学校の統廃合シリーズ(六)
夢に出てくるエホロッコ
−ほんとうの豊かさを問い直した貴重な体験−
山の絵美術館・江幌小屋主宰 佐藤 喬
すごい学校のお手伝い出来た |
![]() |
100周年の年の写生会〜子どもたちと一緒に描く 2010.6.21 |
まえがき
円形でおしゃれな江幌小学校は、一九六五年に建てられた校舎を一九九〇年に改築したものだ。
一九八七年、江幌住民会長・江尻菊正、静修住民会長・海老名与三郎、江幌小PTA会長・一色武松の各みなさんを中心に改築に向けた陳情が動き出した。
三年後一九九〇年には落成、併せて開校八〇周年の記念式典の催しも実施されたとある。
さらに改築に併せ、特認校の申請も進められていて一九九一年にはこの要望は認められ新たな一歩を踏み出したのだ。学校が無くなると地域が疲弊することを見越し、学校だけは残そうとした先人たちの知恵により出来た学校だ。
私が上富良野へ移住してきたのは一九九七年、以後図工を教え始めてから子どもたちの変わりようをずっと見ることが出来た。以下は実際に指導したものを中心に他の実践も加えて輝いていた私流の「江幌小らしさ」に的を絞って紹介している。
出逢い エホロッコとの出逢い
江幌小学校の子は先生方が親しみをこめて「エホロッコ」と呼んでいる。私との最初の出逢いはオープンさせたばかりの江幌小屋に羽山正巳校長先生に連れてきていただいた子どもたちを案内した時、一九九九年七月頃だったと思う。みんな熱心に鑑賞してくれて後日子どもたちの感想文を綴じて持ってきていただいた。
以後江幌小屋は写生会等の事前指導に使う教材特別室の役目も担うことになっていった。
教師として都会の中学生と付き合ってきた私には純真無垢で瞳のきれいな小学生たち、先生方はみんな教員住宅に住んでおられたので江幌の住民だったし気さくで新年会や秋祭り等の飲み会を通してすぐ親しくなり、いずれは図工の指導も頼まれていた時でもあった。
私は教師という仕事に区切りをつけ第二の人生で最もやりたかった仕事である創作活動に入ったばかりだったので、当時教頭の山崎武光先生は「子どもの指導依頼」に負担をかけないように気遣ってくれていた。
とてもいい出逢いだった。
![]()
エホロツコたちとの最初の出逢い 1999.7 江幌小屋での授業2004
別れ エホロッコとの別れ
二〇一五年三月二六日は三学期の終業式だ。例年だと年度の反省と次年度に向けての抱負が語られ転勤する先生方の離任式も行われる。しかし明日から江幌小学校が無くなる日に行う儀式には予想通りリアリティはなかった。次年度の抱負はないし誰が誰を送り出すのか分からない離任式はどうしても形式的だった。
しかし例年ある「校歌斉唱」は子どもにとっては「最後の」校歌斉唱になることが分かっているので泣きべそで歌う子もいた。訳あって閉校式典に参加しなかった私にも「これが最後」のリアリティがあったので飛び入りで話しさせてもらった。特に離任式では先生方にお礼を述べられるのは地元に残る私しかその場に居なかった。三月二六日は私にとって事実上の閉校式だった。
出逢いの時の子たちは、良い意味でだが土臭く自分を表に出すのが苦手の子が多かった。大串信吾(役場)くんや谷本ひとみ(ニトリ)さんらを思い出す。
地元の子十人に対し街の子十一人と勢力図が変わる二〇〇四年あたりからは土臭さを持ちながらも自分を表に出せる子が増えていく。曾田サキ(音威子府美術工芸高)さんたち前後のあたりだ。閉校の年二〇一四年度は6白井彪雅、6平沢伴明、5土屋旬平、5平吹優、3平吹萌、3橋野かおり、2曾田ひまわり計七人の面々だった。特に六年生二人の絵は群を抜いていたので別れがたい。
二〇年近くの思い出が走馬灯のように流れて行く。次ページに二つをピックアップして紹介している。
![]()
最後の離任式 2015.3.26 最後の校歌斉唱 2015.3.26
証し@ 担がないお神輿
江幌小学校は江幌地区の他静修地区と市街地の子と三地区の集合体とも言える学校だ。
例年九月三日は江幌神社、静修神社の秋祭りで子どもたちも参加する学校行事でもあるので街から通う子も神輿を担ぎお祓いも受ける。
江幌神社は学校のグラウンド続きのような近くにあり、鳥居から坂道をかけ声とともに登って行く。
下はその時の様子を絵にした二〇〇二年度の卒業製作だ。静修の宮島和也くん一人が卒業生だったので小さい絵にしている。複式学級なので五年生の大西真一(大西美紀先生の長男)くんらも手伝って仕上げている。ラフスケッチの段階で神輿を手にぶら下げて持っているので「神輿って普通担ぐものだろう」と言うと「そんな持ち方したら小さい子は届かないでしょ」と言い返された。私はハッとなり全てが理解でき恥ずかしい想いをした。江幌小学校は、縄跳びの順番にしてもドッジボールで玉をぶつけるにしても常に小さい子や力のない子への配慮が働いていた。もしいじめが起きたとしてもこの集団なら克服して行くだろう、そう信じる。
2002年度の卒業制作 江幌神社の秋祭 2002.9.3
証しA 触れた命の輝き
江幌小学校の特徴の一つは体験学習の豊かさだ。右の写真は二〇〇七年一〇月八日、静修の菅原さんの豚舎で撮影されたものだ。当時教頭で学級担任でもあった鈴木昌子先生には「命」をテーマにした学習内容を思案されていたこともあって豚の出産は待望の出来事だった。
静修菅原さんの豚舎 2007.10.8
このようないつ生まれるか分からない、豚の都合に合わせたかのような柔軟で迅速な対応で、子どもたちを動かせる学校は日本中探してもそうはない。教科書を使って命の重さや尊厳を説く授業はどの学校もやっているが、現場で生まれたての豚の子を抱き、いとおしみをつのらせることが出来ている江幌小の教育はすごいと思う。食事時に「いただきま〜す」と手を合わせてから食べることの意味もこの体験一つで全部伝えられてしまう、知っていることと分かっていることは違うのだ。
僻地校で遅れた教育を余儀なくされている等はとんでもない、日本で一番進んでいる教育をしていたように思う。十年後二十年後にはこの体験が生かされ、個々の価値の基準のようなものが出来て行く、そう思う。
ちなみに当時教頭の鈴木昌子先生(現・旭川市立新町小校長)は上富良野・島津出身だ。
写生会 震災地に寄り添う
二〇一一年三月一一日に起きた東日本大震災の四ケ月後の七月の写生会で樹木の生命力を写生する目標で江幌の旧八幡神社の御神木・松の木を描かせた時の話だ。当時陸前高田の奇跡の一本松の保存が毎日のようにテレビ・新聞で目に付いていた頃だ。江戸時代に防風林として植樹された七万本の松は津波に呑まれ砂浜になった風景、その中で一本の松が奇跡的に生き残っているドラマチックな本当の話に、後押してもらう目論みもあって題材設定した。
江幌小学校の近くで、中瀬実さんの家の前から東側への直線道路がある。これは十勝岳噴火災害時の避難路として作られたもので旧八幡神社跡の御神木の松の木はこの直線道路の途中にあり、しかも根元部分をどけるようにカーブして作られている。
中瀬正次郎さんの保存にかけた熱意を写生会現場で息子の実さんから話を聞く機会を作った。当初は根っこの半分は抉られるので切り倒す計画、タダの松の木と言う施工側と生活の中で苗木から水をやり剪定し手を加えてきた思い入れのある暮らし人たちとの間の隔たり、そこを埋め説得し続けた正次郎さんの熱意、木を育てていく過程、そして役場の人たちとのやりとりが話の内容だった。
御神木には、風格のある木を選び脇に神社を建てる場合と建物・神社が先で御神木を苗木から育てていく場合と二通りあり江幌のこのケースは後者で、貫禄や威厳にやや欠ける面もあるので題材の目標を当初の「木の生命力」から「木を守った人たちへの想い」の方へ方向転換したほうがいいと考えた。これだと陸前高田の一本松の話ともリンクする。
正次郎さんは故人でもあり物語絵のような展開にしてしまった。
導入のイメージトレーニングはインターネットでダウンロードした被災地の写真(左)を使い一人一人の子に場面の想像をしてもらった。高台から見下ろす東北の災害風景、二人の大人と一人の子、どんな想いで災害現場を見ていたのだろうかの想像である。
写真からの想像話、低学年の子から一人ずつ話はじめやがて高学年になると涙ながらに言葉を詰まらせる子も出てきた。被災した人たちの現状を毎日のように新聞エアレビで見ていた時期なので想像自体がリアルに近かったようだ。
発達段階の異なる子が混じっている集団では上級生の言動はすごく大きいがしかしその上級生さえも低学年のつたない言葉の影響を受けて膨らませ感極まることがある。江幌小が最も江幌小らしい場面を垣間見ることが出来た。
しかし描かれた絵は、役場の人とやりあっている中瀬正次郎さん、木に見守られて遊ぶ動物たちの夜の風景まで出てきてバラバラ。「写生会」の意味が問われる指導実践、評価は分かれることだろう。
御神木前で中瀬実さんの話を聞く ダウンロードした東北被災地の写真 5年江見恭佳の写生作品 4年倉谷悠立の写生作品
卒業制作@ すごい絵だ、何もかも
![]() |
2010.11.15 自分たちが出演した劇 |
江幌小の卒業製作は、卒業生が在校生へ残していくメッセージ性のある縦九〇センチ、横二メートル七〇センチの大型が定着していた。作業は複式学級なので五、六年生の共同作業、時期は三学期いっぱいを使う。
「何を描くか」は子ども自身に決めさせているが、いつの頃からか在籍児童全員が画面に登場する絵が当たり前のようになったので題材選びがまったく自由というわけでもない。
二学期の終わり、冬休み直前の事前指導では大まかな伝統の確認をし冬休み中にイメージのラフスケッチを描いてくるようにと宿題を出す。
年が明け三学期の卒業製作の初日は、宿題にしていたラフスケッチを一人ずつ黒板に貼って製作意図を発表し交互に意見交換をする。共同制作なので合議制だ。
この年、次のような題をそれぞれ考えて来て発表した。
6年 平沢 諒真「逃走中」、
6年 鎌田妃比乃「学芸会・劇」、
5年 春名 勇輝「明治が丘・遊び」、
5年 築館 紗菜「収穫祭・餅つき」、
5年 曾田 サキ「学芸会・劇」だった。
この五つの中では「劇」案が二人居たこともあって絞られ、鎌田妃比乃のアングルが客席側からの絵、と曾田サキのステージ上で演技している側から描いた絵と双方について討論した。結果サキ案になり、作業が具体的に動き出した。
江幌小の卒業制作は過程でパソコンを有効に使う。黒板上にチョークでなぐり描きした絵はカメラ撮りしパソコン上で白黒を反転したものをプリントし、紙の上でエンピッ描きし再び黒板の絵に手を加えるやり方だ。江幌小の子はホールに数台設置してあるパソコンを自由に使える。
サキ案は次第に形が整ってパソコン上で画像を四八分割してB4紙にプリント、それをカーボン紙を使って写していく。
寝ぼけたような三学期始めがウソのように目が覚めた子たちが走り始める。途中では卒業式準備、文集の作成が入ってくる忙しい日程、休み時間も放課後も使っている。
色塗りが始まり、一度描いた人物の上をスポットライトの白い光が勢いよく走るところは人物部分をマスキングテープで覆いカッターナイフで人物の輪郭を切り、その上に光の白を走らせるという緻密で根気のいる作業も何なくクリアーして絵は仕上がった。
卒業式も近づいた二〇一一年三月一〇日は在校生へ残すメッセージを卒業式用にまとめた。
要旨は「学芸会の劇は役者だった私たちだけで成し遂げたわけではない、照明の田中さん(事務官)や旭さん(校務補)、音声の上西先生(養護教諭)、台本や衣装作りを通してご指導下さった小西雄良先生や佐藤仁彦先生、そして諒真くんとセリフのやりとりをした観客のみなさん等会場が一体となって創り上げたものです。みんなで力を合わせ困難なことがあっても乗り越えて下さい」だった。そしてこの翌日二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起こったのだ。世界中から日本へ寄せられた激励のメッセージはこの子たちが卒業式で披露する予定だった伝言メッセージそのものだったのだ。印象の強烈な製作だった。
![]() |
鎌田妃比乃 平沢諒真 春名勇輝 會田サキ 築舘紗菜 担任・小西雄良私 2011.3.10 |
卒業制作 A最後の田植
二〇一三年は念願の田植えが卒業製作の絵になった年だ。
体験学習 田植え 2013.5.28 中学生と対面 東中中学校体育館 2013.12.13
田植えの体験学習は飯村さん所有の水田を学校のPTA役員さんたちが中心になって続けてきたものだ。水田は閉校が決まっていた東中中学校の校門前にあり、中学生も江幌の小学生も最後の体験になる。
卒業制作は子どもたちにテーマを決めさせてきているが話し合いの場では私の案「田植え」も出すが否決されてきた。最後だということもあって子どもたちも賛成してくれたようだ。だから「念願の」である。
稲刈りも一緒にやり、さらに収穫祭の餅つきにも招かれる直前だったこともあったので在校生は全員絵の中に入れることは勿論、この際だから東中中学校の生徒五人、引率の先生、さらにカメラを持った私も入れてほしいと持ちかけてみた。人物だけでも二〇人以上になり難しさは予想できたが五年生の二人は力量があるので大丈夫と思った。ただ普段から交流のない東中中学校の生徒五人をどう描くかが問題だった。そこで招待されていた収穫祭時に対面させることにした。(上写真)
東中中学校の生徒は岡村優輝くん、小田康介くん、谷口賢矢くん、中村敦士くん、田中昇吾くんの五人、江幌小の描き手も6曾田義敬、6倉谷悠立、6平吹翔、5平沢伴明、5白井彪雅の面々、どちらも五人なので会場で誰が誰を描くか分担し該当の子を注意深く見るように指示はしたが…無理、逢わなかったより少しまし程度だったと思う。体育館は最後の収穫祭とあって町の重鎮や東中小学校、江幌小学校、幼稚園の子に埋め尽くされ、この中学生にも「獅子舞」等の仕事があって落ち着いた雰囲気で話し合いが出来る状態ではなかった。
二〇一三年一二月二四日、二学期最後の日が「田植えの絵」のスタートになった。東中中学校の五人を五、六年生に一人ずつ割り当てした写真を配り、冬休み中に田植えをしている様子の絵にして持ってくるよう宿題を出した。
年が明けた一月二三日、本格的に絵づくりが始まる日、宿題の割当しておいた中学生五枚を含む人物スケッチがそろった。中には一時期在籍していて田植えの時期には居なかった大西つむぎ(大西邑子さんの孫・上のスケッチ右から二人目)さんの絵もそろっている。何という子たちだ。
人物が多いので黒板上で描いてきたスケッチをマグネットで止めあちこち動かしてみる。東中の中学生たちは画面右側にかためて配置し構図の基本が出来た。並べてみると横向き前かがみのスケッチが多く平板になるのに気づく。途中で五年白井彪雅くんと平沢伴明くんを中心に数人、こちら向きや後ろ向きに描き直す作業があった。
この絵は人のぬくもりが伝わってくる手元に置いておきたいようないい絵だ。上富良野にもこんな学校があったことを後世に伝える意味でも農協の会議室などに飾ってあげたらどうだろうか。
完成作品とラフスケッチ
おわリに 消されたロマン
■江幌小学校の校門の前、道路を挟んだ位置には「拓魂の碑」がある。これは江幌開拓百年記念時のもの、今や魂の抜けた冷たい建造物に見える。
特認校の申請をした当時、中心に居た江尻菊正さんは次のようにロマンの香り漂う寄稿文を書いている。
「江幌・静修地域の水と森、そして四季折々に見せる壮麗な山並みは自然の見せる美であり芸術であります。その活用は夢ではありません。幸い、町には両地域に「童話の森づくり」の遠大な構想があります。新校舎はその拠点として充実した機能を発揮してくれるでありましょう…」と。
学校がなくなると地域は疲弊するからと先を見越した先人たちの知恵で特認校にしてもらった学校だ、あれから三〇年も経ぬうちに閉校に至るとは先人たちも予想していなかったに違いない。
■二〇一四年、閉校に際し最後の児童会長・平沢伴明くんは記念誌にこう書いている。
上富の森の奥深くに、ポツンとある江幌小学校。でも、生徒の明るさはどこにも負けません。そんな楽しい江幌小学校がなくなってしまうと聞いて、僕は信じられませんでした。笑顔があふれた江幌小学校、「そう簡単に閉校になる訳ない、きっと途中で人数が増えて閉校なんか取りやめになる」とずっと深く思っていました(後略)。
■寿の家という江幌地区の集会所がグラウンド脇にあり、花壇の草取りしていたおばぁちゃんが「子どもの声っていいねぇ」としみじみ話していたことを思い出す。先人たちの将来を見越したイメージはこういうことだったと思う。
■江幌小が終る最後の三学期は、画文集「エホロッ子しまい集」作りに没頭した。閉校式典、卒業式、残務処理が重なりとても手が回らなかった先生方を少しは手助け出来たと思う。
■最後に残った街から通う子三人は新しく特認校に認定された東中小学校へ転校することとなり江幌小学校は終った。「拓魂の碑」に悔悟の合掌。
掲載省略:(写真)江幌小校門前に建つ「拓魂の碑」
《著者略歴》
著者佐藤喬の略歴は、「表紙絵」紹介を参照ください。
機関誌 郷土をさぐる(第35号)
2018年3月31日印刷 2018年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村有秀