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「和田松ヱ門回想録」を纏めて〜和田家先祖のルーツを訪ねる旅

和田家北海道四代目 和田 昭彦
昭和十七年一月七日生(七十九歳)

  晩年期の松ヱ門の想い

 父和田松ヱ門は、岐阜県郡上八幡町出身の父和田柳松、福井県上庄村出身の母林はるの五男四女の長男として、明治三十八年四月八日上富良野町の現在地近く、東三線北二十七号で生まれた。上富良野尋常高等小学校卒業後家業の農業につく。青年会の活動や文芸誌の発行などに情熱を注ぐが、後に家庭を顧みない父に代わり母を助け、弟妹を養育する。
 昭和四十二年愛郷の念止みがたく町長選挙に挑戦したが落選、四年後の四十六年に再挑戦し当選、三期十二年務め、昭和五十八年退任した。
 私は、松ヱ門・ソトの四男六女の三男として、昭和十七年一月七日に生まれ、昭和三十九年酪農学園大学第一期卒業後雪印乳業KKに勤務していたが、家業を継いでいた長男の英彦が死去したため、昭和四十五年四月退職し、家業を継ぎ現在に至っている。

 父は上富良野町長在任三期目後半となってからは、友人・知人に「晩年のライフワークとして観音像の建立と回想録を書くのだ」と言っていました。
 そのライフワークの一つだった富良野聖観音像(しょうかんのんぞう)の建立が多くの皆さんの善意とお力添えによって、昭和五十九年十月完成させることが出来ました。
 当初上富良野町を間近に見下ろす日の出山公園の高台に建立したいと考えていたようですが、宗教色の濃い建立物は町有地には許可されず、いよいよ見つからなければ現かみふらの八景の「和田草原とどんぐりの郷」の高台にとも考えたようですが、それでは私物化することになるのではと考え直し、全町民の幸せを見守ることの出来る地はないかと探していたところ、島津の太田藤一氏が土地を提供して下さる事になり現在地に建立が決まりました。

  観音像わが終生夢なりき
     建立までは苦難に堪えむ

  念願の聖観音は丘の上に
     慈顔堪たへて町を見守る
              和田耕人
 そして最後のライフワークだった「回想録」の執筆に取り掛かったのは八十歳を過ぎてからでした。
 それから五年程経った平成二年四月、私は父の主治医の先生に呼ばれ、父は直腸がんでそれも末期、「余命六ヶ月」と告げられました。茶の間のテーブルの上の原稿を覗いて見たら、まだ昭和の一桁までしか辿り着いていませんでした。私はその時、父の寿命のことより回想録を最後まで書き終えることが出来ないのではないかと思いました。父には余命のことは告げず「がん」であることを話したら、さすがに一日でも長生きして回想録を完成させたいと思ったのか、手術を受けることになりました。手術の際に全身麻酔が充分効かなかったらしく、虚ろな意識の中で自らの余命を知った父(後に病室へ見舞いに行った知人に語っていたようだ)は、何としても回想録を完成させようと、術後十分回復もしないうちから病院のベッドの上で余命と駆けっこしながらの執筆となりました。結局手術から丸二年延命することが出来たのですが、亡くなる丁度一年前の平成三年七月十三日脱稿と最後のページに記されておりました。

掲載省略:写真〜回想録の第1ページ(上)と脱稿を記した最後の原稿(下)

 亡くなる三ヶ月程前の五月四日に私たち兄弟姉妹と上富良野にいる叔父叔母たちが集まって『米寿』のお祝いをしました。私が誕生日(五月十五日)まではちょっと早いけどと言うと、「俺の誕生日は四月八日で、お釈迦様の生まれた日と一緒だ」と聞かされ、皆んなびっくりしたのでした。後で調べて判ったのですが、長男松ヱ門が生まれた時には両親はまだ結婚の入籍はしておらず、結婚届けを出した日が五月十五日で、その日に生まれたとして届けを出したらしく、本当の誕生日は母親から聞いていたようでした。
 お祝いに集まった皆の前で「遣りたいことはすべて遣ったので思い残すことはない」と話し、一時は長男英彦を交通事故で亡くし失意の底にあった時もありましたが、自分を育ててくれた郷里への恩返しも出来、「回想録」を書き終えてからの一年間は病魔と闘いながらも、自らの死期を悟り人生を達観して、最高の日々を送っていたのだと思います。

掲載省略:写真〜米寿の祝いに弟妹と共に〜最後の写真となる(平成4年5月4日)

 ―― 辞世の歌 ――
  父祖よりの開拓記録遺さむと
      書き綴り居り終末近し

  秋の陽の寂けき日昏れ見とれつつ
      わが終焉を想ひて居たる
             和田耕人

  託された遺志

 そして平成四年七月二十六日に永遠の眠りへと旅立ち、原稿用紙一八二六枚にも及ぶ回想録の発行が遺言の形で私たち兄弟姉妹に遺されました。家督を継いだ私としてはそのあまりにも膨大な原稿用紙の山にたじろぎ、また酪農という三六五日休みのない家業、公職や団体の役員、地域活動などで時間に追われる生活の毎日で、取り掛かる切っ掛けがつかめず、ただ時間ばかりが容赦なく過ぎ去っていました。
 そうこうしているうちに没後二十年が経過してしまい、このままにしていては何時までも発行が出来ないと思い、意を決して平成二十六年にやって来る父の「二十三回忌」をタイムリミットと定めて、その前年の平成二十五年の年賀状に「来年の父の二十三回忌には皆さんに父の遺した回想録を届けます」と宣言して、自らにノルマを課したのでした。
 その前年の秋、中学校の恩師本郷実先生が七十から俳句を始め、喜寿の時には句集を出版したことに啓発されてパソコンを購入し、七十の手習いでパソコンの操作に格闘していました。そして二十三回忌の十五ヶ月前、平成二十五年のゴールデンウィークになって、漸く原稿の打ち込みに取り掛かったのでした。
 ところが始めては見たものの戦後に教育を受けた私には全く知らない漢字や語句、崩し字や当て字などが頻繁に出て来て、その都度漢和辞典や崩し字辞典、大辞林、パソコンの内蔵辞典などを引きながらの打ち込みではなかなか捗りません。
 また何分サラリーマン時代にガリ版刷りの文集しか作ったことがなく、本の発行など全く経験のない私は、浅はかにもパソコンに原稿を打ち込めば大半の作業は終わるものと考えていました。
 その上私は父のことをさっぱり知らなかったのです。つまり私が物心ついた頃には、父は公用などでほとんど家にはいなかったし、高校卒業後の大学とサラリーマン時代の十年間は上富良野から離れ、昭和四十五年四月より亡き兄英彦に代わって家業を継ぐためUターン(当時はまだUターンと言う語句はなかったと思う)し、家業を継いでからも時間に追われる毎日で、すれ違いの生活をしていてほとんど話などしたことがなかったからです。ですから事実の確認は次兄信彦、姉澄子の記憶にすべてを頼らねば作業が進めませんでした。そんなわけで父と言うよりはひとりの人物のノンフィクション小説の世界に引き込まれたような不思議な感覚にとらわれながら原稿と向かい合っていました。

 平成二十五年六月から常勤役員を引き受けることになった富良野地区森林組合にパソコンを持ち込み、業務の合間にややこしい操作は職員に教えてもらいながら原稿の打ち込みを半年あまり続けていました。
 ところがタイムリミットから逆算して進行状態を計算してみると、とても一人では手に負えないことが判りました。そこでパソコンの操作では一日の長のある石狩市在住の姉澄子と妹滋子に応援を頼んだのが十一月末でした。以来何度となくパソコンをリュックに背負って石狩市に通い、妹潤子も含めて姉妹の家族を巻き込んでの作業へと拡大して、それまでの平穏な生活からライフスタイルが一変し、大変な思いをさせることになってしまいました。
 編集構成には、かみふらの郷土をさぐる誌の発行に創刊号から携わっている土井義雄デザイン事務所の土井義雄氏に加わって頂きました。
 三月末、一八二六枚の原稿を漸く打ち終わり、最終原稿は最低限三月末までにとの約束にかろうじて間に合い、土井氏に石狩の姉宅に来て貰いデータをお渡し出来ました。

掲載省略:写真〜土井氏へ最終原稿データを渡す

 校正の第1稿は時間の余裕がないため、各章毎に印刷に廻しその都度校正をしていましたが、第2稿の校正となったゴールデンウィークに、上富良野の次兄信彦のログハウスに兄弟姉妹が集結して、土井義雄氏にも来ていただき、一週間缶詰状態で校正を行い、何とか約束の期限(二十三回忌)まで間に合う見通しが立ったのでした。
 当初子供や孫達が読んでも理解ができるように、現代使っている言葉や表現に直して打ち込んでいたのですが、原文のままでなければ歴史的な価値は薄くなるという助言をいただいたので、書かれた原稿のままに打ち直し、手間取ってしまいました。従って難しい漢字にはルビをふり、難しい語句には出来るだけ注釈をつけるようにしました。しかし、いくら調べても解らない語句や、私どもにとって恥ずかしい記述や稚拙な文章、他人の名誉を損ないかねない記述なども少なからずありましたが、当人達はすでにこの世にはいないことに免じてそのまま活字にさせてもらいました。

掲載省略:写真〜次兄所有のログハウスにおいて兄弟姉妹が集結しての校正作業

  回想録の発刊

 書 名 1905〜1992
        和田松ヱ門回想録
 発行者 和田昭彦
 発行日 平成二六(二〇一四)年七月二六日
 仕 様 巻頭写真 一六ページ
     本文(目次含む)六五三ページ
     A4版上製本一〇〇部 並製本三〇〇部

 この様な分厚い冊子になってしまったのには、大正十五年(十勝岳噴火の直前)から昭和六年(父の結婚の年)までの六年間は、当時書いていた日記をそのまま原稿に転記していたからです。一般の方々には読むに耐えないのではと思い、要点を太字でポイントも大きくして拾い読み出来るようにしました。しかしながらこの六年間はバラ色の青春時代であるべきながら、過酷な運命に翻弄された青春の軌跡として、心の動きが本音で細かく綴られており、興味をそそられる記述になっています。
 手術後の著述は余命を意識して端折って箇条書き調になっているため、父の遺していた新聞の切り抜きや写真、メモ帳などから転記加筆しました。
 また、父をより理解して頂くために、若林功著「北海道開拓秘録」の全文、自著歌集「噴煙絶えず」「富良野平原」の序文、上富良野町議会における短歌問題の顛末、富良野聖観音像建立の経過などを追録として掲載しました。
 一介の百姓でしかも学校へ通わなかった文盲の両親の長男として生を受けた父は、少年時代から父親の名代として大人の世界に入り、寸暇を惜しんで親しんだ読書から大正ロマンの思想を形成し、恩人として尊敬して止まなかった吉田貞次郎村長、梅田鐵次カ先生、加勢藏太郎先生、田沢義輔先生(古い座敷に肖像写真を飾っていた)から人格の陶冶を受けました。どっしりとして何時も雄大な景観を見せてくれている十勝岳連峰の佇まいに勇気づけられ、父親の放蕩によって二十歳そこそこで一家を背負って生きて行かなければならなかった過酷の運命が、不屈の精神を作り上げたのだと思います。
 ややもすると他人に厳しくあたり、周囲の人から理解されないことも多々あった様ですが、それ以上に自分には厳しく生きた父でした。そして忘れてならないことは、そんな父を何時も支え続けた弟妹たちと青年会の仲間達の存在でした。
 回想録は父より長生きした叔父や叔母、青年会の仲間だった人達に真っ先に捧げなければならなかったのですが、回想録が完成したときに健在だったのは江別の町村末吉夫婦だけとなり、大変申し訳なく思っています。願わくば子供さん(甥・姪)やお孫さんたちが大事に読んで頂ければと思います。
 最後に、表紙の題字を父が尊敬して止まなかった吉田貞次郎村長さんのお孫さんで書家の吉田久實子さんに揮毫していただいたこと、表紙の写真は十勝岳を撮り続けているアマチュア写真家の中谷秀雄さんが提供してくださり、一段と見栄えの良い回想録になりました。また編集構成に助言をいただいた土井義雄デザイン事務所の土井義雄様、野尻巳知雄様のお力によるところも大でした。
 ただ残念に思うことはもう一〜二年早く取り掛かっていたら、もっと良いものが出来ていたのではないかとちょっぴり悔いています。
 以上の原稿は「和田松ヱ門回想録」の序文の「はじめに」に私が書いた原稿に加筆して纏めたものです。
 発刊以来六年余りが経過し、いささか色褪せた感がしないでもない原稿となりましたが、町図書館に収蔵の「和田松ヱ門回想録」とともに読んで頂ければ幸いです。

  追  記

 平成三十年六月、東京のある出版社の出版企画部より突然次の内容の便りがありました。

「〜先日、和田様の著書『和田松ヱ門回想録』を北海道余市町図書館にて弊社営業の者が拝見させていただく機会に恵まれました。本社が東京にあるということもあり、未だ私は拝読しておりませんが、非常に興味深い作品だという報告がありましたので、ぜひ一度そのご著書を拝見いたしたく書面にてご連絡を申し上げたしだいです。〜」

 早速、その出版社に回想録を謹呈したところ、

「〜拝見したのは、故・和田松ヱ門氏が、晩年にまとめられたという回想録でした。〜その誕生から他界されるまで、実に八十余年の足跡を詳細に記したのが本書でした。〜単に個人の記録というだけでなく、上富良野の開拓史、町史のひとつの側面を示す意味でも貴重な記録といえるでしょう。
〜ただ、そうした記録として価値は十分に認められる反面、松エ門氏の事績を広く知ってもらうには、些か適さない著作と感じられました。まず、かなりの大部であること、またおそらく日記を基に詳細に語られているために個々の出来事の重要度がわかりにくいということがあります。そこで今回は、この回想録を基に、松エ門氏の節目となった出来事や、特に知ってもらいたい業績をクローズアップした伝記にまとめ直すことを、ご提案したいと存じます。さまざまな分野で地元に貢献されてきた松エ門氏の人物と事績を、端的に伝える一書にまとめていただければ幸いです。〜」

 以上の様な提案を頂いたのですが、もとより私にはその様な文才はありませんし、時間的余裕もないのでそのままになっています。

和田家先祖のルーツを訪ねる旅

 回想録のことが常に頭の中にあったものの、なかなか纏められずにいた頃、遺品の中に父が取り寄せていた先祖の戸籍謄本があったので、それをつなぎ合わせると「家系図」が出来上がりました。これまで私は先祖のことなど全然興味などなかったのですが、先祖を辿ってみると岐阜県の郡上八幡に辿りつきました。そして元々の姓は「林」であったが、祖父母家族で養嗣子として和田家に入ったことにより、以来「和田」を名乗るようなったことが判りました。
 遺された住所録の林家へ電話をしてみると、御子孫の林克己さんとお話することが出来ました。そこで是非、郡上八幡を訪ねて見ようということになり、兄弟姉妹、叔父叔母、従兄妹に呼びかけたところ十六名が参加してくれることになりました。

【第一回和田家先祖のルーツを訪ねる旅】
   平成十五年八月十二日〜十五日

 初回は先祖のお墓参りを主に、日本三大公園の兼六園、世界遺産の白川郷、八幡町・朝ドラ「さくら」の舞台となった高山、古川の古い街並みを散策するコースを企画しました。
 林家は郡上八幡町の河鹿地区にあり、平安時代末期に平家の落人として郡上八幡の深い山奥に逃れて居を構え、同族内だけの付き合いが明治になるまで続いたらしく、現代まで屋号『九郎右衛門』として家系が伝えられていました。お墓は住宅の近くの大きな木の根元に築かれていました。町から程遠く子孫たちが何百年も守り続けたこの地で、これから何時まで頑張ってくれるだろうかと話していました。

掲載省略:写真〜懇切に対応くださった林 克己氏

 また、近くには聞信寺跡が有り、小さな集会場だけが残っていました。一族の菩提寺だった聞信寺は大正時代になって維持が困難となり、祖父〔和田柳松〕らによって住職門上晴雲氏を上富良野に招き、上富良野で同名のお寺として開寺したという経過があります。
 今回のルーツを訪ねる旅のメインの林克己家訪問と郡上八幡町の小森町長さんへの表敬訪問と、有名な郡上おどりの徹夜おどりを見るために、会場まで二〜三分で行ける旅館備前屋に宿をとりました。徹夜踊りは盂蘭盆の前後四日間午後八時から翌朝の五時まで踊り続けるもので、宿から何度も往復しながら会場へ見物に行きました。当夜は午後十時頃からぽつぽつ雨が降り出し、真夜中には土砂降りとなったけど中止することなく続けられ、終了間近ずぶ濡れになった若い女性が、宿へ帰って浴衣を乾かして今晩また踊りに来ると言っていて、さすが四百数十年も続いている伝統の行事なのだと思いました。
 白川郷で泊まった民宿は昔の我が家の間取りに似ており、曽祖父が岐阜県での昔の間取りを参考にして、買い求めた土地内の木を伐採して建てたのだと判りました。

掲載省略:写真〜第1回和田家ルーツを訪ねる旅〜和田兵九郎・柳松の生家林克己家
掲載省略:写真〜岐阜農林の援農学生の大坪氏と郡上八幡町小森町長に表敬訪問


【第二回和田家先祖のルーツを訪ねる旅】
    平成十八年八月一日〜四日

 第一回のルーツを訪ねる旅から帰って改めて家系図と地図を見てみると、曽祖父母・祖父の生地郡上八幡と、祖母の生地福井県上庄村、母の先祖の地石川県鳥越村が、直径百キロの円に入り近くにあることが判りました。祖母の生家の林家は真名川ダムの底に沈み、現在は大野市に移住していましたが連絡が取れたので、今回のルーツを訪ねる旅は、先祖全部のお墓参りをすることにしました。
 ところが母の先祖の鳥越村は現在合併で白山市となっており、母の実家上富良野の北川家では十数年前から音信が途絶えているということで、全く連絡の取りようがありませんでした。そこで静岡にいる弟保彦に現地へ行って探す様に頼んでいたのですが、何度か行ったのだけど手掛かりが掴めないと言うことでした。出発までひと月足らずとなった七月始めの夜、突然弟から電話が来て、北川家ゆかりの家に来ていて、お墓を北海道に持って行って下さいと言われていると言うのです。しばし私は電話の向こうで何が起こっているのか理解が出来ませんでしたが、順序立てて聞き直して漸く理解出来たのでした。
 それは大雨で川が氾濫して墓地が流されたので、石川県庁で砂防工事のためお墓をふもとに移転することになり、県庁の職員がお墓の持ち主と移転交渉を進めていたが、北川家だけが持ち主が判らずその子孫を探していたが、明治時代に一家で移住した北海道の漁(いさり)村(現恵庭市)の役場が火災で戸籍が消失してしまい判りませんと言われ途方にくれていたそうです。そんな時白山市鳥越支所に北川家の親戚に当たる人を知っているという職員がいて、母方の西田家に墓守を依頼して一家は北海道へ行ったと言うことが判り、その子孫の直井家にたどり着いたのでした。かくて県庁と直井家でお墓の移転保障契約が成立し、移転補償費を受け取り既に基礎工事までが終わっていたところに、漸く直井家を探し当てた弟が訪ねたのでした。

 以下直井洋子さんのお話です。

『〜県との間で移転保障契約を結び、町が計画している墓地に新しいお墓建てる企画で事を進めていたところに、七月八日突然和田さんという方が尋ねてこられ、対応に出た主人に直井洋子さんおられますか、和田というものですが、北川家のお墓の件で≠ニ言うか言わないうちに、主人もいきなり北川乙次郎さんの子孫ですか∞はいそうです∞どうぞ入って下さい≠サの場に私が呼ばれ何の疑いもなくどうぞどうぞと部屋に迎入れておりました。前もって連絡があったかのように、不思議な時間の経過でした。
 和田さんが話されるには、静岡県(弟の居住地)より母方の先祖のルーツをたどって昨日別宮出町へ行き、お寺の僧侶に北川家のお墓がどこにあるかたずねましたが、判らず諦めて親戚のある岐阜県に行き、今日改めて出直して来ました。鳥越支所で話をし直井さん宅を教えてもらいました。
〜私はてっきりお墓の移転の話を耳にして、我が家を尋ねて来られたものと思っていましたが、この時期偶然に来られたのです。
 さらに不思議なことに、こんにちは≠ニ来られたのが、お墓の件について一切をお願いしてある業者の方で、お墓に刻む文字の最終確認のため来られたのです。七月二十日には町のお墓整備も終わり、新しいお墓が七月末には完成する矢先のことでした。県は土曜日でお休みでしたが、土木次長の個人宅に電話をし我が家に来てもらい、これまでの経過を、県より子孫の和田さんに説明して頂きました。
 奇しくも皆が一同に会い話し会えたことが感謝でした。北海道に先祖のお墓があるということで、お墓の建立は取り止めにしました。
 み教えの中で「宇宙一切、必然にして偶然なし」と教えて頂いておりますが、主人も私も大変びっくりし感動いたしました。私にとってご先祖が子孫の元において供養して頂けることは、何よりうれしい結果となりました』

 このような偶然というか奇跡的な出会いによって石川県でのお墓の建設は中止され、先祖の霊を上富良野に持って来ることになりました。

掲載省略:写真〜石川県白山市鳥越のソトの実家北川家 100年以上も北川家の先祖の墓守をして呉れていた西田家のご子孫と西田悦子さん直井豊・洋子さん、石川県庁の方

 このような訳で第二回のルーツを訪ねる旅は和田家の先祖の三県にまたがる三カ所のお墓参りをすることになり、十六名が参加してくれました。
 直井家は小松空港から三十分余りのところにあり、鳥越支所の職員も出席して下さり、先祖の遺骨を受け取り、旧墓地跡へも案内して頂き、新しく出来ている西田家のお墓にもお参りしました。
 祖母の生家は真名川ダムの底に沈んでおり、子孫の林家は大野市内に移住していました。生地のあった辺りに案内してもらい、ダムの管理事務所の職員が説明をして下さいました。その後、市内の最勝寺の境内にある先祖のお墓にお参りをしました。
 郡上八幡町は旧郡上郡の七町村が平成十六年に合併していて郡上市八幡町となっていました。前回参加していない人もいたので、まず林克己家を訪ねお墓参りをして、前回と同じ旅館備前屋に落ち付きました。午後、街並み散策のグループと分かれ、私と姉と町村の叔父は戦時中上富良野に援農に来ていたと言う大坪宅を訪ねました。
 夕食後、郡上おどりの会場は大河ドラマに出ている山内一豊の妻千代の生地で「山内一豊夫人の夕べ」として千代の誕生日八月二日に毎年城山公園の会場で行われ、私たちも輪に加わりました。
 翌日は今回のもう一つの目的であった江戸時代の蘭学者林羅山が日本三大銘泉の一つに挙げていた下呂温泉の下呂まつりに合わせて今回の日程を決めていました。温泉も勿論良かったけれど、夜のミュージカル花火は、花火の破裂音と大音響でスピーカーから流れるオペラのアリアなどのメロデーが谷間にこだまして物凄い迫力の花火大会でした。
 帰路はこれまで利用したことのない富山空港から飛び立つことにしていましたが、日本旅行の都合により直前に愛知県常滑市の中部国際空港から離陸となりました。
 そして、上富良野に戻って北川本家の兄弟達が力を合わせて、新しい「北川家先祖代々之墓」を建設することができました。

掲載省略:写真〜石川県から移設した北川家先祖代々の墓碑


【第三回和田家先祖のルーツを訪ねる旅】
     平成二十二年九月三日〜七日

 第三回のルーツを訪ねる旅は、かねがね行って見たいと思っていた「おわら風の盆」と郡上踊りの最終日に合わせた行程を企画し、十八名が参加してくれ、千歳空港から富山空港着発の四泊五日の旅になりました。
 風の盆は会場近くに駐車場が無く路上に駐車するなど、四月のうちに貸し切りバスの駐車料六万円を前納しなければならないことになっていました。
 また、四月始めに八幡町の旅館備前屋に予約をいれたところ、もうすでにいっぱいで空き室がありませんということでした。とろが翌日、女将から電話が来て、先客にキャンセルさせて貰ったので、是非泊まって下さいと言われ、大変恐縮したのでした。
 第一日、富山空港に降り立ち、昼食・夕食を挟んで「八尾おわら資料館」などを見学しながら待つこと六時間余り、漸く風の盆の踊りの行列が近づいてきました。どちらかと言うと郡上踊りが「動」に対して、風の盆は「静」の風情で、胡弓が奏でる哀愁を帯びたメロディに合わせて、涼しげな浴衣に編み笠の間から顔を覗かせて踊る姿は、優美で幻想的な世界へと引き込まれるようでした。また、街灯が灯っていながら虫が全く見られなかったのが印象的でした。そして近くに宿が無いため南砺市五箇山の民宿に着いたのは夜中の十二時近くになっていました。

掲載省略:写真〜おわら風の盆

 翌日、世界遺産相倉合掌造り集落のガイドをお願いしていたのですが、当日は集落総出の防火訓練日ということで案内はして貰えませんでしたけど、年二回の貴重な防火訓練を見ることが出来ました。見晴らしの良い高台にはマニアのカメラマンが多数三脚を並べていました。
 午後、郡上八幡に移動、先祖の林家を訪ね墓参りをした後、旅館備前屋へ着き、特段のご配慮をして下さったことに丁重にお礼を述べました。
 夕食後、郡上踊りの「踊り終い」の会場に行き踊りに加わりました。午後十一時に終了が告げられ、郡上市長が三十三日間全日程に参加した人が三人いたことなど、お礼の挨拶で終了しました。

掲載省略:写真〜五箇山防火訓練
掲載省略:写真〜郡上おどり〜屋形を中心に徹夜踊り

 三日目は町並み散策のグループから別れ、わたしと兄と姉は古地図を頼りに曾祖父母が養嗣子に入ったという和田家の所在地を探したが、現在は県道となっており家は跡形もなくなっていました。近所にあった和田という家四〜五軒訪ねたがゆかりの家は見つかりませんでした。
 明治三十六年、上富良野で現松浦こうじ店のあたりで味噌醤油工場を始めたと回想録にあったので、もしや「鶴瓶の家族に乾杯」に出ていた「和田味噌店」に関係がないか訪ねたが、開業が七十年前と言うことで、結局和田家の職業は今も判らずしまいです。

掲載省略:写真〜旅館備前屋の前で集合写真

 午後、福井県の祖母の子孫の林家へ行き、菩提寺の最勝寺でお墓参りをして、真名川の底に沈んだ元林宅あたりを経て、大本山永平寺の宿坊に入った。時間が遅かったのですが、叔父が半年前まで永平寺の総代を務めていたためか、修道僧の入浴時間を遅らせて、私たちに入浴の時間をさいて下さいました。
 翌日、早朝三時に起床、長い長い階段を上って朝のお勤めに参加しました。午前大本山永平寺内を見学して、午後越前市に移り、旧武生市の町村家の菩提寺(前田利家と同じお寺)の境内にあるお墓にお参りして、姉の嫁ぎ先の中富良野町本幸の安井家の先祖の御子孫宅(越前市旧朝日町小倉)を訪ねる。その後、越前岬、東尋坊を経て、最後の宿泊の地芦原温泉「まつや千千ゆうゆう館」に宿泊。
 最終日、奈良、鎌倉とともに三大大仏の一つ高岡大仏を拝顔し、聞信寺の現住職の実家である射水市の石丸山光正寺にお邪魔してお話を伺い、午後富山空港を飛び立った。四泊五日の強行スケジュールのルーツを訪ねる旅でした。

掲載省略:写真〜永平寺前で
掲載省略:写真〜聞信寺住職生家「光正寺」前で


【明治渡道後の足取りを訪ねて(第一回)】
     平成二十六年九月三日〜四日


 「回想録」が漸く完成してほっとしたところで、明治時代に北海道に渡ってからどのような経路を経て上富良野に辿り着いたか、その経路を巡り当時お世話になった人の御子孫や親戚の御子孫に逢えたら「回想録」を差し上げようと、平成二十六年九月三日北海道で最初に行ったという由仁町の役場前で、私と札幌・石狩組の兄弟姉妹と落ち合いました。
 まず、由仁町役場の戸籍係へ行き、明治二十八年渡道最初の地由仁で訪ねてお世話になったという、岐阜県人のコウヤ久太郎氏、畑中良太郎氏の御子孫が現在も由仁にいないか探してもらったけれど、それらしき家は残念ながら見つかりませんでした。

掲載省略:写真〜由仁町役場戸籍係窓口で

 次に明治二十九年春、二度目に移住したと戸籍謄本にある南幌町へ行き、当時の住所名の空知郡幌向村南十八線西十一番地は今もそのままの番地が使われており、現在は白倉さんという農家が営農をしておりそれらしき土地は確認出来ました。

掲載省略:写真〜幌向開拓地の現状(上)と現在の住民(下)

また、三百間ほど離れた所にいたという曾祖父の後添えとなったつな≠ニ祖母はる≠ェいたという幌向村南十九線西十四番地もすぐ近くにあったが、林弥三郎家は昭和になってから苫小牧駅前に移住し、雑貨・新聞店を始めました。
 次に、大正十一年松ヱ門十七歳の時に、父柳松ら四人で美唄の原野を五十日程掛かって二十町歩を開墾したという土地を探しに美唄へ行きました。何でそのような遠隔地に土地を所有していたのか今となっては知るすべもなかったが、だいたいの位置は判った。富良野盆地の山に囲まれたところで生まれた父にとっては、地平線に夕日が沈む光景は感慨もひとしおだったようでした。
 第一日目の行程はここで打ち切り、石狩市の安井宅に泊まることになりました。
 二日目、二度目の開墾した幌向の土地は収穫直前に石狩川の氾濫で畑は流失してしまい、明治三十年年末、岐阜県人の杉本精左ヱ門を頼って、三度目の移住地として深川村字メム三号線山二線に移住しました。
 深川市の戸籍係へ行って調べましたが、杉本家の所在はここでも判らず残念でしたが、住所表示は今も変わっておらず、その地名には松島一さんという農家が営農しており、明治に曽祖父が開墾したという土地は確認出来ました。
 明治三十二年、十勝線が旭川から上富良野まで開通したことを聞き、かくて渡道5年後の明治三十三年四月、新天地上富良野に移住し、上富良野村東一線北一四三番地(現安藤苗圃)に居を構え、島津農場の小作人となりました。二年で二戸分十町を開墾しましたが、明治三十五年春、東三線北二十七号(現石川宅前)に三戸分十五町歩を購入することが出来、移転して住宅を建築しました。大正七年に住宅を解体して、そっくり現在地の東三線北二十六号に移築し現在に至っています。
 上富良野を永住の地と定めてから今年で一二一年が経過しました。

掲載省略:写真〜深川市役所戸籍係での調査(上)曾祖父が開墾した土地を背景に(下)


【明治渡道後の足取りを訪ねる旅(第二回)】
     平成二十六年十月十八日〜十九日


 その後、住所録を調べていると、私たち子供の時になってからは全く交流がなかった祖母はるの兄弟の子孫が、現南幌町で現在も農業を続けていることが判ったことと、回想録のなかで父の従姉妹が嫁いだという上村家を探すために岩見沢市と南幌町を訪ねることにし、十月十八日岩見沢発祥記念公園で札幌石狩組兄弟姉妹と落ち合いました。
 父の従姉妹のご主人は昭和十一年に昭和天皇が北海道行幸の際に、「お召し列車」の機関士を務められたということで、父にとっては遠い親戚ながら誇らしかったらしく、札幌出張の折には度々お寄りして泊めてもらったことが回想録に書かれていたので、是非とも御子孫に回想録を届けたいと住所録を頼りに探しました。
 全く面識がなく「うえむら」さんと尋ねながら探していたのですが、四〜五軒尋ねたところで、「うえむら」さんはこの辺にはないけれど、「かみむら」さんと言う家は向かいの家ですよといわれて、訪ねてみると探していた「上村」さんの家でした。お邪魔してお話を伺うと、この岩見沢の実家は次男の方が継ぎ、長男の方は札幌へ移住したけどすでに亡くなっていると言われ、その子供さん(甥)なら札幌にいて電話番号を聞いているのでと言って、住所と携帯番号を教えて下さいました。
 その後、南幌町に向かい、祖母はるの兄弟の御子孫宅を探し、現在も農業を続けている3戸の林さんを訪ねお邪魔してお話を聞かせていただき、回想録を差し上げて来ました。その日は遅くなったので石狩市の義兄安井宅に行き泊まりました。岩見沢で教えていただいた上村さんの電話番号を、私の携帯に登録しようと番号を打ち込むと、何ともう既に登録してある番号だったのです。
 翌朝、上村氏のアパートを訪ねると、良く存じている方で、元北海道新聞社富良野支局長の上村英生きる氏で、その当時は本社校閲部長になられている人でした。富良野支局長時代には、兄の信彦や私の活動の取材で何度も会っている人だったのです。全くの奇遇で話が弾み、上村家でも歴史をひもといた「上村家の歴史」本を作成してあっていただいてきました。

掲載省略:写真〜上村英生氏と共に

 その後、第三回ルーツを訪ねる旅に参加してくれた川島育子(旧姓石川)宅にお邪魔し、番地が直ぐ近くで、私の別海時代の雪印乳業西別工場の上司で九十歳を過ぎても毎年木版画の年賀状を下さる牧安邦氏を訪ね、私たちの結婚式に来て下さった時以来、年賀状だけのお付き合いだけだったのですが、四〇数年ぶりに再会し当時を忍ぶことが出来ました。
 こうして、多くの新たな成果を得て、和田家先祖のルーツを訪ねる旅≠ニ明治時代の渡道後の足取りを訪ねる旅≠ェ終わりました。

機関誌      郷土をさぐる(第38号)
2021年3月31日印刷      2021年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀