上富良野に生きて(四)
倉 本 千代子 (九十二歳)
前号から続く
転機が来て
昭和二十一年三月三十日、父西口幸作が亡くなった。その頃には母子家庭と言う表現はなかったと思うが名実共にそうなった私達家族は、明日からどう生きて行けばいいのか「我が道を行く」に徹していた私も流石(さすが)に途方に暮れた。私は何をすればいいのか、どうすべきかを考えた時に、先ずは弟(西口 登)を高等科に入れよう、そして私は青年学校を修了しなければ、「まァ何とかなるか…」。いつもの判断だった。
五月中旬、家族の反対を押し切って進学、弟は払い下げの軍服をリフォームしたブカブカの上衣に、帯芯(おびしん)で手縫いのリュックを背負い、薪を削ったり弟独自の工夫で作った、当時若者の間で流行していた足駄(あしだ)に、葡萄(ぶどう)蔓(づる)の鼻緒(はなお)と言うスタイル、勿論私も下駄履(げたばき)だ。
なんとも風流なアベック(男女の二人連れのこと)で新たな出発だ。
そして昭和二十二年、高等科が改称され上富良野中学校となり、弟は第一期中学生になった。(編集注:昭和十六年四月に、それまでの小学校尋常科・高等科が国民学校初等科・高等科に、さらに昭和二十二年四月に初等科は小学校に、高等科は中学校に教育制度改正が行われた)
また、まるで私の思いに呼応するかのように青年学校も統合され、改修された島津会館(現在の図書館の位置)で、月一度、全町から向学心に燃える若者が集まり勉学に励み、校友会という互助機関をつくり夜遅くまであれこれ議論を交したり活気があった。旭野からの生徒は私だけだったので、高等科当時同様、暗い夜道を一人とぼとぼ歩いた。
弟の足駄も十日もすると下駄になり、更に十日もすると草履になっている状態、加えて食糧も充分ではないので麦や豆混じりの粗末な弁当なのに、不平不満を言うでなく、愚痴をこぼすでもなく只々真面目で成績優秀な生徒だったので、私の判断は間違いなかったと安堵したものの、私自身の行き先は何も見えていなかった。
高坂さんとの出会い
昭和二十一年二月、戦後の世の中は活気がないため若者の奮起が期待されていて、青年自体も活躍の場を工夫しながら自発的に活動している中で、たまたま昭和二十年十二月の選挙制度改正に基づいた戦後初の国政選挙と地方選挙が行われることを知った。昭和二十二年四月の統一地方選挙に向けて「我々青年は何をすべきか」をテーマに意見発表を行うことになり、各地域から志ある若者が上富良野劇場に集い、超満員の聴衆を前に声を張り上げた。その時高坂新三郎さんに直接会った訳ではなく、その折に選挙に備え応援弁士を求めて来ておられた高坂さんのお目に留まったのが縁で、そこから私の人生の総てが決まったと言っても過言ではなく、今あることに感謝するばかりである。
この時の、今日で言う選挙ウグイス嬢としての経験を「選挙こぼれ話」として、先に寄稿させてもらっている。(編集注:郷土をさぐる誌第三十号に掲載)
高坂(新三郎)さんは、病死した父の同業者(馬追)だったこともあったのか、その後も何かにつけて私達家族に気配りをしてくれて、私が役場に就職したのも高坂さんの勧めだった。なお、高坂さんは昭和二十二年四月〜昭和三十二年六月(逝去)の間上富良野村・町議会議員を勤められた。
役場職員としての五年間
昭和二十三年六月、私の将来に関わる記念すべき時が訪れた。夢にも考えられなかった村役場に勤務することになり、ここから本当の人生が始まった。
しかし、戦後の社会情勢はまだまだ厳しいもので、食糧や衣料事情も何一つ好転せず、二十歳の私はいまだおさげ髪で素足に下駄履き、男物を改造した黒の上衣に配給になった木綿絣(かすり)で手縫いのモンペズボン、これも手縫いの帯芯で作った斜め掛けバッグと言ういでたちで、通学の弟と二人カラコロカラコロと歩いての通勤だった。覚悟のような、使命感のようでもあり、昨日までとは異なるもので、やっと願いが叶った達成感のようなもので身も心も引き締まるのを感じた。
当時の役場はワンフロアーの板敷きで、入口から続く真ん中の廊下を境に右側は土木、建築、産業畜産係、森林組合、土功組合が同居、左側は収入役の窓口があり総務、税務、教育、統計、衛生係に助役の席もあり、村長室だけが別室で来賓室も兼ねており、保健婦は別棟だった。二階は会議室で、村議会開催中は緊張したものだった。当時の議員は正に地域の代表として貫禄があったので…。
職員のスタイルもいろいろで、背広を着ているのは村長(田中勝次郎氏)、助役(北川與一氏)、収入役(新井與一郎氏)、他数人で、払下げの軍服や乗馬ズボン。女性も和服の人もいたり、履物も下駄に草履、ツッカケ、スリッパ等々革靴はほんの数人で、板敷の床なので誰かが歩くたび色々な音がして、慣れてくると今誰が歩いたのか聞き分けることが出来た程だった。
電話も村全体でも五五番の駅が最後で、役場も一番と二〇番(各課に子機はあったが)なので、特に二〇番は壁掛けとなっていたので席を立たなければならず、加えて直通ではなく、当時は郵便局に電話交換手と呼ばれる女性職員がいて、相手の番号を伝えて取り次いで貰うという面倒な仕組みになっていた。
助け合いの生活
収穫の秋と共に納税の時期がやって来るので、担当の係は忙しくなる。課税台帳も納付書も手書きで先ずは読み合わせ、そして検算が必要なので、「算盤(そろばん)集合」に私もお呼びがかかり、そんな時に小使(こづかい)の小父(おじ)さんが作ってくれるサツマ芋の天丼が美味しかったことを今も思い出す程だ。夜業で遅くなった時は、高坂さん(前述)宅に泊めて貰ったり同僚の家だったり、各々は決して裕福だった訳でもないのに、お互いに助け合っていた。
私は建築係から保健衛生、産業、教育係と担当が変わったが、保健係の時には年に一度の学校児童の身体検査があって飛沢先生(医師)のお供をして各学校を廻るのもやり甲斐があった。中でも里仁小学校が印象に残っていて、列車で美馬牛駅まで、そこからは歩いて学校まで行く。途上の先生の話は不思議な魅力があって、私は多くを学ばせてもらった。ところがこの時、歴史に残る八町内の大火が起きたのだ。夕方の列車で戻るとまだくすぶっていて、列車は駅構内には入れず街外れで下車、線路上を歩いて改札口を出た。私は役場女子職員と合流、炊出しを行ったように記憶しているが、いまだ火元も判明していないと言う歴史に残る大惨事だった。
編集注 八町内の大火とは
昭和二十四年六月十日午後四時十五分頃、突然市街地八町内(現在の栄町一丁目)の一角から出火し、不運にも折からの風速二十メートル近い強風に煽られ、忽ちにして風下一帯は火の海となり、地元消防職員・団員と美瑛町・中富良野村・富良野町消防各隊の応援を得ての必死の消火活動にも及ばず、上富良野開拓以来の大火災となった。
罹災者数:四八戸 二〇六名
焼損棟数:一一二棟(農業協同組合施設を含む)
焼損面積:二一九三坪(約七二三八平米)
損 額:一億八五〇〇万円
掲載省略:図〜八町内大火罹災区域表
産業係へ〜支庁に十万円の受取りに
ここでの仕事も万事屋(よろずや)だった。昭和二十年に戦災引揚者(樺太と東京からの十四戸)が開拓農家として静修地区に入植し、昭和二十二年に開拓農業協同組合(十六戸、組合長 松ヶ枝(まつがえ) 毅さん)が発足していた。当時「農業五か年計画書」を村内の全農家が作成することになり、開拓農家も例外ではなく、その仕事を命じられ現地に向かうため自転車で出発したが、慣れているとは言えちょっとやそっとの道のりではなく、やっとの思いで到着したのは意外な場所だった。そこは急斜面の痩(や)せ地で短い笹薮に細い立木がまばらで、素人の私が見ても「こんな土地で作物が収穫出来るのか?組合の人達は今後に希望を持てるのだろうか」と先ず心配になった。そして私自身も担当職員として何が出来るのだろうかと。帰路のペダルの何んと重かったことか…。
翌年の春、国から補助金が交付されることになり、受領のため上川支庁への出張を命じられた。金額は十万円とのことで、これまでに見たことも聞いたこともない額なので、リュックを背負いボストンバッグを借りるなど、重大な責任を担って出かけた。ところが、交付されたのは十五糎程もあっただろうか、一個の札束をリュックに入れると僅か底の方にストンと落ちて、私は『これが十万円かー』と拍子抜けするやら、自分の無知さにあきれるばかりだった。
それでも、夢も希望も持てないようなあの場所で敢えて開拓に立ち向かう人達の生活の糧(かて)であり、心の支えでもある資金を背負ってきたんだ、と思うことにしたが笑い話のような真実だった。
掲載省略:写真〜上富良野村市街地航空写真(昭和22年頃 米軍機撮影):「昭和11年頃の街並みと地区の家々 郷土をさぐる会誌第15号別冊(1998年発刊)」から
静修開拓に係わる逸話
開拓農協に係わる後々の、思い出があるので、ここに書いておくことにした。
昭和二十七年十一月に結婚して翌々昭和二十九年三月末で退職したのだが、当時は既に開拓農協は解散したものと思っていた。それから時が過ぎた平成十年、町の開基百年事業の一環として何かをしようと考えた時、町の発展に力を尽くしてきた男性を支えた女性に光を当てたいとの思いに至り、仲間を募って三年がかりで取材等を続け、『かみふらの女性史』を発刊し、満足とまでは行かないながらも、ド素人のメンバーにしては良く頑張ったなーと、あの頃を思い返す。
その中で、今は長男家族と日の出地区にお住いの「田中きよ子(記念写真の田中兼雄氏の妻)」さんの取材寄稿で、静修開拓の写真で見る住まいや文中に記された生活の様子など、私の幼少期と連なるものがあり、文中の至る所の「子供達に助けられた」と言うくだりには涙した。以来ずーっとその写真の記憶だけが残り、どこで目にしたのかが思い出せずに、あちこち探しながら、もやもやしていたところ、意外にもこの『女性史』に掲載のものと判明した。
その後田中さんにお会いしないまま経過したが、息子さんや娘さんに当時のことを伺って見たいと思ってはいたが…。
掲載省略:写真〜静修開拓10周年記念 昭和29.9.10(田畑保氏提供)
一大事勃発〜旭野小学校教師への要請
職場にも人にも慣れて、やり甲斐を感じ始めた頃一大事が起きた。旭野小学校の教師になって欲しいと、部落の村会議員を先頭にお偉いさんと言われる面々が、田中村長に陳情に来られたのだ。その条件としては、部落で住宅を建て、弟を大学進学から教師の資格を得るまでの生活費を保証すると言うことで、心動かされるものだった。その日の帰り道、偶然に会った校長と話をするうち給料の額を聞かれ、当時の役場の初任給は一〇八〇円だったのでそう伝えると、校長は血相を変えて「そんなはずはない、学校ではとてもそんな額は出せない」ときつい言葉である。給料の額は兎も角、この校長ではとても共にして行くことは出来ないと判断、それに弟の将来を担保にするようなことも望まないので断ることにした。村長は「役場も学校も村の仕事に変わりはないのだから君の判断でいい」と言ってくれた。私は安心して『ずっと役場だ』と決めた。
そして課題になっていた農業五か年計画書作成を手掛けることになり、悪戦苦闘が始まった。「こんなもん難しくてわからんから書いてくれや」になり、断ると係長が「西口(編集注:倉本氏の旧姓)君!!そんなこと言ったら駄目だよ、書いてあげなさい」になるので、結果的には殆ど私が書いたようなものになった。お陰で部落ごとの氏名を丸暗記するまでになり、何かにつけて「〇〇さんは何部落だったい」と聞かれるようになっていた。
五月だったと記憶しているが、中富良野の富岡地区で大規模な山火事が発生した。東中倍本の奥地に及んだ為、当時土功組合で管理していた用水路があったことから被害状況を見に行くことになり、また「西口君行ってくれ」になった。東中市街で東中土功組合組合長の工藤倭平さんと合流すると言うので自転車で出かけたが、工藤さんは「なんぼなんでも、あんたしか来る人はおらんかったのかい…」と呆(あき)れるばかりだった。
私には自転車は体の一部のようなものだが…。しかしそこからが頑張りどころで、倍本を通って山道を登り現地に辿(たど)り着いたが、何が何だかわかるはずもなく、只々、大きな山火事だったことだけは実感できた。
そしてもうひとつ、前々から不思議に思っていたことが、ここで判明することになった。戦争中の馬の赤紙の件だ。そこには馬籍(ばせき)簿(人なら戸籍簿だ)があって、お上から「〇〇頭供出せよ」の命令が来ると、係長である〇〇さんが適当に選んで赤紙を発行していたことを知った。その後は何かにつけて抵抗感があり嫌いな人になったが、幸いなことに定期異動の時期が来て係を離れることになった。
教育係へ〜成人式の思い出
教育係と言えば、私が就職した年昭和二十三年の六月二十五日に一月十五日を「成人の日」に制定された。翌年が初の成人式ということで、担当者が私の生年月日を一日繰り下げる裏技で、この成人式に出席させて貰ったが、全員平服、上富良野小学校で式典、記念写真だけ、それも黒一色と言う質素なものだったが、気持ちが引き締まったのを覚えている。
青年団活動も続けていたので上川管内の研修会や、教育係になってからは事務担当者会議や研修にも出席させて貰っていたので、教育局の人達と交流もある中で、或る課長さんから「教育局に来ませんか」とのお誘いを頂き、私は住むところが見つかればと思っていたが、その課長さんが突然入院され、その後亡くなられたとのことで実現には至らなかった。
十勝岳登山での思い出
お盆が過ぎて、独身者のグループで十勝岳登山を試みることになり、土曜日の午後、男性九人女性四人で出発した。勿論徒歩だ。誰もが初めてのことで何の装備もなく、運動靴に麦わら帽子と言う出で立ちだ。当時吹上温泉と白銀荘の中間に勝岳荘というヒュッテがあり、それは富良野営林署が所有、管理する施設で、全て利用者が責任を持つ所なので、到着早々夕食の準備など男も女もなく楽しくもあったり、みんなで大わらわ。翌朝は六時出発と言うことで、誰がリードする訳でもないのに順調に事は進み、予定通り煙が出ている前十勝を目指して出発だ。
私はそこまでは登ったことはあるが、その先は未知の世界だ。当時はみんな歩き慣れているので順調に登れたものの、疎開者の女性はゴツゴツした岩を踏み外しては悲鳴を上げるは、急斜面では手を引いたり後ろから押し上げるなど大変だったが、みんなで助け合い何とか噴火口(編集注:大正火口のこと。昭和三十七年噴火前の登山コースは、大正火口の南側の尾根筋を前十勝経由で十勝岳を目指した)に到着した。
ひと息ついて改めて目にする火口は、日頃遠くから見ているそれとは全然違って、ゴーッと、またシューッと言う音が上がり、その底がどうなっているのか煙にさえぎられ見ることも出来ず、只々恐ろしいものだった。
小休止の後、頂上を目指すが、ここからが正念場になるので気を取り直して慎重に歩を進めるが、急斜面を這い上がる状態で、矢張り手を引いたり背中を押したり何とか全員無事に頂上制覇、一生に一度の経験だったが、みんなで万歳だった。
裏側(頂上の東側)にはまだ雪が残っていてスキーにも乗れそうだったので、チョット雪の上に乗って見たらそれが大失敗、ブレーキがかからず下まで滑り落ちてしまった。着地に失敗したなら骨折したかも知れないのに…。ひと握りの雪を舐めながら、何事もなかったかのように這い上がることが出来たが、誰一人心配した様子もなかったのが不思議だった。
下山は、上りとはコースを変えて、馬の背、大砲岩、三段山を経由することになった。
山は上りよりも下りが危険と言われるように、馬の背を通って旧噴火口側に降りる道は急な段差があったり、滑る石ころや砂利が足元を危なくし、例の彼女は悲鳴の連続であったが、みんなの連係プレーで全員無事に下山、最初にして最後の本格的な登山になった。
次の夏は竹の子取りに誘われ、矢張り土曜日の午後、自転車で出発。
現在の白銀荘の上手の広場から笹薮に入れば、そこはもう竹の子の宝庫で、這いつくばって目を凝らすと、見渡す限りの枯葉の中からチョコンと尖った頭が出ていて、なんとも愛(いと)おしいものだった。勿論、大収穫だったことは言うまでもないが…。
掲載省略:写真〜昭和25年8月十勝岳登山(後列右から4人目が私)
村から町へ
昭和二十六年八月一日、町制施行により村から町に昇格、記念式典が行われ正面玄関前で記念撮影をした。当時は職員数も少なく女子職員はほんのひと握り、みんな素足に下駄履きだ。何がしかの記念行事も行われたはずなのに、私にはその記憶がない。当時は畜産組合があって、馬喰(ばくろう)と言われる人が多くいたので、その人達の主催で草競馬が行われることになり、私はアナウンサーに頼まれたからだ。
当時は、神社の東側には一軒の家もなく総てが農地、中学校から上手(かみて)は伊藤馬喰さんの所有地でデントコーンが作付けされていたので、走路だけを刈り取って桟敷を組んで見物席や本部席、アナウンス席も一段高い所に設けられたが、コーンの背が高いので私は立ち通しで、「只今〇〇号が先頭に立っています」とか「〇〇号が一着でゴールです」みたいなことを言っていたような…。(四十三頁写真参照)
掲載省略:写真〜昭和26年8月1日役場正面玄関前で町制施行職員一同記念写真(前から2列目右端が私)
掲載省略:写真〜昭和26年8月1日町制施行の日に女性職員だけで(後列中央が私)
教育委員会が独立
昭和二十七年十一月、教育委員会法の施行により教育行政事務を独立させ、事務局を公民館に置くことになったので、私達担当者も引越すことになった。初代教育長は北川助役(北川與一氏)が兼任で、係長の酒匂さん(佑一・後に第七代町長。昭和五十八年八月~平成四年十一月)が事務局長、谷口さん(年配で無口、温和な人だった)、そして私の三人が移ることになった。当時の公民館は旧島津会館だった古い木造で、周囲は落葉松(からまつ)などが生茂る笹薮に囲まれた田舎だった。建物の一部は有線放送業務に使用されており、残りの内の半分は事務室と酒匂係長の住居に改築、他の半分は青年団や婦人団体などの活動の場になっていた。
昼休みには卓球場となり、酒匂さんはスポーツマンでもあったので、翌年採用された成田さん(政一・後に町収入役。昭和六十三年四月~平成五年三月)、給仕の林君に私を含めて指導していただいた。時には婦人会の人達とストーブを囲んで私が研修で学んだことの受け売りや雑談をしたり…。
酒匂夫人は料理が上手なので手料理をご馳走になったり、土曜日になると役場からも何人かが加わって屋外での焼肉だったり、少人数ながら楽しい職場だった。
掲載省略:写真〜昭和29年5月教育委員会事務局裏での仲良しの花見〜左から時計回り 谷口・倉本(夫)・成田・酒匂・酒匂夫人・西口(弟)・林・徳武(背中)
そして昭和二十八年六月、二代目教育長に、高等科の時から尊敬していた梅田鉄次郎さんが就任、同時に教育委員も錚々(そうそう)たる面々が選任され名実共に充実したものになった。私はここでも多くの経験を積ませて貰った。例えば教育局主催の研修会であったり、新規事業の説明、勉強会の多くに出席させて貰ったことだ。他の市町村からは係長以上の男性吏員の出席で、その中に女性一人ということが殆どだったが、私はそれを意識したことはなく、むしろやり甲斐さえ感じながら毎日が充実していた。
その頃弟は、高校に通いながら上富土建株式会社に勤めていたが、一日の欠席もなく卒業し、独学で二級建築士の資格を取得すると言う只々真面目人間だった。
ちなみに現在私が住んでいる我が家も弟が設計したもの(五十三年前のことになるが…)で、その弟も末っ子なのに平成二十六年の夏、突然にヘリコプターで病院に運ばれその後快復、退院前日の同年九月十八日に急死、真っ先に黄泉(よみ)の世界に旅立った。
掲載省略:写真〜昭和29年1月16日 教育委員会委員と職員
前列左から 金子委員、飛澤委員、海江田委員長
小林委員、林委員、梅田教育長
後列左から 倉本、酒匂、谷口、成田、林
山加農場を去った日
役場勤めが始まって五ヵ月、既に雪の季節になった昭和二十三年十一月半ば、急遽引越すことになった。これもまた以前から気にかけていてくれた高坂さんの計らいで、駅前で割烹料理屋を営んでいた伊藤さんが廃業された後の建物を村が借り上げ、引揚者の居住などを目的にするものだったが、その一室に住めることになったのだ。しかし、ここでも家族は大反対、農業以外の経験がない母を始め姉、妹の働き場がないというのだ。私はいつもの「何とかなる」で説得、遂に山加農場(編集注:開拓当初の農場名が、地名として現在まで使われている)を離れることになった。
私と弟はいつも通り早朝に家を出たが、もう戻ることはなく、移り住むことになった住居の入居者は役場、農協、学校その他の職員など様々で、我が家は二階の一室を改造した三畳の居間と床の間がついた四畳半の寝室で、炊事場とトイレは共同だった。
今朝出て来た家はどうなったのか、「大切にしていたものもあったのに…」と悔やんだりもしたが、今にして思えばどんなものでも、いつしか忘却の彼方へ行ってしまうものだし、思い出したからと言ってどうしようもないことだと「あきらめ」を繰り返して来たような…。と言いつつ一つだけ、忘れようにも忘れられないものがある。一本の桜の老木だ。そこに住んだ当時は気が付かなかったが、翌年の春になって花が咲き、それと気付き驚いた。いつ、誰が、この場所に植えたのか、幹は朽ち果て至るところ穴だらけ、上半分は傾いて川面にせり出ているのに、咲いた花の何と美しいことと言ったら、これ迄に見たこともない濃いピンクで大輪のものだった。やがて実をつけると、これまた大粒で黒光り、食べて見て二度吃驚(びっくり)、何もかもが初めてのものだった。
何のためにここに植えたのか?この場所に住んだ人がいたのだろうか?私があの場所を離れて七十年にもなるのだから、その面影さえも消え失せているだろうが、まだ忘却の彼方には至っていないものの一つでもある。
次号に続く
機関誌 郷土をさぐる(第38号)
2021年3月31日印刷 2021年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀