郷土をさぐる会トップページ     第30号目次

選挙こぼれ話(その一)

上富良野町 倉本 千代子

きっかけ
 一つの出会いやある偶然によって人生が変わった。
 よくある話ではあるが、私にとって正に人生の転機となった出会いがあった。それは選挙なのである。
 昭和二十二年四月、戦後初の統一地方選挙が行われ市町村長・議会議員・北海道庁長官(四月五日投票)に始まり、第一回参議院議員(四月二十日投票)第二十三回衆議院議員(四月二十五日投票)第十三期道議会議員(四月三十日投票)と四回の選挙が実施され、女性にも初の参政権が与えられた。

 その時、私は十八歳で選挙権は勿論のこと選挙運動も、その資格がなかったが、ひょんなことから選挙運動に係わることになったのだった。三月の初め、亡父の同業者だった高坂新三郎さんから『至急母に会いたい』との連絡があり、突然の申し出に何事かと取り急ぎ伺ったところ『娘さんを一カ月ほど貸してほしい』それも選挙の応援弁士とのことで、母はその何たるものかもわからず驚くばかりだったが、私には何か閃くものがあった。
 小学校の頃から体が弱く高等科修了まで三度もの長期欠席があり、父が描いていた将来像(学校の先生)に報いることができず(もっとも学業成績も不充分だったし、家庭状況からも進学は無理だったので)卒業後も農家の仕事は無理で、家事をしながら青年学校に学び、何とか自分の進む道を見つけたいと考えていた時だったから…。

 卒業後は必然的に地域の青年団活動に加わったが、戦後の新時代に向かって若者の自主性が求められたことから、動きが活発になりつつあり、この年の一月に「青年の意見発表会」が開かれることになった。当時兵役から役場職員に復帰していた加藤清さんが、通勤の傍ら旭野の団長を務めており、我が団からも出場してはどうかと、何故か私におはちが回ってきた。
 自己主張ができる初めてのイベントとあって、各地域から出場した熱血青年が、桐山英一さん経営の上富良野劇場のステージで満員の聴衆を前に熱弁を奮った。

 その時、選挙を前に応援弁士を求めて会場に来ていた高坂さんの目に留まったのが事の始まりで、一連の社会党候補者応援のため旭川に行くことになった。今では旭川も隣町の感覚で小学生だって買物や遊びに行くが、その頃は田舎者の我々には縁遠い都会だったし、何よりも貧乏な母子家庭では身支度もできる筈もなく、当然の如く母や姉は猛反対した。
 が、私には深刻さは無かった。旭川には叔母が嫁いでおり同年輩の従姉妹がいたので、祖母に連れられ何度か行った事があったし、何よりも都会への憧れが強かったのであろう。
 とにかく何とかしなければと、私は毛糸が足りなくて身頃だけ仕上がった儘になっていたリフォーム中のセーターに、父の兵児帯で作った袖を縫い付け、母が古着屋で見つけてきた男物のズボンを改造したり、全て私の手縫いで何とか恰好がついた。勿論コートなどはない。無一文に着たきり雀の身軽な旅立ちだ。
選挙応援で旭川へ
 約束の日、高坂さん宅で一泊した翌朝、二番列車で旭川に行くことになっていたが、私の余りにもみすぼらしい姿に、さすがの高坂さんも二の足を踏んだのだろう。本人が送ってくれる約束の筈が、急遽女学生だった長女の、それも私よりも年下のよし子さんが一緒に行くことになった。

 旭川駅から市電に乗り、今の緑橋通りから旭橋を渡り、下り坂を過ぎたところに、行き先である参議院議員候補者の木下源吾さん宅があった。春まだ浅い三月、外は雪が降っていて電車内の人は殆んどオーバーコート姿、その中で奇妙な取り合わせの二人連れとあっては必然的に視線が注がれる。お嬢様に連れられ女中奉公に行く貧困家庭の娘とでも見えたのであろう。哀れむような周りの目が私の足元から頭の先まで行ったり来たり。よし子さんは肩身の狭い思いをしているのだろうと私は無関係を装っていたが、好奇の目に晒されながらの電車から解放され、木下さん宅前の停留所に降り立った時は、一瞬ホッとしたものの流石に緊張と不安で足がすくんだ。

 平屋ではあるが赤れんがの外観が目を引く洋風邸宅の裏門を入ると、夫人が出迎えてくれたが、応援弁士とは余りにもかけ離れた私の姿に声もなかったようで、明らかに困惑した様子だった。取敢えずオンドルの効いた洋間に通され、次に案内されたのが三帖間ほどの薄暗い納戸のような部屋で、私が寝泊まりする場所だった。廊下を隔てた向かいの部屋に衆議院議員候補の和田敏明さんが居候をしており、その夜、遅くに戻られた両候補に対面した。源吾さんは農民運動の先駆者と聞いていたが、立派な口髭がトレードマークの端正な顔立ち、スマートではあるが見るからに社会派と言う感じで、流石に貫禄があった。対照的に和田さんは、いかにも都会的センスを感じさせる温厚派で礼儀正しく、穏やかな中にも正義感溢れる闘士という印象を受けた。
 翌日から私は、当時四条九丁目にあった北海日日新聞社まで電車で通い、三階の、それも机と椅子一つだけの寒々とした部屋で窓越しに人通りに向かって『ご通行中の皆様こちらは…』と、一人マイクに向かう日が続いた。
村長・村議選挙で一時帰省
 四月に入り村長・村議選挙が始まったため、一時上富良野へ戻った。村長候補者は田中勝次郎さんと佐藤敬太郎さんで、私は佐藤さんの応援になり、日中は佐藤さん宅(現在の佐藤家具店)の二階で生出宗明さん(神主)、山口堯三[ぎょうぞう]さん(現在の大道時計屋さんの所にあった雑貨店の長男)、穴山某さん(サラリーマン)など何人かが交代でマイクに向かい、夜になると佐藤さんの長男、国幹さんを先頭に三〜四人のグループでメガホンを手に候補者の名前を叫びながら町の中を歩き回った。

 応援する議員は勿論高坂さんで、村長候補佐藤さんの参謀でもある中川清さんが陣頭に立ち矢張り連呼作戦だったが、雪どけの泥んこ道に街灯も疎らで裏通りは殆んど真っ暗、狭い街だから他の運動員と鉢合わせすることもしばしばで、顔が見えないのを幸いにスリリングな場面もあったり、選挙とは面白いものだと思った。結果は佐藤さんは村長落選、高坂さんは村議上位当選だった。
道庁長官選挙
 村長・村議選挙と並行して行われた北海道庁長官選挙は決選投票となり、道庁職員生え抜きで職員組合から推された、書記長の田中敏文さんと医師の有馬英二さんの一騎討ちとなった為、私は別働隊に加わることになった。日中はトラックで郡部を走り夕方からはメガホンで市内を歩いたが、市内とは言え暗い通りが多く、時々敵陣営のメガホン隊と出交わすと顔が見えないのを幸いに相手を挑発したり、相手方が何を言ったか忘れたが「有馬[ありま]鯛[たい]」なら「芋虫[いもむし]鯨[くじら]」とやり返すなど、成程と納得して可笑しくもあったり…。

 田中候補に会ったのは一度だけだったが、立派な口髭を貯え精悍な顔つきの今で言う超イケメンで、正に闘志あふれる正義派、凄い迫力を感じた。道庁の一係長が堂々、長官選に打って出て見事その座につき、一大旋風を巻き起こしたのだから、風潮とは言えやはり大物だったのだろうと!。田中ファンになったもう一つの理由は夫人の名前が私と同じだったから…。
 田中さんは当選一カ月後、前年昭和二十一年十一月三日に公布されていた日本国憲法が施行された五月三日、同日の地方自治法施行により初代北海道知事となったが、社会党の衰退に伴い在任期間三期を満了後は表舞台に出ることもなく、その後の消息は知る由もないが…。
衆議・参議院議員選挙に突入
 そしていよいよ衆・参選挙の本番を迎え、事務所である木下さん宅には勤労青年・農業者・労働組織の関係者など如何にも社会党らしい応援者が集まって来た。私は衆議院議員候補の和田さんの専属となり、鞄持ち兼前座としてお供することになった。和田さんは東京日日新聞の論説委員で、北海道から立候補することになった経緯は知る由もないが、普段は物静かで冗談も言わないのに、いざ演説になると大きな腹から絞り出すような声と身体全体から滲み出る迫力が聴衆を引きつけ、その人柄と共に評判が良く私も鼻高々、一生懸命に務めた。

 選挙区の町村を隈なく回るのだが、当時の選挙カーは屋根も囲いもないトラックの荷台に乗り、ガタガタの砂利道、或いは雪深い道だったり、時には激しいアップダウンでのジャンプで振り落とされそうになったり、冷たい風に晒され連呼しながら走るので、三日もすると顔は真っ黒、いつも近所のおばさんに「色の白い子だ」と褒められていたのに、たちまち黒人娘に変身してしまった。
 朝になるとどこからかトラックが現われ、腕章をつけた男たちがテキパキと、七つ道具に昼食や飲み物を積み込んで(自動販売機もコンビニもないので総べて自前)、慌ただしい出発になる。『我等のマスコットは乗ったか…。』『弁当を忘れてもマスコットを忘れるなよ!』と、何時しか私はマスコットとして丁重に扱われるようになり、応援弁士も板について超多忙な毎日が続き、身形[みなり]を気にすることも家の事さえも忘れていた。

 そんな或る日、高坂さんが訪ねてきた。母からの預かり物もあったが、私のことが心配で様子を見に来たらしかった。
 期待に違わず役に立っていることへの褒美、否、私の余りにもみすぼらしい身形を見兼ねたのだろう、レインシューズをプレゼントしてくれ、上機嫌で帰って行った。母からの届けものはコートだった。ベージュに袖の部分に黒の配色が入った半コートで、一見して姉のマントをリフォームしたものだと分かった。遂何年か前、母が着物を質に入れてやっと買ってもらった姉にとっては、何よりも大切なものだったのに…。『これで寒い思いも、恥ずかしい思いもしなくていい。』嬉しくて、有難くて、その夜は布団の上からコートを掛けて寝たが、母や姉の心情を思い涙が止まらなかった。新調づくめの翌朝の何と暖かかったこと。体中で喜んで、感謝して元気百倍の出発だった。

 けれども、その喜びも束の間、日に何度となくトラックの荷台から飛び降りたりするので、三日もするとシューズの底が割れてヒールがぶらぶら、そしてコートも袖の配色部分がボロボロ、まるでワカメのように…。終戦後の、まだ物の無い時で何とか手に入れたとしても品質の良いものではなかったから…。いっ時ビシッと決まったマスコットも忽ちヨレヨレ、しかし私は『ボロは着てても心は錦…。』、日々楽しく充実していた。
地方や市内街頭での遊説風景
 私が回ったのは主に郡部で、まだまだ雪深い地方もあり雪の階段を下りて玄関を入り、地下室のように居間で終日電気を点けている家や、二階の窓から出入りしていると言う、今ではとても信じられないような光景も見られた。
 不毛の地と言われた江丹別では吹雪で人家も見えず正に過疎地で、トラックが立ち往生する一幕もあったり。しかし、どの町村に行っても演説会場は聴衆が多く、その殆んどは男性だったが、前座の私の話も真剣に聞いて拍手もしてくれ、候補並の待遇を受けた。美深だったと思うが、後援会長が料亭の主人で(今井さんと記憶しているが)そこで豪華な御膳料理を御馳走になり、運動員達(勿論、私も)が『あんな御馳走、初めてだ。』と後々まで語り種になっていたが、あの時の光景は、和服姿の素敵な主人夫婦の面影と共に今も忘れられない。

 選挙戦もいよいよピークとなり、市内での運動が多くなってきた。そんな折、自由党の佐々木秀世候補陣営に早稲田大学の学生が応援にやってきた。紺の詰衿にあの赤い房が下がっている憧れの制服制帽の男子二人と女子一人、とにかく恰好いいし珍しいとあって山の人だかりなのだ。そこでわが陣営も負けてはいられじと慶応ボーイで対抗することになった。木下さんには三人の子どもがいて、長男の礼二さんが東京の大学に在学中だったので学友二人を連れて来たのだが、制服も少しくたびれていて垢抜けのしない様子では、早稲田のおぼっちゃまには太刀打ちできそうにない苦学生に見えた。(或いは中央大学だったかも知れない。)弁論部という早稲田の学生は弁舌爽やかで、敵ながら流石であった。
 そこで我が方も『マスコットを出せ!』と言うことで私が街頭に立つことになり、佐々木陣営は四条通り、和田陣営は二条通りに相対し、早稲田対慶応の演説合戦が繰り広げられることになった。

 初の女性弁士と言うこともあったが、冬眠から覚めた小熊のような得体の知れない女の子がマイクを握っているのだから、物珍しさもあったのだろう、当時は只でさえ人通りの多い狭い平和通りの、その人達が立ち止まるのだから押すな押すなの状態で、しかも早稲田の客がどっと我が方に流れてきて、みかん箱の上の私は人の山に埋まる始末で、最初のたじろぎはどこへやら、勢いづいてボルテージが上がるばかりだったが、真っ白な頭で何を語ったのかは覚えていない。
 そして和田さんは当選し東京へ戻られたが、今度は秘書として同行してほしいとの話で、ここでも私の好奇心が首を擡[もた]げたが、東京と聞いては流石に好奇心だけではどうにもならず、秘書の何たるかもわからなかった訳で、が、それが正解だった。社会党の時代は短く和田さんは一期で終わり、その後は中国へ渡ったと人づてに聞いたが、若しあの時決断していたら今の私は無かった訳だし…。が、ちょっぴり残念だったような…。

 一方、参議院は選挙区が広いので候補者は札幌を拠点に活動していたが、いよいよ押し迫ったある日、短大に通い乍ら候補の身の回りの世話をしていた長女の美奈子さんが旭川の実家を訪ねて来た。私を札幌に連れて行きたいというのだ。しかし夫人は『この身なりでは…』と反対したが『多年ちゃんの洋服を貸してあげて…』と尚食い下がっても叶うことなく諦めたようだった。
 多年子[たねこ]さんは女子高の三年生、スマートで美男美女家族の中では異色で、色黒の丸顔にクリッとした大きな目、とにかく活発でセーラー服が似合い自由奔放に振る舞う姿が、同じ年の私には羨ましかった。父親の源吾さんは「うちのじゃじゃ馬娘」と言っていたが、若し洋服を貸してもらえたなら札幌進出もあったかも知れないが、これも貧乏人の宿命だったのだろう。
道議会議員選挙へ
 然し木下さんも見事当選を果たし、いよいよ最後の道議選へと続いた。私は士別の建設業、森実易逸[もりざね よしみつ]候補の応援になったが、一方、富良野からは田中三治さんが立候補していた。田中さんは立派な体格に、これまた見事な口髭、日焼けした精悍な顔つきで見るからに土建屋のワンマン親方風、同業であり乍ら森実さんは色白でデップリとした温和な社長と言う対照的なタイプだったが、残念ながら落選したものの社会党が勝利した。しかしその時代は長続きせず一期或は二期で終わっている。

 この時、私は直接係わらなかったが上富良野村でも快挙を遂げた方がいた。当時農民運動の先駆者として知られ農業協同組合長をつとめておられた石川清一さんである。上川地区から道議会議員選挙に立候補され見事当選を果たされました。その後石川清一さんは、昭和二十五年六月三日の国政選挙で参議院議員となり、以後六年間国政の場で活躍されたが、昭和五十一年七十一才で亡くなられている。

 ひと月余りの出稼ぎを終えて私は我が家に戻った。電話もなく連絡が取れず突然『只今!』と顔を出した私を見て家族は仰天した。笑ったら歯だけが白く、目鼻が何処にあるのか見分けがつかない程の真っ黒い顔、遂ひと月前の白くて弱々しかった姿が見違えるほど逞しくなって戻って来たのだから、暫くは言葉もなく只々呆然と見ているだけだったのだ。
役場職員としてのスタート
 それから二年が過ぎて、また高坂さんから至急報が届いた。今度は履歴書を書けと半紙と筆を渡されその場で書くことになったが、これもまた初めてのことで緊張に震えながら何とか書き上げると高坂さんは『良し良し』と、またもや鳩に豆鉄砲の私を尻目に、それを持って出かけて行った。待つ間もなく上機嫌で戻ってこられ『実は役場で職員を採用するので助役に会って履歴書を渡してきた。高等科を出ただけでこんな立派な履歴書を書くものはいないだろうと威張ってきてやった。近いうちに連絡があると思うので待つように』と言うのだった。(高坂さん宅は役場のすぐ隣だった。)

 正に夢心地だったが、一週間程して役場から面接の通知が届いた。そして又しても頭の痛い事態になった。何を着ていったらいいのか、思案の末、配給になった木綿縞で裾にゴムの入ったモンペのようなズボンを作り、これまた古着屋で買った男物の上着を改造した上衣と、素足に下駄履きと言うスタイルで臨んだ。
 男性一人、女性三人で、男性はだぶだぶの乗馬ズボンによれよれのシャツ、言葉も訛っていて見るからに田舎のおっさん風、私と似たりよったりだった。東京からの疎開者だと言う女性は着物にお太鼓、前髪をカールした当時流行の内巻きのスタイル、二十四歳でキャリアがあると言うだけに堂々としていた。もう一人は役場の近くに住む、私と同年代の矢張り髪をお下げにした大柄で気さくなチャッカリ屋。女学校出の二人には少なからず引け目を感じたが、ともあれ四人が同じスタートラインに着くことになった。

 昭和二十三年六月二十三日、私にとっては正に夢が現実となった新しい出発であった。そして、そこでもまた思いがけない出会いがあった。少女の頃に憧れたあの赤パンツの駿足ランナーのお兄さんが目の前にいたのだ。後に夫となる人なのだが、当時の私にとっては雲の上の人で、何の感情も持たなかったが…。
再びの選挙応援
 それから二年後の四月、予想だにしなかったお鉢が回って来た。一見してお役人とわかる二人連れの客が村長室を訪れ、何時もであれば給仕の出番なのに『西口君お茶を持ってきてくれ』と、村長のお呼びが掛った。村長室に入ると『これが西口です。連合青年団の副団長もしておりなかなか優秀な娘です』と紹介された。
 客が帰った後、助役から松浦係長と共に村長室に呼ばれ、先の客は上川支庁の土木課長で『今度の道議選挙の応援弁士を頼みに来たが、どうする?』と言うのだった。助役は『我々から行けとは言えないが君が休暇を取って行くのは差し支えない』しかし、『他人には口外しないように』と。
 公務員の選挙運動は法律で禁止されているので当然、上から『行け』とは言えない訳で、気持とは裏腹だったと思うが私も即答は出来なかった。『西口君、仕事の方は私がしておくから心配しなくていいよ』。松浦係長の一言で決心し一週間の休暇を願い出た。村長は『そうか、行ってくれるか』と、義理を果たせることにホッとした様子だった。と言うのも、この時の候補が上川支庁長の若林次郎さんで、市長をはじめ管内の自治体も応援していたからである。

 支庁から迎えの人が来て、私は若林さん宅に泊り込みで応援することになり、この時も、周りに雪が残るガタガタ道を冷たい風に晒されながら、軽トラックで管内を駆け回った。候補者の印象は薄いが、お役人と言うよりは小父さん的で勤勉なサラリーマンタイプだった記憶が残っている。
 荷台に立ちっぱなしで、人影もなく家も疎らな田舎道をひた走る時も只ひたすら候補者の名前を叫び『お願い!』『お願い!』と見えない主に向かって手を振り、頭を下げ続ける事もあり、沢山の人に囲まれての街頭演説で、拍手や握手など、お互い暖かいものを通して手応えを感じたり、遠くから手を振って応えてくれる姿に感動したりと、悲喜こもごもの繰り返しが続く中、一週間はあっと言う間だった。
 夫人の五穂[いほ]さんは素敵な名前もさることながら、和服が似合う明るく美しい笑顔で、何時もきびきびと、嫁ぎ先から駆け付けた娘さんと二人で来客の接待をこなし、回りにも気配りをする優しく上品な人だった。カレーライスに生卵がのっかっていたり、クリームマヨネーズをかけたフルーツサラダなど、初めて口にする見たこともないモダンな料理に戸惑いながらも、何かしら幸せを感じていた。
もう一つの選挙
 昭和二十六年、日本はGHQ支配を脱してサンフランシスコ平和条約を結びアメリカとの日米安全保障条約に至り、二十七年四月の両条約発行を前に道民の関心が高まり、北海道青年の気魄をとらえる目的で「青年模擬国会」が「北海日日新聞」主催により札幌公民館で開催される事になった。
 これは広く一般道民の投票によるもので、当時の「北海日日新聞」に二枚の投票券がついており、候補者の氏名を記入して送ると言う仕組みになっていた。その頃、法務局の出張所が役場の近くにあり、石森義徳という超威勢がいい所長がいて、チョビ髭に下駄履きと言うスタイルで、正面玄関から堂々と板張りの通路をガタガタと鳴らしながら『倉ちゃん(前出の後の私の夫のこと)…』と、大声を上げながら毎日のようにきていた。

 その頃の役場は、ワンフロアーの板敷きの床だったので、その声と共に下駄の音も響き渡っていた。その石森さんの提案で私が推薦されることになった。そして倉ちゃんと部下の徳武務さん、福田光子さん、私の四人で閉庁後、票集めに奔走することになったのだった。けれども当時は日日新聞を講読している家庭は少なく、どの程度集められるものか、何票で当選できるのか見当もつかないのだ。
 その頃、町には二木さん、山崎さんの布団屋(綿打ち直し屋)さんがあって、打ち直した綿を新聞紙で包装していたので毎日多量に集荷している事を知りお願いしたところ、山崎さんが快く承諾してくださり、鋏持参で一ヵ月間歩き回ったことが実って思いもかけない当選となり、しかも女性は一人だけだった。穴のあいた新聞紙で包装する破目になり、とんだ迷惑をかけた山崎さんには感謝感謝であったし、一ヵ月間毎日、票集めに奔走してくれたお三方には只ただ頑が下がるばかりだった。

 全道各地からの模擬議員は与党の国民青年党四十六名、野党の独立青年党三十八名となり、私は野党議員となった。本番を前に質問事項等の打ち合わせのため、旭川の某旅館に集まり、旭川市民主党の道議会議員・林謙次氏の指導を受け作戦を練るなどした結果、私は厚生大臣に質問する事になった。
 模擬内閣とは言え各大臣は本物の国会議員で山内喜久一郎首相、正木清労働厚生大臣他錚々たる顔ぶれ、傍聴者も多く会場の熱気に緊張するばかりだったが、私は厚生労働大臣提案の「戦争犠牲者救援に関する法案」に対して、『戦争犠牲者への医療の徹底や住宅対策・引揚者の補償に在外資産の返還が含まれているのか』などの質問に立った。大臣答弁と他の議員の賛成意見が出された後に賛成多数で可決されたのだったが、私はたった数分問の出番ながら、『議会とはこんものか…。』と初めての経験に只只緊張するばかりだった。

 当時の「北海日日新聞」によると昭和二十七年一月十五・十六日とあるが、私は一日目閉会後、上川管内から参加した何人かの議員、当時、上川管内連合青年団理事をしていて同行された菅野稔さんも一緒に遅い列車でとんぼ帰りしたように記憶しているが…。こんな選挙もあった。
選挙の裏舞台
 選挙は金がかかると言われるが、当時の運動員は全くのボランティアだったようで欲得のない、今で言う勝手連的な素直な支援者で、木下さんの時もそうであったが、農家からは米や野菜などが届き、運動用のトラックなども業者が自発的に提供していたのだと思う。
 今でもはっきり覚えているのは、中富良野の森村長がトラックの荷台に二俵の米を積んで若林さんの自宅へ陣中見舞いに来られたことだ。上川支庁長の出馬とあって管内の町村から、そうした事が当然あったと思うが、自宅から五分ほどの距離にあった事務所には、それなりの人や物が溢れていた。森さんの娘さんも二日間だったが私と一緒に泊って賄いの応援をしてくれていた。私の場合も、どの陣営からも一円たりとも貰うことなく只働きだったが、それでも後になって若林さんからピンクのレインコートが届いた時にはシンデレラにでもなったような…。

 ビニール製ではあるが上富良野で着ている人などいなかったので、如何にも不釣合いな身形に好奇の目が注がれ有頂天になっていたが、そのコートも一雨毎に色褪め生地が強張り、折り目が裂けて一シーズンの寿命であった。
 時は過ぎ私は家庭に入り子育て中で、選挙のことなどとっくに忘れていたが、昭和三十四年の春、思いもかけない使者がやって来た。同郷の旭野から中富良野町に移住していた佐藤昌藏さんで、何とか助けてほしいと言うのだ。
 今更何も隣町までもと断わったが、二度三度と来られ、その上母までも巻き込む程で『昔お世話になったのだから…』と母が留守番を買ってくれ、一日だけの約束で夫の許しを得たものの、佐藤さんの顔を立てるだけの義理応援とあって、この時ばかりは気乗りのしないものだった。
地元選挙との関わりの難しさ
 次なる選挙は昭和五十四年、町職員の妻が特定候補の応援をしたと言うので様々な風評が飛び交った曰くつきの町長選である。現職の和田松ヱ門さんと前回落選し再挑戦の酒匂祐一さんの戦いとなり、一日だけだったが私は酒匂さんの選挙カーに乗せて貰った。と言うのは、誰に頼まれた訳でもなく私自身の判断で自ら参加しただけのことだったのだ。

 当時、夫は総務課長で町長直属の部下であったが、失礼ながら行政については経験も浅い上に可なりのワンマン町長だったようで、行政マンとしての自負もあり頑固な性格が似ている夫では、反りが合わない面もあったようで、たまたま酒匂さんとは同じ屋根の下に住んだこともあり、職場でも夫共々お世話になっていたので、こんな時にこそ恩返しが少しでも出来れば、又、陰で批判しているだけでは駄目、行動を起こさなければ、との思いで『許してくれるなら…』と主人に申し出たのだ。『よし分かった。覚悟はできているから行ってこい』と夫は言ったが、心中穏やかではない事は表情に見てとれたし、私自身も尚迷ったが『ええいッ!』と前に進むことにした。
 案の定、世間の反応は大層なものだったが後が又大変で、酒匂さんは落選、夫は予測通りの左遷で口さがない連中の蔭口で惨憺たるもの、しかし本人は至って平静で当然のことと受け止めていたが、私は寧ろ酒匂さんには逆風になったのではないかと、ずっと気がかりだった。四年後の本懐を遂げられた選挙では酒匂陣営の裏方としてお手伝いをした。そして又四年が経ち、二期目の酒匂さんは無投票当選となり、同時に任期満了となった夫(助役)が再任されなかったことで、更なる試練と戦うことになった。

 事の真相は本人が語らなかったので未だに知る由もない。夫は『任期満了による退職だ』と平静だったが、私にはおおよその見当はつく。かつてのアメリカのブッシュとパウエルのような主従関係ではなかったかと…。加えて取巻きの越権行為に屈したこと、言ってみれば金力に勝てなかったのではと。これは風の噂ではあるが『五百万円出して再任してもらっては…。』と持ちかけられたとか、金を出さなかったから彼奴は首になったとか、いや失政の責任を取らされたとやら、何処かに雲隠れして上富良野にはいないとか、役場の中ではそんな噂で持ちきりだったと後に聞かされたが、当たらずとも遠からずと思える節もある。

 任期が近くなったころ夫は私物を持ち帰り、身辺整理を始めていたので察しはついていたが、人事問題が最終段階に達していたある日、それも真夜中に或る議員に叩き起こされたのだ。その日も遅く帰り疲れ切っていた夫は、いきなり『今、何時だと思っているんだ。明日の仕事に差し支えるからさっさと帰れ。お前と話すことなんかない!』。そしてこうも言った。『よもや俺が助けてやったことを忘れてはいないだろうな。俺の前に顔を出せた義理でないだろう。自分を何だと思っているだ!』と、これまでにないすごい剣幕で…。ついでに私までが『なんでこんな時刻に中に入れたのか』と叱られたが、入れたと言うより入って来たのだった。

 円満退職とは言えない夫の行動は納得できるものではなかったが、そうせざるを得なかった(と言うより、させられたのか。)夫の心情が分かるだけに辛いものがあった。私自身も親しかった友人に敬遠されたり嫌がらせをされたり、言いようのない重圧に耐えたり、まァ世間てこんなものだろうと割り切りながらも、決して平穏ではない寧ろ苦悩の日々が続いた。そして叩かれ強くもなった。
選挙に潜む利害
 こうしてみると選挙は、良くも悪くも人を変えると同時に周囲をも変えてしまう魔物に思える。しかしこの魔物、地盤・看板・鞄にはからきし弱い気まぐれ者で、特に鞄には目がないらしく、そのツケが口利きや贈収賄など色々な形でお返しをする事になったりもするので、或る意味では合理的な仕組みでもあるのかなと…。

 さて、こういう私にも口利きと言う恩恵を受けたことがあるのだが、結婚した翌年、夫は自治大学で学ぶことを希望した。それには長期と短期があり、夫は長期を望んだが、先に札幌の自治講習所で一年間学んでいるのと北海道の人数枠が三人とのことで取敢えず三カ月コースに決まり九月に上京したが、程なくして『伝[つて]があれば何とか成るかも知れない…』と言う手紙と共に申請書類が届いた。

 まず私は若林さんを頼って旭川の自宅を訪ね夫人にお願いすることにしたが、その頃、北海道人事委員会の事務局長をしていた若林さんからは『お役に立てない』との返事だった。しかし期日が迫っているので何とかしなければと、藁にも縋る思いで木下さんにお願いの手紙を書いたところ、間もなく、道庁の担当者から直接電話があり、『木下さんが自治省に来られ、長期入学が許可されたので大至急手続きをして下さい』とのことで、只々驚くばかり、普通であれば町から道、国への順で物事が運ぶものなのに。しかも、ほんの数日でこのような結果になるとは、やはり国会議員の権力は凄いと思った。

 それにしても七年前の恩義を感じていて下さったことに感謝した。正に夢のような出来事で、お蔭で夫は六ヶ月間、後半の四カ月は私も上京してアパート住まいをしながら勉強を続けることが出来た。その頃、木下さんは文京区に住んで居られ、渋谷区豊沢町のアパートからは遠くはなかったので訪ねたが、やっと探し当てたものの余りにも立派な門構えに圧倒され、すごすごと引き揚げてしまい一言のお礼も言えず、後々まで悔いが残ったが今も尚、忘れる事のできない恩義である。長い歴史の中で初めて女性にもその権利が与えられる事になった選挙で高坂さんと出会い、多くの人達と関わる中で、得難い体験をしながら私の人生が築かれて来たが、時は過ぎて平成三年、極めつけは私自身の選挙となるのだが、これに纏わる悲喜こもごもの「こぼれ話」は次号で…。
次号に続く

機関誌      郷土をさぐる(第30号)
2013年3月31日印刷      2013年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一