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上富良野に生きて(二)

倉 本 千代子(九十歳)

前号から続く
  秋から冬へ〜また楽し
 秋はまた農家にとっては、その年の成果と、これからの一年を過ごせるかを占う収穫期を迎え活気づく時期でもある。そうした中、祖母の家では、市街地から西村又一さんと言う豪快な小父さんが、馬車に発動機を載せてやって来て、近隣総動員での脱穀作業が行われるのだ。畑いっぱいに敷かれた筵(むしろ)に麦類、豆類が山積になったところに機械を下ろし、始動するまでの準備がまた大がかり、機会はその日の機嫌で動いてくれないこともあるので総ては小父さんの腕にかかっている。私達子供は見たこともない機械がどのように機能するのか興味津々だ。
 先ずは発動機に付いている蓋(ふた)付きのカップに青い液体を入れ、車輪の軸にハンドルをはめて力いっぱいに廻すとドドドッと凄い音がして車輪が回り始め地面までもが揺れて、長くて幅広いベルトを脱穀機につなぐと、積み上げた作物を脱穀機の上に乗せる人、それをこぐ人、出て来た実をかき集め唐蓑(とうみ)にかける人、そこから綺麗になって出てきた実を叺(かます)や俵に詰める人、話し声も聞こえないので、みんな無言だ。こうして幾つも行程を経て売り物になったり、食料になるのだ。
 休憩時には私達子供が川で冷やした西瓜の出番となり、各々に膝に当てて割ったり思い思いのスタイルでかぶりつくのも至福のひと時で、これも順調に行けばのことで、時には発動機が動いてくれず、小父さんは泊りがけになることもあるのだ。祖母の家には一反歩の牧草地があり、何時も鹿毛(かげ)とサラブレッドの栗毛が放牧されていたが、この日は小父さんの馬も仲間入りしていた。
 ちなみに、これ等の農機具は徐々に家庭に普及したが、次々に新式のものが開発されたことに伴い、不要になった発動機や唐蓑などの多くが、郷土館建設の際に寄贈され、現在もその多くが倉庫や地下室に眠っている。これ等のものが、今後日の目を見ることがあるとは考えられず、その運命が気になるところではあるが…(余計なお世話か)。
 収穫期が終わり十一月ともなると早くも雪の季節がやってくる。そしてまた私の出番になるのだ。母は何でも器用にこなすのに編み物が不得手で、私達子供は叔母に教わったり見よう見真似で、手袋や靴下、正ちゃん帽子などを編んだり、自給自足なのだ。
 冬休みになると祖母の家の裏山でスキーや橇での雪遊びが始まる。と言ってもスキーは従兄弟の手造りで大人用、橇は家庭の運搬用で、私達妹弟に友人が加わり総動員でやっと山頂まで引き上げ、全員が乗って一気に滑り降りるのだが舵取りがうまく出来ず途中で転覆、雪の中に放り出され目鼻の見分けがつかない顔を見合わせ大笑い。それに飽き足らずジャンプ台を作って着地に失敗、橇共々逆さ落ちなど、そんなことを繰り返し頭の上からつま先まで雪まみれになりながら、寝転がって空を見上げてまた大笑い。
 長靴に雪が詰まり足が動かなくなってやっと帰宅なのだ。ストーブの周りいっぱいに乾かすのがまた大仕事なのに、何の苦もなく連日繰り返していた。
 「冬休み帳」と言う宿題があったが私は一日で仕上げ、只々遊び惚けていた。母は何かにつけて「男の子だったら良かったのに」と言っていたが…。
 そして三月、日照時間も長くなり昼夜の気温差で雪の表面が凍るので(当時は氷点下三十度なんて普通にあった)、堅雪の上を何処までも歩いて、白樺や楓(かえで)の幹に抱きつき樹液を吸ったり、秋の名残のしなびた山ブドウもまたオツなものだった。兎や狐の足跡を辿り何処迄も歩いて思わぬ発見もあったり。
 あの時、朝鮮人が真っ黒になり汗だくで開墾にいどんでいた山はどうなっているのかを見たくなり、スキーで出かけた。成る程其処には大木はなく、その後に生えたと思われる木はまばらで、その頂上は眼前に十勝岳が迫り、手を延ばせば噴煙に届きそうな不思議な別世界だった。そこで思ったのは、あの時三人のおじさんが全身真っ黒な裸であんなに頑張ってくれたのに、お国の都合とはいえ、その苦労も祖母の願いも「強制送還」の一言で水泡になったが、自然だけは「黙して語らず」だった。
  戦争、そして一億総動員の時代へ
 季節は巡り、春とは言え雪が残る四月、私は六年生になったが、その頃からフランス領インドシナ(現在のベトナム・カンボジア・ラオス)への侵攻が始まった。それまでも決して裕福とは言えない日常ながら心は満たされていた暮らしが、普通ではなくなっていった。
 十七歳以上の男性が兵役に服することになったため、学校も教員不足で、旭野小学校にも高校を卒業したばかりの男性教員が赴任した。ニキビだらけの顔に眼鏡をかけ、紺の詰襟がピチビチ、愛別出身の須川先生だった。直接授業を受けたことはなかったが、公宅にはお婆ちゃんが一緒で、何故かそのお婆ちゃんと意気投合、学校帰りに毎日のように寄っては遊び惚けて、と言うより遊ばれて、校長先生に「早く帰りなさい」と叱られ、須川先生も「早く返しなさい」と注意されていた。
 そしてまた年を越した三月、私は小学校卒業を迎え、その記念写真には何故か誰よりも大きな蝶タイを結び、着ぶくれた私が前列の真ん中に写っている。須川先生も着たきり雀で着任時その侭(まま)だし。
 そして四月、私は高等科へ進むことになった。上富良野小学校(昭和十六年四月一日から尋常高等小学校は、国民学校初等科高等科に改称された)に併設された二年制で義務ではなく、特に戦時下でもあったので、裕福な家庭だったり成績優秀な子で同期十八人中十人が進むことになった(中途退学した者もいたが)。その頃には生活物資が配給制になったり、物不足で日常生活に影響がでており楽な暮らしではなかったが、私は何のためらいもなく進学を選んだ。
 学校までは約十粁の距離で、当時の道路は、夏は馬車が通れる幅の砂利道で曲がり曲がりに上り下りのデコボコなので、雨が降ると川のように流れ、冬は馬橇が通れるだけの幅なので、すれ違う際には雪を踏みつけて退避するという、現在の道路からは想像すら出来ないと思うが…。道の真ん中に青大将がトグロを巻いていたり、狐が悠々と歩いていたり、或る時の帰路に蛇を掴(つか)まえグルグル廻して川へ放り込むと意外や意外、急流の中をスイスイと横切り、あっという間に向こう岸の笹薮に消えていったり、また或る時は大水が出て道路が削り取られ、山の中を自転車を担いで通ったこともあったりしたが、それを苦と思わず極めて自然体だった。
 当初、私の家には自転車が無かったので毎朝六時過ぎには家を出て、普通に歩けば二時間を要したが、私は毎朝、遠く聞こえてくる一番列車の汽笛の音で判断しながら走ることが多かった。そして五月になった或る日、仕事帰りの父が黒く光る一台の自転車を馬車に載せて来た。明日から乗って行けと言う。聞けば、上富良野では誰も乗っていない高級車で、百円だそうな。
 翌朝、私は嬉しいと言うより不安のほうが大きかったが、恐るおそる乗ってみると目線の先が何時もと違う風景なのに戸惑いながら途中までいくと、同級生が歩いていたので自信もないのに乗せてあげることにした。この侭では遅刻するのが歴然だったから。しかし即失敗、側溝に突っ込んで友人は足を痛めるし、新車はチェーンケースが潰れてペダルが動かなくなるしで、二人トボトボ自転車を押して歩くことになった。
 当時、学校には自転車置き場がなく各自で街の自転車店に預けるなどしていたので、父には内緒で修理して貰ったが、学校は大幅遅刻で散々だった。ところが救いの神がいたのか、役場横の路上で三円の紙幣を拾った。先生に届けて間もなく落とし主が現れ、お礼だと五十銭玉を貰ったが当時としては多額で、自転車の修理代どころか小遣いに余裕が出来た。
 高等科の二年間で親にお金を出して貰ったのは二年生の夏の修学旅行費だけで、納期前日まで言い出せずにいたが、案ずるよりは、で父は快く拾円を出してくれた。当時の授業料は五十銭で、毎月収入役の窓口で納めていたが、そこには小学校の卒業式に来賓として来られた貫禄のあるおじさんがいた。
 その頃には戦争が激しくなるに伴って物資が不足し食糧さえも制限されるようになっていた。衣料も着たきり雀で年中一着のセーラー服、雪の日も雨の日もオーバーコートで、雨の日は裾からしたたり落ち重くて自転車をこぐのもやっと、ひとシーズンで色あせてしまった。

掲載省略:(写真)旭野小学校卒業記念写真(昭和16年3月16日)前列左より3人目が西口チヨ(千代子)、後ろは当時収入役の新井与一郎さん
  市街の学校は凄かった
 自転車通学になって頼まれごとが多くなり、旭野小学校の校長からは、毎月大事な書類だと言う封筒を「校長先生に届けて」と。当時の上小は三線校舎が廊下でつながれていて、高等科の教室は新校舎の二階で裁縫室・作法室などもあり、授業でミシンの使い方などを覚えたことが後々大いに役立った。生徒は三クラスで一五〇人程、全体で千人を超えるマンモス校だった。校長室は古い一線校舎で日中も薄暗かった。恐るおそるノックすると、厚いレンズの眼鏡をかけた校長先生は「君が西口君か、これからも頼むよ」と優しい笑顔で言ってくれた。それから卒業まで続いたが、後に教育長になられ仕事を共にすることになろうとは、その時には夢にも思わなかった。
 父の用事だったり近所のおばさん、そしてあのニキビ先生にまで、あれやこれやと頼まれるので帰りは何時も一人だった。当時はサッポロビールの先に桜井さんと言う野菜農家があり、立派な鼻髭を貯えた小父さんが作るトマトが絶品で、私は毎日帰路に一個五銭で買って食べながら歩いたが、そこから先は和田さんの田畑で、道路を隔てて長谷部さんと言う牛飼農家があるだけ、道路も急勾配で白樺などの木立のある笹薮だったり、自転車をこいで登れない坂が何箇所もあり、冬は三時を過ぎると薄暗くなった。当時、戦地の兵隊さんに送る慰問袋に入れる作文とか図画など居残りで書いたりする時は、学校を出る時点で既に薄暗く、帰りは毎日一人ポッチ。道路改良により現在は様変わりしているが、観光八景の一つになっている『ドングリの里』に残っている楢の大木の下で一息ついて振り返れば、街の電気がチカチカ光っていて、「今頃、市街の子はあの灯りの下で宿題をしているのだろうか」と涙がポロリ…。「よしっ」と気合を入れて、そこから先は暗やみに向かって誰一人行き交う人もなく、黙々と只ひたすら歩くのみ。
 家に着く頃には真暗で子供はすでに寝ていて、母だけが灯りも点けずストーブの火の明かりで縫い物などしながら待っていてくれた。灯油もなく配給になるのは軽油で、赤く濁った色のものを皿にいれ、軍手の切れ端などを芯にして灯しており、その明かりで夕食をとり、母はその間に私が持ち帰った靴下や靴をストーブの火で乾かしてくれたり。その頃には総ての物が配給で履物も例外ではなく、私は冬もズックの上靴で雪の中を走っていた。毎月一度、学級に四〜五足割当てられる配給券から、先生は特別に配慮してくれたが、毎日毛糸の靴下二足で往(い)きの一双は学校で履き替え、靴はストーブで乾かして帰りに備えた。雪が積もった朝は母は藁沓(わらぐつ)で踏んでくれたが、道々に出ると誰一人通っていないので、新雪の中を膝まで埋まりながら、ひたすら走っていた。
 当時の上小は千人程の生徒数で朝礼は体育館に全員集合で行われるので、自然に担任以外の先生や他学年の生徒の名前など、知ったり知られたり。毎月、体育館の掲示板に各学年から選ばれた習字や図画などが貼り出され全校の注目を浴びていたが、私も二年の間に習字と図画を貼り出され、担任が同じ苗字だったこともあり、上級生や先生方に注目されるようになり、それが負担になったりプラスになったり…。

掲載省略:(写真)菅野京子(前列中央)さんの満州への送別写真〜菅野後ろのジャンパスカートが西口チヨ、後列左端の和服女性は家庭科担任の本間キヨ先生(昭和16年9月9日)
  いじめにも遭って
 心身共に疲れ果て一人で帰路を急ぐ私に更なる試練が待ち受けていた。昨今学校でのいじめが問題視されているが当時もそれはあって、生死に係るような陰湿なものではないが、私は毎日の帰路そのいじめに遭っていた。小学校からのボスだった悪がきを先頭に家来三人で、楢の木を過ぎて曲がった所に自転車を横に並べて道を塞ぎ待ち構えていて、私の自転車を蹴ったり髪の毛を引っ張ったり、暴言の限りを浴びせられたりしたが、私は一言の反論もせず只、自転車を傷つけられるのを避けようと、大人が来るのを待っていたり別の道を遠回りして出し抜くなど、歯を喰いしばって一人り歩きを続けたが、通学を嫌だと思ったことは一度もなく誰かに話したこともなかった。
 そしてまた冬が来て、父は芦別の山に出稼ぎに行った。当時は家庭で甘酒や濁酒(どぶろく)を作っていて、我家でも美味しい濁酒が出来たので父に届けようと、私がその役を担うことになった。朝一番の列車で富良野で乗り換えるのも初のことだったが、向こう見ずの私は一升瓶を風呂敷で背負い、それと知られれば犯罪者になるかも知れないのに、いとも簡単に富良野駅で乗り換え、その先は未知の旅だ。上芦別で降りたらいいと聞かされ思いの外(ほか)短時間で着いた小さな駅は人影もなく、駅員に尋ねると、目の前の道を真直ぐ行けばいいとのことだったが、行けども行けども家一軒あるでなく見渡す限りの雪原だ。そして日も暮れる頃、丸太を運ぶ馬追いのおじさんに出会ったが、「一本道だから…、だけどまだ遠いよー」と心配顔だった。「よしっ」と気合を入れて更にどれぐらい歩いたのか辺りはすっかり闇の中、ほんのりと明かりが見えて来た。突然の意外な訪問者に飯場のおばさんは吃驚仰天(びっくりぎょうてん)、「あんたァー、一人で来たのかい…」、あとは絶句だ。一番驚いたのは父のようだったが…。即、濁酒で酒盛りが始まり一升瓶はあっという間に空っぽになり、私は初めて父の布団で寝た。しかし、翌朝目を覚ますと、すでに父達は仕事に出て飯場は空っぽ。おばさんの「気をつけて帰りなさいよ」の声に送られ帰路についたものの、その足どりの何と重かったこと。何故か涙がポロポロ、矢張り通る人のない道をトボトボ。役目を果たした満足感はあったが…。
 そして三月末、父は仕事を終えて帰ってきた。センスの良い父は私達子ども各々のサイズぴったりの下着や履物、一尾まんまの塩鱒など沢山のお土産を持って…。母は給金袋を神棚に供え家族みんなで手を合わせ父と「青」の労をねぎらうのが恒例だった。しかし当時の物は見かけはいいものの長靴は三日もすると裂け目が出来、一週間後にはボロボロ、只のボロ切れになった。私はまたズックの運動靴になって高等科二年の通学が始まり、それが似合っていると思いながら…。そして日直とか最高学年としての責任ある仕事や男子と共にすることが多くなるなど、その頃の私は学年全員の名前も他校から来ている出身校も覚えたり中には意識する子もいたりしたが…。
 奉仕作業と言って富原のホップ園に行った。男子は長い支柱を何人かで持って運んだり、女子はホップの花を摘んだが、青や白の消毒液がついていて青虫がウヨウヨ、気持ちが悪いと悲鳴を上げながらも大きな労力になっていたようだった。夏休みを迎える学期末に神社裏の湿地の中に僅かばかりの平地を探し大根を作ろうと種子を蒔いたものの、先生自身が育て方を知っていたのかどうか?夏休み中に間引きや除草作業に出かけたが、誰一人見えず先生に会うことも何等(なんら)の形跡もなく、いつも一人だった。収穫時には全員で二〜三本ずつ、当時グラウンドの中に建っていた二棟の住宅に運んだが、何時の間にか家は消えていた。再びの冬が来て相変わらず走り続けていたが、卒業間近の二月、体調を崩し一カ月の休学を余儀なくされたが、ほんの二年間ながら多くの大切なものを得て卒業を迎えた。
  社会人になったけれど…
 学校を卒業したものの更なる苦難の道を歩むことになった。もともと体が弱かった私は農業の仕事はしておらず、その後も家事をしながら野菜作りなどを手伝っていたが、その頃は国の経済も末期状態で国民生活も惨憺たるものだった。鉄と名のつくものは鍋釜まで供出、我が家では生活の糧である馬が三頭も続けざまに召集された。その度に父は十勝方面まで出かけ、一週間もかかってやっと買い求めたと安心する間もなく次々と連れて行かれ、その度に私は「何で我が家ばかり」、誰がどのように決めているのか不思議であり不審に思った。国に逆らうことは出来ないので、遂に父は牝馬を飼うことになった。ところがその頃、『伝貧(馬伝染性貧血のこと)』という伝染病が流行しており、その治療法がないというので殺処分にされていて、不幸は重なるもので、秋の或る日、我が家にも白衣姿の獣医師がやって来た。家の前の笹薮に大きな穴を掘り、辺(ほとり)に馬を立たせ注射をすると、数分で穴の中に倒れ込み死亡し埋められるのだが、馬もそれを察しているのか目がうるんでいたようだった。家族は泣きながら見送ったが、父は流石に忍びなかったのか布団をかぶって、きっと泣いていたのだと思った。
 やがて戦争も末期と言われ、更に大きな反動が来て生活物資は総て配給制になったため、食糧を始め衣料品、灯油等々、部落に一括割当てで、地下足袋〇双、軽油〇合、軍手〇双など、その都度部落中が集まり、くじ引きなどで配っており、我が家では仕事を持たない私が参加していたが、あまりにも複雑細分化するのでおじさんたちの手に負えず、集会の度に「算盤(そろばん)持ってきて」とお呼びがかかり、組合の絶対的信頼を得て、私が計算して割振りすることに誰一人不平不満を言うでなく、むしろ事が早く正確に進むと喜んでくれた。私自身もやり甲斐を感じていた。
  温泉旅館の女中になる
 そんな中、当時吹上温泉を経営していた陶治助さんから「体の養生傍々(かたがた)温泉で働いてみないか」との話を頂いた。父はどのような経緯で親しくなったのか陶さんを信頼しているようだった。そういえば以前にもアイヌの人と狩に行って来たと、熊の肉を持ち返ったこともあったり(ちなみにその肉は硬くて食べられなかったが)。そこは私次第ということになり、矢張りセーラー服に小さな風呂敷包み一つで夏の山道を曲がり曲がりで一人とぼとぼと歩いた。不意に笹薮から飛び出して来る狐や蛇などに驚かせられながらも恐れもせず、淋しいと思うでもなく、当たり前のように歩きやっと辿り着くと、ふくよかなおかみさんと長女の静子さん、先輩の夏子さんが出迎えてくれた。そして翌日からセーラー服の女中となり浴場に続く曲がり曲がりの急勾配の廊下の雑巾がけなど鼻歌まじりで楽しいものだった。時折、窓の敷居に青大将が長々と寝そべっていたり、浴槽の中でも泳いでいたり。火山地帯で地熱があるからだろう。裏山には大小色とりどりの蛇がうようよしていた。
 現在の『吹上露天の湯』は当時の浴槽そのもの(もっと大きかったが)、曲がり曲がりの坂道も廊下そのまま、駐車場から道路をへだてて二階が、二箇所の階段でつながれていた。夏休みには大学生の合宿だったり画家が長期滞在したり、上小の若い教師も団体で来館し懐かしさもあったりだったが…。九月になった或る日、女性特有の生理が始まり私はさっさと荷物をまとめ「帰らせていただきます」と。あっけにとられているおかみさん達を尻目に、来た道を引き返した。僅か四カ月の女中奉公だった。

掲載省略:(写真)昭和18年8月 .十勝岳噴火口登山〜陶家・工藤家の人達と、後列右のセーラー服が千代子
以下次号に続く

機関誌      郷土をさぐる(第36号)
2019年3月31日印刷      2019年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀