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十勝岳の大正噴火
『山津波 五日後の現地』報告と、その背景
(九十二年前の一僧侶の記録)より

上富良野本町五丁目十四の二
中 村 有 秀 昭和十二年十一月二十八日生(八十一歳)

 ◇はじめに◇
 二〇一八(平成三〇)年四月、上富良野町役場に三重県津市に在住の竹内(たけうち)令(れい)さんから、「十勝岳爆発―山津波―五日後の現地」と表題にした冊子が送られ、私達の郷土をさぐる会にも寄贈を受けました。
 「一僧侶とは」一九二六年の十勝岳大噴火の時に真宗高田派本山札幌別院(現在は北海道別院)の輪番代理と佑事(ゆうじ)の職であった「千種壽磨(ちくさかずま)師」です。
 その次女である竹内令さんが、父の本山への報告「北海道における惨事―硫黄山爆発し泥海を現出」としての記録を、二〇一八(平成三〇)年三月一日に冊子にして発行されました。
 一九二九(昭和四)年三月二五日発刊の「十勝岳爆発災害志」には、各分野毎に詳細に記されていますが、その中で、「美談哀話奇譚」「罹災地児童の感想文」は災害体験者の立場でした。
 千種壽磨師の報告は現地の被災状況と救援の模様、村民や門徒への思いを赤裸々に書かれています。
 大正噴火から九三年が過ぎ、昨年から「十勝岳噴火三〇年」としてテレビ・新聞で報道されています。
 千種壽磨師の本山報告「十勝岳爆発―山津波―五日後の現地」を郷土をさぐる誌に全文掲載と、当時の背景の一部も記録(○付番号を付して)して、歴史の伝承として遺します。

「十勝岳爆発―山津波―五日後の現地」(九十二年前の一僧侶の記録)
@竹 内  令(記録者・千草壽磨の二女)

 九十二年前の本山報告の発刊に思う
 津市の友好都市・北海道上富良野町が、十勝岳(当時の現地での呼称・硫黄山)の噴火によって大被害を受けたのは、大正十五(一九二六)年五月二十四日。間もなく九十二周年のその日が来る。
 私は子供のころ、父(千草壽磨)の口から「富良野」の名前を時々聞いた。いつも、何の脈絡もなくフィとその地名が出るのである。今になって思うのだが、父は、爆発五日後に現地に入り三泊して被災者を見舞った時の惨状が、生涯(昭和二十四年没)忘れられなかったのだろう。
 当時三十二歳だった父は、高田本山札幌別院にいた。責任者である輪番が不在の間の二年ほどを、輪番代理・佑事として赴任していたのである。被災地は三重から移住した人々(三重団体)が住む地であり、村長・吉田貞次郎をはじめ多くは高田門徒であり、末寺の専誠寺(せんじょうじ)も罹災していたから、間髪を入れず視察と慰問を行ったのだった。何一つない荒寥(こうりょう)とした場所にただ一人立つ、若い父の写真を見た覚えもある。
 しかし、昭和七(一九三ニ)年生まれの私は十六歳で父と死別していて、まだまだ子供だったから、聞き流していたのだ。勿体ないことをしたと気付いたのは、ずいぶん後になってから。三浦綾子の『泥流地帯』を読んだ時、そして、上富良野が津市の友好都市となった時。
 昨(二〇一七)年の秋、実家の寺を継ぐ甥・千草(ちくさ)篤(あつ)麿(まろ)(高田短期大学教授)が、「調べものをしていたら思いがけずこんなものが出てきた」と届けてくれたのが、今から皆様に読んでいただこうという、この一文である。父が本山へ出した報告書が、末寺へ届けた「本山報告第三〇五号」(大正十五年六月発行)の中に、ひっそりと眠っていたのだ。
 今、各地の自治体は、地震への備えとして池の堤防への関心を強めていると聞く。泥流が押し寄せた富良野の実態を報告する父の一文が、何らかの形でお役に立てば嬉しい。そしてまた、文末に出てくる犠牲者、及び犠牲家族の方々への慰霊になればと、そう願っている。
付記
・最初の文は、救援のため取り敢えず現地へ職員を派遺したことを報せた手紙であろう。
・「一、札幌別院より」は、父が職員二人と現地に入り、三泊して視察・慰問したことを、帰着後すぐに(六月三日)、とりあえず報せたものと思われる。
・「二、上富艮野大惨事実情視察概要」は、罹災者、死亡者への慰問・慰霊を一応終えた時点で報告したもの。
  一尺=約三十センチ   一丈=約三メートル
  一里=約四キロメートル 一石 =約百八十リットル
 「本山報告」の閲覧と電子データの複写を、我が甥・千草篤麿に許可くださいました、玉保院ご住職に感謝申し上げますとともに、膨大な資料の中からこの一文を発掘し届けてくれた甥にも、心から御礼申します。
 親孝行らしきものを何一つできなかった私に、このような機会を与えてくれた大きな力にも、ただただ感謝しています。
 @ 竹内 令さんとは

・一九三二(昭和七)年 三重県津市真宗高田派善休(ぜんきゅう)寺(じ)第一三世住職千草壽磨師の五男三女の次女として生まれる。
・一九四五(昭和二〇)年三月 津市安東国民学校初等科卒業。
・一九五五(昭和三〇)年三月 三重大学学芸学部を卒業。同年四月より小学校教師となり、各小学校勤務。
・一九七六(昭和五一)年三月 二一年間勤めた教師を退職。
・一九八三(昭和五八)年文芸同人誌「あしたば」の創刊に参画されて以来、小説、評伝、女性史エッセイ等の各分野での執筆活動により、数多くの著作(一部共著あり)を刊行した。
・それらの永年の執筆活動と著作刊行の功労に次の各賞を受賞す。
 一九八六年 三重県文学新人賞(小説部門)
 一九九四年 津市文化奨励賞。
 二〇〇八年 清水信文学賞(評伝)
 二〇一〇年 三重大学教育学部同窓会
        文化功績賞(執筆活動)
 二〇一〇年 第一回三重県男女共同参画功労賞

掲載省略:(写真)竹内 令さん肖像
安藤小学校『百年のあゆみ』から

 上富良野西小学校と姉妹提携校である津市安東小学校は、一九九二(平成四)年に創立百周年を記念して「百年のあゆみ」を発行。
 竹内 令さんは、昭和二十年三月に同校の卒業生として記念誌に「戦(いくさ)の中で」を寄稿。
 戦中時代の国民学校での忘れられない思い出として記されているので、一部転載します。

――毎月の神社参拝は駆け足。戦死者の葬儀参列。手旗信号の練習。飛行機の音を聞き分けるための調音訓練。「海行かば」の歌の練習。桑の皮剥ぎ。マンジュシャゲの球根掘り。松根油の採取。運動場と軽便鉄道跡地の開墾。綿やヒマ、甘藷の栽培。防空壕作り。避難訓練。消防訓練。そして空襲警報のサイレンと集団下校。畑に身を伏せた時の恐怖や運動靴、ゴムまりのくじ引きも忘れられません。――
(『百年のあゆみ』は上富良野町図書館に収蔵)

「本山報告」から 祖父を見つけた
A千 草 篤 麿(千草壽磨の孫)

 「本山報告」は明治三四(一九〇一)年二月に創刊されて以来、昭和一九(一九四四)年まで毎月発行されてきた真宗高田派の月報である。終戦前後は不定期刊行となり、「本山通報」また「高田派宗報」、「真宗高田派宗報」と改題されてきた。現在は「宗報」として年六回発行されており、平成二九(二〇一七)年一二月時点で第九一一号を数える。しかし、戦前の「本山報告」は、発行元である高田本山には保管されていない。一身田(いっしんでん)町のB玉保院(ぎょくほういん)にはほぼ全号保管されており、水沼秀明住職のご厚意によりデータ化されたものを複写して研究する許可を頂いたものである。

掲載省略:(写真)千草篤麿師肖像
掲載省略:(写真)「本山報告」冊子写真
  A 千草篤麿氏(僧名 篤昭師)

 三重県津市にある高田短期大学教授(仏教福祉学)と共に、真宗高田派の「笠松山善休寺」第一六世住職です。また、特別養護老人ホーム「報徳園」の園長の任にもある。
 善休寺第一三世住職であった祖父「千草壽磨師」が、九二年前に書かれた本山報告、「上富良野大惨害実情視察概要」が玉保院保存の膨大な古文書の中から、貴重な資料を探された。
 千草篤麿氏と叔母である発行者の竹内令さんとの会話が、同人誌「葦」(二〇一九年一月一〇日発行)に、竹内令執筆「生まれる前の父に逢う」の中に掲載されているので紹介する。
 ==甥(千草篤麿)が「おじいさん『やっと見付けたか』と言うているやろなあ」と…ニヤリとしながら「おばさんなら、きっと利用すると思って…」。
 私が小説まがいのものを書いている事を彼は知っているので、私は即座に答えた。「とても、とても」と。
 三浦綾子さんが『泥流地帯』で書き尽くしている。「あんたは利用する予定ないの…?」「無い、無い」と言って甥は置いていった。
 その報告文を読みながら、私は目頭が潤むのを感じた。
 そこには私が生まれる前の若々しい父がいた。
 私が一六才の時に、父は昭和二四年、五七才で病没している。==
  B 玉保院

 下野国(現在の栃木県)にて尊乗坊を創立す。
 その後、上人に隋従し、本山の移転と共に伊勢国に来る。一五七〇(元亀元)年に「玉保院」と改称。本山の法務を担当し、宗務発展に貢献。
 以後、歴代に亘り宣旨院家、専修寺(せんじゅじ)の客分、連技格であった。しかし、明治維新により古来の慣例が廃止(廃仏毀釈)され、未寺同様の待遇となるも真宗高田派本山「専修寺」の山門正面に東西に向かい合い、東にある「玉保院」を「東院」、西にある「智慧光院」を「西院」と呼んでいる。
 「玉保院」は、本瓦葺きの四脚門を持ち、長屋門がある真宗高田派末寺の筆頭であると、津市教育委員会発行の「津名所図会」に記されている。

本山報告第三〇五号(大正十五年六月) 高田派本山専修寺寺務所発行(十三〜十八頁)
北海道における惨事 硫黄山爆発し泥海を現出
     吾派の専誠寺はじめ門徒多数罹災
C 千 草 壽 磨

 十勝嶽(だけ)の一部にして、上川郡美瑛村を距(へだ)たる約二里半の地点なる硫黄山は、五月二十四日午後四時頃突然大鳴動と共に、湖水を支えていた岩石決潰(けつかい)して流失し、山上よりは熱湯噴出して山麓に流下し、ために上富良野周囲約三里四方の間は全く泥海と化し惨憺(さんたん)たる光景は目もあてられなかった模様であるが、空知郡上富良野なる吾が派の専誠寺はじめ門徒多数罹災(りさい)し、本山よりは夫々(それぞれ)慰問救援の途を講じた。惨事の詳細は左の報告に俟(ま)つこととする。
  C 千草壽磨師

 一八九二(明治二六)年一二月一六日に、三重県河辺町のD笠松山「善休寺」第一二世住職の長男として生まれ、衆徒として寺門の興隆に父と共に務められていた。
 一九二五(大正一四)年八月五日、本山命により、「真宗高田派本山札幌別院」の輪番代理と佑事として、三二歳の時赴任された。
 赴任時は輪番不在のため、札幌別院の責任者の立場であった。
 昭和五五年の本山宗務院発行「高田の寺々」には、大正一〇年代の輪番は畑英揚、柳宝浄、千草壽磨の三氏があったと記されている。
 赴任から一〇ヶ月後の一九二六(大正一五)年五月二四日。十勝岳噴火により、大災害が発生し、劣悪な環境の中で、被害状況視察と門信徒の慰問と慰霊を五月二九日から六月一日の四日間行い、六月三日付けで「本山報告」として原稿を書かれている。悲惨な状況を思い巡らしながら、激しい疲労の中で長文の『北海道における惨事―硫黄山爆発し泥海を現出―吾派の専誠寺はじめ門徒多数罹災』として本山に報告され、大正一五年六月二五日発行「本山報告 第三〇五号」に掲載された。
 一九二八(昭和三)年、山命により三重県善休寺に帰寺し、その後、第一三世住職となる。
 子供は、五男三女に恵まれたが、過ぐる戦争で次男(昭和一九年)、第一四世住職長男(昭和二〇年)と相次いで戦死された悲運もあった。
 千草壽磨師は、一九四九(昭和二四)年九月二九日、享年五七才で永眠された。
 「北海道における惨事…」の報告は現在も各地で発生している風水害、地震、火山噴火等の自然災害に大きな教訓を残している。
  D 笠松山『善休寺』

 慶長年間、北畠氏の流れ、千草家の祖先「五休」が、伊勢国河辺の古墳地に一宇(いちう)を創草し真言笠松道場と名づく。
 その子孫の「栄昌」が親鸞(しんらん)聖人の教旨に帰依し、本山「専修寺」の認可を得て開祖となり、一六六六(寛文六)年八月に「笠松山善休寺」と公称するに至る。
 それ以来、子々孫々が相次ぎ当寺の護持につとめ、当代を持って第一六世の今日に及ぶ。
 第一三世住職 千草壽磨師(大正爆発報告者)
 第一四世住職 千草明哉師(壽磨師長男戦死)
 第一五世住職 千草松寿師(千草篤昭師の父)
 第一六世住職 千草篤昭師(本名 篤麿)
  札幌別院より
 二十五日午前十時北海タイムスの号外により直(ただ)ちに打電、大惨事の事上申候処(そうろうところ)、午後五時三十五分懇篤(こんとく)なる御慰間の電命に接し、同日午後十時内田弘を同人家族安否知る為を兼ねて右の趣(おもむき)伝達の為取り敢(あ)えず急行せしめ、村長吉田貞次郎(門徒)及び専誠寺へ派遣仕候(つかまつりそうろう)。その節、E札幌別院職員一同より葉書千枚贈呈せる処、後にて聞けば二十六日朝贈呈と同時に十分間にして罹災者の為に使用し尽くされし由に御座候(ござそうろう)。二十五日午後六時直に御慰問電の趣並びに罹災者焦眉(しょうび)の急を救うべく義捐(ぎえん)金(きん)を募集候処、直に参拾余円集め、之又直に送金仕候。刻々と発行せらるる号外により概要を知り、電信にて上申、御援助を仰ぎ候処、罹災者戸数を知らせよとのこと故(ゆえ)、八十戸と御通知仕候。実情視察と慰問(被害の八分は吾が派関係なり)の為、葉書二千枚及び筆墨、副食物二樽持参及び落雁(らくがん)三千枚、蝋燭(ろうそく)、線香等用意し寺男二人連れて出張し、全部を慰問仕り、本日午後六時帰院仕候。(六月三日)
  E 高田本山札幌別院

 明治二五年六月、北海道開教の山命により、札幌市南一条東三丁目に専修寺説教場を創設。
 明治三五年二月、真宗高田派専修寺札幌別院と公称許可される。(札幌市南四条東四丁目)
 昭和一三年、真宗高田派専修寺北海道別院となる。
 開教の錫(しゃく)を留め心田開拓に点灯されて九〇年を経て、開教百年記念事業として、平成四年十月「仏閣建立落成」された。(札幌市清田区平岡)
 現在の北海道別院輪番は、第二五代で岩内郡共和町の寿光山「聖賢寺」第三世住職である「島光志師」だが、上富良野町専誠寺住職増田修誠師(修一)の実弟である。
 共和町の聖賢寺開基住職「島義賢師」は、上富良野町の専誠寺開基住職「島義空師」の実弟であり、歴史と深い縁を感じる。

掲載省略:(写真)高田本山北海道別院全景(現札幌市清田区平岡)
  上富良野大惨害実情視察概要
 五月二十九日救護隊、応援青年団、軍隊、見舞客等の為殆ど寿司詰めの如き列車に旭川よりは立ちづめにて午後二時前美瑛駅通過。上富良野駅の手前一里程の処より明らかに大惨事の実況展開せらる。此の辺よりF鉄道線路は一日二千余人の工夫の手により昼夜兼行四日間位にて三尺以上の泥海の眞直中を土俵により道を造り、新しく線路を敷きて完成せるもの.なれば汽車のガタガタと揺れる事限りなし。工費十五萬円と聞く。硫黄山より噴出せる溶土と積雪をとかしたる水とは山岳の断崖を破壊し約三十萬石の立木とを倒し、その大木を先頭として濁流にはあらで全くの泥流を以て五里の間山谷をうねりうねりて約三十分間に此個所に来たり。あたかも袋の口の如き所より溢れ出たる奔流は一時に村落を襲い、先頭の立木と二丈の泥流とによりて一(ひと)溜(た)まりもなく沃野を埋め、家を流し、人畜を奪いたる由。朝来の大豪雨に窓外被害地泥土の上を濁流沼々として逆巻き一望只濁れる大泥海。

掲載省略:(写真2葉)上:町外から応援に駆けつけた救援隊 下:旭川管区総出動の鉄道復旧工事(大正15年十勝岳大爆発記録写真集)
  F 『鉄道線路は…昼夜兼行四日間位にて』

 大泥流を発生させた十勝岳噴火は、大正一五年五月二四日午後四時一七分で大量の泥流と共に家屋や大小の流木が押し流されて、鉄道富良野線の上富良野―美瑛間の線路を急襲したのは午後四時五〇分頃であった。
 その復旧に旭川保線区は線路工手四百名、人夫二百名、第七師団歩兵二八連隊六〇名が派遣され、昼夜兼行の作業によって復旧一番列車は、旭川駅発五月二八日午後〇時四〇分で、被災から三日と一九時間の早さで開通させた。
 資材や作業員の輸送も線路の途中までで、機械力も無い時代での復旧作業に、先人の皆様のご苦労は大変なものであった事であろう。
 鉄道の損害状況は次の様に記されている。
 □軌條 レール四〇八本
 □枕木 二六六〇挺
 □築提 八八五メートル
 □珊担 踏切五カ所
 あたかも盆の中にマッチの軸木をバラ蒔(ま)きたるに似たると、流失倒壊せる家屋の残骸点々たると、豪雨の中泥海の中に腹部まで這入りて交通の為流木を利用して縦横に架設する仮橋の工事のために従事する救援隊の人影と、何々青年団或いは何々応援隊と記せる旗影とのみ。
 暫時にして上富良野駅に着。これ市街地にあり。構内人の山にして乗降客毎日七、八千人なりとの由。漸くにして構内を出でて見れば駅前に救護所本部あり。上川支庁出張所、警察、軍隊、救援隊、役場出張所、道庁出張所、避難民受付及案内、通信機関出張所、三重県出張所、慰問品受付、その他十枚程の貼紙を以て事務所の表示をなし、テント張りの休憩所、有志の茶接待所、炊き出しの本部等何百人の係員右往左往し、その間に避難者を訪ぬる人、申し込む人あり。これらの中に交じりて、各宗僧侶及び新聞記者、青年団等東奔西走し、郵便配達は電信書面等を山の如くに負いて一々避難者の所を探しつつある様、実に戦場も斯(か)くやと思われ、にわかに緊張味を感ず。
 訪ねんとするG専誠寺への道はなく、寺族は何処に在るや不明なれば避難者受付係を訪えど人多くして如何ともする不能。

掲載省略:(地図)専誠寺の位置(昭和11年頃の草分地区図から)
  G 高田山『専誠寺』

 一八九七(明治三〇)年四月一二日、三重県安東村出身の田中常次郎ら一行八名が、フラヌ原野西二線北二九号に入地した。以後、続々と募集による入植が進み、三重団体と称した。
 開基住職島義空師は、三重団体の要請と山命により一八九八(明治三一)年一月二日に移住し、真宗高田派説教場を西二線北二八号に設置した。(地図参照)
 第二世住職内田是證師は、一九〇四(明治三七)
年一二月二六日に真宗高田派専誠寺に着任。寺号公称は一九一四(大正三)年に許可された。
 第三世住職内田是隆師(是心)は、一九二一(大正一〇)年に父より継承し、漸く寺基が完成の頃の一九二六(大正十五)年五月二四日発生の十勝岳噴火により、村民も寺も大被害を受け、その復興への道程は大変であった。
 上富良野村専誠寺の復興もなされたが、一九四九(昭和二四)年一一月二二日、強盗殺人放火による専誠寺事件が発生した。第三世住職内田是隆(七一歳)と坊守の内田てつ(七二歳)が逝去され、本堂、庫裏が焼失すると言う痛ましい惨劇であった。
 第四世住職増田義秀師は、小樽市浄暁寺(じょうきょうじ)から一九五〇(昭和二五)年一月二〇日に赴任し、専誠寺の再建復興と言う大きな難題に立ち向かった。門徒の再建復興への力によって、現在地の栄町三丁目に本堂、庫裏を新築し、昭和二五年九月一〇日竣工した。そして、一一月一六日に高田派本山の法主である常磐井(ときわい)堯祺(ぎょうき)の巡興を仰ぎ、盛大な入仏供養法会が厳修され、念願の再建復興を果たした。
 また、増田義秀師は、一九六三(昭和三八)年八月に、幼児教育と福祉の発展にと、高田育児園を開園する。専誠寺の再建復興に挺身尽力され、寺運も隆盛になっていたが、不幸にも病にて一九六四(昭和三九)年一二月二二日逝去された。
 その時、子息修誠(修一)は勉学中であったため、住職代務を旭川市真高寺の倉田諦道師が勤めた。
 第五世住職に増田修誠師が就かれたのは、一九六九(昭和四四)年六月一日で、以来寺運も安定された。
 幼児教育にも熱意を傾注され、今日では学校法人専誠寺学園認定こども園・上富良野高田幼稚園、上富良野西保育園を運営し、町の幼児教育の中核を担っている。
 真宗高田派本山専修寺の宗議会議長の任にあった増田修誠師は、二〇一八(平成三〇)年七月六日に本山専修寺の「宗務総長(しゅうむそうちょう)」(包括宗教法人真宗高田派の代表者)に選任された。
 一時は悲しい出来事もあった専誠寺の歴史の中に新たな歴史が作られつつある。
 困難せるもフトH伊藤某なる者、駅前の料理店主にして本年二月別院へ参詣の節、名刺置き行きけるを思い出し尋ねしむ。
 直(じき)に丸竹屋号なる由判明す。同行三名これを訪ぬ。軒前に同家主婦赤きリボンを胸に付け十名ばかりの家族雇人と共に茶の接待をなし居たるに、刺(し)を通じたるに直に案内さる。専誠寺は此の家の裏合わせなる元料理店たりし大家屋なり、これに二十八日午前移りたる由。這入れば寺族暗然として一室に集まり無言のまま端座せるのみ。形ばかりの床の間に御本尊を安置し、両側に九字十字御名號(みょうごう)を懸け三具足(みつぐそく)を供えてあり。御本尊の前に脆座して感慨無量なり。
 直に準備し来たれる蝋燭、線香、落雁を供え且つ懐中に持参し来たれる「十勝ヶ嶽硫黄山爆発罹災死亡者霊位」と記せる位牌を尊前へ安置し、従い来れる門徒及び下男二人と共に小経正信偈一首讃を勤行す。住職内田是心及び別院雑仕心得として勤務せる内田弘は門徒死亡者の処へ行きて不在。只坊守と子供三人のみ。
 慰問の辞を述べて段々災害の模様を聞けば、奇跡的に生命の助かりたる事判明せり。而も同寺に於いては猫、鶏の類(たぐ)いまで助かりたる事愈々不思議なりと噂せり。

掲載省略:(地図)丸竹料理店の位置(昭和11年頃の町並み図)
  H『伊藤某なる者、駅前の料理店主にして』

 駅前の料理店とは○竹料理屋として伊藤勇太郎氏の名義だが妻タケが経営し、二階建ての大きな建物であった。
 現在旭町3丁目に在住の伊藤欣治氏の祖父で、父の伊藤勝次氏(消防団員でもあった)から、○竹料理屋の事や、放火による火災、再建等についてよく聞かされたと、欣治氏は語る。
 伊藤家は、真宗高田派専誠寺の門徒であったことから、泥流災害においても奇跡的に助かった「御本尊」の安置と、住職一家の仮寓(かぐう)として家屋の一部を提供しお世話をされた。
 ○竹料理屋の位置は、郷土をさぐる会発行「昭和一一年頃の街並み(平成一〇年発行の地図を参照下さい。)
 ○竹料理屋の火災(消防のあゆみより)
 昭和八年六月六日午後七時五分頃、上富良野市街○竹伊藤勇太郎方カフェ二階より出火。一三棟(五五名、五四〇.二三坪を焼失。損害額一三,八七一円に達した。上富良野駅、物置、公衆電話も類焼した。)○竹料理屋はその後同じ場所に再建された。
 午後五時頃住職帰り来る。内田弘又帰る。共に涙の中に無事を祝す。
 別院門徒有志より贈る処の義捐金を以て購入せる葉書二千枚及び落雁、筆墨、副食物等を呈し、同寺門徒総代村長吉田貞次郎と相談の結果、然るべく処分せられ度く伝えて直に市街地在住の門徒を慰問のため訪問する事に決し、洋装の上に輪袈裟(わげさ)を着用し、住職の案内にて下男二人を連れて七時までに二十戸ばかりを慰問せり。専誠寺に漸(ようや)くにして一泊、僅かに雨露を凌(しの)ぐのみ。
 翌三十日晴れたり。朝五時住職並びに下男他二名と共に専誠寺被害の視察をなす。市街地はづれより約十八丁を隔てたる同寺の前まで、必死の努力によりて架けられたる仮橋に、廻り七、八尺もある無数の流木の横たわりたるを台として、それに旭川、池田方面より急送したる板を架けたるものにして漸く人一人通行し得る程度なり。而(しか)も一尺乃至五寸下は濁流滔々(とうとう)として奔流し、落つれば泥土の深さ平均三、四尺と称する故に到底普通の者は助かるを不得(えず)。目はまい、見渡す限り一大泥海十八丁の間は真に命がけなり。一歩一歩念仏と共に渡り、一時間もかかりて専誠寺の前に達す。
 これより学校方面へ約六百人ほどの救援団は胸まで泥中に浸して架橋しつつあり、元流れつつありし河は埋まり、新たに他に三川を作りたり。専誠寺の近傍に流れたる家の残骸二十五、六戸僅かに屋根の上のみを見せて泥中にあり。これらは皆決潰(けっかい)せる線路の狭き間より奔流せる泥の流れの真正面に当たるものばかりにして、専誠寺の裏は其の中心なり。然るに本堂庫裏平然と残れり。実に奇跡的なり。流木を飛び越え約四十間ばかり生命がけにて寺内に這(は)い入(い)る。
 子細に検分すれば、此寺院の残れるは奔流の中心点に当たりたる為、上より流れ来たる流木が先ず寺の廓外の立木にかかり、その流木の積まれたるのみにても約三丈(じょう)の高さに達す。それに流失の家屋もかかり、自然と防波壁を作り、これによりて奔流は両方に分流せられて、勢力を失いたる故に寺院のみ流失を免れたるものなり。
 本堂へ入れば惨憺たる状況にして泥土一様にして家具建具は乱雑を極め、床上三尺の泥あり。内陣は又それより多く四尺に達せり。御厨子(みずし)其の他は無事なり。庫裏は殆(ほとん)ど見る影もなし。家財道具はまだそのままにしてこれを運ぶは泥土の干きたる後ならでは出来ず。
 寺族は、当日住職は市街に行きて不在、午後四時半頃大鳴動ありし後、瞬時にして二三丈の泥流押し寄せ来たり、本堂内に大流木飛び込み来たり、如何(いかん)ともする不能(あたはず)。庫裏は見る見るうちに四尺以上の泥床上に上がり、段々追い詰められて本堂裏の最後の一室に逃ぐ。I子供三名を坊守は背に両側に抱き、死を決してありしに泥は三尺に達する時、愈々(いよいよ)最後なりと観念せる折、にわかに座敷の畳そのままに浮き上がりて埋まるを免れる。夜の十時過ぎに段々下がりて落ち着きたりて、漸く十二時過ぎに一命を助かりたるを知りしと、これ床下に入りたる泥なるが故に床板共に押し上げたる為なり。住職は万難を排して午前二時頃各地を迂回して胸までの泥中を押し切り漸く帰寺し、始めて御本尊御遷座の上移転せり。
 これを見て、門徒の避難所(山の方面)を訪問すべく、ズボンを脱ぎて再び仮橋の中途まで戻り、左折して流木の上を飛び越え約十二丁ばかりを二時間を費やして漸く新線路に上る。途中泥中二尺の所を渡りて生きたる心地なかりし程なり。
 線路を通行するも官吏、但し鉄道係と救護隊と新聞記者、通信員、僧侶とのみ、許可せられ、他は絶対に禁止せらる。許可を得て、三里の山奥へ訪ね、正午過ぎ田村平太郎外四名の家族を訪問す。母を惨死せしめて悲歎の涙に暮れる。
 午後頃反対の方向を二里行き、ここにても九戸を訪ね、六時過ぎ一先(ひとま)ず専誠寺仮事務所へ帰る。途中豪雨に遭い困難を極む。本日も死体六個上がる。未発見のもの七十以上に及ぶ。為に死体捜索隊懸命に尋ぬるも何分三、四尺の泥海にして而も三里に五里の大面積を探る故に困難は筆紙に尽くし難(がた)し。同夜門徒の者七、八名来たり惨状を訴う。今回の惨害者三重団体の大部分にしてそれは殆ど専誠寺の門徒なり。同夜も又一泊す。
 夜半より晴れたり。翌三十一日朝五時より又慰問と避難者個所を訪問す。山方面へ三里自転車を以て走れり、六戸あり。帰途死者三名の死体に遭う。途中役場を訪問す。村長不在。又途中馬の死体を焼けるを見るも焼けず半焼け也。只J乾ける泥は硫黄を含める故に火はそれに付きて、或いは流木に焼け付けば大惨事の上の惨事となる故、中止して悉(ことごと)く埋むる事に決せる様子なり。
 当日は全部で二十二戸訪問して夜七時に帰る。六月一日六時又慰問に出かけたり。市街地西川氏の宅を訪問せるにK山下三重県属に遭う。亜麻会社社宅に避難せる田村勘を訪(おとな)う。子供二人流失して死体未発見。内田住職と共に読経し菓子香を供う。篠原久吉を尋ぬるも不得。三名死亡し、久吉は又奇跡的に助かりたり。
  I『子供三名を坊守は、背に両側に抱き』

 坊守てつさん(当時四八才)と、子供三人は、長男「彌」(一六才)、長女「房子」(一三才)、次男「隆」八才)です。後に「隆」は北海道庁立富良野中学校(現在の富良野高校)に英語の嘱託教師として昭和二〇年から勤務されたと記録されている。
  J『乾ける泥は硫黄を含める故に火はそれに付きて』

 村役場の財務主任であった長井禧武(よしたけ)氏(当時二二歳)が、五月二四日から二五日に決死の覚悟で、最初の「災害調査」を金子助役、消防団の菅野豊治氏、青年団の三枝光三郎氏と共に四人で強行された体験を、郷土をさぐる誌第一八号に寄稿された。(寄稿時は九七歳)
 その文中に、硫黄分が付着した泥について「途中で一休みをさせて貰った家で暖をとり、腰から下の濡れを乾かした時、私のゲートルに付着していた泥の乾いたのを火の中に入れたところ、硫黄分が青い炎を上げたのには驚いた」と記している。
  K『山下三重県属に遭う』

 被害が大きかった三重団体は、三重県下からの開拓移民団だったので、三重県庁は職員「山下菊次郎氏」他二名を視察と慰問に派遣した。
 駅前に三重県出張所を設置し、被害状況の収集を行い、三重県庁への被害報告と、県出身罹災者の郷里への連絡や救援物資の配布等に多大の便益を図られ、三重県出身者は感謝の涙を流した。
 十勝岳爆発災害志に義捐金調べが掲載されているが、三重県出身に被害が甚大だったので暖かい義捐金が多く寄せられた。義援金額の順は次の通り。
 ◎各府県庁扱い義捐金調べ
  三重県庁     六三一五円六三銭
  樺太庁      一三三二円三六銭
  奈良県庁      七八二円〇八銭
 ◎道外新聞社扱い義捐金調べ
  大阪朝日新聞社  一五三六円二五銭
  東京朝日新聞社  一四二〇円八〇銭
  秋田魁新聞社    九〇三円七一銭
 即ち流木に衝き当たりてそれに乗せられ自作の讃佛数え歌を高唱しながら大惨害を見物して線路を越ゆる時に倒れたるも、また木に乗せられ腰打ちかけながら押し流され、高地に木の衝き当たると同時に安全場所へ投げ出されて無事なるを得たる等悲喜劇なり。但し孫と子供と自分とのみ残れるは矢張り悲惨なり。
 午後四時帰れば、田村岩蔵の母の死体上がりたりとの通知に接し直に行き、小経黙読して帰る。平素死体に対する挨拶はL「御気の毒」なるも、現状は然らず。死体を見れば「先ず結構でした」と喜ぶ也。午後六時寺族に別れを告げ、本部に於いて村会議員に面会し、種々慰問と共にM専誠寺の復興に関し依頼し、六時五十分発にて帰札の途に就く。

掲載省略:(写真)急造の蓆の棺に納めて涙の読経(大正15年十勝岳大爆発記録写真集)
  L「御気の毒」なるも、現状は然らず。

死体を見れば「先ず結構でした」
 大正一五年の十勝岳噴火による死者と行方不明者は、十勝岳爆発災害志に次のように記録されている。
       上富良野村
 死者 一一九名 行方不明 一八名 計一三七名
 美瑛村
 死者   四名 行方不明  三名 計  七名
 上富良野村の行方不明であるが、その内の一二名は遺体として発見されたが遺体の損傷が激しく、身元の確認が出来ず、無縁仏として埋葬された。
 当時の真宗本願寺派聞信寺、第二世住職、門上浄照師が、仮埋葬のままあるのを見るに忍びずと、村民に喜捨(きしゃ)を呼びかけて十勝岳爆発横死者無縁塔として、昭和二年八月一三日に聞信寺境内に建碑された。
 無縁塔の裏側には、一二名の法名と、推定年齢(四名のみは不明)が刻まれている。
 当時はDNA鑑定はなく、遺族にとっては遺体なき死亡ということで、つらく悲しい思いを永くもっていたことでしょう。
 二〇一一(平成二三)年三月一一日発生の東日本大震災から八年、死者一万五八九七名、行方不明者は岩手・宮城・福島の三県で二五三三名と北海道新聞(平成三一年三月一一日付)の記事があり、遺族や関係者は今も遺体、遺品を探し求め続けている。

 二〇一八(平成三〇)年九月六日発生の胆振東部地震でも被害と犠牲者を出した。その災害を北海道新聞は、「祈り届かず悲痛…一度に三人は辛すぎる」と、厚真町のある男性の取材記事があり、両親が九月六日に遺体で発見。九月八日に遺体安置所で探し続けていた祖母が横たわっていた。
 その男性は「やっとばあちゃんに会えた。出てきてくれてありがとう」とつぶやかれた…。

 千草壽磨師の「御気の毒」なるも、現状は然(しか)らず。死体を見れば、「先ず結構でした」の報告文は、激しい泥流で、家屋や田畑、流木で押し流されている現状を見ているので、遺体が発見された遺族の心中を察した、慈悲あふれる言葉をかけたものだと思う。
  M 専誠寺の復興に関し依頼

 専誠寺の泥土の堆積は、周囲は五尺(一b五〇a)、本堂庫裏は二尺(六〇a)に達し、門徒も多大な被害を受けたので、負担は厳しい状況であった。村の罹災者救援会は、義捐金より専誠寺修理補助費として五〇〇円を支出し、復旧された。
 罹災戸数及び死亡者人員を調査するに戸数(吾派門徒)七十六名
 死亡者
吉田貞次郎 母一名  田中 常七  二名
高田 信一  三名  若林仲次郎  五名
田村 岩蔵 母一名  分部 牛松  六名
田村平太郎 母一名  田村  勘  二名
田中勝次郎  一名  若林助右衛門 七名
篠原 久吉  三名    合計 三十二名
 罹災家屋の内被害尤も甚だしきものは右の内、吉田村長の家屋を除く十戸の外、左の十八戸なり。
分部 倉三  山崎 林松  高山熊次郎
臼井新次郎  川喜田幾久一 萩原常三郎
米川 喜助  山崎 兵松  高士仁左衛門
落合 善助  伊藤惣兵衛  伊藤藤太郎
米村 幸吉  高田 利三  立松為二郎
内田 庄治  内田 幸吉  山崎又次郎
              総計二十八戸
 本山より専誠寺及び寺族に対し見舞のため各金一封、罹災二十八戸に対しては御本尊並びに金一封宛、其他へは金一封宛、死亡者に対しては御染筆法名並びに念珠を授与されたり。
 ◇ この稿を終えて ◇
●『山津波 五日後の現地』の冊子を寄贈された上富良野町の向山町長は、竹内令さんに、父である千草壽磨師のご苦労を偲び、冊子発行に礼状を差し上げられました。その際、上富良野郷土をさぐる会発行の『山と共に生きる 十勝岳 一九二六(大正十五)年噴火泥流災害九〇年回顧誌』を送られました。
 その関係で、竹内令さんから著者にお礼の手紙を戴き、「回顧誌を読みました。父が九二年前の災害を見て、本山への報告を必死になって書かれたのですね…」と記されていました。
●一面識もない筆者に様々の資料の提供を戴いた竹内令さんに心から感謝申し上げます。
●平成三〇年五月、竹内さんに電話したところ、明るく元気な声で、「専誠寺住職増田修誠師が自宅に見えられ、本山報告の冊子発行のお礼と、九二年前に専誠寺と、門徒が大変お世話になりましたとの言葉を戴き非常に嬉しかったです」と語って下さいました。(その時増田修誠師は本山専修寺の宗議会議長であった。)
●竹内令さんから筆者に、自ら執筆刊行された次の書籍を贈呈下さいましたが、上富良野図書館に寄贈し、当町と友好都市提携の津市関係書架で閲覧出来るようになっていますので、ぜひご一読下さい。
 ◎「倭訓栞」と「谷川士清(たにがわことすが)」
   イロハ順の国語事典を谷川士清が五十音字にし、近代的国語事典の祖とされた評伝書。
 ◎「贄舞(にえのまい)」―最後の満州開拓少年義勇軍―
   竹内さんの三兄(千草篤麿氏の父)の満州での足跡を現地で巡り、拓友を訪ね歩く長編ノンフィクション。
 ◎「老老行進曲」
   竹内さん自身の、八十代夫婦の三年間介護の日々を綴った愛とユーモアに満ちた記録。
 ◎ 詩・エッセイ同人誌「葦」第五十七号(二〇一九年一月発行)
   父が九二年前に記した「山津波―五日後の現地」を読んで、「生まれる前の父に逢う」としてのエッセイ。
●津市「広報 つ!」の平成三〇年一月号に市長が選ぶ市政十大ニュースが掲載されています。
 第一位 津市産業スポーツセンターオープン
    女子レスリングで世界で活躍した吉田沙保里さんの名前から「サオリーナー」と命名。
 第七位 津市・上富良野町友好都市提携二〇周年
    平成九年七月三〇日提携締結。
 第八位 高田派本山専修寺国宝に指定
    「御影堂(みえいどう)」と「如来堂(にょらいどう)」が。建造物としては三重県では初。
●「第二六回中部ペン文学賞を雑談する会」が、平成三〇年九月六日、名古屋国際センターで開催。
 竹内令さんが、『十勝岳爆発―山津波―五日後の現地』―「若き日の父の手記の背景」―として報告されています。そのレジメと研究内容に驚きました。
 父の思いを込めた報告。心から敬意を表します。
 @北海道の命名 A松浦武四郎 B三重団体入植C上富良野の誕生 D十勝岳連峰 E十勝岳の地質 F過去の噴火記録 G大正爆発の経緯 H泥流の状況 I被害 J復興か放棄か
 ◇ 取材協力 ◇
・三重県津市        竹内  令さん
・三重県津市善休寺住職   千草 篤昭師
・三重県津市中央図書館   川上 祐子さん
・札幌市真宗高田派専修寺
      北海道別院輪番 島  光志師
・上富良野町真宗高田派専誠寺
          副住職 増田 光義師
・上富良野町        伊藤 欣治氏
 取材協力 ありがとうございます
 ◇ 参考資料 ◇
・高田の寺々        真宗高田派総務院
・高田本山だより   真宗高田派本山 専修寺
・専修寺北海道別院の歴史  専修寺北海道別院
・北海道寺院沿革誌          堅文堂
・大日本寺院大鑑 北海道樺太版    恢弘社
・津名所図会         一身田寺内町編
・安東小学校「百年のあゆみ」 記念実行委員会
・津市「広報 つ!」          津市
・津市民文化誌        津市教育委員会
・上富良野志        上川管内志編纂会
・十勝岳爆発災害志   十勝岳爆発罹災救済会
・上富良野消防のあゆみ 消防団七〇周年協賛会
・草分郷土誌   創成小学校開校五〇周年記念
・富良野高等学校同窓会会員名簿  同校同窓会
  「岩手県立農業試験場」時代の源三
 1951(昭和26)年岩手県立農業試験場創立50周年記念に編集された「岩手県立農事試験場50年の歩み」に当時、北海道庁経済部農業改良課技師であった源三は「岩手の思い出」という12年間に亘る、場長時代を回顧した一文を寄稿している。
 この内容は場長時代に推奨した農事研究の思い出や場長として各種の委員会の委員や審査員、ラジオ放送への出演、創立30周年記念行事などの活動を振り返ったものである。その中で、「北海道農試から岩手県農試への異動は同じ郷土出身の当時北海道帝国大学総長佐藤昌介博士からの推挙であった」ことや「毎週土曜日、年休を提供して日帰りの出来る町村での農事講演会を開催した」こと、「昭和6年の三陸大津波とその後の凶作に試験場あげて対策指針を作成し指導した」こと等。他に「岩手林檎の普及」、「冷害に強い陸羽132号の奨励(これは宮澤賢治も推奨したと言われている)」、「甘藷や水田二毛作の奨励」といった、試験場での活動。そして源三自身登山やスキーが好きで、職員と早池峰、岩手山、須川岳、八幡平などの征服したことや、都山流尺八の大師範として自宅で職員有志を教えていた等の回顧が記されている。
  おわりに

 猪狩源三は1959(昭和34)年4月19日北海道札幌郡豊平町にて71歳の生涯を閉じている。源三は晩年までも十勝岳泥流で被害を受けたこの地方の土壌改良事業に携わっていたと思われる。その源三はあの泥流で埋められた土壌が豊かな水田に生まれ変わるその報告書(「十勝岳泥流地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書」第7号 昭和37年2月1日発行)を目にすることは出来なかった。
 そして、今日「美しい丘陵地帯」として畑作農業が栄え「丘のまち」ラベンダーの咲き誇る観光地として全国に紹介されていることは想像すら出来なかったであろう。
 祖父の偉業に今更ながら驚きと尊敬の念を抱くところである。祖父源三の研究がここまで活用されていたことを、没後57年となる盛岡市大泉寺に眠る祖父の墓前に報告したい。
                     (2016年5五月20日 猪狩昌和 記)

掲載省略:(写真) 「十勝岳泥流地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書(第7号)」
掲載省略:(写真) 国営直轄かんがい十勝岳地区の昭和41年8月起工、昭和49年3月竣功の「日新ダム」には、源三の調査報告が生かされている。
《参考文献》
・ 猪狩源三 「土壌酸性矯正用石灰岩の粉末度に就きて」
 (1935年北海道農事試験場報告第32号)
・「十勝岳爆発流泥に関する調査成績」(1940年北海道農事試験場報告第39号)
・「泥炭地水の緩衝能に就いて」(1931年12月10日発行 土壌肥料学雑誌)
・「十勝岳山麓地帯に於ける酸性灌漑水並に流泥被害地土壌調査報告書」
 (第1報〜第4報 1955年〜1959年)上富良野町・中富良野村発行 猪狩源三著
・「十勝岳泥流地水田の土地改良並びに肥料試験調査報告書」
 (第7報・1962年上川地方綜合開発期成会・上富良野町) 千葉 登・片井義也著
・「郷土をさぐる‐第5号」(1986年4月上富良野町郷土をさぐる会)
・「岩手県立農業試験場50年の歩み」(1951年岩手県立農業試験場創立50周年記念会)
・ 三浦綾子著「泥流地帯」「[続]泥流地帯」(1977年・1979年新潮社発行)
・【新】校本宮澤賢治全集第15巻書簡(本文篇・校異篇1995年・筑摩書房)
・ 佐藤竜一「宮沢賢治あるサラリーマンの生と死」(2008年集英社新書)
・ 鈴木 實「宮沢賢治と東山」(1986年熊谷印刷出版部)
・ 千葉 明「肥料用石灰資材の粒度研究」―宮澤賢治の関わりを中心に―
 (2015年 北水会報128・129号岩手大学農学部「北水会」)
《著者略歴》
出 生 地  岩手県盛岡市三ツ割字田畑
現 住 所  札幌市豊平区西岡5条13丁目
最終学歴
  1970年3月(昭和45年)北海道大学工学部機械工学第2学科 卒業
職  歴
 1970年4月〜1998年5月 生活協同組合コープさっぽろ 最終職 常勤理事
 1998年5月〜2001年6月 釧路市民生活協同組合 最終職務 常務理事(和議再建担当)
 2001年7月〜2012年9月 株式会社シーエックスカーゴ(日本生活協同組合連合会子会社)
            最終職 専務取締役補佐
現  況(ボランティア活動)
 西岡公園「植物の会」会員、西岡「小目クラブ(囲碁)」会員、
 西岡「九条の会」会員、札幌豊平教会「朝食を食べる会(子供給食)」奉仕 他
趣  味
 登山・囲碁・読書


機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀