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『旧噴火口』の地名考

三 原 康 敬
昭和二十四年九月二十八日生(七十歳)

  ヌッカクシ火口(安政火口)の記述
 広報かみふらのに『十勝岳ジオパーク誕生への道』が連載で掲載されている。二〇一八(平成三〇)年六月発行の中に、「安政火口とは?」、「どうして安政火口と呼ぶのか?」という記述がある。書かれた内容の一部を引用する。
 北海道の名付け親である幕末の探検家、松浦武四郎が書いた「十勝日誌」などに十勝岳が噴火したように描かれた図があります。そのことから昭和38年ごろ、凌雲閣の創始者、会田久左エ門氏が安政に噴火した火口と考え名付けたとされています。
 しかし、最近明らかになった武四郎の史料では、十勝岳は安政時代に噴火していない可能性が高いとのこと。火山研究者は、ヌッカクシ富良野川の上流にあるため「ヌッカクシ火口」とも呼びますが、地域に根付いた地名で地図にも記載されているため、現在も使用され続けています。
 このように書かれているが、『旧噴火口』の地名については、一切触れていない。「地域に根付いた地名で地図にも記載されているため・・・」と、「安政火口」の地名表現の考察に終始している。火山研究者は、「ヌッカクシ火口」とも呼び地域に根付いた地名で地図にも記載されているため、現在も使用され続けているとしている。また、「最近明らかになった武四郎の史料では、十勝岳は安政時代に噴火していない可能性が高いとのこと」と説明しているが、後で引用する気象庁の文献の中に書かれていることが、最近明らかになったという部分と異なっている。最近明らかになった史料とは、いつ発見された史料になるのか興味の湧くところである。ここ十年間ほどの文献などを調べただけで、過去の文献等をよく精査したのか疑問の残るところである。
 同じ月、二〇一八(平成三十)年六月二十五日発行の『こうほうおしらせ版』に掲載の、旭川地方気象台「火山活動解説資料・五月の十勝岳」には『旧噴火口(通称安政火口)』の火口名が使われている。気象台は毎月上旬、前月一か月の火山活動の状況等について解説するため、「火山活動解説資料」を発表している。この中で、ヌッカクシ富良野川の上流域にある火口名を「旧噴火口(通称安政火口)」としている。なぜ、十勝岳ジオパークの解説で、「ヌッカクシ火口」と説明されているのか。気象庁は、「災害対策基本法」、「気象業務法」などに基づき、国の防災機関の一つとして、災害の防止・軽減・災害発生時の応急対策、二次災害発生の防止などに必要なさまざまな防災気象情報を、国・地方公共団体などの防災関係機関に提供している。気象庁の防災気象情報は、国民にも周知、提供されているので、二通りの名称が使われることで混乱を招くことに気づかなかったのであろうか。
一九八八(昭和六十三)年から八九(平成元)年の十勝岳噴火時、防災対策にあたった役場職員と関係者の間では、『旧噴火口』の呼び方が一般的であった。「ヌッカクシ火口」の地名は地域に根付いた地名で地図にも記載されているため、現在も使用され続けているという説明は、地元の実情についてよく調べた結果なのであろうか。

掲載省略:図〜火山観測点/機器配置図・気象庁他

 近年、「ヌッカクシ火口(安政火口)」の名称表現を用いる研究者が現われた。北海道における火山に関する研究報告書・第十五編、平成二十六年三月、北海道防災会議「十勝岳 火山地質・噴火史・活動の現況及び防災対策第二版(全編)」の第一章「地形と地質」の記述を引用する。
 なお上ホロカメットク山西方の火口は、従来ヌッカクシ火口(納富、一九一九)、旧噴火口(勝井・他、一九六三)、安政火口(札幌管区気象台、一九七一)と呼ばれてきた。石川・他(一九七一)はこの火口で安政年間に噴火が起こった証拠がないことから、旧噴火口を使用するのが適切とした。しかし、旧噴火口の名称は既に噴火を終えた火口と見られる恐れがあること、さらに現在の活発な火口以外はすべて旧噴火口であることから、本報告書では十勝岳火山地質図(石塚・他、二〇一〇)に従い、「ヌッカクシ火口(安政火口)」と呼ぶ。
としている。
 この報告書では、従来の研究者の研究成果などを引用しているが、引用する文献・資料・図・データなど『旧噴火口』のままで、二通りの名称が使われることで混乱することに気づかなかったのであろうか。国の機関が用いている名称をなぜ使用しないのか不思議である。
  旧噴火口の地名
 国土地理院は地図に表記する地名を決めるとき、地元の人に「よく使われている地名」をもとに、自治体もそれを認めているかで決まるようである。上富良野町開基百年を記念して、『上富良野岳』が国土地理院の地形図に表記されたとき、上富良野町は隣接する富良野市と南富良野町の同意を得て、地名の認定申請を行った。気象庁も同様に国土地理院が決めている地元でよく使われている地名と地形をもとに、火山名と火口名を決めているようである。
 會田久左エ門氏が温泉の見回り中、人事不省に陥った場所の近く、富良野岳・十勝岳温泉・旧噴火口の登山道、三叉(さんさ)路(ろ)に築かれた登山標識(指導標)に書かれた、方向を表す名称が『旧噴火口』になっているのを十勝岳ジオパークの解説者は見逃しているようだ。
 郷土をさぐる誌、第二十三号で会長の中村有秀氏が「登山指導標設置申請書」を町長名で提出したこと。設置場所は、北海道空知郡上富良野町富良野事業区一二三林班イ小班とある。地元が登山標識の設置を申請した際、指導標の方向案内を『旧噴火口』とする地名になっている。この登山標識(指導標)が立っている場所の対岸、川底付近で一九七四(昭和四十九)年十二月二十八日、會田久左エ門氏が人事不省に陥った。私は救急隊の一員として現場に向かった。凌雲閣でスキーを借り、靴のサイズが合わないが、何とかなると吹雪の中を歩き始めた。勝手知った地形、何とか迷わず旧噴火口に着いた。呼吸と脈は強く、意識がなく。救急車と凌雲閣から持参した毛布で保温し、雪上車が到着するまで、顔面に落ちる降りしきる雪を払いながら、携帯式の酸素吸入器で酸素吸入を続けた場所である。會田久左エ門氏が温泉開発申請の際、「安政火口」と思い付いたと言うのはいささか疑問である。會田久左エ門氏は私記の「十勝岳開発回顧」と上富印刷所制作「十勝岳登山案内図」では、『旧噴火口』の地名と認識している。温泉開発申請の際、申請場所を北海道空知郡上富良野町富良野事業区一二三林班イ小班としたが、申請を受け付ける役所が地名を記載するように要求し、會田久左エ門氏の十勝岳の話を聞き、「安政火口」の地名になったようにも思える。

掲載省略:写真〜旧噴火口、十勝岳温泉、富良野岳の登山コース三叉(さんさ)路(ろ)に建つ指導標
掲載省略:写真〜「十勝岳案内図」上富印刷所制作・発行、ゴム板を彫り込み原版としたもの
  旧噴火口の名称が使われるようになった時期
 『十勝岳爆発災害志』の第一章「十勝岳に就いて」第六節「硫黄鑛山(こうざん)」に、「十勝岳における硫黄の採取は、以前はヌッカクシ山の舊(きゅう)噴火口底で行ってゐ(い)たが、」という記述がある。ヌッカクシ山はどこにあるのかは、『十勝岳爆発災害志』の第一章、第一節「十勝嶽(だけ)連峰」に、「十勝岳及び其の南方に引續(ひきつづ)く上ホロカメトク山と十勝岳の中間にヌッカクシ山(噴気孔を有す)は」の記述がある。第三節「十勝岳の成生」に、書かれている「摺鉢山、前十勝岳、ヌッカクシ山の天狗岳等は第二次の破片または山体である。唯(ただ)ヌッカクシ山(舊噴火口)は稍々(やや)十勝岳と趣を變(か)へ(え)て原型を偲(しの)ぶには容易で、第二次の火口壁を第一次の峰線と相對して残留している。第三次の活動は丸山(十勝岳)と舊噴火口内の太子山(ヌッカクシ山)とであるが、」という記述と、この章に掲載されている地図と写真から判断すると、旧噴火口の一帯を指すと思われる。「ヌッカクシ山(噴気孔を有す)」は上ホロカメットク山の北西稜の岩峰と判断できる。麓から十勝岳連峰を見ると、十勝岳と上ホロカメットク山の間に三段山が見えるので、天狗岳は三段山と判断できる。
 第十六節「其の後の活動」には、最後に「ヌッカクシ火口(舊火口)は大した變(へん)化(か)はないが、硫黄分の多量なるを示して来た事、約一坪の泥土が噴騰(ふんとう)してゐ(い)た中央地獄が昭和三年に入って見當(あ)たらなくなつた事、温泉量が減少した事等は一つの變(へん)化(か)と言へ(え)ば言へ(え)よう」と書かれていて、唯一、ヌッカクシ火口(舊火口)の記述がある初めての史料になる。この初出の後、「ヌッカクシ火口」が文献に現れるのは先に『ヌッカクシ火口の記述』で触れた、北海道における火山に関する研究報告書・第十五編の記述を引用した「本報告書では十勝岳火山地質図(石塚・他、二〇一〇)に従い、ヌッカクシ火口(安政火口)と呼ぶ」の「十勝岳火山地質図(石塚・他、二〇一〇)産業技術総合研究所地質調査総合研究センター」になる。
 一九四三(昭和十八)年、当時の上富良野村役場書記熊谷一郎氏が執筆した「上富良野開基五十周年記念誌『上富良野村史』草稿」には、第三編「地誌」第二章「十勝岳について」、第八節「十勝岳山頂記念碑」で、『光顔(こうげん)巍巍(ぎぎ)』碑の建立についての記述がある。
  補足:十勝岳山頂碑は、揮毫のとおり『光顔巍々』と彫られている。
「一行は馬の背より旧噴火口を廻(まわ)りて下山す。途中金子村長霊山一宗の両氏旧噴火口より湧出せる湯河原の天然風呂に入湯、山の湯治気分に満悦す」と、『旧噴火口』の地名が書かれている史料が存在する。この熊谷氏の記述にゆかりのある寺院、聞信寺が本年(平成三十一年四月三十日)発行の『「開教法灯百年」聞信寺開教百年誌』にこの節の全文を引用している。碑文を揮毫(きごう)した大谷光照猊(げい)下(か)は『光顔巍々』と「くり返し符号」の『々』(同の字点・漢字送り、漢字がえし)を用いて揮毫しているが、熊谷氏は草稿に『光顔巍巍』と、くり返し符号を用いることなく「浄土真宗本願寺派」の『讃仏偈(さんぶつげ)』にあるとおり記述している。
 しかしながら、『「開教法灯百年」聞信寺開教百年誌』」は熊谷氏の草稿を引用しているのであるが、原文のとおり『光顔巍巍』とはせず『光顔巍々』と引用文を「くり返し符号」に変更している。

掲載省略:写真〜ヌッカクシ山の旧噴火口付近(旧硫黄採取場)
掲載省略:図〜『十勝岳爆発災害志』十勝岳付近図
  気象庁の文献に見る旧噴火口
 『旧噴火口』が気象庁の文献に現れたのは、十勝岳の現地観測実施結果についてまとめられた『昭和二十七年度第二次十勝岳噴火口調査報告(昭和二十八年二月旭川測候所)』の記述である。郷土をさぐる会『やまと共に生きる「十勝岳」一九二六(大正十五)年、噴火泥流災害九十年回顧誌』の編集資料の収集で、上富良野町役場の災害対策経過で編纂(へんさん)された中に、旭川測候所から上富良野町に送付された文書を発見した。緒言で、旭川測候所長の木村耕三氏が「昭和二十七年八月十七日夜間(推定)に新しい火口が出現したので、九月下旬、第一次調査を実施。降雪前に本格的な第二次調査を実施することに決め、室蘭測候所長木沢綏氏、札幌管区気象台地震係長大野譲氏、旭川測候所技術課長山元繁次氏、のち業務課長斉藤寛氏と交代。技官栗原幸一氏で編成」とある。木沢綏氏のまとめた「第二次十勝岳噴火口調査報告」(一)「緒言」に「仮に新々噴火口、新噴火口、旧噴火口と十勝岳に三群に分かれて現存する噴火孔群をこう名付けて記載することとする」と述べて、火口名を名付けている。(四)「旧噴火口」には、火口内の特徴を詳細に調査した内容の記載がある。(七)「各基点」には、観測点を設定したこと。「爆発記念碑の位置はいかなる泥流が出現してもこの丘は越えないであろう、そしてここを通過すれば上富良野町は被害の影響ありと見て警報を出す必要ありと考えられる。いかなる事態においても町への通告は間に合う。これらの諸点から鑑(かんが)み且(か)つ、この目的のためこの地点を選んだ」とある。木村耕三所長の「十勝岳爆発の特徴」(結語)には、「上記したように、爆発の原因は地下水による公算が大きく、爆発による災害の原因である泥流は地下水の最も豊富な融雪期に生ずると考えられるので、十勝岳の活動による被害は地下水によると端的に考えてよい」と記述されている。その後、この調査報告はまとめられて、気象庁職員等が執筆した気象業務に関する研究論文・解説・報告を年一回刊行する『験震時報』に掲載された。
 『験震時報・第二十二巻第一号(昭和三十二年七月発行)』の報文「北海道硫黄火山の硫黄噴出孔の状態について(一)報告者、気象研究所地震研究部米沢綏、札幌管区気象台大野譲」に「十勝岳の硫黄噴出に関する事項であるが、とりわけ、旧噴(安政)火口における・・・」と発表され。第一章「十勝連峰の火口群と硫黄噴出状態」に、「十勝岳の火口群は、旧(安政)火口、新(大正)火口、新々(五十二年)火口の三群に大別される」の記述がある。
 現在、火山関係の研究書等に掲載されている「十勝岳年表」の原型がこの『験震時報』にある。技官栗原幸一氏が調べた「十勝岳噴火の記録(栗原幸一調)」である。「一八五七年五月 山腹半ばより火脈あり黒煙天を昇る。一八八七年九月 噴火口より、黒煙昇る。一九一八年七月 百雷一時に落つるが如(ごと)し、火口中段の平地に大小数十の噴孔を有す。一九二三年八月〜十一月 熱湯二丈程噴騰(ふんとう)。一九二五年八月 第二、第三礦に硫黄の噴気力増大。一九二五年十二月 第二礦の南壁爆発。一九二六年二月 噴気力増大。一九二六年五月一日〜九月十日 鳴動継続 五月二十四日大爆発、泥流の被害は上富良野町(ママ)、美瑛町(ママ)に及ぼす。一九五二年八月十七日 新々噴(五十二年)火口出現(木村耕三)。現在まで成長す。十勝岳噴火記録は上記のように少ないが、今回、栗原氏の努力で地元の資料も参考にしてできたので、ここに掲載して参考に供する」と、噴火記録がまとめられている。
 引用している気象庁関係の資料は、『験震時報』については引用の場合、出所を明らかにすれば承諾の必要はないということから、ここで引用している資料の出所は、電子化して二〇一四(平成二十六)年から公開を開始している気象庁ウェブサイトの資料を引用した。
 『気象庁技術報告第七十四号、十勝岳火山活動報告・札幌管区気象台(昭和四十六年二月、気象庁)』に、発行時の札幌管区気象台長の序文があり、「なお、本報告では慣例により各火口の名称として旧噴火口を安政火口、新噴火口を大正火口、新々噴火口を昭和火口と呼ぶことにする」とある。
 一九六二(昭和三十七)年の十勝岳噴火の活動と相前後して重なる、十勝岳温泉「凌雲閣」の泉源開発の時、『旧噴火口』が『安政火口』と言われるようになったことが反映されたのか、「一九六二年十勝岳噴火」に関連する報告書等に火口の名称として『安政火口』が記述されるようになったと考えられる。
 気象庁の史料に関連し、『北海道における火山に関する研究報告書、第一編・十勝岳(昭和四十六年三月・北海道防災会議)』のまえがきには、「札幌管区気象台、旭川地方気象台から多くの資料の提供をうけた」とあり、火口名を旧噴火口(安政火口)、新噴火口(大正火口)、新々噴火口(昭和火口)で統一している。

掲載省略:図〜昭和27年度火口調査報告書記載の火口名/旭川測候所
※験震時報の報文にも掲載
掲載省略:図〜吹上・十勝岳地区観光資源調査報告書旭川営林局図−8と部分拡大図

  十勝岳爆発流泥に関する調査研究
 源三は第10代岩手県農事試験場長として12年間在職し、1942(昭和17)年に退官した。その間、北海道農事試験場時代から調査に参加していた「十勝岳爆発流泥に関する調査」のとりまとめにかかった。
 また「泥炭地水の緩衝能に就いて」(日本土壌肥料学会誌「土壌肥料学雑誌1931年12月10日号」)や「土壌酸性矯正用石灰岩ノ粉末ニ就テ」)北海道農事試験場報告32号 1935年発行)など、レポートはいずれも発表は岩手県農事試験場長時代のものであるが、研究は北海道農事試験場時代からのものであり、泥炭地の土壌改良や酸性土壌改良材としての「石灰岩末」の肥料としての効用についての研究をすすめていた。
 1940(昭和15)年に発表された北海道農事試験場報告第39号「十勝岳爆発流泥に関する調査成績」は、その後「十勝岳爆発20年後の植生」(1949(昭和24)年 北方林業第1巻83頁)や「十勝岳流泥跡地の植生の推移」(1960(昭和35)年北方林業12巻11号・12号)などの報告書や北海道旭川土木現業所の「富良野川における大正泥流の痕跡調査」(発表年不明)、北海道開発庁の「5万分の1地質図幅説明書 十勝岳」(1963(昭和38)年3月)などの調査資料にも活用されている。
  『上富良野新聞』の記事
 故北野哲二氏が生前購読し、保存していた『上富良野新聞』昭和二十五(一九五〇)年九月一日の創刊から昭和三十三(一九五八)年三月二十六日の廃刊までの全二四三号が遺族から郷土をさぐる会に郷土史料として託された。
 上富良野新聞社の『上富良野新聞』は、主宰・発行人岩田照世氏で、廃刊となっているが、正しくは、あゆみ社の『あゆみ』編集人會田久左エ門氏、上富印刷所発行と合併したのである。『上富良野新聞(昭和三十三年三月二十六日発行)』の最終号は、『あゆみ(昭和三十三年三月二十五日発行)』との合併号になっている。主宰の岩田照世氏は合併号の廃刊の辞で「三ケ年の歴史を重ねている『あゆみ』と合意の上、両紙が合併して『上富週報』を創刊。あゆみ社・社長會田久左エ門氏が責任者となる」旨、社告として挨拶している。會田久左エ門氏は合併号『あゆみ』の社告で「この度、『上富良野新聞』と合併して、『上富週報』を創刊し新たに新発足する」と、挨拶している。
 『上富良野新聞』には、十勝岳に関する記事が多数あり、『旧噴火口』の地名が随所に出てくる。創刊翌年の一月一日号は初雪の旧噴火口全景の写真が掲載されている。昭和二十七年、気象台の火口調査記事。昭和二十七年、會田久左エ門氏の『十勝岳俯瞰図』製作。上富印刷所発行『十勝岳案内図』の初版は、定価四十円で昭和二十九年八月一日から発売されたことなど町の歴史を補う史料となっている。

掲載省略:新聞面〜昭和26年1月1日発行『上富良野新聞』第13号の紙面。『旧噴火口』の地名になっている。ほかに、十勝岳の観光開発記事、泉源開発、気象台の火山調査、営林署の事業電話開設などがあり。町制施行、自衛隊移駐、事件・事故など歴史の裏面を報道した記事もある。
  国土地理院発行の地図
 国土地理院地図の利用手続きの解説に、「利用の目的について(「出所の明示」をして利用が可能【申請不要】)」がある。「刊行物等に少量の地図を挿入」とは?に、書籍等の掲載基準がある。説明のため、少量の地図をこの基準内で補助的に掲載するので、すべて掲載することなく、必要最小限にとどめる。
 「郷土史研究資料」の使用目的で、測量成果の謄本交付申請を行い購入した、国土地理院発行の五万分の一地形図、図名「十勝岳/旭川第八号」の発行経過を見ると、火口名が表記されるのは、「昭和三十三年測量・昭和三十三年三月三十日発行」に『旧噴火口』の地名が初めて表記されたことに始まる。それまでは、地図記号『S』が『旧噴火口』の位置に表記されていた。十勝岳の標高は測量技術から現在と異なる。「昭和五十一年編集・昭和五十二年八月三十日発行」で『旧噴火口』が『安政火口』の表記になり、現在も図歴は修正されることなく、『安政火口』の表記である。
 ほかに、火山対策図「五千分の一火山基本図『十勝岳U』昭和六十一年一月三十日発行」は『旧火口(安政火口)』の表記。「二万五千分の一『十勝岳全図』昭和六十三年十二月編集」は『安政火口』の表記である。これは緊急的に五万分の一地形図をもとに作図したためと考えられる。「五万分の一『火山土地条件図・十勝岳』国土地理院・平成二年六月一日発行」は、『安政火口』の表記である。「三万五千分の一『十勝岳火山防災対策地図』上川支庁版・平成十八年に国土地理院発行の二万五千分の一を複製」は、『安政火口』の表記である。これも五万分の一地形図から複製したので表記が『安政火口』のままと考えられる。一九六二(昭和三十七)年十勝岳噴火後、地形図に『安政火口』の地名が使われ始めた時期から現在に至るまで、地形図上に『旧噴火口』の地名表記が使われることなく経過している。
 北海道大学名誉教授勝井義雄氏が上富良野町から依頼されて一九九一(平成三)年八月十七日〜二十一日に実施した調査の報告書「十勝岳旧噴火口の調査報告(平成三年八月)」に【『安政火口』の名称】で火口名の扱いを報告している。地図の地名表記に関連して引用する。
 十勝岳の旧噴火口は別名「安政火口」と呼ばれており、最近の国土地理院の二万五千分の一地形図にもこの名称が採用されている。「安政火口」という名称は、松浦武四郎の安政四年の十勝岳噴火の記録もあって、この噴火が旧噴火口で起きたという印象を与える。しかし、この噴火が旧噴火口ではなく、グラウンド火口北西部の中央火口丘付近で起きたことは、翌安政五年に松浦武四郎によって描かれた『十勝日誌』のスケッチからも明らかである。大正十五年の噴火直後の公表された多くの報告書には、「旧噴火口」または「ヌッカクシ火口」と記述され、「安政火口」の名称は使われていない。『十勝岳ー火山地質・噴火史・活動の現況および防災対策』(一九七一年北海道防災会議発行)に、勝井は「今後なるべく安政火口の名称を使用しないほうが良い」(三十五頁)と述べてある。この提案は無視され、現在ではおおくの出版物、道標などに「安政火口」の名称が使われている。
 このように指摘し、報告している。現在、この報告は生かされることなく、上富良野町で発行する印刷物・広報紙等に『安政火口』の地名が掲載されている。なぜ、『安政火口』に固執するのか、故人となられた人の指摘はもはや忘却の彼方に忘れ去られたようだ。一考を要するべきでなかろうか。

掲載省略:図〜火口の場所にS記号が書かれた地図
掲載省略:図〜昭和33年発行の地形図
掲載省略:図〜昭和62年3月北海道防災会議第11篇『十勝岳』第T−5図(勝井,1973)火口と温泉が火山列の北西に分布と解説
  旧噴火口で起こったこと
 国土地理院・火山対策図「五千分の一火山基本図『十勝岳T・U』昭和六十一年一月三十日発行」は、昭和から平成の十勝岳噴火の前々年に発行された。偶然なのか噴火活動が起きる前に発行されているのである。個人的な趣味の十勝岳の文献収集で、一九八六(昭和六十一)年の年末、発売と同時に購入した。この地図を見ると『旧噴火口』周辺をはじめ部分的であるが、十勝岳連峰の地形が詳細にわかる。
 一九八八(昭和六十三)年十一月二十七日に発生した雪崩事故で、化物岩からの下山中に雪崩で流れ落ちた経路は、火山基本図『十勝岳U』地図に載っている雨裂(うれつ)に沿って雪崩が起こっていた。二万五千分の一地形図では見落とされる地形の特徴である。
 一九九四(平成六)年十一月二十六日、旧噴内を上ホロカメットクへ登山中の雪崩事故。二〇〇七(平成十九)年十一月十三日、稜線からの下降ルートを旧噴内へスキー滑走中の雪崩事故。二〇〇七(平成十九)年十一月二十三日、化物岩からの下降ルートを下山中、雪崩を誘発し下部の登山者が埋没した雪崩事故。一九九八(平成十)年六月発行、十勝岳山岳救助警備隊「創立三十周年記念誌『十(と)勝(かち)嶺(ね)遥(はる)か』」に書かれているが、『十一月上旬の時期,交通の便が良い旧噴火口は、十勝岳温泉の駐車場からテントを設営するのに適した場所に容易にたどり着けるので、新人の冬期登攀(とはん)技術訓練とベテランの足慣らしの場所として脚光を浴びているが、積雪が安定していないことと降雪がなくても風の影響で雪が運ばれて、新雪が降り積もった状況になりやすいという、地域的な特徴があることで雪崩が発生する』とある。救助機関に救助の依頼をすることなく、発生と同時に、仲間とか入山している周囲の登山グループによって、大事に至らず助けられているものもあるようだ。
 山岳遭難が発生した時、上富良野の救助隊はいち早く現場に駆け付けるため、夏は、旧噴火口の直登ルートで稜線へ登っていた。連絡とか位置情報の無線交信は、『旧噴』という言い方が一般的であった。
現在、稜線と十勝岳温泉の登山口との登山ルートは上富良野岳を通るのが一般的である。過去は、『旧噴火口』の中を登降していたが、代表的な登山ルートは三コースがあり、落石の危険があるため上級者以外の登山者には不向きなコースである。
 積雪が安定する時期、十勝岳温泉口から容易に入山できることから、冬山で雪崩の危険があるが、夏季と異なり落石の恐れが無い上ホロカメットク山の北西斜面登頂コースに挑戦する登山者が多い。

掲載省略:図〜火山基本図『十勝岳U』、雨裂の地形が読み取れる
掲載省略:図〜火山地形解説の記号
掲載省略:図〜旧噴で起きた雪崩発生地図
掲載省略:図〜『十勝岳案内図』に書かれた登山ルート
《参考文献》
【ヌッカクシ火口(安政火口)】について
『十勝岳火山地質図』(石塚・他、二〇一〇・産業技術総合研究所地質調査総合センター)
『北海道における火山に関する研究報告書・第十五編、平成二十六年三月、北海道防災会議「十勝岳 火山地質・噴火史・活動の現況及び防災対策第二版(全編)」』(北海道防災会議)
『十勝岳爆発災害志』(十勝岳爆發罹災救濟會・昭和四年三月二十五日発行)
『日本活火山総覧』(昭和五十九年三月・気象庁)
【旧噴火口(安政火口)】について
『昭和二十七年度第二次十勝岳噴火口調査報告(昭和二十八年二月旭川測候所)』
『験震時報・第二十二巻第一号(昭和三十二年七月発行、気象庁)』『吹上十勝岳地区観光資源調査報告書』(昭和四十二年三月・旭川営林局)
『気象庁技術報告第七十四号、十勝岳火山活動報告(昭和四十六年二月、気象庁・札幌管区気象台)』
『北海道における火山に関する研究報告書、第一編・十勝岳(昭和四十六年三月・北海道防災会議)』
『十勝岳・北海道地域火山機動観測実施報告第七号』(昭和六十一年三月・札幌管区気象台)
『十勝岳旧噴火口の調査報告(平成三年八月)』(勝井義雄)
『上富良野十勝岳山岳救助警備隊創立三十周年記念誌「十勝嶺遥か」』(上富良野十勝岳山岳救助警備隊・平成十年六月)
『日本活火山総覧(第四版)』(平成二十五年三月・気象庁)
『上富良野新聞』(主宰・発行人岩田照世)
【十勝岳の地図】
『十勝岳案内図』(上富印刷所制作・発行)
『十勝岳火山地質図』(勝井義雄・一九七三年)
『五千分一火山基本図「十勝岳T・U」』(国土地理院・昭和六十一年一月三十日発行)※一九八八年〜八九年十勝岳噴火の前々年に発行
『五万分一地形図「十勝岳」』(陸地測量部・大正十二年発行)
『二万五千分一地形図「十勝岳」』(国土地理院・昭和三十三年発行)
『二万五千分一地形図「十勝岳全図」』(国土地理院・昭和六十三年十二月編集発行)※一九八八年〜八九年十勝岳噴火時の緊急発行

掲載省略:上富良野十勝岳山岳救助警備隊創立30周年記念誌『十勝嶺遥か』表紙

機関誌      郷土をさぐる(第37号)
2020年3月31日印刷      2020年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀