郷土をさぐる会トップページ     第38号目次

後世に語り継ぐ事業シリーズ
名誉町民 故石川清一の生涯 【前編】

郷土をさぐる会編集委員 本田 邦光 (七十七歳)

 はじめに
 「後世に語り継ぐ事業シリーズ」として、今回は「名誉町民 故石川清一氏」を取り上げることになった。筆者は石川氏が上富良野町農業協同組合長理事を務めておられたときに新採用として当該農協に勤務し、その後石川氏が農協を去られた後にも、伝記『石川清一』の編纂出版に関わった執筆者岸本翠月氏と、農協内の同じ事務室であったことから、郷土をさぐる会編集委員の私(本田)が担当して、この記事をまとめることになったのである。
 伝記『石川清一』(以降「石川清一伝」と書く)は、石川氏の遺蹟を後世に残すべく、岸本翠月氏(富良野沿線の市町村史や団体史、人物伝記等の多くに編集者として実績を持つ)に依頼し、上富良野町農業協同組合が発刊したもので、大量に残された随想集や著述をもとに、A五判三六〇ページにまとめられたものである。この一冊に石川氏の生涯が詰め込まれているのだが、膨大な記述の中から要約しながらピックアップし、「郷土をさぐる」の本号第三八と次号第三九号に前編・後編として紹介したい。
 なお、『石川清一伝』には、本人の著述として掲載している部分が多く、『私』や『父母、兄等係属』は石川氏本人を起点としているが、必要に応じて第三者視点で書き換えを行っているのでご承知願いたい。
一、石川家
1 上富良野に至る系譜

石川清一氏肖像
 この記事の末尾に、石川清一氏(以降失礼ながら「清一」と記す)に係わる家系図抜粋を掲載してあるが、あえて清一の父母・祖父母について書いておく。
父 石川 庄蔵─上富良野村字中富良野
  出生 明治 八年一二月二二日
  死亡 昭和 三年 四月二五日
母 石川アサノ(旧姓森本)
  出生 明治一二年 四月一四日
  死亡 昭和三九年 三月二五日

父方祖父 石川 鍋蔵─徳島県麻植郡山瀬村
  祖母 石川 スイ
母方祖父 森本伊代次
  祖母 森本 ウタ

 清一の祖父石川鍋蔵は、明治二十年に五十七才で死亡した。明治元年には三十七才、刀鍛冶を職業としていたが、御維新の帯刀禁止令によって失業、その後は野鍛治となった。
 祖母は子供一人ある祖父のところに後妻にきたのだが、大正十二年二月二十四日に死亡し、この時清一は十八才だった。
 父の石川庄蔵は、兄がいたため自由な身であったから回漕(かいそう)店(商船等を対象に問屋や物流手配などの幅広い業務)を経営していたが、そのうちに船で移住民を北海道に運び、帰りには鰊粕等を積んで帰る様になった。小樽、室蘭、函館と四国を結ぶ海の男でかなりの勢力を持っていたが、日清戦争(明治二十七、八年)が終ると一転して不景気になった。

2 清一の父母

 回漕店の経営が傾いたため、有珠郡伊達紋別に移住し、矢野家に奉公していたが、そのころ世話するひとがあって、森本米蔵の妹のアサノと結婚した。
 母アサノは、徳島県吉野川ほとりの川内村で二十七代もつづいている森本彦右エ門という素封家に生れ、ゆかりの神社も寺院もあり、そこには墓まで残っていたが、兄が事業に失敗して土地を売り、住宅と一町歩の水田だけとなってしまった。
 このため、兄に連れられて、北海道に渡り、有珠郡壮瞥村にきた。清一の父庄蔵と結婚届をしたのは明治三十三年二十二才のときで、昭和三十九年三月に八十八才で亡くなった。
 この当時は親の承諾がないと入籍できないので、結婚届前に生れてきた子供たちは森本アサノの私生子として入籍し、自由結婚のできる年齢に達してから嫡子として認知したのだった。
 その後、伊達や壮瞥にいた森本、石川、上田伊太郎、石橋利平の諸氏が上富良野に入植したので、父の庄蔵も上富良野に移住した。
 清一の父庄蔵は、北海道の開拓農民となってから一度も故郷の徳島県に帰ったことがなかったが、年来の宿願をはたして帰郷すると、がっくりと老い込んだ。昭和三年二月十七日のころ、危篤状態となったので、旭川の騎兵第七連隊に入隊していた清一を枕もとに呼び、兵隊検査にゆく羽織袴の士寿雄(清一の弟。三男)を立たせながら、一家の行く末を次男の清一に託す旨の言葉を残した。
 こうして間もない、昭和三年二月二十四日に往生を遂げた。
二、青少年時代
1 子供時代

 清一は、明治三十九年七月十五日生れで、清一という名は父がつけたのだが、徳島県出身者で岩井清一という人があり、父はその人を尊敬していたので、その清一という名をもらって上富良野村役場に出生届を出したという。
 清一の生れた東七線北十八号は、もとの中島農場を解放して個人の所有にした土地で、隣には中北亀蔵という子供のない夫婦がいて、清一をとても可愛がってくれたという。
 当時はどの家も同じようなもので、入口の右に小便桶がおいてあり、その入口には戸車もついていない戸があった。土間の左の下屋の方に収穫物をおき、右の方は鋸でたてびきにした床が、かんなもかけずに張ってあった。ガラスの入れてない窓が二つあり、カンレイシャを張っていた。
 井戸は裏、便所も外、風呂は井戸の近くで露天、そのままなのである。少年時代というよりも幼年期と言った時代の私の記憶はこの位しかない。(随想集から)

2 東中尋常小学校

 大正二年四月一日、清一は東中尋常小学校に入学した。学校は近かったので、よく知っていたから何の苦労もなく学校生活の中にとけ込んで行くことができたし、勉強の方も常に優等だったから、学校は清一にとっては非常にたのしい場所だった。
 先生については色々の思い出があるが、今もすぐ浮んでくる先生となると余り多くないということは、すでに忘れてしまったものも多いということである。
 学校の裏にあった池や、そばにあった坂道で雨が降るたび馬車がすべったこと、小さな川に鯉がいて、時々網ですくったことなど、東中尋常小学校とその附近における思い出はつきることがない。(随想集から)
3 夢のある少年

 少年時代から清一は夢を追う男と言われていた。天皇陛下がまだ摂政宮殿下であったころ、富良野線をお通りになって旭川に行啓されたことがあった。
 上富良野でも多くの人々が、この機会をにがしたら殿下(後に天皇陛下となられる)のお顔を拝むことができないというので、ひしめくように駅の構内に集った。
 中長豆の畑で除草をしていた清一は、「何も今日行かなくても、俺は将来出世して直接天皇陛下にお目にかかれるような身分になればよいのだ、なって見せるから見ていろ」と思ったそうである。
 この反骨精神があったからこそ、敗戦という非常事態の中から北海道議会議員になり、その後参議院議員に席を得、建設委員長の時陛下に直接お目にかかる日がきたのである。
 堂々と二重橋を渡ると守衛が「石川先生おいでになりました」と上司に報告した。この時ふと少年の頃を思い出したのである。(随想集から)
4 青年時代

 大正九年三月、清一は東中尋常高等小学校高等科を卒業した。学生時代が終って、すでに社会人になったというもののまだ十五歳、青年というより少年の面影がのこっていた。
 兄にかわって馬を使うようになったが、馬の手入れは余りすきでなかったという。一戸の家から二人も青年団にはいることは家庭の事情がゆるさなかったので、青年団には兄が出、清一はもっぱら農作業に精を出していた。
 しかし、小学校時代級長でとおした清一は、青年団にはいって、自らの修養もし、また幹部として活動したいという意欲は十分にあった。それは明治三十八年五月十五日生れの和田松ヱ門(清一は後に松ヱ門氏の妹と結婚し義兄になる。当時青年団活動で活躍)が、田沢義鋪という青年団運動の第一人者の主宰する「新政」という雑誌をとって読んでいるのを見ていたからである。
 私は、田沢先生の本を読むたびに心がおどったが、ついに青年団活動の中にはいることができずこの方はもっぱら和田松ヱ門の独壇場という形であった。(随想集から)
三、軍隊生活
 男と生れたら一生に一度どうしても受けなければならないのが徴兵検査であった。清一は、五尺三寸五分、十五貫六百匁、現役の召集はまぬがれて第一補充兵に廻された。
 当時、兄は十二月生れのため志願して騎兵隊第一中隊に入隊、上等兵になっていた。兵隊に行かなくてもよいので、兄が帰ったら満洲に行きたいと思っていたという。その後大正十五年十二月十五日、補欠として騎兵第二中隊に入隊をせよとの通知をうけた。このため十二月二十日に皆より十日おくれて入隊、騎兵隊で一番下の新兵であった。
 先に入隊していた連中は、どれもこれもが、上等兵になろうとして努力していた。調査の時、酒は少し、煙草も同じと答えたが、中には上等兵になるために自己をいつわって飲まぬと言っている者も多かった。
 清一も二十四名の上等兵候補者になったが、学科は二番、精勤章は三番でもらったが、学科の一番は一生文通のあった親友貝田信二であった。
 清一は、わるいことに軍隊関係の本のほかに、市町村便覧だの島田三郎の日本改造論や、民約論などを持っていたことが問題となり、社会主義者というありがたくないレッテルを張られてしまった。
 そのうちに、古兵が除隊し、新しい上等兵もでき、新兵がはいってきた。清一は石川古兵殿とか、陰連隊長とか称されるようになったのである。少年時代から野心家だったし、陸軍一等卒に甘んじながら、「俺を上等兵にもできない軍隊が日本を守ることができるだろうか。そんな軍隊では戦争に勝てない」と、反骨精神を燃焼させていた。
四、結 婚
1 和田氏と清一

 清一は、「和田君と私」という原稿を書いて上富良野新聞に投稿しようとしたことがある。この原稿は新聞には出なかったが原稿用紙に書いたものだった。長文になるが、随想集に残されているので、原文を一部省略して掲載する。
 大正十三年頃の冬であったであろうか。東中尋常小学校で、青年弁論大会が開かれた。
当時小学校を卒業したばかりの私は、まとまった人生への考え方もなく、社会はかくあるべきだとの強い信念も持っていなかったようであった。
 ただ、五十嵐農場での苦しい生活の中で、あえぎながら働いても働いても報いられぬ貧乏に、社会の矛盾と不平等に不平をならべながら不満をかこっていた。……
 その弁論会で、和田君に逢ったのが始めであった。その日は富原の伊藤告七君や、日の出の長沼善治君、福井重利君もきていた。これらの人々は「黎明」という郷土誌を同人組織で発行したりして、青年自らの手と力で文化運動を進めていた。
 和田君の演題はたしか農民芸術論だったと思う。その頃特に長野県では青年運動が活発につづけられていて、木彫の農人像が東京のデパートで売り出されている位であった。
和田君達も長瀬要一さん等と共に札幌方面で講習をうけて、小さな木工品工場を持とうとさえ計画していること等その弁論の中で知ることができた。……
 私はおどおどしながら、貧農の子弟に学問の自由を与えるべきことや、貧農の経済状態、貧農に対する社会の白眼視に対する抗議等をまとまりもなくのべたように思う。かくしてこの日は初めて知る人々から色々な深い感銘をうけながら、暮れ早い冬の日の沈んだ夜道を別れて帰ったのであった。
 それから幾年かの月日が流れた。その間岩井清一君が貸してくれる「黎明」という郷土誌を通して、日の出の青年のうごきを知ると同時に、和田君の随想や短歌に心をひかれていた。ただ私は、青年団関係では兄や弟が幹部になっているので、和田君らと語る機会が少なかった。
 五十嵐農場が水田になり、やがて荻野幸次郎氏や、私の父が先にたって、農場は吉田貞次郎先生の世話で、拓殖銀行の長期資金を借り、自作農として解放された。
 ここまでの清一の文章は単なる青年時代の回顧に過ぎない。しかしこのあとに注目を要する。
 間もなく私は徴兵されて騎兵第七連隊に入隊した。その年十勝岳が爆発、この急速な復興これをめぐる動きは村をして遂に二つの流れを生ぜしめた。
 上川切っての名村長といわれた吉田貞次郎先生の行政が独裁的である、専横すぎる等の批判が起ったのもその頃であったろうか。
 上富良野町史にも書かれているように、十勝岳爆発後、復興説をとなえ、その先頭に立ったのは吉田貞次郎村長だったが、これに反対する勢力も大きかったのである。
 和田松ヱ門氏(以降失礼ながら「松ヱ門」と記す。ただし、随想引用部分の「和田君」等はそのままとする)は復興説の熱烈な支持者で、吉田貞次郎先生をたすけていた。それなのに、「和田君と私」の原稿のつづきは次のようになっている。
 村の執行機関は民主的でなければならないし、理事者は独裁者になってはならぬ等の便りを和田君のところに出したのは騎兵第七連隊から万年一等兵の称号をもらって帰ってからしばらくたった頃であったろうか。
 その手紙を妻(松ヱ門の妹)は盗み見したらしい。
 清一は、昭和三十年十一月二十九日の随想中にも「和田君と私」について全く同じことを書いているがそこでは次のようにつづけている。
 その手紙を妻(和田君の妹)は盗見して、ほのかに私に思いを寄せて胸を躍らしていたらしい。
 昭和五年の豊作飢饉(ききん)(注:世界恐慌による農産物価格の暴落をこう呼んだ)は、農場青年をけっ起させ遂に経済的自立運動を起させるに至った。上富良野産業組合青年連盟郷愛会は、かかる中に北海道産業組合運動の推進力として生れ、その中心はもちろん和田君であった。
 林下武治さんのお世話で、和田君の妹と結婚したのもその前後である。
2 分 家

 昭和六年一月三十日、東四線北二十一号にあった本家で結婚式をあげた。式が終って、母と一緒に妻のもとに行った清一は、誓いというか、宣言らしきものをした。

・先づ、私は支那に行こうと思っていたのを、亡くなった父の遺言もあって、止めて、兄弟が全部かたづくまで日本でがんばること。
・次いで、一人生きのこって苦労している母の気持になって、本家から物をもらうというようなことを考えないこと。
・更に、生涯百姓として終ること。軍隊でも上等兵にならなかった、それより大切な農民道をつらぬくこと。

 和田フジヱと結婚するとすぐ分家して独立し、農業を経営することになった。
 清一が生れたのは上富良野村字中富良野東七線北十八号百十二番地で、大正三年上富良野町五十嵐農場東四線北二十一号に移った。もちろん父母と共に過した本家でのことである。
 分家して昭和六年に住んだのは、そのすぐ隣地の大角伊佐美氏の地で、東五線北二十一号、隣には三井氏が住んでいた。本家同様五十嵐農場の小作人であった。
 しかし、分家後五年のうちに四回もの凶作にあい、反当二俵の小作料をまけてもらわなければならなかったという。四俵程収穫して一俵払うとあと三俵、総計で百俵足らずの米であった。しかし反当三俵以下の人もいたので、そうした地主よりも収穫の多かった年もあった。
 昭和六年、七年、九年、十年は満足に支払えなかった。
五、出征から療養生活
1 召集令状

 昭和十二年九月十日、午前〇時三十分、清一は充員召集令状をうけた。入隊まで四日しかないあわただしさの中で、たて十センチ、よこ十五センチの手帖を買った。皮の表紙がついていて、三ミリ方眼に線のはいった紙が九十六枚綴られているものである。
 清一はその巻頭に部隊長獣医中佐高亀広、副官獣医中尉高巻義定、小隊長獣医中尉平岡久光、同小隊長獣医中尉西野目喜太郎と書き、九月十四日自宅を午後一時三十分出発、東中神社に参拝、上富良野神社で記念撮影、祈願、五時出発六時四十五分旭川着、以来の日誌をこの手帳に毎日書いた。
 この内容は、郷土をさぐる誌第二十五号・二十六号に『出征の記「石川清一翁の日記より」』として三原康敬編集委員により掲載されている。

2 療養生活から農民活動へ

 清一は昭和十二年八月応召したが、十三年六月、胸をわずらって除役となって帰り、五十嵐農場の土地を離れ、妻の兄の松ヱ門の世話になることになった。林下さんのもといた納屋を一千四百円で買って住み、療養生活にはいったのである。
 和田家でも、正治氏(松ヱ門の弟)の召集や働き手がなく土地が余っていたので、東三線北二十六号の土地を借りていた。胸に病いを持つ身なので、もちろん多くは作れないので、広瀬茂一さんに作ってもらっていた。
 「和田君と私」という原稿については結婚の項で引用したが、この続きにこの頃の心機の動向が窺われる。

掲載省略:写真〜出征の日 (神社忠魂碑前にて)
掲載省略:写真〜傷痍軍人となる(後列右)
 村を語り、経済を論じて夜を明かす機会が旭川で多くなった。当時、和田君の苦しい生活と経営も漸く軌道に乗ってきた。随分生活設計についても相談をうけたものである。
 私は結婚すると、分家はしたが、五町歩の水田(畦畔宅地こみ)から百二十俵の小作米を納め、その上農民組合に加入してはいけませんという契約書を書かされての上の小作であった。
 その頃、水田単作であったために畑を五反乃至一町位を十年近くも和田君から借りつづけた。それが労力配分の上から、収支の面からどんなに役立ったか知れない。
 昭和十二年八月十四日私に召集の赤紙がきた。隣りの兄には三日先にきていた。相ついでの応召に妻は一人で農業と家事を切り廻さなければならなかった。
 収穫から販売、家計の整理まですべて和田君の世話になった。そればかりでない。不幸にして病魔におかされて南京で入院、上海、広島、東京、旭川の陸軍病院を経て除役となるまで何十通の暖かい便りをもらった。これは結婚による義兄弟というほかに、道を同じくするものの深いつながりがあったからでもあろう。
 村に帰ってから一年、また無理をして肋膜が再発、病は腹膜から肺結核に進んで死の一歩前まで来たと言われた。この時和田君は家の仕事を休んで、或いは澱粉製造をおくらせてまで私達のめんどうを見てくれた。
 病院に一年近く居て帰り、それから大東亜戦争までの闘病生活は、すべて和田君の力添えがあったから出来たのだった。五十嵐農場の小作地と住宅を売って今のところに住んだのも林下さんと和田君のお世話であった。
 昭和十八年ころからどうやら百姓がやれるようになり、終戦の年には昔通りの百姓として水田一町一反、畑五反歩を耕作できるようになった。召集されてから約六年、朝から夜中まですべて和田君の暖かい手に抱かれてきた私であった。

掲載省略:肖像画〜農業青年時代肖像画(大坪邦子 画)
 ──上富良野産業組合青年連盟──
 上富良野町史によると上富良野産業組合青年連盟は、昭和六年頃から郷愛会の名で活躍し、上川産業組合青年連盟の創立を推進した中核で、北海道産業組合青年総連盟の創立にも一役買っている。
 その中心は和田松ヱ門であった。この組織は戦時中に解体されてしまうが、ここで育成された農村青年が、終戦後になって農民運動のリーダーとなり、公職追放によって手も足も出せなくなった和田松ヱ門の身代りで時代の脚光をあびた石川清一の政治進出を支えることになるのである。
六、終戦の日から
 昭和二十年八月十五日、陛下の玉音放送の時がきた。電波の乱れか受信機の不調によって、お言葉の意味は判然としなかった。しかし陛下の抑揚のある声と、その荘重な調べの中から、不思議と

  堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、
   以って萬世の為に大平を開かむと欲す

という言葉が明白に清一の耳朶(じだ)にひびいた。
 敗戦であるということが、この一句によって明白になった。呆然として自失に耐えながらなすところを知らなかったのがこの日の日本国民である。
 『師と友』(安岡正篤著作雑誌)の「終戦余録」によると、この「萬世に大平を開かむと欲す」という一句は、清一が師事し尊敬してやまない安岡正篤先生(雅号は瓠堂)の入れられた言葉ということなのである。
七、農民運動
 清一の農民運動の始まりが、政治活動へと繋がるのだが、この経緯について「私と和田君」という未発表原稿のつづきを示す。やや前後した部分もあり、少し混乱しているが、清一と松ヱ門の関わり合いが、汲んで取れるので、原文のままにする。
 その間和田君は村会議員となり、或いは農会の評議員となり、自らの力と努力で村づくり、国興しに専念していた。選挙によって政治の腐敗をただし、働くもの、弱き者の代表者として浅田正義君を三度推して遂に敗れたが、その当時の闘志は天をつくものがあった。
 村を救うために吉田先生と金子先生の中に立ったり、東中組合を上富組合と一体化したり、随分苦労されたが、いずれも良い結果を見ることはできなかった。私はその間かげの人とし、或いは黒幕と言われながらも協力をしてきた。当然なすべき事であったであろう。
 昭和二十年八月十五日、戦いは遂に終って、日本は武器を放棄して完全な降服を連合国になした。占領政策として、『独裁的なものは自由民主的に、統制的なものは禁止され、封建的なものは打破する諸政令』が出された。
 そのうちの一つとして、大政翼賛会、在郷軍人会、翼賛壮年団、右翼団体等の中心人物は政界から放逐され、行政上にも口ばしを入れるべからずと言われた。不幸にも和田君はその一人になった。
 そのため私は和田君に代るごとく社会の表におしあげられたのである。それから今日まで七年の月日が夢のように流れた。そうして昭和二十七年四月二十八日には、この国は多数の国と講和を結んで独立をむかえることができた。
 『国敗れて山河あり、城春にして草木探し』、この言葉を口ずさみながら四月二十八日の夜上野公園の西郷南洲翁の銅像の側で、昔の江戸を見廻しながら、想いにふけりつつ、自身と和田君の身の上について考えさせられた。
 大正十三年頃初めて逢ってから三十年、余りにも世の荒波にもまれた二人ではなかったか。時に一人が華かな表にあれば、一人は不幸の病にふす身となり、一人が時代の流れにのれば、一人は追放という生活をあえてなさねばならぬ日となるなどである。
 しかしそれは陰と陽という一つのものの表裏に他ならない。時に右といい、時に左というも一個のものの存在を中にしてのことであり。進歩といい保守というもまた一定の対象物をもってのことであろう。
 三十年の日を経て、私の頭はうすくなり、和田君は白髪も増えてきた。二十三年前、私の便りを読んだのがきっかけで、嫁にきてくれた和田君の妹の妻も四十余才となり、長男は二十二才にやがてもうなる。新しき世代は、すべての人が若いものの力を育くみ養うために協力しなければならない。……
八、道議会議員
1 農地委員会長から

 清一は「いよいよ俺の出番がきたのだと思うと全身の血がぞくぞくとしたことを、私は忘れられないが、それは道議会議員、上富良野農地委員会長、北海道農民同盟執行委員長、参議院議員という順序である」と述べている。
 しかし、清一の過去をふり返る上では、上富良野町農地委員会長となったことが転機であったと考えられる。随想集第五十一号に、
「上富良野農地委員に立候補、当選、委員長となって金子さんの役場に乗り込んだ攻勢……」
と書いているが、ここに攻勢という字がはいっているのは外でもない。
 五十嵐農場の小作人とし、また大角伊佐美氏の小作人として、更に三井年丸氏の小作人として、小作農なるが故の悲哀を身をもって体験してきた。
 このために、農村民主化の第一歩は小作農をなくすることだと思っていたので、その農地改革を行う農地委員会の会長となったということは本望であった。
 『金子さんの役場』に乗り込んでの攻勢という短い表現の陰には、
「金子浩村長は、かつての金子農場の地主である。農場主として小作人の上に君臨し、小作料によって太った財力をバックにして、村長となり、いうなら金権と政権を両手ににぎってきた人。戦時中は雲上の人にも見えたその金子村長の役場に、強力な時代の潮流をバックとして農地解放を推進する、…」
という立場に立って、自由自在な発言のできるというよろこびが込められていた。
 上富良野町史によっても、農地委員会の発足と初代委員の名はつかめないというが、昭和二十三年に清一が会長となるまでの会長は皮肉なことに金子浩村長の兼任だった。
 昭和二十三年六月の公職選挙法の一部改正によって、二十四年八月、清一は再び当選した。こうして、参議院議員選挙に立候補のため辞任するまでに
「累計千百七十六件、四百七十四筆、八百十二町七反八畝八歩が個人に売買登記、……」
され、実質上の農地改革は終了したのだった。
  ──戦後の道議会議員──
 戦後における富良野地区選出の道議会議員は、参考まで次の諸氏である。(当時の選挙区は上川管内)
昭和二十二年  石川 清一 上富良野村
昭和二十二年  田中 三治 富良野町
昭和二十六年  田呂 善作 中富良野村
昭和三十 年  田呂 善作 中富良野村
昭和三十三年  島田 清一 山部村
昭和三十四年  奥野 善造 富良野町
昭和三十八年  奥野 善造 富良野町
昭和三十八年  島田 清一 山部村           (以下略)
2 富良野市史の記事

 清一の随想集には、裏面史がくわしく書かれているが、随想集を書き初めたのは参議時代が終ってからで、残念ながらこの時のことがない。
 富良野市史の次の記事が表面から見た記述としては最もまとまったものだろう。
 昭和二十二年戦後第一回の道議戦には、富良野町から宮川理三朗(自由党)田中三治(自由党から社会党に)藤原宗信の三人が立起した。
 これに対して、農民側の代表選手として戦前から有力であったのは和田松ヱ門であった。このために、戦後の農民運動が必然的コースとして政治進出にふみきったとき、和田松ヱ門が登場するのが当然ということになるが、同氏は戦時中翼賛壮年団の団長となっていたのでマッカーサー元帥による公職追放令により資格を失っていた。
 そこでその身代り候補ということになると、戦後最も積極的に行動してきた石川清一に白羽の矢が立った。
 この頃天神様のように、あごひげを長く伸ばしていたのが注目をあび、富良野線、上川管内に知れ渡っていたが、このひげを山羊ひげと評するものもあった。
 政治的自覚と、農民政治力結集の母体となったのは農民同盟であるが、同盟は大衆組織なので、正面きっての政治運動には適しないので、農民政党が生れていた。
と書かれている。
 農民政党の系譜は省くが、日本協同党と、日本農民党の二潮流が合併して農民新党となり、これが農民協同党に脱皮する過程は、まさに時代の脚光をあびていた。この日本農民党の政界進出の波に乗ったのが清一である。
九、参議院議員
1 参議院議員に挑む

 道議会議員を辞任して、参議院議員の全国区の選挙に立候補するということは、まことに容易ならぬことなのであると、清一は心を引き締めた。三木武夫が「男は一生に一度勝負する」と言ったが、彼もその一生に一度の勝負をすることになった。
 しかし、清一がこの勝負をいどむ背景はその頃次第に熟していたのである。
 終戦後連合軍から発せられた農民解放指令によって、北海道にも各地に多種多様の農民組織が乱立した。その主要なるものをあげても、農民総同盟、農民組合、農民連盟、農村建設連盟、農民団体協議会、開拓者連盟、日本農民組合等無統一に独立の形態をとった。
 昭和二十二年を迎えて農民戦線統一の機運が高まり、六月三、四日北海道農村建設連盟の提唱によって農民組織単一化の協議会を開き、日農北連上川農民総同盟、空知、北見各農民団体協議会が参集して種々協議したとき、清一は上川農民総同盟は反共で行くべきことを提案したがまとまらなかった。
 上富良野では昭和二十一年に東中に勧農組合が生れ、ついで上川農民総同盟の系統にぞくする上富良野村農民同盟が創立されたが、これは単に政治という面だけでなく、郷土の農村に重要な影響を与えていた。
 農民政治力が一番結集されたのは、農民協同党富良野支部の時で、富良野小学校で富良野沿線農民大会を開き、この熱気をかたむけて清一の参議院議員立候補の基盤をかためていた。

掲載省略:肖像画〜参議院議員時代(大坪邦子 画)

2 時流に乗る

 富良野農民同盟の記録によると、
 ○昭和二十五年(農民協同党期)
 五月に農民新党が農民協同党に名称変更になり、支部長に奥野善造氏が就任した。
 重農社会主義が盛んに論ぜられ、道議会議員在職中の石川清一氏を参議院議員(全国区)に出馬させ上位当選をさせることができた。
と書かれている。
 富良野沿線は、国会議員にめぐまれていない。開拓日尚浅い大正時代から昭和にかけて、常に中央部と宗谷線の候補に一票を投じてきている。こういう中に上富良野村から戦前において吉田貞次郎を衆議院におくったが、戦後においては私がその幸運児の中に選ばれた。(随想集)
 富良野市史は石川清一について次のように書いている。
 道議会議員として在任中、昭和二十三年から五年まで北海道農民同盟の執行委員長として全道をかけ廻ったが、引揚対策委員長としてまた、北海道農業協同組合連合会設立協議会の議長として広くその名が知られていた。
 またその頃全国をリードしていた農民運動の中心にあったので、遠く本州の農民にも親しまれたことが、昭和二十五年五月三日、全国区から参議院議員に立候補し、五十名の中の二十四番という成績で、六月三日当選し、六年間の議会活動のスタートをしたのである。
 時代の波にうまく乗ることができたのである。
3 当選の日

 清一が後に書き始めた随想集に、参議院議員に当選した日について、回想した文章がある。
 富良野線からは、私を除いて農民党から出るのは居らないと高をくくって、加賀操さんの参議院選応援に赴いて、上湧別で演説中に、直ぐ帰れとの電報。…中略…当選したという次の日、自転車で市街へ、旭川へ、そして札幌、東京へと、多くの方々をねぎらったのであった。
 東京に行ってから農協党は三木さんと逢う機会が多くなった。小平忠、河口陽一、松本六太郎、北二郎、飯田義茂、高倉定助という連中は衆議院で、中村寅大、加藤吉太夫、…(随想集)
十、北海道農村連盟
1 委員長に就任

 北海道農村連盟結成大会は、昭和三十一年九月三十日午後一時半から、札幌市共済連別館で、宗谷地区を除く各地町村代表約六十名が出席して開かれ、議長に曹我井定一(道南)を選出、綱領、規約、組織、活動方針を原案どおり決定、役員を決定した。
委 員 長  石川 清一(上川)
副委員長  後藤三男八(空知)
 〃    須藤敬太郎(留萌)
 〃    陰山伊三郎(根室)
 〃    中西 一男(石狩)
 〃    棚川 忠雄(日高)
事務局長  吉田 明正(北見)
 来賓席には自民党の人々が多く、農民同盟の社会党色に反発した農村連盟の性格を濃くしていた。
 組織方針には会員の農民のほかに、賛助盟友として農業団体の職員もいれ事務局は農協内におくなど、農協組織をバックとした連盟であることを明白にしている。
 農民の幸福のためにあるのが農民団体である。目的は一つなのに北海道の農民団体は三つの系統に別れている。共産党(社会党左派の線もふくむか)を背景にする日農北連と、社会党系の北海道農民同盟、自民党の息のかかっている北海道農村連盟がこれである。
 昭和二十二年に北海道知事になった田中敏文支持から政界にはいり、道議会議員、そして参議院議員と、清一の政治生活はまたたく間に流れ去ってしまった。ことに参議院での六年は長いようであるが、思えばまたたく間であった。何とかして議席がほしい気持ちは持っていたが、議席を失った清一の、政治活動の基盤は、さびしいが農村連盟の執行委員長という立場からの発言しかなくなってしまったのである。
 けれども、北海道内において、農民代表として発言する場合、やはり農民同盟には及ばなかった。このため、日農北連は別としても、農民同盟と、農村連盟は統一できないものかという提案がしばしばなされ、同盟との統一懇談会もあった。
 結局統一はかなわなかったが、清一は吉田明正事務局長と共に活動した。機関紙「農村連盟」や、新聞のきりぬき等、連盟の活動のあとを知る資料は、清一は表紙に「生ける面影」と題したノートを作り、ある時は張り、あるときは綴りこみ保存した。

2 委員長に九度就任

 昭和四十年三月四日、第九回定期総会で、私は九たび委員長に選ばれた。北海タイムスのかこみ記事「時の人」は、写真入りで「道農村連盟委員長に九選された石川清一氏」と題して報道した。
 革新系農民同盟にたいして生れた自民党系の農村連盟もことしで九年目、発足当時は微々たる勢力であったが、今は六万五千人をかぞえる組織に成長、農協中央会副会長におさまっている。
 上富良野町日の出地区には、社会党系北海道農民同盟の執行委員長の義兄の和田松ヱ門と、自民党系北海道農村連盟の執行委員長の清一の農民運動の両雄がいて、上富良野の農民組織にも微妙な影響が出た。さけることのできない事実であった。
 上富良野町史には、
昭和三十五年二月二十八日、同盟定期総会で
 1 政党支持は絶対やらない
 2 組織の名においては選挙はやらない
 3 経済活動に重点をおく
 4 農民同盟を脱退して中間組織をつくる
 5 この機会に上富良野は一本になるように努力する。
と書かれている。
 東中農民同盟も、同じような理由で解散し、改めて、昭和三十六年四月十五日に上富良野農民協議会を結成した。

3 十周年記念大会

 北海道農村連盟結成十周年記念大会は昭和四十一年二月十一日午後一時から第十回定期総会に引きつづいて、自治会館あかしや大ホールで開催された。
 委員長の清一は、
 一年一年の運動の積み重ねが実を結んで、本日十周年記念大会を開催することとなった。過去十年間の運動は非常に苦しかったが、行動の正しかったことを自覚し、また自負してもよい。
 本日を契機として明日への発展を心から希うものである。
とあいさつした。

4 前進あるのみ

 清一は、農民連盟の十年を随想集で回顧している。
 私は、この十年を顧みて、幾多の試練にあい、組織の危機感さえ云々された時期もあったが、結成以来の責任者として、果してその使命を果し得たかどうか反省することもあった。
 しかし、組織の頂点に乗ると、盟友六万八千余名の声におしあげられ、一歩も退くことができず、綱領にしたがって前進あるのみであった。(随想集)
5 農協と共に歩む

 北海道の農民組織は、日農北連は極左系として変りはないが、その傘下の農民は限られた数でしかない。これに対して、最も多くの農民を包容している北海道農民同盟も、次第に左傾し、次第にこれに抵抗を感ずる地域、農民も多くなったので、組織を改める必要が叫ばれ、北海道農民連盟と改めることになった。
 このような状況のもとで、昭和四十三年二月五日、北海道農村連盟と、空知農民協議会はそのおのおのの組織を解散して、北海道農民総連合が結成された。
 新組織結成の話があったのは昭和四十年七月からのことで、その背景には農業をとりまくきびしい情勢があった。
 あくまで自主的農民により組織された全道農民の結集体であることから、農協運動と両翼の関係に立って相たずさえ、農業の近代化を推進して農家経済を確立することに重点をおいた。
 思想や政党に対しては不偏の姿勢をとり、農民の政治力の結集は大衆討議によることになっていたが、具体的行動には困難が付きまとった。
 清一としては、過去の二十年に一つの区切りをつけて、真に農業を拡大し前進するには農協と手をにぎり寒地農業の確立を考えた。

6 北農総連とともに

 清一は、新組織の北海道農民総連合(以下「北農総連」)の初代委員長になり、更に再選されると、各紙のニューススポット欄にとりあげられたが、「前進あるのみ」という私の談話が注目された。
 昭和四十四年、農業をとり巻く情勢は、表面的には豊作に恵まれたこともあって、平穏のようであった。しかし、昨年あたりから、環境は益々複雑になり、食糧管理制度をはじめとする農産物をめぐる情勢は極めてきびしいもので、稲作、酪農、畑作の馬鈴薯、甜菜、雑豆のどれをとりあげても、容易なものでない事態となったのである。

7 退任のこころ

 持って生れた性格が政治好きで、常に大衆の先頭に立って活動していないとノイローゼになってしまうという清一が、一切の政治活動から退かねばならない事態に当面した。
 昭和四十六年二月五日、北農総連の第四回の総会の席上で、「北農総連退任あいさつ」をすることになった。このあいさつは、随想集に全文が書きとめてあり、他にも原稿が保存されている。
 「憶えば昨年(四十五年)の五月二日午前十時ころ、当時私が組合長でありました上富良野農業協同組合経理課長が三億円近い額を横領していました」に始まるこのあいさつは、終始一貫、私の過去の経歴を語ったものである。

1 三億円事件の概要と組合長辞任
2 北農総連を退く
3 戦前の農業と軍隊生活と応召
4 戦後の農民運動、道議会議員時代
5 六カ年の参議院議員の思い出
6 農業協同組合と私
 実際に壇上でのべたものより、はるかにこまかいこの控には、清一の半生が書き尽されている。
 上川で初代の生産連会長や、上川農民同盟の委員長をさせられました。道段階では農業復興会議の副議長や、北海道農民同盟の委員長等、農民の意志機関のまとめ役や、運動の先頭に立って、灰土からたち上がる上川農民の陣頭指揮にあたりました。
 二十二年春、農民党から道議会議員に立候補全道農民の熱狂的支持で当選し、四年の任期の終らぬうちに、参議院議員に全国区から立候補し、全国的支援のもとに五十名中二十四番で当選させていただきました。(随想集)
──人生最大の逆境──
 『三億円事件』については、「かみふらのの郷土をさぐる誌」第二十八号の『上富良野町農業協同組合三億円の大騒動』として投稿されているので、WEBサイトに公表してある記事を検索していただきたい。
 清一の七十年の一生のうち、最大の逆境に立ったのがこの時代であった。
 日本の政治家としての時代は参議院議員をやめた時すでに終っていたけれども、農村連盟の委員長を退任することによって、北海道の政界からも去ることになった。
以降次号(第三十九号)に続く
掲載省略:石川家家系図

《協力いただいた方》

・和 田 昭 彦 氏 (清一氏の甥) 上富良野町
・石 川 和 宏 氏 (清一氏の孫) 上富良野町

《参考資料》

・組合二〇年の歩み     上富良野町農業協同組合
・組合五〇年の歩み     上富良野町農業協同組合
・石 川 清 一      上富良野町農業協同組合
・上富良野町史             上富良野町
・郷土をさぐる 第二八号 上富良野町郷土をさぐる会
・和田松ヱ門回想録       和田昭彦 著

機関誌      郷土をさぐる(第38号)
2021年3月31日印刷      2021年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀