上富良野に生きて(三)
倉 本 千代子(九十一歳)
前号から続く
初めての冬山出稼ぎ
そしてまた冬が来て、今度は十勝の造材山に出稼ぎに行くことになった。常識では考えられないことで父が許すはずがなかったのだが、従兄が部落の気心の知れた若衆数人を連れての請負仕事なので、姉に炊事をしてほしいと言うことで父は何も言わなかったが、暗黙の了解を得たものとして又もや未知の世界へ飛び込むことになった。私は付添い兼、監視役のようなもので…。
柳行李(やなぎごうり)を姉が背負い、私は風呂敷包みひとつで、見たこともない十勝を目指した。朝一番列車に乗り初めての遠出だ。狩勝峠では列車が立ち往生、バックをして出直すこと幾度か、曲がり曲がりに上り下りの激しい林の中の線路が続くことどれほどの時間を要したのか、新得で乗り換え次の屈足(くったり)駅に降り立った頃には、辺りはもう薄暗くなっていた。
そこからは一本道と聞かされていたものの、家一軒あるでなく行き交う人もない雪野原を只々歩き続けるうち、日はとっぷり暮れていよいよ心細くなっていた時、不意に後ろから人の気配がして誰かが近づいて来る。なんと飯場に戻るところだと言う知人だった。正に地獄で仏、勇気百倍だ。
なお歩き続けてやっと飯場の灯りが見えて来てホッとしたものの「何でこんな山奥に来たのだろう」と先ず後悔した。みんなは大歓迎をしてくれたが…。其処(そこ)は近年になって、上富良野から見て十勝岳の裏の登山口として知られるようになった「トムラウシ」と言う所だった。
飯場と呼ばれる住まいは壁も屋根も笹葺きで、床は板敷きの真ん中が土間で、二メートル程もの長い薪(まき)ストーブが焚かれ、暖をとり煮炊きもして、鍋釜も何もかもがスケールが大きくて重労働、姉は大変だったと思うが私はあくまでも小間使いなので…。
当時はまだ十勝と言えば寒くて「不毛の地」と言われていて、一旦外へ出ると吐く息が白く、まつ毛がくっついて鼻の下には霜柱が出来るほどだった。
そう言えば、大正十五年の十勝岳爆発の泥流により田畑を失った人達が、十勝の地に活路を求めて移住したが、思いを果たせず「三年で戻って来た」と打ち明け話をしてくれた人もいて、「寒さに勝てなかった」と…。
掲載省略:写真〜造材に使われた鋸(上)と斧(下)
初めての恋もして
年が明けて間もなくのこと、人夫の一人が作業中に足を骨折する怪我を負い、病院へ運ぶにも手立てがなく先ずは事務所に知らせようと、何故か私が行くことになった。丸太を運んできたバチ橇(そり)に乗せて貰い山奥の事務所を目指したが、雪に覆われた密林の中の一本道を曲がり曲がって上り下りしながら寒さに震え、どれ程の時間を要したのか、やっと辿(たど)り着いた事務所の入り口に立った私は言葉を失った。今までに会ったこともない貴公子が出迎えてくれたから…。そして「私が新得の病院に連れて行きます」と自ら馬橇を設(しつら)え手綱をとって飯場に来てくれた。
道々、彼は清水町駅前旅館の一人息子で父親はなく、母はこの山のオーナーのお妾(めかけ)さんなので、その縁で山に来ているとのことで、樋詰(ひづめ)貢(みつぐ)と名乗った。
十五歳になったばかりの私はまだおかっぱ頭で、何時もは誰に臆することもなく接していたのに、その時ばかりは何を言ったか覚えていない。それからは「下の飯場に若い娘(こ)がいる」と言うので、丸太を運んでくる若い馬夫(ばふ)達もチョクチョク飯場に寄るようになった。
三月になり従兄が四月の召集入隊に備えるべく、私も一緒に帰ることになった。そして貴公子の彼も「戦地に行ったら手紙を書くので返事をください」云々(うんぬん)を残して山を去った。そして四月、ふる郷では連日出征兵士を見送る人が駅のホームに溢れ、日の丸の寄せ書きを背にした若者が列車の窓から身を乗り出し、家族との別れを惜しむ姿が見られたが、自分の行き先さえも知らされぬ侭(まま)に旅立っていった。
今でも記憶に残っているのは笹島先生のことだ。高等科当時格好いい先生が多くいたが、中でも笹島先生がナンバーワンで当時の人気俳優、上原謙似でより小顔、何時(いつ)も毅然としていて、私も陸上競技の指導を受けたが厳しいことで有名だった。只、少しだけ片足を引きずっていたので、誰もが兵役に服することはないと思っていた。当時、駅前の山本木工場事務所の並びに美人三姉妹が評判だった井上菓子店があり、意外なことにその長女の婿養子に入り、後に召集され戦死したと聞いた。
一方、矢張り四月に入隊したという貴公子の彼はまめに手紙をくれたが、次第に軍の検閲が厳しくなり、特にラブレターなどは論外で、本人に届く前に開封没収されるとの情報だったが、彼は「自分は上官に可愛がられているので大丈夫だから…」とのことだった。私は寧(むし)ろ「軍とはそんないい加減なところか」と反発を感じ、以後手紙を書くことはなく、十勝で拾った恋は半年で終わった。
春が来て
四月になると鰊(にしん)漁(りょう)が始まるので、山から戻った若者は留萌や増毛の浜に出稼ぎにいった。当時の海は大漁で、私の家でも父が雪解けの道を馬橇を仕立てて本家や分家の分と大量に買い入れ、家族総出で糠漬けにしたり数の子は乾かして正月用に、軒先には鰊の簾(すだれ)ができた。当時の鰊は脂が乗っていたので乾くにつれてポタポタと滴り落ちる程だった。本乾きになると手でむしり取って毎日おやつのように食べていたので、それが大きな蛋白(たんぱく)源になっていたと思う。
山菜の時期には蕗(ふき)やワラビと煮付けたり、生でよし煮ても焼いても万能な鰊は保存食としても貴重なものだったが、いつしか近海から姿を消して久しい。しかし、近頃になって留萌、小樽、函館、宗谷、釧路海岸などで群来(くき)(編集注:鰊が産卵のために大群で沿岸に押し寄せること)の兆候が見られたと報じられているので期待したい。
思い出すのは高等科の頃、石屋の親方村上某が亡くなり、子供のいないおばさんは当時、学校の近くで雑貨店を営みながら、山加農場にも離農地を買収し澱粉工場を営むなど、旭野部落の名士だった佐藤卯之助さんの常出面として働き、私の家の近くに木造のこじんまりとした家を建てて貰って住んでいた。この石屋のおばさんが、私が高一の春、体調をくずし飛澤病院に入院、何故か私が小間使いをすることになり昼食は佐藤石屋さんでいただくのだった。
その時ご馳走になった樺太産だと言う干し鰊が身が厚くて脂が乗ってピカピカ、その美味しかったことが今も忘れられない。
保存食と言えば野菜も同様で、家の周りでとれた人参、牛蒡(ごぼう)、大根、キャベツなどをいっしょくたにして筵(むしろ)で覆い土をかけ雪で囲って越冬野菜に。納豆作りにも挑戦したり私流で何でもやってみた。茹でた大豆を馬の飼料の藁で作った苞(つと)に入れ、雪の中に埋めて一週間もするとテッペンがへこみ(編集注:藁に常在で付着している納豆菌による発酵熱で雪が融ける)、フワーッと湯気が上がると出来あがりだ。ネバリもない只の煮豆に過ぎないのに、家族は不平も言わずに食べたものだった。
掲載省略:写真〜鰊漁の様子(おたる水族館サイトから)
部落の名物婆ちゃん
納豆で思い出すのが名物婆ちゃんだ。当時温泉道路(道々吹上線)の中間(現在、町の雪捨て場になっている少し手前)にバッタン木村と呼ばれていた一軒家があった。山頂からの湧水を利用した水車小屋があって、杵(きね)が下りる度に「バッタン」と音がするので「バッタン木村」になったそうだ。私が高等科に通っていた頃はまだ健在で、水車を通ってきた水が道路沿いに清流となり、行き交う人々は必ず足を止め、手ですくって喉をうるおすのがお決まりで、「美味しい水」と評判だった。
そこのお婆ちゃんは、冬になると大きな籠を背負って部落を廻り、「納豆はいらんかネー」と声がした時には籠の中身が見えていると言う早業で、豆腐・納豆・油揚げを売っていたが、しわくちゃな手も顔も見事に雪焼けした元気印の名物婆ちゃんだった。
一方、中茶屋(編集注:旭野山加と十勝岳国有林の境付近の温泉道路沿いに置かれた民営休憩所で雑貨販売も行われていた)にも工藤ひろさんという名物ばあちゃんがいて、こちらは白髪で色白、何時も着流しに白の割烹着で上品な物腰、豆腐造りの名人と言われ、私も時々買いに行かされた。休憩所にはお菓子やキャラメル、ようかんなども売っていたので、私は大好きなヨーチ(色砂糖のついた形も様々なビスケット)を買い喰いしていた。
ちなみに現在、中茶屋(編集注:地名として残っており、上富良野町営バス十勝岳線の停留所「中茶屋」もある。後述のとおり休憩所兼雑貨店の「中茶屋」の位置とは異なる)と呼ばれている所には、当時「中茶屋事務所」があった。富良野営林署が薪の払下げや木材を伐採した跡に次の木を育てる為に、夏期に笹を刈り苗木を植える造林作業をしており、その管理事務所として建てられたもので、常時二人の署員が駐在していた。
私も時折寄っては曽慶(そけい)さんと言う所長さんに「千代ちゃん」と可愛がって貰った。当時の中茶屋は、現在の自衛隊演習場の一番上手(十勝岳寄り)の入口の所、道々に架かる橋の手前南側にあり、山加川の水を使用していた。
再びの造材山へ
その年も私は仕事を持つでもなく、野菜づくりなど家事を担っていたが、秋になって地元の造材山に行くことになった。
当時富良野営林署が十勝岳の麓から木材を伐り出しており「官公の山」と呼ばれ、村中の人が働いていたが、その下請けをしていた及川さんの長男、勲さんが責任者で弟の熊夫さん(写真館を営んでいた)が事務責任者、私はその下で事務員に、姉は炊事婦、父も馬夫で丸太の中出しの仕事をすることになった。
私の仕事は伐採現場での丸太の受け入れで、その多くは蝦夷松(えぞまつ)、椴松(とどまつ)、樺(かば)など、杣夫(そまふ)が一米もの鋸で切り倒し、十二尺・十尺・六尺などに切断した丸太の切り口に巻尺を当ててグルリと廻し口径を測り、相方(あいかた)は受け入れ済を証明する○済の刻印をポンと押すだけの二人三脚、丸太の上を渡り歩きながらの仕事が終わると事務所に戻り、杣夫個々の石数(こくすう)を算出して伝票に記入、夜には各人に届けOKが出れば一日の仕事が終了になるのだが、私は算盤(そろばん)が得意だったのでいつも一発OK。小父さん達の信頼を得て毎日が充実していた。事務所と言っても笹で囲った掘立小屋で六枚硝子(がらす)の窓が寝室と事務室の二間に一枚づつ、八帖間寝室だけは畳敷きではあったが、一間だけなので小父さん二人はあっちの隅、女性二人はこっちの隅と言う具合で洗濯も出来ず着たきり雀で、正月休みが唯一の息抜きの時だった。
経済の悪化も深刻で食糧も米は七分搗きで、ご飯はパサパサ、ジャガ芋や人参、大根の味噌汁に沢庵(たくあん)と言う食事だったが、熊夫さんは胃が弱いと言うので私は一升瓶に米を入れて棒でつついて白米にして、お粥を炊いて上げて感謝されたが、それがまた大仕事で瓶の口に合う棒を探すのに苦労したり、米の適量はどれ位かなど「誰がこんなことを考えたのか」と思った時に、その状況を他で見たことがないので若(も)しかしたら私が考案者なのかもなんて自惚(うぬぼ)れてみたり。
しかし戦争末期で何もかもが不足で我慢を強いられた私の成長期は悲惨なものだったのに、何ら苦ではなくあたり前に過ぎて来た。
掲載省略:写真〜米の瓶搗き(東京都千代田区昭和館Webサイトから)
薪の払い下げ
出稼ぎから戻ってホッとする間もなく次の山仕事が待っていた。当時営林署では薪の払い下げをしており、山林を持たない我が家もそれを受けていたが、この年は父が体調が悪いため本家の伯父を頼みに、母と姉、私が十勝岳の国有林に行くことになった。伯父は杣夫の仕事では大ベテランなので、犬の毛皮で作った丈の長いベストや足元もフカフカの赤いケットで完璧な装備に鋸(のこ)・鉞(まさかり)等の道具も一流なのに、私達はありったけのものを着込んで長靴と言ういで立ちだ。
運が良ければ馬橇が通ったあとを歩いて吹上温泉までの中間辺りだろうか、先ずは許可番号の木を探し当て伯父は七ツ道具を器用に使い、直径一米もの真樺(まかば)などを切り倒し枝を払って、次は私達の出番だ。三人が倒木に添って並び矢張り大きな鋸で六十糎程に切ったものを伯父が、次はこれも刃幅の長い鉞で六ツ割りにしたら薪材の仕上がりで、次は中出しと言って手橇で温泉道路まで運ぶのが姉と私の仕事になるが、生木は重いのでせいぜい五本が限度、その繰り返しが曲がり曲がってアップダウンの激しい道で何度も続く。
そんな中で唯一の楽しみが昼食で、何せ見渡す限りの雑木林なので枯れ枝に事欠かない。この枯れ枝の焚火を囲み、「おにぎり」ならぬ「こうりゃん団子」の昼食だ。当時北海道ではお目にかかる事もない「こうりゃん」、主食として配給になったが、その食べ方もわからず、我が家では碾(ひ)き臼(うす)で粉にして、ビートを煮詰めたものを砂糖代わりに餡(あん)を作り団子にしたものだ。
もともと我が家は非農家なので、ビートは私が道で拾ってきたもの。ビートの収穫は農家の最後の仕事で雪の中で作業をしている人もいて、旭野では中の沢への入口手前の畑に集積所があって山加からも運んでいたので、その途中で馬車が揺れて落ちたり積み残されたものを拾って持ち帰り、薄切りにして煮詰めたものを砂糖代わりに作った黒い饅頭(まんじゅう)も、何とも美味だったことが今も思い出される。
しかし此処(ここ)迄の中出しはまだ半分で、家に届くまでの難作業が残っており愛馬「青」の出番だ。手綱をとるのは母で、助手は十六歳の私だ。その頃の温泉道路は馬橇が通るだけの狭いでこぼこ道で、手綱をとる母は立ちっぱなしで馬橇が傾く度に「次は右、次は左」と指示を出す。私はそれに従ってバランスを取る重しになるべく汗だくで奮闘したが、遂にはカーブで見事に転覆、北山さんの若衆に助けて貰ったり、やっと家の近くまで辿りつきホットしたのも束の間、吹きだまりにはまって「青」が動けなくなり立ち往生したりで四苦八苦、この時ばかりは「男子でありたかった…」なと。
掲載省略:写真〜伐り倒した生木を玉切して搬出(イメージ)
父の入院とリンゴ
年が明けてからの父はしきりに咳をしており、夜半に事務所まで聞こえていた。杣夫と同じ飯場にいたのだが周りの迷惑になるからと外に出て咳をしていたのだった。ひと冬の仕事を終えた頃には肺の病が可成り進んでいたのに、病院は嫌だと拒み続けていたが、四月になってようやく富良野協会病院に入院することになり、そしてまた私が付き添うことになった。
その頃にはもう戦争も末期で、医師の回診もなく薬も名ばかりの気休めで、食事は寒くて狭い地下室にコンロが三個だけの炊事場で自炊、木炭もなく病院のボイラーから排出される石炭の燃え残り(コークスと言っていた)を拾い木炭代わりにしていたが、時刻が不特定なのに加えて量も少なかったりするので拾いそびれたり…。焚き付けは、何処かの屋根から強風で飛んできた柾(まさ)を拾ったものだし、鍋はと言えば鉄製のものは鉄砲玉に献上したため、錻力(ぶりき)(薄い鉄板に錫をメッキしたもの)の鍋なので火の調整が難しく、手のろい私は、しょっちゅう父に叱られながらも何故(なぜ)か看病に縁があった。
そんな或る日、父はリンゴを食べたいという。何気ない世間話の中だったが、私は咄嗟に「山部村には林檎(りんご)農家が多い」と聞いたことがあるのを思い出した。翌日の朝食後、父には何も言わずに病院を出て只々山部をめざして歩き続け、布部を過ぎて尚どれ程の距離を歩いたのか、遠くの山際にそれらしき枝ぶりの木が見えて来たので迷わず、その家を訪ねた。大勢の人が集まっていて、その家の主婦らしき人は「これから今年の仕事が始まるので部落の応援を得て倉庫を片付け、箱に残っていたリンゴを食べたばかり」と。そして「私のが残っているのでこんな物でも良ければ持っていきな」と。代金は受け取って貰えなかったが…。そして「今の時期は何処へ行っても無いと思うよォー」とのことだった。
しかし、此処であきらめる訳にも行かない。一個のリンゴを大事に抱え、更に奥へ奥へと進みながら何軒かを訪ねたが「無い」と断られ、最後の一軒を訪ねると「昨日、地下室を片付けたばかりだけれど、或は一個や二個残っているかもしれない」と態々(わざわざ)地下室に降りて探してくれた。何とその手には四個ものリンゴが握られていたのだ。お礼の言葉も出ない程、有難くて嬉しくて涙がポロポロ。そこはもう村の境界で行き止まりだった。
気が付けば飲まず食わずで一日中歩き続けていた足は豆がつぶれて血だらけ。遂には靴を脱いで道端の草の上を歩きながら、遠くに富良野の灯りがチカチカ見えるのに遅々として近付かず、「今頃父は心配しているだろうに」と気が急(せ)くのに、血が滲(にじ)んだ足は進んでくれず遠くの街灯りが涙でかすんだ。
やっと病院に辿り着き、廊下を歩く足裏の感覚もなく恐る恐る病室へ入ると、意外にも「父さん心配していたよォー」と優しく迎えてくれて、私も父の顔を見たとたん泣いてしまった。病室のみんなに五個のリンゴを出すと「一日がかりで苦労して探したのに勿体なくて貰えない」と。父は「貰ってやって」と。そして一同で泣きながら食べてくれた。辛かったけれど父の喜ぶ顔を見て、何だか良い事をしたようで嬉しくなり私も泣いた。
掲載省略:イラスト〜リンゴ
富良野空襲
戦争は急を告げており日毎に防空壕への避難が多くなっていたが、そして七月、ついに北海道にも来るべきものが来た。
サイレンが鳴り「帯広上空に敵機現る」のアナウンスが流れると間もなく轟音が響き、グラマンと呼ばれる黒い機体が現れ、操縦士の姿が見える程の低空飛行だ。バチバチと音がして病院の屋根や軒先に穴があいた。
父と私は階段下に布団をかぶって避難したが、富良野は駅舎を始め市中でも大木が根こそぎ倒れるなどの被害を受け、遂には列車も停止になった。父は「此処は危険だから帰れ」と言うので母と交替したが、遂には病院も危ないと言うので全員退院となり、母が荷物を背負い父は丹前姿のまま中富良野まで歩いて叔母の家に辿り着き、数日後に伯父が馬車で迎えに来てくれて我が家に戻って来た。
しかし、病状は少しも快復した訳ではなく、むしろ体力は低下していたが、其の後も私が自転車で薬を受け取りに行ったり…。が父は終日横になっていることが多く咳に苦しむようになった。それでも自力で外のトイレに行き、軒先のツララをなめてのどを潤したり。声もかすれて言葉も通じなくなっていたが、それでも尚かっこいい父だった。
掲載省略:写真〜グラマン戦闘機
一方では、そして別れ
その頃、弟は小学校卒業を控え高等科進学について決める時に来ていた。弟は成績優秀だったので校長は是非進学させて欲しいと何度も我が家に来てくれたが、父は自分の命が残り少ないことを悟っていて「馬追いを継がせる」と言い頑として断り続けていた。しかし、私は何とかして進学させたいと考えていたので「父さんは長く生きられない。学校は何時からでも行けるので、今は父さんの言う事をきいていなさい」と言い聞かせながら「私が働いて弟を学校に行かせよう」と心に決めていた。
そして遂にその時が来た。三月に入った頃には水も咽喉を通らない程に弱っていて、軒先のツララをなめたり…。私はリンゴ汁ならと、当時配給になった煙草があったので知り合いの農家に頼んで交換して貰い、すりおろした果汁を美味しそうに飲んでくれたが、それを最後に三月三十日の明け方、うす暗いランプの下で静かに目を閉じた。父は部落中の人に見送られ、「青」が曳く橇で雪どけ道を旅立っていった。
そして又、更なる苦難の道が続くことになるのだが…。私十七歳の春だった。
掲載省略:イラスト〜馬
以下次号に続く
機関誌 郷土をさぐる(第37号)
2020年3月31日印刷 2020年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀