郷土をさぐる会トップページ     第39号目次

上富良野に生きて(終)

〜上富良野第三次開拓について〜
倉 本 千代子(九十三歳)

 第三次開拓と言っても、ご存じの方は少ないと思うが、それは私が勝手に名付けたもので、昭和二十年台初頭に、先の東京大空襲で焼け出され行き場を失った人達が「北海道にはまだ開拓の余地がある」という誘いを信じて津軽海峡を渡り、上富良野静修部落の奥地に入植し、明治・大正の開拓に劣らぬ艱難辛苦(かんなんしんく)の末に成し遂げた事実です。
 前号(郷土をさぐる第三十八号)で、私が役場で農業事務を担当していた昭和二十四年頃の話としてほんの少し触れたが、その後私は結婚し昭和二十九年三月末で役場を退職したので縁がなくなり、時折の世間話として、余りにも過酷な事業をあきらめ、当時富良野地方で多かった離農地を求めて転居したり、土地ブローカーが入り込み言葉巧みに安価で買収するなどの噂話も聞かれていたが、それもまた事実だったような…。
 それから時が過ぎ、いつしか記憶が遠のいていたが、平成十年、町の開基百年事業の一つとして『女性史』を発行しようと取材を進める中で偶然にも、新町にお住いの田中きよ子さん(当時七十五歳)にお会いすることが出来て、開拓当時の体験記を寄せていただいた。
 一度は、その後の現地を見たいものだと思いながらも、いつしかその記憶も遠ざかり過去のものとなってしまったが、時折読み返す田中さんの文中から、厳しい冬の生活の様子など、幼いころに見た光景を思い出した。誠に失礼ながら、せめて家族で故郷(東京)の様子を見に行くための旅費なりとも、何とかして上げられたのではないかと、今更ながら口惜しい思いでいっぱいになる。
 今はただ「上富良野に住んでくださって有り難うございます。どうかお幸せに」と願いながら、当時お寄せいただいた手記を通じて、昭和の時代にも上富良野の開拓が行われたことを、皆さんに知っていただきたいと願うものです。
 以降に『かみふらの女性史』から田中さんの手記を転載して、私の追憶記『上富良野に生きて』連載の終わりといたします。ご愛読ありがとうございました。
 編 集 注

 「静修開拓」に関しては、『郷土をさぐる』記事で
・第十二号(平成六年二月発行)
 「静修開拓の足跡(そのT)」
     佐藤耕一著 昭和十四年生
 「静修開拓の足跡(そのU)」
     上山佳子著 昭和十九年生
・第十四号(平成八年七月発行)
 「故浜巌氏の遺稿文と戦後緊急開拓のあらまし」
     岩田賀平著 明治四十三年生
・第三十四号(平成五年4月発行)
 「静修開拓の地で子ども時代を過ごして」
     田畑 保著 昭和二十年生
を掲載しているので、原本をお持ちの方は参照願うほか、「郷土をさぐる会WEBサイト」から記事題名で検索することにより、ご覧頂けます。
 なお、これらの記事間に地名、氏名、年月日等に不整合な部分もありますが、筆者の記憶や参照資料の相違などによるものと思われますが、時を経過しているため真実の確認は困難になっています。

 =引揚体験=  第二次世界大戦の果てに
      田 中 きよ子さん(日の出)    七十五歳〈平成十年当時〉

  昭和二十年三月十日東京大空襲

 今では夏になると、花火で都民の涼を賑わす隅田川に、焼爛(やけただ)れた身体に水を求め、力尽きて息絶えた黒山の死体と化した人々を目の前にした時は、その後に現在の街並が出来るとは想像すらつきませんでした。
 大空襲の最中、夫(編集注:田中兼雄)は自警団の任務を果たすため、親子三人で退避する事すら許されず、私は一歳の長女を背負い、両手に持てるだけの荷物を下げて、とにかく広場を目指して逃げました。焼夷弾(しょういだん)の雨の中を逃げ惑う群衆が行き交い、背負った布団に火がついたまま逃げている人、背中の子の息絶えているのも知らず逃げている人など、とてもこの世のものとは思えない有様で「風上へ逃げろ」と叫ぶ声が聞こえ、それが命の明暗を分けたことをあとで知りました。風下へ逃げた人々は猛火に追われるように川の中へ次々と飛び込んだそうです。
 翌日、行方を捜しに来た夫は暴風で飛ばされた戸板の五寸釘が手の平を貫通し、後々後遺症が残る程の大怪我を負っていました。この様な事態の中で命があっただけでも有難い事でしたが、それからが大変で、夫と三人で住居のあった町内に戻ったところ、町は全滅状態で前記の有様だったのです。一面の焼野原に食糧など求めようもなく、買出しリュックを背負い、窓ガラスの割れた列車で千葉県まで出向き、農家に食糧となる物を分けてもらう為、方々歩きましたが、当時なかなか手に入らなかった「砂糖や石鹸を持って来たなら米と取り替えてやる」などと言われ、わずかばかりのサツマ芋が手に入れば良い方で、日によっては何も分けてもらえない事もありました。
 その様な時に北海道で、開拓入植者を募集している事を知り、子供の頃を長野県上田市で過ごした夫は土との関わりも少しあり「北海道には広い土地があり、食糧を沢山作る事ができる」と、北海道行きを決心しました。
 その頃、夫も私もすでに両親は亡く「何も北海道まで行かなくても」と、反対する私の姉の家族と涙の別れをすることになり、その姉とは二十年近くも再会する事はありませんでした。
 「北海道は寒いから」と、知人がくれた火鉢と少しばかりの荷物を鉄道駅から送ったのは、奇しくも昭和二十年八月十五日の午前中で、昼には終戦を知りました。駅に行くと放心状態の駅員が「戦争は終わったんだよ。どうして北海道なんかに行くの」と、しきりに北海道行きを止めました。それでも道中の食糧に炒(い)り大豆を入れたお茶缶を持ち、列車を乗り継ぎ、台風時期で時化のため出港できない船を待ち、半月近くもかかって目的地の上富良野に着きました。

   開拓の地に夢を託して

 上富良野に来て二年程は他の部落に仮り住まいで、道路もない原始林を切り開くには、女性の力と、そして幼い子供の力まで家族総動員しなければ進める事は不可能なことでした。
 開墾の為に使った鋸、笹刈り鎌、笹の根を掘り起こす荒地鍬は当初の農道具として大切なものでした。
 ふた夏、通いで少し開いた土地に、切り出した丸太で、土に穴を掘り開拓小屋を建て、茅を刈り取って屋根を作り、入口には筵(むしろ)を下げただけの粗末な物で、土間に鶏を数羽放し飼いにして、筵を敷いただけの板の間がすべての生活の場で、ランプの灯がかすかに手許を照らし、水は川の水を汲み、大雪で川まで行けない日には、軒先の雪やツララを鍋や釜で溶かして使いました。
 幾日も続く吹雪や、寒さで凍え死にしなかったのが不思議な程、只々耐えるだけの日々でした。
 当初は、薯(いも)や南瓜(かぼちゃ)などの越冬の仕方も知らず、開拓小屋の土間に何枚もの筵をかけて置きましたが、一度寒波が来ると凍ってしまい調理できない堅さになり、それを薪ストーブの近くで解かして、配給米や麦を少し加えて雑炊にして、春の訪れを首を長くする思いで待ちました。
 その頃、少しずつ聞こえて来る東京の復興の様子を知り、何度も「逃げ帰り人間らしい生活をしたい……」とも思いましたが、食べる事さえままならぬ時に東京までの汽車賃など手元になく、どうにもならない運命としか思い様もなく悲しい気持ちで暮らしておりました。
 環境の変化もあってか入植以来すぐに次の子を宿す事もありませんでしたが、昭和二十三年四月長男を出産した後、政府貸付けにより、等外製材と土壁の家を持つ事が出来、終戦の年一歳だった長女は小学校へ入学しました。しかし農耕馬、農機具すべてが借金で増々身動きが出来なくなっていました。
 夫は雪解けを待って、開墾が始まると東の空がまだ明けぬ三時に起き、夜は寝る間も惜しんで働き、六年程で身体を壊して、それが元で六十六歳でこの世を去るまで入退院を繰り返したのでした。頼りの夫が病に倒れ、それからは、まだ幼かった子供達も働き手となり苦労を共にしました。
 昭和三十九年、長男が中学を卒業して開拓二世を担うまでの六年間、病気の夫に代わり長女が農耕馬を相手に、部落の方達の助けを借りながら営農の役割を果たし、その長女が昭和四十年に結婚し、次女が中学卒業後長男を助け、生活も少しずつ楽になり、他の子供達もそれぞれ親元を巣立ち、ようやく息をつく思いでした。
 三年程手伝ってくれた次女も嫁ぎ、家を離れていた三女が一年間家を手伝ってくれ、こうして開拓地の営農は子供達に支えられてきました。三女も遠く栃木へ嫁いだ後長男が結婚し、孫も出来て、ようやく親としての役目を終えた思いでした。
編集注:田中氏の三女とは「上山佳子」氏で、本誌第十二号に「静修開拓の足跡(そのU)」を寄稿している。
 開拓部落の同志の家にもそれぞれ後継者が成長した頃でしたが、高度成長期の大規模機械化農業への指導の許に、農地を売却して離農する人達が次々と出て、部落も淋しくなりましたが、長男は開拓二世の意地を見せ、耕地を増やし、それまでになかった近代化農業を営みました。
 然し第一次オイルショック以来の農作物の不安定な価格と設備投資との不釣り合い、人件費等で先行きに不安を感じて昭和六十三年離農を決意し、転職しました。
 こうして戦後四十数年、静修開拓での私達家族の歴史は幕を閉じました。そして静修開拓での歴史の上に新たなる子供達の歴史は、始まりました。
 入植以来長きに渡り静修開拓団の為にご尽力、ご指導下さいました皆々様に心からの感謝とお礼を申し上げ筆を置きます。

機関誌      郷土をさぐる(第39号)
2022年3月31日印刷      2022年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀