勲(おれ)の昭和平成追憶史から
戦中戦後日常生活の記憶
北 越 勳 昭和六年七月一日生(八十八歳)
※ 文中の敬語は適時省略させていただきます。
はじめに
戦争中の事など俺(北越 勲)より若い人達に話しても面白い話でもないので、又年寄りのヒガミ話が出たと誰も相手にしてくれない。
同年輩の人達とは逢う度に昔話をよくする。その人達もだんだん亡くなったり、ボケて来たり歩けなくなったりで少なくなってきた。
自分も何時その様に成るかわからないが、程度の差があるにせよ必ずそうなって死んでしまう事は間違い無い。
それでも今は耳も聞こえるし、目も見える。足も今のところ歩ける。そう言う事で色々なことを書いて見た。
話が前後して繋がっていかないかもしれないけれど、思い出して書いて見た。俺が物心の付いた以前の話は聞いたり、教えられた事をその人になった気持ちになって書き進めた。
ここに掲載されるのは、俺の記事の内から高等科二年間に絞り込みたいということで、整理は担当の編集委員さんに全てお任せすることにした。
初等科の思い出
昭和十三年〜十八年(小学一年〜六年生)
北越家は大正九年頃、島津農場の小作として入植している。その後、大正の中頃に島津農場から草分に移住し、西四線北三十一号、深山峠の登り口の西側で農業をしていた。
俺は昭和十三年に上富良野尋常小学校(解説)へ入学した。
小さい学校なので、一・二年生、三・四年生、五・六年生の複式学級で、一年生になった時は、二年生と同じ教室で小西力蔵校長が担任であった。校長先生は学校の用事であまり教室にはいない。いる時は、ストーブのそばでイスに座り、タバコを吸ったり、新聞を読んだり、勉強を習った覚えがない。一年生の教科書にある「サイタ サイタ サクラガサイタ」くらいしか覚えがない。
解説 上富良野尋常小学校:当小学校は草分地区にあり、後に上富良野小学校に改称される上富良野尋常高等小学校は市街地にあった。昭和十六年四月一日の学校制度改正により国民学校と名称が変更されると、草分の小学校も市街地の小学校も同じ『上富良野国民学校』となってしまって混乱を生じたため、同年六月十一日付で草分の「上富良野国民学校」は「創成国民学校」に改称され、以後「創成」の名称は昭和四十二年に新設の西小学校に統合されるまで続いた。
三年生になったら、阿部平次郎先生に習うことになった。勉強中によそ見したり、後ろの方を見ると、黒板消しが飛んでくる。だけど、よく教えてくれた。複式学級だから、三年生に教えている時は、四年生は自習。少しすると四年生に教える時は三年生は自習となる。その時、少しでも騒いだりすると、「コラー」と言って竹の棒で叩きにくる。
三年生の二学期頃に阿部先生が転任。本田かほる先生に習った。本田先生によく勉強を教えてもらった。先生は島津の人で自転車で来ていた。
五年生になると、佐藤正男先生に習った。先生は音楽が好きで、自分でピアノを持っていた。音楽の時間は自宅に行きピアノで習った。学校にはオルガンしかなく、学芸会の時は、先生のピアノを学芸会の場所となる「運動場まで運べ」と言われ、五、六年の男子で運んだ。重たくて、バランスをとるのが難しい。さわっているだけのズルイ奴もいた。
掲載省略:地図〜昭和20年頃の近所住宅
国民学校高等科へ入学
昭和十九年四月、市街地の上富良野国民学校高等科(尋常高等学校)に入学し、草分からの通学が始まった。教室は小学校の二階で三教室。一組は男子約六十名。二組は男女各三十名。三組は女子六十名。計百八十名位だった。
教科書は全員に当たるだけ無い。先輩から分けて貰うか、新しい教科書は配給による。
翌、昭和二十年になると戦争が段々ひどくなり、先生も戦争に行き、先生が足りなくなって、教室と教室の間仕切りを取り除いて、一組は男子だけ、二組は女子だけ、一組百名近くの生徒が、一人の先生に勉強を習った。
教科書は先生が一冊持っているだけで、生徒の教科書は誰も無い状態でノートも無く、折り畳んだ新聞に一本づつ配給になった鉛筆で書いた。
消しゴムも無いので、古くなった長靴のカカト付近を鎌で削って作り使った。
先生が話すこと、教科書を読み上げるのを、黒板に書くが、先生が使うチョークも十分に無く、石灰石みたいな代用品を使うので、薄くかすれて良く見えない。
墨、硯、筆、半紙等はどこの店に行っても無いので習字は出来なかった。同じように用紙、絵の具、色鉛筆等も無かった為、絵を書く事も無かった。
学校に行くのは集団行動で、一人では入れなかった。校門の所に木銃を持った高等二年の人が両方に二人おり、一人の時は誰かが来るのを待って、その人達と一緒に校門をくぐり裸足で学校へ行った。
校門を通るとすぐ南側に奉安殿があり、必ず帽子を取って一礼しなければならなかった。
編集補足:構造や規模に差はあったが、戦前の学校に必ず設置され、天皇皇后両陛下の写真(御真影、御影ともいう)及び教育勅語を安置した建造物。前を通るときは最敬礼をしなければならなかった。戦後の昭和二〇年末にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から撤去指令が出された。
父が兵隊に行って働き手が無く、家の手伝いのため休む事も多く、学校では勉強した記憶が余り無い。それと同じ様に運動会、学芸会、遠足等も学校に行っていないので、実施した記憶もない。学校に行っても、農家の父さん、兄さん達が兵隊に行っている家庭に手伝いにも行った。
軍人勅諭(解説)の中に、必勝の信念と言うものがあり、それを暗記せよと言う。出来た者は先生に答える。間違いなく出来た者は学校から帰って良い。出来ない者は「出来るまでやれ」と言う。帰りたくても帰れない。皆出来るまでには夕方になった。
掲載省略:図〜昭和19年時点の学校制度
掲載省略:図〜軍人勅諭
解説 軍人勅諭:一八八二(明十五年)年一月四日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる勅諭』という。
軍人勅諭の聖訓五箇条 (条文のみの掲載)
一 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。
一 軍人は礼儀を正しくすべし。
一 軍人は武勇を尊ぶべし。
一 軍人は信義を重んずべし。
一 軍人は質素を旨とすべし。
とある。
手旗信号
この頃、モールス信号、軍人勅諭の他に、手旗信号を学校で習った。
手旗の練習は、グラウンドの横に大きな木があり、二人組みになって、一人がその上に、もう一人は、日の出部落会館(今の宮町公園)の所の木へと連絡を取り合う。グラウンド側の木の上に乗った人が、手旗で先生が(言葉を決める)何か言う。それを木の上で赤と白の旗で信号を送る。日の出会館の木の上ではそれを読み上げる。解った様な解らない様な言葉が出来る。
先生が、「答えは何だ」と聞く。大概チンプンカンプンの答えが帰ってくる。送った者に何て書いたんだと聞いてもはっきりしない。先生の送った言葉は「猫の子はかわいいもんだー」その通りに信号を答える組みはなかった。
ツマゴ
冬になると流石に裸足では通うことは無理となる。長靴を履かなければならないがそれも無い。それで、一組に五〜十足程長靴が配給になる。先生が決定するけれど、市街への学校までの距離が二里(八q)から二里半(十q)の人達に優先的に配る。俺たちは一里(四q)なので当たらなかった。
それでも学校には行けず、薪を美瑛の二股御料より馬で運ぶのも俺の仕事の内であった。朝の四時頃から家を出て帰るときは夕方になった。
この時に、ばあちゃんが、ツマゴを作ってくれた。それに赤い毛布を切って足に丸めて暖かい様にとはかせてくれた。とても暖かかった。長靴が無いのでそのツマゴを履いて学校に行くことにした。
俺の他にも農家の家では稲藁も有り、年寄りの昔の人は大概ワラジやツマゴを作るので、それを履いて学校に行った。玄関でツマゴをぬぐのが大変だった。その内に校長先生が「ツマゴを履いて来た者は玄関で雪を落として教室まで入って良い」と言う事になり、玄関から二階に上がり、階段を踏みしめて、教室へ堂々と威張って入った。
教室では、石炭ストーブのそばに火棚があり、その中に皆弁当を入れてご飯、代用食でイモ、南瓜、エン麦飯、小麦飯等が冷えると美味くないので、火棚に入れて暖かくしていた。
その横の壁に釘を打って、ツマゴを掛けておく。足に巻いた赤い毛布もそこに掛けた。帰るときはそこで毛布を巻き、ツマゴを履いて廊下を悠々と歩いて玄関まで出る。女子生徒の間では格好良いと言われた。
石 炭
草分の小学校では薪ストーブだったが、学校の暖房は石炭(解説)であった。粉炭でズリ(石炭採掘時に混じる燃えない土砂)が入っているのはなかなか火が付かず、煙ばかり出て火力は無い。
学校では、朝早くから小使いさんが各教室の焚きつけ用の木屑に火を付けて、その上に塊炭を乗せ、火が付いた頃に粉炭をかけて次の教室に行く。その間なかなか火が付かないので、デレッキで突きまくる。火が消える。粉炭も火力が付くとよく燃える。そういう日の繰り返しであった。石炭は前日の当番の者が、石炭小屋より、炭箱に一杯の粉炭と焚きつけ用の木屑、塊炭などを運んで用意して置く。
職員室では、塊炭ばかり焚いているので暖かい。その職員室用の塊炭を誰となしに小使いさんに見つからない様に運んで来くる様になった。
置く場所が無いので、正面の黒板の前に教壇があり、先生の机のそばに板が二枚位外れる所が有った。その中に、塊炭を沢山集めて入れた。
農家の山地帯の人は焚きつけ用のガンビ(白樺)の皮を沢山持ってきて、教壇の中は燃料で一杯だった。
それで何時も煙突が真っ赤になる程火を焚いていた。先生は、「お前達は火を焚くのが上手だな」と言っていた。外の教室では、火があまり燃えていないので寒がっている。
ある時、朝の職員会議の時、「高等科二年一組の生徒は、職員室用の石炭を運んで行って焚いている」と、担任の村田先生に言ったそうだ。
村田先生もそう言われれば、何時も煙突が赤くなる位に成っている。何か変な感じがしたそうだ。朝、先生がその話をする。「そう言う事を、お前達はしたのか」と言う。誰も下を向いて、先生の顔を見る者は誰もいない。その内、「前の方の七、八人前へ出ろ」何をするのかと思ったら、先生の机をおろせ」。その後、「教壇の中を見るから持ち上げれ」。俺たちは皆「ヒヤヒヤ物で、大変な事になった」と感じた。教壇の中には、塊炭、ガンビの皮等が沢山出てきた。先生は「ヤーヤー」と、驚いていた。
どれだけ怒られるかと思ったが、先生は一言も怒らなかった。教壇を元に戻して、先生は、「もうこう言う事はするな、明日の職員会議の時、ほかの先生に謝るから、心配するな」と言った。それからは少しずつ焚いて、春先まで塊炭、ガンビ皮を大切に、少しづつ燃やした。
学校は休んでいても、一学期、二学期、終了式の時は、通知せんを貰いに学校へ行った。成績は優、良、可の三段階で、その中にも優の上中下。良の上中下。とあった。俺の通知せんは三学期共全部良だった。先生は、勉強もしていないので、出来るか出来ないか分からないので全部良にしたらしい。外の人のは通知せんの見せ合いはしていないので優なのか、可なのか分からない。
解説 石炭:植物化石 粉炭とは、粉状または細粒状の石炭のこと。これに対し、10-40mm程度より粗い石炭を塊炭といい、0.5mm程度より細かい石炭を微粉炭という。燃料として使われ、練炭の原料にもされる。骸炭(コークス)は石炭を乾留して炭素部分だけを残した燃料。原文中では、「カイ炭」と「骸炭」が混用されているが、当時の実情を調査した結果、「塊炭」に統一表記した。
うさぎ
兵隊さんの耳かけ用に、白いうさぎ、黒うさぎ、白うさぎ、うさぎが使われた。家には白いうさぎはいるが、チンチラうさぎはいない。友達同士でうさぎを「ばくる(・・・)(交換する)べ」と、話が決まり、次の日、お互いに学校に持って来た。
帰るまで置く所が無いのでうさぎを机の中に入れた。机の入れ口は、上蓋を上げる方式だった。教科書も無いので、机の中は空っぽ。その中にうさぎを入れた。授業中もめんこい(・・・・)(可愛い)ので、ひま無しに、ふたを開け、見たり、撫でたりした。その内小便をして下にもれて来た。その後かたづけが大変だった。
衣 服
高等科の二年間、何を着て学校に行ったか、遊んだのか分からない。すっかり忘れてしまった。衣料切符(解説)があって、何点だったか記憶にないが、店に行っても、欲しい物は買えないし、買わない。いるものだけ買う。それで切符の点数が無くなるので考えながら買っていた。
店屋も、品物が充分にない。最少の生活に必要な物だけしか売っていなかった。
母さんや、ばあちゃんは、昔の着なくなった物を色々改造して、作り直していた。それには糸がいる。けれど糸が無い。そこで、古い衣類の中で横糸、縦糸のほどき易いものを順番に引っ張ると糸が抜けてくる。それを糸巻きに巻き付け、使っていた。
国から麻を作れと言う事で、畑に麻を植えた。大きくなった皮の部分を剥ぐと、糸みたいな繊維が出来る。それを更に細くして糸にして使った。農家の母さん達は、仕事にもんぺを履いて作業をしていた。もんぺがボロボロになっても店屋にもんぺの材料は無い。何処から見付けたか、粉袋を改良してもんぺにしておる母さんもいた。染め粉も無いので、白い袋をそのままもんぺにして履いていた。お尻りの付近に手鍵無用とか、正味十六貫(六十s)入りと書いてある。それを見ても誰も何も言わなかった。
洗濯するのに今は、洗濯機に衣類を入れ、石けんを入れ、スイッチを入れれば自動で洗濯が終わるが、戦時中は、赤ちゃんのおしめや少し大きな物は、川の中で洗っていた。小さい物はタライに入れて洗濯板にこすりつけて洗った。洗濯に使う粉石けん、固形石けんなど何も無かった。配給の石けんがあり、その石けんの原料は魚類の油を加工した物で、粉でもない固まりでもない、その中間の様な堅さで、バターの様な少し柔らかい感じの物であり、洗濯した後も何か魚臭かった。
その頃、沢山シラミがいた。洗濯しても魚臭い石けんで洗うのでシラミは取れても、卵(キラジ)は死なない。メリヤスのシャツや、もも引きの縫い目には卵が残る。それを鍋で煮て着た。それでも全部は死なない。
妹のオカッパ頭にもシラミが沸いた。取ってやると言っても逃げ廻るので押さえつけて取った。そのシラミをストーブの上に上げ焼くと、ゴマがはぜる様にパチパチと音がした。
解説 衣料切符:一九四二(昭和十七)年一月二十日に繊維製品配給消費統制規則が制定され、同年二月一日から衣料品の総合切符制が実施された。
繊維製品を買うには、お金と衣料切符が必要になった。衣料切符の点数は、都会で一人一年百点、地方は八十点。翌一九四三(昭和十八)年には点数が改定(二十五%増)有効期限が十九年まで延長、縫糸なども制限されるようになった。同年六月には繊維の消費節約のため「戦時衣生活簡素化実施要綱」が決定、国民服やもんぺの着用が奨励されるようになった。
一九四四(昭和十九)年(二月七日発表四月から)には、さらに繊維製品が枯渇したため一人が使える点数が減り一律三十歳以上四十点、三十歳未満五十点に変更になり、下着や靴下などの必需品は隣組から配給されるようになった。
十一月の冬物の配給では靴下が四人一足、タオルが五人に一枚、パンツが十三人に一枚程度であった。一九五十(昭和二十五)年まで切符制度と繊維不足が続いてた。
実際には切符は使わず残すことが奨励され、切符などあってないような有名無実なものだった。新しい衣料は何もなくて手持ちで何とかせざるを得なかったということが実状であった。
食〜米
ばあちゃんが野菜を作っていたのでその作業も手伝った。一番大変だったのは、馬で水田を起こし、ハロー掛け、代掻き等をした時だ。馬も働くのが嫌で、俺が小さいので馬鹿にして動いてくれなかった。代掻きは土がなかなか溶けないので、田んぼに水を沢山入れて、上つらだけ掻いたので、下の方まで馬ぐわは通らなかった。それでも何とか作業はこなした。
その後、母がタコ足で籾蒔きをした。すると、「勳、ちゃんと代掻きしたのか」と言うので、「したよ」と言うと、「水田の表面が凸凹でタコ足がひっくり返る所がある」と言う。仕方がないので、聞いて聞かない振りをした。実際にやってみると大変なのだ。
この頃の収穫量はいくら穫れても不足だった。農家での耕作面積が二〜三町(f)。多い人で五町位。
今は春の蒔き付けから秋の取り入れまで、全部機械を使用する。一反当たりの収量も米は十俵前後は穫れる。
しかし、当時は、馬を相手にすべて人力だ。タコ足で種を蒔いて、除草機押し、ドロ負いの虫はらい、草取り、稲刈り、ハサ掛け、稲こき、籾すりと、春から秋まで一生懸命やっても四俵くらいしか穫れない。
掲載省略:写真〜馬による代掻き作業
掲載省略:イラスト〜籾蒔きに使った「タコ足」
小作の人は、年貢米を納めて、残ったのを供出する。その米を都会の人達、畑地、山地の人達に渡ると良いのだが、日本国では、何百万の人達が軍隊に行っており、その兵隊さんの食糧にするのに沢山の米が必要だった。
北方、南方、外地にいる兵隊さんに送るのに、船に乗せ、港より何日も掛けて目的地に行く。その途中で米軍の魚雷にやられて、沈んだ船、乗組員、米、食糧品等は、当時の新聞などは余り伝えてないが、数え切れないほどだったらしい。
戦地の兵隊さん達は、船が来る頃だと、待っていても、到着するか判らないので、少しでも食糧を長く引き延ばし、大変な思いをしていたそうだ。
家では、米については恵まれていた。水田を三町五反位作っていたので白米のご飯を食べた。当時、富国、農林二十号(以下二十号)、クリカラ糯(もち)と三種類程の品種を耕作していた。
富国は、晩生で稲ワラも長く、反当り六俵程穫れる。二十号は早生種で今のゆめぴりかみたいでおいしかったけれど、反当たり四〜四俵半位しか穫れない。稲ワラは短く、俵を編む事は出来ない。
クリカラ糯は稲ワラは長くて柔らかいので俵を編んだり、縄をなったりしていた。昭和十九年は富国と、二十号を半分づつ作った。その年は、まずまずの出来で、飯米も充分残し、ヤミ米も残して、少し供出もした。
昭和二十年、終戦の年は大凶作で食べるものが無く、大変な年だった。それでも家では前年の米があったので良かった。
昭和二十一年の年。戦争に負け、二十年の凶作で米は少ししか配給されず、死ぬか生きるかの瀬戸際で、大変ひどかった。
この年、家には米があった。富国、糯米と二十号を一町二反作った。富国は穂が出たけれど実は一つも入らず、真っ青で立ったままだった。
二十号は早生で、上富良野神社のお祭りからお盆にかけて花が咲き、順調に育った。
二十号と言う品種は少し小粒で皮が薄い。モミの時に何俵あると言っても籾すりして俵に入れるまで判らないが、思ったより収穫出来、平年並みだった。反当たり四俵半位穫れて大変助かった。
国は米がないので、飯米迄も出せ、そして後は、配給米を食べれと言われた。そんな事は出来ないので、その米をワラの中にかくした。強権発動(解説)と言うのがあって、一軒一軒調べに来る。あったら一粒残らず持って行く。ビクビクの毎日だったが調べには来なかった。
その様な中、夜遅く農家の親父みたいな格好で誰か来たが、すぐに判った。俗に上富良野交番で鬼の○○と呼ばれている警察官だった。
この警察官は、駅でヤミ屋さん等が農家から買ってきた米を、多い少ないにかかわらず全部取り上げてしまう。ヤミ屋さん、カツギ屋さんは、その目を逃れるのに苦労していた。
その警察官は子供と病気の嫁にお粥も食べさせられないので、「一升でも二升でも良いから」と嫁の帯と着物を持って来て、「この品と交換して欲しい」とお願いされる。
母は警察官に「皆様から取り上げた米はどうするの」かと聞くと、「皆、政府に納める」。母は、「その中から茶碗で二〜三杯位取っておけば、お粥位出来るのではないか」と言うと警察官は、「そんなことは絶対出来ない」と言う。
それで、可哀想なので、袋に五升位入れてあげた。そうして、「その着物と帯は、嫁に来たとき持ってきた大切な物だろうから、私も着物と帯はあるので持って帰り、奥さんに返しなさい」と言った。
帰るとき、玄関の外で手を地につけ、額を土に付くくらいに頭を下げ、お礼を言って帰って行った。鬼と呼ばれている警察官のお勤めも仕事とは言え、大変なものだと感じた。
解説 強権発動:強権を用いる事。特に、一九四六(昭和二十一)年の食糧緊急措置令に基づき、政府が農家に対して割り当ての米穀を強制的に供出させたことを言う。
その他の食
どの家庭でも、麦、えん麦、豆類等を混ぜて、米を節約しているので、家でもえん麦を食べる事になった。
西二線北二十六号の久野さんの所に共同作業所があった。そこへえん麦を一俵持って行き、皮を剥いて貰った。岩田式の籾すり機でえん麦を機械の中で強力にぶつけて皮を剥く。実は袋に入れ、皮をカマスに入れて持ち帰った。
試しに馬のえさ箱に切りワラを入れて、えん麦の皮を入れた。初めは食べていたが、中の実が無いので美味くない。鼻で皮を吹き飛ばしていた。馬も家族の内なので可哀想で、それからはえん麦の皮は食べさせなかった。
野菜や、おかずを炊くのに十分に塩も無かった。配給は岩塩と言う固まった物ですりこぎでたたいて割り、粉にして食べたが苦いような感じだった。
砂糖も無かったので、畑のビートを農家から貰ってきて、薄く刻んで大きな鍋に入れて炊き込んだ。その後、刻んだビートを取り出して汁を煮つめると、黒いどろっとした甘い汁が出来た。それを砂糖代わりにして使った。
味噌は自家製で、大きな樽に充分間にあった。醤油がないので、その味噌樽に竹の細長いザルをを入れて置くと、そこに汁がたまる、それを醤油代わりに使用した。
食事に必要な箸も無く、自分で作った。ばあちゃんが「桑で作った箸で食事をすると病気になりにくく、長生きする」と言うので、桑の木を取りに出かける時、ばあちゃんが、「勳、桑の木の所へ行ったら気をつけれ、桑の木の廻りには人間の抜け殻がいっぱいある。人間は一生に一度、必ず抜け代わる動物なのだ、それは、人間の目では見えないけれど、馬はそれが良く見える。馬は人間を絶対踏まない。馬の上に乗ったとき、間違って馬の背中から落ちても踏まない動物だ」。そう言う話をしたので、桑の木のそばに何かあるかと見廻しても何もなかった。
抜け殻と言えば、蛇、セミ、トンボ等の抜け殻はよく見かけるが、自分の抜け殻は見えないそうだ。取ってきた桑の木で家族全員の箸を作った。
おやつはお菓子類は何もない。グスベリー、カリンズ、スモモ、グミ、ブドウの芽、スカンコ、カバの穂、カヤの実、オバコ(編集注:道端にも生える雑草のオオバコのこと)の葉等、腹がへったら何でも食べた。
もち米で作ったアラレはおいしかった。屑米をひき臼でひいて粉にした物を、団子にして食べさせてくれた。
焼き芋と大根の漬け物を良く食べた。焼き芋は暖房用のストーブで薪を焚いて、その上に籾殻をかぶせておく、火が燃え、下にある引き出しの底に燃えかすが落ちてたまる。その中にジャガイモなどを入れて置くと、その熱で丁度いい具合に焼けたイモの皮をムキながら食べた。美味かった。
住について
住宅は平屋で土壁、柾屋根。基礎は川から拾ってきた石。土台は、雑木をマサカリ、サッテ等で削った長材。曲がった木を昔の人は上手く利用していた。長さが五間(九b)あっても、六間(十.八b)あっても、継ぎ目無しの一本木だった。
太い木をそれなりに削って、石コロの上に乗せていた。土台石の下には、砂利も余り入れないので、冬になると凍(しば)れて、上がったり下がったりする。土台の木が通し物なのであるから、ずれたり遊ぶやつがあっても家は潰れなかった。
壁は粘土にワラ屑を入れて良く足で踏んでこねて、内も外も塗る。家の内側は、仕上げ材で仕上げる。外は大概、土壁そのままだった。たまに、白く塗って仕上げると、あそこの家は白壁だとうらやましがられた。
ランプ
今は夕方になると電気を付けるが、電気もないのでランプを付けていた。ランプには五分芯と三分芯があった。巾の広い五分の方が明るいが石油が沢山いるので、大抵三分芯のランプを灯していた。
昭和十九年になると、油屋さんに行っても石油がない。それで配給で組長さんが戸数分だけ一斗缶(十八g)、を何個か持って来る。それを皆んな一升瓶等を持って組長さんの家に集まり分けて貰う。マスに入れて、こぼさないようにジョウロで入れてくれた。
石油は品質が悪いので、ランプの火を点すと煙が良く出て、ホヤが煤ける。子供の手が小さくてホヤの中に入るので、ランプのホヤ磨きは毎日の仕事であった。昭和二十年になると、いよいよ物がなくなり、石油の配給もなくなった。
その替わりに生ロウソクが配られてきた。普通ロウソクは固まっているが、このロウソクは固める前のヨーグルトみたいなドローっとした物だった。
それを平たい様な缶詰の缶に入れ、布きれで細い縄を作り、生ロウソクの上に置き、先端を缶の縁より少し出して灯を点けた。何かぼんやりとした感じの灯りであった(時代劇に出てくるあんどんみたいなもの)。それで、暗くなる前に食事をして、なるべく早く寝た。
乾電池
夜、馬小屋に行く時は、安全灯とか乾電池を使用した。単一の乾電池を四本入れるもの。その乾電池もなかなか手に入らない。たまに店屋さんに入るけれど、すぐに売れ切れる。皆んな今度は何時入荷するか判らないので、電池とか、電球を買いだめするためだ。
ある人から、もうなくなった乾電池の再生法を習った。単一の乾電池を使っていてだんだん灯が小さく、暗くなりかかり、線香くらいしか灯が見えない時にする。全く灯が見えなくなるまで使用したら駄目だ。
その方法とは、電池の真ん中に芯がある。その横に火鉢に使う火箸の先をストーブで真っ赤に焼いて突き刺す。底まで届いたら、穴開け終了。その穴に盃に塩水を作り流し込む。あとはロウソクに火を付けて穴の上にたらす。穴がふさがれば完成。それを器具に入れて点けてみると新品同様に明るい。いつまで長持ちするかと見たら新品の三分の二位だった。
それをよその人達に教えた。そうすると、「勳さん。嘘言ったなー」と聞かされた。その人の話を聞くと、「電池がいたましい(もったいない)から完全になくなる迄使用した」。それでは再生が駄目なのだ。再生の方法は一回迄だった。
その電池の芯※をペンチやドライバーで壊して引き抜くと、箸の太さ位の芯が出る。その先端をヤスリ、砥石で削り書いてみた。鉛筆は普通HBだけれど、図画などに使用する三B〜四B位の書き具合で、俺だけ使う自慢の物だった。
編集注:電池の芯〜当時の電池はマンガン電池で、炭素が主成分である黒鉛の粉を粘土と混合して棒状に固めたものを、正極(+極)に使った。この材料は鉛筆の芯とほぼ同じである。
生活器具・用具いろいろ
寝るときは、寒いので湯たんぽを入れていたが、戦争がひどくなると、金物類を出せと言われて、湯たんぽを供出して仕舞いなくなった。ストーブの上に石を乗せて焼き、毛布に巻き付けそれを抱いて寝た。ばあちゃん達は、アンカのカメにストーブのおきを入れた壺にやぐらをかけて、両方から足を入れて寝ていた。
冬の寒い吹雪の時は、柱の隙間から雪が吹き込み、布団の上まで積もった。
炊事場も寒く、水は川から汲んだ水を流し場の横に大きな桶に入れていたが、朝になると凍れて氷が張ったので、すりこぎで氷をたたいて割り、水を使用した。
鍋、やかん、洗面器など新しい物は売っていない。どの家も穴があいても捨てることはない。何カ月かおきに、鋳(い)掛(か)け屋さんが一軒一軒廻り修理をしてくれた。リュックサックに道具一式を詰め込んで来て、ハンダコテみたいな物で、見ている内に穴を直して仕舞う。水を入れ、漏れを確認し、すぐに隣へと急いだ。代金として米を上げた。
どこの家でも引き臼があり、屑米の粉砕、大豆でキナコ作り、そば粉作りなど、一年中使用した。毎年一回の割りで引き臼の目立て屋さんが来る。見ると、柄のついたタガネでたたいて目立てをしていた。上下二つの臼のすりあわせで粉が出来る。ばあちゃんと何時も二人で粉引きをした。一回りする度に穴に少しづつ入れて廻すのだが結構重たかった。キナ粉を作る時はばあちゃんは三粒位しか入れない。重いので俺が、十粒ほど入れると軽く廻る。「それじゃ駄目だ、そんなに入れたら粉にならん」と言われた。
目立てをした後は、粉によくなった。その粉で団子などを作り食べさせてくれた。
漬け物用樽、味噌用の樽など大小沢山あった。新しい時は良いけれど、古くなったり使用しなかったりすると隙間が出来、駄目になる。桶屋が来て修理となる。隙間に何かをつめて、竹のタガを締め漏れないようにして行く。それでも秋の漬け物時期には川縁に樽を並べて水を入れ、水漏れを防いだ。
マッチ類も不足して、充分に使えず、使用しないように務め、火付け木を作った。屋根用の柾屑を七〜八aほどの長さに切り、五〜六_位の巾にして、缶詰缶に硫黄を入れ、ストーブの上に上げておくと硫黄が溶けどろどろになる。そこに作った柾屑を先の方に付けると硫黄が付き、乾かすと出来上がりだ。
寝る前に、ストーブの中のおき(・・)を、火鉢の中の灰に穴を開けて入れ、その上に灰を沢山かけて置くと、翌朝になっても幾分火種がある。そこへ、硫黄の付いた付け木を近づけるとすぐ火が付き、マッチ代わりにした。
軍用植物
役所の人達が来た。小さな紙袋の中に色々な種が入っている。三種類の種を畑に蒔いて作ってくれと言う。
タバコ、麻と、名は忘れたがもう一種類。作り方や収穫時期など色々説明していた。タバコは種を蒔くと芽が出た。枝から葉が出て大きくなり、長さ四十a巾は十五〜二十a程の大きさになった。係の人が時々見に来て、何枚あるか確認していく。ある程度大きくなると採って持っていった。「どうするのかと」聞いてみたら「乾燥して兵隊さん用のタバコする」と言う。」その為、一枚でも粗末に出来ないので上手く栽培して欲しい」と言う事だった。
麻(今の大麻みたいなもの)は、割と作り易く、一b程に成長した。麻は、良い繊維があり、兵隊さんが色々な事に使用する為に必要らしく、係の人もよく判らない様だった。麻も大きくなったら、係の人が刈り取り、全部持っていった。麻の実がこぼれ落ち、次の年には沢山芽が出ていた。
もう一種類は豆類であった。大豆と中長豆の中間の大きさで黒い色をしていた。
種を蒔き、心配した芽も出て、大豆か小豆の大きさに成るのかと思ったら、草丈は六十〜八十a程になった。枝も沢山付き、一さやに三〜五個は入っていた。種が黒かったので、大きくなったものを剥(む)いて見たがまだ青かった。
秋になると、係の人が来て刈り取りを手伝ってくれ終わらせて貰った。この豆は食べられないので何に使うか聞くと、「飛行機のプロペラに使う」との事だった。
当時の飛行機は木製(解説)で、木を張り合わせて合板にする。プロペラも合板で、ねじられて作られ、どの様な糊を使っても、廻っている内にはがれてくる。それを防ぐのに、この豆の絞った油が一番良いそうだ。「本州で作っていたが人出もなくて困り、北海道で作るのだ」と言い、帰り際「どうもありがとうございました」とお礼を言って帰って行った。
飛行機のプロペラの他に、胴廻り等にも木材の合板が使われていた。
その接着材の材料に、山ブドウの新芽、つる等を取ってきてくれとなった。それで山に行って、つるを取って、市街地の牛乳集荷場(現こだま歯科医院前)に持っていくと、重量でお金をくれた。
自転車に結わえ、この位だと何貫目位あると思っても、集荷場で計るとあまりなかった。他の人は、朝早くか、雨降りに取ってきて、「濡れ気味の時に持って行けば良い」と教えてくれた。
解説 木製飛行機:日本に木製飛行機があった。名称は「ク七」という大型滑空機で、昭和十七年二月に軍から日本航空工業株式会社に試作の発注がされている。会社ではすぐに京都製作所で基礎設計に着手し、五月には本格的な設計に入り、十二月には設計を完了。社内では「まなづる」と呼ばれていた。このような大型で木製の飛行機であるため、一筋縄では完成しないことは事前から予想されており、周到な計画が練られまた。
まず、強度試験用の「ク七T」が十八年一月に完成し強度試験が完了したのは三月、その結果を反映した実用型の「ク七U」を着手したのが六月で翌年十九年七月に一号機が完成した。
開発にあたって、できるだけ軽合金材料を節約することを目的としていたため木製化が図られた。(出典 『創業百六周年』 大阪府 中川木材産業株式会社)
軍用犬と猫
どこの家庭にも犬や猫がいた。今はペットとして飼っているが、この当時は、犬は番犬用、猫はネズミ捕り用だった。
兵隊さん用の毛皮として必要とされた。係の人が協力して欲しいと言う。可哀想だが仕方がない。協力者には後日連絡案内が来て、島津の基線北二十五号(今の富町一丁目「わかば中央保育所」の位置)に連れて行かなければならない。
当日、猫は袋かカマスに入れ、犬は首輪に紐を付けて引っ張って行った。犬には毒マンジュウを食べさせた。十分位でけいれんしひっくり返った。
国防婦人会
国防婦人会(解説)と言うのがあった。母さん達、女子青年団達で構成され、月に一回位、小学校のグラウンドに集まり、竹ヤリや、防火訓練などをしていた。皆んな防空頭巾をかぶり、かっぽう前掛け、もんぺ姿であった。
竹ヤリは飛行機で米軍の兵隊が、落下傘で降りてきた時に竹ヤリで下から、突き刺すと言うのだ。
防火訓練は爆弾を落とされ、火事になった時にと、バケツに水を入れて手渡しで、皆んな並んで運んで消火するという。
今になって、馬鹿な事をしていたと思うが、その時は皆真剣に取り組んでいた。
解説 国防婦人会:一九三二年から一九四二年まで存在した日本の婦人団体。略して「国婦」。割烹着と会の名を墨書した白タスキを会服として活動。出征兵士の見送りや慰問袋の作成など、銃後活動を行った。
空 襲
米軍の艦上戦闘機グラマンが、本州の方ばかりかと思っていたら、北海道にも来た。昭和二十年七月十五日、上富良野にも空襲警報が鳴った。外に出て見ると、富良野(解説)の方に爆弾を落とされ、煙が上がっているのが見えた。
その後、国道沿いに上富良野へ向かって大きな飛行機が何機もやって来た。どうすることも、逃げるところもない。その内に俺の家の真上を低空で、深山峠の木にぶつかる位の高さを維持し、旭川の方へ飛んでいった。旭川(解説)は大分やられたらしい。
次の日から、「又、飛んで来るかも知れない」と言う事で、防空壕を掘ることになり、畑の隅に掘った。上の層は良かったけれど、下の方は固くて掘れない。上に板や木を並べ、ムシロを掛けて、土をかぶせた。中は狭く、「米軍の爆撃機が来たらその中に入って隠れる」と言っていたが、それきり飛んでは来なかった。その内、八月十五日終戦を迎えた。
解説 富良野空襲・旭川空襲:『北海道空襲 一九四五年七月十四 十五日の記録』によると、一九四五(昭和二十)年七月十四日にB二十九が二十機及び米機動部隊艦上機延三百機が本道の主要都市を空襲、翌十五日に旭川・函館・室蘭・帯広・釧路・網走・根室・本別・富良野等に大空襲があった。
旭川では七月十五日、国策パルプ旭川工場や松岡木材近文工場が襲われ一部炎上し、駅にあった貨車も襲撃され、師団練兵場内の飛行場に着陸していた爆撃機呑竜二機が爆発炎上した。
富良野市では七月十五日に、病院や富良野駅が攻撃を受け五人の死者が判明している。
終 戦
昭和二十年八月十五日。天皇陛下より戦争が終わったと、ラジオ放送があった。広島・長崎に原爆が落とされた事で、もう駄目でないかと感じた。
米軍が乗り込んできて何をするか判らない。実際に満州辺りに行った人達の話では、女の人の毛の長い人同士の長い髪と髪を結び、ハサ掛けの様にぶら下げたり、若い女の人を見付けると押さえつけたりしたと言う。日本の兵隊さんが来ると、豚や牛は放し飼いで、糞が何処にでも落ちている。それを体の至る所に塗って臭くして防衛していた。
日本でも米軍やロシア軍が来たら大変だと、丸坊主にした母さんもいた。服装も男物を着て、男なのか女なのか分からなかった。心配したがそう言うことはなかった。
俺達は高等科二年で、春から秋にかけて殆ど学校に行かず家の仕事をしたことは前に書いた通りであり、その様などさくさの中で俺たちは卒業(実は修了。解説の修了証明書参照)した。
掲載省略:卒業証書に代えて渡された修了証書
解説 修了証明書:勲氏は、昭和三十四年に同じ草分地区に住む寺尾藤子と結婚。この年を限りに農業をやめ、三十五年から高橋建設に就職し働いた。何年か勤めると、何でも免許の時代となるからと、その取得方法を調べると、学校の卒業証明書、又はその写しを添付することになっていた。
卒業証書は何処に行ったのか手元にないため。上富良野小学校に行って調べて貰うと、卒業者台帳証明の欄には、「国民学校高等科の課程を修了した事を証す」とあるのみで、他の年次の者の「卒業した事を証す」と異なる表示になっている。
事務長が「卒業と修了とどう違うのだろう」とつぶやき、書棚から事典を出してきて調べ始めた。高等課二年の全部を終了した者が卒業者で、戦争末期から終戦直後の昭和二十年度はまともに授業が行われていないので卒業とはできなかったのである。このような状況は、北越氏周辺だけではなく全国全ての学校で発生した状況で、落第等で進級・卒業・進学を滞らせる訳にいかないので、苦肉の策として「修了」として学年次を送ったようである。事務長とともに北越氏が明治から、大正、昭和と続く卒業者名簿を確認したが、これまでに修了とあるのは、昭和二十一年三月の自分達の同窓生だけであったという。全国各地で、様々な学校の記念式典に際して、未交付の「卒業証書」を追交付するイベントが行われてきたようで、多くのマスコミ記事に残されている。
父が語った従軍
昭和二十二年父がシベリアから帰ってきた。
父の話によると、小樽より船に乗り何日もかかって着いた所が、北千島の占守島(しむしゅとう)。ソ連のカムチャッカ半島のすぐ南で肉眼でも見える所だ。
そこへ北方の守備で軍務に就くことになった。
軍事郵便の葉書は一月に十枚支給される。足りない人は、家より二銭の葉書を慰問袋に入れて送って貰う。手紙は禁止され、書く内容は限られ、日付、場所等機密情報となる物は、検閲所で中身を確認して、都合の悪い部分は墨で黒く塗りつぶす。ひどい物は取り上げられた。
通った物は検閲済みの印を押して、届けられた。
食糧は充分にあるが、食糧を積んだ船が米軍の魚雷で爆撃を受けいつ届くか判らない可能性かあり、節約して食べた。
魚は小さな小川があり、海から沢山上ってきて、手で掴めるくらいだった。
鮭は、川の水が見えない位固まって上って来た。それを、米代わりに食べた。初めは美味かったが、飽きて来て身は食べず、筋子ばかり食べていたという。
父は、機関銃隊で、機関銃の眼鏡でカムチャッカ半島の方を見ると、海岸をソ連兵が鉄砲を担いで歩いているのが見えた。
終戦の昭和二十年八月十五日。上官の人達は、大本営より戦争に負けた事は知らされ、判っていたが、下々の兵士には何も知らされず。いつものように公務に当たっていた。
何日かして、ソ連の船が来て、ソ連軍隊が占守島に上陸して来た。目的は、日本軍の武装解除と撤収を促す為らしい。お互いに言葉が通じず、通訳もいないので、話が分からない状況となっていた。
この時、日本の上官は皆、腰に日本刀をささげており、この刀でソ連の上官らしき人達の首をはね、上陸してきた大勢の人を殺して仕舞った。
その後、ソ連の軍隊は船から艦砲射撃。空から爆撃機がきて爆弾を落とした。終戦後の戦いは、何が何だか判らず、抵抗も出来ず、大勢が戦死した。父は弾の破片が飛んできて足に当たりけがをした。
その後、ソ連兵が上陸。すべての物を引き上げて行った。
掲載省略:地図〜北海道からカムチャッカ周辺
掲載省略:戦時はがき〜戦地の父から母宛に届いた葉書
シベリア抑留
十月中旬、占守島にソ連の船がやって来た(解説)。「帰してあげるので船に乗れ」と言われ、喜んで船の人となった。小樽に着くか、舞鶴かと楽しみにしていた。数日経っても海ばかりで何も見えない。その内に島か陸が見えて来た。
漁船に乗って日本中の海、島、港を廻って覚えている戦友が、「日本中にこの様な海岸は何処にも無い」と言っていた。「下船せよ」と言われ、降りた所がウラジォストックだった。少し休んで、今度は汽車に数日間乗せられ、着いた所はシベリアの捕虜収容所。
寒い所での作業は大変だ。食糧は一食。黒パン一個。腹がへって、ソ連人の捨てたゴミ箱を見付け残飯の他、カラスがあさる如く、何でも食べた。栄養失調になり、死亡する人が沢山いたという。
解説 ソビエト連邦軍占守島上陸とシベリア抑留:シュムシュ島は千島列島北東端に位置し、四十五年八月一日にソ連軍が上陸した。
島を守っていた日本軍と激しい戦闘になり、二十一日までに両軍合わせて三千人以上が死傷したといわれる。その後、武装解除された日本、守備隊のうち、約四千人が極北の港湾都市マガダンに移送された。氷点下五十度の環境で鉱山労働やレンガ造りなど重労働を強いられた。永久凍土を鉄の棒で少しずつ削って建物の基礎をつくったり、寒さと疲労で労働現場に向かう行進中に倒れてしまう抑留者が次々に出た。食べ物は小さな黒パン、雑穀のかゆ一杯などしか与えられず、ノルマの達成度に応じ給食量が変わるなど食糧事情は劣悪であった。
父の帰国
父は、占守島で足を怪我していたため診療所での抑留生活を送った。半年程経ったある日、隣の病室に行ったら同郷、上富良野の健名正之さんの入院を知った。偶然の再会に、お互いの無事を喜んだ。しかし、難病で、食事も摂れないほど弱っていた。
健名さんは、宮町三丁目の健名工建代表取締役、健名康則さんの祖父に当たる。父とは同年で、兵隊検査も同じ日に受け、上富良野から同じ日に出征した間柄であった。
父に帰国の連絡があった。その事を健名さんに伝えると、「もう俺は帰れない。外に出ることも無理で、ここで死ぬ事になるだろう」と父に泣いて話した。妻のマツノさんと、その子どもたちに長々と手紙を書き、父に持ち帰ってくれと手紙と色々な小物を袋に入れて託された。
いよいよ待ちに待った帰る日が来た。汽車に乗り、港に着くと、乗船前に持ち物検査があり、「何一つ持ち出しては駄目」と言う事で、パンツとシャッだけになり、健名さんの手紙も持ち物も全部没収された。
何日も船に揺られ、舞鶴に着いた。幾日か過ぎた頃に無事、我が家に帰って来た。栄養失調で、骨と皮だけの姿だった。家のご飯を食べると、「白米の味を思い出した」と、茶碗に五杯も六杯もお代わりをした。母や、祖母が「あまり食べると、腹を壊すから、もうやめれ(食べるな)」と言っていた事を時々思い出す。
父も大分元気になって、「健名さんに兵隊の話をしたいと」連絡し、家に来て貰った。奥さんと、子ども達が来た。色々な健名さんとの思い出話を事細かく、父は泣きながら話す。健名さんの家族も泣きながら聞き入っていた。俺も、家の者も皆、泣きながら黙って聞いていた。健名正之さんは二十二年七月三日。異境の地シベリアにて病没している。
この稿の終わりに
俺の国民学校高等科時代、昭和十九(一九四四)年四月から昭和二十一(一九四六)年三月は、今の中学校一年・二年生に当たり、戦争末期から終戦直後の何につけてもひどい時代だった。
戦争が俺たちみたいな庶民に、どんな生活を強いていたか、少年から青年に変わる頃の俺の記憶を残しておきたいと思う。俺の身の回りのごく狭い範囲の出来事だけど、当時の誰とも大して違いがなかったのだと思う。
この後、国民挙げての戦後復興が始まった。
==「勲(おれ)の昭和平成追憶史」編集の経緯==
郷土をさぐる会編集委員の私(下記)は、上富良野高齢者事業団の理事長を勤めており、上富良野高齢者事業団三十周年事業特別企画として北越勲氏著作の『勲(おれ)の昭和平成追憶史』を二〇一九(令和元)年五月三十一日付で事業団の責任において出版した。A4判カラー版で本文六十三ページに及ぶ大作となっており、北越氏の関係者の他、当事業団会員を中心に頒布させてもらった。
郷土をさぐる誌第三十五号(二〇一八年四月一日発行)に当会の岡田三一編集委員が担当した「戦中・戦後の学校と生活の記憶」と題する座談会記事を掲載している。
この座談会に北越勲氏も参加していて、この中での尋常小学校・国民学校高等科在学中に関する記述が、戦中戦後をまたぐ二年間に凝縮される様な形で、大きく変わる社会状況が少年期の目線で興味深くつづられている。
座談会に掲載された発言内容と出版された本と重複する部分もあることから、これを支障のない範囲で割愛するとともに、尋常小学校・国民学校高等科在学中の日常を中心にした記事を、再編集の形で手を加えさせて頂き、掲載させてもらう事にした。
なお、『勲(おれ)の昭和平成追憶史』本編は図書館に寄贈されており、興味のある方は是非閲覧されます様ご案内致します。
(編集委員 田中 正人)
機関誌 郷土をさぐる(第37号)
2020年3月31日印刷 2020年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀