後世に語り継ぐ事業シリーズ
名誉町民 故石川清一の生涯 【後編】
郷土をさぐる会編集委員 本田 邦光 (七十八歳)
前編の概要
本稿は長文になったため、前号の『前編』と本号の『後編』に分割して掲載している。
前編では、徳島県にルーツを持つ石川家について、父母・祖父母まで系譜をさかのぼって、北海道有珠郡伊達紋別へ、そして上富良野への移住経緯を記した。
続いて、石川清一氏(失礼ながら以下「清一」、また義兄の和田松ヱ門氏を「松ヱ門」と略記することがある)の出生から子供時代、青年期から軍役、農民運動への傾倒について、また、後に義兄となる松ヱ門との関りについてまとめてきた。
農民運動を起点に北海道議会議員に当選、昭和二十三年六月の公職選挙法の一部改正によって、二十四年八月、再び当選したが任期途中に辞任し、時流に乗って一転立起した参議院議員選挙に昭和二十五年六月当選、しかし取り巻く政治環境が整わず一期六年で政界を去ることになった。
この後、昭和三十一年に結成された北海道農村連盟の委員長に就任、九選を経て十年目に入ったとき、後に自他ともに「人生最大の逆境」と言った『上富良野町農業協同組合三億円横領事件』で農村連盟の委員長を退任することによって、北海道の政界からも去ることになった。
北海道議会議員、参議院議員、そして北海道農村連盟委員長としての時期、一貫して上富良野町農業協同組合の組合長の職にあった。
後編では、この農協からの視点で振り返ると共に、晩年の様子をひもといていく。
十一、上富良野農協と共に
1 組合の歩み
清一は、昭和二十三年二月二十七日、農業協同組合が設立されてから、昭和四十五年退任するまで二十二年間組合長の職にあった。
組合の沿革は昭和四十六年一月十五日発行の「組合の歩み」にくわしく書かれている。農協設立年次の記念誌等にもしばしば書かれているが、農協設立二十周年記念式((昭和四十二年十一月二十三日開催)の式辞を転載する。
掲載省略:冊子写真〜上富良野町農業協同組合「20年の歩み」昭和42.11.23
明治の中期、産業組合法や農会法が制定公布されて、農民の指導、救済的政策がとられました。本町におきましても大正二年の暮故吉田貞次郎先生が中心となられ、組合員三十一名、出資金百二十円で草分部落を中心として上富良野信用組合が設立され、爾来経済変動と冷災害に耐え乍ら組合員の親睦と団結によって逐年事業は伸びましたが、その経済を一手に担う程には至りませんでした。
石川清一氏肖像
かゝる時、大正十五年五月末、十勝岳爆発による大災害は全国的にも初めてのものでありまして、死亡者数や流亡土地面積、家屋に甚大な被害を蒙り、眼を蔽う惨たんたるものでありました。全国から温い同情や救いの手が差しのべられましたが、被害者の悲しみを如何ともする事が出来ない程深刻なものでありました。
当時村長であり、産業組合長でありました故吉田貞次郎先生は迅速適切な措置をとられまして、各種応急対策、客土事業を初めとする恒久対策等の復興計画を樹て、人心の安定とあらゆる機関の協力態勢をかためられて幾年を経ずして復興されました。
組合はその後故田中勝次郎翁(編集注:後に昭和二十二年〜三十年、村長・町長)を専務理事として事務所の新築、信用、購買、販売、利用事業を積極的に開始され、業績は順調に伸長いたしまして、組合員の営農と生活に直結する様になり次第に組合員は増加して参りました。この間、経済更生運動や産青連運動が活発化して、一時東中組合との合併を見て全村的運営がなされました。
一面支那事変から大東亜戦争へと戦況が激化するに従いまして、組合も又組合員の為よりも国家の要請に応えるべく食糧の増産、軍需資材の生産を期して、あらゆる苦闘を経て農業会の設立となりましたが、その戦争協力も空しく終戦と相成りました。
かくて軍事力を背景としての統制、官僚機構による机上プランの押しつけに対する反抗、また敗戦の虚脱状態の中で、占領軍から日本旧制度と組織の解体を含んだ日本改造の諸政策がとられました。その中で農地法による農地解放と農業協同組合法による農業会の解散、事業の継承は、大きな二つの柱でありました。その協同組合法は昭和二十二年十一月十九日公布され、それから今日まで満二十年の歳月が流れました。振りかえって見れば永い永い二十年でありました。また一面昨日の様に感ずる短かい二十年でもあります。
当時四ツの島に閉じこめられた八千万の日本人は一日も早く祖国の独立と経済の復興を念じて灰土の中から山間へき地から日本民族としての自信に満ちて立ち上りました。特に農村と農民は民族精神培養の地でもあります。農民自からの手になる協同組合の発意、次いで設立事業の運営等日本の農民は農村の夜明けに歓喜したのでありました。
本町においても、法の公布前後から和田松ヱ門氏らが発起人となり、全戸加入を目途として部落毎に、或は全町的に会合を持ち、懇談を重ねた結果、東中地域を除いて翌年の初め組合員一、一七四名、出資金三、六三九、〇〇〇円を以って設立され、初代組合長石川清一、専務理事に村上国二の両名によって農業会から施設、資産が引継がれ、事業が開始されました。
組合の事業や数字の経過については、手塚官一専務理事に代りまして、高橋哲雄参事から御報告申し上げますが、支那事変以来、敗戦時までの長期にわたる収奪的生産のための地力の減退、軍需品中心で進められた為の資材の不足は、強い農民の熱意と努力にもかかわらず容易に恢復(かいふく)達成できず、法の示す協同組合は、組合員の農業生産力の増進と経済的、社会的地位の向上は、二十名の役員約六十名の職員が、一体となり、一、〇〇〇名以上の組合員と泥まみれになっての苦闘の連続でした。
加うるに昭和二十四年六月、八町内から起きた大火災は、故吉田貞次郎先生を初めとする歴代役員の努力の結晶である倉庫、工場、住宅等の全部に近いものを一瞬にして灰燼(かいじん)に帰せしめ大損害を豪りました。組合員に対しては誠に申し訳なく、類焼とは言いながらお詫びの言葉もありませんでした。
「上富農協はつぶれてしまった」「再び起ち上がれないぞ」の声の中で、その夜から数度の役員会が真剣にもたれ、堅実な復興計画をもって臨時総会にはかりました処、一、五〇〇万円の再建案は可決され、復興に着手できました。この間「我れ我れの組合をつぶしてならんぞ」「前以上の立派なものを建てよ」の声に励まされ、組合員また心の底からの理解と部落をあげてのご協力をいただきまして、五カ年計画を四カ年で完了して復興記念式典をあげ涙を流して喜びあったものでした。
その後逐次地力は恢復、資材も豊富になり、農産物は増産され、信用、購買、販売、利用の事業は年毎に躍進し、損金を埋めて次第に黒字決算を見るようになりました。昭和三十年には農林大臣や全国農協中央会長から資金造成の優良組合として、直接表彰状や記念品を戴いた時は、皆様と共に苦労が偲ばれて目頭の熱くなるのを感じました。
また、昭和三十三年六月二十日には設立十周年記念式典を挙行致しまして、故吉田貞次郎先生を初め、各種の功労者の労をねぎらい、優良農事組合や、協力機関や、組織に感謝の意を表して、十周年に一つの区切りをつけたのであります。
昭和三十四年には多年の懸案でありました事務所、店舗の新築を計画し、総会の議決を得まして、旧吉田商店跡地に上富良野町はじめての鉄骨、鉄筋の永久建築といたしました。十一月二日、完成落成式典以来屋上二階を町内行事に合わせて解放したり、あらゆる会議、或いは結婚式等に利用いただいて、当時立派すぎる、金をかけすぎると御注意や、御批判をいただきましたが、事務所の中央部の組合員溜りや、その他でおほめの言葉をもれ承って、まあよかったと胸をなでおろしている次第であります。
2 組合長になるには
組合長になるには、まず農協の理事選挙に当選しなければならない。農協の理事に選んでもらうにはその度に虚々実々の徴妙な政治的根廻しが必要であった。また組合長になるには、当選した理事によって再び選ばれなければならない。ここでも支持者を持っていなければならない。
当時の農協組合長他役員の選任に関して、昭和二十七年六月十一日の上富良野新聞を、長文になるが引用する。
上富農協の総会も役員改選まで無事終了した。組合長以下理事監事選挙に対する事前の動きは、相当微妙な雰囲気の中に何かはれものにさわる気持ちで総会まで持ちこまれたが、就中(なかんずく)組合長、専務理事のいすをめぐる取沙汰は一応話題を賑わした。
即ち追放解除による和田氏の返り咲き問題に端を発した石川氏との関係、四年間の留守を守って専務を司った村上国二氏の持ち上がり、この三角関係が如何に展開するかについて、各人各様の見方によって論ぜられたが、結果は現状維持となって現われた。
「石川を退かすな」の線を強く支持して専らこの世論操作に蔭の力を尽した某人物の力が、決定的な効果を呼んだとも言われているが、現在改進党問題が起ったとは言え、もともと農民から推されて出た参議の地位にある石川氏からの足がかりを取払うことを憂う心境と、中央政界における肩書の活躍と農協のプラスとを結びつける打算感覚も多少てつだっている。
また一論には、参議肩書のもたらす農協のプラスと、組合長を結ぶ段階はすでに過去的なものであって、氏のための足がかりというのも、農協の石川でなく、上富良野の石川である以上、それは思い過ごしであり、常勤可能の組合長を今回は出すべきであるという線が、村上国二、和田松ヱ門コンビを想像するに至ったものである。
この線については、和田氏も、「もし理事に出されるようになったら、村上氏の下についてお手伝いしたい」ともらしていたこと、また石川氏も一応はいす譲り渡しを身近のものに発表していたと言われるので、一時は村上組合長、和田専務の線がかなり濃厚になった短かい期間があった。
その後某氏をめぐる石川氏再選に関する論調は次第に勢力を得てくるにつれて、必然和田氏の線は地域的に弱くならざるを得ず、ここに石川か和田かのギリギリの話し合いが地元部落において討議された模様である。
この状勢に対して、久野氏が、両人を出して自らは退くという意志表示も出るという波紋も呼んだが、これは地盤分立の伝統的感覚から実現は至難であり、結局石川氏の再登場に決定するに至ったのである。
理想の実現を旗標として進む和田氏に対して政治性に長じた強力な迫力をもって現実を処理する石川氏が、互に義兄弟の問にありながらもイデオロギーを異にするに至っている最近の状勢は、片や改進党、片や農民同盟が相対立しないまでも、こうした関係を一層複雑にしたことは否めない。
農民同盟の委員長であり、その他農民関係の外部諸団体の要職を占めている和田氏が、対内的にも、対外的にも、たとえ平理事でもいすを占めることが、町のためプラスであることは、客観的に肯定できるところであり、殊に農畜産加工の組合長を押しつけられている最近の氏としては、農協運営について発言権のない立場にあることは、今後の苦難が想像されるし、和田氏として感無量の心境であろう。
この「農協総会余話」という記事は、この時の舞台裏を最も公平な立場から述べたものといえる。
また清一は義兄松ヱ門との関係について次のように書き遺している。
私と和田君の仲を心配してくれる人が多い、しかし多くの人々は、真実を知らない。私はほんとうに人間としての和田君の成長を望んでいるだけである。(昭三〇、一一、三)
3 系統機関の役職
市町村長に就任すると、その職にあるがために自然と兼任しなければならない公職も非常に多い。農業協同組合長も同じようなもので、上富良野農業協同組合長を二十二年もつとめていると、組合の上部系統機関の役職につくことも多かった。
ことに清一には、道会議員時代があり、また参議院議員時代があったので、普通の組合長より政治力あると見られていた。
清一は「思い出せば色々の肩書をもったが、こまかいものはもう忘れ去ってもよい。だが、上川生産連副会長、ついで会長となったことは忘れられない」と書いている。
昭和二十三年の道連合会設立協議会の議長として、八ヵ条の基本的考え方の下に全道の各連をつくり、そうして上川の生産連の会長となり、一ヵ年で秋山に譲って競馬場を生産連のものにし、北信連の代表監事となった。
その年から二十二年目、再び道連役員選考委員会の長となり、それぞれの適材を適所に配慮して上川生産連の会長に返り咲いた。(随想集)
美瑛町白金温泉近くの美望が原に「白金模範牧場」をつくり、酪農振興の基地とし、道内では制度化の第一号となったが、このほかにも上川生産連を基盤として行った事業も多い。
十二、上富東中両農協の合併
1 合併の日
清一の組合長二十二年の中で、一つの山と見てよいのが、上富良野農業協同組合と東中農業協同組合の合併だった。
北海タイムスの昭和四十三年二月二十九日付に、
合併予備契約書に調印、上富良野東中両農協、スタートは五月一日、三月二十八日に合併総会
という見出しで報道され、三月三十日付には、
総会で合併を同時議決、上富良野と東中両農協、ガッチリと堅い握手、五月一日からスタート
と、大きな活字が並べられ、二人の握手の写真がのせられた。
昭和四十三年四月三十日の随想集に、そのころの気持ちが示されている。
今日で組合の仕事は一区切りつける。明日はいよいよ東中との合併である。随分と長い間かかった懸案も、今日でその終末をつげて新発足すると思うと、感慨無量のものがある。あとに残って机の整理をしようと思ったがやめた。
何時かほんとうにやめる気になって、うちに全部ひきあげたことがあった。村上さんが町長になった。その時私は組合長をやめて和田さんに譲りたかったがそれは許されなかった。新聞を切抜いて生きる面影に張ったりしている。
明日から中西さんとの仲、真実にうまくやりたい心を割って話をして、別れるにしても了解づくでやりたい。敵をつくらないことにして、これからは徹する生き方をしてこそ、石川哲学が生きるのでなかろうか。愈々明日は合併である。(随想集)
掲載省略:写真〜東中・上富良野農協の合併調印
2 新農協の組合長に
昭和四十三年五月一日、新組合発足の日、清一は再び組合長に選ばれた。
両農協職員全員二階に集合、七時辞令の交付、次いで私新組合長と中西専務のあいさつ、あと東中に行って支所開き。(随想集)
掲載省略:写真〜上富良野農協・東中農協合併当時の役員
十三 夕映え
1 文化財保護委員長
昭和四十八年八月十三日の日刊北海協同組合通信には、
昭和四十五年、組合の経理課長が、折からの赤ダイヤ投機熱に浮かれて組合の金を三億円使い込み、その責任をとって上富良野組合長を辞した石川清一さん。人のうわさも何とやらのたとえ話のように、今では系統関係はもちろん、すべての公職から去って、ゆうゆう農民に還り、奥さんと一緒に搾乳牛一四頭、アスパラ畑一ヘクタールを経営するという毎日。
戦前からの長い道議、戦後三十一年に参議院議員を辞するまでの永い政治歴、その後も全農連、農村連盟などの各委員長、中央会副会長といった華やかな過去を持った人とは見えぬ悟りきった表情で、乳牛の世話やらアスパラ採取ですっかり農民らしく日焼けした顔で、ことしの米価が決まった日、ホクレンや中央会などに久しぶりに顔をみせていた。
理想家膚でざっくばらんな石川さんの人柄は、広く道内系統組合長間に親しまれ、在野時代は数回にわたって各連役員改選の際に選考委員長を任されるなど、いってみれば各連役員の産婆役というところ。
石川さんの人柄についての話題は尽きないが、いまも関係者の語り草となっているのはやめっぶり≠フ良さという点。道議、参議といった政治家コースをとった人々の多くは、決定的な老化か、相次ぐ落選かでなければ辞めないもの、というのが相場といわれるが、石川さんは参議も組合長も自己の信念でズバリ辞している。
と書かれた。
清一の当時の心境を最もよくあらわしているが、昭和四十七年三月町文化財保護条例ができ、文化財保護委員会の委員長になった。事件後の公職就任第一号であった。
その在任中の一九七三(昭和四八)年六月一五日に、次の二件を上富良野町指定文化財に決定した。
〇有形文化財 「東中尋常高等小学校奉安殿」
〇天然記念物 「凱旋記念の松」
2 去り行く
北海道の産業組合史を書いた森正男が北海道を去ることになったことを、「戦後の功績も多いのに、すでに男としての一生を終ったという感じである。私も同じなのでことのほか印象深い」と随想集に書いている。自らの心情を映しているようである。
申(さる)年の生まれの還暦に、神社に奉納する石に刻む詩を書いている。
人間寿命七十才 申年同輩迎白髪
祈常平和与繁栄 献郷社道央銘礪
また、知人の逝去について
昭和四十八年、玉井勇が死んだ。相田隆一、大嶋勝位と共に沿線における同志であったが寿命というのは全くはかないものである。最も私を支持してくれた神田周造が昭和四十二年五月二十五日に逝去した。また、小林篤一を思い、宮本平八郎を偲ぶ。いづれ私も永遠の休養に入ることだろう。(随想集)
などと無常を記している。
昭和五十年十二月、登別温泉への湯治について書いている。
妻と長期滞在をした。十二月二日から、十五日までである。この時は上富良野からの同行者もあったが、妻と一室を借りて湯にひたる気持はまた格別であった。疲れると湯にひたりながら毎日年賀状を書いた。
二百二十枚に、その人にあてはまるように、石川哲学の語録ともいうべき短文を添えたが、「昭和五十一年度年賀状を差しあげた芳名」には四百名近い名が書かれている。これは私の交遊の範囲を人名の上から調べる最もよい手がかりとなるであろう。
「石川さん、新婚旅行ですね」とひやかされたがほんとうにそうであった。妻が骨折で入院した時、旭川の病院で長い間つき添ってやったことがあったが、あの時はベットの上と下だった。
2 特別招待車
上富良野町が開基七十周年記念式典を行ったとき、清一は島津忠重氏(旧島津農場主・薩摩島津家第三十代当主)と共に、特別功労者として表彰された。
これにもまして思い出深いこととして
「北海道百年記念式典で、天皇陛下や首相は別格であるが、特別招待車としてこれにつづく第一号車に乗ることができた日である」
と遺している。
掲載省略:絵画〜フジエ夫人(深田朔風 画)
十四 最終の随想集
1 ノートをのこす
清一は、百十七冊のノートを残している。後世必ず誰かが見るものという意識のもとに書かれている。『石川清一伝』の編者岸本翠月氏は、このノートを『随想集』と呼び、この中から抜粋した自叙伝形式の文章を随所に配してまとめている。
この最終ノート(随想集)百十七冊目に、
若し私が支那事変で戦死をしていたら今日の日本の状態は変っていたであろう。
おそらく三木首相も実現しなかったであろう。
井出官房長官も生れなかったであろうし、どうなったかわからんが、紆余曲折を経て常識で考えられる線から余り外に出られなかったであろう。(昭和五十年四月十八日)。
と書かれてあり、編者岸本は、
何と自信過剰の男だろうと思うし、折にふれて書いて出した葉書が、後世出版される(随想集百二十一号)と思ったりしているのは、これまた石川らしいと微笑するのである。
石川放言といいたいようなもののいい方であるが、石川語録にはこういう言葉はめずらしくないのである。生前の石川清一をよく知る人々は「成程そうだ」とわかってくれることと思う。
しかし、石川清一に、この土性骨と土根性があったからこそ道会議員になるチャンスもつかみ、参議院議員にもなったのである。
と評している。
この清一にあっても、随想集の終編部になると次第に平凡な世間並の老人になり、昭和五十一年になるとさすがに大言壮語しなくなったという。
掲載省略:絵画〜随想集を書く(大坪邦子 画)
2 予 感
随想集を書くということは一つの習慣になっていた。覚書きであると同時に自分の生命の燃焼の記録を後世に残そうとするものだった。その大学ノートもその一冊が終りとなるということを、知ってか知らずか。
・ 昭和五十一年八月二十二日、藤田さん(お母さんの親もと)へ行こうと言ったが、家内全員の賛成をとりつけることができなかった。多数原理に従ってやめた。…以降略 ・ 昭和五十一年八月二十四日、自転車をとりに深山峠。…以降略 ・ 昭和五十一年八月二十六日。小学校の時習った先生に端書をかく次のとおりで誤字はないと思う。…中略…一日に高橋姓の人から二枚きた。東旭川と江別である。その返事を書いた。
石川清一の随想集はとうとうここで終ってしまった。人間はある程度死を予知することができるのかも知れない。
3 臨 終
八月二十五日、中村啓一氏の演説会が上富良野福祉センターで開かれたが、清一はこの時足の関節が痛み出したのでハイヤーによって自宅に帰った。二十七日には荻野栄太氏が上京することになり、内閣総理大臣の三木武夫に逢うために紹介状がほしいと言って訪れたがこのとき家の中を歩くことができない状態だったという。
三十日には最も近い小玉外科病院に入院、急性関節炎ばかりでなく心臓が弱っていることがわかったので、三十一日上富良野町立病院に転院した。
しかし、容態は急に変り、昭和五十一年八月三十一日十時三十分、心不全のために息をひきとったのである。病室にいたのは妻と長男だけだった。
十五、密葬の日
1 深山峠の空晴れて
昭和五十一年九月三日、深山峠の空は美しく晴れていた。富原部落の印藤満寿雄の作になる深山峠和讃は、
艱難辛苦(かんなんしんく)に耐えるため
萬(よろず)の憂いを除かんと
大師の誓いにすがりつつ
願求発願(がんくほつがん) 開創(かいそう)の
富良野沿線霊場に
菩薩勝慧(しょうえ)と導かれ
法悦歓喜(ほうえつかんぎ)の鈴の音は
絶えて詣(もう)ずる人もなし
と、新四国八十八箇所のすたれていた姿をうたっている。
この霊場を深山峠に集結して、新しい生命をふきこんだのは石川清一晩年の仕事であったが、その葬儀は、密葬と言いながら盛大なもので、自宅前を出る時の写真には、畑の中まであふれる人が集っている。
これは、郷土の生んだ政治家として故人を偲び、農業協同組合長としての功績をたたえることももちろんであるが、真言宗の信者とし、深山峠の開拓者としての生涯を慕う人々の厚い心の然らしむるものであった。
掲載省略:写真〜昭和51年9月3日肉親と郷土の人々に送られて自宅を出る柩
2 煙と消えて
金剛流入定和讃の譜によってうたう深山峠和讃は、
開拓以来百年の 拓きし人の辛苦をば
萬世(よろずよ)までも伝えんと 緑の起伏そのままに
弥勒(みろく)の浄土をあらわしぬ 日本一の景勝地
深山峠の霊場と 諸仏をあつめて安置なす
と、つづいているが、この開眼供養にささげた石川清一の肉体は、上富良野墓地の空の煙と消えて、ただ白骨をのこすばかりとなった。
3 宇宙接点に骨箱を
深山峠に宇宙展望台をつくろうとした雄大な構想は実現しなかったが、この峠は宇宙接点だということをよく筆にもし、歌にもしていた。
政界に進出しようとしたり、農協組合長として雄飛した心のどこかには、人間としての名誉心もあったと思うが、深山峠の開発は、ただ一筋の信仰からだった。
このことは、その肉親も、また交遊の深かった人々もよく知るところである。遺骨を抱く夫人を乗せた自動車は、故人のこの心を察して墓地からの帰りに深山峠にのぼり、深山峠新四国八十八カ所霊場の標石の前で写真を写した。
美しい秋晴の空の下で、南無頂頼遍照尊という和讃の声が流れた。
信仰厚き人々が 仏の慈悲に手を合わせ
余教超過の御法(みのり)をば 十一洲に流すなり
深山峠の霊場は 平和をよびかく信仰地
南無頂頼遍照尊 南無頂頼遍照尊
十六、葬 儀
1 叙勲と名誉町民
本葬儀は昭和五十一年九月四日、上富良野福祉センターにおいて行なわれた。故正五位勲三等旭日中綬章、上富良野町名誉町民石川清一殿葬儀会場という太い黒文字が菊の生花に埋まるようにして立っていた。
勲三等も、名誉町民の称号も、息をひきとってからもらったのであるが、生前の随想集五十六号に、次のような文章があった。
私が頂いた勲章の決定文は次の通りである。
天佑ヲ保有シ万世一系ノ帝詐ヲ践メル大日本帝国天皇ハ、石川清一ヲ明治勲章ノ勲八等ニ叙シ、瑞宝章ヲ授与ス。
即チ此位ニ属スル礼遇及ビ特権ヲ有セシム。
神武天皇即位紀元二千六百年、昭和十五年四月二十九日宮城ニ於テ爾ヲ鈴セシム。
昭和十五年四月二十九日
賞勲局総裁従三位勲一等 下条康麿 印
第百四十九万九千三百二十四号ヲ以テ勲章簿冊ニ記入ス。
賞勲局書記官正六位勲五等 村田八千穂 印
たしかに貰った記憶はある。一五〇円かの戦時公債をもらって、それは今日うちにのこっている。急いで証書を出して書きとめたのであった。
しかし、軍人がつくったのか何と味のない文である。神武天皇即位として紀元二千六百年、その上昭和十五年四月二十九日と天皇誕生日の日付で出している。今少しゆとりのある文章であってほしい。芸術性のあるものなら額にして掲げておくのであるが、今国会で勲章問題で騒いでいる。社会党は生きている人間に必要ないが、死んだら出すのに反対しないとの方針だが、お互に貰うことにきまったら、生きているうちに貰った方がよいにきまっている。
正五位勲三等旭日中授章も、名誉町民の称号もついに生前に見せることができなかった。
日本国天皇は勲八等石川清一を勲三等に叙し旭日中綬章を授与する
昭和五十一年八月三十一日皇居において璽をおさせる
天皇国璽
昭和五十一年八月三十一日
内閣総理大臣 三木 武夫 印
総理府賞勲局長 秋山 進 印
第三二五一四九九号
名誉町民顕彰
故石川清一 殿
あなたは、永年に亘り農業団体要職を歴任すると共に町農業発展の礎を築き管内農業振興はもとより、本道の開発の先駆者として偉大なる足跡をしるされましたが、この間国政道政に参与され高潔な人格と該博な見識ならびに優敏なる才能を発揮し産業振興と郷土発展に献身された功績は誠に顕著であり町民ひとしく誇りとするところであります よって上富良野町議会の議決を経て上富良野町名誉町民の称号を贈りその功績と栄誉を讃えます
昭和五十一年九月四日
上富良野町長 和田松ヱ門
掲載省略:写真〜『旭日中綬章』及び『名誉町民顕彰』
2 葬 儀
葬儀が始まった。
開式の辞
町助役 平井 進
合掌礼拝
読 経
告別の言葉
上富良野町長
和田松ヱ門
農協組合長
高木 信一
弘照寺住職岩田実道を導師とする読経が再びつづく中で遺影は菊の花の中にありし日の面影を見せていた。
掲載省略:写真〜正五位勲三等旭日中綬章 名誉町民 石川清一殿 町民農協葬
3 弔 辞
町長と農協組合長の告別の言葉に続き、次の関係団体代表・知友人・縁故者等の弔辞が、静まり返る会場内で次々と送られた。
高野山 管長代理弔辞を送った方々から、いかに幅広い分野に功績を残したかが推察できるが、この中で、かけ出しの時代からの友人であった河口陽一は、
町議会議長 谷 与吉
中央会会長 早坂 正吉
上川組合長会 星野久三郎
衆議院議員 松浦周太郎
元衆議院議員(友人) 河口 陽一
協友会長 海江田武信
教育委員長 泉 隆春
農業委員会長 林 財二
弘照寺総代 村上 国二
東中小学校時代の恩師 高橋 永
富原圃場事業受益者代表 清水 一郎
友人代表 相田 隆一
昭和二十二年四月選挙には、君は道議選、俺は衆議選と力を合せて、二人で富良野沿線を演説した。布部を夕方七時頃終り、汽車がないので山部まで鉄道線路を歩いた。まっ暗の中を話をしながら山部の会場へ急ぎ足で鉄橋の上を歩いていて、貨物列車に出逢って仕舞ったが、君が急に見えなくなったので、僕はテッキリ飛び下りたと思った。僕は間髪を入れず鉄橋から飛び降りたところが、残雪で氷が固かったので脳しんとうを起して意識不明、暫らくして意識を戻して周囲を見渡したが、君の姿が見えない。
俺はテッキリ石川君は汽車にひかれて死んでしまったと思った。俺は命だけ助かったが、体が痛んで動けない。そのまま冥想にふけっていると、笹かき別けてオーイという石川君の声がする。オーイ石川生きているかと俺は叫んだ。……
と回想して当時を知る人々の涙をさそった。
履 歴 書
明治三九・ 七・二五 出生(実際は五月五日とか) 大正 二・ 四・ 一 〜八・ 三・二〇 東中小学校入学(六年間優等首席) 大正 八・ 四・ 一 〜一〇・ 三・二二 東中小学校高等科(二年間首席)
卒業後東四線北二十一号で農業従事大正一五・一二・二〇 〜昭和 三・一〇・三〇 騎兵第七連隊・帰休除隊(一等兵) 昭和 六・ 一・三〇 和田フジヱと結婚 昭和 七・ 二・二二 長男洋次誕生(以後三男四女に恵まる) 昭和一二・ 八・二四 旭川騎兵隊に召集上海派遣軍患者輸送部第二兵站病馬廠に編成
(高亀廣中佐が長で高亀部隊と呼ばれた)昭和一二・一〇・ 三 上海近郊呉松港上陸・蘇洲より南京入城 昭和一三・ 六・一五 兵役免除・旭川衛戍病院退院(上等兵) 昭和一五・ 四・二九 勲八等瑞宝章受領、傷夷軍人記章・支那事変従軍記章交付 昭和二〇・ 七 上富良野農会理事(解散農協設立まで) 昭和二二・ 一 〜二五・ 四 上富良野農地委員会委員・委員長 昭和二二・ 四・ 一 〜二六・ 四・ 一 北海道農業復興会議副議長 昭和二二・ 四・三〇 〜 二五・ 四・三〇 北海道議会議員 昭和二二・ 八・一〇 〜二六・ 三・ 一 北海道農民同盟執行委員長 昭和二三・ 四・一〇 上富良野農民同盟委員長 昭和二三・ 四 〜二四・ 三 上富良野農業共済組合理事・組合長 昭和二三・ 七・二〇 〜二四・ 六・ 四 北海道信用農協連代表監事 昭和二三・ 七・二〇 〜 二六・ 六・二〇 北海道農業共済農協連理事 昭和二三・ 八・ 一 〜二四・ 八・ 一 上川生産連会長 昭和二四・ 三・ 一 上川農民同盟委員長 昭和二四・ 四・三〇 〜二八・ 四・二〇 全国農村青年連盟副委員長 昭和二四・ 六・ 一 〜二五・ 五・三〇 米価審議会委員(第一四) 昭和二五・ 六・二二 〜 三一・ 六・三〇 参議院議員 昭和二六・ 三 〜二六・ 七 上富良野農業共済組合組合長 昭和二七・ 二・二〇 上富良野通運KK取締役会長、富良野合同通運KK取締役 昭和二八・ 五・二〇 〜三〇・ 五・二〇 北海道指導農協連理事就任 昭和三一・一〇・一〇 北海道農村連盟委員長 昭和三四・ 四・二〇 〜三七・ 六・二〇 北海道指導農協連理事・副会長 昭和四二・ 二・二〇 空知と合併・北海道農民総連合委員長 昭和四三・ 五・ 一 上富良野町農協・東中農協合併 昭和四三・ 五・ 一 〜四五・ 六・二〇 新生農協初代組合長就任 昭和四四・ 六・ 一 〜四五・ 五・ 七 上川生産連理事会長 日付なし 北紡KK取締役
旭川中央トラック取締役
旭川日産サニー取締役
北海道自動車学園理事長
以上、清一自身の筆によるが、始期(着任)があっても終期(離任)がないもの(不明)も含まれる。
このほか本人は書き遺していないものとして、北海道農産物調査会雑穀部会長、上川開拓審議会委員、町村道政推進本部長、北海道農業復興会議副議長、北海道農村文化協会々長等がある。
石川清一歌集から
『石川清一伝』末尾に、岸本翠月氏が左記の趣旨(要約)で選んだ歌集が掲載されている。テーマごとの五〜十首前後がだが、ここには紙面の都合から二首程度ずつ掲載する。
『歌集をまとめて 著 岸本翠月』要約
昭和二十年八月十五日、敗戦によって…心ある人々は、今後どのようにして生きて行くかについて考えた。和田松ヱ門もその一人で、上富良野噴煙短歌会を創立し、…活動を始めた。昭和二十一年、私は和田さんの招きで聞信寺の集りに講演をしたが、この日が私と石川清一さんとの初対面である。
…石川さんを新墾社(にいはりしゃ:歌人の小田觀螢が昭和五年に創設した北海道の短歌結社)に入社させた。
その後、三年間毎月私のところに詠草が送られてきた…が、石川さんが農民運動から道議会議員に当選すると次第に歌から遠ざかった。それでも昭和二十七年まで出詠し…歌集の『前編 新墾の道』はこの間のもので全部活字になった小田觀螢選である。…『中編 随想集歌抄』は、ノートの中に折りにふれて書き込んであったものを選んだものである。文学的要素より、思想的なものが強く出ている…
随想集…、上富良野広報、農協だより等…から、年代的におそい歌をまとめたのが『後編 深山峠』である。…
前編 新墾(にいはり)の道
答 辞
昭和21年水稲の鎌入れ近し赤き陽の
今日も変らず虫の声する
もくもくと雲湧き出づる大十勝
樺の菓揺らし蝉時雨する餅を搗く音
昭和21年つれづれに米の欠配語りつつ
疲れてつひに寝る夜の汽車
月斜め里を照して事もなく
年は暮るるか犬の遠吠え道議会
昭和23年果知れぬ飢餓インフレに狂ふ世に
仄(ほの)かな幸と男の子生れぬ
混迷の世とし想ひて憤(いき)り旅
たつ今朝の振り時計の音十勝岳
昭和24年「お父さんまた帰った」とはしゃぐ子
瞳の奥に煮ゆる吾が涙
票に見る民の姿は乱れをり
十勝嶽燃えよわが男山議員生活
昭和25年今日は西明日は東と政見を
演べ説きやまず勝たんと努む
人民のためとぞわめく政治屋の
塵挨はらひ黙して帰るわが家
昭和25年ほろ酔ひに帰る夜の道ふさぐ雪
留守居の祖母の土産抱きしむ
温床の残りの紙でつくろひし
障子あかるくまた年迎ふ童 心
昭和27年農一途ただひたむきに進み来し
人の命の涯しなき御代
万策はもろくも尽きて秋探し
新墾一冊ボストンにあり
中編 随想集歌抄
新 年 初日の出わが来し方の思い出を
胸にたたみて柏手を打つ
歳徳神迎えて年を越すつどひ
手打のそばににぢむ妻の香十勝岳 隊員の疲れをいやす湯の宿は
標高たかき十勝岳(やま)に灯ともす
移り来し父祖の血脈たぎらせて
陽をさしあげし十勝岳(やま)にま向ふ農 業 干天は半月近くなりにけり
ほこりまみれの汗ぬぐふ日々
ものを産む自然の力感じつつ
百姓する身むげにたのしきアスパラガス 一切の公職辞して六年余
黙々としてアスパラを採る
とりてゆく純白色のアスパラに
こころはずみて疲れ忘るる大時流 大時流あとかたもなく消え去れり
曠野の庵にお茶すするわれ
過ぎし日を語る古老もなくなりて
明治は次第にうすれつつ去る選 挙 未来への幸福さぐる政見を
聞きて投ずる吾の一票
黒き霧世をおしなべてとぼとぼと
牛の歩みか二大政党妻の面影 灯ひとつ微かに揺れてわが庵
千鳥の足に妻の面影
いとし子を遠くはなして憂ひあり
夜明けの鐘を聞きて起き出づ農 協 協同の旗二十年かかげ来て
積る稔りの式典をあぐ
厳しきは人の生れの性ならむ
太平洋の大き波音元 朝 見ゆ限り山連なりて雪白し
初日の光さしそめにけり
こころからこの年祝へぬかげりあり
長く尾をひく三億円事件還 暦 辿り来し六十年のいばら道
妻子とともにつつがなきわれ
過ぎし日に忍びし涙いま洩れて
妻は静かに我に寄り添ふ初恋の人
それが妻文書きし初恋の日の春の日に
桜の花の散りしおもひ出
髪染めて若さよそほふわが妻の
髪の根もとに年ののぞける冷 害 町ひらけ八十年来初めての
水害に泣くベベルイのひと
この一とせ汗にじませし甲斐もなく
稔らぬ田畑のいたでいたまし歳 末 一切の公職辞して行く年の
除夜の鐘きく床のぬくもり
雨具着て作業苦しき収穫を
重ねかさねし年も暮れたり
後編 深 山 峠
元議院章 代議士の会館とりまく陳情団
平和な国か春の雨降る
先生と呼びかけられてふり返る
われに悔あり元議院章吾を継ぐもの 嫁しづきし娘の便りしかと持ち
幸という文字を見つめぬ
三人の孫それぞれに親に似て
夕餉ひととき春に湧きたつわが岩肌 読みつかれ書きて疲れし窓明けて
眼鏡をはずし十勝岳見る
われひとり歩みつづけしこの道の
険しさ思ひ今日もペン持つ開基七十年 むらひらけ七十年の足跡の
血と汗凝りし庁舎建ちをり
年寄りの集ひのセンター完成し
その長命の味をかみしむ和田町政 君が得し首長の座こそ尊けれ
我もゑまひを持ちて見守る
宿願の座に托されし諸々の
期待に答へる長の横顔変りゆく村 数十台ブル入り乱れ猛りつつ
基盤整備の富原の土地
燻煙の材料運ぶトラックに
赤き陽のさす山麓の暮遍照金剛 一切を因果の理もて割りきりて
うちにひそめる生命つちかふ
四十年守りつづけしりんの音に
交りて唄ふ遍照金剛深山峠 武四郎顕彰碑たつ峠より
仰げば見ゆる宇宙接点
石仏八十八体立ち並ぶ
深山峠にさくら花散る
《協力いただいた方》 ・和 田 昭 彦 氏 (清一氏の甥) 上富良野町 ・石 川 和 宏 氏 (清一氏の孫) 上富良野町 《参考資料》 ・組合二〇年の歩み 上富良野町農業協同組合 ・組合五〇年の歩み 上富良野町農業協同組合 ・石 川 清 一 上富良野町農業協同組合 ・上富良野町史 上富良野町 ・郷土をさぐる 第二八号 上富良野町郷土をさぐる会 ・和田松ヱ門回想録 和田昭彦 著
機関誌 郷土をさぐる(第39号)
2022年3月31日印刷 2022年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀