」の歩みについて
 終戦直後の一九四七(昭和二二)年に体育協会が設立されていたが、当時は武道や野球以外のスポーツはそれほど盛んでなく、一九四九(昭和二四)年に解散した。
 その後、世の中が安定すると町民が様々なスポーツを楽しむと共に、スポーツ団体の再結成や新団体の創設があった。その過程で自衛隊上富良野駐屯地及び隊員・家族によって、当町のスポーツは大きく進展した。
 スポーツ団体と競技人口の増加に伴い、関係者から統括する体育協会の設立要望が出された。
 一九六六(昭和四一)年一〇月に体育協会設立準備委員会が開催され、酒匂佑一、飛沢尚武、田中篤、山本純雄、松浦清、西口登、中村有秀、高橋新一、小島順士の各氏が出席し、設立準備を始めた。
 同年一二月一六日に設立総会を開催し「上富良野町体育協会」が発足した。
 初代会長に一色正三氏が就任し、加盟団体はバレーボール協会・庭球クラブ・バスケットボール協会・卓球協会・武道会(柔道・剣道・銃剣道)・スキー連盟・十勝岳山岳会・スケート連盟・野球連盟の九団体であった。
 ◆ 体育協会創立記念事業について

 昭和四一年、体育協会創立以来の周年記念事業と特徴的な事項について記す。

・一九六七(昭和四二)年七月一日
 体育協会の創立により、招魂祭奉賛スポーツ事業を一括に取りまとめ実施し、その後、毎年七月一日に一〇種目前後の奉賛大会を継続して開催している。以前は奉賛会が個々に要請をしていた。
・一九七一(昭和四六)年一〇月一〇日
 創立五周年記念式典と祝賀会を開催。加盟登録は一〇団体。
・一九七五(昭和五〇)年一二月一〇日
 体育協会に「スポーツ少年団本部」を設置。
・一九七六(昭和五一)年八月八日
 創立一〇周年記念運動会を開催。記念誌「体協一〇年の歩み」発刊。加盟登録は一八団体。会員三三〇〇名。 
・一九七八(昭和五三)年四月二一日
 婦人スポーツ団体協議会が、五サークル・一二〇名により設立。
・一九七八(昭和五三)年九月一〇日
 体育館建設促進期成会を設立、促進運動始まる。
・一九八四(昭和五九)年八月一九日
 第一回町民運動会が盛大に開催され、体育協会が全面的に大会運営を担った。その後第二回(昭和六〇年)、第三回(昭和六一年)大会で終了した。
・一九八五(昭和六〇)年二月一七日
 社会教育総合センター建設促進要望書を、町長、教育長、町議会議長に提出。翌昭和六一年七月工事着工。
・一九八七(昭和六二)年九月一八日
 社会教育総合センターの備品購入資金造成パーティを開催。
・一九八八(昭和六三)年一月三〇日
 社会教育総合センターが完成し、オープンテープカットが行われる。
・一九八八(昭和六三)年一一月二五日
 創立二〇周年記念式典・祝賀会を開催。記念誌「体協二〇年の歩み」を発刊。加盟登録二五団体、会員三一二八名。 
・一九九八(平成一〇)年四月二五日
 創立三〇周年記念式典・祝賀会を開催。記念誌「体協三〇年の歩み」を発刊。加盟登録二九団体、会員二六八〇名。
・二〇〇八(平成二〇)年二月一六日
 創立四〇周年記念式典・祝賀会を開催。記念誌「体協四〇年の歩み」を発刊。加盟登録二一団体、会員二四二九名。
・二〇一七(平成二九)年七月二六日
 上富良野町開基一二〇年並びに体育協会創立五〇周年記念事業でNHKラジオ体操の共催・支援。
・二〇一八(平成三〇)年二月一七日
 創立五〇周年記念式典・祝賀会を開催。記念誌「体協五〇年の歩み」を発刊。加盟登録二〇団体、会員一五四七名。
※ 上富良野町体育協会は二〇一九(平成三一)年四月一日に「上富良野町スポーツ協会」と改称された。(国及び北海道体育協会の指針により)

掲載省略:写真〜これまでに発刊された体育協会の記念誌
体育協会歴代会長と就任月日

 初代 一色 正三(昭和四一年一二月一六日〜)
 二代 酒匂 佑一(昭和四七年 五月より)
   (町長に就任 昭和五八年九月辞任)
 三代 飛沢 尚武(昭和五八年一〇月より)
 四代 千葉 陽一(平成一〇年 五月より)
 五代 元木 俊明(平成一六年 五月より)
 六代 芳賀  実(平成二二年 五月より)
 七代 北  孝吉(平成二九年 五月より現在)
(六) 軍恩連盟上富良野支部の設立
 一九七二(昭和四七)年一月一四日設立。
 一九四五(昭和二〇)年八月の終戦までは、軍人・軍属として一定期間に兵役にあった人に軍人恩給が支給され、英霊は名誉の戦死として国民から奉られ、その遺族には公務扶助料を賜っていた。
 その処遇は、一九四六(昭和二一)年八月一日に、勅令第二八号により、軍人・軍属の恩給や遺族に対する扶助料が停止された。
 敗戦による連合軍によって、当然の権利である恩給・公務扶助料が不当に剥奪され、七年間も放置された権利を回復するために結成された組織が、「軍恩連盟」であった。昭和二八年に恩給・扶助料が復活する。
 「軍恩連盟上富良野支部」は一九七二(昭和四七)年一月に設立以来、戦役を経験し、故郷の土を踏む事ができた者として忠魂碑に祀られている英霊にと、「忠魂碑の清掃」を四月二九日の天長節と七月一日の招魂祭の前に、年二回実施。併せて招魂祭当日は供花を奉献し、会長が代表して参拝している。

歴代会長と在任年月日
 ・初代 西  武雄
  昭和四七年一月一四日〜昭和六二年一〇月一六日
 ・二代 藪下鉄次郎
  昭和六二年一一月一二日〜平成元年二月一八日
 ・三代 立松 慎一
  平成元年二月一九日〜平成六年二月一〇日
 ・四代 西村 教導
  平成六年二月一一日〜平成一五年二月一〇日

あゆみ
 ・平成 三年 二月
  軍恩連盟上富良野支部二〇周年記念誌「激動の軌跡」を発行。
 ・平成 八年一二月二四日
  軍恩連盟上富良野支部設立二五周年記念式典開催。
 ・平成一五年一二月一〇日
  軍恩連盟上富良野支部解散式挙行。

軍恩連盟上富良野支部の解散年月日の調査

 会員の高齢化と逝去・転出等で会員数が減少し軍恩連盟上富良野支部は創立以来、三二年の歴史を閉じた。前項の解散式が不明で調査に乗り出した。
 四代会長西村教導氏(平成一八年逝去)の次男西村昭教氏に聞くと「父が会長の時解散したが資料は住宅を新築した時に処分したようで無い」との事。
 三代会長立松慎一氏(平成二五年逝去)の次女 佐藤久枝さんが父の軍恩連盟の資料の中にメモがあったと知らされた。それ以降の資料は見あたらない。
 立松氏最後のメモには、
 ―平成一五年二月一〇日―
  支部長 西村 教導  監査 及川 政男
 副支部長 森本  清  監査 岡和田廣子
 監査の岡和田廣子さん(平成二八年逝去)の長男岡和田一廣氏より、軍恩連盟の資料が届けられた。
 その中に「北海道軍恩会報」がありました。
 それに基づき、上川総合振興局から北海道庁―北海道軍恩連盟と調査の結果、「北海道軍恩会報」の各支部動向に「平成一六年度、平成一七年度、」について上富良野支部の記載がないとの回答でした。従って軍恩連盟上富良野支部は、三代会長立松慎一氏が遺された「平成一五年のメモ」から解散は二〇〇三年(平成一五)年二月一〇日と考えられる。

掲載省略:写真〜北海道軍恩連盟上富良野支部二十周年記念誌「激動の記録」

《参考資料》
・上富良野百年史 上富良野町
・上富良野町史 上富良野町
・上富良野志 上川管内志編纂会
・上富良野村史 (昭和一八年執筆)草稿原稿
・郷土をさぐる誌 各号 郷土をさぐる会
・かみふ物語 昭和十二年丑年会
・上富良野新聞 郷土館蔵
・かみふらの女性史 かみふらの女性史をつくる会
・体育協会一〇〜五〇年誌 上富良野町体育協会
・英霊とともに四十年のあゆみ 上川支庁地区連合遺族会編
・旭川第七師団 示村 貞夫
・帝国在郷軍人会 帝国在郷軍人会本部
・町内戦没者・遺族名簿 上富良野町百年史編纂室
・激動の軌跡 北海道軍恩上富良野支部
・社会福祉の歩み 上富良野社会福祉協議会
・一木支隊全滅 菅原  進
・上富良野町文化財保護委員会資料 上富良野町
・浪夫記 土井 浪夫
・昭和の軌跡  北の大地への学徒勤労動員
      北海道上富良野村の場合
下田 達雄
・文化のあゆみ 創立五〇周年記念 上富良野町文化連盟
・軌跡(創立五五・七〇周年) 上富良野中央婦人会
・平成六年四月一二日付け夕刊外 北海道新聞
・「女性法律家のパイオニア 門上千恵子」 白梅学園高等学校長 樋口 秋夫
・一木支隊鎮魂碑竣工記念パンフレット 一木会
・決定版太平洋戦争D GAKKEN
・鎮魂シベリア抑留死亡者4万人名簿 月刊アサヒ
・一億人の昭和史B太平洋戦争 毎日新聞社
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・北海道日帰り温泉の旅 ホームページ
・旭橋のあゆみ 国土交通省北海道開発局 旭川開発建設部
・北海道護国神社公式サイトホームページ
・下川町内の石碑のご紹介 下川町ホームページ


《取材協力》

上富良野町社会福祉協議会
上川総合振興局社会福祉課
東神楽町メモリアルホール図書館
協力者(五十音順)
  伊藤 榮一   伊藤 里美
  岡和田一廣   加藤 忠美
  門脇ミツコ   包子 義昭
  川喜田 誠   佐々木幸子
  佐藤 輝雄   佐藤 久枝
  辻  政子   中田 宏幹
  西村 昭教   森本 京子
  鶴丸 啓子

機関誌      郷土をさぐる(第39号)
2022年3月31日印刷      2022年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀