―十勝岳三段山と白銀荘に魅せられた―
『田村義孝氏の没後三十年を偲ぶ』
上富良野町本町五丁目 中村 有秀
昭和十二年十一月二十八日生(七十六歳)
一、はじめに
このタイトルで書く契機は、平成二十五年六月九日に上富良野町郷土館の日曜日開館ボランティアの三原康敬氏(十勝岳山岳救助警備隊員)と当番の時に、旧白銀荘宿帳が二冊郷土館に保存されている事を教えられました。
その二冊の宿帳の期間は、次の通りでした。
@ 昭和49年4月5日〜昭和54年5月29日
A 昭和57年4月1日〜昭和60年9月29日
白銀荘宿帳に目を移すと、四季を通じて町内外から多くの登山者や山スキーを楽しむ人々が宿泊して、宿泊年月日・住所・職業・氏名・年齢欄に各々記載されています。
その中で、冬山と春山に毎週土曜日に十勝岳三段山に山行し、白銀荘に宿泊して日曜日に帰る人がおり、その宿帳の昭和五十年五月二日の欄に『旭川市パルプ町一条一丁目会社員田村義孝36歳』と記帳されていました。
それで、三原康敬氏に「毎週白銀荘に泊っている田村義孝さんてどんな人なの」と聞くと、「田村義孝さんは、昭和六十年二月二十三日に十勝岳三段山から白銀荘に行く予定であったが、遭難し行方不明となり、私も捜索に行きました。その後、昭和六十年四月二十五日に遺体で発見されたので、遺体収容にも行きました」と話されました。
毎週毎週、三段山と白銀荘に魅せられた「田村義孝氏」の人物像や経歴、遭難、捜索状況、ご遺族はと取材を進めました。奇しくも、本年二月二十三日が没後三十年になる事を知り、遺族のご了解を得て掲載する事にしました。
二、白銀荘宿帳に遺[のこ]る田村義孝氏の記録
白銀荘宿帳の存在について、「一、はじめに」の項で記述しましたが、
●一冊目 昭和49年4月5日〜昭和54年5月29日
●二冊目 昭和57年4月1日〜昭和60年9月29日
となって、昭和54年5月30日〜昭和57年3月31日迄の間の宿帳がないので、前記の二冊から、田村義孝氏の宿帳に遺[のこ]された記録を探って見ました。
昭和50年5月2日「旭川市パルプ町一条一丁目 田村義孝 会社員 36歳 他2名」と書かれているのが、白銀荘宿泊の始まりであります。
その後は、昭和51年2月21日から昭和60年2月22日の宿泊予定日まで、週末毎にこれほど三段山から滑り白銀荘に泊った山男はいたでしょうか。
掲載省略:図「田村義孝さんのスキーコース図」
そこには、管理人杉山東吉氏ご夫妻の存在も大きかったと思います。又、白銀荘を利用する山行仲間―いわゆる「白銀荘グループ」との交歓・交流を楽しみにしていたことでしょう。
掲載省略:写真「残された白銀荘の二冊の宿帳」
掲載省略:写真「白銀荘グループの仲間との夕食のひととき(右端:田村義孝氏)」
二冊の宿帳から、田村義孝氏の宿泊状況を年月日別に分類して次頁に一覧にしました。
白銀荘の宿帳より宿泊した年月日
年別 月別 宿泊日別 年別 月別 宿泊日別 昭和51年 2月 21日 昭和57年 4月 3日、10日、17日、29〜30日(5月5日まで) 3月 6日 5月 1〜5日、22日、26〜30日 4月 17日 他の月 6月12日、8月21日、9月11日、11月22日、
12月11日、12月25日5月 9日、16日 昭和58年 1月 15日、22日、29日 昭和52年 1月 15日、29日 2月 11〜13日、19日、26日 2月 5日、11日、19日 3月 5日、12日、18〜21日、26日 3月 13日、27日 4月 9日、16日、23日、29〜30日(5月5日まで) 4月 2日、10日、17日 5月 1〜5日、14日、21日 5月 3日 他の月 9月10日、11月26日、12月10日、12月17日 昭和53年 1月 28日 昭和59年 1月 14〜16日、21日 2月 4日、11日、19日、26日 2月 4日、11日、18日、25日 3月 4日、18日 3月 3日、10日、17〜20日、31日 4月 15日、29日 4月 14日、21日、28〜30日(5月6日まで) 5月 5日 5月 1〜6日、19日、26日 他の月 6月3日、10月30日、12月26日 他の月 8月25日、12月15日、12月22日 昭和54年 1月 14日 昭和60年 1月 5日、12〜15日、26日 2月 3日、11日、17日 2月 2日、9〜11日、16日 3月 3日、16〜19日、20日、 31日 2月 23日は宿泊予約するも遭難し行方不明 4月 7日、21日、29日〜1日 4月 25日遺体発見し収容される 5月 3〜6日、19日 4月 26日葬儀行われる 6月 16日(レリーフ設置)
この一覧表を見ると、次の様な状況が判断されます。
@宿泊時期は、毎年一月の中旬から五月上旬に集中し、他の月は極端に少ない。その理由は暑さに弱いからだという。
雪印グループのリーダーである小林武四郎氏がわが心の記録として綴っているエッセイ集「稚児車[ちごぐるま]」に、次の様に記されている。
「寒さにはメッポウ強いキミが、一寸暖かくなると、すぐ参ってしまうので、頭の皿の水が乾いたカッパさんだと、われわれは言っていた」と妹さんに話しをしたっけ……。
A年末年始の宿泊がないのは、田村家の長男として、両親・弟妹のいる実家の釧路市に帰省していることが伺える。
白銀荘を利用する人は、昔も今も食事は自炊か持込みをすることになっている。
田村義孝氏は、白銀荘の宿泊が増えている事から自分の自炊道具・ケーキ等を作る調理器具・調味料等を一ヶ所に置いてあったと伝えられています。
三、田村義孝氏の四十六年の生涯を辿る
◇出生から山形大学卒業まで
田村義孝氏は、昭和十三年六月二十八日に、父東太郎氏・母ハルさんの三男二女の長男として釧路市にて生れる。三男義樹さんは、満二歳の誕生日に夭逝された。
義孝氏は、田村家の初孫として祖父母に大変可愛がられ、成長するにつれて男らしく端正な顔立ちと、物静かな言動で周囲から頼もしい少年として映っていた。
地元の小・中学校を卒業し、昭和二十九年四月に進学校である北海道立釧路湖陵高等学校(旧北海道庁立釧路中学校)に入学す。
掲載省略:田村家の家系図
掲載省略:写真「父が戦地から復員後の家族と共に左より:母ハル、次男義彦、長男義孝、三男義樹、父東太郎」
高校卒業後、国立山形大学工学部に入学。在学中は仲間と蔵王へ行き、トニーザイラーも滑ったコースを滑走したという。大学生活は生来の真面目な性格で、講義や研究に積極的に取り組み、教授・ゼミ仲間の信頼は厚かった。
◇国策パルプ株式会社の入社
昭和三十六年、翌年の卒業を控えての就活で、教授の奨めで「日立製作所」を受けて合格したが、本人は「アラスカパルプ」を受けたかったが、新卒は採用しないとのことで「国策パルプKK」に入社。
掲載省略:写真「山陽国策パルプ旭川工場」
周囲は、大企業で有名な「日立製作所」に合格したのに、なぜ行かないのかと聞くと「日立の会社は暑い所にあるので行かない」との事であった。
義孝氏の山仲間、会社の同僚の言葉によると、暑さには非常に弱く、夏山を登らないのもそれが理由なのだと言う。
昭和三十七年四月一日、国策パルプKKに本社採用の総合職(将来の幹部職)として入社す。
以下、遭難し逝去されるまでの社内歴を記します。
○昭和37年6月11日 汽力課配属(昭和47年合併により山陽国策パルプモニなる) ○昭和49年10月1日 汽力課主査に昇格 ○昭和51年10月1日 管理室主査 ○昭和55年4月8日 試験課主査 ○昭和60年2月23日 死亡につき退職
社会人になってからは、会社の同僚と旭岳や近郊の山々を巡っていたが、昭和五十一年頃からは「十勝岳三段山・白銀荘」の魅力に取り憑かれたように山行を楽しまれたが、通い馴れた三段山に行く崖尾根の取付きで遭難し帰らぬ人となりました。
◇多くの趣味を楽しむ
冬の三段山から白銀荘へ行くことは、日課ならぬ週課であって、趣味の一番は何と言っても、冬山の山スキーであったが、読書家でもあった。釧路へ帰省中も、読書三昧の日々であったというが、義孝さんの自室の壁一面に蔵書がビッシリと書棚にあり、同僚からも読書家として尊敬されていた。
また、果実酒つくりも玄人と、白銀荘グループの仲間から評されていた。筆者が今回の取材で驚いたのは、趣味として「ライフル銃」があった事でした。
所持には、講習・試験を受けて正式に許可されたが、自分でライフルの弾を作って標的射撃に微量に重さを変えたり、その日の天候・風等について記録をつけていた。義孝氏の「こだわり」の性格が判りました。
義孝氏の逝去後、遺品であるライフル銃三丁(単身ボルト連発式が二丁とアンダーレバー式一丁)は、土田廣生氏(妹美樹子さんの御主人)が、全国北洋延縄[はえなわ]協会がアラスカからの「鰊」の買付け交渉に行き、現地法人の狩猟が趣味の顧問弁護士「ポール・ケリー氏」と懇意になり、ライフル銃三丁を贈ることになった。
掲載省略:写真「義孝さんの自室書棚の一部(S60・5・7)」
掲載省略:写真「ライフル銃を持つポール・ケリー氏」
掲載省略:写真「釧路に来た時のポール・ケリー氏と田村家の家族」
しかし、アメリカに送ることは、外国への日本の武器輸出禁止条項により大臣の特別許可が必要で、その諸手続き及び通関手続と共に、送付方法に警察からの指示等があり、大変な思いで昭和六十一年二月二十五日アラスカに送りました。
アラスカは、義孝氏が大学卒業時に行きたかった地であるので、これも何かの縁であったような気がします。
◇NHKテレビ番組に出演
昭和五十八年四月十四日(木)、NHKテレビ午後七時三十分「十勝岳山麓早春賦」―高田敏江火山灰地を行く―が放送された。
その時の、北海道新聞テレビ欄には
「劇団民芸時代―火山灰地―で活躍した女優高田敏江さんが、実際の火山灰地を訪れ、ようやくめぐってきた北国の春と鼓動と、活火山十勝岳とともに、逞しく生きる人々の姿を伝える」と説明されていた。
NHKの取材撮影は、昭和五十八年三月二十日に行なわれた。
田村義孝氏は、白銀荘にいつもの様に連休を利用しての山スキーにと、三月十八日〜二十一日の三泊四日の日程で来ていた。
この撮影の状況を、田村義孝氏は雪印グループの小林武四郎氏宛の便り(四月十二日付)で、次の様に記されています。
「三月の連休では、二十日晩に裁判所グループと一緒に、NHKテレビ番組の撮影に出されるというハプニングがありました。
放送台本というのが事前に出来ていて、どの場面では、どのようにするのが大筋に決められているんですね!。私には、雪質が非常に良いということをオーバーでもかまわないから、言ってくれとの注文です。
本番で飲むビールはNHKの差し入れでしたが、撮影の終りとのことで、皆安心してビールを飲みほした所が、機械の故障とかで、二回もやりなおしさせられてしまいました。
夕食の準備も出来ないまま、午後七時頃まで撮影にかかり、大変な経験でした。」
この番組が、後日に全国放送されたこともあって山仲間での大きな話題となった。
筆者が釧路市の土田美樹子さんに取材した折に、「十勝岳山麓早春賦」の台本が、大切に保管されていました。
その台本の表紙の中程に、取材協力「上富良野町商工観光係長野尻巳知雄」とあり、現在の「上富良野町郷土をさぐる会編集委員長」の名に出会ったことに驚きました。
四、田村義孝氏の遭難と捜索状況
◇「遭難したのではないか」の第一報!
昭和六十年二月二十三日(土)、旭川市山陽国策パルプ社員田村義孝氏(46歳)が、宿泊予定の白銀荘に予定時間に到着していないので、遭難したのではないかとの第一報が、上川南部消防事務組合北消防署(上富良野町:当時)に、白銀荘管理人杉山東吉氏から、十七時五十五分に通報があった。
◇捜索状況と新聞報道
杉山東吉氏からの第一報から、関係機関が確認を行った結果、遭難と判断し二月二十四日早朝から遭難捜索が開始された。
二月二十四日からテレビやラジオで放送され、各新聞は二月二十五日付で報道されたが、北海道新聞は次の通り報じていた。
凌雲閣に遭難対策本部(本部長黒沢利雄富良野警察署長)が設置され、各関係団体と山仲間による懸命の捜索が行われた。その状況は「上富良野十勝岳山岳救助警備隊」に捜索記録として保管されているので、その記録を記します。
掲載省略:新聞記事「遭難を報道する北海道新聞、北海タイムスの紙面」
掲載省略:写真「田村義孝さんの到着を待っていた白銀荘」
○昭和60年2月24日(日)捜索隊員35名(Lはリーダー)
午前 全員
午後 A班:崖尾根コース(L・会田)
B班:温泉スロープ(L・山中)
○昭和60年2月25日(月)捜索隊員132名
午前 A班:崖尾根コース(L・富樫)
B班:崖尾根左コース(L・米陀)
C班:吹上コース(L・和田)
D班:温泉コース(L・西川)
E班:温泉コースとスキーコース間(L・谷口)
F班:三段山スキーコース左側(L・杉山)
午後 A班:三段山火口附近(L・富樫)
B班:崖尾根左コース(L・米陀)
C班:崖尾根〜新道コース(L・会田)
D班:四キロ右斜面(L・西川)
E班:四キロコース(L・西口)
F班:四キロ右斜面(L・杉山)
○昭和60年2月26日(火)捜索隊員132名
午前 A班:宮様スロープ〜白銀荘(L・富樫)
B班:崖尾根〜三段火口〜宮様スロープ〜森林限界(L・米陀)
C班:森林限界〜温泉スロープ右側(L・会田)
D班:崖尾根〜旧登山道(夏道)(L・西川)
E班:三段火口〜森林限界〜旧登山道右側(L・谷口)
F班:三段火口〜二段目一帯(L・及川)
午後 1班:ナマコ尾根(L・細川)
2班:四キロコース(L・谷口)
3班:三段・温泉スロープ・崖尾根コース
┌A班:三段スキーコース左側(L・西川)
│B班:三段スキーコース右側(L・三原)
3班│C班:温泉スロープ左側(L・及川)
│D班:温泉スロープ右側(L・富樫)
│E班:崖尾根コース左(L・山中)
└F班:崖尾根コース右(L・佐藤)
掲載省略:図「2月25日午後の捜索範囲図」
掲載省略:写真「深雪の中、田村さんを捜索する隊員」
掲載省略:新聞記事「捜索を報ずる北海道新聞記事」
二月二十四日から二月二十六日の三日間、捜索隊員二九九名を投じての捜索活動にも拘わらず、田村義孝さんも遺留品も発見できなかった。
特に二月二十六日は、一三二名の捜索隊員により、午前は六班、午後は八班による捜索区域をこまく分担して実施したが、手掛りが全くなかった。
現地対策本部は、二月二十六日夜に解散し、捜索は規模を縮小して今後も続行することとし、二月二十七日以降は、会社関係者や山仲間、友人らの小人数で捜索が行われた。
二月二十四日から二月二十六日の三日間、捜索隊の出動者一覧は、次の様に記録されている。
田村義孝君捜索隊出動者一覧表 所属団体名 24日 25日 26日 道警旭川方面本部 2 5 5 道警富良野警察署 4 8 7 自衛隊上富良野駐屯部隊 0 63 64 山陽国策パルプ 5 18 16 富良野山岳会 3 4 5 山部山岳会 0 3 2 上富良野十勝岳山岳会 10 11 12 上富良野町役場 1 1 10 上川南部消防組合 3 4 2 旭川市役所 0 8 7 秀岳荘グループ 0 7 0 旭川山岳会 7 0 0 帯広市(山仲間) 0 0 1 札幌市(山仲間) 0 0 1 計 35 132 132
○昭和60年4月21日(日)
融雪期を迎え、本格的な捜索が再会される。
●出発 5時 ●行動開始 6時
●人員
現地本部 4名、旭川警察 3名
富良野警察 1名、山部山岳会 3名
富良野山岳会 6名、道警ヘリ1機 3名
上富良野十勝岳山岳救助警備隊 7名
山陽国策パルプ 60名
――合計87名
●捜索実施方法
午前 つぼ足で捜索
午後 スキー、又はかんじき使用捜索
●捜索結果 遺体及び遺留品発見されず
○昭和60年4月22日以降の捜索計画
●山陽国策パルプ 4月27・28日総動員
●自衛隊 5月7・8日 各日 35名
5月18・19日 各日100名
●十勝岳山岳救助警備隊 連日 2〜3名
○昭和60年4月25日(金)――遺体発見――
妹 田村眞樹子さんは、4月17日から白銀荘に宿泊して捜索をしていたが、この日も杉山東吉氏と堀内泰博氏(婚約者)の三人で三段山に向かって捜索を行っていた所、杉山氏は今までに捜索していない方向に、引きつけられる様にどんどん進んで行くと「青色のヤッケ」の一部を見つけた。
杉山さんは、近くへ行って見ると、左手を雪から出した田村義孝さんと確認し、眞樹子さんに「ここに来るんでない!」と制止し、堀内泰博氏には見張りを依頼し、消防本部に遺体発見と収容について連絡された。発見は午後二時二十分頃であった。
掲載省略:写真「遺体発見、収容まで這い松の枝で覆う(左:杉山東吉氏右:堀内泰博氏)」「故田村義孝氏の御通夜祭壇(S60.4.25 白銀荘)」
掲載省略:新聞報道「二か月ぶりに遺体見つかる」
◇上川南部消防「上富良野北署の日誌」から
○昭和60年2月23日(土)天候 小吹雪
17時55分 田村ヨシタカ 46歳(旭川市パルプ町)が、10時のバスで白銀荘へ来る予定だったのが不到着。バス運転手より、新道[ママ]入口で下車した旨を確認したが、その後不明である。――白銀荘 杉山氏より連絡――
○昭和60年2月24日(日)
0時25分 富良野警察署は、24日早朝5時頃より捜索を行う予定と、警察署より連絡あり。
1時32分 十勝岳山岳救助警備隊の出動依頼が、富良野警察署よりあり。
8時10分 十勝岳山岳救助警備隊富樫以下8名がジープ車・雪上車にて出発。
○昭和60年2月25日(月)天候 晴
遭難者の捜索隊出勤、約120名(手がかりなし)、17時まで。
○昭和60年2月26日(火)天候 曇のち晴
7時0分 田村氏(十勝岳)遭難捜索第3日、三段山周辺を総勢131名にて、午前7時から活動開始、16時分30頃に本日の捜索打切り。
19時0分 本日も遭難者発見できず。今後の捜索の打合せを行う。
○昭和60年2月27日〜4月19日
2月27日から4月19日の間、日誌に記載なし。
○昭和60年4月20日(土)天候 曇
6時0分 捜索の先発隊が出発。
8時30分 後発隊が出発。国策パルプ(株)と田村氏捜索打合せが、十勝岳山岳救助警備隊と行う。
○昭和60年4月21日(日)天候 曇
十勝岳遭難者(田村義孝46歳)捜索。捜索隊は上富良野山岳救助警備隊ほか。
○昭和60年4月22日〜4月24日
4月22日から4月24日の間、日誌に記載なし。
○昭和60年4月25日(木)天候 曇
14時20分頃、2月23日十勝岳にて遭難した、田村義孝氏の遺体を白銀荘管理人(杉山東吉氏)が崖尾根コース二本松の下で発見した。
十勝岳山岳救助警備隊(6名)、富良野警察署関係(8名)が現地に向かい、遺体を収容した。
五、父田村東太郎氏より町に多額の寄附
長男 田村義孝が、昭和六十年二月二十三日に十勝岳三段山周辺での遭難に際し、山岳地で厳寒と風雪の厳しい条件の中で、上富良野町・警察・消防・山岳救助警備隊・山岳会・山陽国策パルプ・山仲間の皆様による長期の捜索活動と、四月二十五日の遺体発見・収容にと、多くの関係者の皆様方にご迷惑をおかけし、また捜索いただきました事への感謝の気持を込めて、上富良野町に次の趣旨による多額の寄附をされました。
@白銀荘災害対策施設整備資金として
金額百万円(昭和六十年六月十七日)
田村東太郎氏からの寄附について、町報「かみふらの」昭和六十年七月号に、上記の様に掲載されている。
掲載省略:「寄付記事が掲載される町報かみふらの表紙」
掲載省略:写真「昭和61年6月「レリーフ」へ登山後、白銀荘にて夕食 右側より:田村東太郎氏、田村ハルさん、杉山東吉氏、杉山ツルさん 左側:杉山克勝氏」
町は、田村氏からの寄附金百万円と、町の一般財源百二十万円の合計二百二十万円で「移動用防災無線網」を整備し、白銀荘における防災体制が強化され、田村東太郎氏の意志が実現されました。
その内容は次の通り
○仮設基地局 一基 19万4千円
(白銀荘に固定設置山麓基地局となる)
○移動局(可搬型) 一基 25万7千円
(車輌に設える)
○移動局(携帯型) 三基 58万5千円
(白銀荘を拠点とする利用者等に携帯)
◎白銀荘防災体制合計 五基 103万6千円
その他、消防本部に基地局、企画課と商工観光課に可搬型(車載可)の無線機・アンテナ・充電器等で、総額二百二十万円で整備されました。
これらの機器は平成二十三年度まで有効に使用されましたと、役場防災担当者は語っていました。
今回の取材で、町が田村東太郎氏に寄附金の使途内容及び報告が、非常に遅れていた事が判りました。
田村東太郎氏に保管されている、町からの文書の差出年月日は次頁の通りですが、お礼の言葉と、各々に経過とお詫びが書かれていました。
掲載省略:写真「白銀荘設置の『仮設基地局無線機』」「白銀荘配備の『携帯型無線機』」
○昭和六十一年五月一日
○昭和六十一年六月五日
○昭和六十一年六月二十三日
差出人は「上富良野町長 酒匂佑一」
Aスノーモービルの寄贈
今回の遭難捜索に大変お世話になった事と、白銀荘配備のスノーモービルが古く性能が低下していることを知った田村東太郎氏は、白銀荘にスノーモービルの寄贈を申し出された。
町は機種等の選考を行い、昭和六十年十月三十日に納車された。田村東太郎家に、昭和六十年十一月二日付の礼状と共に、スノーモービル代七十万五千円の領収証(守田商会)、納車のカタログが保管されていて、今回の取材を通じて感じた事は、長男義孝氏に関わる全ての品々を大切に保存していることであり、ご両親の心情が痛いほど心に響きました。
寄贈されたスノーモービルは、三十年が経過して性能低下で現在は使用していませんが、新・白銀荘の備品台帳に記載されており、車庫に大切に保存されています。
左は現在のスノーモービルの写真ですが、車体には鮮やかに「寄贈田村東太郎」とあり、三十年の歳月を経ても、東太郎さん、ハルさん、義孝さん、そして杉山さん夫妻の思いが込められているように感じられます。
掲載省略:写真「寄贈されて30年経たスノーモービル」
六、十勝岳三段山に「レリーフ」の設置
昭和六十年二月二十三日、田村義孝氏の遭難捜索、四月二十五日の遺体発見と収容により、同日の白銀荘にて告別式、二十六日の葬儀に多くの山仲間が出席されました。
その時に、白銀荘管理人の杉山東吉氏や一部の人から、あれほど「三段山と白銀荘を愛し、通い続けた山男はいない、ケルンかレリーフの設置を」との話しが出されていた。
杉山東吉氏は、息子のような存在であった田村義孝氏のレリーフ設置を秘かに考えて、十勝岳や三段山が眺望できる場所と巨岩を探し求めて歩いた。
レリーフを設置する場所と巨岩を決めた杉山東吉氏は、義孝氏の新盆まではと考え、レリーフ文案と揮毫、巨岩にレリーフ文の額面取りの作業を始めた。
レリーフ文は、杉山東吉氏が義孝さんの思いを込めて作られた次の文となった。
『義孝君 粉雪に遊び
ここ白銀の 故里に眠る
一九八五、二、二十三日』
掲載省略:「レリーフ」
巨岩への額面取りの作業は、杉山東吉氏と子息である克勝氏、山陽国策パルプ同僚の長井孝氏の手によって彫られた。
昭和六十年六月十五日〜十六日に、「田村義孝さんを偲ぶ会」が白銀荘において開催され、義孝さんのご両親・弟妹と山仲間を含めて四十一名が参加。
十六日に、現地で「レリーフ披露と慰霊祭」を行った。
当日参加した雪印グループの小林武四郎氏は「稚児車」第二十三号に、「レリーフは三段山を眺め、チハル沢の雪渓を左に見ている。イソツツジの花可憐」と記している。
田村義孝さんを偲ぶ会と「レリーフ披露と慰霊祭」が終ってから、義孝さんのご両親である、「田村東太郎さん、ハルさん」から、左記の内容での礼状が関係者に送られました。
御 礼
冬山から夏山へ季節は移りました
高雲院禅山義孝居士 (故 田村義孝 儀)
在世中の長い御高誼に加えて 二月二十三日の避難から長期の捜索発見
告別 遺骨遺品の帰郷そして六月十五・十六日の偲ぶ会と白銀荘グループ
からの御配慮の数々は筆舌につくしきれない感謝の念で毎日を過して居
ります
又 親の知らない息子の半面が山の暮らしを通して皆様の思い出に残る
一ツ一ツが傷心を支える力となり慰めとなり励ましともなりこんなにも
多勢の尊い友情の中で暮らしていたことを羨しくさえ思うのです
之からは折々に白銀の里を訪ねることを私共の生き甲斐に致したいと
思います そんな時グループのどなたかと再会出来ることを希いながら
心からの御礼を申し上げます
昭和六十年七月
田 村 東太郎
田 村 ハ ル
掲載省略:写真「義孝さんが大好きだったワインでワインシャワーをする杉山東吉氏(S60.6.16)」「『レリーフ披露と慰霊祭』に集う山仲間(S60.6.16)」
七、没後三十年を偲ぶ思い出の記
(一)友人 田村義孝さんの遭難にちなんで
札幌市(元雪印乳業KK勤務)
小林武四郎 大正八年十月八日生
平成二十四年三月六日逝去(享年九十三歳)
編集者
小林武四郎氏は、平成二十四年に逝去されておられますが、生前に―わが心の記録―として「稚児車[ちごぐるま]」に、田村義孝さんの思い出を記してありましたので、一部抜粋し転載します。
小林武四郎氏
◇田村義孝さんの遭難と捜索
昭和六十年二月二十四日(日)の夕方、テレビを見ていたら、田村さん遭難が報ぜられた。
疑っている所へ、洋ちゃん(雪印乳業同僚、小林洋子さん)から電話が来た。供見たっ、田村さんのこと僑。
私は、あわてて上富良野町役場に電話した。(当時、白銀荘には電話がついていなかったので。)
その電話は役場から消防にまわされて、捜索に加わった「米陀さん」が状況を知らせてくれた。
米陀さんの電話では、二十三日(土)田村さんは、いつもの様に十勝岳温泉で町営バスから降りて、スキーで白銀荘に行くため、崖尾根に向って歩いていった所までは確認されたが、それ以来、消息を絶ってしまったそうだ。
この日、上富良野市街地では強風が吹きつのっていたが、山は風もなく津々[しんしん]と雪が降りしきり、腰で漕ぎ進まなければならぬ程、雪が積った状態だった。
しかし、田村さんは、殆ど毎週のようにこのコースを歩いて白銀荘に着いていた。何回も、その様な状態の雪の中を歩いたのだから、そのときも特に思案せずに行動したのだろう。遭難の原因は何だ。
捜索は、二十四日の日曜日から自衛隊の協力を得て、勤務先、役場、消防、警察、地元山岳会、知人など約百六十名に及ぶ人々によって、二十六日(火)までの三日間、連続して行われた。
私は、二十六日(火)の大捜索隊の中に加えてもらった。そして、翌二十七日(水)は二十名程に縮小された捜索隊に入れてもらい、彼ならば、このコースを通ると確信した道を、十分に時間をかけて探したものである。雪は毎日、膝まで深く降り積った。
◇肉親の深い悲しみと、杉山夫妻の悲しい思い
皆さんの懸命な捜索にもかかわらず、田村さんは発見されなかった。
二十六日に、白銀荘で義孝さんの釧路の妹さんご夫妻と、札幌市で中学校の先生をしている妹さんに初めて会い、二十七日には十勝岳温泉凌雲閣の前で、お母さんと初めて会ったのだったが、お母さんは「まだ望みを捨てていません」と話した。
掲載省略:写真「白銀荘にて左小林武四郎氏と右田村義孝氏」
田村さんが消息を絶ってからの悲しみは、これら肉親以外で一番深かったのは、杉山東吉さんと、夫人のツルさんだった。
ご夫妻は、雪の季節には殆ど毎週、そのほか時々白銀荘に来ていた義孝さんを、家族同様にしていたのだし、又、十数年以前の年の暮に、中学生だった最愛の娘さんを、中茶屋から白銀荘の間の深雪で失い、今度は息子のようにしてきたキミが遭難したんだからね。
◇白銀荘と稚児車の友人、田村義孝さんへ
四月二十五日(木)十六時頃、もと日銀札幌の板東氏から、田村さん発見の電話連絡があった。
そして、二十一時頃に今度は富良野市の松田先生夫人征子さんから、明二十六日十時から白銀荘で、告別式が行われると電話がかかって来た。
二十六日の一番早い急行列車で富良野駅に着き、そこからタクシーで白銀荘に向ったら、幸いにも田村義孝さんの告別式に間に合った。
変り果てた「義孝さん」の顔は安らかであった。その顔を拝み、お骨を拾って、永遠の別れを告げる。
「義孝さん、わが白銀荘と稚児車の友人よ、静かに、安らかに、眠り給え」
掲載省略:田村義孝さんに送られた「稚児車」の封筒(小林武四郎氏より年4回送付されていた)
―――詩 三段山スキー―――(小林武四郎作)
楽しさは 自分で つかむものである
たとい ひとが どんな企画をしても
その楽しさを つかむのは 自分である
三段山
そこには 楽しさが 溢れていた
◇母 田村ハルさんから小林武四郎さんへの手紙
―――昭和六十二年十一月十七日付―――
編集者
この手紙は、白銀荘の雪印乳業グループの小林武四郎氏が、自分の行動日記やエッセーを、わが心の記録「稚児車」として年四回発行して義孝さん逝去後は、ご両親に送った事への礼状を抜粋して掲載しました。
『毎年、二月、三月、四月、六月、八月、九月と白銀荘を訪ねることが、義孝に会える思いで、私共の楽しみなのです。それも、今年の分は終りました。
義孝の写真をかざってある二階の机の上に供えて「お兄ちゃん稚児車[ちごぐるま]よ楽しんでね」と申しました。きっと、私共より何倍も楽しんでいることでしょう。
でも、山の仲間が二月の最後の山ゆきとなった日を、心にとめておいて下さるだけでも、うれしく感謝致して居ります。
心にあいた穴は、埋めるすべはありませんが、コーヒーが好きだったので、朝晩コーヒーを、あったかい牛乳とバターロールに、バターたっぷりのトーストを毎朝、仏前に供えます。山では冷たい牛乳だったでしょうが。
土・日の昼は、そばを、夕食には土・日だけと二十三日にはビールを、二十三日には特別献立を、ビフテキを供えることが、心のうずきを補うことの足しにして居りますのも、悲しき哀れな親心でしょうね。
在世、四十六年百余。いい思い出ばかり残してくれた子へ、何にもしてあげられなかった親心のせめてもの、償いなのです。』
掲載省略:写真「田村義孝さんを偲ぶ「レリーフ」前にて (前列左から)田村東太郎・田村ハル・小林洋子・田村義彦 (後列左から)小林武四郎・李沢幸悦・田村眞樹子・杉山克勝(昭和60年6月16日)」
(二)田村義孝さんの在りし日の思い出
旭川市永山町 長井 孝
昭和十八年十二月十六日生(七十歳)
一、白銀荘(旧白銀荘)の事
白銀荘を、こよなく愛した、田村さんの在りし日を思い出して、白銀荘とは、田村さんと私に取っては、修学旅行の宿屋の様なものだった。それも中学生時代の時の、みんなでワイワイガヤガヤと騒いで楽しく飲み食いをした。さすがに枕投げはしなかったが、但しチョット規律もある。これが白銀荘だ。
二、白銀荘での行動と、管理人 杉山夫妻
田村さんが白銀荘に着くと、まず、地下室の石炭置場より、石炭ストーブの燃料、石炭をバケツ一杯に盛りストーブ横に置く作業を行う。バケツで五〜六杯だ。まずこの作業を行ってから、白銀荘での生活が始まる。
それから、杉山夫妻(管理人)に挨拶行く。オバさんは愛想がないが、慣れると、これが精一杯の愛情の様で、夜など食事の時、何故かワラビの塩漬けを塩抜きして、削り節がかかったワラビのさしみを、そっと、食事の一品として持って来てくれる。うれしい。
東吉さん(管理人の杉山さんの事)は、スキーの達人で、三段山の事なら何でも把握している。一緒によく、パトロールを兼ねて、コースを教えてもらった。夫婦共にお酒が飲めず、夜遅くまで騒いでいると、よく怒られたものだ。
三 、旭川から白銀荘まで、そして帰宅迄の行程
田村さんの弱点は唯一、運転免許を持ってない事で、何故だか、よく判らない。冬になると、毎週、旭川(会社の寮より)から、バスで旭川駅まで行き、次は汽車で、上富良野駅まで行き、町営バスで十勝岳温泉の凌雲閣前で降りる。それから、スキーに乗り替えて、崖尾根を登り、三段山方向に向い、金庫岩(私達が付けたもの)の間を滑って下り、森林限界まで、一気に下り、それから、調子良ければ、樹林帯の深雪の中を、遊びながら下り、白銀荘前に出てくる。
一泊後、帰りは、白銀荘より、樹林帯をスキーで下って、営林署の中茶屋まで行く。そこから町営バスで、上富良野駅まで行き、汽車、バスと乗り継ぎ、元来た道を正確に反復する。(東吉さんが用事で上富良野に行く時に便乗する事が時々ある。)この行程を毎週、冬期間、行うのである。頭が下がる。
四、田村さんのスキー技術及びコース
コースは白銀荘よりスキーにシールを付けて、出発、服装はトレードマークのウールの開襟シャツ(空色系)姿。まず宮様コースを登って行く。大きく右に廻りをした所(白銀荘より見えなくなった所で一服、余り早く、一服すると白銀荘から見えるので見栄を張る所もあるのだ。)と、それから森林限界まで登り、小休止、このパターンは常に一緒だ。天候が良ければ、山頂までボツボツ登って行くが、決して無理はしない。天候を見て行動し、ものすごく慎重派だ。白銀荘を出て、二時間強で、三段山山頂まで、さあさあこれから滑走だ。
田村さんのスキー技術は、決して上手とは言えないが、アイスバーン(エビのシッポ状態)でも、深雪でも、何故か、器用に下りてくる。三段山斜面をキャンバスにたたえると、キャンバス一杯に使い、実にダイナミックな絵となる。深雪を滑っている格好を見ると、水上スキーのスタートの様な格好のスタイルで、そのままの姿勢で、滑っている。良く疲れないものだと感心する。本人は悦に入っている。
五、田村さんの白銀荘での友達と人柄
田村さんは信念を持っている(酒に関して)。まず、週二、三日は休肝日を設けている。週の月、火、水は、決してアルコールを口にしない。(誠に頭が下がる)。
それから、夜、六時前迄は、決して、酒は口にしない。こんな事があった。白銀荘に午後三時頃、到着して、天気が余りよくないので、今日はスキー中止、白銀荘に閉じ込められて、私達は、最速ビールで乾杯となったが、田村さんは、決して飲まない。勧めても、ダメ、時計を見て、六時になるのを待つ、カウントダウンで、六時ジャストになると飲み出す。変な信念を持っている。但し、決して、騒がず、チィビチィビと物静かに、人の話を聞きながら、何時もニコニコして最後まで付き合う、前にも書いたが、夜遅くまで騒いでいたのは、田村さん以外の人達だ。早く寝ろ!又、おこられた。
六、田村義孝さん没後三十年を偲ぶ
もう三十年も経つのか、田村さんが亡くなってから。遭難当時、捜索隊の一員として、懸命に捜索したが、見つけ出せず、二月二十四日から四月二十五日の発見されるまで、毎週の様に休日を利用して捜索を続けた。四月二十五日に遺体で見つかった。
でも、私は、今でも、田村さんが亡くなったとは思わない。私はこう思う。田村さんは会社定年後は釧路に帰り、毎年、白銀荘に来て、三段山で深雪でのスキーを楽しんでいるのではないかと思っています。
又、私が連絡なしで釧路にお邪魔しても、何かと都合付けて、美味しい生ビールの店に連れて行き、ビールの泡はこうでないと、何時のこだわりで、いつも店が閉まるまで何時もニコニコしながら付き合っていつもくれる。生ビールをニコニコしながら、美味しそうに飲んでいた姿が、今でも忘れられない。
”合掌”
掲載省略:写真「義孝さんのこの姿を思い出す」
長井 孝さんとは――〈編集者 注〉
昭和十八年十二月十六日、大分県別府市にて生れる。
北海道に憧れて、昭和四十二年十月、当時の国策パルプKKに入社し「原動課」に配属される。
長井氏より五年前に入社していた田村義孝氏には、先輩として指導を受けると共に、会社の山仲間として山行に数多く同行され、北海道の山々を歩かれた。
特に、十勝岳の三段山から白銀荘のコース及び、白銀荘での山行仲間との触れ合いで、多くの仲間を知ると共に感動を得たと語ってました。
田村義孝氏の遭難には、捜索隊員として懸命に先輩を捜し求めた。捜索縮小後も、勤務を調整し日帰りでの一日捜索と、休日利用し一泊二日で捜索にも参加された。
白銀荘の宿帳には、三月九日〜十日、三月二十四日〜二十六日、三月二十八日〜三十一日、四月十三日〜十四日と記されておりました。
平成十六年三月、日本製紙ヨョ川工場を定年退職され、現在は夏はマラソン大会、冬はクロスカントリースキー大会にと、全道各地の大会に参加されており、上富良野の同好の仲間の名前を次々と挙げられ、趣味を生かして体力の維持と健康のために努力されています。
(三)白銀荘で出合った「田村さん」の思い出
札幌市西区 小林洋子(元雪印乳業KK勤務)
◇亡くなって三十年の歳月が
田村義孝さんが、白銀荘を拠点にして十勝岳三段山で山スキー中に遭難し亡くなって、もう三十年も経っているなんて感慨深いものを感じます。
毎年、偲ぶ会で田村さんご家族の皆様と、白銀荘山仲間がお会いするので、ごく最近に亡くなったように感じる時があります。
◇最初の出合いは、白銀荘の石炭小屋で
私達の雪印乳業グループ三人(小林武四郎、大久保龍朗と私、小林洋子)が、白銀荘で田村さんに初めてお会いしたのは、今から三十七年前の三月の連休の時でした。
その頃の時間帯の小屋には、誰もいなかった。ストーブの傍らの床板がはずされていて、床下の灯りが見えた。バケツに石炭を入れる音がしたので、武四郎さんは、杉山さんだと思って「杉山さーん!今着きました」と声をかけると、床下からひょっこり顔を出したのは「田村さん」でした。この時が最初の出合いでありました。
武四郎さんの声を聞いて、管理人の杉山さんが出て来て、石炭を入れ終った田村さんを、私達に「毎週の土・日に宿泊して三段を滑って帰る田村君だよ」と紹介してくれました。
今日は混んでいるから、田村君と武四郎さん達は同じテーブルを使うようにと、杉山さんから言われて同席する事になった。
その後も、白銀荘に来た時は同じテーブルで同席することになった。
掲載省略:写真「―白銀荘で山行仲間との夕食―左より、田村義孝さん、小林洋子さん、大久保龍朗さん、杉山ツルさん」「―三段山で休憩のひと時―左から、田村義孝さん、小林洋子さん、大久保龍朗さん」
掲載省略:写真「初めて出会ったときの白銀荘の宿帳」
◇田村さんの人柄と印象
初めてお会いした時の田村さんの印象は、寡黙[かもく]で、穏やかで、物静かで、優しそうな紳士、そんな印象でした。
私と同行している二人の男性も、穏やかで、物静かな人でした。(ちなみに、私は物静かでない人でした。)
最初の出合いの日、酒盛りするには少々早い時間でしたが、同席した好誼に乾杯しようと言うと、田村さんは「せっかくだけど、自分は六時までアルコールは口にしない事にしているので」と言って断られました。でも、六時以降は楽しく飲んで盛りあがりましたけどね。
それから、一ヶ月後のゴールデンウイークに再会して、また同席し、六時前に乾杯をすすめてみましたが、やっぱり駄目でした。
その時の私の心の声「ナカ、ナカ、ガンコナ、シンシやなー!!」しかし、その時の田村さんは「シツコイ、オバチャンやなー!!」と思ったか、思わぬかは存じませんが。――当時の宿帳では、田村さん四十歳、私、小林は三十九歳の時でした。
掲載省略:写真「昭和年のゴールデンウイーク時の宿帳」
◇杉山ツルさんに、叱られた
宿泊二日目、今まで守り抜いた「六時前の禁酒」を遂に、解禁させることに成功しました。
その様子を見ていた、杉山ツルさん(管理人の奥さん)に、「コラーッ!!ウチノヨシタカに六時前に酒を飲ませるなーッ!!」と私は叱られました。
なにせ、毎週毎週に宿泊する田村さんを、我が子のように思っていましたからね。しかし、田村さんは私達の悪に染まる善い人でした。
◇お料理が得意な田村さん
田村さんは、お料理とスイーツ作りが得意でしたね。得意とする料理は洋風で、フランス料理、イタリア料理と、お洒落な料理ばかりでした。いつも、ガーリック、バター、アンチョビの香りを漂わせていました。
スイーツ作りでは、コケモモを使ったチーズケーキや、シャーベットを作って、宿泊している子供さんや、女性に御馳走して喜ばれて、「モテ、モテ」のやっぱり優しい紳士の田村さんでした。
◇私、小林洋子が「小林素[モト]子」の理由
我が雪印グループの料理は、純和風―?です。おでんの素、すしの素、チャーハンの素、みそ汁の素と、手抜き和風料理です。
田村さんは、私の「……の素」の使用のところを見ていたんですね。ある年のお正月、釧路の実家に帰省した時のことです。
妹さんが、だしの素を使って料理しているところを見て、ワー!!ここにも「素子さん」がいるー。白銀荘にもいるんだよねー!!と、白銀荘のことをあまりしゃべらない田村さんが、にこにこしながら、私のことを言っていたそうです。
後に偲ぶ会でお会いするようになった時、妹の美樹子さんが教えてくれました。
そんなわけで、偲ぶ会では「素子」になりました。
◇十勝岳の山々と白銀荘
田村義孝さんの、三十回目の偲ぶ会を迎えるに際し、寄稿の依頼がありましたが、沢山の思い出がありますが、特に記憶に残っている中から、拙い文でありますが、書かせていただきました。
上富良野町と十勝岳の山々、そして白銀荘がある限り、山の仲間達は「田村さん」のことを忘れることはないでしょ
(四)―義孝さんの思い出―
釧路郡釧路町 土田美樹子(妹)(談話から)
◇田村家の初孫として誕生―父母からの話―
田村東太郎・ハルの長男として、昭和十三年六月二十八日に田村家の初孫として生まれたが、祖父の田村友太郎(田村漁業)は初孫の誕生を大変喜び、初節句のお祝いとして「日本橋三越」に行き、沢山の武者人形と鯉幟や家紋付の陣幕を購入した。
最初に開けたお人形の箱は、金太郎さんや桃太郎さんでもなく鍾馗[ショウキ]さんだったので、そのこわそうなお顔を見て兄は泣きだしたという。
その後の節句の写真を見ると、戦中の時代を反映して大将さんの軍服で剣をさげて凛々しい姿でした。
兄が赤ちゃんの時や幼児の頃、デパートに連れて行くと「田村さんの坊やちゃんが来た、田村さんの坊やちゃんが来た」と店員さんのアイドルだったそうです。
◇義孝さんの恩師のお話
兄が亡くなって、幼稚園の時の園長先生がお訪ね下さった時「義孝ちゃんはとても耳が良く、絶対音感をもっていましたね」とおっしゃっていました。
父がバイオリンを弾いておりましたので、幼い頃いつも聞かせていたと言うので、そのせいかもしれません。
私と妹が中学生の頃でしょうか、バス停で兄の恩師の一人とお会いした時「田村君の妹だね、田村君は秀才だったが、それにくらべて君達は……」とニコニコしながらおっしゃいました。
兄とは年が離れていて、小学生低学年の頃は兄は大学生でした。兄が頭の良いのは大人だからと言う、理論としては通らないのですが、幼い頃からそう思っていたものですから、兄の先生から較べられても何の抵抗もなく受けとめておりました。
また、兄が亡くなった時にお訪ね下さった他の先生も「義孝君は医者か弁護士になるように勧めたが、本人はどちらもイヤだったようで……」と申しておりました。
私も妹も社会人となってしばらくしてから、大人として話しが出来る感じになった頃、兄に「本当に優秀だったんだねー」と話した時、兄は「あなた達の方が、仕事をそれぞれ頑張って立派で優秀です」と言われました。(気をつかってくれたのかな?)
編集者 注
義孝さんが「弟妹は頑張っている」と言う事は、弟義彦さんは東京の大手出版社、妹美樹子さんは、市立釧路図書館で図書館司書、次妹眞樹子さんは、札幌市内で中学校教師をしている事を指していると思います。
◇お正月に兄の帰省
母は、兄がお正月に帰って来る時は、いつもお肉好きの兄にと、デパートから最高級のお肉を買い求めて、様々な料理を作ってくれ、兄と共に私達兄妹も美味しくいただきました。その様なことから、兄の帰宅は妹と共に楽しみでした。
兄が旭川に戻る時は、母は汽車の中でのお弁当用にと、ドイツ製のバウルーというホットサンド用の器具を使って、中に入れる具材を色々と吟味して作っておりました。
山で色々なお洒落なお料理を作っていたと、山仲間の皆さんからお聞きしました。
兄の遺品の中に、料理に関する新聞や雑誌の切り抜きや本がありましたので、参考にしていたのでしょう。お料理好きな母の影響でしょうか。
母は東京での学生時代に、和、洋、中の料理の有名な先生方に習ったそうで、お菓子も得意で、特にポンドケーキは兄の大好物の一つでした。
掲載省略:版画「白銀荘―思い出が数々ある白銀荘の版画―河村健氏作(北電グループ)」
◇三毛猫の親子と兄
昭和六十年のお正月の時、ボタンエビをストーブで焼いて食べていた兄のそばに、子猫がピッタリつき「ミヤー、ミヤー」と欲しがっていた猫ちゃんに「ほしいの?少しだけだよ」と言って食べさせたところ、兄の指を少し噛んでしまったようで「コラ!痛いでしょ」と頭をチョットこづかれていました。
そのあとも少し食べさせてもらったのを感謝していたのか、兄の遺骨が釧路に帰って来た時、お仏壇にお参りする私達家族や杉山さんの周りをウロウロしておりました。
みんながお参りを終えてお仏壇の前があいた時、この猫ちゃんがピッタリと座り、まるで兄と対話しているかのようにジッと見つめて動きませんでした。
その後、毎日、父や母がお参りする度にピッタリ寄り添って、猫ちゃんもお参りしておりました。
お命日のお坊さんの傍にもピッタリ寄り添いお参りしておりましたので、猫ちゃんが亡くなった後にお坊さんが「今日は猫ちゃんはどうしました」と尋ねられ、亡くなった事を伝えると「あの猫ちゃんはお兄さんの遺影にお参りしていたのでしょうね」と言って手を合せて下さったそうです。
掲載省略:写真「夏の白銀荘(左が新・右が旧)」
◇父母の十勝岳三段山、白銀荘へのお参り
父母が元気な時は、命日である二月二十三日の前の土・日曜日の偲ぶ会、春のお彼岸、遺体が発見された四月二十五日、兄の誕生日の六月二十八日、お盆、秋のお彼岸と、年六回は兄が魅せられた三段山と白銀荘に釧路からお参りに行っていました。
雪のない時期は、『義孝君粉雪に遊びここ白銀の故里に眠る』のレリーフへお参りと、兄に会いに行っておりました。母は三段山へ二度登っております。私も雪のある時に三段山へ旭川の長井さんや札幌の山川御夫妻と行った事があり、秋に一人で登った時は杉山さんが愛犬の「ロン」をつけてくれました。「ロン」は三段山にも兄のレリーフにも、優秀なガイド犬でした。
兄のことがなければ、登ることもなかった山。出会うこともなかった人々。
変なたとえかもしれませんが、私にとって、家族にとって、兄は「一粒の麦」となって、永遠に生きつづけ、山のすばらしさ、すばらしい仲間のことを、教えてくれた様な気がして居ります。
「兄を偲ぶ会」は、多くの山行仲間と白銀荘(旧)での一期一会の縁での岳友の暖かい絆により、昭和六十年から平成二十六年二月二十二日〜二十三日で三十回を数える事になり心から感謝を申し上げると共に、今は亡き父母も皆様のご厚情に心から深謝していることと存じます。
掲載省略:写真「第30回「田村義孝さんを偲ぶ会」(H26.2.23)遭難場所での献花と参拝−旭川山岳会長土屋勲氏提供−」
◎参考文献
わが心の記録「稚児車」 小林武四郎著
昭和六十年度上富良野町各会計歳入歳出決算書
昭和六十年七月広報「かみふらの」
上富良野十勝岳山岳救助警備隊遭難捜索記録
上川南部消防組合北消防署日誌
◎取材に協力をいただいた方々
釧路町 土 田 美樹子 さん 千歳市 堀 内 眞樹子 さん 旭川市 岡 本 丈 夫 氏 旭川市 長 井 孝 氏 旭川市 土 屋 勲 氏 旭川市 向 峯 斉 氏 札幌市 河 村 健 氏 札幌市 小 林 洋 子 さん 上富良野町 富 樫 賢 一 氏 上富良野町 三 原 康 敬 氏 上富良野町 角 波 光 一 氏 上富良野町 新 谷 昌 信 氏 上富良野町 安 井 盟 氏 上富良野町 山 内 智 晴 氏 上富良野町 深 山 悟 氏 上富良野町 金 曽 佐季子 さん
機関誌 郷土をさぐる(第31号)
2014年3月31日印刷 2014年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一