茶・華道と出会って
上富良野町泉町三丁目 千々松 絢子
昭和五年十月十八日生(八十五歳)
昭和五年山口県防府市佐波郡富海(とのみ)村で、父清水芳治(よしじ)、母小枝子(さえこ)の三男二女の長女として生まれました。
自宅は、田・畑・山林を所有し多くの小作人を敷地内に住まわせ農業を営んでいました。母は末っ子でしたが跡取りとなり、父を婿養子に迎えて結婚、父は会社員でした。
母が自宅を開放して、茶道・華道の講師を招き、近所の方約十人とともに習っていましたので、私も幼い頃よりお稽古を見学する機会があり、見様見真似で覚えましたが、本格的に茶道を習い始めたのは小学校五年生からでした。華道のお稽古は、その二年後に始めました。茶道・華道の先生は、京都出身の方で隣町にお住まいで日本舞踊も習っていましたが、毎月自宅に出稽古に来ていただきました。私と一緒に習っていた方たちは、銀行や役所にお勤めの方、お醤油店等商店の方など、皆さんとても立居振舞いの素敵な方ばかりでした。
小学校卒業後は、三田尻高等女学校に進学し、汽車での通学。当時、進学される方はクラスで一人か二人しかいない時代にあって、両親が「学問が第一」と兄弟姉妹全員を進学させてくれたことに感謝しています。
戦時中は習い事もできなくなり、女学校からも学徒動員されました。当時英語を習っていたのに、敵国の公用語ということで学習できなくなり、終戦後から再び学習できた時はとても嬉しかったのを思い出します。
父親は、私が十三歳の時に心臓麻痺で急死したため、母は女手一つで苦労しましたが、教育熱心に育ててくれました。女学校卒業後はそろばんが得意だったので、当時、祖父が富海村の農協組合長をしていたこともあり、農協に就職することができ、引き続き、茶道・華道の稽古を継続することができました。
夫との出会いはお見合いで、母方の親戚から、終戦後ご一家で朝鮮から引き揚げてこられ、その時は自衛官になっていたとても良い方がいると紹介されてのことでした。当時は本人の意思などなく、両親の勧めもあり、昭和三十三年、その見合い相手の千々松秀夫(ひでお)と結婚しました。翌年には北海道千歳市に転勤命令があり、山口を離れる寂しさもありましたが、北海道の雄大な自然にあこがれていたので、楽しみにしていました。昭和三十五年に長男が誕生し、翌年昭和三十六年に上富良野町に転勤となり、あすなろ官舎や民間のアパートに入居しました。昭和三十九年には長女が誕生して、家族のために昭和四十九年九月にマイホームを新築し現在に至っています。夫は私がお茶を習っていたことを考慮し、新築した家に水屋を作ってくれました。このことが、その後茶道を続けることができた最高のプレゼントだったと感謝しています。
上富良野町で茶道・華道教室を開講することになったのは、町内の事業でお茶席が開かれた時、故田中喜代子さんにお声をかけていただき、教室に稽古に行くようになったことがきっかけでした。その後、田中先生から「あなたも教室を開いてみては」と勧めていただきました。茶道・華道は、「子育てをしながら自宅でできること」「自分が長年培ってきたこと」そして一番大切な「好きであること」でした。「これだ」と決断し、山口の母に電話をしたところ、大変喜ぶとともに快く自宅にある茶道・華道の道具一式を送ってくれました。母にとっても、私が遠く離れた地において活動できることになったことが親孝行だと感じてくれたようでした。
初めは出稽古から始まりました。上富良野に来てから仲良くしていただいた鎌田商店さんの奥様が自宅を開放していただき、近所の方が何人か集まった時に生け花を教えるようになり、茶道も一緒に指導するようになりました。次には、岩井さん宅で裁縫教室に集まっている方四〜五人を対象に茶道・華道を指導するようになりました。
人の縁のつながりなのか、次には東中地区の婦人会にも呼んでいただくようになりました。農業が主体の地域で、農閑期に集まる時に女性として、母としての趣味や習い事として継続していただきました。
当時は女性が家を空けることがなかなか機会がありませんでしたので、秋の農作業がひと段落した時期には、宿泊研修としてカミホロ荘に出向き、お稽古の後おしゃべりを楽しんだ事が、今は懐かしい思い出となりました。
いつの間にか、火曜日は岩井さん宅、木曜日は自宅での稽古日となり、週末は会合ととても忙しくも楽しい日々を過ごすことが出来ました。
また茶道・華道のおもてなしとして、俳句を習うようになり、このみち俳句会に昭和四十二年一月に入会し、昭和四十四年にはりんどう俳句会にも入会しました。
俳句の会では、田浦 博さんに大変お世話になりました。慣れない私に、俳句について丁寧にご指導いただき、会員で俳句を詠むための旅行を計画していただいたり、また、様々な機会に人とのつながりの世界を広げていただきました。
町民の生涯学習の推進にあたり、教育委員会主催の公民館講座の開設時においては、文化連盟が協力することとなり、茶道教室、華道教室を町内の先生方と協力し指導にあたることができました。文化連盟には他の先生方とともに会員となり、町の文化向上に貢献できればとお手伝いをさせていただきました。女性のための教養講座として開設していた女性学級での茶華道の基礎学習や、児童館での子どもお茶席、学校支援本部事業ボランティアとして、小学校にも出向き、茶道の指導を実施してきました。
町の文化祭にも、田中先生と出会った時のように、自分がお茶席を担当することになり、お弟子さんに支援をいただき実施することができました。
茶道、華道と道のつく芸事にゴールはありません。茶の湯の奥義は言葉にはなく、全身をもって茶となし、内面的な心の美しさがそのまま利休の茶の心に通うものです。
いろいろな流儀がありますが、「分けのぼるふもとの道は多かれど同じ高嶺の月を見るかな」で点前や風情は、大なり小なり変わりますが、究極は同じ茶道の心を味わうのです。上手めいた所作、わざとらしい動作、目立つ動作、癖のあることなどは禁物です。点前に慣れてきますと、ともすれば上手らしい動作がでたり、自分の癖が出やすいものです。このあたりが修練の一つの関所でもあります。「和敬静寂」「一座建立」と一碗のお茶に主客の心を通わせ、この世で最も美しい人間関係をつくりだすことが利休居士の直心の交わりだと思います。
私共は利休の血脈につながる表千家流の古格を大切に、すべてにわたりもの静かに自らの心を見つめて、人格を高める修行に努めたいと思っています。
その成果として、池坊華道、表千家茶道の指導と町の文化振興の功績が認められ、平成十七年度に上富良野町文化賞を受賞することができました。
上富良野町でお茶を教えるようになり、京都で開催される同門会には毎年出席し、また毎月旭川市で開催される教授会にも通いました。夫やお弟子さんの協力により、会合に出席してきましたが、年齢を重ねるごとに移動することが大変になりました。
今後も日々精進し、自分のできることを継続していきたいと思っております。
==補 記==
本記事は、当会編集委員が、インタビュー取材した内容を、本人文体で整理したものです。
(取材担当:羽賀・小沢・安川・鈴木)
機関誌 郷土をさぐる(第32号)
2015年3月31日印刷 2015年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 中村 有秀