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九十余年を刻む『上富良野聖徳太子講』と沿線の太子関係

上富良野町本町五丁目
中村 有秀 昭和十二年十一月二十八日生(八十三歳)

 注:本文中では算用数字を、単純に漢字「〇〜九」に置き換える表示とし、名詞や引用文の場合を除いて、「万」以外の「千百十」の位取りをしない。
  はじめに

 上富良野町中町に、曹洞宗「佛國山 大雄寺」があり、境内の左側に「聖徳太子堂」と揮毫された標額が掲げられている。
 二〇一九(令和元)年七月二〇日、上富良野聖徳太子講創立九〇周年の記念例大祭が盛大に行われた。
 創立九〇周年記念誌「以和為貴(わをもってとおとしとなす)」が発行されたが、永年に亘っての太子講活動とそれに関わってこられた歴代の講員に脈々と継がれ来たことに、伝承する意義を感じて取材を始めた。
 その調査の過程で、北海道文化財保護協会発刊(平成二九年三月)の「北海道の聖徳太子講」を読み、道内に一一七箇所、上川管内には二七箇所の存在を知った。
 その内、富良野地方は七箇所なので「太子堂・太子講・太子像・太子画」等について、市町村史や地域史・寺史で調査した結果一〇箇所が確認できた。
 しかし、聖徳太子信仰への歴史を考えるとき、今回取材した「寺院」と「太子堂」の外にも、寺院・団体・個人や法人で護持祀祈されていることが想像されます。
 富良野沿線の皆様は、何かの機会があれば、それぞれに歴史の背景がありますので訪ねて見ては……。

  『聖徳太子』について

 第三一代用明天皇の第二子として五七四年に生まれる。父の用明天皇は、太子が一三歳の時に病没。
 第三三代推古天皇が即位の五九二年に、ただちに聖徳太子を摂政として政治を委ねられた。その当時の天皇の背景については、次の状況である。

・第三一代 用明天皇
   即位 五八九年 九月 五日
   退位 五八七年 四月 九日 在位二年で崩御
・第三二代 崇峻天皇
   即位 五八七年 八月 二日
   退位 五九二年一一月 三日 暗殺され崩御
・第三三代 推古天皇(五五四〜六二八)
   即位 五九二年一二月 八日
   退位 六二八年 三月 七日

 推古天皇は、第二九代欽明天皇の第三皇女として生まれ、幾多の波乱な人生を送っていたが、第三二代崇峻天皇が暗殺されたことにより、当時の政治勢力を持っていた曽我部馬子らに推されて、我が国で初めて女性として皇位に昇られた。その後女帝は八天皇がいる。

掲載省略:図〜聖徳太子に係わる系譜図

 聖徳太子(五七四〜六二二)は、推古天皇の摂政として数々の事績があり、この主なものについて年次で列記する。

・六〇三(推古一一)年
 「十二階の冠位」制は、内政改革として諸臣の身位の上下を明らかにするために、「徳・仁・礼・信・義・智」に「大・小」を付けて十二階として授与し、天皇の尊厳を強めると共に諸臣の奉公の念を高めた。
・六〇四(推古一二)年
 「十七条憲法」の制定は、太子の国家観・政治思想を表わし、立国の根本義を規定した法である。
・六〇七(推古一五)年
 「遣隋使」として、小野妹子を中国に派遣し、積極的に大陸文化の摂取に努めた。

─ 仏教を深く信仰 ─
・勝鬘・維摩・法華の「三経義疏」を著述し、今にも伝えられている。
・大寺院の建設に、百済から高度な技術を持つ大工・木工等の匠集団を招いて完成させた。その際に持ち込まれた諸道具が日本に広まった。

  聖徳太子講について

 聖徳太子の功績の1つに、寺院建設に際して百済から多くの大工や木工を招き、高度な技術を導入し工芸芸術を奨励したことがある。このことから建築に関連する職種に就く者は太子信仰をよりどころに技術を磨いてきた。
 具体的には、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に聖徳太子が関わり、建築に関する諸職を定めたという説から、聖徳太子を「建築の守護神」また「木工の守護神」として崇拝されたことが発端であるとされている。
 室町時代末期頃から、太子の命日とされる二月二二日(旧暦)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で相互扶助や親睦の場となる講が行なわれるようになり、江戸時代には、大工、左官、鍛冶屋、桶屋、畳屋など建築関連の多くの職人の間で、盛んに行なわれるようになったといわれている。
 この日に行われる講は飲食をしたりするほか、賃金の協定をしたり、様々な申し合わせをしたりして、職人仲間の運営にとって大変重要な日になった。

  聖徳太子像・画について

◆ 聖徳太子像の「柄(へい)香炉(こうろ)」とは
 仏前に高僧が香を焚く場合に使用。香炉に繋ぐ柄に錦を張り、組紐を巻き、柄頭には獅子形をつけている。
 正倉院には「白銅柄香炉・赤銅柄香炉・紫檀金鈿柄香炉」が保存されている。
 聖徳太子の父、第三一代「用明天皇」は病弱だったので、太子は自ら法衣を着し柄香炉を持って病気快癒を祈願されたと遺されているが、太子一六歳の孝養像が北海道内に多くあり、上富良野聖徳太子堂(大雄寺境内)と聞信寺に御安置されている。

◆ 「曲尺(かねじゃく)」の太子画とは
 聖徳太子は、大寺院の四天王寺(大阪)や法隆寺(奈良)などの建設に際して、百済(くだら)から大工や木工を招いたが、その時に「モノサシ」「曲尺」を伝えられたという。
 この由縁からか、太子孝養画に「曲尺」と「墨壺(すみつぼ)」の大工道具を両手に持っている画が見られる。
 道内では「柄香炉」の次に多い。

◆ 聖徳太子像の「錫杖(しゃくじょう)」とは
 錫杖とは導士・僧侶などの用いる杖で、頭に錫(すず)・中を木・下を角(つの)などで作られ、杖頭に多くの鎖をかけて、杖を突くと鳴るようになっている。
 「錫杖」を持つ聖徳太子像は、富良野市の大宝寺に御安置されているが、道内では希少である。

掲載省略:写真〜大雄寺境内上富良野聖徳太子堂の孝養像が持つ「柄香炉」
掲載省略:写真〜中標津浄土宗天徳寺太子堂の太子画が持つ「曲尺と墨壺」
掲載省略:写真〜富良野市大宝寺の太子像が持つ「錫杖」
  富良野沿線の聖徳太子関係祭祀

一 上富良野町

◆大雄寺(曹洞宗)
・所 在  上富良野町中町三丁目四番四三号  
・開教日  明治四〇年一〇月二七日
・寺号公称 大正 七年七月二九日
◎聖徳太子関係
@ 聖徳太子講の創立
 一九三〇(昭和五)年七月一五日、上富良野村で建築に係わる同志が相集い、聖徳太子像を奉体するために、「聖徳太子講」創立の議がまとまる。
 その時の発起人は ──

  水田国太郎(大工)   多湖 伝蔵(鉄工)
金澤喜代二(柾業) 菅野 豊治(鉄工)
井上 哲郎(大工) 佐藤芳太郎(鳶業)
黄田 嘉平(大工) 五十嵐武清(家具)
長谷 栄松(大工) 藤森 源蔵(左官)
遠藤 藤吉(大工) 佐々木兵左ヱ門(桶屋)
藤田 豊蔵(鉄工) 以上 13人 

 創立総会で規約を制定し、役員は初代講長 水田国太郎氏、会計 佐々木兵左ヱ門氏、書記 井上哲郎氏が選出された。
 創立時、太子講の名称は「聖徳太子奉讃会」となっていたが、毎年一月二〇日(初詣り・総会)・七月一日(祭典)に講を開催するので、「聖徳太子講」として歴史が始まった。

掲載省略:写真〜上富良野太子講書類入
第一條 本講ハ太子講ト称シ 仮本部ヲ大雄寺内ニ置ク。
第二條 本講ハ聖徳太子ヲ祭リ報恩謝徳ヲ趣旨トス。
第三條 前條ノ趣旨ヲ貫徹セシガ為メ毎年一月二十日初詣リ、七月一日祭典ヲナス。
第四條 本講ハ講長一名、副講長一名、会計一名、評議員三名ヲ置ク。各役員ノ任期ハ満二ケ年ト定ム。
第五條 本講員ハ毎月金五銭宛積立ラレ使用左ノ如シ。
   (イ) 本講員中 天災ニアタル時ハ見舞金トシテ金参円ヲ贈ル。
   (ロ) 本講員中 死亡者アリタル時ハ香典トシテ金弐円ヲ支出ス。
   (ハ) 本講員中 不幸ノ場合ハ成ルベク会葬スルコト。
   (ニ) 家族死亡ノ時ハ金壱円トス。
第六條 本講員ノ積立金ハ 壱ケ年前納ニ限リ金五拾銭トス。
第七條 本講員ノ積立金ハ 退講者アルモ積立金ハ返戻セズ太子講ノ基本財産トナシ
一ケ年毎ニ會計ヨリ決算報告ヲ行イ基本金ヘ繰入レルモノトス。
掲載省略:写真〜規約綴り簿冊写真

 規約を読むと「聖徳太子講奉賛会の永(とこし)えの護持」と「講員の相互扶助」の精神が明文化されている。
 大正一五年五月二四日の十勝岳噴火泥流による未曽有の被害から五年後、その五年間に災害復興に係わった講員の各職種の皆様の心意気と心情が伝わってくる。     
─ 聖徳太子講創設時の講員氏名と職種 ─
職 種 氏 名 職 種 氏 名  
大 工 水田 國太郎 鉄工業 藤田 豊蔵
井上 哲郎 多湖 傳蔵
黄田嘉平 菅野 豊治
遠藤 藤吉 鹿野原  司
高橋 金四郎 長谷 勝義
迎川 幾太郎 家具業 五十嵐 武清
今泉 力之助 西川 正雄
西條 貞義 中條 與七
菊地 徳蔵 車製造 長瀬 要一
高松 幸太郎 柾 業 金澤 喜代二
佐藤 鉄三郎 末廣 利七
坂口 惣助 松浦 市兵衛
中川 圓助 桶 業 佐々木兵左ヱ門
鈴木 保治 南條 養三郎
水野 貫一 荒川 磯雄
長谷 栄松 鳶 業 渡辺 熊雄
高原 権平 佐藤 芳太郎
車製造 坂弥  勇 菓子業 坪田 柳一
分部 倉蔵 (空欄) 杉山 カネ
左 官 藤森 源蔵 以上 39名
A 聖徳太子像奉体と御安置
 一九三〇(昭和五)年九月一五日、聖徳太子御尊像奉体特志寄附を募る。講員三九名より金額六三円三〇銭が集まり、第一回の太子祭として聖徳太子御尊像は大雄寺を借りて御安置された。

掲載省略:写真〜大雄寺を借りて安置された聖徳太子像

B 聖徳太子堂の新築落成
 一九六六(昭和四一)年七月一日、長年の大雄寺借用が懸案事項であったが、昭和三七年からの講員の積立金・講員寄付金・一般特志寄附金により、聖徳太子堂が新築落成された。用地は大雄寺からの借地である。
(建設費 五九万四二四二円)
 ─ 講長 佐藤芳太郎・講員 三八名 ─

掲載省略:写真〜落成した太子堂に安置された太子像と例大祭風景

C 聖徳太子堂の床等改修
 一九八六(昭和六一)年七月一日、太子堂建設から二〇年を経過し、床の老朽が激しいので改修す。
(改修費 三五万七八八〇円)

D 聖徳太子講創立六〇周年の例大祭
 一九八七(昭和六二)年七月二〇日、聖徳太子講を昭和五年に創立以来、戦中戦後を乗り越え六〇周年の例大祭が行われた。
(例大祭費 六五万一〇〇〇円)
 ─ 講長 高橋 忠・講員 四二名 ─

E 聖徳太子堂の増築工事完成
 一九八九(平成元)年七月六日、太子堂が狭隘となったので、八・二五u(二・五坪)を増築す。
(増築費 七〇万円)
 ─ 講長 高橋 忠・講員 四一名 ─

F 聖徳太子講創立七〇周年の例大祭
 一九九九(平成一一)年七月二〇日、太子講創立七〇周年の記念例大祭を行う。
 「聖徳太子奉体 上富良野聖徳太子講創立七〇周年記念誌」(B5判一二ページ)が発行され、七〇年の歩みと聖徳太子歴が記録された貴重な資料で、ガリ版刷りの労作である。
 太子講功労物故者の氏名と逝去年月日が記録された「掛軸」が、奉納掲出された。
(例大祭費 一二二万四〇五四円)
 ─ 講長 高橋 忠・講員 三八名 ─

掲載省略:写真〜上富良野聖徳太子講創立七〇周年記念誌
掲載省略:写真〜聖徳太子奉体創立70周年記念例大祭 上富良野太子講 平成11年7月20日
掲載省略:写真〜太子講功労物故者掛軸

G 聖徳太子堂の移設申し出と工事完成
 二〇〇四(平成一六)年一一月三〇日に、大雄寺が貸付している太子堂敷地は、大雄寺百年祭を前に駐車場を拡大するので、移設の申し出あり。太子講役員会及び総会を経て移設することに決す。
 工事は「曳き家」工法(建物を浮かせて移動)により、二〇〇五(平成一七)年六月三〇日に完成す。
 工事費 太子講負担 九一万六三〇七円
     大雄寺補助 八〇万円    
 ─ 講長 小渡一蔵・講員 三六名 ─

掲載省略:図と写真〜移動見取図と曳き家工事

H 聖徳太子講創立八〇周年の例大祭
 二〇〇八(平成二〇)年七月二〇日、三年前に太子堂移設費の負担もあって、八〇周年例大祭は小規模とし、例大祭日での集合写真を全員に配布す。
 ─ 講長 菅野祥孝・講員 三二名 ─

I 聖徳太子堂改修工事完成
 二〇一三(平成二五)年九月三〇日、屋根トタン張替と室内クロス張替工事が完成。
(改修費 二七万七二一六円)
 ─ 講長 黄田 稔・講員 三一名 ─

J 聖徳太子講創立九〇周年の例大祭
 二〇一九(令和元)年七月二〇日、記念誌「以和為貴(わをもってとうとしとなす)」(A4判カラー一六ページ)の発行、「のぼり旗」の新設、そして「餅まき」と記念事業を行う。

掲載省略:写真〜記念誌「以和為貴」・「餅まき」・「太子堂前でのぼり旗と講員記念写真」
 ◎太子講九〇周年時の役員
 講 長 黄田 稔  監 事 北川昭雄
 副講長 有本保文  事務局兼会計 江島 弘
 理 事 田中辰雄
  〃  大道 猛
  〃  黄田正行   講員 三三名
K 聖徳太子講創立九〇周年時の講員名簿
南 区 17名 北 区 16名
事業所 氏 名 事業所 氏 名
距L本食品加工所 有本 保文 菅原建設 菅原 俊三
許リ津建設 木津 雅文 給v保木材 久保 拓哉
級ゥ田建設 黄田 正行 拒n成建業 土田 正雄
距髢リ電設 鈴木  真 温泉写真館 温泉 寿一
多湖農機製作所 多湖 信博 蒲L我工業所 有我 充人
許澤木工製作所 野澤  守 拒蜩ケ家具内装店 大道  猛
葛ハ島工業 玉島 藤雄 挙。山工業所 藤山 裕一
拠澤自動車整備工場 中澤 俊幸 叶シ塚清掃社 西塚 邦夫
山求斉藤板金 斉藤 真揮 級恣cはなや 奥田 哲也
挙c中電気 田中 辰雄 去u賀住宅設備 志賀 隆浩
牛]島塗装 江島  弘 封馬工業 対馬 勝義
高橋建設 北川 昭雄 山本建設 西村 和子
級ェ本ドライクリーニング 岡本 康裕 潟Aラタ工業 荒田 陽史
テーラーマエダ 前田 光弘 轄イ川建設 佐川 泰正
樺J口精肉店 谷口 明秀 居纒x清掃社 佐々木 誠
泣}イホームきだ 黄田  稔 潟Xガノ農機 田村 政行
褐猪シ工建 健名 康則
 現在の講員の皆様は、技能集団として記念すべき創立百周年への伝承・継承者でしょう。

L 上富良野聖徳太子講の歴代講長
※ 事務局兼会計担当だった「前田光弘氏」は、1984(昭和58)年から2016(平成28)年の33年に亘り、太子講を支えられた功績は顕著である。
代別 氏 名 就 任 日
初代 水田国太郎 昭和 5年 7月15日
二代 佐藤敬太郎 昭和 9年 1月20日
三代 佐藤芳太郎 昭和25年 1月20日
四代 小山 国治 昭和48年 7月20日
五代 高橋  忠 昭和60年 1月20日
六代 小渡 一蔵 平成12年 1月20日
七代 菅野 祥孝 平成19年 1月20日
八代 黄田  稔 平成23年 1月20日
 〜現在に至る
◆聞信寺(浄土真宗本願寺派)
・所 在  上富良野町本町二丁目三番五号
・開教日  大正 五年 五月一一日
・寺号公称 大正 八年 八月一六日
◎聖徳太子関係
@ 十勝岳連峰山麓にある「滝」の命名

 第二世住職 門上浄照(かどがみじょうしょう)師(一八八一〜一九五七年)は、十勝岳連峰の山々峰々を愛して登山回数も年二〇回以上と健脚の人物で、十勝岳を知り尽くしていた。上富良野村長 吉田貞次郎とは年数回の山行を共にしていた。
 日本の霊山は仏教者が開山されているので、十勝岳連峰を宗教的に開発しようと計画していた。
 上ホロカメットク山を源流とする「ヌッカクシフラヌイ川」の上流に三か所の滝を発見した。その滝に聖徳太子が著述した「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」から『勝鬘(しょうまん)の滝』『維摩(ゆいま)の滝』『法華(ほっけ)の滝』と命名された。

A 真水の池を発見し命名
 吹上温泉から旧噴火口に向かう途中、少し沢を下りたところに小さな真水の池があり、その池を門上浄照師は『荒陵(こうりょう)の池』と命名した。現在は消滅している。

B 山腹に「聖徳太子堂」の建設
 一九二一(大正一〇)年八月門上浄照師は聖徳太子の聖像を安置する講堂を建てる計画で『趣意書』を作成した。(かみふらのの郷土をさぐる誌第七号四二頁掲載)
 その文中に「この仙境の地に……わが文明の父というべき、精神文化の母とも申すべき聖徳太子の聖像を……」「私はこの大願の前には一点の私利私欲を挿(はさ)まぬことを仏陀に誓います」と記されている。
 一九二二(大正一一)年、「荒陵の池」の傍らに掘っ立て小屋であったが、仮の「聖徳太子堂」を二間×三間で建て、ここを拠点に本格的な建設への準備を進め、同年八月に聞信寺境内に「篤敬(とっけい)聖徳会」をつくった。
 しかし、大正一二年九月に発生した関東大震災と、大正一五年五月の十勝岳噴火被害により寄進による資金造成や労力奉仕は無理と判断し断念せざるを得なかった。
 仮の「聖徳太子堂」は、十勝岳の厳しい風雨雪に耐えて、四年から五年は建っていたと伝えられている。
 門上浄照師の次女信子さんは、大正一一年の夏休みに兄(中一年)、姉(小五年)と私(小二年)の三人で仮の「聖徳太子堂」に一週間泊まって小屋の留守番をしたと語っておられた。

C 「聖徳太子御尊像」安置への道程
 門上浄照師は幼児保育施設の必要性を痛感し、当時の村長吉田貞次郎と相談していた。
 その結果、一九二九(昭和四)年五月二一日に聞信寺本堂に上富良野村農繁期託児所「楽児園」を開設した。上富良野における幼児教育の始まりであった。
 特筆すべきことは、皇紀二千六百年記念(昭和一五年)に児童保育社会事業に尽くした業績を認められ、畏れ多くも皇后陛下より恩賜金一封御下賜の光栄に浴したことである。門上浄照師はこの御下賜金を永久に残す記念として聖徳太子の御尊像を御安置することを発願し、京都仏師に依頼して完成させた。柄香炉を持った孝養像である。
 なお、御安置の御厨子は当時の上富良野村長金子浩氏が発起人となり、愛国婦人会と国防婦人会の浄財を合わせて寄進されたもので、御厨子正面上段に、「恩賜」の文字が刻まれている。

掲載省略:写真〜昭和初期頃の聞信寺全景
掲載省略:写真〜柄香炉を持った孝養像と正面上段に刻まれた「恩賜」の文字

 昭和一五年七月八日、この恩賜聖徳太子御尊像御安置の御入仏式慶讃法要が盛大に修行された。当日、上富良野駅前より園児、小学生、愛国婦人会、国防婦人会、稚児天童子、導師門上浄照師仏教団法中、が御尊像を供奉したお練りの行列は、雅楽令人の奏楽の中に市街大通りを行進した。後方には一般多数の村民が続いて聞信寺に向かい参進し、本堂に到着して直ちに内陣御本尊前に御尊像が御安置され、御入仏慶讃法要が修行されたのである。爾来この聖徳太子様を幼児保育の守本尊として仰ぎ、園児は皆、仏の子として毎日礼拝しているのである。

掲載省略:写真〜昭和40年4月8日ふたば幼稚園開園式及び入園式

D 門上浄照師が建立した「石碑(いしぶみ)」
 十勝岳を仏教的な霊山とすべく中心になって十勝岳山麓に次のような「石碑」を建立した。
・長谷川零餘子(れいよし)の句碑 大正一三年 七月
・石田雨圃子(うほし)の句碑   昭和 二年 七月
・十勝岳爆発記念碑       昭和 三年一〇月
・九條武子の歌碑        昭和 四年 七月
・十勝岳頂上「光顔巍々」    昭和一七年 八月
掲載省略:写真〜5基の石碑写真
二 中富良野町
◆道隆寺(真宗大谷派)
・所在地  中富良野町東九線北一三号
・開教日  明治三三年一〇月 二日
・寺号公称 明治三九年一二月一七日
◎聖徳太子関係
 開基住職 奥田諦道師が、道隆寺の宝物について、「聖徳太子の木像のいわれ」として生前に次のように書き遺している。

==大正の初期、本州より御開帳に縁起を読み、北海道を巡回して居る僧があり、ある時その僧が、旅銭を使いはたし雨竜郡深川町(当時)の燈心寺に木像を預け金子を借りて帰国した者あり。その後に至りて澄心寺住職が当寺に於いて聖徳太子法讃法要を前々より勤修して居る事を聞き、当時住職に太子像を奉安しては、と話ありし為、当寺に於いて総代世話方会議を開き相談の結果願っても無い事と、賛同を得て金子を用意し澄心寺へお迎えに行き余間に安置し法要を勤修したのである。聖徳太子木像は柄香炉を持つ。
 毎年七月二十一、二日に盛大なる太子祭りを行っているのである。
 その彫刻者は不明であるが御本尊と同時代のものであると言われている古佛である。

掲載省略:写真〜道隆寺聖徳太子木像

 その他の古佛は阿弥陀如来像一体身丈一尺位彫刻者不明がある。
 聖徳太子御絵傅、四幅、となっている。
 次に余聞として記すならばお太子さまのお祭りとて年々盛大になって時には余興として、東京相撲の引退した力士や地方の力士が集まって盛大な余興となり沿線の相撲ファンを沸かしたとある。又時には本堂の前に舞台を架け踊りや芝居等で近隣の人々を喜ばせたのであった。
 こうして毎年二月二十一・二日は聖徳太子の御遠忌のお詣り、七月二十一・二日慶讃法要のお詣り、そして余興とその事は今も続いている行事である。==

掲載省略:写真〜道隆寺本堂(上)と道隆寺鐘楼堂梵鐘-聖徳太子1230年記念法要の折(下)
―聖徳太子像を譲ってくれた「澄心寺(しょうしんじ)」とは―
◆澄心寺(真宗大谷派)
・所在地  深川市太子町
・開教日  明治二八年 六月一八日
・寺号公称 明治三四年 五月二二日
◎聖徳太子関係
 明治二九年六月一一日、奈良法隆寺管長下附された同寺分身の「聖徳太子孝養の像一躯」を御安置した。それにより深川聖徳太子奉賛会が設立された。
 昭和二四年に太子堂が新築、六月二一日・二二日春祭日としている。
 道隆寺とは同じ宗派であり、既に聖徳太子像があるので譲ってくれた。
◆聖徳太子堂(旭中四区会)
・所在地  中富良野町東八線北九号
・建立日  昭和二四年 二月二六日
◎聖徳太子御影像一体の寄進と太子堂建立
 明治四一年、富山県東砺波郡高瀬村(現南砺市)出身の「堀井 一氏」が旭中に入植した頃は、昼も暗い原始林の中から開拓された。三角合掌の小屋に草を敷いて湿気を凌ぐような原始生活であったが、今日の文化的な郷土になったのは、人間生活の文化の基礎をつくった聖徳太子の御威徳であると深く感じて、堀井弘一氏(玉井 勇氏の伯父)と玉井磯太郎氏(玉井 勇氏の父)発願で御影像一体を寄進された。
 その後、玉井 勇氏(東八線北八号)が保持し祭祀していた。
 昭和二四年、東八線北九号角に約八〇名の寄付により御堂(聖徳太子堂)を建立し、旭中四区会住民で奉讃し現在に至っている。還仏式は昭和二四年二月二六日であって、区会では毎年七月二〇日を太子講と定め祀祈を続けている。
 昭和四五年、ベベルイ川の切替工事により同所に御堂が新しく建立された。隣に「旭中南区会館」がある。

「延命地蔵」の奉納と合祀
 ベベルイ川での水難事故等があったので、昭和三六年一〇月に中嶋政十・高瀬繁雄・小林正人・小林盛夫・長谷川弘氏らにより「延命地蔵」一体が奉納されて聖徳太子堂に合祀し、毎年八月二〇日を区会の祭日と定めて住民一同で祭祀している。
現在の御堂(聖徳太子堂)は、「聖徳太子 延命地蔵」とあり、掲額の揮毫は「釋 實圓 書」となっている。

掲載省略:写真〜聖徳太子堂(令和3年1月22日撮影)と御堂の「標額」
三 富良野市
◆ 大宝寺(曹洞宗)
・所在地  富良野市幸町六番一〇号
・開教日  明治三七年一一月 六日
・寺号公称 大正 二年 七月二四日
◎聖徳太子関係
 富良野聖徳太子講の記録書が見つかる!
 山部聖徳太子講の講長佐々木一郎氏に取材の時、昭和五八年頃に富良野聖徳太子講長の「水間 實氏」から、大宝寺境内にある太子堂の屋根葺きを依頼されたと聞き、富良野市の水間英文氏(水間造花店主・故水間 實氏の子息)を取材した。
 水間英文氏は、祖父「春吉」は桶職人で太子講の講員、父「實」は家業の水間モータース・富良野典礼・水間造花店の経営の傍ら、富良野市議会議員・ライオンズクラブ会長・五条商店街振興組合長等の役職を務めながら、祖父・父と二代が太子講の講長を歴任したことから、富良野聖徳太子講の書類があるとのことで、これを基にその歴史と背景を理解することができた。
 令和三年二月一〇日水間英文氏から木箱と段ボールの二個を預かって確認すると「聖徳太子講記録」二冊、「聖徳太子 太子講保善会」一冊と、例大祭及び太子堂建設や修繕、移設等の寄付帳・奉加帳が大量にあるのに驚くと共に、水間家に三代に亘って大切に保存されていたことに、心から敬意を表するところである。

掲載省略:写真〜大宝寺
掲載省略:写真〜発見された3冊の記録書
  聖徳太子講 三冊の記録期間は
 一、「聖徳太子講記録』(全文毛筆)
  表紙年月   昭和 四年 一月
  内容記事 自 大正 九年 八月
       至 昭和一六年一一月

 二、『聖徳太子記録』(全文毛筆)
  表紙年月   昭和 七年 三月一〇日
  内容記事 自 大正 七年 六月一五日
       至 昭和一四年 一月二二日
       ─この期間は記録なし─
       至 昭和二九年 一月
       至 昭和三一年 七月二二日

 三、『聖徳太子 太子講保善会』(前半毛筆)
  表紙年月   昭和二三年一月
  内容記事 自 昭和二三年一月(収支報告)
       至 昭和三五年七月(  〃  )
     昭和二三年一月と昭和二六年一には役員名簿が加えられている。
 今回、水間家から提供を受けた資料を基に、主要な事項を年代順にその歴史を辿って記していく。
 なお、「年」は西暦に元号年を付記、また文章は記録の通り「カタカナ」と、「旧字体」を置き換えた新字体漢字にしてある。

@ 一九一八(大正七)年 六月一五日
 聖徳太子像開眼式ヲ施行致 大宝寺住職池田慧仙師ノ骨折ニテ執行
 各諸氏ヨリ多少ノ寄附金ヲ募集シテ該金ヲ富山県越中国有仏師ヘ送金シタモノナリ

掲載省略:写真〜聖徳太子開眼式記録
   大宝寺住職  池 田 慧 仙
     発起人  田 中 健 治
           山 治右エ門
A 一九二〇(大正九)年 二月
・富良野町東六条 大宝寺境内ニ聖徳太子ヲ鎮座致ス事ヲ協議致シ直ニ件ヲ可決ス
・聖徳太子講ヲ組織ス 講会役員ヲ置ク 選挙以テ役員ヲ定ム 役員左ノ通リ
 会 長  守 部 又三郎
 副会長  松 尾 小五郎
 会 計  高 澤 省 平
 幹事長  大 内 喜 市
 幹 事  平 塚 米 蔵 外数名略ス
・聖徳太子鎮座社所ヲ建設致スニ付 布礼別演習林ヨリ立木材百余石ヲ払下ゲヲ受ケ 早川木工場ニテ賃挽キ致
・棟梁 大工   波多野 太 重
 基礎工事   村 上 徳次郎
 屋 根 葺   山 崎 久太郎
 壁      石 崎 栄 蔵
・建築総額  壱千六百六拾四円四拾八銭也
 一般寄附金 八百五拾五円也
 篤志寄附金 四百円也   高 澤 省 平
   〃   三百円也   倉 前 利 平
   〃   壱百五拾円也 守 部 又三郎
 寄附金合計 壱千七百五円也
※ 「聖徳太子講記録」(表紙 昭和四年一月)には、聖徳太子鎮座社所について同じ文章での月日が「大正九年八月」となっている。その文末に「諸渡ノ仕事未ダ未終ナリ」とある。
B 一九二九(昭和 四)年 一月二二日
 聖徳太子講役員の臨時総会を開催し、次の事項を決した。
・毎月金拾五銭宛各講員ヨリ徴収シ積立置ク事 該金ハ新年宴会及ビ大祭日使用スル事モ有ベシ
・大祭ニハ町内一般ニ集メル事
※ 臨時総会記録の後に、「聖徳太子社堂建築」として、前項Aに記載の建築総額・寄附金・篤志寄附金について、同額が記載されている。
  最後に、『右建築ニ付 高澤省平氏総監督トシテ奔走致シココニ功績ヲ認ムルモノナリ』とあることから、太子堂の竣工がいつなのかが判断できなかった。
  大宝寺現住職「川上泰顕師」も、寺史や関係書類を含めて調査したい旨を申されていた。

C 一九二九(昭和 四)年 三月一五日
 聖徳太子講を「聖徳太子講保善会ヲ組織ス」とあり、太子堂が前年に完成しその維持管理を考えて「保善会」とし、会則並人名簿が作成された。
 人名簿には、会員の氏名が第一部から第六部に地域的に分類されて七七名が掲載されている。
 各部毎に世話係・会員となっているが、驚いたことに筆者の祖父中村長助(一八七二・明治五年生れ)の名があったのは偶然か…。一九三四(昭和九)年の太子堂修繕寄附者四五名の中にも祖父の名があった。

   「聖徳太子堂」に備品
 聖徳太子堂の完成により、備品等の購入や環境整備が次のように記録されている。
・一九二九(昭和四)年八月
  山形県ヨリ太鼓一個買ウ
   (四拾九円八拾銭也)
・一九三〇(昭和五)年五月
  京都市ヨリ会旗一振買ウ(五拾弐円也)
・一九三一(昭和六)年七月
  ポンプ井戸・手洗鉢ヲ設置ス
  (武田会長・平山副会長が発起ニテ寄附)

D 「聖徳太子堂」の修繕
・一九三三(昭和八)年七月
  板戸・格子戸ヲ全部新調ス 縁板ヲ新ニ取替ル
・一九三四(昭和九)年七月
  屋根葺替・長押・ソノ他
  (講員四五名ヨリ寄附金八拾七円アリ)

E 「聖徳太子堂」の移設と改修
・一九五四(昭和二九)年七月
  太子堂が東六条通り道路用地に掛かっているため、一月の新年総会にて講員決議を経て、七月一日に工事を着手し講員の奉仕もあって、七月二〇日に移設及び修繕工事が完成した。
  「社殿及例大祭寄附金 六萬壱千円也」と記されている。

F 「聖徳太子奉賛会」の再建
 趣意として、

「先輩有志が、大宝寺の一隅を借りて太子堂を建て、聖徳太子の徳を慕って太子講保善会を組織し、毎年七月二二日の大祭等が盛大に催され、精神的文化の一面として町民に親しまれてきた。しかし、時代の流れで講員や寄附金の減少等があって、大宝寺境内にある太子堂近接の東五条通り有志各位の理解ある助言により、聖徳太子の徳を高く顕彰せんとする機運が盛り上がって、現在の太子講保善会を発展的に解消し、新構想のもとに組織化する」

として、次のように記録されている。

・一九六二(昭和三七)年五月
 「聖徳太子奉賛会再建発起人」が次のように決まり、新組織を作るために「御高説を承(うけたまわ)りご協力を賜りたい」との案内文書を配布した。
 再建発起人の氏名を見ると、当時の富良野町に於ける錚錚(そうそう)たる人物が連(つら)ねられている。
聖徳太子奉賛会再建発起人 (順不同)
 清 水 一 雄  森 高 七之助
 鴨 田   茂  跡 部 良 貞
 竹 内 武 夫  島 田 勝 次
 鎌 田 繁 雄  石 崎 年 男
 上 村 光 国  佐 藤 春 三
 古 東 鉄 二  軽 米 石太郎
 水 間 春 吉  山 下 清三郎
 杉 尾 浅 吉  福 谷 元 義
 阿 部 小一郎  荒 木 弘 行
 日 下 国 雄
・一九六二(昭和三七)年七月一二日
 「聖徳太子奉賛会」の世話人代表に「鴨田 茂氏」がなり、大宝寺にて奉賛会再建会議が開催され、新組織名は同じ「聖徳太子奉賛会」、会長に「水間春吉氏」と決まる。

・一九六二(昭和三七)年七月二四〜二五日
 久し振りに、聖徳太子祭典が開催された。その時の案内状があったので、懐かしく思い掲載する。

  日時 七月二四日 午後五時 宵宮祭
      七月二五日 午後一時 式典開催
  場所 大宝寺 境内
  余興 七月二五日 昼夜二回
       小宮武夫劇団 剣戟・現代劇・舞踊劇

 ただ、余興の演題で「剣戟」と、「戟」の字を使用していたので、さすがと感じた。
G 台風被害による「聖徳太子堂」の復旧
 一九八一(昭和五六)年八月四〜五日に発生した台風一五号災害により、全道的に大きな被害を受けた。
 聖徳太子堂は、屋根・外壁等の損傷が激しく、その復旧のための善後策が考えられたが、復旧工事費が高額なため寄附を募(つの)ることになった。
 昭和五七年一一月付の「聖徳太子堂復旧趣意書」には、聖徳太子奉賛会長吉原政雄・副会長水間 實・奉賛会役員一同とある。
 その時の「聖徳太子堂復旧奉賀帳」には、会長吉原政雄・副会長水間 實に加えて、福士祐三・奈良定吉・大滝勝正・鎌田一美・軽米 達・楠 幸雄と、発起人名が連記されている。
 奉賀帳の中で「大宝寺護持会 貳拾万円也」と「大宝寺 池田洋立(注:第三世住職) 五万円也」とあることから、大宝寺としても復旧に多額の援助をしたことが伺える。
 また、太子堂復旧の屋根葺き工事をされた山部町の佐々木一郎氏は、「佐々木板金店」と記されている。

掲載省略:写真〜聖徳太子堂復旧奉賀帳

H 大宝寺現住職「川上泰顕師」に尋ねる
 聖徳太子像と聖徳太子堂及び太子講について、二回取材をさせていただいた。
 二〇二〇(令和二)年一二月一〇日と、二〇二一(令和三)年二月一五日ですが、その内容について記す。

・境内にあった「聖徳太子堂」は…
 『私が大宝寺第四世住職になったのは、平成二七年九月です。第三世の前住職池田洋立氏より聞いた話では─聖徳太子堂の老朽化が激しいので、取壊してその跡地に「鐘楼」を建立することが大宝寺護持会で決められ、二〇〇二(平成一四)年に取壊し、その後「鐘楼」が大宝寺護持会の御浄財により建立された。その頃、太子講は組織的な事業はしていなかった─』

・太子堂に御安置の「聖徳太子像」は…

 『境内にある「豊川稲荷」の御堂に御安置してある』

・大宝寺境内になぜ「豊川稲荷」があるのか…
 『愛知県豊川市にある「豊川稲荷」は、大宝寺と同じ曹洞宗の「妙厳(みょうごん)寺」の境内に護伽藍として祀られている。豊川稲荷として全国的に有名で、初詣に百万人、年間六百万人の参詣者がある』

掲載省略:写真〜大宝寺境内の豊川稲荷
※ 川上泰顕師より写真の送付を受ける!
  令和二年一二月一〇日取材の直後、豊川稲荷と掲額及び聖徳太子像(錫杖を持つ)の写真を、一二月一五日に受け取る。一〇二年の歳月を経ているが、鮮やかな色彩の像である。
  川上泰顕師は、聖徳太子像に「製作年月日と製作者」が刻まれていないか丹念に調べられたが、何もなかったとのことである。
  太子像の写真は、様々な方向からの撮影で、ご配慮に感謝申し上げます。

掲載省略:写真〜豊川稲荷内に安置されている錫杖を持つ聖徳太子像
◆ 天満宮
・所在地  富良野市中五区
・創祀日  明治三五年 九月二五日
・本殿拜殿 明治四二年 七月 九日
・分霊拜殿 大正 八年 九月二五日
       京都北野天満宮より
・石燈籠  大正一〇年 二基を建立
・社殿新築 昭和一三年 現在の神域となる
・氏 子  昭和二七年より、中五区・下五区の両住民にて維持管理となる
掲載省略:写真〜上:天満宮拜殿(明治42年造営)と下:天満宮造営記念(昭和13年)
◎聖徳太子関係
=聖徳太子石像=
・所在地  富良野市中五区 天満宮境内
・建立日  不 詳
・建立経過 不 詳
・石像規模 材質は軟石、台石は三段積みで高さ九〇p、太子像は八〇pあり、全体で一m七〇p。太子像台座の右から横書きで「聖徳太子」と彫られている。
・太子立像 柄香炉を持つ姿。

掲載省略:写真〜聖徳太子石造(令和3年1月12日撮影)
  調査と取材
@ 富良野市史第一巻(一九六八・昭和四三年発行)
『天満宮境内ではないが、第八農場成墾記念碑の向かいに「聖徳太子」の石像が露座のまま建てられている。年代は彫っていない』
 筆者も現場確認したが、市史の通りであった。

A 富良野市中五区部落誌・下五区郷土誌
 天満宮を祭祀している中五区・下五区の部落誌と郷土誌には、「聖徳太子石像」についての記載がない。

B 天満宮の総代への取材
 現在、天満宮総代である下五区在住の山ア永稔氏に取材したが、やはり建立年月日や経過については不詳であった。
 天満宮の右側に「北大第八農場成墾碑」が、左側に「聖徳太子石像」が建立されているが、天満宮例祭日は六月二〇日(以前は七月八日であったが農繁期の関係で変更)とし、例祭日や新年を迎える前後は中五区・下五区の皆が氏子として、祭祀準備や境内・外の環境整備に努めていると語ってくれた。

掲載省略:写真〜北大第八農場成墾記念碑(明治42年5月建立)

C 北海道内の「聖徳太子石像」の状況
 北海道文化財保護協会が二〇一七(平成二九)年発行の「北海道の聖徳太子講」(中間報告)には一一七個所あり、聖徳太子の木像・太子孝養画(掛軸)や石柱に「聖徳太子」と彫られたものが数多いとある。
 しかし、「聖徳太子石像」は富良野市・札幌市手稲区の兼正寺と帯広市(記録にはあるが現在行方不明)の三基のみで、道内実在では数少ない中五区の「聖徳太子石像」と、学問の神様・天神様として知られる平安時代の貴族『菅原道真公』を祭祀する「天満宮」、富良野市指定文化財「北大第八農場成墾記念碑」(明治四五年五月建立、山部神社境内にも同年六月に建立)は、貴重な遺産と判断される。
◆ 曹光寺
・所在地  富良野市山部中町三番三六号
      ※山部町は昭和四〇年一月一日に富良野市と合併
・開教日  大正四年一二月
・寺号公称 昭和七年 三月三一日
掲載省略:写真〜曹光寺
◎聖徳太子関係
    (創立から主要事項を年月順に)
@ 一九三〇(昭和五)年七月
 建築請負業者の渡辺一雄氏が、一般職業人相互の親睦・明るい職場・和(なご)やかな郷土づくりを目的として、「聖徳太子講」創立について発起人会を設け、講員を募った。創立発起人は次の八人である。
渡辺 一雄 建築請負・宇野 豹象  家庭金物
安立 要吉 建築請負・八木 吾一  建築請負
毛内蔵乃介 石材業 ・佐々木栄三郎 金物板金
中尾森之助 菓子製造・宮田 利作  運搬造材
 創立総会は三〇名の講員によって開催され、初代講長に「渡辺一雄氏」が選出された。
 規約を制定し、総会と新年会は一月二〇日に、太子祭は六月一五日に毎年行うことを決める。

A 一九三四(昭和九)年六月
 聖徳太子講の中心にと、多年の念願であった聖徳太子御尊像(柄香炉を持つ)を奉戴し、曹光寺本堂に御安置す。
 (御尊像及び三ツ具足費 五九円二〇銭の支払い)

B 一九五六(昭和三一)年
 山部聖徳太子堂を曹光寺境内の一隅を借り、新築落成す。
 (太子堂建設費 六〇万九一五〇円の支払)

掲載省略:写真〜山部聖徳太子堂

C 一九六八(昭和四三)年七月一五日
 山部商工会との話し合いにより、太子講祭・招魂祭・商工祭りを三団体合同大祭として実施。

D 一九七九(昭和五四)年七月
 三団体合同大祭は、太子講本来の祭りの意義が薄れるとのことで、商工祭りと別に開催となる。

E 一九八一(昭和五六)年七月一日
 山部聖徳太子講五十年祭が行われる。
 「山部聖徳太子講五十年祭」の記念誌を発行。

F 一九九五(平成七)年六月二五日
 山部聖徳太子堂の移動と改修工事が行われる。
 (総工事費 四四五万五五五〇円)

G 一九九七(平成九)年七月一日
 聖徳太子御姿の掛軸(両手で柄香炉を持つが、聖徳太子と書かれた文字は、物づくりに使う道具を組み合わせて書かれている)の寄贈を受ける。

H 一九九九(平成一一年)七月七日
 山部聖徳太子講の開基七〇周年祭を挙行する。
 記念誌「七〇年のあゆみ」を発刊、内容は豊富で一二五ページにも及ぶ。

掲載省略:写真〜記念誌「七〇年のあゆみ」

I 山部聖徳太子講の歴代講長
代別 氏名 講長期間
初代 渡辺 一雄 昭和 五年〜昭和四八年
二代 八木 吾一 昭和四九年〜昭和四九年
三代 佐々木栄三郎 昭和五〇年〜昭和五二年
四代 永峰  守 昭和五三年〜昭和五五年
五代 那知 喜市 昭和五六年〜平成 二年
六代 渡辺  忍 平成 三年〜平成一一年
七代 佐々木一郎 平成一二年〜現在に至る
 初代講長の「渡辺一雄氏」は、山部聖徳太子講が創立した昭和五年から昭和四八年までの四四年間、まさに人生の大半を注がれ貢献された。
 また、多忙な中で数多くの公職や関係団体の役員を歴任されると共に、公共施設や福祉関係を支援を永年に亘っての行為に対し、「叙勲・功労賞・感謝状」と数々の栄誉に輝いている。
 山部神社前に、「渡辺一雄翁」の遺徳を讃えた二基の碑が建立されている。
 「渡辺一雄翁の像」  昭和五四年 八月建立
 「渡辺一雄翁顕彰碑」 平成 元年一一月建立

J 山部町の寺院建築に上富良野の匠の技
 大正五年、真宗大谷派「大徳寺本堂」の建立は「高原権平」棟梁による。
 昭和五年、曹洞宗「曹光寺本堂」の建立は、「渡辺一雄」氏と共に「遠藤藤吉」棟梁による。
 「高原権平」(後に東明権平となる)と「遠藤藤吉」は、上富良野聖徳太子講創立からの講員である。
   長く深い「絆」で結ばれていた
  「遠藤藤吉氏」(上富良野町)と「渡辺一雄氏」(山部町)
                     ※ この項において氏名敬称を省略する
 遠藤藤吉小伝「此日、余は」は、藤吉が逝去された二五年後に、三男の博三が父の遺した四六冊の日記帳から編集し、平成八年七月に発刊した。(かみふらのの郷土をさぐる誌 第一八〜二〇号に掲載)
 一方、「渡辺一雄伝」は、昭和五八年に米寿を迎えるのを記念して、編集グループ(編集代表 元山部町長 日野政史)を立ち上げ、二年の歳月を経て昭和五八年四月一日に、B五判上質紙で二四八ページの内容豊富な伝記本が発刊された。
 この両氏の伝記から、共通的な事項について一部を年別に記し、両氏の繋がりを知っていただくために記す。

掲載省略:写真〜遠藤藤吉小伝「此日、余は」及び「渡辺一雄伝」

@ 出身地
 両氏の出身地は「新潟県三島郡脇野町字上岩井」(現在 長岡市上岩井)で、全くの同郷である。

A 生年月日と小学校卒業
 生年月日は、
 ・遠藤 藤吉
   一八九五(明治二八)年 四月一七日生れ
             一九七一年逝去
 ・渡辺 一雄
   一八九六(明治二九)年一一月一九日生れ
             一九九九年逝去
で、藤吉は一学年上にいて上岩井尋常小学校を明治三八年三月に卒業する。一雄は翌年卒業し、共に大工になるべく修業に励んだ。

掲載省略:写真〜遠藤藤吉・渡辺一雄肖像

B 渡道し上富良野へ来村
(藤吉小伝)一九一八(大正七)年の春、当時二三歳の藤吉は北海道に行こうと、同僚弟子の渡辺一雄と小林子之八の三人で、両親や親方の許しを得て上富良野村に三月三日に到着し、中富良野村東九線北一〇号の「玉井松蔵さん」に草鞋を脱いだ。
(一雄伝)親方の甥の「元井庭吉さん」の家に着き、ここに草鞋を脱ぐ。
(藤吉小伝)渡辺一雄は、山部村で木工場を建てる話があって山部村に赴き、そのまま山部村に住む。
(一雄伝)山部から木工場を建てるので大工を頼むとあり。三人で相談して渡辺が「よし!俺が行ってやろう」と引き受けた。初めての大事業であった。

C 一九二〇(大正九)年 藤吉二五歳
(藤吉小伝)渡道して以来、同郷の人々に対する思いやりが強かった。正月六日に山部の渡辺宅に泊まり、一五日には渡辺夫婦が藤吉宅に泊まっている。この行き来は、体が不自由になる晩年まで続いた。

D 一九二七(昭和二)年 藤吉三二歳
(藤吉小伝)四月一四日の日記に「此日、渡辺より手紙来る。明日、手術をするに付き来てくれ」とある。次の日の日記に「此日、旭川に行く。赤十字病院に行き渡辺に会う。午後一時に手術を行う。正気に付き病院に泊まる」との記述がある。
 弟弟子の渡辺一雄が病気になり、信頼する藤吉に立会と付添いを依頼したものと思う。
(一雄伝)大正一五年に渡辺が盲腸炎で入院し重体と伝えられた時、キヌ夫人は黒髪を切って、お百度詣りをしたという夫への献身的な愛は人々に伝えられて感動を呼んでいる。
 また、渡辺一雄年譜には「大正一五年三一歳盲腸炎で旭川日赤病に入院。一時重態に陥る」とある。
(筆者注:入院年が一年違うが、藤吉小伝は日記に基づいているので、昭和二年と思量する。大正天皇崩御が大正一五年一二月二五日)

E 一九三〇(昭和五)年 藤吉三五歳
 山部町の曹光寺(曹洞宗)本堂建築の棟札の記録があり、それには「本堂設計 遠藤藤吉」と「請負人 渡辺一雄」とある。
(藤吉小伝)設計は渡辺一雄さんの依頼によるもので、三月八日の日記に「電話あり山部に行く。寺の話を聞く」、三月二三日の日記に「寺の図面を始める」、四月一六日の日記に「山部に図面を送る」とある。
 五月に入って、小林周市(大工)を伴って山部に出向き、藤吉の山部滞在は八九日に及び、この年の大部分を曹光寺の建築に注いでいる。
 一緒に渡道した二人が、一つの事業に力を合わせたことは意義深く感じられる。
(筆者注:藤吉は大正一一〜一二年に、上富良野の大雄寺(曹洞宗)本堂建築に棟梁として関わった関係で、同じ宗派として渡辺一雄から依頼されたと判断する。)
(一雄伝)感謝状一覧の中に、昭和五年一〇月二六日に曹光寺より「曹光寺本堂建築に犠牲を払って立派に完成されたことに対し」とある。

F 一九三〇(昭和五)年 藤吉三五歳
 九月一日の日記に「禅寺に聖徳太子の寄付の話」とある。藤吉は大工であることから、仲間に呼びかけたのである。
 藤吉は「聖徳太子講」の設立発起人となって寄付金三五円六〇銭を集めたとある。
(一雄伝)聖徳太子は大工の守り本尊と崇(あが)められ、各地に聖徳太子講が設立されていた。
 宗教団体のような感じもするが、これならば組合のような制約もないし、大工さんの集まりとして人々に好感を以て迎えられるだろう。
 渡辺はこれだ!!と思った。太子講を作ろう。そこで村内の大工職・建具職・左官工・板金工など建築関係の工匠職人に呼びかけた。
 昭和五年七月、山部聖徳太子講の設立総会を開催し、初代講長となる。
(筆者注:上富良野・山部に、「聖徳太子講」の設立が全く同時期に進んだ。曹光寺本堂建築の時に、両氏は情報交換や話し合いが行われたことだろう。)

掲載省略:写真〜大雄寺建設風景

G 一九三二(昭和七)年 藤吉三七歳
(藤吉小伝)三月一八日「父危篤」に続いて「父死す」の電報を受け取った。
 長男としての藤吉は、渡辺一雄と共に帰郷し、父の葬儀万端を勤めた。藤吉の帰宅は四月三日とある。

H 一九四七(昭和二二)年 藤吉五二歳
(藤吉小伝)三月一四日の日記に「渡道三十周年にて一杯飲む。山部 渡辺、中富 元井・赤川来る」と記されている。
 大正七年三月、新潟県脇野町字上岩井を志を掲げて発って三〇年、苦難を乗り越えてそれぞれに身を立て名を残して三〇年、深い思いの会合であった。
四 南富良野町
◆浄信寺(真宗興正寺派)
・所在地  南富良野町落合
・開教日  明治四一年 六月 一日
・寺号公称 昭和二七年一〇月 二日
聖徳太子関係
 大正二年六月一日に落合興正寺派説教所を開教し、説教所の認可を得たのは大正二年一二月一四日のことであった。
 戦時下の昭和一七年三月三一日興正寺派落合教会となる。
 昭和二七年一〇月二日「興善院浄信寺」と寺号公称。宗教法人 麓勝山興善院 浄信寺として設立登記された。
  本 尊  阿弥陀如来(金物仏)
  脇 仏  親鸞聖人像
   〃   聖徳太子像
   〃   竜樹菩薩 (木 物)
   〃   永代経  (掛 軸)
 境内には、昭和二八年一〇月二七日完成の鐘楼は南富良野町で唯一である。大正六年四月一七日に狩勝トンネルで幼児を列車から救い、自ら犠牲となったのを十勝鉄道工手長「錦見幾治氏」の地蔵と石碑がある。
 聖徳太子像(柄香炉を持つ)は、玄正寺(真宗本願寺派〜幾寅)住職の楯 玄正氏の呼びかけで安置することになった。
 昭和三三年七月一日に「聖徳太子講」が建築・土木や物づくりの人々が中心になって設立されたが、現在は活動していない。

掲載省略:写真〜浄信寺
◆正法寺(真宗出雲路派)
・所在地  南富良野町金山
・開教日  明治四五年 一月一〇日
・寺号公称 昭和二六年 三月 八日
◎聖徳太子関係
 寺門の左側に「不帰三宝何以枉」と彫られた石板碑が建立されている。
 この碑文は、聖徳太子の十七条憲法の第二条の一節「三宝に帰(よ)りまつらずば 何を以(も)ってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」と、書家でも有名な真宗出雲路派別格別院願成寺(旭川)の住職「藤 光雲師」による撰文と揮毫である。正法寺の第三世住職「野村俊顕師」が、同宗派の関係でお願い申し上げたという。
 上富良野町真宗高田派「専誠寺」境内にある「十勝岳爆発惨死者碑」も「藤 光雲師」の書である。
 この碑身は、富士製紙株式会社第六工場(金山)が木材をパルプに加工するための砥石として使用していた九州銘石を、石工の経験がある「土谷仙吉氏」が、昭和一五年の紀元二六〇〇年記念事業として、基礎工事から一切を施工し寄進したものである。
 聖徳太子の十七条憲法からの一節を石碑として建立されているのは、北海道で唯一であり貴重な先人からの遺蹟と感じる。
 富士製紙株式会社第六工場(金山)は、豊富な木材資源を背景にして明治四〇年七月に操業開始、昭和五年六月に閉鎖された。二二年の歴史を刻(こく)した。その時の第四工場は釧路、第五工場は江別にあった。

掲載省略:写真〜「不帰三宝何以枉」石板碑
掲載省略:写真〜正法寺
五 占冠村
◆浄覚寺(真宗大谷派)
・所在地  占冠村字中央
・開教日  大正 二年 五月 一日
・寺号公称 昭和二二年一一月二五日
◎聖徳太子関係
 大正二年五月一日に説教所許可になり、同年一〇月一六日に御本尊を拝受した。
 大正六年六月一七日に、富良野沿線から僧侶、門信徒が多数出席し、盛大な入仏式が行われた。
  本 尊  阿弥陀如来 木像一体
  脇 仏  聖徳太子  木像一体
   〃   見進太郎  画像一幅
   〃   蓮如上人  画像一幅
 大正一四年五月五日「聖徳太子一千三百年法要」を執行されている。
 聖徳太子像が両手に何を持っているのかと調査の時、浄覚寺護持会長が元占冠村長の「中村 博氏」と知り取材した。
 早速にご返事を頂き、聖徳太子の両手には「柄香炉」を持っていることと、浄覚寺の住職が入寂(にゅうじゃく)されて現在は、南富良野町幾寅所在の真宗大谷派「恵光寺」(住職 酒井年夫師)に引き継がれていることを知った。

 占冠村史(昭和三八年一一月二三日発行)に入仏式の宝物本尊・脇仏の四体が記載されているが、占冠村百年史(平成一八年二月発行)には「七高僧」が脇仏として加えられている。
 上富良野町東中に所在していた「専妙寺」が昭和三九年七月三一日解散した時の記録の中に「聖徳太子・七高僧」の掛図─父が他の寺院に依頼、詳細不明─とある。専妙寺住職 長尾乗教師の四男長尾哲雄氏が、かみふらのの郷土をさぐる誌第一七号(二〇〇〇年発行)に「昭和三十九年解散の東中専妙寺の歩み」に記されている。
 この浄覚寺に掲げられている脇仏「七高僧」の掛図が、時期的に「東中専妙寺」由来のものである可能性が頭をよぎったが、その真相については不明である。
  この稿を終えて

 上富良野聖徳太子講の創立九〇周年例大祭が行われたのは、二〇一九(令和元)年七月二〇日だった。
 それ以降、調査と取材を行ってきたのだが、上富良野太子講と山部太子講の創立が、一九三〇(昭和五)年と全く同じであったことに驚くと共に縁を感じた。
 上富良野太子講からは、昭和五年創立時に作られた「書類入箱」と共に、九〇年の歴史を綴った記録の貸し出しを受け大変参考になり感謝している。
 山部太子講については、先ず曹光寺に取材の申し入れをしたところ、現講長(第七代)の佐々木一郎氏を紹介された。佐々木一郎氏の父栄三郎氏は第三代講長を勤められた方で、親子で二代の講長である。
 佐々木一郎氏から「山部聖徳太子講五〇年記念誌」「山部聖徳太子講 七〇年のあゆみ誌」と「渡辺一雄伝」を便利屋に託して届けていただいた。
 それによって、山部聖徳太子講と「渡辺一雄翁・遠藤藤吉翁」の関係を含めての稿を埋めることができて、佐々木一郎氏の配慮にお礼申し上げます。
 南富良野町及び占冠村の聖徳太子に関係ある寺院については、二〇〇八(平成二〇)年に設立した富良野広域連合に筆者も連合議員で、共に南富良野町議の「酒井年夫氏」「鹿野重博氏」も一緒であったので、取材への応援と情報提供を受けて助かった。
 元占冠村長であった「中村 博氏」は、富良野広域連合の副連合長で旧知の仲だったので、快く調査を引き受けて返答を頂いた。
 南富良野町の正法寺住職を兼務されている東神楽町の鳳隆寺住職「藤本晴氣師」には、石板碑の撰文・揮毫が「藤 光雲師」と教えられ驚愕いたしました。私が「郷土をさぐる誌」第八号に、十勝岳爆発関係碑の一基で、専誠寺に建立の「十勝岳爆発惨死者碑」の揮毫は「藤 光雲師」と記していたからだ。
 第三八号の原稿締め切り間際に、富良野市水間英文氏所蔵の資料を知り、その提供により富良野聖徳太子堂・像を記すことができた。ただ、歴代講長は資料不十分で列記できなかったことが心残りです。
 大宝寺境内にあった聖徳太子堂の跡地に「鐘楼、梵鐘」創設と聞き、令和三年三月一一日に取材に行く。この日が「東日本大震災十年」、寺族の方が発生の午後二時四六分に梵鐘を撞きに来られ、筆者にも慰霊にと促され、初めて梵鐘を撞く。(縁を感ず)
 終わりに、取材と調査にご協力を頂いた多くの皆様に感謝を申し上げます。また、参考資料の提供と掲載にご理解をいただきありがとうございました。
≪取材にご協力をいただいた方々≫
上富良野町  黄 田   稔 氏
       前 田 光 弘 氏
       江 島   弘 氏
富良野市   大 宝 寺 様
       曹 光 寺 様  (山部)
       佐々木 一 郎 氏(山部)
       杉 山 元 一 氏
       山 ア 永 稔 氏
       井 上 孝 志 氏
       水 間 英 文 氏
中富良野町  道 隆 寺 様
       井 口 一 男 氏(旭中)
南富良野町  浄 信 寺 様  (落合)
       酒 井 年 夫 氏(幾寅)
       鹿 野 重 博 氏(金山)
占冠村    浄 覚 寺 様
       中 村   勇 氏
東神楽町   鳳 隆 寺 様
≪参考資料≫
上富良野町史(七十年記念誌)
上富良野百年史
上富良野太子講 創立七十周年記念誌
上富良野太子講 創立九十周年記念誌
開基五拾周年 明勝山 聞信寺
開教法灯百年 浄土真宗本願寺派 聞信寺
開基住職五十回「法流」光暁山 明憲寺
「此日、余は」(遠藤藤吉小伝)

中富良野村史
中富良野町史(上巻)
道隆寺 開基百年記念誌
中富良野 旭中二十年の歩み

富良野地方史
富良野町五十年略史
富良野市史(第一巻・第二巻・第三巻)
ふらの歴史的建造物(富良野市博物館発行)
聖徳太子講記録(昭和四年一月)
聖徳太子記録(昭和七年三月一〇日)
聖徳太子太子講保善会(昭和廿三年壱月)

山部村史
山部聖徳太子講五十年祭
山部聖徳太子講 七〇年のあゆみ
渡辺一雄伝(山部聖徳太子講 初代講長)

南富良野町史(下巻)
南富良野町史(第二巻)

占冠村史
占冠百年史

深川市史

北海道の聖徳太子講(中間報告)
  一般財団法人 北海道文化財保護協会発行

機関誌      郷土をさぐる(第38号)
2021年3月31日印刷      2021年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀