桐山英一氏からの聞き書き
聞き取り記録者
加藤 清 大正八年一月二十六日生(平成十五年没)
岩田 賀平 明治四十三年十二月十日生(平成二十一年没)
歴史史料の発掘
歴史を知るうえで、伝聞、伝承、言い伝えという口伝(くでん)で民間に受け継がれるものも含まれるが、歴史研究上、文字で記録されていることが重要であるとされている。新築オープンした上富良野町郷土館事業として、古老の証言をテープに録音し記録している。上富良野劇場を経営し、町議会議員をしていた、桐山英一氏の証言が原稿化されて保存されている。
個人の証言であっても、私信として残っている書付(メモ類)、ハガキ、手紙、文字化されて残る日記、個人記録などは特に歴史の事実関係を確かめるための重要な史料として位置づけられている。
生い立ち
私が生まれた時、住んでいた家は多湖鉄工場の裏にあった。生まれてすぐに、義父の杉山久市に養子に出された。後継ぎがほしくて、三十分もしないうちに養子になったと聞いている。本当の父は戸田という。
小学校の思い出
小学校に行く道路は、卯月さん(現在の千葉整骨院)の所を通って行き、そこは良い水が湧いていて、毎年、カモが来て卵を産み、雛(ひな)を孵(かえ)して秋に帰っていた。そこを過ぎると高坂さんの裏に出て、小学校の裏口に続いていた。裏口には、御真影があったので、通る時はいちいち礼をして通った。
尋常六年の時、自転車競走に出て一位になったことがある。作文に「自転車競走」という題で書いて出すと、田所先生が「お前の競争心というのは実に強い」とやけに褒めてくれ、それからは、何をするにも人に負けてはいけないという気持ちがわいてきた。小学校を卒業したあとは、父親が山に木を植え
たりするのが好きだったため、岩見沢の農学校の林業科に入れられた。しかし林業科の実習地というのが学校から遠く、そこへ行くにも、夏のカンカン照りの時に行ったりすると、もう学校へ行くのが嫌でしょうがなかった。それでなんだかんだ北中へ行き、北中(北海中学校。戦後北海高等学校となる)を卒業したあとは東京の日大歯科へ行った。
飛澤清治さんが私を歯医者にして後継ぎにしようと思い、医者になれと強く勧めるので仕方なく日大を受けると、受かってしまった。入学したものの、私の気性では歯医者は駄目だと思い中退した。大学にいたころ、父親が樺太にいたので遊びに行き、懐かしい思い出となっている。
掲載省略:写真〜小学校の御真影殿、裏門へ通っていた通学路周辺図
映画館の経営
十九歳の時、アルバイトで無声映画の活動弁士をした。それが面白くてやみつきになり、無声映画の活動弁士になった。その頃の給料といえば、月三十円ほどだったが、私は活動弁士なので百八十円もらっていた。道新の前身であるタイムスと「タイムス読者映画会」という六カ月の契約をした。活動写真からトーキー映画に移り変わるころである。新聞の小売店などからは毎晩のように飲みきれないほどのビールや酒がとどけられた。
映画の説明で面倒だったのは、恋愛映画の説明だった。アルコールが入ると、なお、うまくやれなかった。有名な「愛染かつら」は、トーキー映画の始まった頃のものである。
昭和十六年、活動写真からトーキー映画の時代に入ろうとする頃、上富良野に帰って来た。帰って来た頃、楠山さんと伊藤さん、田村徳一さんの三人で
「三協座」という劇場をやっていたのだが、屋根には穴が開くし、中はボロボロになる。直す金はないので、劇場を建てるつもりならこれをやると言われ、二万五千円で買った。劇場を手に入れてから、上富良野、中富良野、富良野に映写機械を置いて、それぞれ掛け持ちで一日三回、母物映画のような映画を上映した。
掲載省略:写真〜桐山英一氏経営の上富良野劇場(上劇)昭和26年頃
フィルムの配達人を上富良野で三人、中富良野で三人、富良野で三人、それぞれ雇い。フィルム二巻運んで一円五十銭払った。配達人は一日昼夜働いて、五円から六円になった。私は十五日間で劇場の購入代、二万五千円を儲けた。無声映画の活動弁士では札幌や小樽、旭川へ行った。結婚してからは室蘭にも行ったことがある。私の師匠の増田ふうかという人が旭川で「みます館」を経営するようになり、手伝うために旭川へ通った。
金子さんが村長の時、うちの役者さんには米を配給しないと言われた。怒って金子さんの家に行って下駄のまま上がり、米びつを見ると米がびっしり詰まっていた。「こんなに米が配給になるのか、お前ら何かやましいことがないか。俺の所の芸人は旅から旅を歩いているのだぞ。飯食わせなかったら死んでしまう。なんで配給できんのだ」と怒鳴り込んで、なんだかんだ配給させた。
テレビが普及してからは、映画の仕事もダメになってしまった。うちの劇場で使っていた楽器が不要になってしまい、ちょうどそこへ中学校の梅田校長がフラッと遊びに来たので、「どうだ、あの楽器隊の楽器欲しくないか」と言うと、「おお、くれるならもらおう」と言って、譲ることにした。
梅田校長が学校に帰ると、子どもたちがさっそく、うちに走ってきた。「校長先生がおじさんの家からもらったものがありますか」と言うの
で、「ああ、あるよ。そこの楽器だ、壊さないように持って行きなさい」
と言うと、喜んで持って行った。これが中学校のブラスバンドが充実するきっかけになった。小学校の方でも楽器がほしかったのだが、家にあったのは大人用の楽器なので大きすぎた。
大野伴睦と演習場誘致
昭和二十八年、自衛隊の演習地を誘致する動きがあった時、美瑛町が反対した。美馬牛にあった旧日本軍の演習場は、終戦と同時に解放されていた。
佐々木ひさおさんが「おい、キィさん、上富良野に広い所ないか」と言うので、「ああ、ある。十勝岳の下の方へ行ってみれ、広い所あるわ」と教えてやった。上富良野にキャンプ(駐屯地)を誘致する時も、旭川の北海ホテルで防衛庁の木村長官に会って、「ぜひ、上富良野に自衛隊のキャンプを持ってきてください」と頼んだ。しかし、町民からは反対意見もあった。和田松ヱ門さんの前の広い土地を、役場で買いに行った時、「自衛隊が使うなら売らない」といっぺんに断られた。
現在、駐屯地のある所は島津青年団の土地だった。島津青年団では機嫌よく町に売ってくれたので、そのお礼に、島津青年団のクラブを町で建てた。駐屯地の隊舎を建てるときは、政府の仕事だと言うことで、大工はかなり緊張をして仕事をしていた。だが、自衛隊ができたおかげで、水道、道路、学校が整備された。上富良野の町がこれだけ伸展したのは自衛隊が駐屯したことである。
これは大野伴睦さんのお蔭で、自衛隊を誘致することができたのである。伴睦さんと私は乳兄弟で、伴睦さんの母親が体の弱い人で、乳を飲ますことができず。伴睦さんが生まれるとすぐ、私の母の所へ連れてこられ、十歳頃まで育てられた。それで私のことを「北海道の兄」と呼んでいた。
掲載省略:新聞紙面〜陸上自衛隊上富良野演習場の設置決定を伝える昭和29年5月1日発行の上富良野新聞
掲載省略:新聞紙面〜大野伴睦北海道開発庁長官の来町と桐山英一氏の母との対面を伝える昭和29年5月21日発行の上富良野新聞記事。演習場設置は大臣官房・予備隊本部・農林省など省庁の枠を超えて難しいものがあり、記事から、なぜ上富良野に決定したのか、当時の自民党副総裁で北海道開発庁長官の大野大臣との縁で決定したことがうかがい知れる。噴火防災の調査で郷土館に来た富良野市出身の航空自衛隊一佐が設置経過の疑問を解決できる史料であると語る。
鉄道用地払い下げ
二十七号から二十一号までの鉄道用地の払い下げを頼みに行ったときは、家に居候していたタツキと言う男を連れて鉄道局へ行った。話をさせると弁の立つ男だった。「今、桐山さんが言ったように鉄道用地の両側を開放すれば丸く収まるので、ひとつ上富良野の為に払い下げてやってください」と言うと、鉄道局長は「わかったよろしい」と言ってくれた。「それでは手ぶらで帰られないので、払い下げすると一筆書いてください」と言って、書いてもらい。上富良野に帰って来た。鉄道用地の両側を払い下げてもらったおかげで、鉄道の両側にいた人たちは大分助かったと思う。桐山は自分が土地ほしいから動いたと人に言われたこともあるが、私は鉄道用地を一切もらっていない。
工場誘致
根室の合同缶詰工場を上富良野から六人で見学に行ったときは、魚の工場だったのでとても臭かった。その晩、社長が上富良野から見学に来てくれたのだからと、料理屋でもてなしてくれた。「今日は本当に大切な工場を見せてもらい、大変勉強になりました。しかし、ずいぶん臭いですね、私の方には青々とした原料が無尽蔵にありますよ」と言うと、社長がそれからすぐ上富良野に来た。それで、工場を建てることになり、学校の古材などを使ってもらうことになった。その後、この工場は農協の施設となった。
水の思い出
上富良野は水の便が悪い所で、良い水が出るところは余りなかった。今の登記所と警察の間に井戸があり、市街の人達が汲んで飲んでいた。飛澤病院の水薬に使う水は、海江田さんの所から汲んでいた。合同缶詰工場の近くに良い水が出る所があり、その水を鉄道の下を通して、市街のほうへ持ってこようとしたが、鉄道側で鉄道の下を通すことを許してくれなかった。もし官舎に水をくれるなら通しても良いと言われた。許可を受けなければ、市街の人が水を飲めなくなってしまうので、しかたなく青柳さんの角まで竹をつないで、地中に埋めて水を通した。父親が大工だったので、竹をつなぐ仕事をしているのを見たことがある。バラスや砂の品質はこの沿線で一番悪かった。
町長との思い出
上富良野には、良いネタ(案件)を持っていてもそれを活用していく町長がいない。田中、海江田、村上、和田、四人の町長と付き合ってきたが、皆ダメである。一度、はずみで田中町長を叩いたことがある。ちょうど稲の花が咲くという時期に、何かの届け出が悪く、水田に引く水を止めると言われたと、松岡さんが私の所へ駈け込んできた。急いで役場に行き、汚い所に座り、手をついて「町長、頼むから何とかして助けてくれ。今、一町五反の水田を枯らしてしまったら、何人困るんだ。頼むから助けてくれ」そう言っても、返事もせずに鼻で笑っていたのだ。それで立ち上がって叩いたのである。
村上町長のリコール問題の時も、一晩中かかって、リコールをかけたのが、朝、四時だった。百二十五万の金で、道路を直すための作業員の宿舎を作ることになっていたものを、議会にかけないで使ったので、「議会にかけないで使って良いのか」と言うと、「お前らにとやかく言われる必要はない」と言うことから始まった。朝、四時にリコールをかけた時、とても腹が空いていた。「平田さん、お前の店に何か食うものないか見てこい」と言うと、「いや、何もないね」と言うのだ。私たちに借りられたまま、金を払わないとでも思ったのだろう。
十勝岳の熱をせめて旭野近くまで下げることができないだろうか、なんとか下げてほしいと言うのが私の願いである。三つも火口があるのだから、ビニールハウスでも作って、冬の暇なときに野菜を作って、都会に送ることができないだろうか。町長に言ったことがある。「おい、和田君。山を見てみろ、あれは熱があるから煙が上がるんだ。あるいは蒸気かもしれん。あれを何とか下へ下げようと考えたことあるか」。
しかし、全然考えてはいなかった。
私が教わった先生から「おい、桐山君。上富良野の駅の近くに広い土地ないか」、「どうするんさ」、「女子大くらいどうだ」。さっそく駅に行った。すると、ちょうど女子大を作るくらいの土地があった。なぜ駅の近くでなければいけないかと言うと、上富良野だけでは採算が取れないので、他の町からも人を呼ぶためにも駅の近くが良いのである。すぐ商工会に相談に行った。「上富良野の人口を増やすのに、今こんな女子大の話あるぞ」と言うと、返事もしなかった。
来客との思い出
私の家はずいぶん昔から、風来坊で頼って来る人などがいた。川村さんの息子で「とっぺ、とっぺ」と呼ばれていた「としお」と言う息子も、勘当されたと私を頼ってきた。まだ私が三町内にいた頃のことで、出征する時も私の家から出て征き、私は出征の旗を作ってブラスバンドで送ってやったものだ。生活に困窮したとか一人住まいなどの相談に来る人もおり、その都度、役場に掛け合って公営住宅への入居とか生活保護など微力であるが解決を図った。
《桐山英一氏の経歴》
明治三十九年六月二十四日 上富良野村にて出生
昭和五十七年六月二十三日 死去
―― 学 歴 ―――
札幌市 北海中学卒業
―― 議会歴 ―――
・昭和二十二年八月十二日〜昭和二十四年十一月八日
厚生産業経済民生教育常任委員会 厚生委員長
・昭和二十四年十一月九日〜昭和二十六年四月二十九日
総務常任委員会
・昭和二十六年五月四日〜昭和二十七年十月九日
総務厚生常任委員会 厚生副委員長
・昭和二十七年十月十日〜昭和三十年四月二十九日
厚生常任委員会 厚生委員長
・昭和三十年四月三十日〜昭和三十一年八月三十一日
総務厚生常任委員会 厚生委員長
・昭和三十一年九月一日〜昭和三十四年四月二十九日
教育民生常任委員会 教育民生副委員長
・昭和三十四年五月六日〜昭和三十八年四月二十九日
土木建設常任委員会 土木建設委員長
・昭和三十八年四月三十日〜昭和三十八年八月一日
総務常任委員会 議員会幹事
・昭和三十八年八月三十一日〜昭和四十二年八月二十四日
総務常任委員会
昭和三十八年八月三十一日〜昭和四十二年一月六日
総務副委員長
昭和四十二年一月八日〜昭和四十二年八月二十四日
総務委員長
・昭和四十二年九月一日〜昭和四十六年八月二十四日
副議長 教育民生常任委員会
・昭和四十六年九月一日〜昭和四十八年九月二十四日
教育民生常任委員会 教育民生委員長 議員会会長
・昭和四十八年九月二十五日〜昭和五十年八月二十四日
総務常任委員会 総務副委員長 議員会会長
表彰受賞歴
・昭和三十八年二月四日
全国議会議長会 議員在職十六年勤続表彰
・昭和三十八年六月
全道議会議長会 議員在職十六年勤続表彰
・昭和四十三年六月七日
全道議会議長会 開道百年記念表彰
・昭和五十二年二月四日
全国議会議長会 議員在職三十年勤続自治功労表彰
機関誌 郷土をさぐる(第38号)
2021年3月31日印刷 2021年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀