海軍戦時徴傭船『長田丸』乗船記
故 生 駒 清
昭和三年九月五日生 平成二十六年四月十二日没(享年八十七歳)
乗船した長田丸の緒元と船歴
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船種 貨物船
総トン数 二千九百六十九トン
長さ 九十三・一〇米
主機 レシプロ一基二千六百馬力
速力 十一ノット
竣工 昭和十二年二月十五日
建造所 三菱重工業横浜船渠(ドック)
掲載省略:写真〜日本郵船「長田丸」
《徴用関係歴(船歴)》
○海軍裸傭船(横須賀鎮守府所管)
昭和十五年九月十四日より十七年七月十日
特設砲艦(昭和十七年七月十日より特設運送船)
○海軍期間徴傭船
昭和十七年七月十日より十九年四月二十二日
《遭難関係記録》
遭難日時(一回目) 昭和十八年十月二十九日 午前一時三十分
遭難地点 千島列島択捉島の北西約六十マイル 北緯四十五度三十分東経一四六度〇〇分
遭難状況 大泊より北千島へ向け航海中雷撃を受け小破、同航船永保丸が救助
搭載物件 木材約八〇〇〇石 犬九九頭
船団名 不明
僚 船 一隻(注、永保丸・地方徴傭船)
護衛艦艇 駆潜艇 一隻
遭難日時(二回目) 昭和十九年四月二十二日 午後七時三十五分頃
遭難地点 仏印サンジャック沖
遭難状況 昭南(注:シンガポール)よりサンジャックへ向け航海中空爆を受け四月二十二日午後七時五十分頃沈没
搭載物件 便乗者 一○一人
ニッケル鉱その他 計三、一一〇トン
船団名 シサ十七船団
僚船名 ろんどん丸 広隆丸 日新丸 第三山水丸
護衛艦艇 第九号駆潜艇
備考 昭和十四年九月八日近海郵船より継承
編集注:徴傭と徴用〜戦時中の船舶は全て船舶運営会が徴用(管理)しており、その中から陸・海軍の管理運用下に置かれたのが徴傭船となった。通常民間乗組員とともに傭船されたが、船舶のみを傭船し軍人が乗り組む場合は裸傭船といった。
同僚留守宅へ戦死の通知
〈拝啓 陳者既に海軍当局より御宅へ御通知ありたる事と存じ候得共御乗船中なりし山田眞一殿には、去る四月二十二日仏印方面に於(おい)て名誉の戦死を遂げられたる旨当方へも通知有之候右公報に接し候こと御家族一統様の御心情を深く拝察茲(ここ)に謹んで哀悼の意を表すると共に御冥福を祈上候
追(つい)而(じ)一 機密保持上御乗船名等は一切他へ御漏(もら)しなき様御留意下(くださり)度(たく)為念(ねんのため)申添(もうしそえ)候
追(つい)而(じ)二 事務取扱上の都合有之候に付最近の戸籍謄本一通至急当方へ御送附被下(くださり)度(たく)候〉
発信人は日本郵船の庶務部船員課長家田剛で、日付は昭和十九年十一月十六日、『秘、親展、速達』と朱肉が押され。山田眞一の留守宅である下関市長府町の父山田善之助の手元に届いた。戦死した船員の遺族に通知する当社(注、日本郵船)からの第一報である。既に軍から簡単な戦死公報を受領しているとはいえ、公報後の生還者の例などもあって、家族にしてみれば万に一つの僥倖(ぎょうこう)を頼みにしているのだが、会社から届く通知はそうした気持ちに終止符を打つようなものであった。
だが、この通知文でもわかるように、戦死した日は四月二十二日であるから、戦死はそれから七か月後に確認されたことになる。
会社では軍からの遭難通報を受けると、軍とは別に支店や出張所にも指示して、少しでも詳しい資料の収集に努める。そして、より確実な資料を得た上で軍の許可を待って家族に通知する。従ってこうした通知文はやや遅れるが、戦死者の全遺族に向って発送されたのであった。
この悲しい通知に接した遺族たちのうちで、近くに住んでいる者は、必ずといってよいほど会社の船員課を訪ね、さらに詳細な事を係に聞き質す。特に十九年以降の船員課は、こうした不幸な訪問客が連日詰めかけて課員の気持ちは毎日が通夜のようなものであった。
長田丸の三運(注:三等運転士、後段にも同様の短縮職名あり)として乗船していた山田眞一が家族に出した最後の手紙は、昭和十九年一月十九日付の母にあてたもので、それ以後は音信不通となっていた。一月十九日は、山田が『浅間丸』から長田丸に転船して間もなくであるから、そのわずかな期間に出したものであろう。
十九年に入ると敵の反攻は急ピッチに進み、日本は次第にのど輪を締め付けられる形でじりじりと後退し、広漠たる海や空を制しているものはほとんど敵ばかりという状態になった。従ってその危険な海を行く輸送船は、まさしく特攻隊と同じ覚悟を必要とした。ある船員はその頃の航海について、「私は毎日、棺(ひつぎ)に乗っているような気持ちです。しかも棺はわざわざ屠殺場に近づく」と正直に述懐した。死を怖れているのではない、ただあまりにも無謀無策な船団作戦に嘆息しているのだ。船長以下、乗組員がいかに死力を尽くしてみても、その死力には自から限度がある。船団護衛の重要性がもっと深く認識されていたら、これほど莫大な損害は出さずに済んだであろう。
特設砲艦と輸送船として航海
山田が乗っていた長田丸は近海郵船が北海道航路用の貨物船として『生田丸』と共に新造したもので、昭和十二年二月、横浜船渠(ドック)で竣工した。しかし、昭和十四年近海郵船が合併されるに及んで、長田丸も当社に帰属した。
昭和十五年九月、海軍に徴傭された長田丸は特設砲艦となり、約二ケ年間として、マーシャル諸島方面の哨戒、警備の任務に就いていたが、十七年七月、新たに特設運送船として人員、物資の輸送をすることになった。翌十八年五月からは、北海道を中心に樺太、北千島方面に活躍した。
昭和十八年十月、樺太から木材や樺太犬約百頭を搭載し北千島に向かう途中、国後水道北方において敵の魚雷攻撃を受けた。幸いに命中した二弾とも不発であったが、命中した四番艙(よんばんそう)には大穴があき、海水の浸入で船尾は海面すれすれまで沈下した。だが、必死の排水作業を続け、約二十四時間後に網走沖に投錨した。積み荷のラッシング(注:航海中の荷崩れ防止のため、ロープ等で貨物を固定すること)をやり直して再び抜錨し、水船のようになって北海道の北岸を巡り、稚内から小樽を経て大湊に入港して修理を待った。
編集補足:青森県下北半島大湊町(隣接の田名部町と合併し現在はむつ市)の港で当時は海軍軍港。現在も海上自衛隊基地がある。
しかし、函館ドックの都合が悪く、横浜に回航を命ぜられた。仕方なく六十センチの穴にモグリ(注:潜水士)をたのみ、木でふたをして出港した。途中、釜石に避難するなどして、横浜に着いたのは網走を出てから十七日目であった。こういう航海くらい神経をすり減らすものはなく、横浜に着いた時には船長以下乗組員はホッとする思いであった。ドックに入り、穴を直し、前に浅瀬を通り傷ができていた。隣のドックに客船の『帝亜丸』一万七千屯が入っていて、全くビルのようであった。しかし昭和十八年の暮れには、日本軍は千島を含めた北辺の防備を捨てた。敵米軍の正面攻勢が比島(注:フィリピン諸島)から台湾方面に向かっていることが明確になったからだ。北辺の戦力は挙げて南方に転進した。
海軍徴傭船長田丸は、その前に船の魚雷の穴修理を終わり、満州の大連に向かった。大連で十九年の正月を迎えた。鉄を満載して帰る途中、朝鮮沖でしけに合い大変だった。八幡と若松に荷を下ろして横須賀に向かった。
掲載省略:地図〜雷撃を受けた地点
再び南方の戦場へ
横須賀に入港して防空隊を乗せて、デッキに上陸用舟艇を二隻と八センチ高射砲四門を積んで、十九年早々、一月二十二日出港した。戦艦大和が停泊していた。南方に配され、その後は南方と内地を結ぶ重要な補給線に就いた。
昭和十九年四月、セレベス島のポマラにおいてニッケル鉱、ボーキサイト(注:ジュラルミン原料)など三千百トン搭載した。その前に防空隊横須賀、呉の兵隊をアンボン島に夜業で降ろした。寄港順番は横須賀〜呉を十四パイ(注:杯、隻)船団で、高雄(注:台湾の地名)から四パイ船団でマニラに寄りミンダナオ島、カウ島よりアンボン島に向かう途中、コンソリ(注:コンソリデーテッド・エアクラフト社)B二十四の六機編隊の空襲に合う。爆弾三十六発落とし立去った。八米の至近弾で風呂のタイルがはがれた。
また、三パイ船団で航海中、夜、魚雷攻撃を受け、長田丸の喫水線を誤り、底を通り抜けて隣の船に命中、全速で逃げた。明るくなって見ると長田丸だけだった。
長田丸はポマラよりジャワ島のスラバヤに寄り、便乗者百一人を乗せてボルネオのミリに寄港して、三パイ船団にて昭南のセレタ軍港に約十日間停泊し、四月十九日午前八時、五隻の船団でサンジャックに向かった。長田丸は五番船で最後尾、護衛艦は第九号駆潜艇一隻という心細さであった。船団はマレー半島東岸を接航北上し、コタバル東方から仏印南岸のオビ島に向かって台湾を横断する航路をとったが、船団の行程は次第に遅れがちとなってサンジャック入港が遅くなりそうなので、途中から航路を変更しコンドル島に向かった。
掲載省略:地図〜当時の東南アジア周辺図
掲載省略:写真〜コンソリーデーテッド B-24爆撃機
空襲そして撃沈される
二十二日(注:昭和十九年四月)午後三時頃、コンドル島北方で船団を解き、各船はそれぞれ日没までにサンジャックに入港するように指令を受けた。長田丸は速力が出なかったので結局最後になり、サンジャック信号所の沖で錨地指定を待った。
その指令を受信している最中の午後七時半頃であった。突如、サンジャック岬東方から高度約三百米低空で進入して来る大型機を発見した。入港準備中のために船長や他の甲板士官たちはほとんど船橋(ブリッジ)に集まっていた。敵機五機のうち二番機は長田丸に低空で突っ込んで来て機銃掃射をし、数発の爆弾を投下した。まったく不意の出来事であって、事前に空襲については何の情報も受けていなかった。一弾は船橋と煙突の中間に命中し、轟音と共に赤い炎が噴いた。続く三番機も超低空の機銃掃射を始めた。この機銃掃射で後部デッキにあった爆雷一〇ケがいきなり誘発して大爆発を起こした。
艫(とも)(注:船尾)はいっぺんに飛び散り、肉片、崩れ落ちる船橋、艫よりだんだんと沈み奔流のごとく浸入してくる海水、白煙と猛火の中に炸裂する爆発音、船内は相互の交通連絡も遮断され、瞬時にして修羅場となった。船橋にいた船長水木正信、二運上野要、三運山田眞一、操舵手渡辺修治郎、同石橋滝太郎の五人は最初の爆弾命中の時に吹き飛ばされて船橋には一塊の肉片も残さなかった。
蒸気が吹き出し、船橋の機関銃の弾は破裂して飛んでくる。船首にいた伊東一運は直ちに水木船長に代わって指揮をとり、機関を全速のままサンジャック灯台沖合二マイル半くらいの浅瀬に突っ走り、座礁させることによって危うく全没を食い止めた。午後七時五十分ごろ、船橋の一部と船首楼、砲台だけが水面に残った。
機関室にいた者は助かったが、船橋の真下にあった事務員室では、事務員徳江松平が吹き飛ばされ、自室にいた操舵手中島静もやられた。二番艙付近の上甲板に出ていた甲板員宮沢二郎は、身を伏せる暇もなく銃弾に倒れ、二等調理員戸川儀雄は爆雷の誘発で死亡した。幸いに死を免れた乗組員は便乗者たちと共に短艇(注:ボート)で退船し、その後、護衛艦に救助された。伊東一運が退船しようとした時には短艇は既に満員であったので、遅れた者たちと共に筏(いかだ)に逃れた。
不意に来襲した敵機に対して、輸送船としては防御の方法がなく、可能な範囲で全力を尽くしたけれども、結果として船団は惨憺たる最期を遂げた。サンジャックに入港した五隻の船団のうち、『日新丸』一隻だけがどうにか沈没を免れたものの、他の四隻はことごとく烏有(うゆう)に帰した。免れた『日新丸』も、それから一か月と経たない五月十六日、ボルネオ付近で同じ運命をたどった。
生き残って帰国の海路
その日の夜中に救助された者はサンジャックに上陸できたので、翌朝、夜の白むのを待ってサイゴンに向かった。重傷を負った操舵手中島と甲板員宮沢はサイゴンの海軍病院に収容されたが、四月二十四日、相次いで死亡した。残り三十九人の乗組員たちは入院中の甲板庫手木部と甲板員見習と二人、傷病患者の面倒でサイゴン残留を命ぜられた一機(注:一等機関士)下田、事務員山田を除き、三班に分かれて内地に帰ることになった。乗組員柴田旗多生ほか六人は徴兵検査のため、五月六日の便船『万光丸』で他の者より早く内地に帰った。次いで、三機花沢勲ほか十八人は漁船に便乗して昭南に至り、そこから『帝亜丸』に移乗して内地に帰った。最後の伊東一運ほか九人は第三班として二○○トンくらいの機帆船に便乗し、六月二十二日、サンジャックを出帆して二十六日昭南に着いた。昭南では約二十日間待たされたが、七月十七日、三井物産の『白馬山丸』六千屯貨物船に便乗して昭南を出発した。
船団はマニラに立ち寄り、二十六日、同地を出発して高雄に向かったが、二十八日、『白馬山丸』も日中午前十一時バシー海峡にて魚雷攻撃を受けて沈没した。伊東ら十人は再び海に投げ出されたが全員僚船に収容され、八月一日、高雄に着いた。三日、同港発の『筥崎丸』に便乗できた一行は、十日にやっと門司に帰り着くことができた。
長田丸乗員名簿(昭和十九年四月二十二日現在)
死:遭難時戦死者(七名)傷死:昭和十九年四月二十四日サイゴン海軍病院戦傷死者(二名)
船長 水木正信(死) 一等運転士 伊東 武 二等運転士 上野 要(死) 三等運転士 山田眞一(死) 機関長 尾崎五郎 一等機関士 下田 束 二等機関士 渡辺昌利 三等機関士 花沢 勲 事務長 徳江松平(死) 通信士 染谷喜治 (役員十名) 執職甲板長 田辺正親 執職船匠 平井一郎 甲板庫手 木部主計 一等操舵手 渡辺修治郎(死) 二等操舵手 中島 静(傷死) 二等操舵手 大家秀一 二等操舵手 石橋滝太郎(死) 三等甲板員 柴田旗多生 三等甲板員 郷間守義 三等甲板員 池本友也 三等甲板員 宮沢二郎(傷死) 三等甲板員 川井五郎 三等甲板員 生駒 清 甲板員見習 丸森昭四郎 (甲板部十四名) 機関長 瀬口 久 執職機関庫手 壹川幸造 一等操機手 山根和助 一等操機手 山崎寛一 一等機関員 黒川惣一 一等機関員 重田正雄 二等機関員 中西四郎 三等機関員 高島茂雄 三等機関員 相馬一男 三等機関員 赤松義弘 三等機関員 今仁得造 三等機関員 上野秀夫 機関員心得 林喜伐積 機関員見習 間山年雄 機関員見習 石岡高次 (機関部十五名) 事務補 山田 正 一等調理手 野崎弥治平 二等調理員 久保日出夫 二等調理員 戸川儀雄(死) 三等調理員 佐藤正幸 三等調理員 浜岡宣一 三等司厨員 木之元勝次郎 三等司厨員 金沢輝知 三等司厨員 東郷武志 (事務部九名) 総員四十八名
《参考文献》
土井金次郎『撃沈された船員たちの記録』(光人社)
大内健二『特設艦船入門』(光人社)
キスカ会編『キスカ戦記』(原書房)
編集に際して
同じ町内会に住む、生駒清さんの葬儀の際。本人がB五判のノートに貨物船の船員であったことと、乗船していた会社の船が海軍に徴傭された貴重な体験の手記を残していることを知った。家族から借りて読んでみると、撃沈された経過を詳細に記録している手記で、死と隣り合わせの赤裸々な戦時下の体験を知ることができた。
戦時中、多くの商船と貨物船が陸・海軍の軍用船として徴用されていた。日本は、近代戦の基本となる補給作戦に無知で、輸送船団に十分な護衛をつけることなく戦場に向かわせた。米軍は、兵員・兵器、軍需品を積載した貨物船を沈め、戦う前に戦場に補給される戦力を皆無にする戦略であった。
生駒さんの手記にある、「傭船」を広辞苑で引くと、「船の一部または全部(船員を含めて)を借り入れること」とあり、乗船していた貨物船と乗組員が海軍の徴傭船となったことがわかった。乗員名簿の中に「船匠」という職種がある。広辞苑で引くと、「船大工」とあり、なぜ、船に大工職があるかは船体に穴が開くとかの緊急時、すぐに漏水修理のため木材を加工してふさぐ必要から乗船していたのである。
手記の船歴にある「特設砲艦」は、長田丸が武装を施され、南方で船団護衛の役目をするために改装されたようだ。海軍内では、「第八十一号砲艦」という略称を与えられていた。貨物船で編成された輸送船団の護衛で、ビキニ・クェゼリン・マーシャル諸島・マキン島・サイパン島の海域を航海した。
昭和十七(一九四二)年七月十日、それまでの砲艦の役目から解かれて、特設運送船として北方海域に配置され。手記では触れていないが、アッツ島からキスカ島への「北海支隊」輸送に従事したので、同郷出身兵士の部隊を輸送したと考えられる。
キスカ会編『キスカ戦記』四五二頁〜四五五頁には、昭和十七年八月二十七日から九月十八日の二十三日間、長田丸で転進した部隊行動の記述がある。アッツ島のアリュート族住民もキスカに移動となり、部隊の移動完了後。九月下旬に長田丸でアリュート族住民を小樽港へ護送したと四一五頁に書かれている。昭和十八(一九四三)年十月二十九日、択捉島近海で雷撃されたが沈まなかったとあるが、米軍の魚雷は不具合で不発が多く。改良された魚雷が配備される過渡期で、装備が更新されていなかったのが幸いしたようだ。
(編集委員 三原記)
機関誌 郷土をさぐる(第37号)
2020年3月31日印刷 2020年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀