火山現地調査の始まり
三原 康敬 昭和二十四年九月二十八日生(七十一歳)
気象庁の文献から
十勝岳の火山活動を調べた結果について、気象庁のまとめた記録として残されている文献の記述によって、現地調査と観測に従事した職員の氏名を知ることができる。
気象庁が十勝岳の観測業務を本格的に開始したのは、大正噴火以後、昭和火口(新々噴火口)の出現が契機となり、現地調査を行ったのが始まりと言える。
郷土をさぐる会『やまとともに生きる「十勝岳」一九二六(大正十五)年、噴火泥流災害九十年回顧誌』の編集資料の収集で、上富良野町役場の災害対策経過を編纂(へんさん)した文書綴の中に、旭川測候所から上富良野町に送付された文書を発見した。十勝岳の現地観測実施結果についてまとめられた『昭和二十七年度第二次十勝岳噴火口調査報告(昭和二十八年二月旭川測候所)』の記述である。緒言に、旭川測候所長の木村耕三氏が「昭和二十七年八月十七日夜間(推定)に新しい火口が出現したので、九月下旬、第一次調査を実施。降雪前に本格的な第二次調査を実施することに決め、室蘭測候所長木沢綏(たかし)氏、札幌管区気象台地震係長大野譲氏、旭川測候所技術課長山元繁次氏、のち業務課長斉藤寛氏と交代。技官栗原幸一氏で編成」したと書いている。
火口調査報告の(七)「各基点」には、観測点を設定したこと。「爆発記念碑の位置はいかなる泥流が出現してもこの丘は越えないであろう、そしてここを通過すれば上富良野町は被害の影響ありと見て警報を出す必要ありと考えられる。いかなる事態においても町への通告は間に合う。これらの諸点から鑑(かんが)み且(か)つ、この目的のためこの地点を選んだ」とある。
郷土をさぐる誌第十号に寄稿した、『活火山「十勝岳の噴火」』の中で、白銀荘で監視業務を行っていた時、昭和六十三年十二月二十四日のクリスマス噴火の際、流れる泥流を確認できる爆発記念碑へ白銀荘から駆け付けたことを書いた。そこは、木村耕三氏が指摘している観測点であった。木村耕三所長は「十勝岳爆発の特徴」(結語)に、「上記したように、爆発の原因は地下水による公算が大きく、爆発による災害の原因である泥流は地下水の最も豊富な融雪期に生ずると考えられるので、十勝岳の活動による被害は地下水によると端的に考えてよい」と述べている。
『験震時報・第二十二巻第一号(昭和三十二年七月発行)』の報文「北海道硫黄火山の硫黄噴出孔の状態について(一)報告者、気象研究所地震研究部木沢綏、札幌管区気象台大野譲」に、現在、火山関係の研究書等に掲載されている「十勝岳噴火年表」の原型が、技官栗原幸一氏が調べた「十勝岳噴火の記録(栗原幸一調)」としてまとめられている。
「一九五二年八月十七日、新々噴(五十二年)火口出現(木村耕三)。現在まで成長す。十勝岳噴火記録は上記のように少ないが、今回、栗原氏の努力で地元の資料も参考にしてできたので、ここに掲載して参考に供する」と噴火記録の記述がまとめられた経過に言及している。
掲載省略:写真〜昭和29年12月 冬の白銀荘と新々噴火口
現地観測の協力
報文「北海道硫黄火山の硫黄噴出孔の状態について(一)」の結びには、昭和二十八年二月、旭川測候所が簡易印刷にまとめた報告書『昭和二十七年度第二次十勝岳噴火口調査報告』の、調査員に関する部分と同じ内容、「第二次調査は昭和二十七(一九五二)年十月二十日から八日間にわたり、旭川測候所木村耕三所長、山元繁次、斉藤寛、栗原幸一の各技官、上富良野町から平塚武、大矢省三氏、営林署から米山竜蔵、村上義夫氏らが同行。報告者の木沢綏が加わった。その後、木村所長の指導のもとに栗原技官らが毎年調査を続けている」と、気象庁職員の異動に伴う担当者の途中交代を含め、地元同行者の人名と以後調査を毎年継続している記述がある。十勝岳の登山コース案内などで調査に同行し、気象庁と地元自治体の間に協力体制が整っていた。
旭川測候所が簡易印刷にまとめた報告書『昭和三十一年度冬期十勝岳火山活動調査報告(旭川測候所)』に、実施期間、自昭和三十二年二月二十六日、至三月四日。調査員、栗原幸一、古寺義光(旭川測候所)。田浦信一、森田俊男(美瑛町役場)。松浦清、加藤正男(上富良野町役場)。調査目的、各噴気孔の状況調査(目視、写真、瓦斯、温度)。積雪量調査とある。
「九十年回顧誌」発行の時収集した役場関係資料の中に、昭和二十八年に行われた第四次調査に同行した概要の報告書がある。「調査員、斎藤業務課長、栗原予報官、役場同行者平塚武、三原健吾(筆者私の父)、営林署、長谷川善次郎。調査日程、昭和二十八年五月六日から五月十一日。五月七日午後、三段山。五月八日、新々噴火口及び新噴火口。五月十日、旧噴火口。五月十一日、下山。調査結果の概要には、新々噴火口、直径三米。噴気度は強くなった」とある。
この第四次調査の際使用する「アイゼン」を町内の鉄工場に発注する起案書が残っている。四本爪の器具で、靴底の土踏まずのところに取り付けて使う、X型の鉄の先に滑り止めの爪を付けたものである。
気象庁の現地観測
気象庁が十勝岳の火山活動について、現在、年に六月と九月の二回、定期に現地を観測している。その始まりは、先に書いたが「昭和二十七年八月十七日夜間(推定)」に昭和火口(新々噴火口)が出現したので観測調査を行ったことからである
『験震時報』が気象庁のホームページに公開されているので、十勝岳に関する報文を検索していると、『験震時報・第二十三巻第二号(昭和三十三年九月発行)』に「十勝岳火山基礎調査報告」があり、我が家に残されている父親の遺品の写真と同じ写真が掲載されていた。
この報告の内容は、まえがきに、「活動監視のための火山観測が旭川測候所により行われていたが、昭和三十二年度に正式に火山観測実施を指定され、旭川地方気象台による恒久的な観測が行われることになり、これに関連し、十勝岳の恒久火山観測(地震観測、定期現地観測など)の具体策を樹立し、噴火災害防止対策などを検討するため、昭和三十二年(一九五七)八月八〜十三日、気象庁・札幌管区気象台・旭川地方気象台三者合同で現地調査を実施したので、結果を報告する。この現地調査には、札幌管区気象台山岡保台長、山田国親技術部長、旭川地方気象台木村耕三台長、藤田孝男技術課長の参加、諸観測は気象庁観測部諏訪彰、札幌管区気象台大野譲、旭川地方気象台栗原幸一・古寺義光の各技官。報告の取りまとめで、気象庁観測部田中康裕技官が参加。
さらに、北海道大学理学部高橋俊正・青田功両氏、地元の美瑛町役場田浦信一、上富良野町役場三原健吾の両氏が同行協力された」と書かれている。
掲載省略:写真〜火口で調査協力する三原健吾
一九六二年十勝岳噴火の時、父親が「諏訪さん、諏訪さん」と、「諏訪彰氏」のことを話しており、なぜ知っているのか不思議であった。残されている現地調査に同行した時の写真に一行の集合写真があり、写っている人たちの名前を私が十勝岳ジオパークのサポーター養成講座を受講した時の講師、旭川地方気象台火山防災官の永澤幸氏にお願いして気象庁関係者の名前を調べてもらい、人物の名前が特定できた。観測者に同行して火口調査に登ったので、「諏訪彰氏」との接点があったことがわかった。
掲載省略:写真〜我が家に残っていた、昭和32(1957)年8月8日〜13日に行われた現地調査の一行を撮影した写真
掲載省略:説明図〜旭川地方気象台火山防災官永澤幸氏に調べてもらった火山調査一行の氏名。前列右の人以外が判明できた。
十勝岳が常時観測火山となる
この時の調査は、気象庁が行っている現在の常時観測火山の観測体制を整える重要な基礎調査であった。「旭川地方気象台十勝岳火山観測所開所記念『十勝岳の活動と観測』(一九六四・五・二七)札幌管区気象台・旭川地方気象台」という冊子に、
『戦後の旭川測候所と十勝岳の結びつきは、昭和火口の活動が活発になりはじめた昭和二十七年にはじまる。すなわち、同年八月、十勝岳の活動が活発になったとの報に接し、当時の所長木村耕三の命によって栗原、上田技官らが最初の現地調査を行った。以後この業務は気象庁および札幌管区気象台の指導協力のもとに定常化され、やがて昭和三十二年(一九五七)旭川地方気象台の正式業務として指定されて今日に至っている。わずか年二〜三回の現地観測にすぎず、観測項目も、地温・泉温・水蒸気温度および地形の変動・PH等地表現象に限られていたため、得られた成果は微々たるものであったが、十勝岳が曲がりなりにも定常的な監視下に入ったという意味で、昭和二十七年という年は、十勝岳火山観測史上意味深い年である。これらの観測結果は、その都度ガリ版印刷されて関係方面に報告、または配布されており、また数度にわたって総合的に「験震時報」に発表されている。この現地への登山は、最初は上富良野町から、のちには美瑛町から行われ、誠に辛苦に満ちたものであったがとにかく一応継続できたのは、美瑛町役場、上富良野町役場をはじめ、各現地機関の援助に負うところが大きい』
という記述があり、現在に至る現地観測の歴史と経緯を知る史料である。
一九六二年十勝岳噴火
観測体制を整える重要な基礎調査の時、撮影された集合写真に写っている人のうち、「木村耕三所長」は、アメダス創設者として知られており、気象庁の観測部長を退職後、『三陸に逃げる』という著書の中で「一九六二年十勝岳噴火」の体験を書いている。
『十勝岳の大爆発、経験に固執したばかりに』の中で、痛恨の念が語られている。要約すると、
「昭和三十七年六月、この山は大爆発をやった。活動を開始してから十年目である。警戒心が多少おろそかになっていたのである。と他を責めてみても、所詮はわたしの指揮と判断の誤りから、予知できる機会を逸し、五人の死者と十一人の重傷者を出してしまったことには変わりはない。大過の原因を言い訳したところではじまらないが、いくつかの偶然が失敗させる方向へ押し込んでいった。気象台では硫黄鉱山の鉱石を運ぶロープウェイの中間小屋に地震計を設置して、記録紙の交換を鉱山に委託していた。その地震計が故障していた。ここに油断があった。五月中旬に修理。六月はじめ、山麓の温泉で有感地震あり。このことは公式には役場等から通報がなく、温泉旅館で働いていた元気象庁職員から内報されてきた。調査班を編成し、派遣することにした。調査班が庁舎を出ようとするとき、修理してから後の地震計の記録が届いた。事態がそれほど切迫していないと考えていた私たちは、その記録紙の包みを担当者の机の上に置いたままにしてしまった。この時、記録紙が現地にあったら、あるいは包みを開けて目にとまっていたら、山の異常は歴然とわかり、調査班は山へ登ることなく、山麓の自治体に警告を発することができたはずである。これが第一のつまずきだった。火口縁に今までなかった亀裂が生じているところを調査する日程が一日のびていたことを知らなかった。翌日、一日延びた日程のため調査班は火口縁にあった鉱山の宿舎に一泊した。その夜、噴火が起きた。ここにも私の完全なミスがある。調査班は簡便な塩素ガス用の検知器を携行していたが、水蒸気の多い火山ガスには検出能力がないということを私はすっかり忘れていた。調査班は塩素ガスが検出されなかったので宿舎に泊った。正しい測定が行われていれば、塩素イオンの増加が観測されていたはずである。爆発後の火山灰に多量の塩化物が検出された。その夜は月が出ていなかった。遠く十勝岳の方向の空に目をすえて見ても、煙らしいものが見えない。調査班が重傷を負って収容されたという連絡が入り、心を痛めていたが、爆発の規模については甘く考えていた。薄明るくなって私はビックリしてしまった。太く黒い噴煙が大きく上空で広がって東に流れ、南から東の空一帯を頭の上まで覆っている。夜中に私が目をすえて見ていた空は煙そのものだった。予知し警告すべきデータを持ちながら見落としていた」
とこのように木村所長は書いている。
掲載省略:写真〜6月30日午前4時過ぎ上富良野町市街地から見た十勝岳を覆う噴煙
諏訪さんと横山博士
「諏訪彰氏」は著書『火を噴く日本列島』の中で一九五七(昭和三十二)年、十勝岳の常時観測火山を指定するため火山基礎調査を行ったこと。「一九六二年十勝岳噴火」に関して、官(気象庁)と学(北海道大学理学部)の連携があり、報道陣を避けて上富良野町中茶屋で観測にあたっている北海道大学の横山泉博士を訪れたエピソードに触れている。
『十勝岳大爆発と住民』の中で、異常現象が起きたので、注意していたことの記述がある。要約すると、
「一九六二(昭和三十七)年六月二九日夜から翌三〇日の早暁にかけての、噴煙の高さ山頂上一万二〇〇〇bに達する大爆発を皮切りに、大雪山国立公園の名山、十勝岳は三六年ぶりの大噴火を始めた。十勝岳では、噴気活動などがかなり前からしだいに活発化し、特に、噴火発生の約一月前からは噴気の異常、地割れ、有感地震などの火山性異常現象が目立ってきていた。旭川地方気象台は、札幌管区気象台や東京の気象庁と連絡をとって、緊急警戒体制をとっていた。わずか年二〜三回の現地観測と、硫黄鉱山に簡単な地震計の委託観測しか行っていなかった。地震計は欠測続きで、異常現象の発見も通報もかなり遅れ、旭川気象台が動き出したのは六月になってからであった。この火山が不穏化したことは、すでに同気象台から公表されており、気象庁で行われた、六月一七日夜の上高地の焼岳の爆発についての共同記者会見などでも、十勝岳での異常を説明していた。この大噴火ととりくむために、単身、札幌に到着したのは、七月二日であった。全国諸火山の活動監視の任にある気象庁で、いわば火山病科の医長をすでに十数年来努めてきた私としては、このようなことは、特にめずらしいほどではなかった。十勝岳の常時火山観測を指定するにあたって、その基礎調査を行うなど、同火山はかなり前から手掛けていた。 火山観測整備の促進に熱心な佐藤(初吉・美瑛)・海江田(武信・上富良野)両町長らとのまじわりも深く、地元民ともかなり親しくしていたのでこの役割が私に回ってきた」
そして、『横山博士のこと』の中で、
「この劇的な十勝岳大噴火をめぐって、わたくしは北海道大学の横山泉助教授(現在、教授)に、感謝してやまない。かねてから、同大学と札幌管区気象台とは、非常に友好的に、長短相補い、協力しあってきていたし、わたくし自身も、地球物理学の同助教授や地質鉱物学の石川俊夫教授らとは、永年のつきあいがあった。一九五七(昭和三十二)年の十勝岳火山基礎調査にも、両教室から新進専門家の参加を得たのであった。それはともかく、七月三日に、美瑛の爆発対策本部に到着すると、横山博士からの伝言がとどいていた。『火山活動の情報が多元的に出されるのは避けたい。対策本部へ出かけていくとマスコミにつかまり、何か言わされることになりかねないので、出歩きたくない』という内容であった。翌四日の現地調査を終わり、山から白金温泉まで帰り、皆が昼食をとって休んでいた時に、わたくしを乗せた旭川地方気象台のジープは、一台だけで、白金をぬけ出し、山麓を迂回して、隣町の上富良野側(山の西側)から再び立ち入り禁止区域に入り、横山博士のもとに到着した。ここの地震計の方が、白金温泉のものよりも性能がよく、観測地点もより良い条件をそなえていた。その記録を見せてもらい、北大の業績をたたえるために爆発対策本部への同行をすすめたが、同行を辞退された。あれだけの大噴火にもかかわらず、当日の気象庁の火山情報の発表やそれにともなう爆発対策本部の処置が、一糸乱れず、整然と遂行されたのは、横山博士の卓見と友情に負うところが大きい。おなじ年の焼岳や三宅島の噴火の場合とは、雲泥の差があったのである」
と官学の連携について書いている。
掲載省略:写真〜北大観測班の観測地点、中茶屋近くの旭野から撮影した噴煙。6月30日午後1時頃。
六二年噴火当日の現地観測
「古寺義光技官」は磯部鉱業『十勝硫黄鉱山噴火災害誌』に、「『地獄の劫火』十勝岳の脱出」を寄稿している。「一九六二年十勝岳噴火」の当日、定期の現地観測で磯部鉱業宿舎に滞在していたこと。九死に一生の経験が綴られている。
「爆発、脱出、収容、入院、三日目の朝はじめて涙が出た。…(中略)…今ここベッドの上で当時の模様を記憶のままに綴ってみよう」
という書き出しで始まっている。
要約すると、今回の十勝岳現地観測は定期の火山観測であるが、広尾沖地震以来増加しつつある異常のため、札幌管区気象台で始められた三か月間の臨時観測計画の第一回現地観測を兼ねたもので、観測期間は六月二六日から三〇日であった。二九日は一行四名(大野・札幌管区気象台、古寺・藤森・旭川地方気象台、田浦・美瑛町役場)で大正火口から前十勝岳、馬の背、旧噴火口、十勝岳温泉(現在、建築工事中)、白銀荘、泥流と歩き、下山する大野・田浦と元山宿舎に向かう古寺・藤森は泥流の白銀荘分岐で別れた。二九日の観測では前十勝の尾根付近で亀裂を発見、翌日は大正火口内の高温地域を熱電体温度計で測定する予定であった。
就寝後、第一回目の噴火に遭遇。元山宿舎を藤森技官と脱け出し、索道伝いに地震計小屋まで逃げ、望岳台のバス道まで降りたところで助けに来た人と出会った。車に乗せられて下り、白金温泉で別の車に乗りかえて美瑛町立病院に収容された。古寺義光技官は、噴火時の貴重な体験をもとに、第一回目の大正火口爆発当初附近状況図、火口宿舎からの脱出経路略図、元山火口宿舎概要図(被災時の建物の状況と内部からの脱出行動)などを作図している。
この関連記事が、郷土をさぐる誌第二十六号の中村有秀著『美瑛町に建立されている十勝岳爆発碑』に「火口宿舎からの脱出経路略図」と合わせて掲載されている。
掲載省略:写真〜我が家に残っていた、昭和32(1957)年8月8日〜13日に行われた現地調査の一行を撮影した写真〜前十勝岳西斜面、平山鉱業索道小屋跡とトロッコ道開始点で休憩。前左、大野技官(札幌管区気象台)・その後ろ、古寺義光技官(旭川地方気象台)・前右、三原健吾(上富良野町役場)〜トロッコの車輪とレールの残骸が写っている。
■ 編集委員注 : 参考資料〜戦後の火山業務の沿革
一九五二(昭和二十七)年十二月一日、気象業務法が施行され、現在の気象業務の基本制度が定まった。翌`五三(昭和二十八)年一月一日に火山観測法(現在の火山観測指針)が作成されて、気象台の業務に火山観測が明確に位置づけられ、同年九月十日に世界気象機関(WMO)に加盟、`五六(昭和三十一)年七月一日には気象庁に昇格した。
`六一(昭和三十六)年一月から火山報告(季刊、火山観測データを掲載)の刊行が開始され、`六二〜六六(昭和三十七〜四十一)年には、観測体制の整備に合わせて、常時観測対象十七火山を指定、内北海道は五火山(雌阿寒岳・十勝岳・樽前山・有珠山・北海道駒ヶ岳)だった。並行して気象庁に火山機動観測班が設置された。
`八八(昭和六十三)年十月一日には札幌管区気象台に地震津波火山監視センターが発足、同年十二月から翌年三月までの一連の十勝岳噴火は、この新体制の下で監視・観測が統括された。
`九三(平成五)年五月十一日に火山情報取扱規則が改定され、緊急火山情報、臨時火山情報、火山観測情報、定期火山情報の四種類の火山情報の発表業務が開始された。
二〇〇一(平成十三)年十月一日、気象庁地震火山部火山課及び札幌・仙台・福岡管区気象台地震火山課に火山監視・情報センターが発足、翌平成十四年三月一日から正式運用が開始された。
`〇七(平成十九)年十二月一日気象業務法が改正・施行され、従来の緊急火山情報、臨時火山情報、火山観測情報は廃止して、新たに噴火警報・予報の運用が開始された。合わせて、火山活動度レベルを廃止して、噴火警戒レベルの運用を順次開始(当初全国十六火山)、翌`〇八(平成二十)年十二月十六日から二十一番目として十勝岳で噴火警戒レベルの運用が開始された。
`〇九〜一一(平成二十一〜二十三)年に「監視・観測体制の充実等の必要がある火山」として選定した四十七火山にボアホール観測(標準深度一〇〇mの立孔底部に地震計・傾斜計を設置)を主軸とする新たな観測点が整備され、北海道の常時観測火山にアトサヌプリ(弟子屈町硫黄山が属する山体)・大雪山(旭岳を最高峰とする北海道中央部山塊)・倶多楽(登別地獄谷・大湯沼・倶多楽湖を含む火山域)・恵山(函館市南東端の火山)の四火山が加わり、現在の九火山体制となった。
`一五(平成二十七)年八月四日からは、現在の噴火速報の運用が開始されている。
《参考文献》
・旭川測候所「昭和二十七年度第二次十勝岳噴火口調査報告」
・旭川測候所「昭和三十一年度冬期十勝岳火山活動調査報告」
・気象庁『験震時報・第二十二巻第一号』
・気象庁『験震時報・第二十三巻第二号』
・気象庁ホームページ〜火山業務の沿革
・木村耕三「三陸へ逃げる」(二見書房)
・諏訪彰「火を噴く日本列島」(講談社ブルーバックス)
・磯部鉱業「十勝岳硫黄鉱山噴火災害誌」
・札幌管区気象台・旭川地方気象台
・十勝岳火山観測所開所記念「十勝岳の活動と観測」
機関誌 郷土をさぐる(第38号)
2021年3月31日印刷 2021年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀